10月17~18日 美濃市大矢田 ヒンココ祭
大阪発、比叡 3 号、13:20。岐阜着、15:25。雨。仕方がないのでタキシーですぐ大矢田へ向う。幸い当元の家 はすぐ分った。午後 5 時頃。所が人形は土間に置いてあったが誰も居ないので、その間に向い側の家に尋ねると丁 度それは区長さんの家で、案内されて、大略の説明を聞く。
ヒンココは麦蒔きを意味する行事である。
この行事は現在16軒の家が年替で当元をつとめる。以前からある大矢田神社(スサノオ)の株座で、村の富裕な 家のみが守っている。これを山元(ヤマモト)という。現在大矢田は約400戸。いづれも氏子。
ヒンココは試楽と本楽とあり。試楽は17日朝当元の門前で、本楽は18日午前3時(本年は午前4時)人形を奉 持して当元の家を出発。お旅所の山へ行く。
試楽は当元の門前の庭。道との間に竹の柵を組み、これに幕を貼って 1 度舞わす。ヒンココ餅、糯と小豆の味な しの餅。
道に向って幕より上に人形をつき出してヒンココを 1 通り演ずる。ヒンココ餅はそのとき本年人形を演ずること に定った者に振舞う。人形は神人(ねぎさまという)。農人。蛇共首に滑車がついていて、支柱の竹首が前後に動く ようになっている。蛇は顎が動く。人形は皆土間に並べてあったが、猩々、だけは床に置く。
猩々は床に飾る。床には大矢田神社、牛頭天王の軸を掛ける。猩々は高さ 2 尺ばかりの人形で、枠に操りの滑車 がついている。別に猩々と比較にならぬ大きな竹の釣竿と魚の形をした板を竿の先から組で吊下げてあり、猩々は この釣竿を手にして舞わすという。もとは夷美須か。
太鼓は径約1尺5寸の締太鼓、指鐘は胴銭ドウシンで昔お寺から古いのを買って来たものという。
蛇は首の部分、胴の部分、尾の部分の3本立で首の部分のものは棒の長さ 1丈程もある。幕のうちでそれぞれ別 人が演じて、幕の外から見ると大蛇のうねっている様にする。
農人。浅黄の綿の着物に麻地の上衣をつける。茶色のたっつけ、ヒンココの地の名称
ねぎ殿1、軍配1、鍬1人、烟管1人、足あと1、俵背負1、つとさげ2、土かけ後平2人、めしかご1、蛇3人
(首、胴、尾各1人)他に猩々、たつ。
昔は神田があった。その収穫で総ての祭りの費用を賄っていた。明治44年の神官(大矢田神社)山本さんの祭事 記録帖によれば元禄の頃。極楽寺を中心とする寺領。修験道の中心。祭祈祷は修験道の手で行われていた。
いつの頃か修験者が祭・祈祷を顧みないことがあった。そのとき幕府がその寺領の地押し(土地没収)をやった。
その結果廃寺が続出し、そのとき土地の豪族で幕府へ祭袋を納めていた者が名字滞刀を許され梅林家を名乗り、ス サノオを勧請し、農民のため祇園の祭を行い神職を兼ねた。後梅林氏は帰農し、ヒンココの起因となる。後山元16 軒が中心となり、年番が当元をつとめることとなる。
スサノオを勧請したのは、この地に古くから天王信仰があった。
今大矢田には山元の外に車元がある。車元の家は可なり多い(約 100 軒)中には山元と車元とを兼ねている家も ある。しかし、山元、車元に入っていない氏子の家の方が遙かに多い。現在約400戸。
ヒンココがもと旧9月8日、次新10月8日、次10月18日と日が変ったのは意味がない。10月8日頃雨が多いの で10日延ばして18日にした。
ヒンココの人形をつかう者、道具を持って行くもの、山腹の祭場の用意をするもの等約30人必要であるが当元は 約50名程の村人に招待状を出して(これは当元が勝手にきめる)前日17日宮試楽の日に、午前10時頃に家に来て 貰う。そのときヒンココ餅を振舞い役を頼む。本楽は18日午前3時頃始まる。
ヒンココ使いの人が集ってきたとき、朝飯が出る。(今は酒と)道行に先たち門口で楽が入口、1舞する。雨、人 形にビニールをかぶせたまゞである
道行の次序。先頭松明、ねぎ、軍配、農人、蛇、囃し。別に道行に加わるものとして、猩々と龍(タツ)とある
(先頭に行く)。これをその順位で持っていったかは不明。囃しの次には道具持、表櫃等はトラックで別の途から出 発お旅所へ先行する。道中囃を止める所2ヶ所ある喪山(モヤマ)と転ばずという石のある所。
転ばずの石というのは村人がそこを歩いて転んだときは白紙を紐にしてその辺の木を 3 所結んで縁直しをすると いう。
人形をもっているものは道中、ホー、ホーと掛声をかけ、人形を振りつゝ行く。家の前を行くとき、このホーホ ーは家の方へ向ってて呼ぶ。
道中は昔の馬場らしい。両側に農家があり高稲架がかかっている。
お旅所へ到着したヒンヒコヽはだんじり山の前の広場で3周して舞う(囃子は中心でやる)。このとき猩々は先頭 でタイを振る。照明は松明のみ。
舞終ると後の山へのぼる。舞庭の周囲や、山番家の付近に人形をたてかけ、猩々は 1 段高い仮屋に置き前に簾を 垂れる。
5、6人の山番を残して、あとは一先づ家に帰る。山番はその後舞庭に幕を貼り、山の道つくり、草刈りなどする。
午前10時頃までに用意をする。このとき打揚花火を鳴らすが、これは今年から始まる。午前5時半頃で少し明けて くる。1 度宿に帰る。12時頃再び車元はやはり当元を年番で決める。但し車元のだすものは流鏑馬、稚児舞、獅子 の舞である
午後2時半頃、道中の途中の出発点から出るが、まづ笹渡り。笹に白紙短冊をかけたもの1本。これは次の歌を 書く。
よろづよの めでたき御世の 神まつり 神まつり 民も豊かに はやすなり 今日のまつり はやさん
の8枚の短冊を垂らす。当元が持つ。
道中順に記すると、先頭は警護、甲冑をつけ、竹竿を持つ。てこの役はもと非人が勤めた。非人がなくなって、1 度非人が来た甲冑というので誰も嫌がって着る者がなく、現在は、甲冑はお旅所の神殿の左柱に1 ヶ。榊共に始め から飾りつけてある。現在は警護係は 2 人。上下。太竹を持つ。次が短冊を垂らした笹、次、小さなかんこを吊っ た笹。このかんこは、だんじり山で稚児舞を演ずるとき稚児が胸につけるが道中は笹に吊して、小年が持つ。この 少年は稚子を出す家が頼む。4本。次が稚子4人、頭に小さな布団3枚を重ね、その上に折烏帽子をつける。車元で 男の子が生れた家では必ず1度は稚児となって神の祝福をうけるという。
大てい2、3才。父親(上下風鳥子)の肩車に乗る。道中が長いので附添(男)が1人つき、ときどき、おんぶす
る。次が獅子、6、7才の小年2人。顎の長い、紙製、漆塗の龍(タツ)の頭を被る。この頭には赤い引き垂がつい ている。小年は赤い着物。次、太鼓打、2 人。9/10 才の少年。稚児と同じ服装。短い桴を持つ。次、囃し方、鼓、
12人男。上、下、年令に制限はない。12才位から老人まである。笛、4人。太鼓持4人。小学生、学童服のまゝ組 で平太鼓を肩に吊り、道中両手で後に平に持つ。この太鼓を打つ役4人。上、下、17~18才の青年。旗持4人。旗 は。市場、中、東、 とある。
順序は入替るが大矢田神社の本社(楓谷にある)から御旅所へ神輿の神幸があり。11時半頃到着する。
この神輿が出発の頃(10時頃)から山腹の舞庭では、ひっきりなしに囃しが入って、ねぎ殿だけを交替で舞わす。
笹渡りは囃方は参加するが囃し、楽打はやらない。静かに。御旅所まで道中して、短冊笹のみを神前に捧げる。
而して1度、出発点まで行列を整えて帰る。
笹が神社(神輿)に納まると、もとは参詣の氏子が皆、矢を奉納して、その矢で神官は大蛇の籠る山の方を射た というが、今はない。代りに朱の紙で羽をつくった竹の矢を神社から参詣人に授与する。
その間に笹渡り出発点へ帰るわけであるが、車元では続いて流鏑馬を出す。馬1頭、警護2人、馬の口取り4人、
青年、奴姿の紺の法被、赤の片襷、草履ばき、道中を神輿殿まで 2 度往来する。出発するとき、毎度口を取って 2 廻してから進む。飾り馬には誰も乗らない。3度目に出発点を出て、神輿殿まで進むが、そこで口取役は馬の口を放 して馬を奔走させる。馬は勝手に駆けて出発点に帰り、これで終る。
次いて。稚児舞。獅子の道中がある。笹渡りのときと同じ。但し白紙の笹はない。最終に別の馬が 1 頭口を取ら れてついて行く。
この道中には囃しと歌が入る。謡曲風の歌で、唱えている間は行列が立止まり、後に囃しでゆっくりと進む。
この行列が広場に到着する頃となると、山腹の舞庭では、ねぎ殿の舞が一きわ、激しくなる
もとこの車元の行事には少字伊瀬、西洞から「神楽舞」が参加していたが、今年からは離脱した。主たる原因は 美濃市に併合されてから美濃市の春の祭(4月の八幡様の祭。一花みこし)に参加することになり、この地方は結極、
春と秋と2度祭をやらねばならぬので負担が嵩んで仕方がない。秋は止めたいというのが真相らしい。
広場に入った車元の道中はそのまゝ2つのだんじり山に分れて上る。馬は神輿殿の後方につなぐ。双方の山に上る ものは半数づゝの人数であるが、これは始めからどちらに上るか決っているらしいが聞くのを忘れた。本社のだん じり山と若宮のだんじり山で演ずるものも同じである。同時に両方で演ずる
稚児の舞。笹に吊って来たかここを稚児が胸につけて貰って山の中央を親の方から1回往復する。これを3度。
次に獅子の舞。山の中央に稚児に替って獅子1人が位置し、やはり、立ったり坐ったりする簡単な舞をする その間囃し。終ると獅子が山腹の方に向って、だんじり山の縁に立ち、頭を大きく上下する。
山腹では、これを相図に、ヒンココの舞が始まる。まづ農人12の人形が輪となって廻る。3周したとき、大蛇が 出て、農人が追われる動作をする。大蛇のみが 3 周したとき、ねぎ殿が現はれ、大蛇と追い追われとなり、最後に 大蛇が亡され、農人達が喜ぶ様となる。
そのときお仮屋の猩々の前の簾がまき上げられ、鯛吊りの竿が前に差出されて振ると、瀧に見立てた反橋をたつ が上り下りしてその鯛をとろうとする。
これで祭りは終る。すぐにヒンココ農人人形の衣装は、はぎとられ中央の支柱と、鼻の紙型はもぎとられ、その 他は予め決っている子供(人形持をやった家の子供)に渡される。
農人及びねぎ殿の構造。
頭と胴とは割竹で編んだ籠。頭部の方は中に支柱を入れる。この支柱は胴を貫いて頭に通してある太い竹と細い 竹の 2 本の支柱で先端で契を入れて、細い方の竹を上下すると頭が上下に動くようになっている。頭の籠には紙を 貼り、これを褐色の泥絵で塗り、目鼻をつける。鼻だけは昨年のを保存しておいて、それを貼りつける。目、耳、
口は白黒に描いた紙を目は目の形に切って貼るのである。持物も藁などで新調する。衣装は保存してある古いのを 毎年使う。浅黄染の菊模様の着物、茶色の縦縞、桜の模様入りのたっつけ、ねぎ殿丈けは無地の麻の羽織をつける。
ねぎ殿は三角型の金銀の冠り、白髷をつける。右手に紙幣をつける。この紙幣も毎年新しく作る。