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9 月 15 日 兵庫県美方郡浜坂町久谷 ざんざか踊 前日

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9月15日 兵庫県美方郡浜坂町久谷 ざんざか踊

前日、浜坂駅で駅長に旅館のあっせんを頼んでいるとき、傍に丁度、久谷の人が居て、久谷の祭は午前10時に始 めて、午後 2 時に終る予定であると教えられた。午後だと思っていたので、帰りの時間を心配していたのだが、う まく時間のさし繰りは付いた。半面、浜坂の宇都野神社の川下(カワスソ)祭の調査は放棄せざるを得ないことと なった。

ざんざか踊りは久谷の八幡神社の祭礼に関与して出る。久谷部落は現在(昭和33年)77戸、八幡神社は部落の東 端、南側の丘の上にあって小さな社殿はそのまゝスッポリと入る大きな鞘堂に納まっている。御神体は白木の神像、

祭神は児屋根命、表筒男命、品陀和気命。創立年代は不詳であるが山城国石清水八幡の分霊を勧請したという。も と蓮台山の頂に鎮座、北麓の余部や香住の下浜にも氏子があったが、夫々分祀したとき、久谷では現在の地へ移し たとある。

ざんざか踊はもとは太鼓踊といったらしい。蓮台山から分祀した余部にも太鼓が残っていたことから、分祀前の 八幡神社の祭礼に太鼓踊があったのではないかともいわれている。分祀は応永21年(1414)。

八幡神社の祭礼は神幸祭であって神輿が行列を整えて久谷部落の西方約 1 キロの所にある対田という所の御旅所 まで渡御したのであるが、今は村内の主な家々を廻る。

猿田彦、獅子頭、榊山、山車、神輿(3基)、鉄砲(12挺)の行列である、がそのうち山車は船形の台車で、これ に八幡神社の幟を無数に立て巡らし、中央に太鼓を据えて、1人の子供がこれを打ち囃しながら、大勢の子供が曳い て廻る。珍しい型の山車である。神輿は神輿庫には3基並べて飾ってあったが舁ぎ手の人数の都合で、1基のみ参列。

鉄砲は氏子総代を始め区長その他の役員が紋付姿でその後に従う。

太鼓踊は踊子4名、謡い手1人が1組であるらしい。何れも若連中のうちから選ばれ、踊り子は若連中のうち年 少者がなる。当日は丁度2組、踊り子8名、謡い手2名であった。

踊り子 14~15才の男子。盲縞の着物、縞パッチを穿き、片帯をしめる。白足袋、黒緒の下駄ばき、白の手甲、

桃色の布をしぼって襷とし後で大きく結ぶ。笠は竹芯の輪に 8 本の竹串を軸にした上に白紙を張ったも ので、頂に長さ20㎝位の幣串を立て5色の紙垂をつけるが、その他に丁度笠の縁の所まで垂れ下る程の 長さの5色の幣紙を無数に取付けて貼った笠の白紙が隠れてしまう様になる。笠の縁には幅8㎝位の引 幕のように白紙を垂れ、これには「竹に雀」の透しが切抜いてある。この切抜の引紙のみは毎年新しく つくる。

締太鼓を腰に手につけるのであるが、これには太鼓の締緒と同じ程の太さの緒紐をまづ太鼓の胴に結付 け、その紐をそのまゝ腰の帯の上に巻きつけて、太鼓を腹に固定させる。撥はタブの木、長さ20㎝、径 2㎝位に削り、手に持つ方半分を残して墨塗とする1人2本。

歌い手 青年がなる筈であるが歌の上手が仲々ないらしく当日2人とも30才位の大人であった。やはり縦縞の 着物、裃をつけ、白足袋、草履ばき。太鼓踊りは渡御の列中の一員とは見られない。八幡神社で祭典 が始まる頃参道入口の鳥居の所から並んで太鼓を奏しつゝ参進するが、これが正規の踊りの一部であ るかどうか不明である。別に支度をする宿というものは一定していない。

祭典が終って神輿の渡御となるが渡御に先立ち太鼓踊は神前で1庭踊る。

いゝ忘れたが14日宵宮祭の日に神社の前で1庭踊る。これは「笠揃い」という。

踊りには、門付け、入葉、切り、寄切り、戻し、小歌の別があって、それぞれ踊りの振りが少しづゝ違う。

門付け、入葉では太鼓を打ちつゝ1列に並んだ列のまゝ左右に向き、膝をガニ又に開く所作があるが左右横向きに なったとき正面と反対側の腕(左に向いたときは左の腕)を撥を持ったまゝ水平に延す所作が入る。

切りでは上体を右又は左に傾け、そのとき反対側の足を延したまゝ上げる所作が入る。

寄切りでは折った膝を地面につけ片方の足を延ばし、撥の方を上に延ばす派手な所作が入る。

歌詞は1曲何れも短かいものであるが可なり数はあるらしい。

門付け 奥山の

久谷字宮谷鎮座(久谷部落七十戸)八幡神社、九月十五日例祭祭神児屋根命、表筒男命、品陀和気命創立年月不詳、山城国石清水より勧請。もと旧七美美含二方三郡にまたがる蓮台山に鎮座(『兵庫県神社誌』下巻(臨川書店

5、戻し 4、寄切り 3、切り を歌う 2、入葉各踊曲目の移りのとき、小歌 1、門付け 踊り子は村の若連中である。 方一人 もとは余部にもあった。踊子四人、謡い S13)

(2)

入葉 白鷺、赤崎通い、若狭登り、山伏

切り えひを選び、三又榎、大谷寺、牛若君、高木もがれ 寄切り およやれ、津山が沖、赤間が関

戻し 空立つ、綾踊、千鳥、忍踊。

小歌

門付けは 1曲のみ。これは踊りの始めに踊る。入葉以後はそのうちの1曲。又は数曲を踊る。常々その全曲を踊 るのではない。入葉から切りに、切りから寄切りに、と踊の種類が変るときに小歌を1曲はさむ。

神社の前での踊りが済むと、神幸式となるのであるが神幸式の行列が整うまでに少し時間がかゝる。

踊りはその間待っているのではなく、直ぐに神社を出て 2組に分れて、村中の各家を 1軒づゝ門付けして廻るの である。各家の門庭か、土間へ入って、そこで踊る。

歌い手の外に世話人が 1 人付いて、ハナを集めて廻る。ハナの金高によって踊りは簡単にすませることもあると いう。

折悪く渡御の列が神社を降りて来た頃から地雨のような雨しとしとと降って来た。この渡御の行列はそのまゝ進 むのかと思っていたが面白いことには、先導の猿田彦と獅子頭、次の榊山、山車、神輿がそれぞれ別々にやはり家 を訪れるのである。尤も太鼓踊のように 2 組に分れて、今どこへ行っているか分らぬようになることはないが、大 たい行列の順序で各家の門先で祝福して廻るのである。その都度ハナを出す家もある。最も勇しいのは大ぜいの青 年に担がれている榊山で荷負棒をドスンと地面に投出すと、改めて榊山を前後に持って廻る。所が現在では御旅所 の代りに1度神輿が駐輦して、全員が休憩する所は予め定っているらしく、それは中程にある株本家の玄関である。

そこには忌竹を立て注連を張り、盛砂をして幕を張り、提灯を吊り、神輿を据える台が用意され鏡餅、その他の神 輿が用意され、太鼓踊りをこゝでの1踊は充分丁重に踊るらしい。その後全員に大振舞がある。

14日の各地で聞いた話。経の株本家の祭礼日に於ける地位等を考えて、村の祭祀権の中心はなお昔の大庄屋或い はこれに類した、親方の家を中心に祭られている封建性が、なお感ぜられて、もう 1 度この地方の宮座なり頭屋制 を考えて見なければならぬと感じたのであった。

〈タテ〉

(昭和32年6月謄写抜刷本)…以下略

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