食品に含まれるタンパク質は,栄養源としてだけではなく多 彩な食品物性・機能を具備している.食品加工において,タ ンパク質のような高分子化合物が示す特徴的な物性や機能の 源 は加工時に形成されるナノスケールの凝集体構造にあ り,その構造に依存した分子間相互作用により動的性質が発 揮 さ れ て い る.し た が っ て,食 品 の 高 分 子 化 合 物 の ナ ノ ス ケールの凝集体構造とその凝集体間の相互作用を解明するこ と に よ り,食 品 物 性 の 発 現 機 構 が 明 ら か に な る と 考 え ら れ る.しかし,不溶性である高分子凝集体のナノ構造は分析手 法が限られているため,食品科学分野では未開の領域として 取 り 残 さ れ て き た.一 方,材 料 科 学 の 分 野 で は,ソ フ ト マ ターのナノ構造の解明に固体だけでなく溶液中の粒子構造の 分析も可能である量子ビーム(X線および中性子線)を用い る小角散乱法が導入され,物性と構造の相関に関する知見が 集積されてきている.食品科学分野でも今後,小角散乱法と さまざまな物性解析とを組み合わせて研究することにより食 品物性の発現機構をナノ構造との関係で論じることが可能に なると考えられる.本稿では,タンパク質の中で最も古い研 究の歴史をもち特徴的な物性を示す代表的な植物性食品タン
パク質であるコムギタンパク質グリアジンについて最近筆者 らが行った解析を例にとり,量子ビーム小角散乱解析の理論 と実施法について紹介する.なお,小角散乱法の解説に加え て,最近筆者らが開発したグリアジンの新しい抽出法につい ても概説する.
なぜ小角散乱法なのか
材料科学におけるナノ構造解析には,電子顕微鏡や 走査型顕微鏡などの各種の直接観測法や質量分析法,
NMR法などが広く用いられてきた.一方,量子ビーム の散乱現象を用いて構造解析を行うX線小角散乱法
(Small-Angle X-ray Scattering; SAXS)や中性子小角 散 乱 法(Small-Angle Neutron Scattering; SANS) は,
合成高分子やコロイドなどのソフトマター,タンパク 質・核酸や脂質などの生体高分子,金属や半導体などの 無機材料など,広範な物質に対するナノ構造解析手法と して利用されている.小角散乱法の特長として,①超小 角散乱法(Ultra-Small-Angle X-ray Scattering; USAXS)
と言われる手法を含めると1〜1,000 nmという広範囲の スケールの構造を同一の測定原理に基づき評価できる,
②合成・生体高分子や分子会合体のサイズや形状,ある Visualization of Nanoscale Structures of Wheat Gliadin Aggregates
by Small Angle Scattering Analysis: Decipher Internal Structures of Food with Quantum Beams
Nobuhiro SATO, Masaaki SUGIYAMA, Reiko URADE, *1 京都大 学原子炉実験所,*2 京都大学大学院農学研究科
小角散乱解析でみる古くて新しい タンパク質グリアジンのナノ凝集体構造
食品の内部構造を量子ビームで読み解く
佐藤信浩 * 1 ,杉山正明 * 1 ,裏出令子 * 2
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● 化学 と 生物
【解説】
いは,それらの距離分布に関する情報を得ることが可能 である,③固体(金属やゲル)
,濃厚溶液,希薄溶液な
どさまざまな状態の物質をそのまま測定できる,④局所 的なスナップショットではなく系全体の平均構造情報を 評価できる,⑤(放射線による損傷を考慮に入れる必要 はあるものの)非破壊で測定が可能である,などが挙げられる.量子ビームの回折現象を利用した構造解析法で ある粉末・結晶回折法と比較した場合,小角散乱法は上 述のように試料の形態として結晶であることを必要とせ ず,また,結晶のような周期構造をもたない物質につい ても構造評価が可能であることが利点である.したがっ て,測定試料となる結晶の作製に労を割くことなく,溶
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1:物質の構造を見るプローブとしての中性子 X線や電子線は物質の微細な構造を調べるためのプ ローブ(探針)として用いられ,X線回折に基づく結 晶構造解析や電子顕微鏡による形態観察など,科学 研究の分野で広く利用されている.X線における光子 や電子線における電子は,波と粒子の性質を同時に 兼ね備えた量子であり,プローブとして用いるX線 や電子線は量子ビームと総称される.中性子線も量 子ビームの一種であり,X線や電子線では得られない 有用な情報を得ることができる.中性子は電荷をも たないため,物質中の電子とは電気的には相互作用 せず原子核と直接相互作用し,その相互作用の程度は 原子核の種類ごとに異なる.X線や電子線は原子中の 電子と相互作用するため,水素のように電子数の少 ない原子は見にくく重金属のように電子数の多い原 子がよく見えるが(健康診断のX線胃透視撮影で硫 酸バリウムの造影剤を飲むのはこのためである),中 性子は水素との相互作用が大きいため,プラスチック やタンパク質などに含まれる水素の分布構造を捉え ることを期待されている.また,本文中に記述した ように軽水素と重水素の散乱能の違いを利用して,
部分的な構造を浮かび上がらせて見ることができる のも中性子の特長である.中性子は原子核を構成す る粒子の一つであり,中性子線を得るためには原子 核の中から中性子を取り出す必要がある.そのため に主に用いられるのがウランの核分裂を利用する研 究用原子炉と,高エネルギー陽子ビームによる水銀 などの重原子の原子核破砕を利用する加速器中性子 源である. X線・電子線を用いた実験装置や研究施 設は身近にあり容易に利用できるのに対し,研究用 の中性子源はごく限られており,中性子を利用した 研究の発展の妨げになっていたが,最近は,中小型 加速器中性子源の開発が各地で進められ,徐々に環 境が改善しつつある.
2:グリアジンのミニ知識
人類は食事エネルギーの約20%をコムギから摂取 している.コムギがここまで人類にとって重要な食 料源となっているのは,コムギに高い環境適応性があ るため地球上の広い領域で栽培できることと,コムギ 粉から調製した生地が優れた食品物性をもつことに
よる.すなわち,コムギ粉に水を加えて捏ねて作る 生地がもつ独特の粘弾性がパン,うどん,パスタお よびコムギ粉を使ったさまざまな焼成食品の加工を 可能にしている.コムギ粉生地の粘弾性は,生地を 捏ねる過程で形成されるタンパク質凝集体を主成分 とするグルテンによるものである.1728年,ボロー ニャ大学のJ. Beccariは水で捏ねたコムギ粉生地を亜 麻布袋に入れて水中でもむことでデンプンなどを洗 い流すと ねばねば とした物質(グルテン)が残 ることを発見した.これが,グルテン研究の始まり であると同時に科学者がタンパク質を対象とした最 初の研究である(今までに,グルテンに関して20,000 件以上の学術論文が発表されている).グルテンは2 種類の主要タンパク質グルテニンとグリアジンから 構成され,コムギ粉に水を加えて捏ねる過程で,こ れらのタンパク質が主に非共有的な分子間相互作用 で凝集した複合体である.1819年,G. Taddeiは ,グ ルテンをアルコールに溶ける画分と溶けない画分に 分け,アルコールに溶けるタンパク質をグリアジン,
溶けない画分をZymon(今でいうグルテニン)と命 名した.1908年には,T. B. Osborneが溶媒への溶解 性で種子タンパク質を分類し,グリアジンで代表さ れる70 〜90%エタノールに溶解し水にはほとんど溶 解しないタンパク質をプロラミンと命名した.その 後,グリアジンを分離解析する研究が行われ,グリ アジンは単一のタンパク質ではなく似通った性質を もつ複数のタンパク質から構成されていることが明 らかとなり,電気泳動での移動挙動から
α
-,β
-,γ
-,ω
-グリアジンの4グループに分類された.近年,グリ アジンはコムギゲノム上で多数の遺伝子にコードさ れていることが明らかにされ(6倍体のパンコムギの 場合,α
-グリアジン遺伝子は約150個,γ
-グリアジン 遺伝子は15 〜 40個,ω
-グリアジン遺伝子は15 〜 18 個のクラスター遺伝子ファミリーによってコードさ れている),グリアジン遺伝子の解析により推定され たアミノ酸配列から,α
-グリアジンとβ
-グリアジンは 遺伝子的には同じグループに属することが明らかと なった.したがって,現在はグリアジンはα
-,γ
-,ω
- グリアジンの3つのグループに分類されている.グリ アジンは分子間で水素結合などを形成して非共有的 に会合することで強い粘性をもち,生地に伸展性を 与えている.コ ラ ム
液や凝集体など非晶状態のままでの測定が可能であり,
特に生体分子などの場合は,実際の生体中により近い条 件での挙動が観測できるという大きな特長を有してい る.また,SANSについては,軽水素と重水素に対する 中性子の散乱特性が異なることを利用して,重水素化標 識を試料に施すことで複合体中の部分構造情報を得るこ とができるという利点も存在する.以上のような特長 は,不透明かつ濃厚な分子の凝集体が階層的な構造を形 成している食品の構造解析に大きく寄与するものと考え られる.
小角散乱法の概要
小角散乱法の概要をSAXSの場合を例にとって説明す
る(1〜4)
.図
1に示すようにX線が測定試料に入射すると,物質を構成する原子中の電子によって散乱される.
平行度の高い入射ビームを用いて10 以下の小さい角度 における散乱強度を解析し,物質中の散乱体の構造評価 を行うのが小角散乱法である.小角散乱法では,図
2
に 示すように散乱X線と入射X線の波数ベクトル s, iの 差で表される散乱ベクトル=
s− iを用い,散乱強度 は の関数( )として考える.散乱角を2θ
, X線の波長 をλ
としたとき,散乱ベクトルの絶対値| |= は以下の ように表される.=4 sin
q
π θ
λ
(1)系全体として異方性がない場合は,2次元に広がった散 乱パターンに対して入射ビームの光軸を中心とし円環平 均を行い, に対する一次元的な散乱関数( )として 議論することが多い.
物質の構造と散乱関数は次の式で関係づけられる.
=
2⋅ ( ) | ( )| ( )
I q F q S q
(2)ここで,( )は形状因子と呼ばれ,各々の散乱体のサ イズや形状に依存する.一方,( )は構造因子と呼ば れ,散乱体間の距離やその分布に依存している.形状因 子は,散乱体内部の位置 における電子密度分布
ρ
( ) を用いて以下の式で表すことができる.=
⋅( ) ( )exp( )d
Fq V
ρ
r iq r r (3)散乱体が単分散でかつ散乱体間の相互干渉が無視できる 希薄溶液系においては,式(2)の構造因子 ( )は定数 とみなすことができ,( )〜|( )|2として構わない.こ のとき,式(3)より,小角領域での散乱関数を以下の Guinier近似式によって表すことができる.
= 0 − 2 2g
( ) exp( 3)
I q I R q (4)
0は
=0に外挿したときの散乱強度,
gは散乱体のサ イズの指標となる慣性半径(正確には散乱能分布の2次 モーメント)であり, ≤1/ gの領域(=小角領域)に おいてこの近似が成立する.この式より, 2に対してlnをプロット(Guinierプロット)すると,近似が成立す る場合直線領域が現れ,その直線の傾きから gを求め ることが可能となる.つまり,Guinier近似を用いると,
(ほぼ)単分散の散乱体が孤立した粒子とみなせる場合,
「何も構造に対する情報がなくても」算出された慣性半 径によって散乱体のサイズを見積もることが可能とな る.散乱体のサイズが大きくなるにつれて散乱は小角領 域に集中してくる(図
3
).つまり,小さな散乱体と大
きな散乱体が混在するときは,高角まで緩やかに広がる 小さな散乱体からの散乱に,大きな散乱体からの散乱が 小角領域での立ち上がりとして加わった散乱関数が観測 される.よって,高角領域と小角領域に対応する2つの Guinier近似式で散乱関数を解析する(=多成分Guinier 近似)と両者のサイズや分布比を導くこともできる.一方,散乱体の形状については,Guinierプロットの 適用される領域より高角の中間的な 領域において散乱 関数に違いが現れる(図3)
.散乱体が棒状の場合は,
図1■X線小角散乱の測定
図2■散乱体中でのX線の散乱
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∝
−1−
2 2( ) exp( 1 6) :
I q q
D q
(D
棒の断面の直径) (5)散乱体が円盤状の場合は,
∝
−2−
2 2( ) exp( 1 2) :
I q q
L q
( 円盤の厚さ)L
(6) の関係が成り立つ.そこで,散乱体が棒状の場合はln( )対 2
,円盤状の場合はln
2( )対 2のいわゆる 断面Guinierプロットを行うことで,その直線領域の傾 きより棒の断面の直径や円盤の厚さを算出することがで きる.これらの値と慣性半径 gの間には g2=
2/8+2/12の関係があるので,Guinierプロットから gを求 め,断面Guinierプロットより一方の値 (または ) を求めれば,他方の値 (または )を求めることがで きる.
さらに
≫1/
gとなるhigh- 領域においては,散乱体 と周囲の媒体の界面構造に関する情報が反映され,平滑 な界面の場合はPorod則と呼ばれる −4に比例した散乱 が得られる.このように散乱関数に基づく1本の曲線か ら,散乱体全体の大きさから,散乱体の形状,界面構造 まで,さまざまな構造情報が得られるのが小角散乱法の 特長である.一方,希薄とみなせない系(=散乱体の占有体積が系 全体の1/8を超えるような場合)においては構造因子が 無視できなくなり,さらに濃厚な系では散乱関数に粒子 間干渉効果としてピークが現れる(図
4
).ピーク位置
peakと粒子間距離 の間には, peak≈2
π
/ の関係が成り 立つことから,ピーク位置から干渉する粒子間の距離に 関する情報を得ることができる.小角散乱測定にはX線や中性子を取り出すための線 源が不可欠である.X線に関しては実験室内で利用可能 な小型の線源があり,それを用いた小型のSAXS装置が
市販されている.さらに,より質の高い実験データを得 るために放射光の高輝度線源を利用したSAXSビームラ インが大型放射光施設(SPring-8やKEK放射光施設な ど)に設置されている.一方,中性子源は実験室内で利 用可能な小型のものは存在しないため,研究用原子炉
(日本原子力研究開発機構や京都大学原子炉実験所など)
や加速器パルス中性子源(J-PARC物質・生命科学実験 施設など)に設置された小角散乱装置を利用して実験が 行われている(コラム1参照)
.
小角散乱法によるグリアジンの構造解析 1. 純水に溶けるグリアジンの新規抽出法
パンやうどん,パスタに共通するコムギ粉に水を加え て捏ねた生地の特徴的な物性(粘弾性)は主にグルテン に起因している.グルテンは主要タンパク質グリアジン とグルテニンからなるタンパク質の凝集体であるが,グ ルテン中のこれらのタンパク質の凝集体構造や分子間相 互作用の実態はよくわかっていない.グリアジンは
α
-,γ
-,ω
-グリアジンの3つのグループに分類される分子量 30,000〜60,000のモノマーであり,その発見以来,中性 の水あるいは塩溶液に不溶性であるためこれらの溶媒で は抽出できない高濃度のアルコール水に溶解するプロラ ミンであるとされてきた(5, 6)(コラム2参照).一方,グ
ルテニンは高分子量サブユニットと低分子量サブユニッ トから構成され,これらが分子間ジスルフィド結合によ り重合化した巨大ポリマーであり,水にもアルコール水 にも不溶性であるが,分子間ジスルフィド結合を還元切 断してモノマー化するとアルコール水に可溶性となるプ ロラミンである.1990年代に,酢酸溶液やアルコール 水溶液など,実際の食品中の環境とは異なる条件下で,グリアジンや還元処理グルテニンモノマーのSAXS測定 が行われた.その結果,グルテニンは0.1 M酢酸中では,
径6.3 nm,長さ78.6 nmの,50%プロパノール中では径 図4■高濃度領域で見られる粒子間干渉効果
図3■散乱関数に現れるサイズや形状に関する情報
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6〜8 nm,長さ60〜70 nmの棒状の形態を取っているこ と,一方,グリアジンは70%エタノールあるいは50%
プロパノール中で径3.2 nm,長さ15〜20 nmの細長い回 転楕円体になっていることが明らかにされた(7, 8)
.これ
らの報告は,コムギタンパク質のナノ構造解析にSAXS を利用した先駆的な研究成果として重要ではあるが,水 を溶媒とする高濃度の凝集体として存在する食品中での 実態とは異なる.また,過去のほとんどの研究でグリア ジンの抽出あるいはグルテニンの分取に高濃度のエタ ノール水あるいはプロパノール水が用いられてきたが,このような処理は通常タンパク質の変性を引き起こすた め,研究に用いられてきたグリアジンやグルテニンがコ ムギ粉や生地の中に存在していたときと同じ構造を維持 しているのかという懸念を拭えなかった.しかし,最 近,筆者らは塩化ナトリウムと純水のみでグリアジンを 効率的に抽出する新規な方法を開発し,これらの懸念を 払拭したグリアジン標品を用いて研究を進めることが可 能となった.新しい方法開発の契機は,パン生地を調製 する際に一般的に用いられている濃度の0.5 M塩化ナト リウム水溶液を用いてコムギ粉を捏ねると,生地中でグ リアジンが純水に溶ける状態に変化することを見いだし たことである(9)
.この現象を利用して,塩化ナトリウム
添加生地を純水で繰り返しモミ洗いすることで,70%エ タノールを用いて抽出したときとほぼ同じ収量でグリア ジンを抽出することができた(10).一方,純水ではなく
塩化ナトリウム水溶液で生地を洗浄した場合にはグリア ジンは溶出しない.また,塩化ナトリウムを添加しない 生地からはグリアジンは全く溶出しないが,一度塩化ナ トリウム水溶液中で生地をモミ洗いすればその後の純水 洗浄でグリアジンが溶出する.このようなグリアジンを 純水に溶出させる効果(溶出化効果)は塩化ナトリウム に限らない.さまざまな塩を調べてみると,陰イオンが ホフマイスター系列の逆順,すなわちカオトロピックイ オンである塩ほど効果が高く,陽イオンも陰イオンほど ではないがカオトロピックなイオンである塩ほど,グリ アジンの溶出化効果が高い傾向がある.溶出したグリア ジンの分子種組成は70%エタノールで抽出したグリア ジンとほとんど差がなく(図5
), α
-,γ
-,ω
-グリアジン のすべてが純水に溶けだしていることをウェスタンブ ロット分析により確認している.希薄なグリアジン水溶 液について超遠心分析により分子質量を測定すると,30,000〜35,000の平均値が得られ,グリアジンはモノ マーとして存在していることが明らかとなっている.こ のような塩化ナトリウムなどの塩による溶出化のメカニ ズムはいまだ不明であるが,抗グリアジン抗体を用いた
免疫電子顕微鏡法でグルテンを観察すると,塩化ナトリ ウムを添加していないグルテン内ではグリアジンは数百 ナノメートルの塊として分布しているが,塩化ナトリウ ムの存在によって均一に分散することから,グリアジン およびグルテニンの凝集体構造が劇的に変化していると 推定される.したがって,これらのタンパク質のどちら か,あるいは両者の分子間相互作用とそれに伴う凝集体 構造の変化がグリアジンの溶出化をもたらしていると考 えられる.本法により抽出したグリアジンは,脱気によ り溶存二酸化炭素を除いたpH 7の純水にも約10%まで 溶解する.すなわち,グリアジンはアルコール水だけで なく純水にも高濃度で溶解するタンパク質なのである.
しかし,イオン強度の僅かな上昇(たとえば10 mM塩 化ナトリウム)で凝集し不溶化するため,タンパク質研 究に通常用いられるような緩衝液を用いてコムギ粉から 抽出したり,溶解させたりすることは不可能である.
2. SAXSによるグリアジンの構造解析
純水を用いたグリアジン抽出法の発見というブレーク スルーにより,水溶液中のグリアジン分子やその凝集体 についての構造解析が可能となった.そこで,筆者ら は,純水中に抽出されたグリアジンの水溶液および水和 凝集体について,0.025〜70%という広い濃度範囲にわ たってSAXS測定を行い,濃度変化に伴うナノスケール における凝集構造の変化を追跡した(10)(図
6
).
図6aに濃度0.025〜10%の水溶液中での測定結果を示 す.粒子間干渉ピークの見られない0.5%以下の希薄濃度 についてGuinier解析を試みたが,low- 領域に存在する 立ち上がり成分のため,通常のGuinier近似は成立しな 図5■純水で抽出したグリアジンの性質
(c) Reprinted with permission from ref. (10). Copyright © 2015 American Chemical Society.
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かった.そこで,別途行った超遠心分析の結果を考慮し,
系中に複数のサイズ分布をもつ散乱体が存在するものと し て,( )
=
1 exp(− g12 2/3)+
2 exp(− g222/3)
+
3 exp(− g32 2/3) の 式 に よ る 多 成 分Guinier解 析 を 行ったところ,この濃度域において大部分のグリアジン 分子が孤立したモノマーになっており,一部がダイマー やオリゴマーとして存在していると考えることで散乱関 数をうまく説明できることがわかった(図
7
a).また,
式(5)に基づく断面Guinier解析を行ったところ近似が 成立し,グリアジン分子が長さ11〜19 nm程度の棒状で あることが判明した.一方,濃度1〜10%の高濃度水溶 液においては,0.1〜0.2 nm−1付近に粒子間干渉に伴う ピークが出現しており,水溶液中において形成されたグ リアジン凝集ドメインが近接し干渉を生じることがわ かった(図7b)
.
これに対し,グリアジンがペースト状態の水和凝集体 となる濃度15%以上での結果を図6bに示す.ペースト 状態である15%の散乱関数は,溶液状態である10%の 散乱関数と大きく相違しない.このことは,水溶液と水 和凝集体とで物性が異なるにもかかわらず,ナノ構造が ほぼ同等であることを示しており興味深い.さらに濃度 が上昇するとlow- 領域での立ち上がりが成長するとと もに,0.13 nm−1付近の粒子間干渉ピークが消失し0.3〜
1.0 nm−1のブロードなピークが見られるようになる.
low- 領域の立ち上がりは濃度上昇とともにグリアジン の凝集ドメインが融合し大きな凝集体へと遷移していく ことを示している.また,ブロードなピークの存在か ら,グリアジン凝集体内部に凝集状態の粗密による密度 揺らぎが存在することが明らかとなった(図7c)
.この
ように,小角散乱法は,希薄水溶液中の孤立した分子か ら流動性が消失した濃厚な凝集体に至るまでの広範な濃 度変化に基づく分子自体の形状やサイズから会合過程や凝集構造といった階層的な構造の解明を行うことが可能 あり食品構成分子の構造解明の手法として有力な手法で あることが実証された.
コムギ粉生地への食塩の添加は,生地の抗張力と伸展 性を増加させる効果がありパンやうどんの製造に欠かせ ない.このうち伸展性は主にグリアジンから発する物性 であり(11)
,食塩による伸展性の変化はグリアジンに起
因すると考えられる.筆者らはグリアジン凝集体の微細 構造に対するグリアジン濃度や食塩添加量が及ぼす影響 をSAXSおよびUSAXSにより解析した.その結果,食 塩無添加で観察されたグリアジンの数ナノメートルのド メインが食塩の添加により寄り集まりその濃度に依存し て,2〜1,000 nmに対応する広い空間スケールにわたっ て,階層的な構造変化が誘起されていることを明らかに している(論文投稿準備中).
3. SANSによるグルテンの構造解析
本稿ではSAXSによるコムギタンパク質の構造解析の 研究について紹介したが,最後にSANSによるグルテン の構造解析の展開について簡単に述べたい.SANSで用 いられる中性子は散乱能が原子核の種類によって異な り,特に同位体である軽水素H(散乱長−3.7 fm)と重 水素D(散乱長+6.7 fm)で大きく異なることから,H をDに置換することで化学的性質を保ちつつ分子の中 性子散乱能を大きく変えることができる.溶媒でも同様 でありH溶媒とD溶媒の混合比を適切に調整すること で溶媒の散乱能を自由に制御することができる.溶液中 の溶質分子の散乱強度は溶媒と溶質の散乱能の差(コン トラスト)の2乗で与えられるので,溶媒散乱能を調整 して2成分系の片方の成分分子の散乱能と一致させた場 合,この成分分子による散乱は消え,他方の成分分子の みの散乱が観測される.コントラスト変調法と呼ばれる この手法を用いると,グリアジンとグルテニンの複合体 によって形成されるグルテンについて,一方のタンパク 図6■濃度の異なるグリアジン水溶液(a)または水和凝集体
(b)のSAXS測定結果
Reprinted with permission from ref. (10). Copyright (2015)
American Chemical Society.
図7■濃度変化に伴うグリアジン凝集状態の変化の模式図
(a)希薄水溶液中において孤立して存在するグリアジンモノマー.
一部は会合してダイマーまたはオリゴマーを形成する.(b)凝集 したグリアジンがドメインを形成し,相互に干渉する距離に近接 する.(c)内部に粗密を有する大きな凝集構造を形成する.
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質を重水素化しSANS測定を行うことによって,グルテ ンを形成した状態におけるグリアジンのみ(またはグル テニンのみ)の構造を評価するということも可能とな る.現在,グルテンのSANS測定に向けて,重水素化試 料の調製を進めている.
おわりに
本稿では,グリアジンの純水中への抽出法と,それに よって得られたグリアジンの水溶液および水和凝集体に 対する小角散乱法による構造解析の結果について簡単に 紹介した.現在,食塩添加や温度変化などによる構造変 化について,さらに詳細な小角散乱法による構造解析を 進めている.多様な状態の物質に対して構造解析を行う ことが可能な小角散乱法の特長を活かして,今後,コム ギタンパク質以外の食品材料に対しても適用を進め,小 角散乱法が食品構造解析の標準的な手法として確立され るよう研究の進展を図りたい.
文献
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11) B. S. Khatkar, S. Barak & D. Mudgil:
, 53, 38 (2013).
プロフィール
佐藤 信浩(Nobuhiro SATO)
<略歴>1993年京都大学工学部高分子化 学科卒業/1998年同大学工学研究科高分 子化学専攻博士課程修了/同年同大学原子 炉実験所助手(後助教),現在に至る<研 究テーマと抱負>放射線高分子機能材料や 食品のナノ構造解析<趣味>未知の道を知 る<所 属 研 究 室 ホ ー ム ペ ー ジ>http://
www.rri.kyoto-u.ac.jp/PSlab/
杉山 正明(Masaaki SUGIYAMA)
<略歴>1993年京都大学大学院理学研究 科博士後期課程単位取得退学/同年九州大 学理学部助手/1998年文部省在外特別研 究員(ミネソタ大学化学工学科)/2004年 京都大学原子炉実験所助教授/2011年同 教授,現在に至る<研究テーマと抱負>ナ ノ構造物理学<趣味>ネコとバラ<所属研 究室ホームページ>http://www.rri.kyoto- u.ac.jp/PSlab/
裏出 令子(Reiko URADE)
<略歴>1977年大阪府立大学農学研究科 農芸化学専攻修士課程修了/1978年京都 大 学 食 糧 科 学 研 究 所 文 部 技 官/1988年 Roche Institute of Molecular Biologyポス ドク研究員/1989年同助手/1994年同講 師/1995年同助教授/2001年京都大学大 学院農学研究科助教授(後准教授)/2010 年京都大学大学院農学研究科教授,現在に 至る<研究テーマと抱負>ナノ構造と食品 物性との関係・食料種子貯蔵タンパク質の 立体構造形成の仕組み<趣味>読書,音楽 鑑 賞(特 に バ ロ ッ ク 音 楽 と1960後 半〜
1970年代のロック)<所属研究室ホーム ページ>http://www.hinshitsusekkei.kais.
kyoto-u.ac.jp/
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