徳川思想史における「心」・「気」・「物」の思想
著者
源 了圓
雑誌名
日本研究・京都会議 KYOTO CONFERENCE ON
JAPANESE STUDIES 1994 ?
巻
.non01-02
ページ
196-202
発行年
1996-03-25
その他のタイトル
Tokugawa shisoshi ni okeru "shin"/"ki"/"butsu"
no shiso
徳 川 思 想 史 に お け る 「心 」・「
気 」・「
物 」 の 思 想
源
了 圓(東 北大学名誉教授)
MINAMOTORj/0211 今 回 リ デ ィ ン教 授 が この セ ッシ ョ ンに 出 さ れ た テ ー マ は 「日本 の 近 代 性modernityへ の 道: 徳 川 時代 にお け る思 想 史 の 弁 証 法 」 とい う もの で あ る が 、 私 はそ の 趣 旨 に沿 い た い と思 い 、 「徳 川 時 代 に お け る心 ・気 ・物 の 思 想 」 とい うテ ー マ を選 ん だ。 徳 川 思 想 史 を理 解 す る の に、 代 表 的 思想 と して儒 学 を選 び、 さ らに この 儒 学 を朱 子 学 派 、 陽 明 学 派 、古 学 派 、折 衷 学 派 等 の 学 派 に分 け て叙 述 す るのが 普 通 の や り方 で あ る。 この 方 法 に はそ れ な りの メ リ ッ トが あ るが 、 この や り方 で は思 想 発 展 の ダイ ナ ミ ック ス や、 あ る領 域 の 観 念 が どの よう に して他 の領 域 の思 想 に浸 透 して い くか 、 とい うこ と を説 明す るの が 困 難 で あ る。 そ こで 私 は そ の代 りに徳 川 時代 の 思想 を 「心 」(kokoro,hsin;mind&heart)、 「気 」(ki,chi;totalforce)、 「物 」(mono,wu;matterorthing)の 三 つ の カ テ ゴ リー に分 け、 心 の 思 想 、 気 の 思 想(人 間 学 的 観 点 か らい う と情 の思 想)、 物 の思 想 と理 の 観 念 との 関係 を 明 らか に し よ う と思 う。 そ して この 三つ の カ テ ゴ リー は儒 学 の専 有 物 で はな く、心 の 思想 に は仏 教 、神 道 、 民 間信 仰 、 武 道 、 文 学 等 に も共 有 され 、気(情)の 思 想 は国 学 、文 学 や 医 学 、武 道 に も共 有 さ れ 、物 の思 想 は国 学 、洋学 、 博 物 学 、 農 学 、老 荘 学 な どの 世 界 に も共 有 され 、 徳川 の ほ とん どす べ て の思 想 は この 三 つ の カ テ ゴ リー に よっ て説 明 さ れ る。 徳 川 時 代 で は儒 学 の学 者 の 数 は仏教 の 僧侶 に くらべ て は る か に少 な く、 かつ 儒 者 た ち は現 実 の 政治 改 革 の抱 負 は もっ て い たが 、 実 際 に は彼 らが そ の抱 負 を現 実 生 活 に生 かす 機 会 は少 な く、 し か も 日本 で は儒 学 的礼 は ほ と ん ど現 実 の 社 会 に は浸 透 しな か った の で 、 中 国 や韓 国 の 儒 学 の よ う な社 会 的影 響 力 は もた な か っ たが 、 学 問 の 面 で は徳川 思 想 の展 開 を リー ドす る力 を もって い た こ とが 、 こ の儒 学 の基 本 的概 念 で あ る心 ・気(情)・ 物 の思 想 の 、他 の領 域 へ の浸 透 ・支 配 とい う こ とか らわ か る 。 「心 」 「気 」 「物 」 の三 つ の概 念 は、 徳 川 思 想 を代 表 す る三 つ の基 本 的類 型 で あ る と と もに 、 そ れ は思 想 の継 起 的 関係 を示 す 概 念 で もあ る。 私 は三 者 の継 起 関係 を次 の よ うに考 え て い る。 (一)心 の 思想 が 支 配 的 な時 期(1603・ 開 幕1663・ 伊 藤仁 斎 の古 学 へ の転 向) 仁)気 の 思想 が 支 配 的 な時 期(1663-1717・ 荻 生 徂 徠 の 『弁 道』 成 稿) (三)物 の 思想 が 支 配 的 な時 期(1717、790・ 寛 政 異 学 の 禁) (四 物 の 思想 と心 の思 想 の共 存 時 代(1790-1868・ 徳 川 幕 府 の 終 焉) あ らた め て 言 う まで もな く、 こ こで 「支 配 的 」 とい う と き、他 の 考 え方 が存 在 しな い わ けで は な い 。 た とえ ば 第 一期 で も 「格 物 」 の 考 え方 は存 在 した か ら、 「心 」 の 思 想 は 厂物 」 の 思 想 を含 ん で い た 。 「気 」 の 思 想 が 支 配 した時 に 、禅 僧 盤 珪(1622-93)は 心 の 立 場 に立 つ 「不 生 」 の思 想 を説 い て多 くの 人 々 を魅 きつ け て いた 。 また 「気 」 の 思 想 の 完 成 者 三 浦梅 園(1723-1789)が 活躍 した の は 厂物 の思 想 」 が 支 配 してい た時 代 で あ った 。 多 くの 思 潮 が 共存 しつ つ も、 そ の 中 でドミナン ト あ る立 場 の 思 想 が 主 流 で あ る とい う現 象 は何 時 で も何 処 で も存 在 す る 。私 が こ こで 「支 配 的」 とい うの は 「主 流 」 で あ り、 そ の時 期 の精 神 状 況 を最 も よ く示 して い る こ と を さす 。 第 一 期 「心 」 の 思 想 が 支 配 的 な 時 期 こ の時 期 は これ まで 、 幕府 に よっ て朱 子 学 が 採 用 され た 時期 と して 、 朱 子 学 との 関 連 か ら論 ぜ られ て き た。 中世 の あ る時期 か ら禅 僧 た ち に よ って受 容 され て きた朱 子 学 が 、 林 羅 山 の よ うな世 俗 の 人 に よ って 学 ばれ 、 そ の よ うな 人 を幕 府 が 採 用 した こ との社 会 的 な意 義 は大 きいが 、 幕 府 が 羅 山 を朱 子 学 者 と して 採 用 し、 政 治 に 関与 さ せ よ う と した の で は な く、羅 山 は 「お伽 衆 」 の 一 人 と して剃 髪 して仕 えた の で あ って 、朱 子 学 が 幕 府 創 業 の 当 初 か ら大 きな政 治 的 ・社 会 力 を も って い た ので は なか った 。 で あ る か ら、 そ の よ う な 学 派 の 立場 か らこ の時 期 か ら捉 え る よ りも、 厂心 」 の思 想 で 捉 え る方 が 事 実 に即 して い る。 こ の時 期 の 「心 」 の 思 想 には 大 き く言 っ て 儒 教 と仏 教 の 二 つ の立 場 が あ る。 精 神 史 的 に は この 時期 は 中世 と の連 続 性 を もつ 。 と くに仏 教 的 心 の 思 想 は中 世 との連 続 性 を もつ が 、禅 者 鈴 木正 三 の教 説 に見 られ る よ う に、 世俗 倫 理 の面 を 多 くもつ 点 、 中 世 の仏 教 教 説 とは異 な る。 しか しそ れ で も仏 教 の立 場 で は天 下 国 家 は論 じな い 。 こ の よ う な仏 教 徒儒 学 の 「心 」 の思 想 を共 に 「心 法」 とい う観 点 か ら捉 えて よい が 、 仏教 と儒 教 とで はそ の 「心 法」 の把 え方 は次 の よ うに異 な る。前 者 は 「わ れ わ れ の現 に あ る心 の 状 態 をあ る べ き状 態 へ と深 め 高 め て い くこ とを め ざ して心 の修 練 をす る道 」 と定 義 で き よ う し、 後 者 は 「心 法 の 学 」 とい うべ きだ ろ うが 、 そ れ は 「心 の内 的状 態 に最 高 の価 値 を置 き、 心 を修 練 して 、 自己 の 「心 」 を規 準 と して 自己 の 問題 だ け で な く、 家 、社 会 な らび に 国家 統 治 の 問 題 まで も、即 座 に 、 も し くは漸 進 的 に 解 決 す る こ とが で きる よ う に な る と信 ず る教 義 」 と言 うべ きだ ろ う。これ に は朱 子 学 の ほ か に 、陸王 の学 、明 時 代 の 林 兆 思 らの 「三 教 一致 」 の思 想 や 明清 の 「善 書 」 と称 され る庶 民 教 化 の 書 これ な どは む しろ前 者 に近 い 。 し か しつ くっ た 人 の立 場 は後 者 の 立 場 を と る な どが あ り、 極 端 な場 合 に は羅 山 に お け る よ う に 『六韜 」 『三 略 』 な どの 兵 法 の 本 が 「心 法 」 と結 び つ い て さえ い る(林 羅:山 『三 略 諺解 』 な ど)。 なぜ 「心 法 の学 」 と して の心 の 思 想 が この 時 期 に重 んぜ られ た か 。 日本 の 国 内 的要 因 と して は (1)社会 的要 因 と(2)当時 の社 会 に生 きて い た 精 神 的 伝 統 、 の二 つ が あ る 。社 会 的要 因 と して は、 戦 乱 の 時代 と、戦 争 は終 熄 した に もか か わ らず 、 社 会 的 ・政 治 的 不 安 定 が な お続 い て い る近 世 初 期 を生 きた 人 々 の 内 的体 験 が あ げ られ る。 この 時 期 に は頼 む に足 る制 度 も、信 頼 で きる価 値 の 体 系 も まだ確 立 して は い な い。 こ の よ う な時 代 を生 きた人 々 の判 断 と決 断 の 規準 は 自分 の 「心 」 以 外 にな か った 。 と ころ で 当時 の人 々の 中 に力 強 く生 きて い た精 神 的 伝 統 は 、心 の修 練 を重 んず る人 生 に対 す る 態 度 で あ る 。 日本 に は王 朝 以 来 心 の洗 練 を尊 ぶ伝 統 が あ った が 、 中 世 に な っそ武 士 が 興 起 し、 そ こ に禅 が 受 容 され 、心 の修 練 と い う実 践 的態 度 が これ に加 わ った 。 これ に 中 国渡 来 の 「心 法 」 を重 ん ず る儒 学 が結 びつ い た ので あ る。 こ こ に 見 られ る よ う に 「心 法 の 学 」 は 、実 践 的 人 間 の 儒 学 で あ った とい う こ とが で きよ う。 した が って そ れ が澤 庵(1561-1615)の 『不 動 智 神 妙 録 』 に見 られ る よ う に 「剣 法 」 を基 礎 づ け る 本 とな った り、 そ れ に応 じて 剣 法 者 の 方 か ら 「心 法 」 の 立 場 で書 か れ た 『兵 法 家 伝書 』(柳 生 宗 矩)を 生 み 出 した こ とは不 思 議 な こ とで は ない 。 この タ イ プの 思 想 の よ さ は、 第 一 に 、 日本 人 に 精神 的 自立心 を教 えた こ とで あ ろ う。 た とえ ば おの れ 熊 澤 蕃 山(1619-91)は 「慎 独 」 の 工 夫 に つ い て 述 べ た 後 で 「天 地 の 間 に 己 一 人 生 て あ り と思
み る ふ べ し。 天 を師 と し、 神 明 を友 と して 見 時 、 外 、 人 へ よ る の心 な し」(『集 義 和 書 』)と 言 っ て い るが 、 心 学 ・心 法 で 自己 を修練 した 日本 人 は 、ベ ネ デ ィク トが 『菊 と刀』 で 指摘 す る よ うな他 者 の 眼 に捉 わ れ る とい う種 類 の 「恥 」 の意 識 か ら解 放 され て い た 。 第 二 に指 摘 す べ きこ とは、 心 学 とそ の 心 法 の 訓 練 が 日本 人 に そ の 「霊性 」(spirituality)を 磨 くこ と を教 え た こ とで あ る。 「霊 性 」 とい う こ とば は 鈴 木 大 拙 に よ って 使 わ れ始 め たが 、 日本 人 の 霊 性 を培 うこ とに寄 与 した の は仏 教 だ けで は な く、心 の 立 場 に立 つ 儒 学 も また そ うで あ った 。 た とえ ば 中江 藤 樹(1608-48)に 「本 来 ノ霊 覚 有 。善 而無 悪 者 ナ リ」(大 学 問)と して 、 そ の よ う な霊 覚 あ る本心 の発 動 を さ また げ る 「伏 蔵 ノ病 根 」 た る 「意 念 」 を省 察 克 治 す る こ と を学 問 の課 題 とす る よ うな考 え も生 ま れ る。 そ して この 系 譜 の 人 に は 、藤 原 隍窩 や 中江 藤 樹 に見 られ る よ う に わが 国 に は 珍 しい 「普 遍 主 義 者 」 が 見 られ る。 しか し この よ う な心 の 思 想 は 、よ ほ ど注 意 しない と 自閉 的 に な り、孤 立 した 「独 我 論 者 」に な っ た り、 「敬 」 の心 法 に よ って 非 寛 容 な 人 間 に な る 危 険性 が あ る。 若 き 日の 伊 藤 仁 斎(1627-1705) は そ の よ う な精 神 の 蟻 地獄 に 陥 り、必 死 に な っ て こ こか らの 脱 出 を試 み る。 そ れ に成 功 した彼 は 心 の 思 想 を否 定 し、 「気 」 の立 場 に立 ち、 「情 」 を肯 定 し、 「敬 」 で は な く、 「誠」 の倫 理 に立 つ 。 か く して 徳 川 思 想 史 に第 二段 階 の 「気 」 の思 想 の支 配 す る時 代 に入 る。
第二期
「
気」の思想 が支配な時期
「気 」 の 思 想 は、 「気 」 を究 極 の 実 在 とす る思 想 で あ る。 そ して こ の 「気 」 とは 、 ガ ス 状 の 極 微 物 質 で もあ り、「元 気 」 とい う こ と ば に見 られ る よ う に 「生命 力 」で もあ り、そ して 究 極 的 に は 、 『孟 子 』 の 「浩然 之 気 」 とい うこ とばが 示 す よ う に、 内 面 か ら溢 れ 出 る精 神 作 用 で あ る。 そ れ は 物 質 か ら生 命 力 、精神 作 用 に またが る存 在 で 、 きわ め て 中 国 的 な概 念 で あ る が 、この 「気 の 思 想 」 は一 種 の 「生 の 哲 学」 で あ り、生 命 肯 定 の思 想 で あ る とい って 差 支 えな い で あ ろ う。 心 の思 想 が 気 の 思想 へ と1670年 前 後 に変 わ っ た につ い て は、 羅 整 庵 らの 明 の 思 想 の 影響 もあ る が 、日本 内 部 の 問 題 と して は60年 有 の平 和 と安 定 の持 続 で 人 々 の心 は落 着 き、社 会 も安 定 し、人 々 の 暮 し も裕 福 に な って 人 間 肯定 、 人 間 の情 欲 の肯 定 の生 活 感 覚 が 一 般 化 して 、 心 の 思 想 の 背 後 に あ った 「禁 欲 の思 想 」 が 生 活 の現 実 とは 異 な る とい うセ ンス を 人 々が もち始 め た こ とが 、 そ の 社 会 的 背 景 と して まず あ げ られ ね ば な らな い 。 古 学 の 創 始 者 と呼 ば れ る 山鹿 素 行(1622-85)も 伊 藤 仁 斎 も若 い時 は精 神 的彷 徨 を重 ね 、朱 子 学 か ら 出発 し、 あ る時 は老 荘 に魅 か れ 、 禅 とか 陽 明 の心 の 思想 に うち こむ 時期 が あ った こ とを見 落 して は な らな い 。素 行 は朱 子 学 の心 法 につ いて 「程 朱 の 学 を仕 候 て は持 敬 静座 の工 夫 に 陥 り候 て 、 人 民 沈 黙 に罷 成 候 」(配 所 残 筆)と 自己 の 経 験 を語 り、仁 斎 は 自己 の 若 き 日の敬 の心 法 に つ い て 「た だ 矜 持 を事 と して外 面 斉 整 な り。 … …然 れ ど も其 の 内 を察 す る と き は、 則 誠 意或 は給 せ はなはだ ず 、 己 を守 る こ と 甚 堅 く、 人 を責 む る事 甚 深 く、 種 々 の 病 痛 固 よ り在 る」(童 子 問)こ と を反 省 して い るが 、 彼 の 心 法 を窮 め る 道 は さ らに徹 底 して 「心 学 原 論 」 に おい て は 「聖 人 の 学 は心 法 な り」 と し、そ れ は 「文 字 言 説」 を もっ て も 「意 度 臆 想 」 を も って も得 る こ とは で きず 、た だ 「心 を尽 くす 」こ とが そ の 唯 一 の 道 で あ る 、とす る。当 時 彼 が 聖 人 の 学 の エ ッセ ンス と考 え た の は 『書 まニ と 経 』の 「人 心 これ 危 ふ く、道 心 こ れ微 、 これ 精 これ 一 、 允 にそ の 中 を執 れ 」 とい う句 で あ る。「こ れ精 これ 一 」 の 「精 一 」 の 学 を きわ め る に は 「み つ か ら己 の心 を尽 くす」 以外 に な い。で は ど うす れ ば心 を尽 くす こ と に な るか 。 彼 は 言 う。 「あ あ 、 方 円 をい まだ 規 矩 有 ら ざ る の先 に造 り、平 直 をい まだ準 縄 有 ら ざ るの 先 に作 る者 にあ らざれ ば、 す な わ ち もっ て尭 の一 言 に 当 る べ か ら ざる な り、規 矩 を待 たず して 、 方 円 を知 り、 準 縄 を待 た ず して 、平 直 を知 る者 に あ らざ れ ば、 す な わ ち もっ て舜 の 四句 に 当 るべ か ら ざ る な り」(心 学 原 論)と 。 い った い ど うす れ ば そ の こ と は可 能 にな る か。 この 問 い は儒 教 合 理 主 義 を超 え る問 題 で あ った。彼 が 一 時期 、儒 教 を離 れ 、 老荘 に は し り、 そ して禅 の 白骨 観 に まで い た った の は 、彼 と して は必 至 の 道 で あ った。 彼 は こ の 「白骨 観 」 をみず か ら修 め、 工 夫 が 熟 して か ら は 「自 己 の 身 白骨 にみ ゆ るの み な らず 、他 人 と語 ゆ く る に も 白骨 と対 話 す る や うに思 はれ 、 道 行 人 も木 偶 人 の あ る くや う に見 ゆ 、万 物 皆 空 相 あ らは れ て 、 天 地 もな く生 死 もな く、 山川 宮 殿 まで も皆 ま ぼ ろ しのや う に思 はれ 」 る とい う体 験 を もち 、 そ して こ れ は 「天 地 の 実 理 にあ らず 」(「送 防 州 太 守 水 野 公 序 」)と 断 定 して、 こ の世 の 、 そ して 生 の 、 大 肯 定へ と向 か い 、号 もそ れ まで の 厂敬 斎 」 か ら 「仁 斎 」 に変 え る。 こ こ に見 られ る よ う に、 「心 法 の工 夫」 を核 とす る 「心 」 の 思 想 か ら の脱 離 に は 、創 始 者 た ち の血 の に じむ よ うな 人生 行 路 が あ っ た。 そ こ に は こ の世 を、 この 生 を空 とす る考 え を ど う して も 認 め られ ない 実在 観 が あ った 。 そ して仁 斎 は、 心 の思 想 を徹 底 す れ ば仏 教(禅)に 行 く、 しか し そ の空 観 は 認 め が た い と して、 「気 」 の 立 場 に立 つ儒 学 に帰 っ た の で あ る。 した が っ て彼 の立 場 は 「敬 」 の 心 法 に立 脚 す る 山崎 闇斎 一 派 の 朱 子 学 とは相 い容 れ な い もの で あ った 。 仁 斎 の思 想 は一種 の 生 の哲 学 で あ る とい っ て よい 。彼 は 「天 地 の 道 は 、生 有 って 死 な く、聚 あ っ て散 な し」(『語 孟 学 義 』)と 規 定 す る。 その 意 味 は 、個 体 と して の死 は存 在 す るが 、「生 そ の もの 」 と対 立 す る と い う意 味 で の 「死 」 は存 在 しな い 、 とい う もの で あ る。 この 彼 の 死 生 観 を基 礎 づ け る の は 「天 地 の 問 は一 元 気 のみ 」とい う 「気 」の思 想 で あ る。そ して朱 子 学 の 理 の もつ 形 而 上性 ・ 思 弁 性 を否 定 して 、 「理 とは 却 って 是 れ 気 中 の 条 理 」 と理 を経 験 的性 格 の もの とす る 。 そ して 朱 子 学 の 「理 の学 」 に対 して 自己 の学 を 「道 の学 」 とい う。 仁 斎 は 「道 」 を 「天 道 」 「地 道 」 「人道 」 の三 者 に分 け 、 そ れ ぞ れ に陰 陽 ・柔 剛 ・仁 義 の 原 理 を 配 合 し、三 者 を混 合 す べ きで はな い とす る。 そ して 天道 につ い て は 「天 道 に流 行 有 り、対 待 有 り … … しか れ ど も対 待 は お のつ か ら流 行 の 中 に在 り。流行の外、対待有 るにあ らざるな り」(語 孟 学 義)と 言 う。 この 時 間的 活 動 の 中 に空 間 的 活動 を含 ませ 、 時 間 的活 動 を空 間的 対 立 よ り も優 位 に あ る とす る仁 斎 の 考 え方 は、 『意 識 の 直 接 的 所 与 』 に お け るベ ル グ ソ ンの 考 え 方 を連 想 させ る。 こ の考 え は非常 に興 味深 いが 、 彼 の 思 想 の 中 心 的 位 置 を 占め るの は 人 道 で あ り、彼 は人 間性 の 多様 性 を認 め、 また 人 間 の 中 に あ る相 対 的 な 善 悪 の 契 機 を認 め つ つ 、 しか もそ れ だ け に終 らな い で 、善 へ の希 求 を もつ と ころ に 人 間性 の 中 の 同 一 面 が 存 在 す る とす る。 そ して情 欲 を肯 定 し 「苟 も礼 義 以 て之 を裁 す る こ と有 る と きは、 則 ち 情 即 ち道 、 欲 即 ち義 、何 ん 人 の悪 む とこ ろか 之 れ有 らん 」(童 子 問)と す る。 こ の仁 斎 に よる情 の 復 権 は 、 元 禄 文 化 の 中で 生 を享 受 した知 識 人 に よ る儒 学 の 人 間論 の再 評 価 で あ り、一 方 で は万 葉 以 来 の情 を心 の 本 質 とす る 日本 人 の伝 統 的考 え方 の 蘇 え りで あ る と と もに、 他 方 で は 近世 中 ・後 期 の 「情 」 「人 情 」 の 自覚 と復 権 へ の道 を き りひ らい た もの とい え よ う。 この よ う な人 間観 に 立 って 、彼 は 「仁 」 を 「人道 の大 本」 とす る考 え に立 ち 、 しか も仁 を愛 と す る(朱 子 で は仁 は 「愛 の 理 」 と な って い る)。 こ こ に は 一 種 の 「愛 の 人 間 学 」 とい う もの が 成 立 す る。 こ の 「仁 」 は人 間 の 中 に潜 む 「惻 隠 の心 」 をつ ち か う(「存 養」 「拡 充 」す る)こ とに よ っ
て得 られ る他 者 に対 す る慈 愛 あ る慮 りとい って よか ろ う。 この 「仁 」 は な ん ぴ と も実 現 可 能 な もの で は あ る が 、道 の失 わ れ た今 日で はそ の実 現 は きわ め て 困 難 で あ り、 「誠」 を立 て る と い う道 徳 的 実践(修 爲)に よ って は じめ て可 能 で あ る とす る。 この 「誠 」 は心 情上 の真 摯 さ と、 それ が 道 徳 に当 る か ど うか とい う知 的 判 断 と を併せ も った 実践 道徳 とい って よい。 仁 斎 の 思 想 は 、一 方 で は 「気 」 に 立 脚 す る 自然 哲 学 に よ って 、 貝 原益 軒(1630-1714)、 三 浦 梅 園(1723-1789)ら の 自然 哲 学 者 の 系 譜 を生 み 、 そ の 中 で 多 くの 自然 科 学 者 が 輩 出 した 。 他 方 で は仁 斎 を否 定 的媒 体 と しつ つ 、 仁 斎 の 提 起 した 人 間 観 に か な りの部 分 を負 い なが ら、荻 生 徂 徠 の 制度 論 的 な 「物 」 の思 想 を生 ん だ。 後者 に つ い て は次 節 で 触 れ るが 、 前 者 につ い て は あ る程 度 こ こで触 れ てお か ね ば な ら な い。 益 軒 の場 合 は 「主気 説 」 に立 ちつ つ 朱 子 学 者 で あ りつ づ け た こ とに よ って不 徹 底 な面 もあ るが 、 彼 は 「心 に在 る の理 」 と 「物 に在 る の理 」 とい う カテ ゴ リ ー を う ち出 し、明 治初 頭 の西 周 の 「心 理 」 対 「物 理 」 とい う発 想 の源 を な して い る。 尤 も西 で は この 二 つ の理 の性 格 の差 異 が 自覚 的 に哲 学 の 問題 と され て い るが 、益 軒 の場 合 はそ の 点 が 曖 昧 で あ る。 しか し彼 は 「物 に在 る の理 」 の面 を 追 求 して わが 国 初 め て の本 格 的 な本 草 学 的 著 作 『大 和 本 草 』 をあ らわ し、科 学 方 法 論 の点 で もす ぐれ た 見 解 を示 して い る。 そ して彼 は宮 崎 安 貞 の よ う なす ぐれ た 農 学者(『 農 業全 書 』 の 著 者)、 稲 生 若 水 、 松 岡 恕庵 等 の本 草 学 者 を よび起 した。 第 三 期 「物 の 思 想 」 と こ ろ で18世 紀 にな る と、 「気 」 の 思 想 は 「物 」 の 思 想 に と って 代 られ る。 こ の場 合 、 自然 哲 学 の側 面 にお い て は 「気 」 の 思 想 が捨 て られ た の で は な く、 「物 」 の思 想 の 中 に吸 収 され た 、 も し くは物 の思 想 に包 み こ まれ た と言 うべ きで あ ろ う。 気 の 思 想 の もつ 生 命 肯 定 の 思想 は受 け つ が れ、 「気 」 の もつ 厂物 質 」 的 側 面 は 厂物 」 の 中 に 吸 収 され る。 「物 」 の 思 想 の もつ 「気 」 の 思 想 に な い面 は礼 楽 とか 、 そ の礼 楽 の教 の 客観 的 に表 現 され た六 経 とか あ るい は古 典 一 般 とか 、 自然 な らび に人 間 の生 み 出 し、 も し くは制作 した外 界 の事 物 の側 面 で あ る。 もち ろ ん こ の よ う な 「物 」 の 考 え方 が この 時期 に は じめ て形 成 され たの で は ない 。 この よ うな 「物 」 は 人 間 の文 明 の 始 ま りと と もにあ り、 日本 につ い て も 「もの 」の 観念 は古 代 か ら存 在 す る 。 しか しそ れ が 思惟 の歴 史 にお い て 近 代 につ な が る とい う意 味 で重 要 な位 置 を 占め た の は この18世 紀 で あ っ た 。 こ う した思惟 の 変化 に指 導 的役 割 を果 した の は荻 生 徂 徠(1866-1728)で あ るが 、 18世 紀 の 日本社 会 にお け る技 術 の 発 展 に伴 う生 産 の 向上 や 、社 会 の制 度 化 、 組 織 化 が 進 ん だ こ と や 、学 芸 の 実証 的側 面 へ の 発 展 とい う よ うな事 態 が彼 の 思 想 を支 え た。 徂 徠 の 儒 学 思 想 の画 期 的 な 面 は、 彼 が 「先 生 の道 は 外 に在 り」(弁 名)と した こ とで あ ろ う。 徂徠 に従 え ば 、 そ れ まで の 儒 学 は、 朱 子 学 、 陽 明 学 だ け で な く、気 の思 想 に立 脚 した仁 斎 の古 義 学 で さ え も 「内 を重 ん じ外 を軽 ん じ」(弁 道)た 。 こ う した考 え か ら徂 徠 は仁 斎 以 上 に心 否 定 の 思想 を徹 底 し、 「礼 」 との 関係 で次 の よ うに言 う。 「心 は形 な き な り。得 て これ を制 す べ か らず 。 故 に 先 生 の 道 は、礼 を以 て 心 を制 す 。礼 を外 に して 心 を治 む るの 道 を語 る は 、み な私 智 妄 作 な り。 何 とな れ ば、こ れ を治 む る者 は 心 な り。治 む る所 の 者 は心 な り。我 が 心 を以 て 我 が 心 を治 む る は、 譬 へ ば狂 者 み つ か らそ の狂 を治 む るが ご と し、 い つ くんぞ 能 くこれ を治 め ん」(弁 名)。 これ を治
め る の に、 個 人 の 修養 、修 爲 で な く、礼 楽 制 度 とい う客 観 的 存 在 の もつ教 化 力 とそ れ を補 う法 制 度(礼 楽 刑 政)の もつ教 化 力 や支 配 力 に よ っ て す る とい う考 え に変 った の で あ る。 そ して 「礼 は 物 な り」(弁 名)と され 、 「教 へ の 条 件 」 「礼 の善 物 」 「先 王 の 法 言 」 と して の 「物 」、 な ら び に そ の集 約 的 表 現 で あ る 『六経 』 が 「物 」 とさ れ 、重 視 さ れ る に至 っ た。 そ して 朱子 学 の よ うに 「格 物 致 知 」 に よ って 理 を窮 め る の で は な く、 こ とば や そ れ に表 現 さ れ た古 典 、 また古 典 の教 の含 む 技 術 の習 熟 とい う こ とが重 視 され 、 「格 物 」 も 「物 ニ イ タル 」 の で は な く、 「物 キ タル」 と解 釈 し 直 され る。 この よ うな 考 え 方 は 国学 の世 界 に も浸透 して 、 「物 に行 く道」(直 毘霊)が 上 代 に お け る神 の道 とされ る。 そ して この場 合 の 「物 」 はお そ ら く 『古 事 記 』 を さす もの と思 わ れ る。 徂 徠0)弟 子 で は、 太 宰春 台(1680-1747)が 「ニ ツ ノ理 ヲ知 ル トハ 、 理 ハ 道 理 ノ理 二非 ズ 、物 理 ノ理 也 」(『経 済 録 』 巻 一)と い う。 一般 に 理 解 され て い る よ うに この 厂物 理 」 は 「自然 法 則 」 で は な く 「事 物 の 理 」 とい う意 だ と私 は解 釈 す る が 、 そ れ は そ れ と して 「物 理」 を明 らか にす る こ とが 儒 学 の課 題 だ とい う極 め て 明 瞭 な考 え が う ち出 され て、 「窮 理 」 に 関す る徂 徠 の考 え の 曖 昧 さは 克服 され る。 徂 徠 の 孫 弟 子 の 海保 青 陵(1755-1817)に な る と、『荘 子 』 の 「斉物 論 」 を換 骨 奪胎 して 「斉 物 」 ル ト は 「我 為.物 」 と解 釈 し直 され 、「我 身 を色 々 の 物 に して見 て 、其 の色 々 の情 を知 る こ と」(前 識 談) と解 釈 さ れ、 こ の段 階 をへ て は じめ て 厂皆 利 。我 」 とい う こ と にな る とい う極 め て プ ラグ マ テ ィ カル な実 践 的 ・実 用 的 認 識 論 が 展 開 され る。 この 時 期 に、 三 浦 梅 園 に お い て 「形 あ る もの を物 とい い 、 形 な き もの を気 とい う」(玄 語)考 え方 が提 起 され 、物 は気 の 集 合 体 で あ り、 気 は物 を構 成 す る最 小 の存 在 とい う こ と に な り、 物 と 気 との 関 係 が 明 らか にな っ た。 こ の よ う な思 想 的分 脈 にお い て 志 筑 忠雄(∼1806)が 「求力 法 論」 の 翻 訳 で 「真 空 」(ydel蘭 、spatiuminane)の コ メ ン トで 「至 薄 ノ気 」 とい う解 釈 を与 えた の で あ ろ う。(志 筑 の 「真 空 」概 念 の 「気 」的 理 解 につ いて は吉 田忠 の 『日本思 想 大 系』、洋 学 下 の 「求 力 法 論」 の 補 注 四 、391-393頁 参 照)。 の ち に青 地林 宗 の 『気 海観 潤 』(文 政 八 年 ・1825)そ れ を 増 補 して 本格 的 な もの と した川 本 幸 民 の 『気 海 観 瀾 広 義 』(嘉 永 四年 ・1851)と 気 の 思 想 は、 物 の 思 想 の 支 配 的 な 時代 に も生 き残 っ た。 文 化 的 な面 で は、平 賀 源 内 に よっ て始 め られ た 「物 産 会 」の 大 流行 、本 草 学 の 博物 学へ の 展 開 、 考 証 学 な ら び に江 戸 後期 に集 中 的 に あ らわ れ る考 証 的 性 格 を もつ 随 筆 の 流行 が あ る。 こ れ ら を通 じて も個 性 的 な 「物 」(外 界 の 万物)を 、 自 己 自 身 の あ り方 との 関 係 な しに、 明 らか に して い く こ と それ 自体 に意 味 が あ る とい う一 つ の時 代 の潮 流 が 生 ま れ た と言 って よい で あ ろ う。
第四期
物の思想 と心の思想の共存の時代
こ の よ うな物 の思 想 は万物 の 法則 を明 らか に しな い こ とへ の不 満 とな って 、物 の思 想 と窮 理 と が 結 び つ き、 物 理 を窮 め る朱 子 学 の 興 隆 を見 る(古 賀恫 庵 、 佐 久 間 象 山)。 他 方 この 物 理 の探 求 は専 門的 な 諸科 学 の研 究 へ と分 化 す る。 こ の よ う な傾 向 と と もに 、 「修 己 」 や道 徳 的 、 政 治 的 実 践 を重 ん じな い物 の学 問 に対 す る不 満 か ら さま ざ まな傾 向 の 「心 」 の 思 想 が 生 まれ る。 こ こ に見 られ る よ う に幕 末 の 日本 は 「物 の 思 想 」 と 「心 の 思想 」 の共 存 の 時 代 とな り、西 欧 文 明 の 知 的 、 政 治 的 イ ンパ ク トに対 抗 した り受 容 した り して 、 「西 洋 」 を意 識 す る姿 勢 を強 く してい く の で あ る 。 〔参 考 文 献 〕 著 作 源 了 圓 『近 世 初 期 実 学 思 想 の 研 究亅 創 文 社 、昭 和55年 同 「徳 川 合 理 思 想 の 系 譜 』 中 央 公 論 社 、 昭和47年 小 島康 敬 増 補 版 『徂 徠 学 と反 徂 徠』 ぺ りか ん社 、1994年 論 文 源 了 圓 「徳 川 初期 に お け る新 儒学 の受 容 一 『心 学 』r心 法 』 の 問題 を中心 と して 」 『ア ジ ア文 化 研 究』 第16 号 、 昭 和62年11月