森 鴎外 とその短歌
清
田
文
武
ー
鴎外の短歌の始発
鴎外 の短歌 における業績 について山本健吉 は、 「貧弱 だが、
」と しつつ も、様 々な試みの 跡 をお さえ、短歌史上 「鴎外 の存在 が没却 されて しまった とき、短歌の世界 は貧 しく、ひ か らびて、狭苦 しい もの となる。
」と述べ ている(1)。斎藤茂吉 に よる早い ころの評言 を響 か せ た感があるが、 なお茂吉 の晩年の批評 を も併せ考 えてみ る必 要がある として も、上の ご と く評 された鴎外 とその短歌 について若干の観察 を試みたい。 鴎外 の和歌 との実質的関係 は、津和野か ら持 って来 た祖父綱浮の本 を東京で播 くことか ら始 まった ようであるが、本郷 の学生 だった ころ、妹喜美子 にその中の橘守部著 『心 の種』
(天保9 (1
8
3
8)
)を読 む ように言 った とい う。該書 では、 まず 「歌書 を見 る心得 の事」 と して古歌 につけ と説 き、具体的 には F古今和歌集』の 「おだやか なる」と 「当世向 なる物」 を 「見合せ にす る」 ことを勧 めてい ることが 目に とまる。そ して、 「名人の秀歌」 を見習 え と言 い、歌 の結構 や故事 ・来歴 に関す るこ とも、 この歌集か ら出てい る として、 これ を 知 ることの重要性 を強調 し、 『万葉集』 はその後 に学ぶべ きもの とある。 次 に、題詠が始 まって歌が衰 えた とい う意見があるけれ ども、それは間違いであって、 まず蓮詠 に慣 れる ことが歌の基本 で、そ こか ら応用力 も養 われ る とも説 いてい る。 守部 門下が諸 国 にいた状況か らす れば(2)、森家 に 『心の種』
や流布本 の F古今集』があ り、それ を鴎外が手 に したの も自然 の ことであった。幸 田露伴 の 「請教放語 (第一)」(
Fし が らみ草紙』(明治22・12)中、長歌 の衰微 に触 れ、 「近 き頃宣長守部等 出で ゝ大い に回復 した」が、現今の状況 は 「短歌 の雑綴」とい うべ きもので、 なお積習の余弊があ る と指摘 した一事か らして も、守部 は重 ん じられる ところがあった ら しい。鴎外 の 「俳句 と云ふ も の」(
『俳味』明治45・1) に も 『心 の種』 に初心者 の歌 だ とい って、 「ふ じの 山お な じ姿 に見 ゆるか なか なたお もて もこなたお もて も」の一首 を挙 げ、 「奈何 に有 りの債 が好 い」 といって も 「これでは歌 にな らない」
とあ った ことを 「可笑 し」
く思 ったの を記憶 してい る、 と回顧 してい る。祖父が初めて江戸-上 る時 に詠 んだ、 「お もひ きや さ しも名高 き富 士 のね も麓を雲の上 に見 ん とは」
の一首 も、先縦 に多 く見 える、型 には まった作 であ り、 祖父の歌 も俳句 同様 あ ま り旨 くはなか った と見 ていた ようであ る。 喜美子 は、三十一文字 を並べ始めた ころ、父 ・兄 の勧 め もあ り、当時御歌所や元老 院に 出仕の福羽美静 に教 えを願 い、蓮詠 による勉 強 を した とい う。 そ う した折、新年 の御題 の暁星論叢第59号(2009) 自作の清書 を していると、鴎外 も 「晴天鶴」の題で次の歌 を詠んだとある(3)。短冊 によれ ば明治
1
3
年 (1
8
8
0
)
の ことであった。 ゆたけさを世捨人に もことづてよ雲井の庭 に馴 るるあ し田鶴 守部の作歌論 に接 していたとい う鴎外 は、郷里の先達福羽美静 と加部巌夫 とに歌 を見 て もらったが、師事 したわけではなかった と語 っている。香川景樹の有朋堂文庫版 (大正15) の F桂 園一枝』(文政1
1(
1
8
2
8)
)を関す るに、開巻 して直 ちに古今風 を思わせ る作が並 んで いて、 「初春見鶴」の題では二首 を収め、一首は 「朝 ごほ りとけたる沢 に噂 くたづの こゑ 大空 に霞む春かな」であった。掲出歌 もその流れを汲 む作 といってよいであろう。 留学か ら帰国後鴎外 は新声社 を主宰 して F於母影』(『国民之友J付録、明治2
2
・8)を 公 にし、得た稿料 をもとに、この年の秋 『しが らみ草紙』 を発刊 した。帰朝当時 はあま り 歌は詠 まなかった として も、 ドイツで西洋の詩 に接 し、その刺激 として伝統的な和歌への 意識 も新たにはた らいたにちがいない。それにはまた、和歌革新の抱負 を持 っていた同人 の落合直文 による刺激 もあったか と思われる(4)0 『しが らみ草紙』 には落合の 「題詠の事 につ きて」(
明治25・7) は じめ諸家の歌論や和歌批評が見 え、大抵の号 には歌欄 も設 けら れた。同人の井上通泰 らによる歌人の伝記 ・作品の紹介 も多 く、中で も目立つのは香川景 樹 とその門流関係の ものであって、通泰 は、桂 園十哲の一人熊谷直好 を扱 い、景樹 の高弟 内山真弓 にも筆 を及ぼ している。 上の視点 に立つ とき、 『しが らみ草紙』第-巻 に 「古典遺声」
の欄 を設け、井原西鶴 ・ 並木五瓶 とともに菅沼斐雄の F紀行袖 くらべ』 を掲 げてあることが 目にとまる。 文政元年 (1
8
1
8
)
京 よ り江戸 に下 る景樹 に随行 した旅 日記である。街道で出迎 える門弟の作 にまじ って、駿河で-門人の身上話 に耳 を傾けた景樹が、 さまさまにつなきし君が玉の緒のなが き末 に もあひにけるかな と応 じた歌 も見 える。斐雄 も道中 「はるかに も谷 をへ だて ゝな く雑の こゑを山彦 とお もひ けるかな」などと詠んでいる。景樹 は紀貫之 と 『古今集』 とを重ん じた歌人であったが、 こうした 「けるかな」を結句 に据 えた歌は、 『古今集』 には坂上是別の 「さは山のは ゝそ の色 はうすけれ ど秋はふか くもな りにける哉」 その他都合 7首 を載せていて、必ず しも多 いわけではない。が、 しみ じみ とした情感 を詠んだ歌 もあ り、景樹の 「けるかな」で結ぶ 多 くの作 もそうい う歌 ごころを表そ うとした ものに外 なるまい。鴎外 もその ような歌 に接 していたはずである。 その後明治2
6
年1
0
月鴎外 は、 『衛生療病志』において-3
4-森鴎外 とその短歌 (清田) とっ くにの文 の八千巻 くりかへ し大和心 をよみ ひ らか ばや 開けゆ くや まと心 は桜花 お く山外 山 にはひへ だてず と国家意識 を も響 かせ た ような歌 も詠 んでい た。やが ての 日清 戦争 中には書美子 との応答 歌が あ り、清 国の提督丁汝 昌 を悼 む歌 も詠 んだ(5)。帰還後 は明治29年 か ら35年 にか けて『め さま し草』を刊行 し、諸家 に よる詩歌 関係 の稿 を載せ てお り、井 上通泰 の「桂 園消息集」(明 治33・8)や菅沼斐雄 ・僧玄如 ら桂 園派 の人たちによる歌文 も見 える。小倉 での鴎外 は、 「行 末 を頼 ま じとにはあ らね ども猶 こ しかたの忍 ばる ゝか な」 の懐 旧の歌 その他
5
首 を詠 んでい るが、む しろ時折吟 じた俳句 の方 に関心 を引 くものが あ る(6)。 ニ 匡島外 の 短 歌 に お け る二 系 相 鴎外 には、明治37、8年 の 日露戦争 時 に詠 んだ Fうた 日記j(春 陽堂、明治40・9)所収 の作 品が ある。軍医 として出で征 く身であ り、佐佐木信綱か ら贈 られた 日本歌学全書 の万 葉集 を携帯 した こ とや、置 かれた状 況 も関係 してか、古調 ・万葉調 を響 かせ た歌 、鴎外 の いわゆ る短詩 (三十一字詩)の見 えることは、 ご く自然 の こ とであ った と解 され る。帰還 後贈 り主 に 「万葉 は愛読 したが、万葉 の模倣歌 を詠 ま うと しなかった。
」と語 り、明治 には 明治時代 の歌風 のおのずか ら出ねばな らない と述べ た とい う(7)。若 い ころ加藤千 蔭 の F万 葉 集 略解』(文化9<1
81
2>)
を拾 い読 み した こ と もあ った とい うが、大 陸 に赴 く心 中 を おほ きみ まけ く す し 「大君 の 任 の まにまに くす りぽ こ もたぬ薬 師 と な りてわれ行 く」 と詠 んだ歌や、 作歌 の状況等 も関係 してか、 『うた 日記』には下 の ご とき万葉 集 を思 わせ る語嚢 や声調 の 詠歌 も収 め られてい る。 いち みづ くかばね 市 こぞ りて 水漬屍 と な りに きと さ が れ ん う ら 薩吟連烏龍 の なみの とむせ ぶ たいれん 大連 のいり
海に飲む やま
かが ち きだ
まづふた段に
きらん とぞお
もふ さぷ 暑 きやがて 寒 しときか ば 冬 ごろ も 縫 はんひまなみ 味 わぶ らんか 関門海峡 を通過す る折 、かつ ての勤務地小倉 を見 や り 「待 ち えた る 朝 び らきみ よ さ ふ た とせ よのなか す らひの 二年知 りし き くのは ま松」 と詠 んだ一首 では、沙禰満筈 の 「世 間 を何 に撃へ む朝 び らき漕 ぎま に し船 の跡 な きが ごと」の歌 を意識 していた はず であ る。与謝野鉄幹 の暁星論叢第59号(2009) 虎剣調 を思わせ る歌 もあれば、大連 の街 に想像 を馳せて詠み、清 岡卓行 をいた く感動 させ お ご いち た 「夢の うちの 馨 りの花 と ひらきぬる だ りにの市は わがあそび どころ」の一首 も 見 える(8)。 しか し、鴎外の歌全体 としては、万葉調 を強 く打 ち出 した詠歌 をその本領 と見 なす ことは出来ない。その点で 自ら歌人であ り、新詩社 に属 して鴎外の許 にも出入 りした 平野寓里が、 『うた 日記』 について、 「先生は万葉集 を精読せ られ、古調 に依 るべ くぼ万 葉 に依 るべ し、新調 に依 るべ くぼ、明星の為す如 くすべ Lとして全篇が作 られてある様 に 思はれる。その万葉調 は当時の根岸派の知 らざる新味 を蔵 し、明星調 は之亦同人の未だ味 得 しなかった特殊の味 を含 んでゐた
」
と述べ ていることが注 目されて よい。前者の ような 作では 「霜 しげ き 広野のすゑの む ら木立 枝 もとををに 氷 はなさ く」
が、後者の風 詠 としては、 「椋欄のおは葉 手 に持つ女神 雲の中に 立たす と見つ る 夏の夜の夢」
といった ものが挙 げられる。
「後年の観潮楼歌会の仕事 を一人で試みて居 られたのである。
」
と述べ た平野の回想 も見逃 しがたい(9)0 けれ ども、平野寓里 は、 「鴎外全集 を編輯 しなが ら」
(
『明星』大正1
2・1,2,3
)の一 文 において、鴎外 は F明星』『心の花』
『芸苑』等 に発表の歌 は二種作 っていた と言い、一つ を 「先生一流の歌」
とし、他は常磐会への出詠 とする。 それで まず明治3
9
年 (1
9
0
6
)
か ら の 「常磐会詠草」を取 り上 げることとしたい(10)。第2
回詠草 (明治3
9・1
0
)
の始 めの題 詠か ら引 こう.ちなみに 「故郷-」
といった題 は景樹 もしば しば選 んだ ものであった。 故郷薄 ふるぞの 古 園の木蔭に生ひて秋 され ど穂 にだに出でぬ花すす きかな すす き 飛石は薄 に見 えぬ庭 なればうつむ きてこそ行 くべか りけれ すす き 隔てつる垣 は くづれて庭 も野 も一つ薄にな りにけるかな 砕 けたる瓦ふみゆ く古里のすす きの中に残 るい しずゑ いしばしら 折れのこるコリン トがたの石柱すす きのなかに白 くかが よふ 題の 「故郷」
をどう解釈するかの ことがあるとして も、多 くは嘱 目とい うよりは想像的 要素の勝 った歌 にちがいない.第五首 はいかにも鴎外 らしさを示 した歌である.第-首 は 「かな」止 めで、第3
2
回詠草 (明治4
2・4)
まではこの詠み方が多いが、以下大正6
年 (19
1
7
)1
2
月
1
6
日までの出詠 には26
首 中1
首 しかない。それでい ま、比較的 まとまった歌 群 について、まず助詞 「かな」の使用 を数字で瞥見すると、 『うた 日記』2
4
首、 「我百首」
(FスバルJ明治4
2・5)1
首、明治4
0
年か ら4
2
年 にかけて F明星J に発表の 「一利那」
「舞 扇」
「潮の音」は都合5
首、晩年の 「奈良五十首」(
『明星』大正1
1・1)2
首である。題詠 による 「常磐会詠草」
は Fうた 日記』とほぼ同数の3
1
4
の分母 を持つが、 「かな」
止めは5
3
首 と多 く、 「我百首」及び 「奈良五十首」
では極めて少 ない。-3
6
-森鴎外 とその短歌 (清田) 「故郷薄」の第三首 には 「けるかな」を用いている。 この止め方は 『うた 日記』14首、 「常磐会詠草」は
8
首 と比率的にも多 く、これに対 し 「我百首」か ら 「奈良五十首」
まで は見 えない。特 に常磐会第5回詠草 (明治40・1)の揚合、22首中 「かな」
止めは7首、 「けるかな」
は2首。翌月の第6回詠草では、27首中 「かな」
は3首で比較的少 ないが、 「けるかな」 は2
首あ り、やは り目にとまる。 窪田空穂 によれば、 「けるかな」
は景樹の 愛用語であった(ll)。 ちなみ に前掲 『桂 園一枝』 を閲す るに長歌 ・旋頭歌 を除いた1010首 中 「けるかな」
止めは43首 (0.04%)あ り、 うち 「思 ひけるかな」、「な りにけるかな」は 同数に近 く都合3
5
首 を数え、他は 「か くる」
2
首、 「匂ふ」
「聞こゆ」
等 々の動詞 に続 く各 しらベ 1首である。その点では景樹 の 「調」の説 をめ ぐって、内山真弓が 『乗場遺 言抄』中、 次のごとく師の言葉 を伝 えていることが関心 を引
く。 或夜実の題 にて 「たえだえに松の葉 白 くな りにけ りこの夕 しぐれ異 なるらし」と詠 み給 ひて、 この下旬歌 にあ らず、十遍 も吟 じみるべ し、おのづか ら其の味 ひを知 らる べ し、これ所謂凡調 な りとのたまひて、詠みなほ し給ふ。 「しぐるるは異 なるらしこ の夕べ松の葉 白 くな りにけるかな」これ所謂雅調 なるべ し。 後者の歌 について半田良平 は、 「この しんみ りした、深 く湛へた気分が、たまらな くよ い。調子 もそれに応 じてよく統一 されてゐる。」と鑑賞 して、第一、二句で主観 を叙 し、第 三句で時刻 を重 く言い据 えてか ら、 「下の句 を安 らかにうたひ流 して居 る。 この呼吸 は、 流石に調べ を重 ん じた景樹の作だ と肯づかれる。」と評 している(12)。景樹が重ん じた 「調」 について空穂 は、上の聞 き書 きをもとに して、 「一面体の方か らいふ と、天地の道 (生 き た気分) とな り、一面用の方か ら観 ると、語勢 といふ事 となって、語勢 によって気分 を表 現 させ る もの となってゐる。
」と解す る(13)。そ うであれば、感 嘆の情 を込 めて表す 「ける かな」の語は結句 に置 き、声調の上か らも、その有力 な表現の一つになったのであろう。 「常磐会詠草」の鴎外の歌 には、明治の中期 までなお広 く親 しまれた古今調 に負 う、いわ ゆる桂 固派の歌風 に従 った吟詠が多かったことが明 らかである。 しか し、結句 にこれ らの つ もちひ て ひた 語 を使 った歌は古風かつ陳套 なもの とは必ず しも言 えず、 「措 く餅 かへす手浸す ぬる ほとばし 水の 送 りては こは りけるかな」
(
Fうた 日記』
)
の写生 などを愛でる稿者であるが、上の ような傾向は全体 としては鴎外の作歌意識 をおのず と現 した観がある。 ここでは結句 にと らわれず、常磐会詠草か ら8
首 を挙げ、括弧内にその濃 を示す こととしたい。 もっとも、 戟然 と区分で きない もの も見 えるが(14)、お しなべ て古今調、桂 園風 を感 じさせ、いわゆよ る旧派の歌柄 を示 していることは争 われない。 まことともあたごころとも我 とわがいまだわかぬに絶え し恋かな (恋)(明治40・1) 吹 く風のいまやはづ枝 をわたるらん月影ゆらぐ竹の下みち (竹間夏月)(明治40・6) まれ人を見お くる門の浅ぢふに- きは高 き虫の声かな (聞虫)(明治40・10)暁星論叢 第59号(2009) 妹が名 にわが名ならべ てわかれつるついぢの壁 も崩れけるかな (壁)(明治
4
0・1
2
)
庵近 く夜更けて来立つ禅鹿 を人のゆ くか とお もひけるかな (鹿)(明治4
1・1
2
)
池の面の ところどころに藻の花の白きも見 えて夏 は来にけ り (首夏池)(明治4
2・6)
海業はわ きてぞひとにめで らる ゝうつむ きてのみ咲けばなるべ し (海業)(明治4
4
・5) なかぞ らにす ゞの音す な りあ ら 、ぎの うへは涼 しき風やふ くらん (風鈴)(大正4・
9)
上 に桂 圃派 との脈絡の もとに鴎外の歌 を見 たが、大町五城編 『明治六歌仙』(大 日本歌道 奨励会、大正2
)を閲す るに、八田知紀 (明治6
年没)、間島冬道 (同2
3
年没)、税所敦子 (同3
3
年没)、太田垣蓮月 (同8
年没)、小 出粂 (同4
1
年没)及び高崎正風 (同4
5
年没)の作 を1
4
5
4
首収め、 うち 「けるかな」止めは5
1
首(
0
.
0
3%)
ある。 景樹 の前掲の場合0
.
0
4
パーセ ン トであったが、各 自の歌では税所敦子が3
6
2
首中2
4
首(
0
.
0
6
%)
、小 出条が2
2
2
首 中9
首(
0
.
0
4%)
となってお り、他の歌人は大体0
.
0
2
パーセ ン トであった。 この歌集 は選集であって、 統計的処理 にはな じまない ところがあろうし、 また桂 園派の流れを くむ人 もいるにせ よ、 「けるかな」の使用 はおそ らく幕末か ら明治初期 の傾向を表す ところもあ り、鴎外の これ の使用の拠所 を、景樹 やこれを重ん じる歌人に限定す ることもないか もしれない。 観潮楼歌会では会の進め方 も関係 したのか題 を出 していた。 しか し、明治4
1
年9
月鴎外 は山県有朋の求めに応 じ 「門外所見」を提出 して、題詠 を退け、新時代 にそなえるべ きこ とを示 した ものの、常磐会 には旧派的な歌 を多 く出詠 していたことになる。 有朋の歌の師 匠であった井上通泰は、鴎外の歌 をそれほ ど評価 してはいなかったようで、 また鴎外 は常 磐会ではあま り振 るわなかったらしいが、平野の伝 える鴎外の言葉 もこれを裏付 けるとこ ろがあろう。 一方 『明星』
『スバル』 に発表の鴎外の歌群か ら同数の8
首 を挙げてみ よう。 し はう つ 草籍 きて臥すわが脈 は方十里寝 たる森の中心 に持つ (一利那)(明治4
0・1
0
)
わた くし わが足 はか くこそ立てれ重力のあ らむか ぎりを私 しつつ (同上) あめつち は くだ く てん 天地 を寵めたる霧の白濁の中に一点赤 き唇 (舞扇)(明治4
1・1)
ふづくえ 文 机の塵 うちはらひ紙のべ て物 まだ書かぬ白きを愛でぬ (同上) ろ とま ゆるやかに舟の膜 は鳴る苫に臥 しわれ物思ふ舟の櫨 は鳴る (潮の音)(明治4
1
・8) ぷ ちごま む くろ 斑駒の骸 をはた と地 ちぬじじ Olymposなる神 のまとゐに (我百首)(明治4
2・5)
勲章は時々の恐怖 に代へたると日々の消化 に代へ たるとあ り (同上) 一 曲の胸 に響 きて門を出で猛火の うちを大股 に行 く (同上) 第七首 は宮柊二が現代秀歌の うちの一首 として選 んだ歌 であ り(15)、第八首 については、 いまその対象 を明 らかに しえない。が、鴎外 の短歌の研究 に成果 をあげた平 山城児が、そー3
8
-森鴎外 とその楚歌 (清田) の内容 をつかみに くい歌 としつつ も、 「甚だ浪漫的 ・小説的である
」
と述べたことか ら推 してみたい(16)。す なわち、 「猛火」 を比倫的な語 と解 して特 に結句 に着 目す るな らば、 この年少 し後で書 く 「静」(
Fスバ ル』明治42・ll)に関係す る作 と読めないであろうが 17)0 鶴 岡八幡社頭で頼朝 を前 に 「よしの山みねの白雪ふみわけて人 に しひ とのあ とぞ こひ し き」と義経追慕の歌 を歌い、舞 を舞 った静御前のことである。静 に生 まれてきた子が男で あったため、頼朝の命 によ り安達新三郎はその赤子 を手 にかけて殺 したのであるが、安達 が彼女 に「わた しなんぞの心 には、そのあなたの心持が好 く分かってゐるのです。 (中略) 日当なんぞはな くて も好い。一度火 に当てれば、壊れて しまふ器 もある。百年割れない器●●●●●●●●●●●●●●●●●● もある。喜怒哀楽の火の中を大股 に歩いて行 く人 もあって好い筈です。男 には限 りませ ん。 女だってさうぢやああ りませ んか。 (中略)あなたなんぞが尼 になった り、 自害 をした り しないのは、 じつ に頼 もしい と云ふ ものです。」(圏点引用者) と語 りかける台詞が注 目さ れる。 静は寂 しい微笑で 「まあ。大変です事ね。それではあなたは、わた しの心の中の事 を、わた しより好 く御存 じなのね。」と応 えたのであった。一首が静御前 を詠んだ ものであ れば、その半年後 にそれは戯曲化 されたことにな り、そ うではなかった として も、何か類 似の境涯 を生 きてい く人をイメージさせ る歌ではなかろうか。 こうして鴎外の歌 を大観すると、 もちろん内容 により、また 「けるかな」の止め方 によ って も、明治4
0
年以後の短歌 には、二系相が認 め られるように思 われる(18)。 しか し、題 詠の下、古今風、桂固風 に詠んだ第一の系相 は、鴎外 としてはいわゆる旧派の歌柄 を示 し た ものであって、伝統 を継 ぐ観のある詠作ではあって も自信 はなかった ようである。 が、 それはそれ として秘かに愛着 を感 じるところはあったのであろう。常磐会出詠の必要の事 情が関係 したにせ よ、自ら作歌 を止めることのなかった事実があるか らである。 一方 「我 百首」(
のち 『沙羅の木』(阿蘭陀書房、大正4
)所収)や、 ここには取 り上げないが晩年の 「奈良五十首」
か らすれば、 自作 について茂吉 に理屈 っぽいかね、 と質 したこともあ り、 作歌 には自身限界 を感ず るところはあったか と思われるが、短歌の存在意義は、歴史 もあ り、また次節で観察す るように認めていたであろう。 しか し、鴎外の秀歌 ・名歌 として取 り上げられる作詠は、上 に引いた 「草薙 きて- 」、「勲章は-」
及び 「奈良五十首」
中 たかんな は さ み の 「正倉院」
と題する歌の 「赦封の事の皮切 りほどく努刀の音の寒 きあかつ き」等第二の 系相 に入 るものであることに特色 を見せているのである。三 鴎外 と短歌
『うた 日記』には、鉄幹の国士的な、そ して虎剣調 を響かせ た ような歌 も詠 じているが、 全体 として俳句同様 に小 さい対象への心のはたらきの こまやか さが見 られ、なかには掬す べ き作 も提供 している。詩や俳句でそうしたことはご く自然の こととは言 え、一顧 を払 っ てよい ものがある。 草花 を見ての歌では、撫子 に次の詠があるが、後者 は常磐会での題詠暁星論叢 第59号(2009) ら しく、 日清戦争 で詠 んだ前者 と関連 が あ ったであろ うか。 潮風 のある ゝは まべ に匂 ふか な くきみ じか なる撫子 の花 (明治27・10) 汐風 にふ してぞ咲 ける磯 ばたの小 草 にま じる撫子 の花 (明治41・8) 『伊沢蘭軒』(大正 5- 6) においては花木 ・草木 を愛 した江戸 の この儒 医の こ とに及 び、 はや そのつ ゆ草 の詩が鴎外 の 目に留 まった こ とについて、「わた くLは児時夙 く此草 を愛 した」 (その百九十二) と書 く。 草花 を好 み 自 ら庭 にその種 を蒔いた人であ った。大陸で、 「岩 お ぐ さ か げの 名 な し小 草 の 花 つめ ば なにぞ と里 の うなゐ間 ひ よる
」
と詠 んでいた鴎外 は、 清 の太宗 の昭陵で は下の一首 を得 てい る。 み さきざの 坪 の うちなる 石 だたみ すみれはな 石 のす きまに 董 花 さ く ■一 程経 て別の地 で は 「すみれ さ くつ かのぬ し美 人 な りけ ら し」
とも句案 していた。 「ヰ タ ・セ クス ア リス」
(
Fスバ ルj明治42・7)には6歳 の時、西 隣 の空 き地 に散 らば る石 瓦 の 間に重 の花 を見 た こ とを記 してい る。 この花 には特 に愛着 を感 じていた ら しく、小倉 日記 に 「路傍 に始 め て董花 を見 る」(
明治35・3 ・17)とあ り、 「山根 大夫」(
F中央 公 論』大 正4 ・1
) その他 の作 に も関係叙述 が見 え、常磐会では 「すみれ」の題 で 「くたびれて しば しとい こふ野 の石 の袖 を し見 れ ば董咲 きた り」(明治42・4)と詠 じてい る。嘱 目の景 を思 い出 しての もの に相違 ない。上掲撫子 の花 の場合 もや は り同様 だ ったか と思 わせ る ものが あ る。俳句 で もそ うで あ ったが(19)、鴎外 は短歌 にお い て も、構 図的 に大 景 を捉 えての詠 作 には概 して乏 しい感 があ るので はなか ろ うか。 鴎外 の短歌観 についてみ る と、今 の思想 を盛 るには必ず しも十分 な もので はない と思 い、 これ に頼 るこ とを しなか っ、た ものの、 その様式 的価値 は認 めていた。鴎外 を訪 ねた川路柳 虹 は、今後 あ るべ き日本 の詩形 について尋 ねた際、 自分 に もわか らない とい う答 えが返 っ て きた ことを紹介 した後 、 日露戦争 中の ことを、鴎外 が 「妙 な もので ね、
」と語 り出 した と 言 い、下 の ご と くその話 を伝 えてい る(20). 常 には文学 とか芸術 とかいふ こ とはテ ンで頭 に置か なかっ た軍 人が だね、何 か もの が書 きた くなる。 そ してそれ は大 てい韻文 の形 なのだ。 (中略)処 が常 にさういふ こ とには気 を使 はない人 なので 自分 の ところへ どう歌った らい ゝか とよ く訊 ね にこられ た ものだ。つ ま り生死 を堺 に してゐる といふや うな境地 になる と、 自 ら人間の感情が 昂 ぶっ てそれ を何 か外 へ 出 した くなる。 しか し、只 は出せ ない。何 か形 に盛 りた くな る。 さういふ場合や は り十七字 とか三十一文字 とかい う形式が手早 くなる。 これは -- 40-森鴎外 とその短歌 (清 田) 例 だが とも角一定の形 といふ もの もこの種 の必然 さか らは要求 され る ものだ といふ こ とは真理 だ」 従来殆 ど注 目されていないが、 こう話 したこ とは、その和歌観 を考 える際、銘記 してお いて よいであろう。 歌 ごころが戦場 とい うの っぴ きな らない場で、命の底 か ら湧 き出 る際 不思議 と一定の形式 を要求す る とい う一事 に、改めて得心す る ところが あったのである。 こうした体験 は、 『うた 日記
』
巻頭 でその第一連 を 情は剃那 を 命にて きえて跡なき ものなれ ど かたみ 記念 に詩 をぞ 残すなる と歌 った 「自選」の作 に通ず る ところがあ り、佐佐木信綱 に も同様 のこ とを語 った ことが あった。 ここに 「詩」 とは国詩の謂 であ って、短歌 ・俳句 を含 むこと言 うまで もあるまい。 宮柊二 は、 「詩」 とは 「外 にみ る もの」
を 「意味 とした感動 と して自分 の生 に参与 させ る こと」である と述べ 、その援用 として上の 「自選」の詩 を引 き、 これ を 「感情 とい うもの は動 いた剃郡が生命 なのだ。その一瞬が過 ぎれば もう活 き活 きとした形 としては残 らない のだ。従 って、その一瞬の、命のある感動 を尊い もの に思 ってそれ を詩 に残すのだ」とい うほ どの意味である と解す る(「人生 とうた ごころ」
(
『れいろ う』昭和3
4・1
0
))。歌の生 まれ る根本 の ところにふ れた発言 と言 って よい(21)。 『於母影』の訳 詩で は さまざまな韻律 を 試みたのであったが、和歌 ・俳句 の形式 の意義 を、生死の境 を意識 した軍人たちの申 し出 に接 して、改 めて 考 えたのであった。 「門外所見」 で山県有朋 に向後の短歌 における題詠 を否定 した進言 を提 出 した ことも思 われるのである。 あるいはそ うした鴎外 と関係が多少 はあったにちがい ないが、常磐会- の出詠の ことで、平野寓里 に 「あんな ものが出来 ない といふのは残念 だか らやっ て見 るが、 どう して も通 らない、あれでなか なかむづか しい も のだ よ」と言い、選 に入 ることには匙 を投 げ、それで も課題 だけは欠か さず詠 んでいた よ うだ、 との言がある(「鴎外全集 を編輯 しなが ら」)0 川路柳虹が、鴎外 との間で寒 山詩が話題 になった とき、 「純東洋趣味 で外 国 には とて も 見出せ ない詩境 でせ うね」 と問いかける と、 「さうぼか しも言へ ない よ」と言 った と記す. が、西洋の詩人の存在が、我が国の詩歌-刺激 を与 え得 ることに も触 れた言葉で あ る。 そ うした例 として、 リルケに刺激 を得 て 「我百首」を詠 んだことな どを、鴎外 自身思 い浮か べ ていたに相違 ない。短歌 を三十一字詩 と呼 んでいた一事か らす る と、 これに新 たな酒 を 盛 るこ とにはなお期待 す る ところはあ ったであろう。 観潮楼歌会の開催 には、そ うい う心 もはた らいていたはずである。 相対 的観点か ら鴎外 を、いわゆる 「耳の人」 ではな く 「目の人」と解 して、その作 品の暁星論叢第59号(2009) 特 質 につ い て論 じた こ とが あ ったの で あ るが(22)、 この観 点 か らは 『うた 日記』 で 「名 さ せ い が むす ちり て こ は く とこ る り -清河 掬 ぶ に塵 の 手 ふ きはず 琉泊 の床 に 瑠璃 のせせ らぎ」 と詠 んだ一首 が関心 を 引 くが 、佐藤 春夫 も挙 げてい る よ うに(23)、特 に次 の歌 が注 目 され る。歌 の み で は な く、 これは作家 ・文章家 と しての鴎外 の願 いで もあ った こ とを示す もの に外 なる まい。 うた こほり も はり ばん 歌 もかかれ 氷を盛れる 波璃の盤 す くま はがらに透 きて
み
えぬ隈なき 鴎外 の言説が歌 人 に益 を もた ら し、励 ま しになった例 としては、斎藤茂吉 の場 合が挙 げ られ る(24)。芥 川龍之介 には、その歌 や俳 句 (十 七 字 詩) な ど批 判 され た 『うた 日記』 で あ ったが、佐藤春夫 ・伊東静雄 に とっては、作歌 ・作 詩上、その技法 や詩精神 において示 唆 と刺激 とを受 ける詩歌集 となったのであ る(25)。 鴎外 は もっ と歌 に精進すべ きであ った と批判 す る研 究 もあるが、その作歌 の体験 に徴 す る とき、資質の限界 に対 す る思 い もあ り、 また これ に力 を尽 くす こ とので きない こ とを意 識 したので はないか。芥川 は、鴎外 の詩歌 や戯 曲 ・小 説 について、 「微 妙 な もの」が 「鋒 あら 鑑 を露 は してゐない」と批評 し、結局 「詩人 よ りも何 か他 の もの だっ た」と結論 してい る(26)。 ここには否定 的言辞が認 め られ るけれ ども、 しか し、 それは 『渋江抽斎』
(大正5) を書 い た 「空前 の大家」との評 と併せ ての発言 であ る こ とを見逃 してはな らず 、 『新潮』の対談 に照 らす な らば(27)、鴎外肯定 の言であ るこ ともお さえてお く必 要かあ る。 この間題 で は、併せ て 中野重 治 の評言 も注 目 され る(28)。す なわ ち、 「詩 と歌 との世界 では、彼 は、謙遜 といっ てはあた らぬか も知 れぬが まず謙遜 だっ た と見 ていい」
と述べ 、 この こ とにつ いて 「あ る意味 ではそれほ どの力 をこれ に入 れ なかった とい うこ とに もなる。 ただ鴎外 の場合 は、力 が な くて力が はい らなかっ た とい うの とはちがっ てい る。 この世界 にいつ もいつ も止 まっ てい られぬ ような更 に- まわ り大 きな、世界 に彼 はいた。 その大 き な世界 か ら、彼 は、 どうか した ときにこの小 さな世界 に降 りて来 た。」と解 した こ とに納得 で きる もの を覚 えるのであ る。 こう した方面 の問題 に関 しては、最 晩年 の 「奈 良五十首」
の歌 を取 り上 げての論 で触 れたい と考 えるが 、 この こ とについ ては別 の機 会 を待 つ こ とと したい。 注 (1)山本健吉の 「解説」(
r日本の詩歌」中央公論社、昭和44)によるが、斎藤茂吉の昭和初頭の見 解を一部踏まえたところがあるであろう. (2)鈴木映-著 r橘守部j(吉川弘文館:新装版、昭和63)参照。 (3)小金井喜美子著 r鴎外の思ひ出」(八木書店、昭和31)の 「福羽氏の手紙」、森於菟 ・森潤三郎編 - 42-森鴎外 とその短歌 (清田) r鴎外連珠 と思 ひ出」(昭和書房、昭和