はじ めに
﹁ご ん︑ おま えだ っ たの か︒ いつ も︑ く りを くれ たの は︒
﹂ とい う兵 十
ひ ょう じゅ
のう
言葉 と とも に︑ 銃の 筒口 か ら細 く立 ちの ぼる ひ と筋 の青 い煙
︑こ の﹃ ごん ぎつ ね﹄ のラ スト シー ンは
︑こ れま でど れだ け多 くの 読者 に深 い感 銘を 与え てき たこ とで しょ う︒ 新にい 美み 南吉
なん きち
がこ の代 表作
﹃ご んぎ つね
﹄を 書 いた のは
︑十 八歳 の時 でし た︒ これ が︑ 昭和 三十 一年 から 教科 書に 採り 上げ られ るよ うに なり
︑以 後五 十年 を越 え︑ 今も 日本 じゅ うの 子ど もた ちに 読み 継が れて いま す︒ 新美 南吉 記念 館は
︑こ の﹃ ごん ぎつ ね﹄ の 舞台 とな った 土地 に︑ 南吉 の生 誕八 十年 を記 念し
︑一 九九 四年
︑半 田市 によ って 建て られ まし た︒ 屋根 に芝 が植 えら れ︑ 五つ の棟 が波 打ち なが ら地 下へ もぐ り込 むよ うに 造ら れた
半地 下式 の記 念館 は︑ その ユニ ーク な造 形で 来館 され るみ なさ んの 目を 楽し ませ てい ます
︒ 今回 はこ の 記念 館を 中心 に︑ 南吉 が子 ども のこ ろか ら慣 れ親 しん だゆ かり の場 所を
︑彼 の書 き残 した 主要 な作 品と とも に紹 介さ せて いた だき ます
︒ 新美 南吉 記念 館︵ 名鉄 半田 口駅 から 一︑ 二〇
〇m
︶ 記念 館の 展示 室で は︑ 南吉 の小 学生 のこ ろ から 半田 中学 時代
︑東 京外 国語 学校 時代
︑そ して 晩年 の安あん 城じょう
高等 女学 校時 代と
︑南 吉が そ の時 々に 書き 残し た自 筆原 稿・ 日記
・書 簡な どと とも に︑ その 生涯 を見 るこ とが でき ます
︒
また
︑南 吉の 蔵書 など も含 めた 約一 万冊 を収 蔵す る図 書閲 覧室
︑ビ デオ シア ター や視 聴覚 コー ナー など によ り︑ 南吉 とそ の文 学を 多面 的に 楽し んで いた だけ るよ うに なっ てい ます
︒ 岩滑 小学 校︵ 記念 館か ら四 五〇 m︶ 南吉 の母 校で あ り︑ 半田 中学 を卒 業し た年 に一 学期 だけ 代用 教員 とし て勤 めた 学校 でも あり ます
︒校 内に は権ごん 狐ぎつね
碑や 落葉 詩 碑と
︑詩 にち なん だ烏う 臼きゅう
︵ナ ンキ ン ハゼ
︶の 大木 など が見 られ ます
︒﹃ 嘘うそ
﹄﹃ 貧乏 な少 年の 話﹄
﹃屁へ
﹄ など とい った 作品 に登 場し ます
︒ 光蓮 寺︵ 小学 校か ら三
〇〇 m︶ 南吉 は︑ 子ど もの ころ
︑こ の寺 の住 職か ら お経 を習 い︑ 東京 外国 語学 校を 受験 する 際に
﹃ ご ん ぎ つ ね
﹄ の ふ る さ と 半
はん田
だよ り
新美 南吉 記念 館館 長
矢
や口
ぐち榮
さかえ文学教材の舞台
矢勝川
新美南吉記念館
名鉄 河和 線 名鉄 河和 線 渥美湾
知 多 湾
岩滑小学校 100万本の彼岸花
岩滑小学校 半田口駅 生家 八幡社 常福院 100万本の彼岸花 愛知県半田市
半田口駅 愛知県半田市
生家 八幡社 光蓮寺
常福院 光蓮寺 はん
だぐ ち
や なべ こう
れん じ
品の 舞台 とな って いま す︒ 八幡 社︵ 生家
︑常 夜灯 から 一五
〇m
︶ 南吉 は︑ 朝夕
︑弟 の 益吉
ます きち
とこ の神 社の 境内 を通 って は︑ 生家 と常じょう
福院
ふく いん
の前 にあ った はな れの 家と を行 き来 して いま した
︒
﹃ご んぎ つね
﹄の 草 稿は
︑こ の神 社の 境内 にあ った 若衆 倉の 前 で︑ 茂も 助すけ とい うお 爺さ んか ら聞 いた 話と して 創作 され てい ます
︒﹃ 狐﹄ は︑ この 八幡 社の 春の 夜祭 りを
︑隣 村の 七人 の子 ども たち が 喜々 とし て見 物に 来る 話で す︒
﹃久きゅう 助すけ
君の 話﹄
﹃疣いぼ
﹄な どに も登 場し ます
︒ 常福 院︵ 八幡 社か ら五
〇m
︶ 岩滑 城主 であ った 中なか 山勝 時
やま かつ とき
の菩 提寺 とし て︑ 十六 世紀 中ご ろに 建立 され た寺 です
︒戦 前は 境内 で盆 踊り が行 われ
︑南 吉も よく 踊っ てい まし た︒
﹃ひ より げた
﹄﹃ 久助 君の 話﹄
﹃塀
﹄な どに 登場 しま す︒
矢勝 川︵ 常福 院か ら三
〇〇 m︶ 常福 院の 北側 を流 れる 川で す︒ 背戸
せ ど
川がわ
とも 呼ば れ﹃ ごん ぎつ ね﹄ の兵 十 がう なぎ をと って いた 川 とさ れて いま す︒ 秋に な ると
︑百 万本 を超 す彼 岸 花が 川沿 いに 咲き 誇り ま す︒ ごん ぎつ ねの 名前 の 元に なっ たの では ない か︑ と思 われ る権 現山
ごん げん やま
を間 近に 見な がら
︑川 の堤 を一
︑一
〇〇 mほ ど散 策す ると
︑ご んの 橋を 経て
︑ま た記 念館 へ着 きま す︒ おわ りに 以上
︑半 田市 内に は南 吉が 子ど もの ころ か ら慣 れ親 しん だ場 所の ほか に︑ 養家
︵南 吉が 八歳 の時 養子 に出 され た実 母り ゑの 実家
︶︑ 半田 高校
︵旧 制半 田中 学︒ 日記 碑︑ 少年 と狐 の像 あり
︶︑ 雁宿
かり やど
公園
︵詩
︑貝 殻碑 あり
︶︑ 半 田池
︵﹃ おじ いさ んの ラン プ﹄ の 舞台
︶︑ 南吉 の墓 など があ り︑ 希 望に 合わ せて 時間 と場 所を アレ ンジ し︑ 文学 散歩 を楽 しむ こと がで きま す︒ 記念 館へ のみ なさ まの ご来 館を お待 ちし てい ます
︒ 新美 南吉 記念 nankichi.gr.jp ︵館http://www.
︶
やか ちが わ
は英 語の 書き 取り を見 て もら った りし てい ます
︒ また
︑亡 くな った 時に は︑ 釈しゃく
文ぶん 成じょう
とい う戒 名ま でつ けて もら うな ど︑ 光蓮 寺 は南 吉に とっ て︑ 子ど も のこ ろか ら亡 くな るま で 大変 縁の 深い 寺で した
︒
﹃ご んご ろ鐘
﹄﹃ 百姓しょう
の足
︑坊 さん の足
﹄に 登 場し ます
︒ 生家 と常 夜灯
︵光 蓮寺 から 四〇
〇m
︶ 南吉 の生 家の 前に は︑ 一八
〇八 年建 立の 常 夜灯 があ り︑ 生家 のよ い目 印に なっ てい ます
︒ 生家 は︑ 向か って 右側 に父 多た 蔵ぞう が営 んで い た畳 屋跡 が︑ 左側 には 継母 志し んが 営ん でい た 下駄 屋の 跡が 今も 残さ れて いま す︒ 奥に 入る と︑ 斜面 を利 用し て作 られ た︑ 地下 室を 思わ せる 勝手 場に 下り てい ける よう なお もし ろい 造り にな って いま す︒ 音声 によ る案 内も あ り︑ 生前 の南 吉を し のび なが ら自 由に 見 学す るこ とが でき ま す︒
﹃狐きつね
﹄﹃ 雀すずめ
﹄﹃ 帰郷
﹄
﹃花 を埋 める
﹄﹃ 音ち ゃん は豆 を煮 てい た﹄ など
︑た くさ んの 作
はち まん しゃ