教育社会学レジュメ 2009.1.15.Thr. 文責:薄葉([email protected])
A. いじめの社会学(4)
1. みんなのレポートから a. 誰がいじめに遭いやすいか
1) 転校生
「筆者の通っていた小学校は関西の小学校であった。その小学校に5年生のとき、東京から転校してきたKは標準語 の抜けない子であった。そのため、クラス全体でKの存在は特に目立ってしまい、いじめが始まってしまったのであ る。そのいじめが始まってからいじめがなされた過程は、転校当初一部の生徒はKに積極的に声をかけ、彼をクラス内 にとけこまさせることを手伝っていた。Kはそれに応じようとしたのか「標準語の混じった、変な関西弁」を冗談交じ りに使うようになった。そのことが、Kを余計にクラスの中で目立たせる原因となった。そのような過程を経てKは 徐々に孤立して行き、陰で「きしょい」などの悪口を言われるようになっていったのである。そのことで、Kは休みが ちになり、担任に相談しに行き、見かねた担任がKをかばいだした。そのことが、さらに一部の生徒に特別扱いされる Kを快く思わない生徒が増えていき、ますます陰口が増加していったのである。結局、このいじめはなくならずKが小 学校卒業と同時に転校していったことで区切りはついた。」(『いじめの問題』
2) 生徒コード(注)に従わない者
「私がいじめの加害者になったことがある場合は、そのいじめられた子に問題があったと私は今でも考える。それは 正当化かもしれないが、友達の悪口を裏でいっておきながら、その悪口を言った友達の前では平気な顔してへらへら笑 い今度は私に関する陰口をたたくという始末で、どうにもこうにもその子との付き合いが嫌になり、仲間はずれにした り、口をきかなかった。すると、その子はそれが気に食わず、先生にそれを話し、私は放課後先生に呼び出され、こっ ぴどくそのことに関して追求されたのである。まるで私だけが悪かったかのようにされてしまったのである。それから というもの私はその子とは二度と口をきかなくなった」(『いじめの型と私の経験したいじめ』)。
「私の学校でも実際にいじめと呼ばれるものがあった。きっかけは、親友の彼氏を好きになってしまい付き合ったと いうのが原因である。周りの子達が親友の彼氏を奪った子、とその子を認識し、いじめが起こった」(『いじめについ て』)。
「(…)私はそんな能天気のまま高学年になり、相変わらず人を信じきったまま過ごしていた。その頃になると、女 の子はませてきて特定のグループで固まり、外にはいかずに教室で遊ぶようになった。グループ意識もとても強かった ように思う。しかし、私は外で遊ぶのが好きだったため、幼いというか、能天気というか・・・、そんなグループの存 在にも気付かず、休み時間は外へ繰り出していた。他の女の子達は教室で遊ぶわけだから、結果、私は自然に男の子の 輪の中で遊ぶようになった。こうなるともう致命傷である。高学年のませてきた女の子たちの話題と言えば、もっぱら
「好きな人」なわけだから、そんな対象となる男の子たちと分け隔てなく仲良くしている私は、「彼女たちの敵。」以 外の何者でもないわけで、次第に「男好き」「たらし」等など言われ始めた。実際、小学生とはいえ男の子からの好意 をちょくちょく貰っていたし、私自身だって好きな人はいたわけで、私の好きな人を皆も知っていたため「好きな人だ けでなく、他の男の子にまで・・・。」と捉えられ「それ」は、余計に悪化した」(『信用といじめ』)。
注:「生徒コード」とは、生徒同士の「暗黙の掟・ルール」のこと。
b. 循環するいじめ
「いじめられた側の体験としては、仲のよかった友達(7人ほどがグループにいた)のボス的存在の2人が、毎週1人ず つターゲットを決めて、徹底的にグループで無視するという、本人達からすると「遊び」、やられた者からすれば「いじ め」があった。最初にターゲットとなったのはグループのうちの別の子で、「同じようにしないと自分もそうなる」とい う怖さがあり、同じように無視していたのを思い出す。そして次の週には私に矛先が向けられ、無視された後の反応を楽 しんでいるようであった。私は一回目に無視され「ごめんね」と後日謝られ、しばらくは全員で仲良く過ごしていたが、
またある日から突然無視が始まり、悲しさよりも悔しさと怒りが込み上げ、別のグループに移った。私の場合は精神的な いじめであったのだが、このようないじめの類は目には見えにくいため、教師の立場からなかなか見つけられないもので ある。いじめられている側の大半は、誰にも相談できない状況(あるいは性格がそうさせるのかもしれないが)であった というから、余計に発見されるのが遅くなる。いじめの不透明さに拍車がかかってしまうのである。私は、性格上黙って いられない質なので、ショックというよりも腹ただしい気持ちで、状況を母に毎日報告していた。母は私の性格からして
「深刻ないじめを受けるような子ではない」と判断したのか、担任に報告することはなかった」(『いじめの再定義-実 体験を元に-』)
2. ジェンダーから見たいじめ
教育現場では、いじめの形態が男女で異なる傾向にあるという声をよく耳にするが、日本ではいじめをジェンダー(性
差)の視点から分析した実証研究の蓄積はほとんどない。ここでは、海外の研究を参考にしながら、男女で異なるいじめ のパターンが、現行のジェンダー規範(社会的に期待される男らしさ・女らしさ)とどのように関連しているのか、考察 することにしたい。
a. 男子:パワープレイと性差別 1) パワープレイ
・男性優位規範が支配的な環境では、男子は女子や他の男子よりも優位であるよう競争を促され、他者よりも優位に立 つことが、「男としてのアイデンティティー」を安定させる。こうした「男らしさ」を懸けた競争は、学業やスポーツ のような学校が公認する活動だけでなく、「人気」や「けんかの強さ」といったインフォーマルな活動においても展開 する。
・イギリスで性差別解消のための男子向けプログラムに取り組んできたS.アスキューとC.ロスは、学校における男子 の相互作用の基礎をなしているのは、地位と威信を求め競い合う「パワープレイ」だと述べている。
・こうした文脈で捉えるならば、反社会的な行為ではあるものの男子にとって「いじめる」という行為は、「他者に対 する優位」を容易に達成できるという点で、「男としてのアイデンティティー」を安定させるための代償行為として機 能する側面を持つ。
2) 男らしさの隘路
・他方で、このような男性優位規範のもとでは、いじめの被害者になることは、「自分が他者よりも弱い/劣った存在 であること」すなわち「男らしさからの逸脱」を意味する。したがって、いじめの被害者となった男子は、いじめの被 害に遭ったこと自体の苦しみに加えて、「男らしさ」の達成の失敗という「二重の苦しみ」を味わうことになる。
・しかも、男性に「強さ(タフであること)」を求める男性優位規範のもとでは、男子は他者に対して、いじめられて いることを打ち明けたり、援助を求めたりすることをためらいがちになる。
・データはやや古いが、1993年から95年の間にいじめが原因で自殺したと報道された中高生の自殺のケース中、その約 8割が男子の自殺であった。ところが、一方で「いじめ電話相談」に電話をかけてくるのは圧倒的に女子が多いとい う。このことから、「男は弱みを見せてはならない」「男は我慢しなければならない」という「男らしさ」の縛りが、
男子達に、他人に相談したり悩みを打ち明けたりすることをためらわせ、一人で問題を抱え込ませ、最終的に彼らを死 に追いやっているのではないか、という可能性を示すことができる。
3) 性差別的なからかい
・英語圏での研究では、男子集団内での言葉を用いた「いじめ」や「からかい」において、女子集団とは異なる特有の 方法が用いられる傾向にあることが確認されている。一つは、他の男子に「女々しい(sissy,wimp)」とか「女」(girl) というレッテルを貼る、という方法である。これがとりわけ男子集団において「いじめ」として機能するのは、男性優 位規範が支配的だからである。
・「男は優れており、女は劣っている」という見方が浸透しているからこそ、男子を「女子」扱いすることによって彼 の地位を下げることが可能となる。しかし、そうであるとすれば、この種のいじめ行為を通して、男子生徒達は被害者 を傷つけると同時に、知らず知らずのうちに「女性蔑視」の態度を身につけている可能性にも注意をはらう必要があ る。
・もうひとつは、他の男子に「同性愛者(ホモ)」というレッテルを貼るという方法である。これがとりわけ男子の集 団において「いじめ」として機能するのは、男性を欲望の主体に位置づける「異性愛規範」(男が女を欲望する)が支 配的だからである。
・現在の異性愛規範のもとでは、女性は「異性から欲望される」側に位置づけられているため、女性自身の欲望のあり 方自体はそれほど問題にされない。しかし、男性の場合、「異性を欲望する」側に位置づけられているため、「同性を 欲望する者」というレッテルが、「男らしさから逸脱した者」というレッテルとして機能することになる。
・しかし、こうした「同性愛者」のレッテルを用いたからかいによって、からかわれた男子だけでなく、自らの性的指 向をひた隠しにしながら思い悩んでいる同性愛者も傷つけている可能性にも注意をはらう必要がある。
注:異性愛規範の強い西欧社会は、同時に「ホモフォビア(同性愛嫌悪/恐怖)」の社会でもあり、たとえば保守的 なアメリカの南部の州などでは、同性愛者が襲撃され殺されるという事件が現在も生じていることが伝えられてい る。日本の場合、同性愛に対するタブーは伝統的にそれほど強くはなかったものの、近代社会以後はタブー視される 度合いが強まっていった。もちろん、近年は少しずつ同性愛者に対する理解が進んでいるものの、やはりどこかで色 眼鏡で見てしまう傾向にあることは否定できない(例:おねえキャラ)。
b. 女子:いじめの潜在化 1) シモンズの知見
・教育現場では、女子のいじめは男子のいじめに比べて「より見えにくい」との声をよく聞く。レイチェル・シモンズ は、アメリカ各地で行った、十代前半の少女とその親や成人女性に対する膨大なインタビュー調査に基づいて、男女で 異なる社会的期待が、女子のいじめをより見えにくいものにしていると述べている。彼女の調査研究には、女子のいじ めの背景を理解する上で重要な多くの示唆が含まれているが、先に述べたジェンダー規範の主要パターンとの関連でい えば、女子のいじめが見えにくい理由は、次の2点に要約することができる。
2) 隠される攻撃性
・男子の場合、攻撃性を表現することが「活動の主体」としての「男らしさ」と必ずしも矛盾しないため、いじめが身 体的攻撃やあからさまな言葉による攻撃という「見えやすい」形を取る傾向にある。また、親や教師もそれを大目に見 る傾向が強い。
・これに対して女子の場合、攻撃性を表現することや自己主張することが、「他人の世話役」「他人より控えめ」とい う期待される「女らしさ」と矛盾するため、親や教師も女子の攻撃性にはより敏感に反応する。
注:1999年のミシガン大学の研究では、実際には男子の方が声が大きいにもかかわらず、女子は男子の3倍も、「静 かにやさしく感じのいい声で話すように」(日本なら、「もっとおしとやかにしなさい」というところだろうか)と 注意されていたという(シモンズ、19頁)。
・その結果、女子は、怒りや攻撃的な感情を直接的な行動や言葉とは別の形で表現しようとする。すなわち、相手が嫌 がる「しぐさ」や「無視」のように悪意の有無が特定しにくい方法や、「噂を流す」というように直接相手と対決する 必要のない方法を用いて、相手の自尊心や集団への帰属意識にダメージを与える、というやり方である。
注:いじめられる側としては、相手の悪意を明確には確認することができず、また、もし「悪意がある」ことを相手 に訴えたとしても(「なんで私をシカトするの?」)、「気のせいよ」「考え過ぎよ」といなされてしまう。それば かりか、「ヒステリー」「自意識過剰」という更なるレッテルを貼られる契機にさえなってしまうこともある。
3) 孤立することの恐怖
・男子の場合、「活動の主体」として「自立」を促されるため、つきあうのが嫌な集団から離脱して「孤立」したとし ても、それは必ずしも「男らしさ」に反するものではない。「孤高」であることがむしろ、その男子のポジションを 様々な意味で高めることさえある(畏怖)。
・しかし、「他者の活動を手助けする存在」として良好な人間関係を期待される女性の場合、集団から離脱して「孤 立」することは、「女らしさ」の規範に反することになる。そのため、女子は「孤立」を避けようとして、自分が傷つ けられるような人間関係の中にでもあえてとどまろうとする。
4) 気配りの重圧
・男性優位規範のもとで、「弱い性」と定義される女子の場合、いじめの被害者になったり、そうした悩みを他人に相 談したりすること自体は「女らしさ」に抵触することはないため、男子に比べれば、一人で悩みを抱え込んで思い詰め たりする傾向は弱いようにも思える。しかし、シモンズの調査からは、多くの女子達が、「心配をかけたくない」とい う「他者への配慮」から、親や教師に相談することを避けてきた様子が明らかにされている。
5) その他
・シモンズは他にも、女子のいじめの様々なケースについて詳細に報告している。たとえば、友だちに対して不快感を 覚えても、相手に対する配慮から自分の感情を率直に表明することができず、そのことがかえって問題を悪化させてし まったり(怒りの矛先が飼い犬やきょうだいへむけて発散させたり、「かげぐち」という形に結びついたり)するケー スや、カンペキな女の子(ルックスも良く、頭も良く、性格も良い)がその「カンペキさ」ゆえにいじめにあってしま うケース、感情を表現することに肯定的な文化(労働者階級やアフリカ系アメリカ人)出身の女子は、日ごろから言い 合ったり暴力を行使したりする機会は多い(他人との衝突を避けると「クズ」の烙印を押されてもっとヒドイ暴力を受 けるから)ものの、白人中流階級出身の女子ほど、いじめが「陰湿化」することは少ないなど、。
・詳しくは本書をあたっていただきたいが、いじめに苦しんでいるのはけっして日本の生徒だけではないこと、人種や 階層(文化)によって人間関係の葛藤の処理の仕方が異なっていること、期待される「女らしさ」がいじめの潜在化・
陰湿化をもたらす要因になっていることなど、興味深い知見がそこには示されている。
3. いじめを予防する望ましい対策は?
a. 適度な予防策
・前回触れたような事後対策(加害者への厳罰・監視の強化・専門スタッフの設置、etc.)を毅然として行う、というこ とが、まずは「予防」につながる。しかし、これらはあくまでも対症療法であり、短期的な解決策という限界はおさえて おかねばならない。
・(前回みた韓国の事例のように)極端にシビアないじめ予防措置をとって、いじめの発生を全て抑えつけてしまうと、
子どもたちはいじめ(暴力)に対する免疫を獲得する機会がないままに大人になってしまう可能性がある。
・結局のところ、
「教師は様々な手段を講じていじめを予防する。それでも時折、教師の目を盗むような小さないじめ/暴力が起きる。
調子に乗って加害者がやいりすぎると、教師に見つかって叱責を喰らう。そんな経験を繰り返しながら、『規範の内面 化』と『いじめ免疫の獲得』が同時進行していく」
という、ある種、当たり前な対策を採ることが肝要というわけだ。
注:そのためにも、
①校内犯罪(恐喝や暴行、ケイタイやネットでの罵詈雑言、等)については、司法機関と連絡を取りながら、速やか に、かつ、断固たる措置を執ることで、最も凶悪ないじめから児童・生徒全員を守る。
②被害者が被害を訴えたときには、精神科医やスクール・カウンセラーの意見を尊重し、学校がいじめを確認できな くても転校を許可することで、最も弱い被害者を守る。
という、「いじめのセーフティー・ネット」を整備した上で、「いじめ予防」「日常的な軋轢といじめの境界判断」な どは、学校や教師の判断に委ねるべきであると森口は言う(p.178頁)。
b. 学校空間/教育実践の見直し 1) コミュニケーション系のいじめ対策
・「村八分」のようなコミュニケーション操作系のいじめ(女子に多いタイプ)の場合、対処するのが難しい。いじめ られている側がしばしば、自分が「いじめられている」ことを認めたがらないからである。コミュニケーション系のい じめを受けた被害者は「孤立感」に陥りやすいので、自分の悩みを打ち明ける相手が不可欠なのだが、特に女子の場 合、「大切な人に心配をかけたくない」という気配りから、親にも相談しにくいというケースが多い。教師や親・友人 のような「近しい存在」よりも、もう少し距離のある「第三者的な存在」の方が相談しやすかったりする。カウンセ ラーや保健室の教員などが、そうした役割に相当するだろう。そうした「シェルター」的な空間を用意して、常に解放 しておく必要がある。
・また、コミュニケーション系のいじめは、「グループ帰属」にまつわる力学から生じやすい。特に女子の場合、いっ たんグループができると、そこから抜け出したり移動したりするのが難しく、それがいじめの悪化をもたらしたりす る。それを防ぐために考えられる方策の一つは、「学級制をゆるめること」だろう。日本の場合、少なくとも1年間 は、クラスのメンバーが固定される。そのことがクラス内のグループの固定化をもたらし、ひいては(コミュニケー ション系の)いじめをもたらすことにつながるわけであるから、解決するにはこうした「固定した人間関係」を緩めて やればよいわけだ。具体的には、学期ごとにクラス替えをする。全部が難しければ、「いじめの判明しているメン バー」だけを分離してもいいかもしれない。また、科目毎にクラスを変える(能力別編成は、この場合、有利に働くか もしれない)というのもありかもしれない。
2) 学校行事(=儀礼)の再活性化
・いじめを抑止するためには、個々のコミュニケーション能力をアップさせることによって、風通しの良い人間関係を 形成するという方法も有効だ。例えばアメリカの公立小学校では、いじめを受けた経験のある生徒達を集めて自分の主 張を積極的に行うトレーニングをしているという。
・しかし、こうした個々人から出発するアプローチももちろん重要だが、それ以上に、生徒達が集まる環境そのものを 整備することが重要であるように思える。そのためのキーワードになるのが「儀礼」だ。民俗学者の桜井徳太郎氏は次 のようなことを述べている:
「人間生活には一種の生活リズムがあるが、ふだんの生活が続いていくと遂には何となくマンネリ化し無気力に なってしまう。そういう<生の枯渇>というか<生命の衰弱>を日本人がどんな言葉で表したかを考えていくと<飢 饉>を表す「ケ、カチ」という語に出あう。
この語の<ケ>は本来は<日常的な状況>を示すとともに元気や気持ちの「気」でもある。だから<ケ>とは<生 産民がたえず充足したエネルギーを燃焼させる精力源、活動源>でもある。 ところがそれが消耗によって衰退した り減少したりすると<ケが枯れる>現象、つまり<ケガレ状況>を示す。すると<ケの充足>を要求する度合いが強 くなり、それが<ハレへの要求>になる。つまり必然的に変化あるいはけじめを求める。
そこでたとえば<ハレの行事>に異常な情熱を投入して生の充足を実感し生命の活性化をもたらす契機にする」
(高田公理『酒場の社会学』PHP文庫、1988年、p.246
・このように、「ケが枯れてきた」状態、すなわち「気枯れ=汚れ」を祓って、ふたたび日常に気を充填させるための
「ハレの行事」が「儀礼」や「祭り」であるわけだ。また、フランスの社会学者のロジェ・カイヨワという人は、「祭 り」についてこんなことを述べている:
「祭りの根源的意味は、単に保存されているだけでは不可避的に死に向かう「世界秩序(=コスモス)」を、いっ たんカオス[=混沌とした状態]に戻すことによって蘇生させるところにある。(…)祭りにおいて人々は、秩序や 形式や禁制に対立するものとしてのカオスを再発見し、再創造する。(…)あらゆる平常の秩序の逆転が生じる。富 の蓄積にかわって富の浪費が、暴飲暴食が、あるいは表現(言葉や身ぐり)の浪費が行われる。また、あらゆる禁制 が侵犯され冒涜される。聖なる動物も食用に供され、性的なタブーも公然と侵される。社会的ヒエラルヒーや権威の 逆転も生ずる。祭りのあいだだけ、主人と奴隷がいれかわったり、偽の王が即位したりする。
祭りにおいてこうしたさまざまのかたちをとってあらわれる放逸や冒涜によってはじめて、生命力に満ちた創造的 なカオスがつくりだされるのである。そしてこのカオスのなかから再びコスモスが姿をあらわす。祭りの終わりは、
それゆえ、秩序の再建を意味する。放埒にかわって節度が、浪費にかわって蓄積が、狂気と熱中にかわって理性と労 働が、違反や否定にかわって禁止や規制が、再び復権をとげ、人々は、更新され再創造された秩序世界のなかに帰っ て行く」(井上俊『遊びの社会学』世界思想社、1977年、133頁)
・さて、ここまでの議論を敷延すると、教室におけるいじめは、平凡な毎日によってケガレていく生徒達の心的エネル ギーを回復させるための、いわば「祭り」や「ハレの儀式」として機能していると見なすことができる。「ケガレ」の 象徴として汚れた生徒が一人選びだされ、その生徒を祓う(払う=追放する)ことで皆のストレスが発散される、とい うわけだ。
・いじめがしばしば残酷な色彩を帯びるのも、それを「儀式」と捉えるなら納得が行く。カイヨワの言うように、「ハ レの儀式」や「祭り」においては、日常的な秩序が一度ひっくり返される必要がある(カオスの招来)わけだから、通 常の美徳や道徳も侵犯される。みな、いじめは悪だと分かっていてもいじめに加担し、しばしば残酷な行為をしてしま うのは、まさにこのためであろう。
・こうした社会学的な思考を聞くと、「不道徳だ」「けしからん」と眉をひそめる人も多いことだろう。ただ、こうし た考え方は、イジメの予防に重要な手がかりを与えることにもなる。すなわち、イジメがクラスの社会秩序を再活性化 するための「儀式」であるとするなら、イジメに取って替わる「儀式」をクラスに導入してやればよい。
・儀式に必要なのは、「単一の注目の焦点へ向かって、参加者が一斉に特定の行動パターンを取ること」である。聖地 エルサレムへ向かって一斉に礼拝するイスラム教徒や、お葬式の際の振る舞い方(お焼香をして位牌に向けて手を合わ せ、遺族に挨拶をする、etc.)を思い浮かべて見ていただきたい。
・これを学級活動に当てはめるなら、たとえば、合唱コンクールでの合唱などはまさに儀礼的活動と言えるだろう。す なわち、単一の注目の焦点(=指揮者)へ向かって、参加者が同じ行動パターンを取る(同じ歌を合唱する)わけであ るから。本番に向けて練習(これも小さな儀礼と言える)を重ねていくうちに、次第にクラスの連帯感が高まってい く。そして、いざ本番の合唱で各自の声がピタッとあったとき、参加者は何とも言えない高揚感とエネルギーを得るこ とができるわけだ。
・このように、学校で行われる様々な行事(体育祭や文化祭、学芸会、etc.)は、クラスを統合すると同時に生徒の心 的エネルギーを再活性化させる儀礼としての機能を担っている。近年は、こうした様々な学校行事が親からも生徒自身 からも、「勉強の邪魔」とか「面倒くさい」などの理由で疎まれがちである。その結果、廃止されたり、形骸化してし まっている行事も少なくない。
注:たとえば、私が高校生の時は、文化祭や体育祭の後、みんなで酒を飲みに行くことは当たり前だった。また、騎 馬戦や棒倒しでけが人が出ても文句を言いに来る親はいなかった。儀礼や祭りに「危険」はつきものだからである。
ところが、近年は安全性のため、騎馬戦も棒倒しも禁止する学校が増えているようであるし、徒競走も順位をつける のは好ましくないとの理由で、皆で一斉にゴールさせる(^_^; これでは儀礼は盛り上がらないし、生徒達の心的な エネルギーも回復されないだろう。学校行事の衰退が、いじめの増大と軌を一にしているのも偶然ではないように思 える。
・もちろん、昔と全く同じ内容の行事を復活させようとしても生徒達はなかなか食いついてくれないかもしれない
(し、親の反対も多そうだ(^_^;)が、スタイルなどを工夫することによって生徒たちにとっても魅力的なものになる 行事は少なくないはずでだ。たとえば、合唱コンクールの選曲も、従来のようなクラシックではなく、ゴスペルにして みるとか(『天使にラブソングを』のパターン)。クラスマッチも、従来のスポーツ系だけでなく、文化系(オタク 系)の生徒も活躍できるような行事を増やせば、スクールカーストの固定化を防ぐことができるかもしれない(スクー ルカーストをひっくり返す機会にもなるわけだ)。
・イジメを防ぐにはもちろん、大人(親や教師、悪質な場合は警察)による介入や、規範の教え込みといった直接的な 対策も大事であるが、イジメが発生しにくい土壌を作るという環境整備的な対策も不可欠だ。イジメを「儀式」と見な す視点は、こうした環境整備的な対策に大きなヒントを与えてくれるように思えるのである。
B. 参考文献
1) 稲垣恭子 1989「教師-生徒の相互行為と教室秩序の構成―「生徒コードを手がかりとして―」『教育社会学研究』第 45集
2) シモンズ,R. 鈴木淑美訳 2003『女の子どうしって、ややこしい!』草思社
3) 多賀太 2007「青年期とジェンダー」酒井朗編著『新訂 学校臨床社会学』放送大学教育振興会、第12章 4) 森口朗 2007『いじめの構造』新潮新書
C. 「教育社会学」ホームページ
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Takeshi.Usuba/