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KSKPサロン あべの通巻1546号

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(1)

KSKPサロン・あへの通巻1546号1991年2月23日  

.丁∴・. 九九年月∴‖発行︵龍再塵行︶KSK2通巻⁚止四六弓一九八四年八月二Ctl鱒二欄邸傾認可  

発行人=閥西陣害意遁期川〃付物協会 人阪巾東成区中太一ト・T﹂ハ ヘルビュウ姦の宮・6じ号   

穏やかに明けた新しい年の一月も半ばを  

過ぎた平成三年一月十九日︵土︶午後一時︑   

年に一度︑新年会でだけにお会い出来る  

方︑毎回参加のお顔なじみの方︑初めての  

方等々が﹁今年もどうぞよろしく⁝﹂とに  

こやかに賑やかに声を掛けあいながら︑新  

年会会場となっている阿倍野の近鉄百貨店  

九階の﹁粋花 K・Y・K﹂へ︒   

中央の楕円形の大テーブルを中心にして  

十二台の手動︑電動車椅子を含めて三四名  

が席につく︒   

まずは︑ビールとジュースで乾杯!   

後は各々のテーブルで︑会話を楽しみな  

がらの食事が始まる︒   

葦やぎの装いの﹁にゅうめん﹂︑パリッ  

とさわやかな﹁野菜サラダ﹂︑アツアツの  

﹁カツ﹂︑お代わりをどうぞと言われる﹁  

山菜ご飯﹂︑﹁フルーツ﹂をいただき︑心  

もお腹もホカホカ気分になったところでお  

口にヒンヤリとした﹁シャーベット﹂がこ  

の日のメニュー︒   

ゆっくりと時間をかけて食事を終えて︑  

またの出会いを楽しみに散会︒  

分∵常∵畢・㍍・㊥∵儲∴強∴♯・冨・倣 虞 悲 錆:鞍 潜 せ 敦 穀 能   

幹事さん  

ほんとに ほんとに ご苦労さん   

昨年暮れ︑新年会の幹事さんにお会いし  

たとき︑﹁今年はまた出席者が増えて︑三  

〇名を越えそうです﹂と聞いた︒最初の新  

年会は一〇名ちょっと︑つぎの年が二〇名  

強︑そして三〇名弱︑だんだん増えてつい  

に今年三〇の大台を越えた︒   

たくさんの人がサロンに参加してこられ  

ることはこのうえなくうれしい︒参加した  

みんなが楽しく︑にぎやかに出会える場に  

したい︒だから新年会の内容も︑ただ飲食  

だけで終らせたくない︒折角だから出来る  

たけ多くの人と話せるようにしたい︒幹事  

さんの頭の中で︑新年会のイメージは大き  

くふくらみ︑そして︑このような場作りが  

出来るのはサロンだけ︑と自負もしたろう︒   

はて︑さて︑現実は幹事さんのイメージ  

どおりの諸々の条件を滴たせたであろうか︒   

会場選び.の大へんさはもちろん︑その制  

約から︑内容が平易なものになるも止むな  

しか︒う〜む︒   

幹事さんのジレンマ︑推して余りあると  

思う︒ほんとに ほんとに︑ご苦労さん︒  

︵石︶  

出会し、 j−才1あレ一 助lナー合し−   

(2)

KSKpサロン・あへの通巻1546号1991年2月23日  

ぽくは何も知ってはいないのだ︒あの時  い夜︑バクダッドの垂がどれほど突然に輝  き︑その下でどれほどの人々が叫び恐れ︑  互いに押し倒しあいながら逃げていったの  か︑どれほどの人々が傷ついたのか︑病気  で歩けない人々が︑長い間床についたまま  の人々が︑床を追うようにして逃げよ・︸と  したのかどうか︑あるいは毛布を頭からか  ぶるようにして神に祈っていたのか︑どれ  ほど多くの子供が母親の亡骸に寄りすがっ  て泣いていたのか︑ぽくは何も知ってはい  

ない︒   もちろん︑捕虜になってしまったアメリ  カ兵の顔がむくれ傷を負っていたのはなぜ  なのか︑街中できらしものになりながら衝  の人々に石をぶつけられたか︑唾を吐きか  けられたか︑あるいは ﹁人間の楯﹂ となつ  

ぽくは何も   

知ってはいない  

て軍事地殻のなかの柱にくくりつけにきれ  たのか︑それとも地下牢のなかで生き埋め  にきれたのか︑ぽくはまったく何も知らき  れてはいない︒捕虜たちの豪族についても  

何も知らない︒   油が流きれる前には海はどんなに輝いて  いたか︑コールタールのような点い袖につ  つまれた水鳥たちは何を思っているのか︑  

息もできないほどに苦しいのか︑海の下の  魚たちはもがいているのか︑海はもう救わ  れないのか︑ぼくは︑なにもわからず途方  にくれながらテレビの映像を見るだけだ︒   アメリカやイラクの大統領に ﹁英雄﹂ と  たたえられ︑兵士たちは死と苦痛の恐怖に  どのように向かいあっているのか︑志願兵  なら逃げることはできないのか︑イラクは  ついに化学兵器を使うのか︑砂漠の砂は原  

岡 知 史  

爆の火に焼かれるのか︑油田は炎上し地域  の大気はすっかり汚されてしまうのか︑ぽ  くは何もわからず︑何も知らないままなの  である︒   イラクの大統領の写真を胸につけ空爆で  親を殺きれた少年が︑もしも銃をかまえて  ぽくの前に突然立ちふさがったなら︑ぽく  
(3)

KSKPサロン・あべの通巻1546弓1991年2月23日  

は言うだろう. ﹁ぼくは何も知らない︒何  も知らなかったのだ︒日本人が一人あたり  一万円を多国滞平に寄付して︑つまりぼく  自身もおそらく数万円を支払って爆弾を落  としていても︑日本の自衛隊の飛行機が中  東の空を飛ぶことになっても︑ぼくは何も  知らなかった﹂ と︒そこにウソがあること  

を知りながら︒   イラクの人々はアラビア籍を話すという  が︑ハローや︑ボンジュール︑ニーハオ︑  アンニョンハシムニカ︑グーテンターク︑  

シャロームという挨拶は知っていても︑ア  ラビアの人達の挨拶の青葉を︑ぽくはなに  ひとつ知らない︒パレスチナの人々が︑涙  を流しながらイラクとその戦争を支持する  とき︑ぼくは彼らの何十年もの難民生活に  

ついて何も知らなかったことを恥じる︒   

何も知らないのにその地の油だけには頼  

っていた︒なぜ知らないことを恥ずかしい  こととは思わなかったのか︒そこから油を  

買っているのに︑売る国の民よりも買う囲  

の民の方が豊かなのはなぜなのか︒   何も知らないとき︑たずねてみることが  できる︒相手のことを何も知っていないこ  

とに気づいて初めて︑説得でもない︑脅迫  

でもない︑誠実な対話ができる︒   耳を傾けたい.と思う︒絶望から希望へと  

向かうはるかな道がそこから見えてくるは  

ずなのだ︒  

あっちゃんのシングルライフ   

l  

山 木 篤 江   

憧れの一人暮らしを始めてから早いもの  

で︑三ケ月半になります︒  

一DKの小さなマンションですが︑私の  

お城です︒今までに比べると朝起きてから  

夜寝るまで︑誰にも手伝ってもらえないの  

が︑少し大変ですが︑そこは一人の気楽さ  

で本当に適当にやっています︒   

スーパーやデパートに行ったときでも︑  

自然と今までとは見るもの買うものが︑違  

っているんです︒前たったら人‡然気になら  

なかったものが︑やたら目に付くようにな  

っています︒所帯地味て来ている自分に︑  

やっと長年の夢が現実のものとしているの  

がうれしくって⁝︒本当は︑ 凄くしんどい  

ことかも知れませんが︑そんなことを考え  

たことはまだありません︒それと︑家の出  

入りが円由に出来ることが︑これほど解放  

された気持ちになれるなんて考えもしませ  

んでした︒経験出来てよかったです︒   

次回は︑日立出来るまでの十年間のいき  

さつを聞いてください︒  

(3)   

(4)

KSKpサロン・あべの通巻1546号1991年2月23日  

﹁ラッキーな人生﹂ と題して色々なこ  

とを書いてきましたが︑ここでもう少し  

補足してみたいと思います︒   

中学校での一年半で︑義務教育の九年  

間分の勉強をしたように書きましたが︑  

まさかそんなことはありません︒   

ほんのわずかの間でしたが︑中津の整  

肢学院に入所していたことを善いたと思  

います︒そこで︑﹁ひらがな﹂を少しだ  

けですが習っていたのです︒家に帰った  

後も︑母親から残りの ﹁ひらがな﹂を教  

えてもらい︑それが字を読むことの基礎  

になりました︒そのおかげで︑まんがの  

本や︑いとこのおさがりの教科書なども  

よく読んでいました︒とくにまんがの本  

は︑漢字の読み方を覚えるのに役に立っ  

たようです︒また︑テレビは教育テレビ  

ばかりを見ていたのです︒つまり︑独学  

のようなことをしていたのです︒その結  

果︑中学になって訪問教育を始める頃に  

新・ラッキーな人生  

上 平 幸 雄  

は︑小学校の四年生くらいの学力になっ  ていました︒︵ただし︑字は読めても書  くことはなかなかできませんでした︒︶   

ともあれ︑そういう基礎があったから  

こそ︑中学校に来てみないかという話を  

可能にし︑高校進学へもつながったのだ  

と思います︒   

職業訓練校を出たものの︑なかなか就  

職先がみつかず︑やっとのことで入れて  

もらったその会社を︑﹁なぜ?﹂辞めた  

のか︒働けるだけでも幸せだ︑と言う両  

親や知人の意見を無視してでも︑自分の  

可能性に賭けた理由について少し書きた  

いと思います︒   

その会社は小さなメーカーでしたが︑  

ぼくが入る以前から︑金剛コロニーとい  

う精神薄弱者の施設と関係があり︑ここ  

で内職をしてもらったり︑寮生のうち何  

人かは会社に釆て作業員として働いてい  

ました︒ぼくは電話で注文を聞いたり︑  

伝票の整理をしたり︑事務的な仕事を主  

にしていました︒でも︑その仕事が暇に  

なると︑金剛コロニーの寮生といっしょ  

に︑内職のような作業もすることがあり  

ました︒ある日︑そうして内職をしなが   らみんなと話していると︑ある寮生が自  分の将来の夢を語ってくれたのです︒彼  はこう言いました︒﹁ここで仕事をして︑  お金をいっぱいためて︑家を建てる︒そ  して結婚して︑子供をつくって︑幸せに  暮らすんや︒﹂と︒この言葉は︑ぼくに  強いショックを与えました︒ほかの寮生  もやはり︑結婚したいとか︑家を建てた  いとかという︑将来の夢をもっていたの  です︒なのに︑このぼくは自分の将来に  ついて︑何の夢ももっていなかったので  す︒障害者も人間として︑あたりまえの  生活を営む権利があると︑このときに教  えられたのです︒   

結婚して自分の家庭をもつというよう  

(5)

KSKPサロン・あべの通巻1546号1991年2月23日  

な︑人間としてあたりまえの生活をした  

いと考えたとき︑この会社では︑何年が  

んばろうとも無理だと判断し︑退職にふ  

みきったのです︒今思うと︑なんとも無  

謀で︑幼稚な考え方だったと思います︒   

﹃夢﹄をもつことが大切だと思います︒  

そして︑その夢に向かって行動すること︒  

そうすれば必ずチャンスは訪れると思い  

ます︒また︑そのチャンスを逃がさない  

ためにも︑自分の人生は︑人の意見にな  

がされることなく︑自分で決めることが  

大切だと思います︒   

ほかにも︑まだまだ書きたいことはあ  

りますが︑このへんでひとまず終わりし  

たいと思います︒  

〆 ̄ 

− ■■1−1〜■−●、−■,一 一 −−、 

昨年の十一月下旬︑ある団体の招待でサ  

ンフランシスコとロサンゼルスの近辺を巡  

ってきました︒   

目的は︑主に盲人︵肢体不自由老をも含  

む︶の施設訪問とそこに携わる人達との交  

流でした︒短い滞在でしたが︑色々な出会  

いを持った中て日本と一味違うなと感じた  

ことを二︑三善いてみます︒   

州によって法令に美果はありますが︑盲  

人が︑盲導犬を連れている場合︑ホテル・  

レストラン・劇場・交通機関等々は︑利用  

する盲人にたいし︑断ってはならないとい  

う法令規制があるといいます︒我が国では  

そのような所を利用する時︑断られる場合  

が多いのは︑通達のみという弱さでありま  

しょうか︒   

見えない私ですが︑招待を受けてディズ   ちょっとのぞいたアメリカ ︵J  

大 島  功  

ニーランドヘ行った時︑ミッキーマウス等  

の縫いぐるみ人形の行進があり︑見ていた  

ところ︑人出の多いにもかかわらず︑誰一  

人として私の前に立つ人がいませんでした︒  

たまたま︑子供が横切ったり︑聞に立った  

するとすぐに両親からきつい叱責の声が聞  

こえてきました︒早口の英語で︑内容はよ  

く分からなかったのですが︑子供に対する  

公衆道徳のしっけがゆきとどいているなと  

感じました︒又︑往復の機内での外人客の  

起居振舞や街中での車の流れ︑人の動きに  

ゆったりとした風情が感じられたのは︑広  

い国土に住んでいるだけではないゆとりと  

感じました︒狭い国土で忙しく暮らす私達  

ですが︑少しはのんびりとしたゆとり気分  

を持ちたいものと思いました︒  

(5)   

(6)

KSKPサロン・あぺの通巻1546号1991年2月23日  

最近︑彷中を歩いていてよく目につくの  

が二階建ての住宅︒滅多やたらの地価の値  

上がりで︑とてもじゃ無いが広い敷地をも  

った住宅など望めなくなってしまった現状  

と︑それでも少しでも広いマイホームをと  

いう庶民の夢が重なって︑あちらこちらで  

見かけるようになってきた︒   

狭い土地を南効に使う︑という点では良  

いやり方かも知れないが︑到底そんな立派  

な家に住むことがないであろう私でも︑障  

害老としていささか気になることもある︒   

よく見かける三階建て住宅の場合︑大抵  

が一階がガレージになっていて﹂品関は二階  

という造り︒そして︑その玄関に辿り着く  

には十段近くの階段を上らなければならな  

い︒おまけに階段自体もかなり急勾配︒た  

った一段たった数センチの段差があっても   二階建て作宅  

︑ナノンペイの   

ひとこと&ふたこと◎  

困ってしまう車椅子に乗っている為にとっ  

ては︑まったくのところ考えられないよう  

な住宅の構造である︒   

幸いにして今までのところ︑このような  

お宅に伺うこともなかったし︑ましてや自  

分が住む訳でもないのたから︑﹁アッシニ  

ヤ カカワリノネェコトデ・・︒﹂とほお  

っておけばいいのだ︒それで済むのかも知  

れない︒   

ところが︑持って生まれたけったいな性  

格が災いして︑そんな家のまえを通るたび  

にどうしても気になってしまう︒  

﹁あの階段を侮日上がり降りするの︑大変  

だろうな﹂とか︑﹁大きな荷物を持ってい  

る時はどうするんだろう﹂とか︒﹁怪我や  

病気の時は大丈夫かな﹂などとも思う︒   

まったく余計なお世話だと自分でも思う  

のだが︑ついつい考えてしまう︒そして︑  

もし三階建て住宅の住人と知り合いになる   ことがあれば︑何かの話のついでに尋ねて  みたいな︑とも思う︒  ﹁この家に元気で︑不自由なく︑これから  先︑何年住めると思いますか?﹂  

南 光 龍 平  

(7)

KSKPサロン・あべの通巻1546号1991年2月23日  

もっと外に出たい!という施設障害老の  

友達のあたり前の叫びに︑答えたくて﹁施  

設の障害者外出サービスネットワーク﹂を  

始めて約一年がたちました︒   

そして︑どんどん色々な施設障害者の方  

々に出会うチャンスに唐まれています︒   

親や施設の職員以外の人とは出掛けた事  

がない人︑自分で自分のお金を持って個人  

的なちょっとした買い物にも行った事がな  

い人︑五〇才を過ぎてこの外出サービスを  

利用して初めてデパートヘ行った人︑二〇  

年ぶりに家族に会えて膜の対面となった人  

など︑太当に今ある入所施設はブラックボ  

ックス︵地域から隔離された箱︶だとおも  

うのです︒   

美智子のこんな話  

〃箱〃の中のY子さんとの出会い   また最近︑未だに電車に乗った事がない  

という車椅子のC・Pで五〇才過ぎのY子  

さんに出会いました︒   

Y子さんはこの一月に外出サービスを利  

用して初めてボランティアと出掛けますが︑  

そんなY子さんは字が読めません︒字を覚  

える機会がなかったのです︒そしてY子さ  

んに︑当日何時にボランティアが迎えにき  

たらいい?と聞くと﹁うわぁ〜! 私︑自  

分で時間を決めて外出したことないの︒嬉  

しいけど決めてほしいなぁ︒﹂などと言わ  

れたのです︒私は︑あっ?そうか︑今まで  

Y子さんには自分で選んで決めたことがな  

い人生しかなかったんだと︑ハッとしまし  

た︒そして︑Y子さんが奪われてきたもの  

の大きさに︑私は︑改めて衝撃をうけまし  

た︒   

このY子さんにこの外出サービスの説明  

の為に︑施設で初めてお会いした時︑家族  

と実母さん以外話したことがないので︑と  

ても緊張されて招いているのかと思うほど  

汗をかいて︑﹁今日は︑うれしいワ︒嬉し  

いわ︒﹂と色々話して頂きました︒これか  

らのY子さんの施設生酒を︑私達も共に出  

来る限り豊かな生括にしていきたいと思い  

ます︒  

セ爪W し ナれノ せ   三 月 の 出 会 い  

日 時 平成三年 三月十六日︵土︶  

午後一時〜四時  

場 所 育徳コミュニティーセンター  

二階研修室︵スロープ・車イスト  

イレ着り︶ ﹇大阪市阿倍野区阪南  

町五−十五−二七﹈  

内 容 五周年記念第二弾  

ビデオ﹁なんとかしてェ〜な﹂  

ロードショウ  

<サロン・あべの∨企画・製作  

会 費  な し  

問い合わせ T2L 宗・芸TlコN少︵冨由慶子︶   

(8)

KSKPサロン・あべの通巻1546号1991年2月23日  

∞サロン・あべの紙の   朗読テープが出来ました∞    ﹁阿倍野区ボランティア連絡協議会﹂の  

朗読グループのご協力により︑サロン●あ  

ます︒バックナンバーは三九号から︑五五   べの紙の録音テープを作っていただいてい    プ  号の分があります︒五〇号は五周年記念紙   になっており九〇分と六〇分の二本のテー   に収銀されています︒サロン紙朗読テー   プご希望の方は︑冨田までお申し出下さい︒  

︵堅学童TlON豊   

♯ 感 謝 し ま す ♯   

カンパ・切手・冊子・お菓子等︑ご協力  

ありがとうございました︒   

お礼を申し上げます︒  

一月のカンパ  

金一三八五一門   

井上憲一︑植松菊雄︑大村享︑T・S   

崎本ヒサエ︑南光龍平︑広岡泰模︑   

まんたによしゆき︑山水鈴子︑   

匿名二名様︒  ︵敬称略︶  

九九左∵〃=二=発行︵毎日発再︶KSK2通巻1五顔⊥ハ竺九八四年八月二〇日管癌邸便認可  

発行人=関西障嘗老冠期刊行物協会大阪市史疲区憲一−三−六 ベルビュウ点の宮二〇ヒ号    足利銀行︵本店・宇都宮市︶が︑全国で  

初めて﹁臼の不日由な人が一人でATMを  

利用出来るように﹂と視力障害者専用のA  

TMを開発し設置した︒従来のATMにハ  

ンドセット︵受話機︶を付け■︑音声案内で  

撫作し︑出金・入金︑残高がパネルに点字   表示される︒﹁この機械を使えば︑ひとり  

でも安心して利用してもらえるし︑プライ   バシーも守れる﹂と足利銀行では︑話され   ている︒  

︵日本経済新聞より︶   視覚障害者向けの  ATM︵現金日動受け払い機︶開発  

Referensi

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