-「2020 年までの国家安全保障戦略」と「軍事ドクトリン」の分析を通じて-
兵頭慎治
はじめに
ソ連解体後、ロシア軍を取り巻く環境は大きく悪化し、その存在意義が大 きく問われる事態となった。エリツィン時代のロシア軍は、ソ連解体という 国家の混乱を受けて、軍人の社会的地位の低下、給与未払い、兵器開発の停 止、徴兵忌避、いじめや自殺などの規律や士気の低下が大きな問題となった。
その後、プーチン政権において国防費が増加するものの、兵員の削減、軍種・
軍管区の合理化、職業軍人への移行といった軍のコンパクト化とプロフェッ ショナル化が進められた。
ロシア軍の再編が進む中、中長期的なロシアの国家安全保障政策を定めた 国家文書である「国家安全保障概念」の改定プロセスも進展した。この「概 念」は、1997 年に初めて承認された後、プーチン政権発足に合わせて 2000 年に修正されたが、わずか 2 年後の 2002 年には改訂が指示され、2005 年に 安全保障会議事務局が草案まで作成しながら、プーチン前政権下において新 文書が最終承認されることはなかった。このことは、プーチン前政権が体系 的な国家安全保障政策を打ち出せなかったことを意味する1。
「概念」は、北大西洋条約機構(NATO)拡大や米ミサイル防衛(MD)計画とい った米国のユニラテラリズムの動きに強く反発する内容であったが、9.11 事 件以降、プーチン政権はイスラム過激勢力への共同対処を念頭に置き、中央 アジアに米軍駐留を認めるなど対米協調姿勢に転じた。それにも関わらず、
バルト3国の NATO 加盟や旧ソ連諸国のカラー革命、米 MD システムの東欧配 備など、ロシアを取り巻く戦略環境は改善せず、1999 年に始まった第二次チ ェチェン紛争がテロ問題として位置付けられ、2002 年のモスクワ劇場占拠事 件など大規模テロ事件が頻発したことから、ロシアの安全保障上の主眼が非 伝統的脅威への対処に移った。その結果、テロ対処に従事する連邦保安庁 (FSB)が組織的に肥大化するとともに、国家脅威への対処を本来任務とするロ
シア軍の存在意義が大きく低下し、2006 年からはテロ対策においてロシア軍 が FSB の指揮下に入ることとなった。しかし、2008 年 8 月にソ連解体後初め ての有事となったグルジア紛争を経験したこと、さらには 2009 年 4 月に第二 次チェチェン紛争の終結が宣言されたことなどから、ロシアの脅威認識は伝 統的な脅威認識に回帰しつつあると考えられる。
こうした問題意識に基づき、本稿は、グルジア紛争後に公表された 2 つの 国家文書「2020 年までの国家安全保障戦略」及び「軍事ドクトリン」の策定 を通じて、ロシアの安全保障観や脅威認識がどのように変化したのかについ て考察することで、ロシアの安全保障政策の立案においてロシア軍の役割が、
グルジア紛争以降にどのように変化しているのかについて検討することを目 的としている。
1.「2020 年までのロシア連邦の国家安全保障戦略」
(1)国家課題
2009 年 5 月 12 日にドミトリー・メドヴェージェフ(Dmitrii Medvedev)大 統 領 が 「 2020 年 ま で の ロ シ ア 連 邦 の 国 家 安 全 保 障 戦 略 (Стратегия национальной безопасности Российской Федерации、以下、安保戦略)」
を承認した2。この文書は、広義の国家安全保障問題に関してロシアの公式見 解を体系化したものであり、軍事のみならず、経済、社会、技術、環境、保 健、教育、文化など全ての政策領域を包含した最高位の戦略文書にあたる。
これに基づいて、外交分野では「対外政策概念」、軍事分野では「軍事ドクト リン」など、個別の政策文書が作成されている。
タンデム体制発足後、メドヴェージェフ大統領が独自の政策路線を展開す るのではないかとの見方もあったが、「安保戦略」の内容は、ウラジーミル・
プーチン(Vladimir Putin)が大統領を退任する直前に表明した「2020 年まで のロシアの発展戦略(通称プーチン・プラン3)」に依拠しており、多極化路線 という従来のプーチン路線が 2020 年まで継続されることが明らかとなった。
これは、国家戦略の基本的な方向性に関して、タンデム体制発足後も、依然 としてプーチン首相が大きな影響力を有していることを意味する。しかも、
「2020 年まで」という期限も付与されたことから、「安保戦略」の内容を「プ
ーチン・プラン」に重ね合わせているとも解釈される。さらに、2020 年まで の「安保戦略」の実現に関しても、プーチン首相が何らかの形で関与し続け ることをも予感させる。
旧文書は、2002 年 11 月のモスクワ劇場占拠事件を受けて、当時のプーチ ン大統領が改定を指示し、2005 年に安全保障会議事務局が改定案を作成した ものの、2009 年まで最終承認が見送られてきた。「安保概念」から「安保戦 略」へと名称が変更された理由としては、単に概念的な文書に過ぎなかった 旧文書の性格を改め、中長期的な内外政策の目標や戦略的な優先課題を盛り 込むことで、ロシアの国家政策の基盤となる戦略文書の策定を目指したもの と思われる。旧来の文書は綱領的かつ宣言的な内容が多くみられたが、新文 書においては、具体的な政策目標や政策の進捗具合を測る7つの指標が盛り 込まれるなど、政策の実現可能性にも着目されている4。
「安保戦略」の冒頭部においては、ロシアは 20 世紀末の政治的、社会的、
経済的な危機を克服して、形成されつつある多極的な国際関係における重要 な主体として競争力の強化と国益追求のための能力を回復したと述べられて いる。さらに、「経済的成長と政治的影響力の新しい中心地が勢力を増した結 果、本質的に新しい地政学的状況が生起しつつある」と明記され5、米国の絶 対的な影響力が減退し、中国やインドなどの新興国が台頭してきたことによ り、既に多極世界が到来しているという戦略環境認識が提示されている。ま た、「安保戦略」に規定されたロシアの国益の1つとして、「多極世界の状況 下において戦略的安定と互恵的パートナー関係の維持に向けた活動を行う世 界的な大国にロシアを変貌させる」こと、国際社会においてロシアの影響力 を強化する方針として「ブロック対立から多元的外交への転換、資源能力を 実利的に利用した政策」が掲げられている6。以上から、2020 年までのロシ アの国家課題は、多極世界においてロシアが一極になることであると言える。
(2)伝統的安全保障観への回帰
2002 年 11 月に当時のプーチン大統領が同文書の改定を指示したことから 明らかなように、新しい国家安全保障戦略を策定する理由の1つは、チェチ ェン武装勢力によるテロリズムという「非伝統的な脅威」をロシアの安全保
障上どのように位置付けるのかであった。テロリズムの出現は、国家脅威と いう「伝統的な脅威」への対処を本来任務とするロシア軍の存在を揺るがし、
テロ対策を取り仕切る連邦保安庁(FSB)の肥大化をもたらした。しかしながら、
2008 年 8 月に隣国のグルジアと国境付近において軍事衝突が発生したこと、
2009 年 4 月に約 10 年に及んだ第二次チェチェン紛争の終結が宣言されたこ とから、新しい「安保戦略」においては、近隣諸国との資源争奪や国境紛争 に備えて旧ソ連圏との国境に加えて北極、極東、カスピ海地域の国境管理を 強化することが明記された7。
これは、ロシアの安全保障上の関心が、テロといった「非伝統的な脅威」
から国境紛争といった「伝統的な脅威」へ重心が移動していることを意味し ており、ロシアが伝統的な安全保障観に回帰していることを示している。旧
「安保概念」の冒頭では治安の悪化やテロリズムの脅威について言及されて いたが、「安保戦略」においては国防問題が国家安全保障の中核であると位置 付けられており、テロリズムに対する扱いが低下している。
新「安保戦略」においては、対米強硬論を主張していたユーリー・バルエ フスキー(Iurii Baluevskii)安全保障会議副書記(前参謀総長)など軍の強硬 派の意見が盛り込まれたと考えられる。「安保戦略」及び「軍事ドクトリン」
の改定問題に詳しいアレクサンドル・サヴェリエフ(Aleksandr Saveliev)世 界経済国際関係研究所(IMEMO)戦略研究部長によれば、新戦略の本文には、バ ルエフスキーやアンドレイ・ココーシン(Andrei Kokoshin)元国防次官等が主 張する古いタイプの冷戦思考が再現され、「戦略的安定性」や「パリティ」と いった表現が復活しているという8。このことからも、グルジア紛争以降、ロ シアの国家安全保障戦略の立案において軍の発言力が高まっていると推察さ れる。
2007 年 12 月に軍が支持する当時のセルゲイ・イワノフ第1副首相がプー チンの後継者レースで敗れて以降、バルエフスキー参謀総長兼国防第 1 次官 (当時)がマスメディアに盛んに登場し、中距離核戦力(INF)条約からの一方的 離脱や核兵器の先行使用(first use)など強硬な政治的言動を繰り返すよう になった9。バルエフスキーは 04 年から参謀総長を務め、プーチン大統領か ら 3 年間の定年延長を請われるなど、政軍双方に対して大きな影響力を持つ