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第1章 「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の検討過程

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Academic year: 2024

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竹島資料勉強会

はじめに

1. 地籍編纂及び乙第二十八号(明治 9 年 10 月 5 日)

2. 島根県の内務省への伺「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」(明治 9 年 10 月 16 日)

3. 内務省内での検討(明治 9 年 10 月~明治 10 年 3 月)

4. 内務省から太政官への伺(島地第六百六十四号)(明治 10 年 3 月 17 日)

5. 太政官での検討及び「明治 10 年太政官指令」(明治 10 年 3 月 29 日)

6. 『公文録』での文書の順番について

はじめに

 第1章においては、島根県が「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を発出することになっ た経緯から、実際に「明治 10 年太政官指令」が出されるまでの事実関係を整理する(全体の 流れは、図 1 のとおり)

1. 地籍編纂及び乙第二十八号

(明治 9 年 10 月 5 日)

 明治初期、明治政府にとって地籍編纂は地租改正とともに重要な課題の一つであった。地 籍編纂とは、地租改正の対象となった耕作地といった有用地のみならず、すべての土地につ

 第1章  「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の検討過程

図 1 「明治 10 年太政官指令」(1877 年)発出までの過程

(2)

いて「地種名称ノ区別ヲ判定スル」1)ことである。当時の地籍編纂を担当した部局である内 務省地理寮の長であった杉浦譲は、測量を綿密にし地籍を整頓することによって、境界を明 確にして官民の所属を判定し、田畑や原野といった地種を明確にすることが「施政の基礎」

として不可欠なことであると述べている2)

 内務省は明治 9 年 5 月に 11 県に官員を派遣して地籍の調査に当たらせることとしたが、

その内の一つ、島根県において、「竹島」と呼ばれる島について同県の地籍に編入させるか が問題となった。明治 5 年 10 月 5 日、同県に派遣されていた内務省地理寮地籍課の職員であっ た杉山栄蔵及び田尻賢信は、島根県に対して同島に関する古い文献などを調べて内務本省に 伺いを立てるよう照会した(乙第二十八号)

2. 島根県の内務省への伺

「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」(明治 9 年 10 月 16 日)

 島根県(境二郎参事)は、17 世紀当時「竹島」に渡航してアワビ漁などの事業を行ってい た大谷家の記録などを調べた調書「原由の大略」と江戸時代の地図を模写した地図「磯竹島 略図」(図 2)を添付して、内務卿大久保利通宛に、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を 発出した。

1)

内務省地理寮『内務省地理寮第一回年報』(1876 年)東京大学経済学部図書館所蔵。地理頭である杉浦譲か ら内務卿である大久保利通への報告の形をとられている。

2) 同上。なお、「地籍編製地方官心得書」第二條(明治 9 年 5 月)にも地籍編纂の意義として同趣旨が記載され ている。『法令全書 明治 9 年』(1876 年)640 頁。国立国会図書館デジタルアーカイブで閲覧可能

  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787956(最終アクセス 2021 年 5 月 28 日)

図 2 「磯竹島略図」(島根県『明治九年 地籍』

(3)

 乙第二十八号で、杉山や田尻から内務本省に伺いをたてるように照会されたのは「竹島」

であったが、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」という題名のとおり、「外一島」が付け加わっ た。しかし、伺い文には「竹島」に関する記述しかない。「原由の大略」及び「磯竹島略図」

には「松島」に関する情報も掲載された。

3. 内務省内での検討

(明治 9 年 10 月~明治 10 年 3 月)

 内務省地理寮において、島根県の伺を踏まえて検討が行われた。杉浦譲内務省地理頭から 塚本明毅修史局一等修撰に対し、明治 9 年 11 月 13 日に「竹島松島二島」に関する「沿革書 類図面トモ凡テ考拠ニ備フヘキモノハ悉皆」備えておきたいので修史局にある文書等を貸し てほしいと要請している3)。修史局地誌掛からは翌日、『竹島雑誌』、『竹島図説』及び『磯竹 島覚書』を貸し出す用意がある旨を返事している4)。この、塚本による回答では、「尤松島之 方ハ専書無之候得共前三書之内ニ散見」とあり、「松島」に関する記載は限られていること を示唆している。

 『磯竹島覚書』は、元禄竹島一件に関する書類を江戸幕府が編纂したものである。同覚書 には、「竹島」と「松島」が因幡伯耆所属ではないと回答した同藩の回答書(元禄 8(1695)

年 12 月 25 日付)が含まれる。これは、幕府が日本側のいう「竹島」と韓国側のいう「鬱陵島」

は一島二名なのかそれとも別の島なのかについて疑問に思い、対馬藩の役人から「松島」と いう島もあることを聴取したこと(元禄 8(1695)年 12 月 11 日)を踏まえて、「竹島」の他に 因幡・伯耆に付属する島があるのか鳥取藩に照会したところ、同藩から「竹島」「松島」そ の外、両国に付属する島は存在しないという回答を得たものである。これは幕府と鳥取藩の やりとりであるため、対馬藩の記録である『竹島紀事』には含まれていない。

 『竹島図説』は、1849 年に金森建策が執筆したもので、(竹島は)隠岐の國松島の西島(松 島の一小属島也。より海上道規凡四十里許り北の方にある旨の一節がある。

 『竹島雑誌』は、1871 年に松浦武四郎が出版したもので、上述の『竹島図説』の記述を引 用しつつ、「此説疑ふこと多けれども他に據るもの無故にしるし置けり」としている。

 杉浦の書簡には「御局御所蔵有之由」とあるし、修史局の返簡もすぐ翌日に出されている ので、両者の間には本件についてこの書簡のやりとりに限らず一定のやりとりが行われてい たことが推察される。また、このやりとりにより内務省は「外一島」が「松島」であること を認識していたことが確認できる。

 なお、杉浦の書簡には、「付該島ニ関スル沿革書類図面トモ凡テ考拠ニ備フヘキモノハ悉 皆備用致度候間」とあるので、上述の資料に限らず、「竹島」及び「松島」に関する資料で、

3) 『内務省往復 修史局地誌掛 明治九年自一月至十二月』東京大学史料編纂所所蔵(内務省地理局文書 -C-

014)。この資料については、山﨑佳子「隠岐島前竹島問題調査報告『第 4 期「竹島問題に関する調査研究」中 間報告書』(2019 年)11 頁注 11。

4) 同上。

(4)

内務省がアクセスできるものはなるべくすべて参照しようとしたと考えられる。

4. 内務省から太政官への伺

(島地第六百六十四号)(明治 10 年 3 月 17 日)

 内務省(内務少輔前島密発)は、「島地第六百六十四号」(図 3)により、太政官(右大臣岩倉具視宛)

に対して「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出した。なお、大久保利通内務卿と三条 実美太政大臣は、西南戦争のため出張中であったため、前島密発岩倉具視宛となったもので ある。

 内務省の伺い文では、竹島所轄のことにつき調査したところ、その島は、「別紙書類に摘 採」されるような日朝間のやりとりの結果、本邦関係がないということになったと思われる が、版図の取捨は重大なことなので、念のため伺うものである旨を述べている。すなわち、「外 一島」については、タイトル以外で言及はない。また、判断根拠として摘採されている「別 紙書類」は、いずれも元禄竹島一件に関する対馬藩の記録である『竹島紀事』の一部であり、

当該部分には「竹島」にしか言及していない。なお、「原由之大略」と「磯竹島略図」も内 務省の伺に添付されているが、あくまで島根県の伺及び調査書類「島根県ヨリ別紙伺出」の 一部としてであり、内務省の判断根拠としては位置づけられていない。

 すなわち、内務省は本来、「外一島」が「松島」であることを認識しているにもかかわらず、

その伺いにおいては「竹島」についてしか検討していないのである。また、太政官修史局地 誌掛から借用した「松島」に言及のある『竹島雑誌』、『竹島図説』及び『磯竹島覚書』にも 一切触れていない。

図 3 内務省伺(島地第六百六十四号)

唯一登場する

「外一島」

結論+伺い 一号~四号

(対馬藩が編纂した

『竹嶋紀事』からの抜粋)

→「松島」登場せず。

別紙書類 本文での検討対象は、「竹島」のみ

島根県の伺+付属書類(「原由の 大略」及び「磯竹島略図」)を 取り調べたところ。

→両調査書類が唯一「松島」に言及

「批文」印

(5)

 また、内務省の伺い文上部欄外に「批文」と朱印が押されているが、太政官の規則「公文 ヲ類別シテ法律行政規則訓條批文ノ四部トス」(明治十年二月十四日)によれば、「批文」とは 欧州の例に倣った分類であり、法律や行政規則などの下に位置づけられ、「法律行政規則訓 條ノ疑義ヲ問請シ及ヒ成規ナキノ事ヲ問請スル者ニ指令訓告スル者是ナリ」というものであ る。したがって、「明治 10 年太政官指令」は法令ではなく、内務省を通じて発出された島根 県に対する政府組織内の訓令と位置づけられるものである。

5. 太政官での検討及び「明治 10 年太政官指令」

(明治 10 年 3 月 29 日)

 太政官では、太政官内の決裁「立案第二十号」(図 4)の起案が 3 月 20 日、太政官の議案 として登録されたのが 3 月 27 日、指令が出されたのは 3 月 29 日と迅速に処理された。立案 第二十号を見ると、起案は太政官本局(書記官局)で行われたとみられ、同局関係者の印で 一番位が低いのは巌谷修権大書記官であり、同書記官が起案者である可能性が高い。また、

同局については、その長である土方久元大書記官の押印もある。なお、3 月 27 日付けで牟 田口元学とみられる人物の印もあるが、これは太政官の議題登録に関するものと思われる。

 参議以上については、在京の右大臣岩倉具視と、大隈重信(大蔵卿)、大木喬任(司法卿)

及び寺島宗則(外務卿)の三参議のみの押印がある。太政官の主要メンバーは、西南戦争の ため明治天皇に供奉して関西方面あるいは九州方面にいたためである。

 「立案第二十号」においては内務省の「伺之趣御聞置」とあるので、その判断根拠を含め て太政官では是とされたことがわかる。

 「伺之趣竹島外一嶋之義 本邦関係無之義ト可相心得事」との指令は、3 月 29 日に内務省 に発出された(図 5)。同回答は、4 月 9 日に島根県に伝達された。

図 4 太政官内の決裁(立案第二十号)

岩倉

大隈、大木、寺島

牟田口

土方、巌谷

(6)

6.『公文録』での文書の順番について

 国立公文書館のデジタルアーカイブでは、①太政官内の決裁書(立案第二十号)、②島根 県の伺、③乙第二十八号、④「原由の大略」、⑤第一号~第四号、⑥内務省の伺(島地第 六百六十四号)、⑦「磯竹島略図」の順番で保存/撮影されている5)。塚本孝東海大学元教授に よれば、元々の順番は異なっており、(i) 内務省の伺(島地第六百六十四号)(ii) 島根県の伺、

(iii) 乙第二十八号、(iv)「原由の大略」、(v) 第一号~第四号、(vi)「磯竹島略図」、(vii) 太政官内の決裁書(立案第二十号)の順番で綴られていたという6)。『公文録』において他省庁 の伺いに対して太政官が指令等で対応した場合、関連文書は、一般的に、(ア)最初に伺い をおき、その後ろに照会元の省庁が伺いとともに提出した文書を並べ、最後に太政官内の決 裁書を置く、(イ)照会元の省庁が地図や設計図、写真など定形外の資料を添付してきた場 合は、同省庁が提出してきた文書の最後に置くというルールで綴られている。内務省が太政 官に提出した文書は (i) の伺い、及びその添付である (ii) ~ (vi) であり((vi) の「磯竹島略図」

が定形外)、(vii) 太政官内の決裁書である立案第二十号が最後であるから、元々の順番が上 述の一般的ルールに沿っている7)

5) 国立公文書館デジタルアーカイブ、序章注 1 参照。

6) 塚本孝「“太政官指令”と元禄の日朝交渉」当報告書第2章参照。

7) 詳しくは、内田てるこ「島根県の地籍編纂と竹島外一島地籍編纂方伺」当報告書第4章参照。

図 5 「明治 10 年太政官指令」(赤字部分)

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