中東では深刻な人道危機が続いている。国際連合人道問題調整事務所
(OCHA)
によると
2015年 11
月末現在、中東で人道支援を必要としている人々の合計は5850万人を数え、世界全体で必要としている人々の
47%を占めている。シリアの国内避難民と
国外への難民の合計は1130万人に上り、国民の半数以上が避難生活を余儀なくされて
いる。イエメンでも国民の半数以上が食料不足に直面している。なぜ中東ではこれほど無秩序な状態が続いているのだろうか。以下では、①不明瞭 で錯綜した敵・味方関係、②多数の武装非国家主体の台頭と宗教的次元の前景化、③ 米・ロシア関係を軸とした国際レベルでのパワー・バランスの変化、の3点に絞って 混乱の背景を考えてみる。
錯綜する敵・味方関係
中東の混乱を最も如実に示しているのは、敵・味方関係が非常に錯綜していること である。敵・味方関係は状況によって変化し、「今日の友は、明日は敵かもしれない」
という不確実性を高めている。
一例として、シリアのクルド人をめぐる状況をみてみよう。2016年
8月下旬、トル
コ軍がシリアに越境侵攻した。「イスラーム国」(IS)
掃討が主目的とされたが、シリ アのクルド人勢力にも攻撃を加えた。もともとシリアのクルド人勢力は、トルコ政府 が「テロ組織」とみなすトルコのクルド人組織の流れを引き、軍事的にも協力関係に ある。このためトルコは国境のすぐ南側でシリア・クルド人が支配地域を拡大するこ とを嫌い、軍事的にクルド人勢力をユーフラテス川以東に押し戻そうとしたのであ る。米国はトルコのこの方針を支持し、侵攻開始当日に首都アンカラを訪問中だったバ イデン米副大統領は「シリアのクルド人勢力はユーフラテス川以東まで撤退すべき だ」と述べた。米国はさらにトルコ軍の侵攻に航空支援を提供している。その一方 で、米国はシリアのクルド人勢力をISに対抗する最有力組織として軍事支援を行なう とともに、クルド人支配地域に特殊部隊を派遣している。
そのクルド人勢力はバッシャール・アサド体制と正面から敵対しているわけではな
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◎ 巻 頭 エ ッ セ イ ◎
Tateyama Ryoji
い。彼らにとって主目的は自治を確立することであり、アサド体制打倒ではない。そ れ故、サウジアラビアなどが支援する他の反体制勢力はクルド人勢力を味方と考えて おらず、たびたび軍事的に対立している。
敵・味方関係の錯綜ぶりはイラクにおける対IS攻撃にも表われている。イラク政府
は
IS掃討作戦を進めており、2016
年6月には主要都市ファッルージャの奪回に成功した。一連のイラク政府軍の作戦に米国は空爆を含めさまざまな支援を提供している。
同時にイランが支援するシーア派民兵組織も
ISとの戦闘で主要な役割を担っていた。
米国とイランはほとんどの局面で対立しているが、イラクでは「共通の敵」ISとの戦 いで事実上の協力関係にある。
武装非国家主体の台頭と宗教的次元の前景化
中東の敵・味方関係は以前から錯綜していた。イスラエルと対峙する一方で、アラ ブ諸国間には熾烈な争いがあった。しかし、現在はまったく新しい局面を迎えてい る。いくつかのアラブ諸国で「暴力装置の独占」状態を含め国家機能が喪失し、代わ って部族や地域、宗教・宗派、イスラーム主義のイデオロギーなどを組織原理とする 武装非国家主体が台頭しているからである。彼らの行動基準は当然、国家主体と異な っている。武装非国家主体はなぜこれほど台頭したのだろうか。
第三世界の多くの国々と同様、中東諸国にもサブ・ナショナルな集団が多数存在し ている。これらの集団は強権的な支配で抑え込まれてきた。ただその支配は各集団の 内部にまで浸透しておらず、政権は利益供与によって取り込んだ各集団の有力者を通 じて個々の集団を間接的に支配してきたにすぎない。換言すれば、統治の基盤となる 社会契約は国家と個人との間で直接結ばれていたのではなく、地域やコミュニティー の指導者、つまり代理人を媒介とした間接的なものにとどまっていた。それ故、何ら かの契機で中央政府の力が弱まると、各集団は容易に政府から離反することになる。
しかもこれらサブ・ナショナルな集団は多くの場合、国境を越えたトランス・ナショ ナルな性格を併せもっており、国外勢力による介入の受け皿の役割を果たすことが多 い。
敵・味方関係をさらに複雑にしているのが、宗教的な次元の前景化である。サウジ アラビアとイランの対立は、もともと地域における覇権争いを背景としている。しか し、それぞれがスンナ派、シーア派の「盟主」を自負し、宗教的なレトリックを多用 するとともに、各地にある同じ宗派集団を支援している。結果として、宗派対立の様 相がいっそう強まっている。
紛争の過程で宗教・宗派アイデンティティーが集団形成の核になることはよくあ る。旧ユーゴスラビア紛争もその一例だ。2003年以降のイラクにおいても、宗派アイ デンティティーの違いが旧体制との関係や地域対立、各種利権の分配問題などと絡み
◎巻頭エッセイ◎中東の混乱の背景にあるもの― 非国家主体の台頭とパワー・バランスの変化
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合い、宗派問題として政治化されていった。
シリアにおいても同じようなプロセスが進行してきた。ただ実際の敵対関係を宗派 対立だけで説明することはできない。ISとアルカーイダ系のヌスラ戦線(1)は同じスン ナ派の過激イスラーム主義グループに分類されているが、敵対関係にある。多くの反 体制派もイスラーム主義を掲げているが、地域的な違いや外部スポンサー(サウジア ラビア、カタール、トルコなど)との関係に左右され、足並みはそろっていない。
トルコの政権党である公正発展党(AKP)とイスラーム指導者フェトフッラー・ギ ュレン師(米国在住)が率いる運動体(2)は、2012年ごろまで世俗主義を掲げる国軍に 対抗するため同盟関係にあった。しかしその後は対立を深め、トルコ政府は2016年
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月のクーデター未遂事件の首謀者としてギュレン師の身柄引き渡しを米国政府に求め ている。このようにイスラーム主義のイデオロギーを含め、現実の政治や社会でイスラーム をどのように実践するかは決して一様ではない。このこともまた中東における敵・味 方関係をいっそう錯綜させている。
国際レベルでのパワー・バランスの変化
米国のオバマ政権とロシアのプーチン政権の中東への関与のあり方はきわめて対照 的だ。
米政府内にはシリアへのより積極的な軍事介入を求める声もある。しかしオバマ政 権の中東への軍事的関与は特殊部隊や訓練要員の派遣などに限られている。このため イスラエルやサウジアラビアなどの同盟国は「見捨てられる恐怖」を抱いている。核 合意後のイランとの関係も、当初考えられていたよりもはるかに限定的なレベルにと どまっている。
『アトランティック』誌のジェフリー・ゴールドバーグがオバマとのインタビュー 記事で述べているように、オバマはもはや中東を米国の国益にとってきわめて重要 な地域とはみなしていないのだろう(3)。背景には中東に積極的に関与しても、米国が できることは限られているというオバマのプラグマティズムがある。さらに限定的な 軍事介入を行なうにしても、リスク最小化のため、米兵士の損失を回避できるドロー ンを多用したり、同盟国に参加や分担を求めるなど、関与のあり方自体も変化してい る(4)。
一方、プーチン政権は中東への関与を強めており、2015年
9月にはシリアへの軍事
介入に踏み切った。軍事介入の一義的な目的は、ロシアとの関係が深いアサド政権の 崩壊を食い止め、地中海域で唯一ロシア海軍が使用可能なタルトゥース港へのアクセ スを維持することにあったのだろう。しかし、それ以上に「大国ロシア」の地位を回復するという広範な目標があり、そ
◎巻頭エッセイ◎中東の混乱の背景にあるもの― 非国家主体の台頭とパワー・バランスの変化
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のために中東における発言力を高める必要があったと考えられる。実際、2016年3月 にシリアからの撤退を発表したにもかかわらず、ロシアはシリアにおける軍事プレゼ ンスを恒久化するとともに、巡航ミサイルの使用など攻撃力の多様さを誇示してい る。2008年ごろに始まった装備更新などによるロシア軍の再建が一定の成果を上げ、
中東への軍事力の投射能力が高まったことも軍事介入を積極化させる要因になってい るようだ(5)。さらに中東の主要諸国との関係拡大にも腐心している。2016年8月には、
ロシア軍機がシリア爆撃のためにイラン国内の空軍基地を一時使用し、世界を驚かせ た。2015年11月のロシア空軍機撃墜事件で対立したトルコとの関係も、トルコ側が 謝罪したことを受け、しっかりと修復している。
*
国際レベルでの力の変化を反映し、米国が中東から「退場」する一方で、ロシアが
「再登場」しつつある。その結果生じたパワー・バランスの変化と力の空白が、武装 非国家主体の台頭、錯綜した敵・味方関係、宗教的次元の前景化と重なり合って、現 在の中東の混乱を引き起こしている。
このように現在の中東の混乱にはいくつもの構造的な要因が複合的に作用している だけに、収束に向けた道筋はまったくみえてこない。シリアやイエメンにおいては、
一時的な停戦合意すら維持されていない。さらに言えばこれらの国では、かつてのよ うに中央政府が一元的な統治を再現することすら困難だろう。「失敗国家」「破綻国家」
をもう一度、ウエストファリア的な国民国家に再建する試みは他の地域でもほとんど 成功していない。
(1) ヌスラ戦線は2016年7月末、名称を「シャーム征服戦線」(Jabha Fath al-Sham)に変更 し、アルカーイダからの独立を宣言した。
(2) 一般に「ギュレン運動」「ギュレン派」などと呼ばれているが、正式名称をもった組織で はない。
(3) Jeffrey Goldberg, “The Obama Doctrine,” The Atlantic, April 2016〈http://www.theatlantic.com/
magazine/archive/z2016/04/the-obama-doctrine/471525/〉.
(4) Andreas Krieg, “Externalizing the burden of war: the Obama Doctrine and US Foreign Policy in the Mid- dle East,” International Affairs, Vol. 92, No. 1, January 2016, pp. 97–113.
(5) Margarete Klein, “Russia’s Military: On the Rise?” Transatlantic Academy Paper Series, 2015-16, No.
2, March 2016, pp. 18, 21.
◎巻頭エッセイ◎中東の混乱の背景にあるもの― 非国家主体の台頭とパワー・バランスの変化
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たてやま・りょうじ 防衛大学校名誉教授/
一般財団法人日本エネルギー経済研究所客員研究員 [email protected]