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読みの動作化における観察者の理 解の深まり

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読みの動作化における観察者の理解の深まり

― 「ミラーニューロン」 研究の知見から―

本 多 礼 諭

1 はじめに

国語科の読みの授業では、 テクストを基にして登場人物の心情を学習者に 推測させることが多い。 例えば、 「このとき、 ごんはどんな気持ちだったか な」 「大造じいさんは残雪にどんな気持ちを抱いていたかな」 といった学習 課題がそれに当たる。 学習者はテクストを根拠に 「…とあるから〜の気持ち」

と自らの語彙を駆使して言語化する。 しかし、 テクストに表れる文字記号を 抜き出すだけで登場人物の心情を理解できているのかというと必ずしもそう ではない。

情報工学者の長尾真は、 文章の理解における 「わかる」 ということのレベ ルを三つの段階に分類している。 長尾 (2001:116) は、

第一のレベルは、 言葉の範囲内で理解することであり、 第二のレベルは、

文が述べている対象世界との関係で理解することであり、 さらには第三の レベルとして、 自分の知識と経験

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

感覚に照らして

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

理解すること

・ ・ ・ ・ ・ ・

(

いわゆ

・ ・ ・

る身体でわかる

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

)

というレベル

・ ・ ・ ・ ・ ・

を設定することが必要であろう (傍点部筆 者)。

と述べている。 「言葉の範囲内」 のレベルの理解にとどまってしまう授業で は、 学習者を深い読みに導くことはできないであろう。 学習者の経験や実感 とテクストとが結びつくレベルでの授業が望ましい

また宇佐美寛 (1987:33) は、 「言葉は対象を抽象的に類化して指し示す 働きの強い記号」 であり、 「イメージをまったくそのままに表現し、 他者に 伝達するということは、 原理的に不可能である」 と述べている。 私たちは自 ら体験したことや経験したことを言語化するときにそのイメージを捨象して おり、 五感で味わった感覚やそのときに沸き上がった感情を完全に言葉で説 明することはできない。 テクストも同様である。 登場人物が物語で味わって いるであろうことはテクストにおいてすべて語られているわけではないとい うことである。

それでは、 読みの授業においてテクスト上の登場人物の心情や行動を学習 者の実感に落とし込んで理解するためには、 どのような学習活動を組織すれ

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ばよいのであろうか。

筆者は、 自らの身体を駆使して登場人物になりきる〈動作化〉という学習 活動が有効であると考えている。 動作化の学術的な定義として、 安彦忠彦 (2002:183 184) は、

文章や話し言葉で表現されている内容を、 より深く、 より身近に、 自分 のことのように理解し、 体験するために、 しぐさや身振りなどの具体的な 動作に表すこと。 …… (中略筆者) ……特に小学校低学年でよく用いられ る指導技術の一つ。

と定義付けている。 テクストを動作化することで、 「自分のことのように理 解」 できる可能性がある。 また、 学習者が動作化する前には捉えられなかっ た読みを動作化する過程で発見したり、 理解が深化したりする効果があろう。

2 問題の所在と研究の目的

2017年3月公示の 小学校学習指導要領解説 国語編 「C読むこと」 の

「精査・解釈」 において、 登場人物の心情や行動、 情景に関して、 「具体的に 想像する (傍点部筆者)」 という文言が新たに追記された。 「具体的に」 とい う文言は、 2008年公示の学習指導要領にはない。 テクストに表れる登場人物 の心情や行動を自らの身体を通して追体験する動作化という学習活動は、 学 習指導要領の求める 「具体的に想像する」 ことに寄与できよう。

しかし、 演劇的手法について研究している渡辺貴裕 (2008:19) は、 身体 動作を伴う学習活動は学校現場の実践の多さに比べ、 研究の蓄積が乏しいと 指摘している。 そこで、 筆者は全国大学国語教育学会が刊行している 国語 科教育 を1998年から2018年の20年分 (39集分) 調査した。 その結果、 演劇 的手法を含めた動作化についての論文はわずか2件しかなかった。 また、 日 本国語教育学会が刊行する 月刊国語教育研究 を1985年から2017年の33年 分 (394号分) 調査したところ、 動作化を含む演劇的手法をテーマにした特 集は3号分しかなかった。 さらに、 その他に実践報告を調査したところ、 同 月刊誌においてわずか8件のみにとどまっていた。 渡辺の指摘のとおり、

当該分野は、 これまでの国語科教育の中で研究の蓄積が乏しい学習活動であ ると推測される。

これまで動作化を含めた演劇的手法は、 渡辺 (2006a) (2006b) (2008) によって研究が進められている。 渡辺は、 動作化する学習者 (以下、 「演技 者」 とする) を対象として研究している。 本研究において、 筆者は、 演技者

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ではなく、 その演技者を観察する学習者 (以下、 「観察者」 とする) を研究 の対象とする。 読みの授業において全員が一斉に動作化する形態がすべてで はないであろう。 演技者をモニターする観察者に焦点付けた研究は調査の限 り見当たらない。 観察者には動作化がどのような効果をもたらすのかは未だ に明らかになっていない。 また、 動作化がどのような原理で理解をもたらす のかについて科学的に説明している研究はなく、 動作と理解の関連が不明確 である。 ここに本研究の問題の所在がある。

本研究では、 動作化による観察者の理解の深まりについて、 大脳生理学の

「ミラーニューロン」 研究を援用し、 科学的な仮説を提示することを目的と する。

3 本研究の位置付け

まず、 本研究における筆者の研究の射程を明らかにする。

動作化の目的と対象

渡辺 (2014:113 116) は、 動作化を含む演劇的手法を 「プロダクトとし ての表現」 と 「プロセスとしての表現」 と銘打ち、 この2タイプについて、

その活動の捉え方や理解の質の違いを比較し整斉している

「プロダクトとしての表現」 は、 従来から行われている、 本文の 「形式的 な模倣」 である。 これは 「あらかじめ頭で考えておいたことを身体や声を使っ て表す」 学習である。 まず教材解釈が先行し、 テクストを動作で見事に表現 することに重きが置かれる、 いわば完成品 (プロダクト) を追求させる学習 活動である。 一方、 「プロセスとしての表現」 は、 身体を通して架空の世界 を創造し、 自分の感覚を働かせて理解を深める学習活動である。 教材解釈は 表現中に同時並行的に行われる。 つまり、 動作をする過程 (プロセス) で生 成される理解に重きを置いている。 渡辺は、 その実践例として鳥山敏子の

「なってみる」 授業を挙げている。

渡辺は、 従来実践されてきた 「プロダクトとしての表現」 を批判し、 身体 の可能性をより拡大させた 「プロセスとしての表現」 を重視している。 確か に、 学習者が自身の身体を通して架空の世界で登場人物になって語らせたり、

動作させたりすることで読みを再構築させることができるという点で有効な 学習活動である。

しかし、 残念ながら学習者がテクストを動作化することの経験や慣れが充 分に担保されていない教室では、 「形式的な模倣」 である 「プロダクトとし ての表現」 すら困難であると推測する。 さらに、 「プロセスとしての表現」

を追求することで、 テクストから遊離した解釈の交流に陥る危険性は否定で

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きない。 また、 学習者の生活経験が乏しい場合、 該当テクストが指し示す意 味やイメージが想起できない場合も往々にしてある。 この点を鑑みると、 渡 辺の提案する 「プロセスとしての表現」 を成立させるために、 その前段階と して、 テクストを忠実に動作化する 「プロダクトとしての表現」 を求める授 業を否定するには及ばないであろう。 筆者は、 まず 「プロダクトとしての表 現」 を求める段階があり、 その上に 「プロセスとしての表現」 を求める段階 があるという立場に立つ。

本発表では、 「プロダクトとしての表現」 に射程を絞り、 生活経験が乏し く、 テクストのイメージが掴めない学習者、 且つ動作化に慣れていない学習 者を研究の対象とする。

動作化の形態

現在、 国語科教室では様々な動作化の実践が行われている。 一概に動作化 といっても、 その方略や指導法は一般化されていないのが現状である。

動作化の形態に着目したとき、 次のように分類できるであろう。 1 学習者全員が一人の登場人物になる動作化

2 学習者複数人で複数の登場人物になる動作化

3 ペアになって役割を交換しながら登場人物になる動作化 4 ペアの一人のみが登場人物になる動作化

5 代表者のみが登場人物になる動作化

学校現場では、 指導者がテクストや学習者の数等を考慮した上で、 最適な 動作化の形態を選び実践しているものと推測する。 本発表では、 これらの中 から、 観察者を含む動作化 (上記の4、 5) を対象にし、 演技者をモニター する観察者に動作化という学習活動がどのような効果をもたらすのかという 説明を試みたい。

4 読みの授業におけるミラーニューロンの発火

本研究では、 動作化という学習活動が演技者をモニターする観察者に及ぼ す効果を解明するための理論を大脳生理学の 「ミラーニューロン」 研究に求 めた。 ミラーニューロンは、 1996年にイタリアのパルマ大学教授のジャコモ・

リゾラッティ (Rizzolatti,G.) らによって偶然に観測された脳科学上におけ る発見である。

ミラーニューロンについて、 発達心理学者の子安増生 (2011:13) は、 以 下のように説明している。

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…… (前略筆者) ミラーニューロンとは、 マカクザル 厳密には 「ブ タオザル (Macaca nemestrina)」 という種類のサル のニューロン (神経細胞) を研究するために、 脳の前運動皮質のF5領野にある視覚運動 ニューロン (visuomotor neuron) に電極を刺し、 電気活動を記録して いたときに発見されたものであり、 マカクザル自身が手指の運動を行うと きと、 他のマカクザルや人間が同様の運動を行うところを観察するときの 両方において発火する同一のニューロンである (Rizzolatti & Craighero, 2004;Rizzolatti & Sinigaglia, 2008/邦訳, 2009)。

さらに、 リゾラッティらの研究グループは、 ミラーニューロンは、 マカク ザルだけでなく、 人間も同様に備わっているものであることを確認した。 同 僚のイアコボーニ (2011:24) は、

私たちの脳にある一部の細胞 すなわちミラーニューロン は、 自 分でサッカーボールを蹴ったときにも、 ボールが蹴られるのを見たときに も、 ボールが蹴られる音を聞いたときにも、 果ては 「蹴る」 という単語を 発したり聞いたりしただけでも、 すべて同じように発火する。

と述べている。 この言説は、 人間は自身が行う動作の認識と他者が行う動作 の知覚とを同一の脳部位で処理している場合があるということを示唆してい る。 また、 その後のミラーニューロン研究では、 人間は視覚的に他者の感情 の変化を知覚し入力すると、 同様の感情を自身もミラーすることも報告され ている (Keysers,C.2011/邦訳, 2016)。

さらに、 イアコボーニ (同:84) によると人間のミラーニューロンは言語 を司るブローカ野に局在するとし、

そこにミラーニューロンがあるということは、 ミラーニューロンが言語 の進化における神経面での決定的な要素があるかもしれないとの仮説を裏 づけることにもなっている。

と述べている。 ここから、 ことばとミラーニューロンが脳神経レベルで関連 していると捉えることができる。

それでは、 ミラーニューロンと読みの授業にはどのような関連があるので あろうか。

国語科の読みの授業では、 テクストを理解するために、 音読や黙読をした

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り、 解釈を発表し合ったり、 その解釈を文章にしたりすることがある。 また、

主に小学校低学年であれば、 挿絵から読み取れることを言語化する実践も想 定される。 そのような読みの授業の中で、 動作を表すような単語や文章を発 したり、 書いたり、 聞いたりすると読解中にその動作に関連するミラーニュー ロンは発火するはずである。

その一方、 想像したり、 深く理解しようとしたりせず、 ただ字面だけを追 い、 実際は文章が頭に入っていない状態で文章を読む場合がある。 そのとき、

読み手は文字を読んでいるだけであるため、 ことばの意味や登場人物の心情 を推測したり、 ことばと自分の身体経験とを照合したりする作業をしていな い。 形式的に読むだけでは、 ミラーニューロンは発火しないと考えられる。

逆にミラーニューロンが発火していれば、 登場人物の言動を自らの身体経 験と一致させて理解しているということが言えるであろう。 ここから、 「登 場人物の心情や行動の理解の深まりは、 ミラーニューロンの発火と相関する」

という仮説が導き出せる。

5 ミラーニューロンと観察者を含む動作化の関連性

それでは上記のミラーニューロンに関する研究と動作化という学習活動時 における観察者はどのように関連するのであろうか。 以下、 具体的な読みの 授業を想定し説明する。

第5学年教材 「水のこころ」 (作:高田敏子) を例に考える。 以下、 全文 を引用する (行かえ (/) は筆者による)。

水は つかめません/水は すくうのです/

指をぴったりつけて/そおっと 大切に 水は つかめません/水は つつむのです/

二つの手の中に/そおっと 大切に 水のこころ も/人のこころ も

「つかめ」 ない繊細な水は 「そおっと大切に」 掬ったり包んだりしなけれ ば手に取れない。 これは経験上自明な事実である。 しかし、 最終連でこの繊 細さを 「人のこころ」 に重ね合わせていることで、 読者はアナロジーを働か せて 「人のこころ」 の扱い方を先頭のテクストに戻って遡及的に解釈してい くことになる。

「指をぴったりつけて」 「こころ」 を下から上へ 「そおっと」 掬い上げ眼 前に寄せるという行為は、 掬い上げる私と掬い上げられる他者との心理的な 接近を示唆している。 また、 両手で大切に柔らかく包み込むという行為は、

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包み込まれる他者の 「こころ」 を私がより深く受容していく様を表現してい ると解釈できる。

さて、 読みの授業において 「「すくうのです」 と 「つつむのです」 は、 そ れぞれ 「人のこころ」 をどのように扱うことを意味しているのであろうか」

という学習課題を提示したとする。 そして学習者に動作化させながら同時 並行的に考えさせると、 学習者はそれぞれの生活経験を想起しながら動作化 すると推測する。 その中で 「すくう」 動作、 「つつむ」 動作を的確に動作化 できない児童がいたとする。 この場合、 筆者は正確に動作化できる教師や友 達が動作化する様子をモニターする時間を取ることが有効であると考える。

視覚的に 「すくう」 「つつむ」 という動作を入力することで、 観察者はその 動作を脳内でミラーリングし、 再現するからである。 また、 ミラーニューロ ンが発火している観察者は類似経験を想起しやすくなるであろう。 例えば、

「水槽の大切な金魚を手で掬って別の容器に移したことがあったな」 とか

「赤ん坊の小さい手を両手で包み込んだことがあったな」 という経験である。

動作化する他者を観察することで観察者のミラーニューロンの発火を促進し、

実際に 「すくう」 動作、 「つつむ」 動作を脳神経レベルでシミュレーション する効果がある。

それでは、 よりテクスト量の多い物語文の授業ではどうであろうか。 第4 学年教材 「ごんぎつね」 (作:新美南吉) には、 「ごんは、 二人の話を聞こ うと思って、 ついていきました。 兵十のかげぼうしをふみふみ

・ ・ ・ ・

行きました。

(傍点部筆者)」 という叙述がある。 この 「かげぼうしをふみふみ行」 くとい う 「ごん」 の動作に関して、 教室のすべての学習者が鮮明にイメージするこ とはできないであろうと推測する。 実際に 「ふみふみ」 行く経験を把持して いたとしても、 それを 「ふみふみ行く」 ということばとして認識していない からである。 「ごん」 の 「ふみふみ」 行く動作が実感を伴わず、 表層的な一 種の前進する動作という理解にとどまると、 「ごん」 が 「兵十」 に対して心 理的に接近しつつあることを捉えられない。

さて、 この場面についてイメージをより具現化するために動作化を取り入 れたとしよう。

演技者が 「ふみふみ」 行っている動作化を観察している学習者には、 先述 した例と同様に、 ミラーニューロンが賦活すると推測する。 実際に 「ふみふ み」 行くことはしていないにもかかわらず脳内でその動きをシミュレーショ ンしているのである。 また、 ブローカ野付近が刺激されることにより、 「ふ みふみ」 という身体動作とことばの意味が結びつきやすくなる可能性もある。

当然、 動作を実際に行う演技者よりは理解の深まりは浅いであろうが、 視覚

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的に 「ふみふみ」 行くという言葉の意味は学習できよう。

さらに、 観察者は、 次のような思考を巡ってモニターしているのではない かと推測する。

・ 「かかとからつま先にかけてゆっくり足を運んでいるな」

・ 「かげぼうしを見つめながら歩いているな」

・ 「かげぼうしがなくなった瞬間に移動しているな」

・ 「一歩一歩踏みしめながら歩いているな」

・ 「兵十と加助はこの動きに気付いていないな」

このような思考を巡る中でミラーニューロンが賦活され、 観察者は無意識 のうちに演技者の動作をミラーして自身の身体経験と重ね合わせているので ある。 例えば、 「冬の日に雪の上の足跡を慎重に踏み重ねて歩いた」 経験や

「友達に気付かれないようにそっと忍び足で歩いた」 経験である。

観察することによって 「ふみふみ」 行く動作に関わる、 自身の埋もれてい た類似の身体経験を想起しやすくなるということである。

ここで、 次のような批判が推測される。 それは、 視覚的にモニターするの であれば、 動作化する他者を観察するのではなく、 その動作にかかわる映像 を観させた方が妥当であろうというものである。 確かにそのほうが正確さは 担保できるかもしれない。 しかし、 目の前で行われる動作化を目の当たりに することこそに意義があろう。 演技者と同一の空間を共有しなければ、 物語 の世界には入りにくい。 歌舞伎を映像として観るよりも、 実際に歌舞伎座で 観劇する方が芸能世界に没入しやすくなるであろう。 また、 演技者は誰でも よいわけではなく、 観察者とかかわりのある (共感できる) 友達や教師が動 作化することが重要である。 共感とミラーニューロンの関連について、 佐藤

(2011:89) は共感性の高い女性を対象にしたブレイクモアの実験を紹介 し、 共感性の低い人よりも高い人の方が 「体性感覚野やミラーニューロンが 強く活動する」 と述べている。 これは観察する他者が共感できる身近な人で あるほどミラーニューロンが賦活しやすくなることを示唆している。

「ふみふみ」 行くという動作に関しても、 観察者が共感を抱ける他者が

「ごん」 になって、 実際に目の前にいるかのように観察することがその場面 の理解には必要不可欠であろう。 ここまで、 ミラーニューロンの研究を基に して動作化という学習活動時の観察者の理解の深まりを説明してきた。

いずれにしても、 学習者の脳内の賦活状況を実証したわけではなく、 ミラー ニューロン研究を援用して考察したに過ぎない。 また、 当該研究分野は研究 途上の段階にあるため、 筆者の仮説は今後の研究の進展によっては棄却され

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る可能性は否定できない。 しかし、 現時点のミラーニューロン研究を援用す ることで、 動作化という学習活動が演技者のみに有効に機能するだけでなく、

観察者にも一定の意義のある学習活動である可能性を認めることはできるで あろう。

6 観察者を設定した動作化の授業論と習慣化の可能性

読みの授業で行われる動作化は基本的に全員が一斉に動作する形態がほと んどである。 しかし、 すべての学習者がことばの意味を理解した上で動作化 できているとは限らない。 動作化するテクストに関する経験を持ち合わせて いなかったり、 そもそもそのことばの意味を理解できなかったりという場合、

動作化したところで 「活動あって学びなし」 に陥る。

動作化する他者を観察することを通して、 視覚的イメージとテクストとを 一致させる段階を踏むことが肝要である。 その段階を踏んだ上で該当動作に かかわる自身の類似経験を想起させ、 動作化するのである。 この流れをまと めると次のようになる

1 動作化する他者を観察する 2 動作とテクストの一致を確認する 3 類似の身体経験を想起する 4 動作化する

ミラーニューロンについて佐藤

(2011:90 92) は、

他者の行為を観察すると、 観察者のそれに対応する運動系の内部モデル が自動的に活性化され、 その行為の意味や意図が 概念的な推論によらず 、 身体化されたシミュレーションを通じて直接的に理解される (傍点部筆者)。

ミラーニューロンも万能ではない。 「私とは異なる」 他者の意図を理解 するには、 ミラーニューロンによる自動的な行為の理解では事足りない。

と述べている。 上記の1の観察によってミラーニューロンは自動的に発火す るが、 その動作に内在する 「意味や意図」 を明確にしなければ、 読みの授業 とは言えない。 「2 動作とテクストの一致を確認する」 ことによって、 テ クストの意味と動作とを整合させる時間を取ることが必要である。 また、

「3 類似の身体経験を想起する」 ことによって、 登場人物の動作にかかわ る観察者自身の類似の身体経験、 その際の心情について想起させることも必 要であろう。

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以下、 具体的な読みの授業場面を想定し、 筆者が提案する上記の1から4 について説明する。

第2学年教材 「かさこじぞう」 (作:いわさききょうこ) には 「じいさま は、 とんぼりとんぼり 町を出て、 村の外れの野っ原まで来ました (傍点部筆 者)。」 という叙述がある。

ここで 「とんぼりとんぼり」 歩くイメージが持てない学習者がいたとする。

この学習者は、 ただ動作化させただけでは正しく動けない。 暗い顔で俯き、

前傾姿勢になってゆっくり歩く動作である 「とんぼりとんぼり」 の様子を視 覚的な情報として理解させる段階を設定したい。 つまり、 まず教師や友達 が動作化するのを観察する時間を取るのである。 これは上記の 「1 動作化 する他者を観察する」 に当たる。 観察者は、 テクストの内容を視覚を通して 理解することになる。

次に 「2 動作とテクストの一致を確認する」 段階である。 このとき、 他 のことばで置き換えて比較させるとよいであろう。 指導者が 「「すたすた」

歩く、 「ぶらぶら」 歩くではどうだろうか」 と問いかけ、 演技者に動作化さ せるのである。 観察者は、 それらの動作と 「とんぼりとんぼり」 歩く動作を 比較してその差異を認識し、 「とんぼりとんぼり」 特有の動作やリズムを学 習することで、 動作とテクストの整合が図られるのである。

次に 「3 類似の身体経験を想起する」 段階である。 指導者は 「みなさん は今まで 「とんぼりとんぼり」 歩いたことはないかな」 と学習者の経験の想 起を求める。 すると、 学習者は 「テストの成績が思わしくなく 「とんぼりと んぼり」 帰宅した」 経験や 「家で親に怒られて 「とんぼりとんぼり」 登校し た」 経験を想起すると推測できる。 餅を 「ばあさま」 に買って帰ることがで きなかった 「じいさま」 の物悲しさとは、 質は異なる経験ではあるが、 自身 の類似経験を想起することで 「じいさま」 の心情を実感を伴って理解できよ う。 類似の身体経験にアクセスすることができれば、 ミラーニューロンの発 火も期待できるであろう。

それらの段階を経た上で、 「4 動作化する」 学習を行う。 動作化によっ て身体反応として入力された 「とんぼりとんぼり」 の動作は、 モニターした 視覚的なイメージや自身の類似の身体経験と結合され理解を促進していく効 果があると推測する。

このように、 段階的な活動を設定することが、 生活経験の乏しい学習者に おいては有効であろう。

それでは、 動作化したり、 動作化する他者をモニターしたりする学習を習 慣的に導入するとどのようなよさがあるのであろうか。

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筆者は、 読みの授業においてテクストを検討する過程で、 まず動作化 (ま たは動作化する他者をモニター) し、 ミラーニューロンを発火させるという サイクルを生活経験の乏しい小学校低学年段階から積極的に取り入れていく ことを推奨する。 このサイクルを習慣化することで、 テクストと身体動作を 自動的に結びつけて読解できるのではないかと期待する。 いわば、

物語の 「状況モデル」 を瞬時により鮮明化して読解できる

ということである。 普段、 我々は物語に描写されている状況を頭の中で図像 化して読解している。 いわゆる状況モデルを構築している。 しかし、 読書経 験が乏しかったり、 文章理解が未熟であったりした場合、 状況モデルを構築 するのが難しくなる。 それは、 秋田喜代美 (2012:112) の次のような指摘 からも明らかである。

…… (前略筆者) 文章で取り上げる 内容に関する知識 を生徒があまり持 ていない

・ ・ ・ ・

、 なぜそのテキストを読むのかがわからない、 しかも授業中に読 むということ自体がテキストを面白く感じることを妨げているときには

・ ・ ・ ・

生徒は状況モ デルを理解で きなくなる 。 教師自身が、 目前の生徒の状態に 基づいてこれらのどの面を補うように授業をデザインしていくのか判断す ることが必要となる (傍点部筆者)。

自立した読者を育成するためにも状況モデルを自動的に構築できる能力を 育成したい。 動作化という学習活動によって、 ミラーニューロンの発火を自 動化する読者は、 一読しただけで自身を物語に没入させ、 登場人物の動作を 脳内でシミュレーションしているということである。 同時に自身の身体経験 とテクストとを重ね合わせることで瞬時に状況モデルを構築して読み進めら れるであろう。

ところで、 神経科学者の甘利俊一 (2008:122) は、 そろばんを使った実 験を紹介し、 そろばんの熟練者はそろばんを使用せずとも、 はたまた手を動 かさずとも、 日頃の訓練で視覚情報や指の運動といった感覚運動制御を脳内 で行えるようになっていることを実験によって証明している。 習慣的に訓練 することで動作せずとも脳内で情報を処理しているということである。 これ を本研究に援用すると、 テクストを読んで動作化する学習活動を習慣的に取 り入れることで、 動作せずとも脳内でテクスト情報を自動的に図像化できる 可能性があるということを示唆している。 ここから低学年時より動作化とい う学習活動を繰り返し行っていくことの有効性が窺える。 やがては、 動作化

(12)

せずとも、 テクストを一読しただけでミラーニューロンが発火し、 自身の身 体経験とテクストを照合しながら読解できる学習者が育つのではないだろう か。

7 本研究のまとめ

本稿で筆者は、 動作化における観察者の理解の深まりについて、 ミラーニュー ロン研究を援用して考察した。 観察者は、 演技者をモニターすることにより 脳内で動作をミラーしている可能性があることを具体的な授業場面を想定し て説明した。 また、 動作化を習慣化することの可能性を提示した。

もちろん、 演技者をモニターした上で、 動作化したとしても登場人物の心 情を完全に理解できるわけではない。 渡辺 (2008) の指摘するように、 形式 的な動作の模倣で終始し、 架空の世界の中で自分の身体を働かせなければ深 い読みへと誘えない。 本研究では、 その前段階である、 動作化することに慣 れていない、 テクストの意味を自身の語彙知識でカバーできない学習者を対 象とした。 今後は、 実践と理論の往還を図りながら動作化の有効性をさらに 考察していきたい。

《注》

例えば、 佐藤佐敏 (2017:24 25) は経験主義的な立場を採る宇佐美の主張を基 に、 読みの授業場面を設定して具体的に説明している。 第6学年教材 「海のいのち」

(作:立松和平) の 「魚がえらを動かすたび、 水が動くのがわかった」 というテク ストについて、 「自身の経験と作品の描写との往還をはからせたい」 と主張し、 そ の上で、 「海に入って、 体が波にさらわれそうになった経験はないですか。 海で、

前に泳いでいるつもりなのに、 全く進んでいなかった、 後退していたという経験は ないですか。 魚がえらを動かすたび、 水が動くのがわかった というのは、 相当 な大物です。 太一は、 その水の動きを文字通り<肌で感じている>わけです。 とて も及ばない相手だと思うに十分な描写ではないですか。」 と述べ、 テクストを自身 の身体経験に照合させながら、 実感を伴った理解に落とし込む指導言を提案してい る。 この過程を介在することによって、 「クエ」 に 「もり」 を打てなかった 「太一」

への理解を深めることができるわけである。

筆者は、 次のような条件を設定した上で調査を行った。 まず 「読むこと」 の学習 活動として扱われている論文であること。 次に、 動作化を含めた演劇的手法に研究 の主軸を置き、 学習者の読みの深まりまで考察されているものである。 この条件設 定を緩和することで調査結果に若干の差異が生じる可能性があることをここに断っ ておく。

(13)

渡辺 (2006b) は、 演技者をモニターする他者を 「観客」 としているが、 本発表 ではモニター後に演技者となることを鑑みて 「観察者」 という語を使用する。

比較されている観点は 「活動の捉え方」 「理解と表現の関係」 「求められる表現」

「架空の世界」 「身体の捉え方」 「イメージ図」 である。

渡辺 (2008:21) は、 「鳥山は、 子どもたちが本文の意味を理解できていない段 階でもあえて<なる>活動を用いており、 実際に動きながら本文の意味の理解を進 めていくことを行っている。」 と述べ、 「スイミー」 の実践を例に挙げている。 教材 によっては理解が追いつかない段階であえて同時並行的に動作化することも有効で ある場合があることをここに断っておく。

この分類は、 動作化にかかわる実践論文や筆者が参観した授業を基に作成した。

動作化の形態についてのより正確な分類と考察に関しては、 本研究の射程には入れ ていない。 別稿に譲る。

東京書籍国語教科書編集部2015 27年度版新しい国語5 pp.96 97

筆者は、 この学習課題を用いて授業プログラムを開発、 実践した。 その結果の考 察は別稿に譲る。

東京書籍国語教科書編集部2015 27年度版新しい国語4下 pp.10 26

なお、 本稿は 「3 本研究の位置付け」 で述べた学習者を対象にしている。 よっ て、 筆者の提案する動作化の授業論についても学習者の発達段階を鑑みながら柔軟 に変更していくことは求められよう。

東京書籍国語教科書編集部2015 27年度版新しい国語2下 pp.70 80

正しい動作化かどうかは授業者の主観的な読みに基づくという点で恣意的になる 可能性は指摘できる。 しかし、 まずもって語彙知識の乏しい学習者を前にしたとき、

一定の動作化のモデルを授業者が規定しておくことは必要であろう。 授業者は、 テ クストと動作の整合に注意しながら慎重に分析しておくことが肝要である。

《文献》

秋田喜代美2012 学びの心理学 授業をデザインする 放送大学叢書

安彦忠彦2002 「動作化」 安彦忠彦編 新版 現代学校教育大事典5 ぎょうせい 甘利俊一2008 言語と思考を生む脳 東京大学出版会

宇佐美寛1987 教育において 「思考」 とは何か」 明治図書

クリスチャン・キーザーズ著 立木教夫・望月文明訳2016 共感脳―ミラーニューロ ンの発見と人間本性理解の転換 麗澤大学出版会

子安増生2011 「自己と他者」 子安増生・大平英樹編 ミラーニューロンと<心の理 論> 新曜社

佐藤

2011 「私のような他者/私とは異なる他者」 子安増生・大平英樹編 ミラーニュー

(14)

ロンと<心の理論> 新曜社

佐藤佐敏2017 「身体反応に基づく 「海のいのち」 の教材論

及的推論と叙述の響 き合い 」 福島大学人間発達文化学類論集 第25号

長尾真2001 「わかる」 とは何か 岩波新書

日本国語教育学会編 月刊国語教育研究 No.155 No.548

マルコ・イアコボーニ著 塩原通緒訳2011 ミラーニューロンの発見 早川書房 渡辺貴裕2006a 「読みにおけるイメージの形成と身体」 全国大学国語教育学会編 第

110回全国大学国語教育学会要旨集

渡辺貴裕2006b 「劇あそびによる文学作品への理解の深まり」 全国大学国語教育学会 編 国語科教育 第60集

渡辺貴裕2008 「< なる> 活動はいかにして文学作品への理解の深まりをもたらすか:

鳥山敏子の実践記録を手がかりに」 全国大学国語教育学会編 国語科教育 第64集 渡辺貴裕2014 「プロセスとしての表現」 渡部淳+獲得型教育研究会編 教育における

ドラマ技法の探求 明石書店

文部科学省2017 小学校学習指導要領解説 国語編

東京書籍国語教科書編集部2015 27年度版新しい国語1上〜6

《謝辞》

本稿は、 第135回 全国大学国語教育学会東京ウォーターフロント大会 (2018年 10月27日、 於・武蔵野大学臨海キャンパス) における自由研究発表でいただいたご指 摘を基に、 その発表資料を加筆・修正したものである。 ご指摘くださった先生方に感 謝申し上げる。

(ほんた・のりさと 本学大学院人間発達文化研究科)

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