比較宗教学概論Ⅱ
比較宗教学、残された課題群へ
『聖なるもの』
20180703 九州大学 飯嶋秀治 [email protected]
本日の講義内容
• 本日の講義内容
• 前回の復習
• 宗教と文化の間
• 『聖なるもの』
• 成熟について
前回の復習
シラバス
• 出席:1/3以上の出席で試 験受験可能(15点)
• レポート:毎回
[email protected] へ 感想・質問を提出(15点)*
当日提出
• 試験:(全て持ち込み可)講 義の概要をまとめ(20点)、
自ら設問した(20点)うえで 自らが体験した具体的な事例 を考察せよ(20点)
学問:関心の経緯・それを支える方法
生まれようとしている発達課題
• 人は現在に生きている(これ から生きるためにもう生きた 体験を活かす/もう生きたこ とからこれからも生きる)
• 未整理のことを整理すること でより自らを成長させる
先行研究の探し方
メディア表象とそれを支える世界
• 世界の中の日本 • 戦争・国債・貯蓄
•メディアの投資構造①日本テレビ←読売新聞
②Tokyo Broadcasting System←毎日新聞
③フジテレビ←ニッポン放送(サンケイ・グループ)
④テレビ朝日←朝日新聞
⑤テレビ東京←日本経済新聞
言語メディア圏 日本語
↑ 映像メディア圏 テレビ局(FBS福岡放送、RKB毎日放送、TNCテレビ西
日本、KBC九州朝日放送、TVQ九州放送)
↑ 文字メディア圏 新聞(西日本新聞)
↑ 大株主
世界のキリスト教、日本のキリスト教 世界の仏教、日本の仏教
学問(含比較宗教学)は解釈と責任を伴う
•【意訳】私たちが大学で探求するものと は諸個人である。その諸個人とは、世界 がその当初の見かけ以上に複雑であると 知るだけではなく、その複雑さゆえに、
解釈的な決断がなされねばならないと知 る諸個人の探求である。判断の決定とは 実際的な帰結を伴い、その帰結のために は人がその責任を取らねばならならず、
専門家ではないからというごまかしで逃 れられないかもしれない責任である。
社会が宗教
『セム族の宗教』
•Julius Wellhausen(1844-1918年) 1887年『異教徒アラブの残骸』
•William Robertson Smith (1846-1894年) 1941(1889)『セム族の宗教』
「供儀食の中に直接表現されている唯ひとつの ことは、神とその礼拝者とが『共食者』であ るということで、彼らの相互関係の他の全て の点はこれが包含することのうちに含まれて いるのである。共に食にあづかる者共は、あ らゆる社会的効果のために結合せしめられて いる。共に食にあづからぬ者は、宗教上の親 交もなく、互恵的な社会的意義も負わずして、
相互に敵対関係に立っている」[スミス1943
(1894):88]
「セム族の動物供儀の主要観念は、神に捧げら れる貢ぎ物のそれではなくして、共食の行動 のそれであり、神と人とが神聖な生贄の肉と 血をともに摂取することによって結合すると いうのである」[スミス1943(1894):22]
『金枝篇―比較宗教学研究』
James George Frazer(1854-1941)
「[W・]マンハルトが出版した著作の中でもっとも重要 なのは、まず第一に二つの小冊子、『ライ麦の狼とライ 麦の犬』と『穀物霊たち』である。…彼は着実に研究を 進め、一八七五年には主著『ゲルマン民族およびその近 隣の種族における樹木崇拝』を出版した。これに一八七 七年の『古代の森の祭祀と野の祭祀』が続く。『神話学 研究』は彼の死後、一八八四年に出版された」[フレイ ザー2003(1890)a:14]
「民衆の迷信と農民の風習は、その断片的な性格にも関 わらず、先史アーリア人の原始宗教に関して現在われわ れが手にすることができる、最も充実した、もっとも信 頼のおける証言である。」[フレイザー2003(1890)a : 12]
『宗教的経験の諸相ー人間性の研究』
William James(1858-1917)
• 知識や経験
「そこには、或るものがそこにいるという意識 ばかりではく、その意識の中心にある幸福感 と溶け合って、それがなにか名状しがたい善 であるという驚きの意識もあった。それは、
漠然とした感情ではなかった、詩や風景や花 や音楽などの呼び起こす感情的な感銘のよう なものではなく、一種の強大な人物がまぢか な目の前にいる、という確実な知識であっ た」[ジェイムズ1982a(1901-1902):95]
「神の霊が近くに現前しているということは、
…神の霊の実在として、経験されることがで きる―実際、経験されうるだけである。…そ の目印は、神の霊が近くに在すことと結びつ いたまったく比類のない幸福の感じである」
[ジェイムズ1982a(1901-1902):122]
『通過儀礼』
(Arnold van Genep1859-1917)
「われわれの興味をひくのは細かい個々の儀礼ではな く、儀礼の総体…の本質的意味と、個々の儀礼が占め る相対的位置である。それゆえ、予備的なものも決定 的なものも含めて、分離、過渡、統合の諸儀礼が、あ る一定の目的のために、相互に関連を持ちつつ一定の 位置を占めていることを冷笑しようとして、かなり長 い記述をいくつか行ったのである。…指摘すべき第二 の点は、時には修練期、婚約期間、妊娠、喪のごとく 独立した形にもなる『過渡期』の存在であるが、この 存在が普遍的なものであるということはまだ誰も指摘 していないようである。…第三に、種々の社会的な身 分の変化が、村や家に入ること、部屋から部屋へ移る こと、道や広場を横切ることなどの実質的通過に擬さ れるということは重要な点であると思われる。…生ま れてから死ぬまでの間の通過儀礼の図式がいかに複雑 であろうとも、一番よくみられるのは直線的な図式で ある。ところが、…それが円をなして、すべての人が 生から死、死から生へと同じ状態を同じように通過す ることを果てしなく繰り返すようなところもある。こ うした図式の一つの極端なかたちである循環的形態は 仏教においては倫理、哲学的意義を持ち、ニーチェの
『永遠の回帰』の思想の中では中心的な意義を持って いる。」[ヘネップ2012(1909):244-288 ]
『宗教生活の原初形態』
(Emile Durkheim 1858-1917)
•「宗教とは、神聖すなわち分離され禁 止された事物と関連する信念と行事と の連帯的な体系、教会と呼ばれる同じ 道徳的共同体に、これに帰依するすべ ての者を結合させる信念と行事であ る」[デュルケム1991a(1912):86-87]
•「あらゆる形態のもとで、宗教生活は、
人を自己をこえて高め、人が自らの個 人的自発性にのみ服していたら営んで いたであろう生活よりも、高級な生活 を営ませることを目的としている」
[デュルケム1991b(1912):317-1318]
•「ユダヤ教の会合と…国民生活の何ら かの重大事変を記念する市民たちの集 会との間に、どんな本質的な差異があ ろうか。…しかし…古い神々は…死に、
しかも、他の神々は生まれていないの
である」[デュルケム
1991b(1912):341-342]
『聖なるもの』
時代背景
[上山1989;クレー1961(1957);高橋1986;中沢1991]
•
エレナ・ブラバッキー(1831-1891年)
1871神智学協会創設•
ジャン・シャルコー(1825-1893年)
1887頃~ヒステリー→催眠術研究•
ルドルフ・シュタイナー(1861-1925年)
1912人智学協会創設•
パウル・クレー(1879-1940年)
1899年12月末の日記•ルドルフ・オットー(1869-1937年)
『聖なるもの』(1917年)
Das Heilige
•序文
•第1章合理性と非合理性
•第2章ヌミノーゼ
•第3章被造者感覚―自己感情におけるヌミノーゼ的客体感情 の反映(ヌミノーゼの諸要素、第1)
•第4章戦慄すべき秘義(ヌミノーゼの諸要素、第2)
•第5章ヌミノーゼ賛歌(ヌミノーゼの諸要素、第3)
•第6章「魅するもの」(ヌミノーゼの諸要素、第4)
•第7章巨怪なるもの(ヌミノーゼの諸要素、第5)
•第8章類比
•第9章ヌウメン的価値としての「神聖」、「崇高なるもの」
(ヌミノーゼの諸要素、第6)
•第10章 非合理性とは何か
•第11章 ヌミノーゼの表出方法
•第12章 旧約聖書におけるヌノミーゼ
•第13章 新約聖書におけるヌミノーゼ
•第14章 ルターにおけるヌミノーゼ
•第15章 その発展
•第16章 アプリオリな範疇としての「聖なるもの」―第1
•第17章 その歴史における発現
•第18章 「なまなましいもの」の要素
•第19章 アプリオリな篇中としての「聖なるもの」―第2
•第20章 「聖なるもの」の出現
•第21章 原始キリスト教における預覚
•第22章 現代のキリスト教における預覚
•第23章 宗教的アプリオリと歴史
•付属論文
問題と方法
• 問題
「すべての有神論における神観念一般に とって、とりわけキリスト教的神観念に とって重要なことは、それが精神、理性、
意志、善なる意志、全能、本質的統一者、
意識者などとの賓[ひん]辞と結びついて、神 を明確に捉え、言い表わすことであり、し たがってまた神は同時に、人間が自分自身 のうちに不十分な限られた形で認知する人 格的、理性的なものからの類比によって思 惟されることである」[オット―1992
(1917):9]→「合理的」宗教
「しかしながら、たとい合理的な諸賓辞が前 景に現れるのが普通だとしても、それらが 神観念を汲みつくしているものでないこと は、それらの賓辞がまさしく非合理なもの に関しているからである。それらは本質的 な賓辞ではあるが、しかし本来主語のうち に包含されていない、すなわち綜合的に本 質的な賓辞である」オット―1992
(1917):10-11]
• 方法
「私たちはここで、『聖なるもの』(das Heilige)という特異な範疇について、以上 のことを研究しよう。ある事柄を『聖なる もの』と認め承認することは、まずそのよ うには、ただ宗教の領域だけに現われてく る特異な価値判断である」[オット―1992
(1917):14]。
「この目的のために私は、まずヌミノーゼ (das Numinöse)なる語を作って見た。…そ して私は、特異なヌウメン的な解明と価値 判断との範疇について語り、さらにこの範 疇が適用されるところ、すなわちある対象 がヌウメン的と考えられるところで常に引 き起こされるヌウメン的な、心情の調子に ついて語るであろう」[オット―1992
(1917):16]
考察
•
要素第1:被造者感情
「私は塵と灰とですが、私の主にあえて申し上げます」
[創18:27]
•
要素第2:戦慄すべき秘儀
①戦慄すべき:「神ここにいましたもう。わが内なるも のはいっさいもだせ。み前にかしこみ、ひれ伏せ」[テ ルスェゲン、オット―1992(1917):30より]
②優越:「その時、いと高き主が私にその秘密を現わし、
私のうちにそのあらゆる栄光を啓示された」[ボスタミ、
オット―1992(1917):37]
③力あるもの:「人間の心を動かし、『情熱』を起こさ せ、異常な緊張と活力とみ満たさせる」[オット―1992
(1917):41]
④秘儀:「理解される神は、神ではない」[テルスェゲン、
オット―1992(1917):43より]
•
要素第3:賛美
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、そ の栄光は全地に満つ」[イザ6:3]
•
要素第4:魅するもの
「私たちは畏れをもって聖所を拝すると同時に、そこか ら逃れようとしないで、さらに近づこうとする」[ル ター、オット―1992(1917):59より]→「儀式的行 為」「献身」と「魔法[シャーマン]的手段」
•
要素第5:巨怪なるもの
「不幸なる者よ、わたしはなお力を回復していない。あ る全く予期しないことに出会うとき、ある巨怪なるも のを見るとき、私の魂はしばらく立ち留まって、それ に較べるものは他に一つもないと思う」[ゲーテ、オッ ト―1992(1917):77-78より]
•
要素第6:神聖、崇高なるもの
「私は汚れた唇の者で、汚れた国民の中から出ていま す」[イザヤ6:4]
「主よ、私から離れて下さい。私は罪人です」[ペテロ、
オット―1992(1917):92より]
結論
• 「非合理性」
「私たちは、神観念における『合理的なも の』を、その観念について、私たちの理解 力が明らかにし得る範囲内のもの、すなわ ち熟知し、定義し得る範囲の概念に属する ものを意味した。そして次に、この明らか に理解し得る範域のまわりに、暗い深淵が よこたわっていて、私たちの感情にではな く、概念的な思惟には到達しないのであり、
その限りにおいて、それを『非合理なも の』と呼ぼうとするのである」[オットー 1992(1917):104]
• ヌミノーゼの表出方法
①直接方法
②間接方法
③芸術におけるヌノノーゼの表出
• アプリオリな範疇としての
「聖なるもの」と歴史
①刺戟と素質との交互作用の間に行われる人間精 神の歴史的発展の中において、素質そのものが、
その作用により、実現され、形成され、かつ決 定される
②素質そのものにより、歴史の一定の部分は、聖 なるものの出現として感知しつつ認められ、そ してこの認識が第一に述べた素質の持つ体験の 種類と程度とに変化を来らせる
③第一と第二の要素の上に、認識と心情と意志と のうちにおいて、聖なるものとの協同が生じる [オットー1992(1917): 265-266]
→①一般的素養(芸術家)、②預言者、③御子
成熟について
聖なるもの
•ヘネップの「聖」
「ここで私は“聖”という概念の両 義性について簡単に触れておこう と思う。この表現(およびこれに 対する儀礼)の特徴は可変的であ るということである。聖なるもの がすなわち絶対的なものではなく、
その価値は個々の状況を通じてあ らわれてくるのである。…人生の 行程の中でこの二つの世界、聖と 俗を経験するものは、物の見方や 分類の仕方によって、今まで俗で あったものが、あるときは聖に なったり、またその逆にもなる、
というふうに価値が転換するのを 目のあたりにするのである」[ヘ ネップ2012(1909): 24-25]
•デュルケムの「聖」
「消極的礼拝の重要さがどうであ れ…それは宗教生活へは誘うが、
この生活を構成すると言うよりは、
むしろ、これを前提にしている。
消極的礼拝が俗界に逃れることを 信徒に命ずるのは、信徒を聖界に 接近させるためで。人は、宗教力 への自己の義務があらゆる交通の 禁戒にのみ帰される、とは、けっ して、考えなかった。自らは宗教 力と双務的な積極的関係―儀礼行 事の総体はこれを規定し組織する のが機能である―を維持している、
と常にみなしていた。この特別な 儀礼の体系に、われわれは積極的 礼拝の名を与えよう」[デュルケ ム1991b(1912):165]
•オットーの「聖」
「私たちはここで、『聖なるも の』(das Heilige)という特異な 範疇について、以上のことを研 究しよう。ある事柄を『聖なる もの』と認め承認することは、
まずそのようには、ただ宗教の 領域だけに現われてくる特異な 価値判断である」[オット―1992
(1917):14]。
「この目的のために私は、まずヌ ミノーゼ(das Numinöse)なる語 を作って見た。…そして私は、
特異なヌウメン的な解明と価値 判断との範疇について語り、さ らにこの範疇が適用されるとこ ろ、すなわちある対象がヌウメ ン的と考えられるところで常に 引き起こされるヌウメン的な、
心情の調子について語るであろ う」[オット―1992(1917):
16]
宗教哲学の現在
•
宗教哲学
井筒俊彦1984『意識と本質―精神的東洋を 索めて』岩波書店
津田眞一1987『反密教学』リブロポート 五十嵐一1989『神秘主義のエクリチュー ル』法蔵館
•
エラノス会議
http://www.eranosfoundation.org/
参照文献
上山安敏 1984『神話と科学―ヨーロッパ知識社会 世紀末~20世紀』岩波書店
上山安敏 1989『フロイトとユング―精神分析運動とヨーロッパ知識社会』岩波書店
オットー、ルドルフ1992(1917)『聖なるもの』山谷省吾訳 岩波文庫 クレー、パウル1961(1957)『クレーの日記』南原実訳 新潮社 高橋巌1986『若きシュタイナーとその時代』平川出版社 中沢新一1991『東方的』せりか書房