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薄葉([email protected]) A. 前回の復習とみんなのレポート 1. 前

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社会学概論資料 2008.8.4.Mon. 文責:薄葉([email protected]

A. 前回の復習とみんなのレポート 1. 前回の復習

2. みんなのレポートから a. 部活

1)  「私が今まで18年間生きてきた中で物語を作り上げるとするならば、「部活物語」というテーマである。その物 語は、たった5年間のことでしかないが小学校を6年間過ごしてきた時の事より濃い日々であった。

私は中高一貫の学校に通い、中学2年の時吹奏楽部に入部した。中学の部活では、楽器の素晴らしさ、みんなで演奏 する楽しさを得た。何の気なしに入ったが、気が付くと高校に上がっても続けていた。高校の吹奏楽は京都府の中で は有名で、練習はとても厳しかった。毎年と言っても良いほど、大会では金賞を受賞して京都府代表に選ばれてい た。そんな中で私も高校3年になり、私たち部員の中では今までの先輩のレールに乗り京都府代表に選ばれなければ いけないという責任が重くのしかかっていた。そんなプレッシャーのせいなのか、部活内の空気は重くぎすぎすして いた。このままではいけないと思い、部員みんなで話し合って結果「私たちは私たち。結果の為に頑張るのは辞めよ う。自分たちが楽しめる、納得の出来る演奏をしよう。」という方針に変わった。すると、大会でも審査員に私たち の気持ちが伝わったのか、その年も例年通り京都府代表に選ばれることが出来た。関西大会でも方針は変えずに出場 した。その時の演奏は今でも忘れない。そうやって、泣いて笑って仲間と過ごした私の青春は終わった。

何事も続かない、続ける事が苦手な私であったがこの部活だけは続けられた。それは楽器の魅力に惹かれまた、か けがえのない仲間と出逢えたからこそである。この経験をした事で、これから先大きな壁にぶち当たったとしても乗 り越えていける自信が有る。」

2)  「私は、中学生の頃ハンドボール部に所属していた。中学2年生までは先輩とチームを作って試合に出ていたのだ が当時、先輩のいじめがひどく何度も部活を辞めることを考えた。私の学年は元々多くの人が入部したが、先輩のい じめにより最終的に残ったのは3人だけとなった。試合に出るには最低でも7人は必要で気づけば私たちが辞めれば 試合をできないほどの人数にまで減ってしまった。先輩のいじめに耐えきったのは、最後まで一緒に戦い続けた友達 がいたからもあったが、一番の理由はハンドボールが純粋に好きだったからだ。先輩が引退してから人数が入ないた めに満足に練習もできない日々が続いた。それでも「ハンドがしたい!」の一心で部活を続けた。私たちの引退がだ んだん近づいてきた頃何とか試合ができる人数まで部員を増やすことができたが、急に入ってすぐうまくなる訳では ないので結局、引退試合には出場したが、不完全燃焼のようなもやもやした気持ちを残しての引退となってしまっ た。

 そして高校受験で志望校を決める時、私は一番の条件にハンドボール部のある学校を探した。そして自分のできる ハンドのレベルを考えて受験校を決定し無事入学することができた。春休みから練習に参加させてもらい、練習試合 にも参加した。同学年の人とプレーについていろいろ言い合ったりもしていた。しかし、入学して授業が始まりか け、同学年の中で揉め合いが起きた。ハンドのレベルの違いが原因であった。私はその一件で一気にハンドに対する 熱が冷めてしまった。結局入部すら辞めてしまった。同学年の友達は教室にまで来てくれて説得してくれたし、卒業 までに何度も誘ってくれたが私は最後まで入部することは無かった。

 この後私は、中学の頃にはしなかったやる前から諦めるという、逃げる人生を歩むようになった。中学の頃のよう に戦い抜く精神を持ちつづけていれば、もっとまともな人間になれていたのかもしれないと今でも思う。」

b. 異文化体験

 「私は昔から自分に自信がなく、自分に対して、「私はダメな子だ。私の容姿は最悪だ。」と思い込んでいた。なので つねにタオルを持ち歩き、人と話すときも口にタオルをあてて顔があまりわからないようにしていた。自分に自信がもて ないためつねに周りの目ばかりを気にしながら生活するのは精神的にとても苦痛であった。自分に自信がないため、仲間 内でもなかなか自己主張をすることができず、他人に自分の意見を言うことができないため、人の意見に「YES」と返事 をするだけだった。

 そんな時、私は担任の先生に海外でのホームスティを勧められた。その時の私は、ホームスティなど行きたくはなかっ たが先生が熱心に勧めることもあり先生に対して、「NO」とは言えなかった。しかし、このことが私を変える大きな きっかけとなった。

 私のホームスティ先はニュージーランドだった。NZはとても温暖な気候でゆっくりとした時間が流れる場所だった。

私はもともと英会話が得意だったが、はじめのうちはなかなかホストファミリーと会話をすることができず、日本にいる 頃と同じで、ほとんどのことに「YES」と答えていた。

 そんなある日ホストマザーが私に「どうしてあなたはYESなの?」と聞いてきた。私は、少し躊躇していたものの誰に も話したことのなかった本当の自分について話すことにした。すべてを話したときホストマザーは私の目を見ながら「あ なたにはあなたの輝きがある。それはあなたが輝かさないといけない。何も怖がらないで大丈夫。あなたはあなたなりの 輝き方をしてみなさい。」と言われた。私はこの言葉に感銘を受けた。私はその頃から少しずつ自分を隠すことをやめ、

自分の意見を持ち、他人に対して躊躇せず自分自身をだしていくことができた。

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 しかし、日本に帰国するとやはり他人の目が怖くなり今までの自分にもどりそうになっていた。けれど、ホストマザー の言葉を思い出し怖がらずに他人に対して自分自身を主張することを続けた。すると、今までみていたまわりの景色がま るで変わったかのように、他人と接することに苦痛を感じなくなった。そして、今の私がいるのだと思う。

 この私の経験のように、他人の言葉でその人の物語が変わっていくのだと考える。自分自身のことを他人に話すのはな かなか難しい。しかし、一歩ふみだし他人に自己を語ることがその人に対して重要なこととなる場合がありえるのだとわ かった。「語り」とは人の物語においてのキーポイントなのかもしれない。」

c. 出会いの大切さ

1)  「私自身、現在はアルバイトをやりながら大学に通うごく普通の生活を送っているが、ここまでにたくさんの出来 事があったからこそ今の自分がある。現在、京都ノートルダム女子大学の英文科に所属しているが、もちろんそれは 生まれた時から決まっていたことではない。私がこの大学に決めたのは高校三年の私の担任の勧めがあったからだ。

私は三年の夏まで全く大学進学という進路を考えていなかった。当時の私は大学で四年間も勉強をする時間があるな ら専門学校で何か資格を取って就職したほうが自分には良いと思っていた。大学進学をという道を考えたことがな かったため何の魅力も感じていなっかたのだ。

 当時私は国際科という学科に所属しておりクラスは2クラスしかなく毎年大学へ進学するのはそのうちの4割にも 満たないくらいだというのも知っていたが、そろそろ進路の話をする時期になってみると大学進学を考えている友達 が多く、専門学校に行くつもりでいたが周りの影響もあって自分の将来を考えると二年間学校に通い資格を取って一 つに絞り込むより、大学で時間をかけ視野を広げることで可能性も広げたいと考えるようになった。

 急な進路変更に当時の担任には毎日といって良いほど放課後相談していた。周りはどの大学を受験すると決まって いるのが当たり前の中、私はまず大学で何を学びたいのかすら定まっていなかった。せっかく国際科に所属し留学経 験もあり英語を苦に感じたことも無かったため英語を専攻することにし、大学に行くのなら親元を離れて自立したい と考えていた。その当時は他大学の受験を考えていたが、初め専門学校に行くつもりだった私はもちろんセンター試 験に向けての受験勉強は全くしていなかった。そのため時間も余裕も残されていなかったのだ。半ば諦めかけていた 私に担任の先生は情報収集をしてくれ京都ノートルダム女子大学の指定校推薦を勧めてくれた。現在の自分があるの は当時の担任の協力と熱意があったからだ。

 ここでは私の大学進学の過程を挙げたが、大学生になってからの新たな出会いや環境も私の一部であり、これから 先も卒業や就職、結婚、出産など当然他人とは違う自分だけの出会いや経験が新たなストーリーを作っていくのだろ う。」

2)  「私は、大学で心理学を勉強したくて心理学部に入学した。それには、理由が二つある。一つ目の理由は、例えば 筆者自身、英語が物凄く得意だったり国語が物凄く得意だったならば英文科に進んだり文学部に進んだりしたと思 う。しかし、高校までのテストが標準に出来る程度で応用は出来なかったのでそのような学部に入ったとしてもつい ていけないと思った。これが一つ理由だ。

 二つ目の理由は、中学校の時に、母の会社の上司の子供で憧れていた人がいて、その人が大学で心理学を勉強して いるという話を聞いて筆者自身も心理の道にすすみたいと思った。そう思うまでの道のりは長かったが。

 中学の時、その人から心理の勉強をしていると聞いていた際は、筆者も若い時で将来の事はあまり考えていなかっ た。ただ、その時に統計の教科書を見して貰ったのだが難しそうで筆者には出来ないなと思ったりもした。筆者は、

中高一貫だったので進路も考えておらず毎日平凡な日々を送っていた。そして、高二になり、とうとう進学の事を本 格的に考えないといけない時期がやってきた。

 ある日、母に筆者が憧れていた人は今どうしているのかを聞いた。大学院に進学する為に勉強しているみたいと答 えがかえってきた。憧れていた人は大学で心理を学んでいて心理の魅力にはまってしまい、もっと勉強したいと思っ たらしいのだ。筆者はビックリした。でも、もっとビックリさせられた事があった。それは、憧れていた人が心理の 道に進んだ理由だった。憧れていた人は中高一貫の進学校に通っていた。そこで、対人関係のズレや学校に行っても 意味ないのではないかと考え自主退学したらしい。退学してから一所懸命勉強して大検を取ったと聞いた。そして、

「自分みたいな学校行くのが嫌だなと考えている子・悩んでいる子がいたら先生よりも自分の方がその子の気持ちが 分かるからカウンセラーになって少しでも助けてあげたい。」

と思い心理学部に進学したと聞いた。筆者は、その話を聞いた際、良い話過ぎて言葉が出なかった。筆者自身の、考 え方も非常に変わり筆者も中高時代、同じ事の繰り返しの生活なので学校が嫌になった時期があった。なので、同じ ような考えをもっている子たちの助けを出来るのではないかと考えた。憧れていた人に出会いやりたい事もでき人生 観が変わった瞬間だった。筆者は、そうして心理学部に入れ勉強できとても満足している。」

d. 「語りの場」を持つことの重要性

1)  「今まで生きてきた中で、自分を見つめ直す機会は数多くあったように思う。家族や友人と喧嘩をしたとき、進路 などの事で悩んでいるとき、壁にぶつかって挫けそうになったときなど、「自分は一体、何なのだろう」、「自分に は何ができるのだろう」と、何度も自分と向き合ってきたと思う。その中でも、特に自分を見つめ直す大きなきっか けとなったのは、「SADE」と呼ばれる、カトリックの青年たちの集まりであった。SADEはSons And Daughters Encounterの略称で、直訳すると「息子と娘たちのエンカウンター」である。このSADEには高校二年生、大学二年生、

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大学三年生、といままで三回参加している。中学生以上の青年たちが、時計や携帯のない中で三日間生活を共にし、

テーマごとに自分や家族、友人のことを深く見つめなおし、自由に語り、他の参加者はそれを批判することなく「そ のまま」聴くというプログラムである。自分のことを語るのは、恥ずかしい。こんなくだらないことを話しても、だ れも聞いてはくれないだろう。最初はそう思っていた。しかし、一緒に過ごす時間が延びるにつれ、そこには信頼が 生まれる。私の話に涙して聴いてくれた人もいた。すべてのプログラムが終わる頃には、まだまだ話したい事が山ほ どあって仕方なかったのを、昨日のことのように覚えている。

 間接的なやりとりが増えたこの時代において、直接的なやりとりや関わり合いの温かさは、他の何にも変えがたい ものだと思う。」

2)  「私は、高校から女子高に進学したのだが、入学した頃、女ばかりの環境に慣れる前に大きなギャップを感じると ともに、自分の存在価値を否定された気分に陥り、学校もクラスメートも先生も嫌いになってしまった。それから3年 間楽しむこともなく、ほとんどを無感情のまま過ごしていた。というのも、通っていた共学の中学校が毎日楽しくて 仕方がなく、「こんなに楽しい中学校を卒業してまで進む高校は、どんなに楽しいところなのか」と勝手に期待しす ぎていた、というのもその原因のひとつであると思う。そして高校を卒業し、そのままエスカレーターでこの大学に 入学することが決まった。そして、この京都ノートルダム女子大学に全く期待などすることもなく入学した。

 すると、同じように高校からノートルダム女学院に入学し、あまり楽しむことのできなかった友達も、この大学に 入学したことがわかった。その子は、私と似た境遇に置かれていることもあり、私の唯一の理解者とも言える子で あった。そして、その子と高校時代の出来事について語り合うことで、心が楽になれた気がした。そして、今の学校 生活を素直に楽しむことができている。その友達に出会えたことも、公立とは違う熱心な授業やハイレベルな英語の 授業を受けられたことも、ノートルダム女学院に通っていたおかげであるので、結果的にノートルダム女学院に入学 してよかったと思っている。

 高校卒業時点での自分は、何事も心から楽しむことができておらず、不幸な自分であった。楽しかった思い出は何 一つ思い浮かばず、全てマイナスの方向へ考える、支配的な物語に支配されていた。しかし、今の自分は「英語の授 業は熱心に頑張っていて、楽しく勉強できた」どか、「その友達と隣の席になったときに冗談を言ってふざけ合って いたことも楽しかった」とか、良かった出来事ばかりが思い起こされる。このように、ユニークな結果を導き出し、

もう一つの物語を構成することで、良い方向に考え、自分の進んだ道は間違っていなかったと思うことができる。そ してこの幸せな結果によって、過去の自分も幸せであったかのように物語を作り変えていることがわかる。実際に高 校の英語の授業で学んだことは、大学で英文科に進み、非常に役立っているし、高校からの友達と今も仲良くしてい る。

 過去の自分から今の自分を構成するのではなく、今の自分の状態(考え方)によって、過去の人生物語を描くの だ。どのような結果を持つのかによって、人生物語は幸せにも不幸にもなるのだ。「終わり良ければ全て良し」とい う言葉があるが、昔の人はこの心理的な変化を知って、この言葉を作ったのかも知れない。」

e. 受難の経験と克服の物語

1) 「筆者の兄は25歳の会社員で、中学高校時代バスケ部に所属していたこともありバスケが好きだった。しかしある休 日、兄の乗っていたバイクが横転し、大怪我をした。病院に担ぎ込まれた結果、脊髄損傷のため下半身がこの先一生 動かないことが明らかになった。

 車椅子生活になった兄は鬱になり、「なぜバイク免許なんか取ったんだ」「あんなにスピードを出さなきゃよかっ た」「なんで俺がこんな目に遭うんだ」と暗いことばかり言うようになった。私たち家族も、そんな兄をどう励ませ ばよいのか分からず困っていた。

 兄は長いあいだ病院で鬱々としていたが、ある日を境に兄はだんだん明るくなっていった。病院で兄に友だちが出 来たのである。友だちというのは兄と同じ車椅子の、小学3年生の女の子だった。その子はにこにこ笑いながら車椅子 で兄の後を追いかけていた。兄は、「あの子が俺のことをかっこいいって言ったんだ」と嬉しそうに話していた。兄 はその子に、自分が高校時代にバスケの大会で優勝したことなどを誇らしげに語るようになった。

 兄が鬱から抜け出せたのは、車椅子の女の子のおかげだと思う。退院した今でも、兄は車椅子バスケなどに参加 し、明るさを取り戻している。

 考察すると、兄は障害を負った当時は、嫌なことばかりが頭に浮かび、「バイク免許を取ったのが悪かった」「バ イクでスピードを出す癖が悪かった」など、否定的な自己物語を作っていたのだと思う。しかし、新しい友だちが出 来て、車椅子姿を「かっこいい」と言ってもらったことによって、兄は今の自分も悪くないと思えるようになり、過 去の楽しかった記憶もよみがえり、肯定的な自己物語を再び作ることが出来たのだと思う。」

2)  「私の自己物語が大きく変化したのは、中学生1年生の頃だった。正確に言うと、変化は二度訪れた。

 当時の私は、クラスの中では比較的おとなしい目立たないタイプだった。友達と連れだって遊ぶよりも、一人で絵 を描いたり、窓の外をぼんやり眺めたりするのが好きな、世間から見ると「少し変わっている」子だった。それで も、気の合う友達は何人かいたし、クラスで浮いているというわけでもなかったので、私は日々の生活に満足してい た。

 それが一変したのは、ゴールデンウィークが明けて間もなくのこと。クラスでいじめの標的になっていた子を私が 擁護しようとしたことで、今度は私自身にいじめの矛先が向いたのである。だが私も呑気なもので、やっかいなこと

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になったしまったけれど、友達もいるから、切り抜けていけるだろうと考えていた。それまで温室のような環境でほ のぼのと育ってしまった私には、いじめがどれほど怖いものか全く理解できていなかったのだ。

 次の日から無視をはじめとする陰湿ないじめが始まった。教室に入れば睨まれ、廊下ですれ違えば嘲笑され、席に ついていれば、後ろから消しゴムのカスやジュースの缶を投げつけられた。嫌みを言われたり、靴に画鋲を入れられ るのは日常茶飯事。更衣室ではリーダー格の女の子とその取り巻きに散々こづかれたりした。普段は無視をするくせ に、私が何か言おうとすると皆クスクスと笑った。そして私は何も言えなくなっていった。それが余計に立場を悪化 させると分かっていても、私にはもうどうすることもできなかった。クラス中が私のことを嫌っていた。私が庇おう とした子も、当然のように私を無視した。何より辛かったのは、友達と思っていた子達が掌を返したように向こう側 へ付いたことだ。その子達の口から私の悪口を聞くのは、胸がつぶれそうになるほど悲しかった。

 「うざい」「死ね」「学校来んな」

 そんな言葉を毎日聞いているうちに、私は自分自身に価値を見いだせなくなっていった。そしてそのうち、それは 自己嫌悪へと変わっていった。私は誰からも必要とされない、本当に駄目な情けない人間なのだと思うようになっ た。私はもう以前のように、大好きな絵を描くことも、朗らかに笑うことも、窓の外に広がる景色を綺麗だと思うこ とも出来なくなっていた。そして誰のことも信じられなくなっていた。誰かを信じて、また裏切られるのが怖かっ た。いじめられていることを親や先生に打ち明けることは出来なかった。それをすることは私のプライドが許さな かったし、打ち明けたところでいじめがなくなるとは到底思えなかったからだ。とにかく私は一人で耐えるしかな かった。そして季節はいつしか冬になっていた。

 そんなある日、転機は突然やってきた。転機と言うより、救いといった方が正しいかもしれない。その日私は、体 育の授業を休んで教室で一人待機していた。霙が降る寒い日だった。いつもはクラスの男子が占領している大型ス トーブの前に座り、暖を取っていると、誰かがバタバタと教室へ走り込んできた。見てみると同じクラスのT君だっ た。半袖姿の彼は席に引っかけてあったパーカーを引っ掴むと、また教室を出て行こうとしたが、私に気付くとふい に足を止めて言った。

 「授業行かへんの?」

 その言葉に、私は頷くのが精一杯だった。何しろ学校で誰かに話しかけられるのは半年ぶりだったからだ。それにT 君とは入学当初席が隣同士だったというだけで、あまり話したこともなかった。どうしたらいいものかと躊躇してい ると、彼は「じゃあ僕もサボる」と言って私の隣に座った。濡れたジャージの裾をストーブで渇かすT君を、私は呆然 と眺めるしかなかった。どうしてそんなに普通に振る舞えるのだろう。私のクラスでの立ち位置は分かっているはず なのに。

 そう思っていると、T君は突然私の方を見て、開口一番に「ごめんな」と言った。いじめられているのを分かってい たのに、何もしてやれなくて悪かった、僕はお前のこと嫌いだなんて思ってないから、と。そして彼は、私さえ良け れば今日から僕たちと行動しよう、と言ってくれた。その言葉を聞いて、私は小さな子供のように泣いてしまった。

私の存在を許してくれる人がいたことがただ嬉しくてたまらなかった。このままでは本当に押し潰される。今からで も立ち向かわなければいけない。T君は私にそう思わせてくれたのだった。

 それから暫くして、私に対するいじめはぷっつりとなくなった。T君とその友達を介して、クラスの男子が私の肩を 持ってくれるようになったからだ。私自身はどうだったかというと、心に余裕が出来て、前以上によく笑うように なっていた。自己嫌悪にかられることもなくなり、自分の思うように行動できるようになった。

 自己嫌悪に悩まされている人間に「自分のことを好きになりなさい」と言う人がよくいる。だが私は、それは無理 だと思う。自分の好きなところが見つからないから人は自己嫌悪に陥るのだ。無理に好きなところを探したところ で、ただ虚しさが募るだけではないだろうか。誰かに自分の存在を認めてもらえてはじめて、自分のことを好きにな れるのだと思う。実際私もそうだった。認めてもらえたから、生き直すことが出来たのだ。あの出来事が私の人生に おける一つの変わり目だったと思う。」

B. ネットワークとしての社会 1. ネットワークと私・我々

a. 内部にある自己?

 われわれがふだん「個性」という言葉を用いるとき、例えば「あの人は優れた個性の持ち主だ」とか「生徒の個性を伸 ばす教育が必要だ」などというとき、「個性」という概念は通常「一個人の身体的な、そしてとりわけ精神的・内面的な 特性」という意味で用いられている。「個性」あるいは「本当の私」は自分の内面に生まれつき備わっており、自分の外 部に存在する「他者」や「事物」からは壁のようなもので隔てられているというこのような感覚は、われわれにとってき わめて自明なものに思える。

 しかし、こうした感覚やイメージは必ずしも現実を反映したものでない。そもそも、私の「内部」と「外部」を隔てて いる境界はどこにあるのだろう?一般的には自分の身体は自分のものだとされている。ということは、皮膚の外皮までが

「私」なのだろうか?だが、通常われわれの身体は衣服でくるまれているわけだから、着用した衣服までがわれわれの

「自己」ということになりはしまいか?しかしこんな例はどうだろう。満員電車の中では他者と体の一部が接触してもそ れほど気にならないのに、空いている車内で他にも座れるスペースが十分ある時に、知らない乗客が自分のすぐ隣りに

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座ったりすると、その相手とは身体的には接触していないにもかかわらず「私の領分」に侵入されたような気になる。あ るいは、自分の母校の学生が不祥事を起こしたニュースを聞くと、まるで自分も傷つけられたように感じる…。

 このように考えていくと、これまで自明なものに感じられた「内部にある私/主体」と「外部にある他者/客体」とい う前提自体がゆらいでくる。少なくとも、自他を分け隔てる「壁」というのは堅固な実体ではないようだ。それでは、

「自己」や「私」をより適切に把握するにはどうすればよいのだろうか?

b. 関係のネットワーク

 ドイツの社会学者ノルベルト・エリアス(1897-1990)は、このように外部から「閉ざされた私」という意識から解放さ れるためには、「内なる私」から出発するのではなく、そのような「私」自身を「距離」をおいて眺めて見る必要がある という。すると見えてくるのは、他者と多様な関係を形成している「私」たちが相互に織りなしている「諸関係のネット ワーク」である。

 以下の図1は、「私」と他者との関係を「(人称)代名詞」に着目してモデル化したものである。「私」にとって比較 的親密な関係を結んでいるが二人称で呼ばれるグループであり、比較的遠い関係の人々が三人称で呼ばれるグループであ る。ただし、同じ人称でも「君」「あなた」「お前」では「私」との関係は異なってくるし、三人称で呼ばれていた

「彼」が関係の深まりとともに「君」となったりその逆のケースもあり得るように、この関係図は時間や状況とともに絶 えず変化してゆく。

 人々を結んでいる関係線の太さは関係の密度を示している。<依存>(親と子、教師と生徒、介護者と被介護者など)

や<互酬>(契約、友情など)・<敵対>など様々な関係が考えられるが、関係そのものには多様な要素が含まれること があり得る(例えば、友情関係にライバル感情が紛れ込んだり、愛情と憎悪が相半ばしたりするような例がそうであ る)。また、互酬的(=対等)に見える関係にも、異なるパワー・バランスが潜んでいることが一般的である(百パーセ ントの両想いはありえない)。親子関係のように、時間と共に権力のバランスや依存の方向が変わってゆく関係もある

(扶養する側から扶養される側へ)。

注: 注意しなければならないのは、このイメージがあくまである一人の「私」を中心としたものであって、異なる

「私」の視点をとればこれとは別のイメージを描きうることである。例えば、「私」にとって「あなた」の位置にいる 人の視点からは、「私」は三人称の位置に置かれるかもしれない。自分は相手のことを「親友」だと思っていたのに、

相手は「単なる友達の一人」としか見ていなかった、という話はよくある事例だし、「片想い」などもこれに相当する だろう。こうした「視点のズレ」が人間関係の悲喜劇をもたらすのである。

(6)

名前

~さん 彼

お前

彼女 あいつ

あなた 君

図1:代名詞モデル

 さて、次に重要なのは「我々(We)」として認識されるグループ(圏)である。「我々」のグループは様々な線引きをす ることができる。「私」と「あなた/君/おまえ」からなる親密な二人集団を「我々」としてくくることもできるし、血縁 でつながった親密な集団も「私たちの家族は~」というように「我々」として線引きすることができる。さらに、学校・

地域・国家についても同様のくくり方が可能であるし、さらにこの線引きの環を最大限に拡げれば、「全人類」をそのな かに含めることが可能であろう。このように様々な区切りが可能な「我々」こそ、通常「社会」と呼ばれているものに他 ならない。以上のことををイメージしたものが次の図2である。

 このように考えていくと、「個人」と「社会」は相互に分離し得る二つの実体などではなく、同じ一つのネットワーク を異なる距離から見た「視点」に他ならないことが分かる。レンズの焦点を一人の人間に合わせた視点が「個人/自己/

私」であり、距離を置いて複数の人々のネットワークを収めた視点が「社会」である。距離の取り方や焦点の合わせ方

(「我々」の区切り方)によって、複数の「社会」像があり得る。親密な二者関係から始まって家族・地域・国家、そし て距離を最大に取れば「全人類」というイメージを得ることができる。これらのどのイメージも「リアル」であるが、ど れもが短縮された光景である。それゆえ、これらの複数の視点を分離するのではなく「総合」することによってより包括 的な人間理解が得られるとエリアスは言う。

 注意しなければならないのは、社会圏の内部と外部を分離して考えないことである。圏の内部にいる「私」から見て外 部にいる人々はしばしば、「彼ら」のような三人称複数形や抽象的なカテゴリー(「犯罪者」「異常者」)で一括りにさ れ、あたかも「私」や「我々」とは無関係であるかのように扱われる。しかし、図2からも明らかなように、「私」は

「彼ら」の一人一人と直接的・間接的に結ばれており、影響を及ぼし合っている。「敵対」も相互に影響を及ぼし合う関 係の一種であって「無関係」なのではない。「私」「我々」と「彼ら」を切断して考える限り、「私」から「彼ら」は見 えなくなり、逆に「彼ら」からは「私」が見えなくなる。こうして相互の無理解と敵意が増幅していくのである。それを 避けるためにも、相互に依存し合う人々の関係から出発すること、「彼ら」も「我々」と同じネットワークを形成してい る一員であることを認識することが必要である。

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2. 関係ネットワークの諸特性 a. ブーメラン効果

 「人を呪わば穴二つ」という言葉がある。人の悪口(本来は「呪い」なわけだが)は必ず自分に跳ね返ってくる、とい うことを意味することわざである。このことは、ネットワーク理論からうまく説明することができるだろう。例えば、あ なたがある人の悪口を言ったとする。たとえ、悪口の対象になった当人がその場にいなくても、その場にいた別の人の口 から、「あなたが~の悪口を言った」という事実は少しずつ洩れていく(「人の口に戸は立てられぬ」)。

 こうして、あなたが形成している人間関係のネットワークを通じて「あなたが悪口を言った」という事実が伝わってい き、悪口の当人にまで伝わるだけでなく、ネットワーク全体に「○×(あなたのこと)は悪口言いだ」という噂が拡がっ ていく。こうして、あなたに対する周囲の見方があるとき変わってしまうわけである。

 ただ、あなたが誰かに悪口を言ってから、その事実がネットワークを伝わってあたなたに対する周囲のまなざしが変 わってしまうまでに少しタイムラグがある(しばしば、悪口を言ったことを忘れていることさえある)ため、原因が自分 にあることが気づかないわけだ。

注:いじめっ子だった人が、しばらく立ってから「いじめられる側」になってしまうケースも同じメカニズムで説明す ることができるでしょう。一昨年、ドラマ化された『ライフ』というマンガでは、主人公の椎葉歩(しいば・あゆむ)

をいじめていた安西愛海(あんざい・まなみ)が、その事実が校内に知れ渡った瞬間、いじめられる側に転化してし まった。これなども、ネットワークを経由しての情報の伝達と、人々のまなざしの転換によるものと見なすことができ るだろう。

 「情けは人のためならず」ということわざも、これと同じメカニズムで考えることができるだろう。この言葉は、「中 途半端な同情や援助は相手のためにならないから、するべきでない」というような、いかにも現代的な「自己責任の論 理」で解釈されることが多い。しかし、その本来の意味は「他人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分のために なるから、情けをかけなさい」ということである。

 重要なのは「巡り巡って」というところだ。確かに、目の前の他者に情けをかけても、当面得られるのは相手からの感 謝の言葉だけかもしれない(相手から感謝されないことさえあるだろう)。しかし、「あなたが他者に対して親切であ る」という情報は、ネットワークを通じてゆっくりと広がっていく。その結果、あなたが直接会ったことがない人(知り 合いの知り合い、そのまた知り合い、など)もあなたに対して「信頼」の念を抱くようになる。その結果、もしあなたが 苦境に陥った時などは、周囲の他者から援助や支援を調達しやすくなるわけである。

 従来の行為論は、ともすれば「自己」と「他者」という二者間モデルで議論を進める傾向にあった。しかし、「ネット ワークを経由しての情報伝達と、視点の転換」という観点を取り入れることで、従来のモデルではうまく扱えなかった事 象についても説明することができるようになるだろう。

b. 文明化の過程

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 「ネットワークとしての自己」の講義では、自己が直接取り結ぶ関係ネットワークの変化が自己の内的・心的な変化と 密接に連動していることを指摘した。しかし、自己に影響を及ぼすのは、直接的なネットワークだけではない。ネット ワーク全体の変動も、 一人一人の自己に少なからぬ影響を及ぼしているのである。ここでは、エリアスの「文明化の過 程」についての議論を簡単に紹介しておくことにしよう。

 「文明化の過程」とは、礼儀や行儀作法に代表される人間の感情や行動への自己抑制が強化され、細分化され、羞恥心 や不快感を感じる範囲が拡大していく過程のことである。中世ヨーロッパのようにまだ十分に文明化が進展していなかっ た社会では、人々は自らの本能的な衝動や欲求を比較的自由に解放していた。例えば、人前で大小便をしたり食卓で唾を 吐いたりすることは上流社会の人々でも珍しくなかった。騎士達も戦場で暴力や攻撃衝動を存分に解放していたし、また そうしなければ生き残れなかった。彼らの行動を制御するのは専ら「他者からの強制」(暴力や脅威・命令)であって、

自己抑制の度合いは比較的弱かったとされている。

 しかし、時代とともに人々の感性や行動制御の様式も変化する。かつては気にならなかったふるまいが不快に感じられ 禁止されるようになる。生理的欲求は人前では抑制されたり「社会の舞台裏」で処理されるようになった。さらに、不快 感のような感情をあらわにすること自体が不快に感じられるようになるから、例えば他者の不作法を見てもそれを直接非 難するのではなく、見て見ぬふりをしたりさりげなく示唆することがマナーとなる。つまり不快感や嫌悪感のような直接 的な感情は「心の舞台裏」へと押し込まれるか、より緩和された形式に加工されて表出されるようになったわけである。

こうして、人々の行動や衝動の制御様式は、次第に「他者からの強制」から「自己抑制」へとそのバランスを移行させて いった。

 「このような制御パターンの移行は社会の変化と密接に結びついている」とエリアスはいう。国家による暴力の独占や それに伴う国内の平穏化、集権的な政治機構の整備や貨幣経済への移行と取引・分業の拡大、これらの現象はすべて互い に連関しながら進行した。それとともに人間相互の編み合わせ(ネットワーク)が拡大し緊密化する。このように「複雑 化した人間関係」の中で生きてゆくには、人々はもはや短期的な衝動や欲動に身をまかせているわけにはいかない。長期 的な視野に立って自らの行動を常に安定して制御していかなければならない。こうして「理性」という自己抑制装置が包 括的かつ均一に人々の行動を制御するようになり、またそれによって複雑化した社会も存続可能となった。

 人々が織りなしている相互依存のネットワークは、現在、ますます緊密化かつ複雑化している。それに伴い、人々には ますます高度な自己抑制が要求されることになる。今まで不快に思わなかったことが不快に思われるようになる範囲がま すます広がるようになり、ちょっとしたルールの侵害にも人々は過敏になっていく。タバコを巡る近年の騒動はその典型 だろう。このように考えると、現代の「高度に文明化された社会」というのは、便利で快適な反面、窮屈この上ない社会 であるとも言える。礼儀やルールを厳格に守れなければならず、それができない人は萎縮・当惑し、場合によっては社会 的に排除されかねないからだ。

注:例えばこうした文明化の圧力に耐えきれず、他者の前で自分の情感や欲動を爆発させてしまう人もいる。いわゆる

「キレる」人々である。キレた人はその場ではスッキリするかもしれない。しかし、そうのような行動を繰り返す人々 は周囲の人々の信頼を次第に失って孤立していったり、その被害が大きい場合は、警察や病院に収容されたり、という 形で社会的に排除されていくことになる。

 エリアスはもう一点、重要な指摘をしている。人々の文明化を規定している社会的なネットワークが突然分断されたり 大きく変動したりすることで、われわれの行動様式を調整し、衝動を抑えつけている拠り所が崩壊することもありうるの だ、と。現在のイラクがまさにそうだろう。アメリカによる攻撃が始まる前のイラクは、経済制裁によって確かに経済的 には困窮していたかもしれないが、一定の「関係のバランス」の下、人々は平穏に暮らしていた。シーア派の住民も、フ セインの命令に逆らいさえしなければ、安全に暮らすことができたのである。

 しかし、戦争が始まり、確かにフセイン体制は崩壊したものの、人々の生活を支えていた社会的なネットワークも同時 に分断されてしまった。人々の「自己抑制」を支えてきた社会的ネットワークが崩壊した結果、これまで抑制されてきた 衝動や欲動が噴出するようになり、イラク全土で暴力が蔓延することになってしまったのである。

 高度に文明化された社会は確かに息苦しい。しかし、そうした息苦しさと引き替えに、我々は平穏な日常生活を維持し ているのだとも言える。では、この息苦しさを少しでも緩和しつつ、なおかつ、平穏な社会を維持していくにはどうすれ ばいいか。それは、今後、我々自身で考えていかねばならない問題であろう。

3. 参考文献

・ 薄葉毅史 2006「「自己」のゆくえ―ジンメル・エリアス・ベック―」稲垣恭子編『子ども・学校・社会 教育と文 化の社会学』世界思想社、第Ⅰ部第4章

・ 竹内洋 2008『社会学の名著30』ちくま新書 C. 社会学概論ホームページ

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http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Takeshi.Usuba/

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