10月6日 三田市貴志 御霊神社 矢立神事
大阪発17:08で三田へ、それからタキシー。まっ暗な淋しい山中にある。とても祭らしくはない。本祭の7日は もう少し賑うらしい。
宮司が若い人で、あまり宮座のことについては詳しくない。その上、現在の宮座のあり方が、どうもその主張の ように行っていないらしい。これは尋ねても無理だと諦めて暗い境内を見ながら何か拾えるものがないかと探る。
とにかく、矢立神事は午後 8 時頃から始まるらしい。秋祭のための特別の神饌として三宝の上に枡形の強蒸の糯が 椿葉を敷いてあり、その横に径1cm、高さ1.5cm位の円筒形の強蒸の糯が30ヶばかり作ってある。これは祭典 が始まるとき、神殿へ運ぶ。矢立の神事に使う矢は篠竹を削いで先を鋭くし、これに矢型に切った白紙を矢羽の代 りに挟んだもので矢の数は12本位あったと思われる。
7時半頃、数人の人がやって来て参道の掛提灯に火を入れた。これは数ヶ所にあった。それまでは境内の神庫が開か れ、布団太鼓の下で(据えたまゝ)5人程の子供が太鼓を打つ練習をしていた。この5人の子供はどうやら宮座の人 の家族らしい。もう少し宮座の方から聞きたいと思っているうちに、1人の人から話しかけられて、大体の様子が分 った。
貴志の部落中約50戸程の家が「おとう講」を組織している。この講は23年前に開放されて、部落中の誰でもが 参加できる氏子組織になったが、全部の行事がすぐ一般に開放されるような性質のものでなく、なお旧態は残って いる。「おとう講」の開放された理由は村内で、不和があったり争いがあってはいけないという理由で開放されたと いうが、実状は講に御霊神社の祭儀を掌握して行くだけの経済力がなくなったこと、株座の離合があって、講だけ ではやって行けなくなったこと等あるらしい。
おとう講の中心は御霊神社の神輿を舁ぐ十人衆にあったようである。講中の席順も定っていて、
1、左右両横座 各1名 祭祀者の位置につく 2、鼻棒 2名 神輿の先棒を担ぐ 3、後棒 2名 後棒を担ぐ
4、太鼓 2名 太鼓2名、 太鼓を打つ 5、相の手 1人 予備で雑用を引受ける、
6、踊手 3人 足がため(蛙飛)をする
年令から言って、十人衆中踊手は最年長者である。もとは全員が裃、袴をつけた、が現在は横座の 1 人が裃袴を つけるだけで他の全員は平服のまゝで、大ていは、ジャンパー、スボン、下駄ばき。
午後8 時少し過ぎた頃に矢立神事が行われた。その頃までに十人衆と横座とは拝殿の右手にある長床に集り、そ の中央に相の手が新蓆を敷いて席を設ける。
この長床に上ることのできない、世話人の 1 団がある。上鴨川住吉神社の祇園講のようなものかと思うがこゝで は単に「消防」といっている。長床の者からの指図で道具庫から什器を出したり、又参道の吊提灯に火を入れるの もこの「消防」の役のものが当る。神宮は同時に「御供(ゴク)」を拝殿に運び、また矢立の矢を運ぶ。用意が整う と「消防」は参道数ヶ年につけた祭礼提灯の火を全部、消す。
横座 1 人が裃袴をつけ、長床から拝殿に登場する。相の手は社務所へ用意が整った旨を告げに行き、服装を改め た神官と共に拝殿に行き、相の手は登場せず、外に立っている。神官の修祓、祝詞があって、神官から矢が横座に 渡されるがそのとき舁棒の2人及び後棒の2人が長床から呼ばれ、そのうちの1人は火をつけた提灯を持ち、他の3 人は矢を分ち持って、神官と共に後山に上る。相の手はこれに先立ち、新蓆を持って先に後山に上って神座を設け る。
後山に上った一行はまづ神官が新蓆の座について短かい祝詞をあげ、その後で横座及び他の 4 人はそれぞれ持っ て来た矢をその前方の地面に突さすのであるが、附近には昨年や 1 昨年の矢がなお数多く、地上にさされたまゝと なっている。これを提灯1つの明りの下ですませる。
終って拝殿に戻ると撤饌となり、横座はじめ、これを頂いて長床に帰る。神官は横座の横の席につく。直会であ
る。各自、枡形のごくの1片を分けてもらって手にとり、その外は湯でた枝豆。これで今夜の式は終る。
直会の席のあとで、明日の蛙とびの足揃えをすることがあるが今夜はそれはやらない。
明日は神輿の御旅行神幸があるが、それに先立ち長床で 1 度蛙飛をやった後、拝殿の前で蛙とびをする。別に採 物はないらしい。
横とびに3、4度跳ねる程度で、神舁ぎの足がための意味だという。蛙飛のあと神幸式に移る。次にお旅より還御 があって、神輿から神霊が神殿にうつるとき再び拝殿の前で蛙とびをやる。
ホヤホヤ踊は、神霊が拝殿に収って後、おとう講の全員が境内で踊る。
午後10時近く、タキシーを宮下の所まで呼んで貰って、宝塚まで車で行く。