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関係性のパースペクティブの認識論上の前提について

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アドミニストレーション 第26巻第2(2020) ISSN 2187-378X

関係性のパースペクティブの認識論上の前提について

――組織研究への適用のための予備的考察――

黄 在南

目 次

はじめに.

1.方法論的個人主義の認識論上の前提

(1)認識論的客観主義

(2)認識論的主観主義 2.主客二元論の問題点 3.社会的認識論

(1)イデオロギー批判

(2)文芸論的・修辞学的批判

(3)社会的批判

(4)私的な知識の不可能性

4.関係性のパースペクティブの認識論上の前提

(1)「知ること」とは間断のない関係づけのプロセスである

(2)関係づけは間断のない意味生成の構成的なプロセスであり、多元談話の中の言語を通じ て行われる

(3)意味は開かれているゆえ、究極的な根拠や真実はない

(4)意味は社会文化的制約を受ける

(5)自己、他人、関係の物語のテーマは社会的に参照・構成される 終わりに.

はじめに.

現実(realities)は社会的に構成されるのであり知識はある意味で関係的である、という見解 には長い歴史がある。すなわち、哲学、社会学、心理学の分野において程度の差はあるにせよ、

長い間議論されてきたし、とりわけ象徴的相互作用論、認知社会学、現象学的社会学、システム

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理論などのような理論的伝統においてはほぼ間違いなく、中心的な地位を占めている(H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking2013,p.1)。

ところが経営や組織の分野においては、これらの理論的背景に共通する関係性の視点に基づい た議論は比較的に少ない。確かに、経営や組織などを研究対象とするより実践的な意味合いの強 い示唆が要求される学問分野は、その学問上の性格から、いわゆる科学的な示唆を得ることがで きないことを理由に、あるパースペクティブが敬遠されることはある程度理解できる。もちろん 関係性にかかわる理論領域の一部も組織理論のパラダイムとして位置づけられている場合もある が(バーレル/モーガン 1986)、経営や組織の分野を依然として支配している主要なパースペク ティブは実証主義や方法論的個人主義などのようなメタ理論である。

実際、関係性という言葉の意味は理論的伝統や現実的関心によって様々であるが、本稿は、さ しあたり関係性のパースペクティブの認識論上の前提について整理・考察し、今後経営や組織を 対象に議論を行うための準備作業として位置づけられる。

関係性のアプローチにとって最も重要な課題は、認識論的なものである。ここでいう認識論的 なものとは、特定の問いを立てるプロセス、知るプロセス、そして関連する観察結果を正当化す るプロセスに関する仮定のことをさしているが、これらのプロセスを通して現実あるいは真とし て経験されるものは、当然ながら、知るプロセスに関する暗黙的な前提の影響を受けることにな る(H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking2013,p.1)。したがって、関係性のアプローチで経 営や組織に接近するためには、関係性のパースペクティブの認識論上の前提に対する整理と考察 は欠かせない。

認識論の諸原理(epistemological principles)についてはすでに歴史上、多くの議論がなさ れてきたが、本稿においてそれらの全貌を把握することは筆者の能力をはるかに超えるものであ る。ここでは、本稿の趣旨に照らし合わせ、代表的な二つのパースペクティブを簡単に整理して 考察する。一つは、認識論的仮定としてこれまで重視されてきた方法論的個人主義のパースペク ティブであり、もう一つはそれに対峙する関係性のパースペクティブである。このような手法を とる理由は、本稿の研究課題でもある関係性のパースペクティブの認識論的根幹を理解する最も いい方法は、それに対峙する方法論的個人主義の認識論上の前提や主な関心事と比較してみるこ とだからである。さらに、本稿以降の課題として、関係性のパースペクティブを取り入れた場合、

経営や組織の現実に対する理解がどのように変わってくるのかを探る予定である。

1. 方法論的個人主義の認識論上の前提

(1) 認識論的客観主義

認識論的客観主義において最も重要な認識論上の前提は以下の通りである。まずは、認識する 個人(knowing individual)に対する前提である。認識する個人としての「考える私」の存在は 絶対に確実な実在(entity)である。これはデカルト哲学の核となる構成概念であるが、「考える 私」は「心」としての私であり、身体とは明確に区別されなくてはならない(米盛 2010、213 頁)。 身体は物体であり、身体を含めたあらゆる物体の存在は疑うことができるが、「疑う私」「考える 私」すなわち心が存在することは決して疑いえない(同書、213 頁)。要するに、個人に予め与え られている認識する心は、世界について認識する場所となる。

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言い換えると、心を私的な内的状態として、即ち認識行為が生ずる「内面の鏡」としてとらえ るデカルトの教説は、言ってみれば、歴史的変容を被らない非歴史的あるいは超歴史的な認識の 基盤を見いだそうとする試みである(野家 2003、300 頁)。なお、正確な表象としての知識、対応 説的真理観、主観と客観との峻別等々の伝統的概念は、すべてこの「内面の鏡」となる「自然の 鏡としての心」(リチャード・ローティ 2009)という比喩に端を発している(野家 2003、301 頁)。

そして、当然ながら、個人は、認識する場所となる実在の特性を映す心の中身や知識にアクセス できると同時に、認識された実在の特性に基づき,一つの実在と他の実在とを区別することがで きるとされる(H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking2013,p.2)。

第二の前提は、第一の前提から直接に導かれるが、特定の関心や目的を内包している個人の属 性(individual possessions)こそ、内的自然(internal nature)と外的自然(external nature)

を設計しコントロールする究極の源であるということである(ibid.,p.2)。言い換えると、認識 する個人は、個人的特性(personal properties)に基づき、内的秩序と外的秩序を組み立て制御 すると考えられているのである。したがって、内的秩序と外的秩序を意味づけるのは一連の個人 的な属性である。私たちは、認識された内的世界と外的世界の構成要素の秩序立てられた諸関係 から、自分と自分を取り巻く世界を理解することができる。したがって、この場合の主要な課題 は、社会的秩序を含めた秩序というものをいかに創造し制御するかである(ibid.,pp.2-3)。 方法論的個人主義は、客観的な真(an objective truth)を前提とする支配的な認識論におい て威力を発揮する。心と自然を明確に分離するデカルトの教説においては、心から切り離された 実体としての内的実在と外的実在を、認識する個人は認識する必要性が生じる(ibid.,p.3)。認 識論的客観主義は、認識によってもたらされる心の内容と内的・外的自然は一致するという認識 論的仮定に立っている。心の内容と認識される実在の特性(the properties of the entity)が一 致する限り、その知識は客観的であるとみなされる(ibid.,p.3)。

このような認識論的仮定を前提とすれば、世界の諸関係は主客の関係から理解されることにな る。人間を「認識する個人」として理解すると、人間は主体としてみなされる反面、自然は客体 として位置づけられる。その結果、後者は受動的なものとして見なされ、主体によってのみ認識 され形づくられる存在となる(ibid.,p.3)。要するに、主体としての人間は客体との関係におい て常に能動的な関係に立つことになる。例えば、経営側からすれば、組織における従業員は外的 自然として動機づけられる対象として、またその従業員の内的状態は内的自然として心から影響 を受ける対象として、みなされることになる (ibid.,p.3)。社会的関係に対しても主客の関係か ら理解しようとすると、主体は社会的関係に働きかけて知識を獲得すると共に、他の人間やグル ープに影響を与えることができることになるが、その場合の社会的関係は、関係の中にいる主体 としてみなされる実体の観点からしか理解できないのである(ibid.,p.3)。

認識論的客観主義の仮定を前提にすると、関係は相互作用する個人や組織の特性と行動から説 明され理解されることになる。その結果、個人や組織の特性と行動に影響を与える関係のプロセ スそれ自体はほとんど理論化されず残されてしまう。実際、関係のプロセスについて何らかの説 明を与えようとしても、相互作用する実在が持っている特性間の関係から影響が生まれるという 曖昧な説明しかできないのである(ibid.,pp.3-4)。

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(2)認識論的主観主義

社会的関係を、個々人の主観性から出発して考えるのが主観主義の立場である。要するに、社 会的関係を客観的、あるいは機械論的に把握するのではなく、それに対する個々人の意味づけに 焦点をあて、個々の主観の反省作用や意味付与の作用から社会的行為や社会的関係のあり方を把 握する立場である(西原 1991、227 頁)。

この場合、社会的現実は、それを構成する人々(行為者)の主観的に思念された意味の理解、

すなわち行為者の動機付け的な意味連関の理解を通じて把握されるため、行為者の主観性の解明 が重視される(下田 1984、58 頁)。個々の主観は他のものに還元されない独自の性格を持ってい るため、それを考慮に入れなければ人間の社会生活の十全な把握ができないと考える(西原 1991、

227 頁)。

ところで主観主義は、個々の主観の独自性を主張する立場である以上、より根本的な二つの前 提からなる立場であると考えられる(同書、227—228 頁)。第一の前提は、主観と対象との明確な 分離という仮定である。その仮定の下に、対象とは独立に、その対象を把握するものとしての主 観が立てられるのである。それによって、対象には還元されない個々の主観の独自性を主張する ことも可能となる。第二の仮定は、諸主観の構造の一致あるいは同一性の仮定である。この仮定 は、ある主観だけでなく個々のどの主観も、他のものに還元されない独自の性格をもつという意 味において諸主観の構造が一致するという仮定である。その仮定がなければ、我々は各個に独立 した主観についていかなる言明もすることができない。

ところが主観主義が成り立つための二つの根本的な仮定は、これまでみてきた客観主義におい ても含まれているものである。すなわち、客観主義においても、対象とは独立にその対象を把握 するものとしての主観が立てられているし、主観による対象の把握とは独立に、対象そのものの 存在が立てられている。また、第二の仮定、主観の一致という仮定をも含んでいる(同書、233 頁)。 実は、このことは客観主義が論理実証主義的方法を採用していることと関係している。すなわち、

科学的な(あるいは論理実証主義的な)方法を用いることで観察者は客観的世界に近似値的に接 近できると考えると共に、合理的な人間として観察者の構造は一致すると仮定する(同書、234−

235 頁)。したがって、厳密にいえば、認識論的主観主義も認識論的客観主義と同様、主客二元論 の土壌の上に立っていると言っても過言ではない。

ところが主観主義のもっとも魅力的な形式の一つとなる解釈主義は、客観主義に対して鋭い批 判を提供する。解釈主義者の指摘によると、客観的であるためには、言語が指定され、科学によ って究められるべき心から独立した対象群がなければならない(ヴァレラ他 2006、326 頁)。しか し、果たしてそのような対象が存在すると言えるだろうか。

パトナム(2005)によれば、言語が言及する、心から独立した特権的な対象群が存在するとい う考え方にすがる限り、意味を理解できないという。そうした上、こう述べている。「対象は、概 念図式と独立には存在しない。何らかの記述図式を導入するとき、われわれは世界を諸対象へと 切り分けるのである。対象と記号は、同様に記述図式に内在的であるために、何が何に一致する かを述べることが可能となるのである」(同書、82 頁)。それだけでなく、パトナムは本来的に(す なわち、非依存的に)存在する特性という概念、つまり客観主義の根底にある概念そのものにも 反論している。すなわち、客観主義者の世界観に関わる問題の病根が、本来的な特性、つまり言

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語や心に拠ってなされる貢献とは別のそのものの中に存在するという概念にある、と主張する(ヴ ァレラ他 2006、328 頁)。ここでいう、言語や心になされる貢献とは、まさに生活世界のほとんど すべての特徴に現われる心の「投影」を意味する。ところがこのスタンスが皮肉なのは、生の世 界を主観的な表象の結果とすることにより、観念論と見分けがつかなくなることである(同書、

328 頁)。

しかしこの徹底的な客観主義批判にもかかわらず、議論は別の方向へは進まない。心から独立 した対象が批判されても、対象から独立した心は批判されないのである。要するに、心の独立性 よりも対象の独立性を攻める方が心理学的に易しいのは明らかだからである(同書、329 頁)。こ れまで通り、方法論的個人主義の認識論上の前提において表象の概念に結びついた客観主義と主 観主義との間に動揺があることを見てきた。このように表象は「回復」(客観主義)か「投影」(主 観主義)のいずれか一方として解釈されうる。客観主義と主観主義との間のこの動揺は、「意識の 場」に基づいているどんな哲学的スタンスにも生じるものである(同書、339 頁)。

主体はその表象の外へ踏み出して、それが本当にその中にあるかのように、所与の世界をみる ことはできない(同書、339 頁)。それゆえに、基本的にデカルト主義的な姿勢をとれば、客観性 は主体によって表象されるままのものになる(同書、339 頁)。客観性の概念がこうして問題にな るのなら、主観性の概念も然りである。人は、自分の理解の地平にとらわれていながら、いかに して自分の先入観に気づくことができるというのか(K.J.ガーゲン 2010、345 頁)。そもそも間主 観性に基づいた解釈の可能性を保証する試みには、原理的困難がある(同書、345 頁)。要するに、

解釈主義の行き詰まりも明らかである。この苦境から、完全な主観/客観という両極性が、移ろ いやすく、不安定であることが理解できる。

2. 主客二元論の問題点

これまで検討してきた認識論的客観主義と認識論的主観主義に共通にみえる主客二元論に基づ く認知主義的な説明では、いずれも認識主体の内的過程が強調されるあまり、現実世界の存在に 関するいくつかの重大な問題が生じる。これらの問題は、認識論的客観主義と認識論的主観主義 の前提からすれば、必然的に起こる問題であろう。

客観主義の前提からすれば、そこにある世界は所与の特性であり、それは認知システムに投影 されるイメージに先たって存在するのだから、認知システムの課題は世界を近似的に回復するこ とになる。それに対して主観主義の前提からすれば、認知システムはそれ自身の世界を投射する。

故にこの世界の見かけの実在性は、この内的な法則の反映にすぎないこととなる(ヴァレラ他 2006、244 頁)。以上のことから生じる問題を、K.J.ガーゲン(2010)は以下の三点にまとめる(同 書、161−171 頁)。

第一に、世界存在の不可能性の問題である。主客二元論の基本的主張では、関係(行為)を決 定するのは、世界そのものではなく世界に対する主体の認知(回復か投影)である。すなわち、

世界の出来事は、認知する個人のカテゴリー・システムを通してのみ、存在を与えられる。別の 言い方をすれば、世界は、認知者個人の主観の投影ないし副産物へと還元されてしまう。したが って、認知主義的な主張を拡張すると、現実世界、科学、さらには知識と呼べるようなものもあ り得ないことになる。すなわち、認識論的仮定として主客二元論を維持する限り、必然的に唯我

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論に陥るしかない(同書、161−162 頁)。

第二に、認知の起源の不可知性の問題である。殆どの認知主義者は、唯我論に陥らないために、

理論的に否定したはずの現実世界の存在を認めた上、現実世界と認知世界の関係を、経験的に探 求すべき問題として扱っている。この文脈においては、重要なリサーチクエスチョンは、心的表 象をいかに説明するか、ということになる。すなわち、認知内容の起源は、どのように説明でき るのかという問題で、これらの問題に答えなければ、認知は、環境から孤立したままだし、適応 的であると主張することもできない(同書、162 頁)。

K.J.ガーゲン(2010)は認知の起源の問題に対する、三つの主な解決――強化理論、認知地図 理論、生得説――を、その主たる欠点とともに、批判的に考察している。概念学習のプロセスを 仮説検定のメタファーで捉える強化理論は、認知主義が前提するように、人々が反応するのは認 知された世界であって世界そのものではないとすれば、強化(仮説検証)のプロセスが説明不能 になるという問題にぶつかるし、現実世界の出来事に触れることが、認知地図、すなわち、環境 を的確に反映した心的表象を生み出すとする認知地図理論は、認知地図を作る前段階として、個 人はいかにして何らかの特徴や物体や事象の連関などを認識できるのかという問題にぶつかる。

なおこうした特徴が認識されるためには、それらを認知し識別するようなカテゴリー・システム が前もって必要であるが、そのカテゴリー・システムはいかなる起源をもつのかという問題が残 されてしまう。このような困難なジレンマを克服しようとする試みとして、カテゴリー発達につ いての生得説がある。生得説は、人間の基本的な識別能力は、遺伝によって決まっていると主張 するが、常に変化し続ける莫大な語彙を、生得説で説明することは難しい(同書、163−166 頁)。 概念の起源をめぐるこうしたジレンマに直面して、現代の研究者は両者を組み合わせた形での 理論化を試みる(同書、167 頁)。すなわち、世界の理解は、環境からの入力情報と、すでに形成 されている心的スキーマの活発な情報処理の両者に依存する、という考えである(同書、167 頁)。 しかしすでに形成されている心的スキーマがどのように発達したのかは、未解決のままである。

第三に、行為の不可能性の問題である。簡単にいうと、認知から行動を生み出すメカニズムが 明らかではないという問題である。心はいかにして事物や身体の働きに影響を与えることができ るのか。すなわち、心の領域に属する概念やスキーマなどの抽象的なものを用いて、どのように して具体的な特定の行動を起こすのかという問題であるが、K.J.ガーゲン(2010)は抽象的・概 念的思考から具体的行為を引き起こす余地は全くないと主張する(同書、167-169 頁)。

そもそも認知主義の考えでは、知的活動は世界をあるやり方として表象する能力を前提とし、

行為者はその状況に関連した特徴を表象することによって行動していると仮定して、認知行動を 説明する。このような説明がうまく機能するためには、表象的な状態が物理的にいかに可能であ るかだけではなく、それがどうやって行動をもたらすのかを示さなければならない(ヴァレラ他 2006、71 頁)。

この問題は、認知の起源という難問に関わる問題でもある。認知の起源の不可知性の問題につ いて触れたとき、われわれは、現実世界の対象から表象カテゴリーを導く方法がないことを見て きた。現実世界の事象からは、いかなる概念化も導かれないという話だ(K.J.ガーゲン 2010、168 頁)。現代の認知科学をするとく批判したヴァレラは、認知を記号的表象の計算として解釈し、環 境特性に選択的に対応する情報処理装置として脳を捉える認知主義では、人間の心、意識、経験

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という彼のいう「世界」が出現する仕組みを十分解明し得ないと見ている(ヴァレラ他 2006、358 頁)。代わりに、世界の存在体が演じる様々な行為の歴史に基づいて世界と心を行為から産出する ことを認知として解釈することを提唱し(同書、359 頁)、産出過程において常に行われる主体と 客体との相互交流を重視する。

3.社会的認識論

これまで見てきたように、二元論の認識論によって提起された重大問題は、心がいかにして現 実世界の本質を映すようになるのか、ということであった。このことは、言い換えると、現実世 界の絶対的な根拠や基盤の探究を関心の焦点とし、世界の外的(非精神的)な根拠か内的(精神 的)な根拠のいずれかを求める、表象主義の基本原理に立脚する方法論的な執着から生じる問題 である。じつは、このような客観と主観の対立は、はじめから与えられているものでも、すでに 出来上がっているものでもないのである。要するに、心と自然に関する人間の歴史がもたらした 一つの考え方でしかないのである(同書、204 頁)。

K.J.ガーゲン(2010)は代案として、次の提案を行う。「関心の焦点を心から言語へと変化させ ることによって、われわれは、もはや、真理や客観性と言った『根本問題』に関わる必要はない。

いかなる状況においてであれ、われわれが事物を何と呼ぶかは、現実世界への忠実さの問題では ない。それは、われわれが現に参加している特定の関係性の問題である」(K.J.ガーゲン 2010、

172 頁)と。このような関係性に注目する理論的傾向として、K.J.ガーゲン(2010)は、イデオロ ギー批判、文芸論的・修辞学的批判、社会的批判を取り上げ、各論に内在する関係性のパースペ クティブの要素を見比べながら、関係性パースペクティブの中心的前提を抽出する。

(1) イデオロギー批判

K.J.ガーゲン(2010)によれば、20 世紀の大部分にわたって、科学者と経験主義哲学者の両者 は、科学を道徳的議論から切り離し、科学の課題は、「それが何であるか」を客観的かつ正確に説 明することであり、「それがいかにあるべきか」は、原則的に、科学の関心事ではないと考えてき たという(同書、43−44 頁)。

しかしながら、今日においては、科学が主張する中立性は実は脆いものであり、それはもはや 道徳的に承服できないと考えられてきている。もちろん、このような考えは、哲学的「批判理論」

の歴史の中で価値や道徳を科学の中に再生させようとする知的系譜にまでさかのぼることも可能 だが、現代においてはいわゆる実証主義的な科学哲学、資本主義、ブルジョア的自由主義などは、

コミュニティの衰退、道徳的価値の低下、支配関係の固定化、人間的喜びの抑圧、自然破壊など の害悪をもたらすとされている(同書、44 頁)。

イデオロギー批判は、一般に真実や合理的と考えられている主張に潜む、価値的なバイアスを 明らかにしようと試みる。そして、もし、そうした主張が特定の個人や特定の階級の利害を代表 していることが示されれば、それらは、もはや客観的で普遍的なものとはみなされなくなる(同 書、45 頁)。

(2) 文芸論的・修辞学的批判

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K.J.ガーゲン(2010)によれば、「文芸理論は、科学的な記述や説明に潜む価値観を明らかにす るのではなく、そうした説明が文学的表現の慣習によってーー事象そのものの性質によってでは なくーー規定されていることを示そうとする」(同書、47 頁)。このような文芸論的批判を考察し ようとすると、「科学理論は事実に基盤を持つ」という見解に対するクーン(1971)の批判に立ち 戻ることになる。とりわけクーンによって示された「新科学哲学」の三つの基本テーゼは次の通 りである(野家 2013、69−72 頁)。

「新科学哲学」の第一のテーゼは、観察事実の理論負荷性である。クーンによると、観察や実 験は常に一定の理論的・実践的枠組み(パラダイム)の中で行われるものであり、したがってそ こで得られる事実には必ず理論のタガがはめられている。事実が例外なく理論的・実践的枠組み によって制約されているとすれば、そのような理論付加的事実が当の理論自体を反証するという ことはあり得ないことになろう(同書、69 頁)。

そこから第二のテーゼが出てくる。すなわち、現在支配的な理論を否定するのは、別の新たな 理論でしかないということである。この理論的・実践的枠組みの交代を、クーンは「科学革命」

の名で読んでいる。そのパラダイムは科学研究の規範として機能する(同書、70 頁)。そして第 三のテーゼとして、パラダイムはそれ自体で独立に存在しうるものではなく、むしろ「通常科学」

の営みの中にしか、我々はパラダイムを見出すことはできない。ここでいう通常科学とは、パラ ダイムに沿って営まれる科学研究のルーティン化された作業を意味するが、通常科学の営みを遂 行するのは各時代の科学者共同体である。したがって、我々はパラダイムの内部での命題の真意 についてなら語ることができるが、パラダイム相互の間にはそもそも共通の座標軸が設定できな いのであるから、パラダイムを貫通する「普遍的真理」や「究極の真理」についてはそもそも語 れない(同書、70−72 頁)。

ところが、「科学理論は事実に基盤を持つ」という見解に対するこれらの科学批判のベースには、

世界を特定の仕方で構成する先験性は個々の科学者の認知傾向(観点、視座、解釈)の中に求め られる、という前提がある。すなわち、観察に先立つ先験的な枠組みを、認知の枠組みとみなし ている(K.J.ガーゲン 2010、47 頁)。要するに、文化的言語的共同体に属する科学者共同体の間 主観的構成の所産であるパラダイムは、実際には世界の主観的構成にとどまっており、エゴの先 位性に支えられた「社会的世界の自我中心的構成」という構図をとっているシュッツのいう「視 界の相互性」(reciprocity of perspective)(山口 1981、196 頁)と同型と考えられる。

まとめると、クーンの場合、理論の進歩が社会で優勢な説明図式に依存することを喝破し、科 学哲学を基礎づけ主義から脱却させたが、世界観の変化を基本的に心理学的変化と見なしている

(K.J.ガーゲン 2010、47 頁)。それでは、このような個人主義的な観点に立つ主客二元論に陥る ことなく、これらの科学批判のエッセンスを上手く取り入れるにはどうすればよいだろうか。こ の問題に対する回答として、K.J.ガーゲンは先験性に対する再考を主張する(K.J.ガーゲン 2010、

47 頁)。

K.J.ガーゲン(2010)によれば、我々が、頭の中のカテゴリー・システムを通して「世界を見」、 経験していると信じる根拠は殆どない。認知的先験性がどのように形成されるのかについて、説 得力のある説明はできない。しかしながら、世界構成のプロセスを認知的なものではなく、言語 的なものと見るならば、先験性は理解可能であるという(同書、47 頁)。すなわち、特定の言語

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形式(ジャンル、慣習、発話コード、など)への先験的コミットメントを通してこそ、何が現実 であるかが明らかになるので、科学的記述や説明にしても、言語的ルールにより規定に従うと考 えるならば、科学的記述や説明の対象も存在論的地位を低めてしまう(同書、47-48 頁)。

このように文芸論的批判は強い影響力をもちうるが、本質的に、書かれたテクストに依拠して いるがゆえに、その影響力は限定されていると考えている者が多い(同書、52 頁)。すなわち、

しばしば文芸論的分析に欠けているのは、人間のコミュニケーションとしてのテクストへの関心、

特に、読者を感動させ説得する能力への関心であるとされる(同書、52 頁)。こうした欠点を補 完するのが、修辞学的研究である。修辞学的研究は、長きにわたって、言語がいかに説得力を獲 得するかに関心を持ってきたが、伝統的には、メッセージの内容(実体)と形式(提示の様式)

とが明確に区別されてきた(同書、52 頁)。すなわち、文芸論批判と修辞学研究のどちらも、表 象の対象(「事実」、「議論の合理性」)から、表象の形式へと関心を移行しているのである(同書、

52 頁)。

(3) 社会的批判

K.J.ガーゲン(2010)によれば、真理、合理性、客観性に対する、イデオロギー批判、および、

文芸論的・修辞学的批判をさらに強力にしたのが、第三の批判勢力、すなわち社会的批判である

(同書、54 頁)。社会的批判の歴史は、ウェーバー、シェーラー、マンハイムら、科学的思考の社 会的起源に専心した人々の業績に遡ることができるが、彼らが特に関心を持ったのは、様々なア イデアが形づくられる文化的文脈と、それらのアイデアが科学的実践と文化的実践の両方に結実 するそのあり方である(同書、54 頁)。

つまり彼らの関心は、現実は社会的に構成されており、この構成が行われる過程を分析しなけ ればならないとする知識社会学の課題でもある。換言すれば、人間社会における<知識>の経験 的な多様性を研究対象としなければならないだけでなく、いかなる知識体系であれ、それが<現 実>として社会的に確立されるに至る過程を問題にしなければならない、ということである(P.L.

バーガー=T.ルックマン 1992、4−5 頁)。実は、上で述べたクーンの主張も、30 年前のマンハイ ムの主張と基本的には同様のものである。なお、1970 年までの知識社会学における「強力なプロ グラム」では、事実上すべての科学的説明は、社会的な利害――政治的、経済的、職業的利害な ど――によって決定されていると主張され、科学から「社会的もの」を取り去ってしまえば、知 識とみなされるものは何も残らないことが示唆された(K.J.ガーゲン 2010、55 頁)。

このような関係性のパースペクティブにとってとりわけ重要なのは、科学を生成するミクロ社 会学的過程を明らかにすることである。エスノメソドロジーにおいては、社会的事実は決して自 明ではなく、かつア・プリオリに「物」としてあるのではない(今田 1986、218 頁)。社会的事実 の客観的現実性は人々の日常生活における達成としてのみある(同書、218 頁)。この際、日常生 活の説明に用いられる記述の用語は、根本的に文脈依存的な性質をもつ。すなわち、記述は、一 定の状況内でこそ出来事を指示できるのであって、一般的な状況における意味などもっていない

(K.J.ガーゲン 2010、56 頁)。もちろん、このことは科学においても例外ではない。

このような、いわゆるエスノメソドロジーは、行為者がすでにそこにある社会の現実を納得で きるもの、了解できるものとして意味構成することを重視するが、現実を構成する手続きは、日

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常の出来事をその背景にあるコンテクストの「インデックス」あるいは「ドキュメント」として 解釈し、これを再びコンテクストの一部として追加していくことにある(今田 1986、218 頁)。言 い換えると、社会の現実が構成の手続きを経て、何の例としてみなされるかを規定するローカル なルールは、社会関係の中で生み出されるということである(K.J.ガーゲン 2010、56 頁)。この ように見てくると、絶対確実な科学的方法論を打ち立てることにより、真実に到達できるとする、

伝統的な科学哲学の主張は、もはや、維持し難い。つまり、「科学の哲学」は、事実上、「科学の 社会学」を意味しているのである(同書、56 頁)。

ただ、エスノメソドロジーの場合、社会的批判においてなされる再帰的懐疑によって代替可能 な現実を認識し、さらなる関係性を求める声を獲得する手段になれるかどうかについては、疑問 の余地がある。いわゆる「エスノメソドロジー的無関心」の問題である。「エスノメソドロジー的 無関心」とは、エスノメソドロジー的調査実践をするときの主要な調査ポリシーを意味する。簡 単にいうと、「その場そのときに達成される『人々の社会学』それ自体を記述・解読するために、

記述者は、できるだけ状況外在的、状況超越的な諸々の考えかたや常識的判断や評価を“括弧に 入れ”、そこで人々が実践する様々な『方法』や『理論』を“誠実に”見つめろという要請である」

(ハロルド・ガーフィンケル他 1987、304 頁)。

エスノメソドロジーにおいて、行為者がすでにそこにある社会の現実を納得できるもの、了解 できるものとして意味構成するということは、要するに行為者が求める社会の「説明可能性」は 現状の肯定につながざるを得ないことを意味することになり、行為者自ら代替可能な現実を認識 する蓋然性はそれほど大きくない(今田 1986、218 頁)。社会的批判における再帰的懐疑に関して は、関係性のパースペクティブの主要な問題意識の一つにもなるので、次の項で改めて検討した い。

(4)私的な知識の不可能性

これまで述べてきた三つの批判は、経験主義者と実在論者の主張に疑義を唱える点では共通す るものがあるが、批判の内容そのものは相互にかなり異なっている。ここでもう一度、三つの批 判の要点を整理しながらそれらの違いを確認しよう。

イデオロギー批判は、世界の描写は、世界そのものではなく、批判者の利害関心に依拠してい ると主張する。したがって、「何が事実であるか」は、いかなるイデオロギーにコミットしている かで決まるとされる(K.J.ガーゲン 2010、57 頁)。文芸論的批判も、言語の「対象」の実在は否 定するが、イデオロギーではなく、文脈をクロースアップする。したがって、「何が事実であるか」

は、言説の歴史に依存するとされる(同書、57 頁)。これらに対して対照的であるのが社会的批 判である。社会的批判では、「何が事実であるか」は、イデオロギーでも歴史的文脈でもなく、社 会的過程によって決まるとされる(同書、57 頁)。

K.J.ガーゲン(2010)の指摘の通り、確かに、これらの批判は、経験主義の覇権や、それと結 びついた「知識は頭の中にある」という観念、さらには、最終的なゆるぎない言説が存在すると いう主張に対する、非常に強力な対抗勢力であるが、三つの批判の間の緊張関係を和らげ、統一 的見解を打ち出していくにはどうすればいいかという問題は取り残されることになる(同書、58 頁)。この問題に対して、三つの批判の間の緊張関係をそのままにすることは、人間科学の営みを

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放棄することに等しいと考える K.J.ガーゲン(2010)は、あえて統合の道を探る(同書、58 頁)。 イデオロギー批判の問題点は、批判者自らの正当性を証明する術を持たないということである。

すなわち、批判者は、自分自身の主張がイデオロギーに汚染されていない客観的な説明であるこ とを証明できないのである(同書、58 頁)。もし批判者の説明が客観的であるとすれば、それは、

「言語は現実を反映する」という経験主義者と実在論者の主張を復権させることになり、まさに 自己矛盾に陥ってしまうことになる(同書、58−59 頁)。

文芸論的批判も実在性を否定するが、イデオロギーではなく文脈をクロースアップする。要す るにすべての記述の根拠を、テクストとレトリックの慣例に求める。したがって、テクストとい う、自ら作り出した監獄から抜け出すことができないことになり、テクストの外側には何も存在 しないことになる(同書、59 頁)。

そうなれば、人間科学の問題――貧困、紛争、経済、歴史、政府など――に対する関心は失わ れることになり、なされるべき社会批判もなくなり、抵抗すべき何もなくなり、擁護すべき何も なくなり、さらには、取るべき行動も存在しなくなってしまう(同書、59 頁)。なぜならば、「と るべき行動」という考えそのものが、言語的習慣の延長だからである(同書、59 頁)。ところが このままでは人間のコミュニケーションを何も説明できなくなってしまう。なぜなら文芸論的批 判で考えられるコミュニケーションは、テクスト内の言葉にすぎないため、同じ言語的慣習に則 っていない人を理解する手段は何もないことになる(同書、59 頁)。結局のところ、言葉は、受 動的な空虚なものである。したがって、言葉は、人間関係の中で使用され、コミュニケーション の中で力を与えられる限りにおいて、積極的で意味のあるものとなる。だから、テクストによる 現実構成について語るには、著者―読者関係が必要となる。要するに、社会による現実構成の方 が基本的なのである(同書、59 頁)。

この点は、言語哲学が問題にしてきた二つの謎とも言われる(竹田 2008、135 頁)、「言葉の多 様性」と「言語規則(言語のルール)の規定不可能性」にも該当する。人間のコミュニケーショ ンで使わる「言葉の多様性」とは、言語自体には示されない言葉が含みうる「多義性」を意味す るものであり(同書、135 頁)、常に状況コンテクストによって意を志向していることを表わして いる(同書、155 頁)。一方、「言語規則(言語のルール)の規定不可能性」とは、あるルールの適 用を決定するのが一つのルール解釈であるとすると、この解釈の必然性を言うためには、その解 釈を規定するもう一つの解釈が想定されることを表わし(同書、136 頁)、その過程において常に 関係的な試みが行われることになる。社会関係を重視することによって、われわれは、文芸論的・

修辞学的批判を理解可能にすることができるばかりでなく、テクストの牢獄から脱出することも できる(K.J.ガーゲン 2010、59 頁)。

K.J.ガーゲンによれば、社会的批判へコミットすることにより、文芸論的・修辞学的批判の大 部分を吸収しうるばかりでなく、イデオロギー批判の要点を維持することにもなる(同書、60 頁)。 K.J.ガーゲンは、社会的批判とイデオロギー批判をつなぐ最も有効な手段を提供する研究として、

ミシェル・フーコーの業績を上げる(同書、60 頁)。フーコによれば、言語(あらゆるテクストを 含む)と社会的過程(権力関係の観点から表される)の間には密接な関係がある(内田 1990)。特 に、種々の専門家集団(政府、宗教団体、学問分野のような)が、みずからの存在を正当化し、

社会的世界を分節化する言語を発達させ、それらの言語が実践の中に位置づけられるにつれて、

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人は、それらの専門家集団の支配に従うようになる(K.J.ガーゲン 2010、60 頁)。

この文脈では、言語を批判的に吟味することを通じてこそ、われわれは、文化内の様々な関係 性を理解し、それによって新たな未来について考えることができる(同書、60−61 頁)。この場合 の批判は、言説そのものの実践的意味を明らかにするものとして捉えられるため、関心の焦点と なるのは、その言説が進行中の関係性においていかなる機能を担っているのかである(同書、61 頁)。この場合、その言説がウソかホントかということは、もはや問題にならない(同書、61 頁)。

ところが、この種の社会的批判にも、イデオロギー批判や文芸論的批判に向けられたのと同じ 再帰的懐疑を向けることができる。すなわち、その立場は、まさにその拠って立つ前提ゆえに、

真ではありえない、という懐疑である(同書、61 頁)。しかしながら、イデオロギー批判や文芸 論的批判の場合――イデオロギー批判そのものがイデオロギーの表現であり、テクストの脱構築 そのものがテクストであるという再帰的閉鎖性――とは異なり、社会的批判は、無限の牢獄にと らわれることはない(同書、61 頁)。なぜならば、社会的批判の場合、もう一つの言説空間、すな わち新たな関係性の領域へと移行することができるからだ(同書、61 頁)。社会的批判にあって は、再帰的懐疑は、無限後退へ陥ることを意味するのではなく、代替可能な現実を認識し、さら なる関係性を求める声を獲得する手段なのである(同書、61 頁)。

では、どのようにして社会的批判は、もう一つの言説空間、すなわち、新たな関係性の領域へ 移行することができるのだろうか。それを考えるために、ここでは言語の意味について少し考察 を行う。言語にとっての意味の問題を規則との関連で考えたのが、後期ウィトゲンシュタインで ある。彼の後期の主著「哲学探究」(ウィトゲンシュタイン 2006)は、前期の「意味の対象説」を その根底から否定し、「語の意味とは、言語ゲームにおけるその語の使用である」という「意味の 使用説」に基づいて、生活のすべての場面を言語と行為が織り成す「言語ゲーム」として把握し ている(黒崎 2012、12 頁)。

ウィトゲンシュタインの言語論がとりわけ注目されるのは、それが言語の意味を言語記号に内 属する性質として捉えるのではなく、「言語内におけるその使用」として捉えること、つまり「言 語規則の恣意性」という考え方をうちだしたからである(山口 1981、207 頁)。言語規則が恣意的 なものであるからこそ、人と人との間の意思疎通が必要となり、またそれが可能になる(同書、

208 頁)。

もし言語規則が一義的に確定されていたならば、相互了解は不必要であるばかりか、不可能に なるであろう。なぜなら、規則が確立されている場合、問題となるのは他者の理解ではなく、た だその反応だけにすぎないからである(同書、208 頁)。これに対し、規則の不確定性は、その共 通の意味を当事者相互の判断から導き出す(同書、208 頁)。すなわち、規則それ自体は他人によ る評価を前提としなければ成立しないのである(今田 1986、226 頁)。

要するに、言語規則の恣意性から生み出される多様な言語の用法は、それぞれがいわば<言語 を使ってのゲーム>になぞらえることができるのである(山口 1981、209 頁)。ゲームを理解する ということは、そのルールを知ることと同時に、そのゲームを演じることができる、ということ を意味している(同書、209 頁)。一方、ウィトゲンシュタインが「わたくしはまた、言語と言語 の織り込まれた諸活動との総体を言語ゲームと呼ぶ」(ウィトゲンシュタイン 2006、20 頁)と言 っているように、言語ゲームには単に言葉の使用というだけでなく、言語以外の要素――行為や

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思考――も含まれている(山口 1981、209 頁)。要するに、言語の使用は、言語以前の我々の生活 実践そのものと一体のものとしてあり、その枠組みの中でのみはじめて可能になるのである(同 書、209 頁)。

このことから、私たちは、言語ゲームないしはその規則が、何を基盤とし、何によって支えら れているのかについてある程度ヒントを得ることができる。言いかえると、言語ゲームの規則の 妥当性は何によって基礎づけられているのかという疑問に対するヒントである。これとの関連で、

ウィトゲンシュタインは、ある種の出来事が起こればわれわれはもはやゲームを継続できなくな るのだから、「言語のゲームの可能性が一群の事実によって制約されている、というのはまさに自 明のことではないか」と述べている(野家 2013、354 頁)。

言語ゲームが「一群の事実」によって制約されている以上、「文法規則の自律性」という概念が もはや維持しがたいものであることは明らかである(同書、355 頁)。それゆえ、規則もまた、わ れわれの実践の形式を十全に規定するものではありえない。言語ゲームは、自己完結した規則の 体系によって、一元的に支配されるものではない(同書、355 頁)。

こうした規則に対する実践の優位性は、「根源的な振舞いの延長」としての言語ゲームという考 えにつながる(同書、355 頁)。そこでウィトゲンシュタインは、他人の痛みの振舞いに気を配り、

痛みの個所を手当てし、治療するといった行為を「根源的な反応」とよび(同書、355 頁)、さら に「この種の振舞いは前言語的であるということである。すなわち一つの言語ゲームの基盤であ り、ある思考法の原型なのであって、思考の結果として生じたものではない、ということである。」

(ウィトゲンシュタイン 1976、346 頁)と述べる。すなわち、「根源的な振舞い」が、言語ゲーム ないしはその規則の基盤として位置づけられている。もちろん、ここでいう基盤とは、デカルト 以来の近代哲学が目指してきたような、「基礎づけ」や「還元」や「正当化」を意味するものでは ない(野家 2013、356 頁)。つまり、根源的な振舞いとしての経験的事実とそれを制約する規則と は、一方的な基礎づけ関係にあるのではなく、いわば循環関係にあるのであり、両者は時に応じ て相互転化をなしうるのである(同書、357 頁)。

言語ゲームを基礎づけ、正当化する営みを終わらせようとすれば、その終点は一群の規則でも 言語外の事実でもなく、「われわれの営む行為」に求めるほかはない(同書、359 頁)。この「行 為」は、もちろん「実践」とも「振舞い」とも、あるいは「生活」とも言い換えることができる

(同書、359 頁)。行為に対するこのような解釈は、「世界の存在体が演じる様々な行為の歴史に 基づいて世界と心を行為から産出すること(enactment)」を認知として解釈することを提唱し、

これらをエナクティブ(enactive:行動化)アプローチと呼んだ(ヴァレラ他 2006、359 頁)、ヴ ァレラが考えた行為の概念と通じるものがある。

当然ながら、ここでの行為は単に規則に従った行為だけを意味しない。実際、現実の行為には、

規則に従った行為と規則を使った行為が不可分に混じり合っていること(今田 1986、227 頁)を 考えれば、社会的批判での社会的行為は単純に規則に従った行為ではない。規則が状況によって 流動的になれば、そこでは規則の使い方が問題になる(同書、228 頁)。

規則の使い方を考えることは、規則それ自体を評価し、場合によってはこれを変化させること によって、代替可能な現実を認識し、さらなる関係性を求める手段となるのである。したがって、

社会的批判は、もう一つの言説空間、すなわち、新たな関係性の領域へ移行することが論理的に

(14)

できるのである。

4.関係性のパースペクティブの認識論上の前提

従来の二元論的認識論を社会的認識論に置き換えると、知識の座は、もはや個人の頭ではなく、

社会的関係性のパターンの中に求められることとなる(K.J.ガーゲン 2010、171 頁)。二元論の認 識論によって提起された重大問題は、心がいかにして現実世界の本質を移すようになるのか、と いうことであった(同書、172 頁)。しかし、関心の焦点を心から言語へと変化させることによっ て、真理や客観性といった「根本問題」にかかわる必要はない(同書、172 頁)。いかなる状況に おいてであれ、言語――我々が事物を何と呼ぶか――は、現実世界への忠実さの問題ではなく、

われわれが現に参加している特定の関係性の問題である(同書、172 頁)。

言い換えると、関係性のパースペクティブにおいては、ある知識が真であるか否かは、特定の 文化的コミュニティの中で織り交ぜられる物語と関連させてその意味を評価する議論に帰せられ る。その結果、究極的な真や客観性といった「根本問題」に関する議論はこれまでの中心的地位 を失い、代わりに文化的な意味とその重要性に関する議論がその地位に付くことになる(H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking2013,p.4)。なお、知識や真となるものが社会的活動の一部とし てみなされるのであれば、私たちがこれまで理解、説明、意味(すなわち、知識)と呼んできた、

これらの概念構成体(constructions)はある社会的関係のプロセスの中で現に行われていること の一部分を表わすものであろう(ibid.,p.4)。以下では関係性のパースペクティブの認識論上の いくつかの前提について、H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking(2013)の所説を中心に紹 介する。

(1)「知ること(knowing)」とは間断のない関係づけのプロセスである

関係性のパースペクティブでは、知ることは継続的な意味形成のプロセスとして見なされる。

この場合、「何かを知る」と主張することは、物語のテクスト(running text)の意味を構成する ことができたことを意味する(ibid.,p.4)。

物語のテクストの意味がどのように構成されるかについて考える際、最近のテクスト理論およ び解釈学の展開が貴重な示唆となる(野家 2013、91 頁)。第一に、テクストの「意味論的自律性」

というテーゼである。テクストは、文字に書き記されることによって、「話し手-聞き手」という 志向的関係から切り離され、「テクスト読者」という解釈学的関係に転位することによって、無数 の読者の可能な読解へ向かって開かれることになる(同書、91 頁)。第二のテーゼは、テクスト の意味とはテクストと読者との相互作用の産物であって、(権威的な)解釈だけにしか見つけられ ないような、テクストの中に隠されている特定のものではないということである(同書、91 頁)。

要するに、私たちが一般的に、事実、事象、発話、物語、ドキュメント、物的対象、個人行動 あるいは集合行動と称するいわゆるテクストというものは、それ自体では何の意味も獲得するこ とができない(H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking2013,p.4)。なぜなら、それ自体だけで は何を意味しているかがまだ確定されていないからである。テクストが意味を獲得するためには、

ナレーション(narration)、対話(conversation)などの「テクスト読者」関係を通じて、特定 の社会文化的コンテクストの中で進行している一連のストーリと関係づけられ必要がある

(15)

(ibid.,pp.4-5)。

言い換えると、「意味や理解は一枚の写真のようにその中身が固定されているものではない。

意味や理解は物語のプロセスであり、その中において常に形成途中にあるのである。それこそ、

私たちがテクストについて他人と話す理由である」(ibid.,p.5)。したがって物語は言語であり、

構成された物語の意味としての知識はいわゆる言語ゲームである(ウィトゲンシュタイン 2006)。 ここでの重要なポイントは、物語の中で進行しているテクストは常に特定のコンテクストと相 互関係にあるという点である(H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking2013,p.5)。すなわち、

「テクストにはコンテクストとの関係が含蓄されているし、コンテクストには予めテクストが含 まれている。テクストの意味はタブララーサ(白紙の状態)から始まるのではない。テクストの 意味は、テクストが参照するすでに語られた物語を先入観(preconception)として帯びている」

(ibid.,p.5)。

(2)関係づけ(relating)は間断のない意味生成の構成的なプロセスであり、多元談話

(multiloguing)の中の言語を通じて行われる

意味が関係づけや参照によって生成されるのであれば、これらのプロセスこそが分析の単位に ならなければならない(ibid.,p.6)。私たちはこれらのプロセスを表すために多元談話という言 葉を用いるが、多元談話の中で行われるテクストとコンテクストとの間の関係づけや参照を通し て意味が生成される(ibid.,p.6)。すなわち、多元談話のプロセスの中で現実が構成されるのであ る。

対話は、それに参加する人々が言及している特定のコンテクストについて互いに同意しない限 り、成立しない(ibid.,pp.6)。すなわち、対話の主題について基本的に同じ見解を持っているか のように発話者たちが行動しているときにのみ、対話は持続できるのである(ハロルド・ガーフ ィンケル他 1987)。したがって、特定のコンテクストに対する共有された理解が、対話持続の条 件となる。ここで注意すべき点は、共有された理解を参照することは、実証主義のパースペクテ ィブが措定する実在的な内容といかなる関係も持たない、ということである(H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking2013,p.6)。共有された理解を参照することとは、解釈のコンテクストと して機能する相互に関係する一連の物語についての暗黙の合意を参照することを意味する

(ibid.,p.6)。だとすれば、個人が意味の絶対的な製作者(the sovereign author of meaning)

になれないことは、自明であろう(ibid.,p.6)。多元談話に対するこのような考え方は、参加者 たちがテクストに対して様々なコンテクストを絶えず参照し、それから生じる差異からどのよう にして合意が得られ、共有された理解として経験されるものを獲得することができるかについて 答えを提供する(ibid.,p.6)。

ここでいう多元談話は、対話という用語が通常含意するような、はっきりとした対面的な社会 的プロセスだけを指すわけではない(ibid.,p.7)。私たちは、一つのテクストを製作するさい、

一連の複合的なコンテクストを参照しながら語ることになるが、それらは、私たちの社会や他の コミュニティの中の、心理学、社会学、哲学などで述べられている相互関係にある多くのテクス トによって構成されている(ibid.,p.7)。したがって、多元談話は明白な社会的プロセスが見えな いところでも成立するのである。

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だとすれば、テクストの意味を制約するコンテクストは原則上、無限である。そのため、ある テクストを同一のコンテクストの中の別の物語に関係づけると、そのテクストの意味は変化して しまう。また、あるコンテクストの意味を考えようとすると、当のコンテクストは一つのテクス トとなるため、その意味を理解するためには他のコンテクスト、すなわちメターコンテクストを 参照しなければならなくなる(ibid.,p.7)。したがって、理論上、このような意味形成のプロセス は無限に続くことになる。

次は、本稿にしばしば登場する物語(narrative)という言葉をここで用いる理由について簡単 に言及する。物語という言葉は様々な文献に登場し、その意味も多種多様であるが、ここでは、

本稿で提示される関係性のパースペクティブの認識論上の前提から、知識(むしろ知ること)は 物語るプロセス(processes of narrating)を通じてのみ可能となるという意味において、物語 という言葉が用いられている(ibid.,p.8)。私たちは当初テクストと定義づけたものについて改 めて言及するために、物語という言葉を使用しているが、そのような使い方は本稿の中心となる 理論的前提に基礎づけられているものである。すなわち、ある事実(fact)それ自体を存在の根 拠とする、一枚の写真のような恒久的で実証可能な知識はあり得ないという点である(ibid.,p.8)。

私たちがこれまで説明してきた関係性のパースペクティブから考えれば、事実的な知識はそれ自 体、意味をなさない。なぜなら、主客二元論の問題点についてふれた際にも指摘したように、私 たちはある事実をそれ自体においてそのまま知ることができないからである。

知識(理解)の前提条件として言語を位置づけ、その言語が発話のプロセス(a process of speaking)であることを仮定すれば、知ることとは常に物語るプロセス(a process of narrating)

である(ibid.,p.8)。ここでもう一つ注意すべき点は、話すこと(speaking)、あるいは物語るこ と(narrating)にはすべての形態の行動が含まれるということである。すなわち、いかなる行動

(行動してないように見えるものも含めて)も同様にテクストであり、他人がそれに対して自ら を調整したり他の進行している物語を参照したりするまでは、その行動の意味は曖昧でありかつ 確定できないことから、行動しないことはそもそも不可能である(ibid.,p.8)。

(3)意味は開かれているゆえ、究極的な根拠や真実を持たない

関係性のパースペクティブでは、知識を社会的に普及されたものとして、そして真実を社会的 に正当化されたものとして認識するため、特定の知識を、実在主義(entitative epistemology)

が 考 え て い る よ う な 真 実 に よ り 近 い こ と を 理 由 に 優 先 視 す る こ と は そ も そ も で き な い (ibid.,p.8)。意味は参照可能なコンテクストとテクストの相互参照を通じて形成されるという ことは、特定のテクストに対して形成された意味が必ずしもその通りでありつづける必要はない ということを含意する(ibid.,p.8).なぜなら、他の物語が参照される可能性が常にあるからであ る。従って、複数の意味という観点から、複数の現実、複数の記述、複数の「知識であることへ の主張」(knowledge claims)こそ、物語るプロセスの中で現れる存在のローカルなあり方である (ibid.,p.8)。現実はもはや唯一の事実としてではなく、多元的にそして社会的に構成されるもの としてみなされる。

(4)意味は社会文化的制約を受ける

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これまで述べてきたように、関係性のパースペクティブは様々な意味開示の可能性を大きく広 げてくれる。言い換えると、関係性のパースペクティブでは、真か偽か、正しいか正しくないか、

望ましいか望ましくないかは社会文化的制約を受けるので、全ての社会文化的コンテクストに通 用する物語はないと考える(ibid.,p.9)。要するに、社会文化的境界を境に複数の意味開示が行わ れる可能性が広がるのである。但し、その社会文化的境界も多元談話の中で構成され再生産され る(ibid.,p.9)。

特定の社会文化的コンテクストにおいて意味が確定しているテクストが、異なる社会文化的コ ンテクストにおいては、認識されなかったり誤解されたりする事はしばし起る(ibid.,p.9)。例え ば、科学の世界、組織の世界、国際問題などにおいてこれまでしばしば行われてきた女性の声に 対する低い評価は、男性中心文化が暗黙的に参照されることによって女性中心のテクストが重視 されてこなかったことのよい例でもある(ibid.,p.9)。

(5)自己、他人、関係の物語のテーマは社会的に参照・構成される

自己、他人、関係をどのように理解するかという問題に直面したとき、私たちは最初、主体(個 人あるいは他人)、客体(個人あるいは他人)、自他の関係(主客)に関する一つの物語として、

方法論的個人主義のストーリを参照しようとした(ibid.,p.9)。それに対して、関係性のパースペ クティブは自己、他人、関係に関する多くの物語に対して疑問を提起する。おそらくこれらの疑 問は、個人的特質(personhood)と「相互に関係づけられること」に関する複数の物語の歴史文 化的コンテクストから出てくるものである(ibid.,p.9)。

要するに、関係性のパースペクティブでは、私たちの行為が理解可能であるコンテクストの中 で構成される、自己、他人、関係の相互依存的なテクストが社会的現実の基礎である。言い換え ると、自己、他人、関係の相互依存的なテクストとしての多元談話こそ意味形成のプロセスであ り、そのプロセスの中で自己、他人、関係の物語が参照されると同時に、それら自身も制作され つつあるのである(ibid.,p.9)。以上のことから、関係性のパースペクティブの認識論上の主要な 前提を以下のようにまとめることができる(ibid.,p.10)。

a) 知ることとは、テクストの意味を構成することができたということである。

b) 意味形成は物語るプロセスであり、テクストとコンテクストの対向的関係(oppositional unity)の現れである。

c) テクストとコンテクストは分離できない総合体である。なぜなら、両方とも互いを必要と し、両方の対向的関係あるいは差異からのみ意味を引き出すことができるからである。

d) 意味は多元談話を通じて生産される。すなわち、言語を基礎に(共通)理解を創造する積 極的な関係のプロセスである。

e) 意味は決して確定されることはなく、いかなる究極的な源も持たない。すなわち、意味は いつも形成プロセスの途中にある。

f) 意味は社会文化的コンテクストの制約を受ける。

(18)

終わりに.

本稿は、関係性のパースペクティブの認識論上の前提について整理・考察し、今後経営や組織 を対象に議論を行うための準備作業として位置づけられた。そのために行われて主な作業は、方 法論的個人主義のパースペクティブと関係性のパースペクティブを比較・整理し、関係性のパー スペクティブの認識論上の前提を理解することであって。その際、議論の中心にあったのは K.J.

ガーゲン(2010)と H.Peter Dachler and Dian-Marie Hosking(2013)の所説である。

方法論的個人主義のパースペクティブについては、現実を構成する際の認識論的客観主義と認 識論的主観主義の特徴と問題点を整理し認知主義の限界を明らかにした。関係性のパースペクテ ィブについては、社会的認識論として、イデオロギー批判、文芸論的・修辞学的批判、社会的批 判の特徴について考察し、それらに内在する関係性のパースペクティブの要素と各論の理論的特 徴をみくらべ、最終的には社会的批判の理論的可能性を展望した。最後は、関係性のパースペク ティブの認識論上の前提について簡単にまとめている。

もちろんいくつかの課題も残されている。まずは、相対主義の問題である。この問題は、関係 性のパースペクティブにはいつもつきまとう問題であり、パラダイム論やプラグマティズムも例 外ではない(岡本 2012)。K.J.ガーゲン(2010)も、この点を認識し対応策を講じているが、本稿 では取り上げることができなかった。

もう一つの課題は、いわゆる発生論の問題である。本文の中では、野家(2013)に倣って、言 語ゲームないしはその規則の基盤として根源的な振舞いを取り上げ、この根源的な振舞いとして の経験的事実とそれを制約する規則とは、一方的な基礎づけ関係にあるのではなく、いわば循環 関係にあるのであり、両者は時に応じて相互転化をなしうるのであるとしているが、このくらい の理解で済ませる問題ではない。すなわち、循環関係、または相互転化に対する何らかの筆者な りの理論的考察が必要であろう。これらの課題は、関係性のパースペクティブを取り入れた場合、

経営や組織の現実に対する理解がどのように変わってくるかに関する研究課題とともに、大きな 宿題として残ることになる。

<引用文献>

今田高俊『自己組織性』創文社、1986 年。

ウィトゲンシュタイン(著)菅豊彦(訳)「断片」『ウィトゲンシュタイン全集9』大修館書店、

1976 年。

ウィトゲンシュタイン(著)藤本隆志(訳)「哲学探究」『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館 書店、2006 年。

内田隆三『ミシェル・フーコー』講談社現代新書、1990 年。

岡本裕一郎『ネオ・プラグマティズムとは何か』ナカニシヤ出版、2012 年。

K.J.ガーゲン(著)永田素彦+深尾誠(訳)『社会構成主義の理論と実践』ナカニシヤ出版、2010 年。

ハロルド・ガーフィンケル他(著)山田富秋+好井裕明+山崎敬一(訳)『エスノメソドロジー』

株式会社せりか書房、1987 年。

黒崎宏『啓蒙思想としての仏教』春秋社、2012 年。

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ンは,機能性や生体利用性について特に研究が進んでい るフラボノイドである.ケルセチンはタマネギやブロッ コリー,果実類,ワイン,茶,ソバなどさまざまな植物 性食品に含まれているが,植物によって含まれる配糖体 の構造が異なる(図2).これ以降,ケルセチンを例と して消化吸収代謝について解説する. 配糖体は,結合する糖の種類により加水分解が起こる

第 4 章 トランプ政権の対中認識 舟津 奈緒子 ●はじめに 2017年1月にドナルド・トランプが第45代アメリカ合衆国大統領に就任し、アメリカ にトランプ政権が誕生した。アメリカではオバマ前大統領の時代から軍事力行使を肯定す る外交・安全保障エスタブリッシュメントの影響によってアメリカが終わりのない戦争に

(B)以下について7割以上理解し表現できる。(C)以下 について6割以上理解し表現できる。 ①人間関係の心理に関する基礎的事項を説明できる ②カウンセリング理論および技法を説明することできる。 ③青年期の諸問題とその対応を説明することができる。④ 自分と他者を生かす人間関係の構築方法を説明できる。⑤ 人間関係のトラブルを理解し、解決方法を提示することが できる。

うよりはるかに過ごしやすいことから,今やメー ル依存だけでなく,SNS 依存も存在していると 思われる。 大学生は自分で時間の調整をして,学校やアル バイトなどをしているため,うまく時間を使うこ とができれば,多くの自由な時間を持つことでき る。しかし田中ら(2007)によると個人差がある ものの,現在の大学生のほとんどが大学生活の中

(表注1)出典に関しては、『大日本維新史料 類纂之部伊家史料』は『井伊家史料』、『三条実万手録』は『手録』と表記した。なお、時期が史料に表記されていないものに関しては内容から推測し年号を振った。(表注2)これらの書簡の一部は附録として論文末に掲載しており、附録番号の項にその附録番号を表記した。

同一化の対象とはならないということかもしれな い。 近年の親の養育態度と自我同一性の研究につい ては,田中 2003 が行った,青年期男子における 親の養育態度と自我同一性の関係の研究がある。 両親の養育態度が自律的な男子は統制的なもとに ある者よりも自我同一性が高く,受容的な男子は 拒否的なもとにある者よりも自我同一性が高いこ

- -16 - -17 度の因子のなかでも「子どもに対する食教育推進」と幼児の「食に関わる態度」尺度のすべて の因子においても同様の結果となった。すなわち,食に関わる態度が高い保護者に養育された 幼児は「食への興味・関心」が高いこと,また,「子どもに対する食教育推進」が高い保護者 に養育された幼児は「食に関わる態度」が高い結果となった。 Ⅳ 考 察

渡邊晃…・廣川豪:現代美術における「制作」と「発表」との関係について 6︻a きっかけとなれば嬉しい。 5.展覧会ではないけれどNYの自然史博物館でイヌイッ トやさまざまな民族や時代のものを見たこと。この世界 にはたくさんのもの,考え方,価値観,があるのだと感 じたから。 6 4と同じ。 荒井 経(学芸大学)