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PDF 社会学概論レジュメ 2008.6.2.Mon. 文責:薄葉([email protected]) A. 前回の復習と補足

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社会学概論レジュメ 2008.6.2.Mon. 文責:薄葉([email protected]

A. 前回の復習と補足 B. ジラールの模倣的欲望論

1. ルネ・ジラールについて a. 略歴

・ 1923年南フランスのアヴィニョンに生まれる

・ 1941年:アヴィニョン国立高等中学校(リセ)卒業、バカロレア(大学進学資格試験)哲学部門合格

・ 1943年:国立パリ古文著学院(グラン・ゼコール)進学

・ 1947年:古文書保管・古文書学者資格取得、インディアナ大学入学

・ 1950年:歴史学博士取得

・ 1947-52:インディアナ大学フランス語非常勤講師

・ 1952-53:デューク大学非常勤講師

・ 1953-57:ブリン・モア・カレッジ助手

・ 1958年:秋、神の呼びかけを聞いてカトリックに回心したのみならず、その結果として神の恩寵によって皮膚癌が 奇跡的に快癒したという、まことに神秘的な体験をしたと述べている。

・ 1957-68:ジョンズ・ホプキンズ大学助教授

・ 1968-76:ニューヨーク州立大学(バッファロー校)教授

・ 1976-80:ジョンズ・ホプキンズ大学教授

・ 1981-:スタンフォード大学フランス語フランス文学フランス文明科教授 b. 主な著作

 ほとんどの著作が法政大学出版局より翻訳されている。代表作は『欲望の現象学-ロマンティークの虚偽とロマネス クの真実』(1961=1971)。

2. 「欲望の模倣」と「モデル=ライバル論」

 ジラールは、シェイクスピアやドストエフスキーなどの偉大な小説家のテキストを丹念に読み込んで、それらのテキス トから以下のような人間の欲望の特性を取り出した。

a. 基本命題

 「人間の欲望は三角形的、換言すれば「模倣的」である。すなわち、欲望を持つ主体(S)とその欲望の対象となるも の(O)のあいだには、常に媒介者(M)が存在する。私たちがあるものを欲するのは、それがそれ自体として望ましい ものであるためではなく、他者がそれを欲しているからであり、他者がそれを望ましいものとして示すからである」(西 永 25頁)。

b. 「欲望」と「欲求」の区別

 ジラールは人間のうちにあって動物的な本能と結びついている「欲求」(他者がいなくても生じうるもの)と、媒介 者(他者)を通じて起こる「欲望」とを区別する。

1) S→0 モデル(従来の欲求モデル)

主体(S)の内発的な欲求エネルギーが外部にある対象(O)へと向かう 例:生理的欲求など

2) S→M→Oの三角形モデル(ジラール)

欲望の主体を「S」(Subject,私)、欲望の対象・目標を「O」(Object)、欲望を媒介する他者(媒介者)を「M」

(Mediator)とする。

注:媒介者(M)は、Sよりなんらかの形で優位にあり、Sが賛美するような人間であれば誰でもよい(Model=

「理想像」としてのM)

SがOを欲望するのは、Oに内在する性質(貴重である、美しい、etc.)のためではなく、MがOを所持していたり、

欲望していたりするからである(Mの欲望の模倣)。

・ 例:姉のおもちゃを欲しがる妹、「隣の芝生は青い」

・ 注:生理的な「欲求」に分類されるように思われるものでも、例えば「食欲」や「性欲」は他者の欲望によって 喚起される部分が多いように思われる。その意味で、純粋に「個人的な欲求」(他者なしでも生じうる欲求)と

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いうのは、人間においては非常に少ないのかもしれない c. SとMの距離による区分

1) 外的媒介

・ SとMの距離が大きい

SとMが生活圏を共にしていないなど、両者の物理的・精神的な距離が遠く離れている場合を「外的媒介」とジラール は呼ぶ。この場合、SとMの間に軋轢が生じることはない。また、主体の欲望は、「崇高なあこがれ」か「滑稽なも の」となる。

注:そもそも欲望自体が発動しないことがある。たとえば、江戸時代に「将軍になりたい」と思う庶民などいな かっただろう。

・ 「憧憬」と「滑稽」

前者の例としては「銀幕のスター」に対するファンの憧れが挙げられる(1960年くらいまで)。当時は、映画スター とファンの間には圧倒的な距離(物理的・心理的な)があった。ファンはただ純粋にスターに憧れるだけで、「何で 俺が裕次郎ではないんだ」とスターを「妬む」ような感情は少なかった(「テレビ・タレント」とはそこが異な る)。

後者の例としてジラールが挙げているのが『ドンキホーテ』である。主人公ドン・キホーテは中世の騎士道物語を耽 読し、その中に登場する偉大な騎士アマディスにあこがれて、「自分もそうなりたい」と痩馬ロシナンテにまたが り、従者サンチョ=パンサを伴って騎士修行に出かけ、種々の滑稽と冒険とを演ずる。セルバンテスがこの作品を書 いたのは1605年。欲望の主体であるドンキホーテと騎士アマディスのあいだには時代的にも全く重なるところがな い。

注:正確に言うと、ドンキホーテはアマディスを単に模倣したのではなく、騎士アマディスが世間の凡庸な人々に 対して持っていた光り輝く「差異」(=違い)を欲望したのである

・ 学歴意識で見ると…

こうした「外的媒介」を学歴意識に当てはめると、戦前の地方の庶民が「上級学校」に対して持った感覚に近いだろ う。上級学校(及び、そこで生活している学生)は彼等にとって手の届かない「憧れ」であった。一方、周囲の大人 にとってそうした「分不相応の」あこがれを持つ子供は「滑稽」に映ったに違いない。「バカなことを考えずに、

さっさと仕事に就け」という訳である。

2) 内的媒介

・ SとMの接近

さて、近代化が進み身分間の垣根が取り払われて人々の(形式的な)平等化が進行すると、SとMの(精神的・物理 的)距離が近くなり、両者が生活圏を共有するようになる。こうした状態を「内的媒介」とジラールは呼んだ。

SとMとが接近すると、「欲望の模倣」作用により、Sは何とかMの欲望の対象Oを手に入れようとする。しかし、

既にMがOを手にしている場合、なかなか対象OはSの手に入らない。するとMはSの欲望に対する「障害」になる ので、Mは単なるモデル(あこがれ)から「モデル=ライバル」となる。Sは自分の欲望の邪魔をするライバルMを 憎悪するが、Mは同時にSのモデル(あこがれ)でもあるため、SはMに対して、崇拝と憎悪の入り交じったアンビ バレントな感情を持つことになる。

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→かつての銀幕スターのようにMが手の届かない存在の場合は、Sは純粋にMに憧れるだけである(あるいは、M に関心を持たない)。しかし、Mが身近になってくると、「なんであいつだけが」という気持ちが強まる。週刊誌 や2CHにおけるタレントへのバッシングは、こうした事情をよく物語っているように思われる。

・ 「羨み」と「妬み」

こうしたアンビバレントな気持ちは、いくつかに区分することができる。SとMのあいだに絶対的な距離がある場 合、SがMを欲望したとしても、それは「純粋な憧憬」である。SはMを「憧れる」が、それだけで苦悩することは ない。

しかし、SとMが接近してくると、単なる「あこがれ」では済まなくなる。Sへの憧れは続く一方、「何で俺にはな いのだ」という自己の「劣位(自分はMより劣っている)」が意識されるようになる。このように、Mを憧れつつ、

自己を卑下するときの感情が「羨み」「羨望」である。

さらに、こうした劣等感や苦悩がさらに強まると、Mに対する憧れが憎悪に転じるケースがある。この場合、SはM からOを強引に奪い去りたいと思うようになる。このようにMに対する攻撃の気持ちが強くなった状態の感情を「妬 み」「嫉妬」ということができるだろう。

3) 相互媒介(二重媒介)

・ SとMの更なる接近と欲望の肥大化

内的媒介がさらに進行すると、SとMのあいだにきわめて深刻な人間関係を生じさせることになる。というのも、も し欲望の模倣が人類の本質であるとすれば、Sと同じくMもまた誰か他の欲望を模倣するはずであり、場合によって は、Mの方が逆にSの欲望を模倣することになりかねないからだ。そうすると、2つの主体(S)がお互いの媒介者

(M)になり、両者のライバル関係はますます強まることになる。

→このライバル関係は、やがて「相互的な暴力関係」に転化することもしばしばある。

ジラールはこうした関係を「相互媒介」あるいは「二重媒介」と呼び、さらにこうした他者(M)との対抗・競争か ら生じるそうした欲望を「形而上的(=抽象的)な欲望」と名付ける。他者とのあいだに相互的に媒介された欲望が 相互の刺激によってさらに肥大化していく一方、欲望の対象(O)の方は、具体的な意味と価値、つまり「実体」を なくしてゆくからである。

このような欲望の悪循環と対象(O)の希薄化は日常生活でしばしば見受けられる。兄のおもちゃを欲しいと散々 駄々をこねて、ようやくそれと同じ物を手に入れたらすぐ飽きてしまう弟、親友の恋人を奪う女性(彼女の愛は、親 友の恋人の略奪が完了した時点で醒めてしまう)など、いくつでも挙げることができよう。

・ 『こころ』(夏目漱石)

こうした例は、例えば漱石の『こころ』にも見受けられる。「先生」は自分のモデルとして尊敬し、かつ、密かに妬 んでもいる「K」から「お嬢さん」を略奪し、「K」は自殺する。「お嬢さん」と結婚後、「先生」が禁欲的に生きて いるのは、「K」に対する罪悪感からだけでない。もともと「お嬢さん」に対する愛情は「K」の欲望を模倣したか らで、このモデルがいなくなれば、先生のお嬢さんに対する愛は沈静してしまうのである。

その後、「先生」は自分をモデルとして慕う「私」に出会う。「私」は先生の妻である「お嬢さん」を欲望する。つ まり、かつての「K」と「お嬢さん」との三角関係を復活させるわけである。そして、今度は「先生」が「K」の立 場を模倣して自殺する。先生は最後まで死者である「K」に魅了されていたわけである。

→漱石の小説には、このような「三角関係」がテーマになっている作品が多い。例えば、『行人』という作品で は、主人公(長野一郎)が妻(お直)の貞操を試すために、仲を疑っている弟(二郎)と一夜を過ごさせるという ストーリーが展開されている。

・ 進学率の急激な上昇

戦後の中等教育・高等教育への進学率の急激なアップも、この「模倣競争」によって説明されるだろう。「隣の子ど もが行くならうちも」(より正確に言うなら、「隣の子ども(M)の持つ差異(=進学)を相互に模倣して)という 形で、高校への進学率は1970年代には90%を超える。

当初は「将来、必要な知識を身につけるため」「就職に有利なため」というように、「~するため」の進学だった。

何よりも進学することが「珍しかった」(=差異)から、学校は輝いていた。しかし、それがいつの間にか、「みん なが行くから」という動機に変わっていく。他者(M)の選択を互いに模倣しているわけだ。こうした「模倣競争」

は、自己準拠化してゆく(競争のための競争、進学のための進学)。人々は明確な野心もないままに、単に「皆が行 くから」との理由だけで進学するようになるのである。

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当然、誰もが行くようになると、「進学することの価値(=O)」は下がる(学歴インフレ)。学校は輝くなる。し かし、誰も競争を下りようとしない。「みんなが行くのに自分だけ行かないのは、何か自分が負けた気がするからで ある」。「平等意識」の強まりは、「他者よりも少しでも劣ることを嫌う」「肥大化した自己意識」を産み出す。結 果、不本意就学者の数は増加し、学校の価値はますます下落することになる。

注:しかも、「だれもが高校に行く」時代になると、「高校に行かない」ことが「異常」(能力が低い、適応性に 欠ける、云々)と見られるようになる。戦前ならほとんどの子供が義務教育(小学校)を修了したら職についてい たのに、「中卒」というだけではつぶしが効かない時代になってしまう。

d. 対象(O)の性質による区分 1) Oが具体的

・ 物質的な財(お金、家、車、etc.)、恋愛における異性

・ Mから分離可能=Sが獲得することが可能(貨幣での購入)

2) Oが抽象的

・ 名誉、人気、カリスマ性、等

→自分にはないもの=「差異(違い)」(あるいは、「個性」)

・ MとOが一体化(分離不能)しているように見える=Sが獲得しにくい

例:ファッション・モデルの着ている服はお金で買うことができても、彼女が醸し出すオーラ(=差異)までは獲得 できない

・ 「物質的な財によっては獲得できないような対象(例えば、「尊敬」)を所有している他者がモデルとされると き、欲望の模倣はもっとも重症化する。Sが欲望する対象物は貨幣で購入しうるような等価物をもたず、ただMだ けが所有している唯一無二のものだから、MがSに及ぼす魅惑の程度は最大限に達し、またSから見れば、OはM の「本質的な属性」と思えるので、MがSの欲望に障害物として立ちはだかる度合いも同様にもっとも強くなる。

モデル=ライバルによって魅惑される程度も拒絶される程度も、いずれも最大限にまで高まるのである」(織田 88頁)

e. 模倣競争からスケープゴート論へ 1) 競争の激化と共同体の危機

さて、社会の秩序が弛緩し、人々の区別が曖昧になるに連れ、模倣競争は激化する。人々はお互いの「差異」を欲望 し、万人が万人を模倣し合う。ジラールの言葉で言えば、人間がお互いにとって「神」となる。「個性的な自分」「他 人とは違う私」になるために、互いに差異化を重ね(正確に言うなら、「他者の差異=個性」を模倣する)、逆説的に

「お互いにますます似てきてしまう」。

「個性」や「アイデンティティー」は、他者との差異があって初めて確認できるものである(「他ならぬ私」)。こう して、「他者との差異」が不明瞭になり、互いが互いの「分身」となると、「自分が(他ならぬ)自分である」ことを 証明するためには、「自分以外のよく似た分身を打ち消す」しかなくなる。こうして、自分以外の他者を排除しようと いう「暴力」が生じる。この暴力が再び万人に模倣され集団に蔓延し、共同体の秩序は危機に瀕する。

2) 「排除」の儀式

差異の消滅。この秩序の危機に際して、ひとつのメカニズムが作動し始める。全員一致の暴力としての儀式。「分身」

と化した似たり寄ったりの成員のなかから、ほとんどとるに足らぬ「徴候(しるし)」にもとづき、ひとりの生け贄

(スケープゴート)が選び出される。それまで分身どうしのあいだに飛び交っていた悪意と暴力は、一瞬にしてその不 幸な生け贄にむけて収斂されてゆく。こうして全員一致の意志に支えられて、一人の生け贄を排除する「供儀」が成立 する。供儀を契機として、集団は新たな差異の体系の再編へと向かい、危機は巧みに回避されるのである。

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供儀:神に生け贄を捧げる儀式。「神」とは、その集団をシンボリックに表現したものであ る。

そして、その後、ほとんど奇跡のように回復された平和と秩序をもたらした恩恵者として、つまり、共同体内部の集団 的暴力の責任がそっくり「共同体外部のもの」に転嫁されるかたちで、事後的に(後から)「生け贄」は「聖化」され る。ジラールは、このように共同体の秩序を回復させるための暴力を「定礎の暴力」と呼ぶ。

そして、どの共同体にもある伝説や神話は、こうした「定礎の暴力」のことを間接的・婉曲に語る役割を引き受け、同 じくどの共同体にもある宗教は「定礎の暴力」の記憶を基にして形成され、宗教儀礼は模倣的・相互的暴力の汚れを排 出し、浄化する機能を果たす。

f. ジラールの処方箋

こうした「模倣欲望」の悪循環から脱するにはどうすればいいのか?ジラールはこのような「形而上的欲望」から脱する には、自らの模倣欲望を意識化することが必要だという(「汝自身を知れ」)。しかし、「自分の欲望が他人のマネであ る」といくら頭で理解したとしても、それだけでは不十分だ。やはりブランドものを見れば欲しくなるし、新しい車が出 れば購買欲を掻き立てられてしまう。

ジラールは「宗教的な回心」(悟り)にも似た、認知や思考パターンの劇的な組み替えがあって初めて、そうした欲望か らの脱却が可能になるという。事実、彼はそうした「回心」を1958年に体験したという。

しかし、こうした「回心」は教えられたり、合理的に考えてできるものではない。そうした「回心」や「悟り」ができな い、われわれ凡人はどうすればよいのだろう?相変わらず他者のまなざしを気にし、他者に嫉妬し、妬み、絶えず欲望を 肥大させていくしかないのか?今のところ私には答えは見つからない。

注:ただ、こうした「悟り」や「回心」へと近づくための一つの方策が、「書くこと」であることは指摘しておいてい いかもしれない。事実、ジラールが参照した過去の偉大な作家たちは、小説を書くことを通じて、ある種の「気づき」

に到達した(彼はこれを「創造的回心」と読んでいる)。もちろん、こうした偉大な小説家ではない私たちが何かを書 いたからと言って、すぐに「回心」に到達できるはずもない(そもそも、これも「模倣欲望」なのかもしれない)。

 ただ、「書く」という行為は自分自身を「対象化」する営みである。だから、書くという行為を続けるうちに、もし かしたら「自分」の愚かさや醜さに気づいたり、「他者(M)への囚われ」に気づいたりして、それによって救われた り楽になったりする、という機会が来ることもあるのかもしれない。

g. 参考文献

・ 赤坂憲雄 1995『排除の現象学』ちくま学芸文庫

・ 織田年和 1986「欲望の模倣とモデル=ライバル論」作田啓一・井上俊(編)『命題コレクション』筑摩書房、第 13章

・ ジラール、R. 1971(1961)『欲望の現象学-ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実-』法政大学出版局

・ 西永良成 2002『<個人>の行方―ルネ・ジラールと現代社会―』大修館書店

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