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社会学概論レジュメ 2008.4.21.Mon. 文責:薄葉([email protected]

A. 自己の社会的構成 1. ミードの自己論

a. 「私とは何か」を問う私

・「私(自己)とは何か」という問いは、昔から哲学や宗教上の大問題だった。多くの偉大な哲学者や宗教 家が、様々なやり方でそれを問い、考え抜いてきた。また、私たちが生きている現代社会では、「自分探 し」という言葉に象徴されるように、哲学者や宗教家だけでなく、多くの人々が「私とは何だろうか」と 自分自身のあり方を問い、考え、迷い、探求している。

・では、社会学は、この昔からの大問題に対してどのような見方を提示することができるのだろうか?

・じつは、「私とは何か」というこの問いの形そのものがすでに、「私」の最も本質的なあり方を明瞭に示 しているのではないかと、社会学者は考えている。その「形」をはっきりさせるために、この問いをもう 少しキチンと書き直してみよう。すると、<「私とは何か」と私が問う>になる。英語で書くとより分か りやすいかもしれない:

 I ask myself what I am.

・2つの「私」が登場していることに注目されたい。つまり、<問う私(I)>と<問われる私(myself)

>である。社会学者は、このように「私」を二重化する問いの発し方に着目する。「二重化する」という と難しく聞こえるが、たとえば、鏡を見ながら化粧をしたり身繕いをしているときや、一日の自分を振り 返って日記をつけているときなど、私たちはいつでも自分自身を<見る自分>と<見られる自分>とに二 重化している。

・このように、「私」とは本質的に二重化された存在である、というのが社会学の第一の洞察である。<見 る・見られる>を言い直すなら、「自分が自分自身に関係する」といいうことである。英語の構文を見て いただきたい。「私(I)」が「私自身(myself)」に働きかけている(ask)。したがって、第一の洞察は、次 のように言い換えることができる:

「自己とは自分自身へと関係づけられることである」、と。

注:このように、自己が自分自身を対象として働きかける関係のことを「再帰的関係」と呼ぶ。英語の

「~self」のことを「再帰代名詞」というが、それはこのことをさしている。

b. 内なる他者

・自己が二重化している(分裂している)という知見それ自体は、さほど奇異なものではないだろう。しか し、社会学者はそこから更にもう一歩踏み込む。「自分自身に関係づけられる」とは、実は、自分自身を

「他人の目」で眺めることなのではないか。

・例えば、鏡を見ながら身だしなみを整えるときのことを考えてみよう。鏡に映った自分の姿を眺めている その視点は誰のものだろうか?髪の毛の寝ぐせを直すとき、曲がったネクタイを直すとき、口紅の色が派 手すぎないかとチェックするとき、それはいったい誰の視点からそうしているのだろうか。このとき重要 なのは、「自分自身にとってどう見えているか」、ということではない。そうではなく、「他人の目には どう映るか」が肝心なのである。つまり、このとき、鏡を見ている私(b)は、いわば「他人のまなざし」

で自分自身(a)を見ていると言えるのである。私たちのなかに「他者」が住んでいるといってもいいかも しれない。

・それでは、この自分自身をモニターするこの「内なる他者」はどのようにして形成されるのだろうか?こ の問題について卓抜な知見を示したのが、アメリカの哲学者・社会心理学者G.H.ミード(注)である。以 下、ミードの見解を少し詳細にたどることにしよう。

(注)George Herbert Mead(1863-1931)

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 ジョージ・ハーバード・ミードは南北戦争がまだ集結しない1863年2月27日、アメリカ北東部のマサ チューセッツ州サウス・ハドレーに生まれた。父親は会衆派教会の牧師、母親は人文学博士号をも ち、オバリン大学・マウント・ホリヨーク大学で教えた、当時としては希有な女性であった。

 ミードは1879年から84年までオバリン大学で過ごし、卒業すると小学校教師の職に就いたものの4ヶ 月で辞め、ウィスコンシン中央鉄道会社の測量団に加わり、合衆国とカナダを結ぶ鉄道の建設現場で3 年間働いた。

 その後、1887年、24歳でハーバード大学に入学し、哲学・心理学などを学び始めた。翌年にはドイ ツに留学、親友の妹と学生結婚し、1891年、28歳でハーバードを卒業するとミシガン大学に講師とし て赴任、さらにその3年後にシカゴ大学哲学部に迎えられ、1931年4月26日にこの世を去るまで、終生 をそこで過ごした。

 哲学者・社会学者・社会心理学者・プラグマティスト・社会行動主義者・シンボリック相互作用論 など、様々な分野に影響を及ぼした知の巨人である。彼は膨大な論文を発表しながら、終生、まと まった著作を出すことはなかった。『精神・自我・社会』は、彼の死後、その講義録をまとめたもの である。

c. 役割取得

・自己意識、すなわち自分自身を対象化(モニター)する意識は、人間に生まれつき備わっているものでは ない。それは、子どもが他者とのコミュニケーションのなかで、他者の役割(自分に対する期待や反応)

を取り入れることによってしだいに形成されていくものである。この過程をミードは「役割取得(role taking)」と呼んだ。

・ミードは、その端緒を、子どもが誰かのふりをして遊ぶ「ごっこ遊び」のうちに見出す。子どもはごっこ 遊びの中で母親になったり、父親になったり、先生になったり、アニメのヒーローになったりして遊ぶ。

たとえば、ままごと遊びで母親役の子どもが自分の母親とそっくりの口調で小言を言っているのを見て驚 くことがあるが、このとき子どもは自分に対する母親の反応、たとえば、引っ張り出したおもちゃを放っ たらかしにしている時の母親の反応(=役割)を取り入れているのである。

注:このように、子どもが日常的に接していて、自己形成に大きな影響を及ぼす人物のことをミードは

「重要な他者」(significant others)と呼んだ。

・この段階ではまだ、「私がおもちゃを片付けないとママは怒る」である。しかし、次第に母親ばかりでな く、父親も先生も引っ張り出したおもちゃを片付けないと怒ることが分かってくる。そうすると、後片付 けをしないことに対する母親の反応だけでなく、父親の反応、先生の反応も取り入れられ、それらはやが て一般化されて「大人は後片付けをしないと怒る」に変わっていく。その子が大好きな正義のヒーロー も、後片付けをしなければ怒るだろう。こうして、後片付けに対する社会全体(「一般化された他者」)

の反応が取り入れられ、「引っ張り出したおもちゃは片付けなければならない」という規則として内面化 されることとなる。そして、「後片付けをしないこと」が引き起こすであろう「一般化された他者」の反 応を自分のなかに呼び起こすことができるようになれば、子どもは目の前に大人が居なくてもおもちゃを 片付けるようになるだろう。

・これまでの話をモデル化したものが、下の図3である。

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・このように「自己」は、その発生においても、その作動においても、「他者とのコミュニケーション」を 前提としている。ミードはこのような自己のあり方を「社会的潮流のなかの渦」にたとえている。

「自己とは、まず存在していて、その次に他者と関係をむすんでいくようなものではなく、それは社会 的潮流のなかの、いわば小さな渦で、したがって社会的潮流の一部でもある」(ミード 1934=1973『精 神・自我・社会』195頁

・自己とは、社会的潮流に浮かんでいる舟ではない。舟は潮流からすくい上げても、舟のままである。しか し、渦はすくいとることはできない。渦を潮流からすくい上げれば、それはたちまち消えてしまう。自己 とは自己のうちで進行している社会的過程に他ならないのであり、この社会的過程から切り離されれば、

自己は存在し得ないのである。

d. 「I(主我)」と「me(客我)」

・ミードは、自己のうちに取り入れられた「一般化された他者」の態度が自己のうちで組織化されたものを 客我(me)と呼ぶ(図3の<私Ⅰ>)。おもちゃをかたづけなければいけないだけではなく、他人のものを 盗んではいけないし、目上の人には挨拶をしなければいけないし、約束は守らねばならない。これらの他 者からの期待や態度が組織化されて、「me」を形作る。それは「自己のうちの他者」であり、自己のうち にある「社会の表象」である。

・「me」は自己に対して何らかの反応を要求する。「I」(主我)とは、この要求に対する自己の反応である

(図3の<私Ⅱ>)。自己とは、自己のうちで進行する「me」と「I」のあいだの内的な相互作用であ り、この相互作用が自己という渦を形作っているのである。

・もう1度、図1に戻ろう。鏡を見ながら身だしなみを整えるとき、重要なのは、「自分自身にとってどう見 えているか」、ということではない。そうではなく、「他人の目にはどう映るか」が肝心なのである。つ まり、このとき、鏡を見ている私(b)は、いわば「他人のまなざし」で自分自身(a)を見ているわけであ る。この「内なる他者のまなざし」こそ「me(客我)」に他ならない。

・さて、この「内なる他者」のまなざしで鏡に映った自分を眺めたとき、「どうも髪型がいけてないな」と 思って髪をかきあげたとする。他者のまなざしを受けて、「髪をかきあげる」という反応が導き出された わけだ。こうした反応が、すなわち「I(主我)」である。

・このことは鏡を前にしたときだけには限られない。日常生活のなかで人は常に自分自身のふるまいを「内 なる鏡」に映し出し、それをモニターしながら調整と修正を繰り返している。この場合もやはり自己は他 者の視点から自分自身をモニターしているものだ。ミードは、このモニタリングについて、行為したり反 応したりする自己を「主我(I)」、それを眺める他者の視点を「客我(me)」と読んだわけである。「I」

(主我)は内なる他者のまなざしである「me(客我)」に規定されながら行為の仕方を調整・修正していく のであり、両者は絶えざる「対話の過程」に置かれているといってよい。

e. 自己・役割・制度

・ミードは、「ある特定の情況に対する共同社会の全成員の側の共通した反応」を「制度」と呼ぶ。この共 通の反応(役割)を自己の内に取り入れたものが「me」である。「me」はつねに制度(=社会)の要求を 代弁しており、その意味で「因習的」だ。

・「I」はこの内面化された共通の反応を前提にして、それに対する自分の反応を決める。「I」は自覚的に 制度の欲求に応え、それに献身しようとするかもしれないし、惰性的にそれに従うかもしれない。だが、

「I」は制度の要求を拒んで自分の主張を押し通そうとする場合もある。あるいは、制度の要求に従って いるときでさえ、「I」は思っても見なかったような反応をしてしまう場合がある。

・いずれにせよ、「I」は制度(「me」)の要求に対する自分の反応を通して、制度に逆に影響を与え、不

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断に制度を変化させていく。一人の少年がフットボールのゲームで思わずボールを拾い上げて走り出した ことが新しい規則を生み、「ラグビー」という新たなゲームが創り出されたことは1つの例である。この ように「I」の反応を通して制度が更新されると、次にはそれが新たな「me」として取り入れられ、それ に伴って自己もまた更新されていく。

・ミードは、社会を前提としてはじめて存在しうるにもかかわらず、社会に対する反応を通して、社会を変 えていく、このような自己のあり方を「創発的な自己」と呼んでいる。

・自己は「社会的潮流のなかの小さな渦」であった。だが、この渦は他の渦と相互に作用し合って、大きな 渦となり、ときには潮流そのものを変化させることがある。そして、潮流が変化するとき、渦もまた前と 同じではありえない。なぜなら、渦もまた潮流そのものに他ならないからである。ミードにおいては、自 己も社会も蕩々と流れる巨大な潮流の一部分なのである。

2. 参考文献

・浅野智彦 1997「自我論になにができるか―関係・パラドクス・再帰性―」奥村隆(編)『社会学になに ができるか』八千代出版、1章

・浜日出夫 2007「相互行為と自己」長谷川公一・浜日出夫・藤村正之・町村敬志『社会学』有斐閣、第2章 3. 社会学概論ホームページ

a. http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Takeshi.Usuba/

Referensi

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