中国語学科スピーチコンテスト報告
日本の友達だけでなく中国の友達、友達は私を強くさせる、とても大切な財産です。
私は毎回の出会いの機会を大切にしていきたいと思いました。
人 生 に 遅 す ぎ る と い う こ と は な い
外国語学部 中国語学科3年
李 佳新
无论何时都还为时不晚
外国語学部 中国語学科
3年李
佳新 大家好!演讲一开始我就想一下问在座的各位,你们知道他是谁吗?尽管大家不知道他是谁,但一定吃过他发明的
方便面。
今天,我就给大家介绍方便面之父
安
藤百福的故事。
安藤百福在1910年出生于台湾。他从小就失去双亲,和爷爷奶奶相依为命长大。
行销规模。 以他用这些资金建了学校,开始扩大公司的 的时候就想做一些对人们生活有用的事。所 维贸易公司,挣了钱一大笔钱。安藤在创业 22岁的时候,他用父母留下的钱开了一家纤
之后,安藤来到了日本的大阪。那时战争刚刚结束,人们都因为没有东西吃而十分憔悴。看着大家为了吃一碗面在寒冷之中排队,安藤心想」
”
日本人喜欢吃面,如果有一种能让大家随时随地都可以吃的面就好了。“
安藤时间只有 头研究,一呆就是好几个小时,一天的睡眠 间专门让他研究制面的小屋。他在小屋里埋
“
就可以吃的面条安藤在家的后院里建了一 他没有气馁,他决定开始发明只要有热水”
身无分文的他只剩下一间租借的房子。但是 47岁的时候,他经营的公司倒闭了,识,要达成这些目标非常困难。 尝的面条。可是由于他对于制面没有什么知 食用时不麻烦,价格便宜亲民,可以安心品 安藤一直想做味道好吃不腻,可以长期保存, 4个小时。这样的日子持续了一年。
有一天,安藤的妻子在炸天妇罗,他从中得到了灵感。他马上把面条放到锅中油炸,面条的水分被油抽出,之后又把炸好的面条捞出放入碗里,加了热水。面条便渐渐的恢复到原来的样子。1958年,安藤发明的方便面终于上市,并受到了人们的欢迎。当时,方便面被人们称为 魔法拉面。 〈中国語〉
海底捞火锅としんじゅちゃん(右)里衣さん(中央)わたし(左)
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1966年,安藤为了推广方便面,他去了几个欧美国家视察情况。他发现当地人把方便面掰碎后,放进纸杯中再加热水。他回到日本决定开发一种只要把热水加入杯中就可以吃的方便面。那一年,安藤
不负有心人,1971年,方便面的新产品 66岁。功夫
合味道终于完成。但一开始合味道的销量没有那么理想,于是安藤想出一个办法。开发了合味道专用的自动贩卖机,吸引了人们的眼球,销量也就跟着逐渐增高。
安藤发明的方便面成为了代表日本的食品,并开始走向世界。从1973年开始,在美国,中国,巴西,新加坡,印度,荷兰等国家开设分公司。在外国销售的方便面不只是卖日本进口的味道,还会卖那个国家的才有卖的味道。比如,中国有辣椒螃蟹味的合味道,印度有马萨拉味的合味道,香港有香辣海鲜味的合味道。
即使取得了成功,安藤也没有放弃开发新产品。他在
多次的研究后,在他
“
都为时不晚。他组成了项目团队,在经过“
吃的太空食品。安藤说人生做什么事” ”
91岁那年,决定要开发能在宇宙宇宙食用的方便面。 95岁的时候完成了能在 安藤在
47岁开始研究制面,将近
方便面开发出来。他在 50岁才把
60岁,
甚至
在我们 也没有停下研究的脚步。从一般的角度来想, 90岁以后
无论你几岁都还为时不晚。 其实在我们的人生中,如果你想做什么事, 为太晚了。但是,安藤百福的故事告诉我们, 60岁的时候想要做大事,很多人会认
皆さん、こんにちは!スピーチのはじめに皆さんへひとつ聞きたいことがあります。この方は誰だかわかりますか?おそらく多くの方は彼が誰かを知らないと思いますが、彼が発明したインスタント ラーメンは誰しもが食べたことはあると思います。今日は、インスタントラーメンの父である安藤百福さんについて紹介します。
百福さんは
19 幼い頃に両親と死別し、祖父母に育てられました。 10年に台湾で生まれました。 社の事業を拡大しました。 た百福さんは、儲けた利益を学校建設に使い、会 業したときから人々の生活に役立つことをしたかっ で繊維会社を立ち上げ、大成功を収めました。起 22歳のとき、百福さんは両親が残してくれたお金
その後、百福さんは大阪に行きました。当時は終戦直後で、人々は食糧難に苦しんでいました。皆が一杯のラーメンのために寒い中長蛇の列に並んでいる状況を見て、百福さんは「日本人は麵が好きだから、皆がいつでもどこでも食べられる麵があったらいいのになあ」と考えていました。
百福さんが
頭し、 一日の睡眠時間は 宅の裏庭に研究小屋を建て、日々長時間研究に没 ぐに食べられるラーメン”の研究を始めました。自 た。しかし、百福さんは諦めず、“お湯があればす 倒産し、全財産を失い、借り家しか残りませんでし 47歳のときに、経営していた会社が
ことは非常に困難でした。 て素人だった百福さんにこれらの目標を達成する メンを目指していました。しかし、麵作りに関し 理が簡単、値段が安い、安心して食べられるラー て飽きない味、長期間にわたって保存できる、調 な生活が一年間続きました。百福さんは美味しく 4時間でした。このよう
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出典)https://www.nissin.com/jp/about/chronicle/
2019.1.23
〈日本語〉
中国語学科スピーチコンテスト報告
ある日、百福さんは奥さんが揚げている天ぷらからヒントを得ました。すぐに麵を鍋で揚げ、揚げた麵を器に入れ、お湯を注ぎました。揚げた麵は徐々にもとの状態に戻りました。1958年、百福さんが発明したインスタントラーメンが発売され、大ヒットとなりました。当時、インスタントラーメンは「魔法のラーメン」と呼ばれました。
り掛かりました。百福さんはそのとき カップに注ぐだけで食べられるラーメン”作りに取 いました。日本に帰ってきた百福さんは“お湯を 紙コップに入れ、カップにお湯を注いてから食べて 現地ではインスタントラーメンを小さく割ってから 広めるために、欧米の国々へ視察に出かけました。 1966年、百福さんはインスタントラーメンを
そして、 56歳でした。
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上がりました。 発しました。人々はこれに食いつき、売上も徐々に 百福さんはカップヌードル専用の自動販売機を開 プヌードルの売上はあまり思わしくなかったので、 品「カップヌードル」が完成しました。はじめ、カッ 1年にインスタントラーメンの新商
百福さんが発明したインスタントラーメンは日本を代表する食品となり、世界へ進出しました。1973年からアメリカ、中国、ブラジル、シンガポール、インド、オランダなどで支社を設立しました。外国で売られるカップヌードルは日本から輸出した味に加え、その国独自の味も販売します。例えば、中国にはスパイシークラブ味があり、インドにはマサラ味があり、香港にはスパイシーシーフード味があります。 百福さんは成功を収めたあとも新商品の開発を続け、
の研究を経て、百福さんが と話し、プロジェクトチームを結成しました。多く た。百福さんは「人生に遅すぎるということはない」 91歳のときには宇宙食の開発を決意しまし
ラーメン「スペース・ラム」が開発されました。 95歳のときに、宇宙食
百福さんは
研究を始め、 47歳のときにインスタントラーメンの
ントラーメンの開発に成功しました。彼は 50歳近くにようやく初期のインスタ
らに 60歳、さ
た。一般的な視点から考えると、もし私たちが 90歳になっても、研究への意欲を持ち続けまし
60歳
のときに何か始めたいことがある場合、多くの人はもう遅いと考えるかもしれません。しかし、私たちの人生に遅すぎるということはないと、安藤百福さんは私たちに教えてくれました。
参考資料
◎日清食品グループホームページ
安藤百福クロニクル
https://www.nissin.com/jp/about/chronicle/
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