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はじめに 最初のサミット(先進国首脳会議)が

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はじめに

最初のサミット(先進国首脳会議)が、フランスのランブイエで開催されたのは1975年の ことだから、すでに40年以上毎年欠かさず開催されていることになる。この枠組みにはなん ら条約上の根拠はなく、常設的な公式の事務局もない。当初はそれが定例化されるかどうか も明らかではなかったが、多忙な主要国の首脳が毎年集まることで、慣行も蓄積されてきた。

主要国間の継続的な協調枠組みとしては、19世紀のウィーン体制下の会議外交(Congress Sys- tem)が思い起こされる。その時代にもヨーロッパ全体の問題を協調的に解決しようとして主 要国の代表が定期的に集まったが、会議外交システムが機能したのは10年にも満たず、一堂 に会した各国の代表も首脳ではなく外相たちであった。20世紀に入ると、戦時の同盟管理や 戦後処理をめぐり、主要国の首脳が一つのテーブルを囲んで会合を開くことはあったにせよ、

平時には国際連盟や国際連合などの数多くの国際機関が協力枠組みとなることが期待され、

その管理理事会が主要国間の制度的枠組みとなるよう設計された。たとえば国連の安全保障 理事会は、主要戦勝国が常任理事国としての特権を享受しつつ、全世界的な安全保障問題で 枢要な意思形成が行なわれることが予定されていた。もっとも国際機関では通常会合に出席 するのは首脳たちではなく、本国政府の訓令に拘束される職業外交官だし、国際機関は原則 として主権の平等性が尊重されるから、一部主要国の協調枠組みとして組織するには限界が ある。移動手段の発達した21世紀においては、首脳外交の機会はサミット以外にも数多くあ るにせよ、グローバルな諸問題について主要国首脳が40年以上も一度も途切れることなく毎 年集ってきたことは注目すべき事実である。

しかしながら過去40年間、この枠組みを取り巻く国際環境は大きく変動してきた。サミッ トの議題はそういった国際環境の変動を反映してきたし、サミットの制度的なあり方も変化 を遂げてきた。にもかかわらずサミット参加国は非常に安定している。当初アメリカと、英 仏独というヨーロッパ主要国の首脳が、米ホワイトハウスのライブラリーに集った米欧協調 の枠組みに、その経済的存在が無視できなくなっていた日本を迎え、それにイタリアを加え て開催されたのが、1975年の第1回のランブイエ・サミットであった。1990年代からロシア が加わりクリミア併合の結果2014年に事実上追放されたという重要な例外はあるにせよ、

1976年にカナダが、1977年に欧州連合(EU)代表が加わって以降、サミットは基本的に先進

民主主義国のフォーラムであり続けてきた。

(2)

この小論では、まずG7(先進7ヵ国)サミットを取り巻く環境の変動を概観し、続いてそ れに伴って生じてきたサミットのあり方の変動を検討する。そのうえでサミットの今日的意 義、とりわけ日本にとっての意義を検討することとしたい。

1 サミットを取り巻く環境変動

サミットが発足した1970年代には世界は冷戦下にあり、東西両陣営は安全保障面では厳し い対立関係にあるとともに、経済面では両者は分離しており、相互の経済交流のレベルは無 視できる水準にあった。しかもソ連経済の不振はすでに明らかだったし、文化大革命の余波 が続く中国経済の規模は、世界的にはほとんど意味のないほど小さなものだった。

その1970年代にサミットが発足した背景には、西側経済を襲った第2次世界大戦後最大の 危機があった。1971年にはブレトンウッズ体制が崩壊し、国際通貨制度が不安定だった1973 年に勃発した石油危機によって、西側経済は急激な物価上昇を伴う深刻な不況に一様に襲わ れ、先進主要国はおしなべて巨額の経常収支の赤字を出すようになったのである。このよう な不況、インフレ、それに国際収支の赤字というトリレンマの下で、戦後西側経済を牽引し てきたアメリカ経済の圧倒的優位が失われ、多国間主義的な方法で自由主義陣営の国際経済 秩序を管理する必要が感じられた。より具体的には固定平価制度が崩壊して間もない当時、

諸国が国内景気の改善や国際収支の調整のために、為替レートの切り下げ競争に走ったり、

苦し紛れにさまざまな保護主義的通商政策を一方的に採ったりしないように、主要国首脳レ ベルで政治的なコミットメントを行なうとともに、できれば積極的な政策協調を実施するこ とがサミットに期待された。

こういった観点からサミット史上の成功事例とされるのは、1977年のロンドン・サミット および翌1978年のボン・サミットで合意された、いわゆる機関車論による協調的な景気浮揚 政策である。すなわちインフレ率が高い諸国には強力なインフレ対策を求める一方で、ドイ ツや日本など国際収支上の余裕のある国には世界経済の機関車として景気浮揚策を求めて、

国際収支上の赤字国への圧力を緩和しつつ景気の改善が図られた。とりわけボン・サミット では、各国の具体的なマクロ経済政策と国内総生産(GDP)成長の具体的な目標値までもが 明記される、高度の政策協調が実現したのである(1)

さらに1979年の東京サミットでは、イランでの革命をきっかけに起こった第2次石油危機 を背景に、主要石油輸入国であったG7諸国が輸入についての具体的な数値目標に合意した。

石油消費国連合として輸入削減の意欲を示すことで、石油輸出国機構(OPEC)という産油国 カルテルへの対応で足並みをそろえるとともに、アメリカもエネルギー政策で一定の譲歩を する内容であった。

このような事例が示すように、アメリカ経済の衰退がしきりに語られた1970年代にはグロ ーバルな経済管理体制としてサミットの役割が高まったが、1980年代前半にはサミットの経 済政策の調整機能は一挙に低下した。レーガン米政権は、極度の金融引き締めによってイン フレ抑制を行なうとともに、拡張的な財政政策を採るいわゆるレーガノミクスを採用したた め金利が大幅に上昇し、それに伴ってドルが高騰して巨額の国際収支の不均衡が生じた。そ

(3)

れにもかかわらず、アメリカは新自由主義的な経済イデオロギーに基づいて市場介入を拒む 姿勢をとり、マクロ経済・国際金融上の政策協調に応じようとしなかった(2)。その一方で、

サミットはいわゆる新冷戦の開始を背景に政治色を強め、1983年のウィリアムズバーグ・サ ミットでは、ソ連との中距離核戦力(INF)全廃交渉での西側結束が謳われたし、翌年のロン ドン・サミットでは「民主主義の諸価値に関する宣言」や「東西関係と軍備管理に関する宣 言」、さらに「国際テロリズムに関する宣言」が出され、サミットの議題も、政治・安全保障 面の比重が強まった(3)

冷戦の終焉によって市場経済の勝利が高らかに宣言された1990年代には、冷戦の勝者連合 であったサミット諸国の地位は頂点に達した観があった。サミットでは冷戦の後始末と言う べき地域紛争への対処や天安門事件後の対中制裁問題など、多様な政治的議題が論じられた。

そのなかでもロシアに対する民主化支援や市場経済移行支援は、とりわけ米欧諸国にとって 冷戦後の秩序構築の中核的課題であった。そのためロシアは経済的にも政治的にも参加資格 が疑わしかったにもかかわらず、1994年からサミットの政治討議に参加するようになり1998 年には正式メンバーとして参加するようになったが、それはサミット諸国が主導する自由民 主主義的な秩序にロシアを取り込もうという意欲の反映だった。他方でアメリカ経済が1990 年代半ば以降力強く回復し、市場自由主義がアメリカの自信と影響力の高まりとともに支配 的な経済イデオロギーとなったこともあって、サミットの出発点にあったマクロ経済政策や 金融政策の協調は低調だった。むしろ通貨金融危機や重債務国問題など、グローバリゼーシ ョンの機能不全の管理がサミットの議題となり、それだけにサミットはグローバリゼーショ ンの管理委員会という色彩を強めたため、反グローバリゼーション運動の批判の標的にもな った。たとえば2001年のジェノバ・サミットや2005年のグレンイーグルズ・サミットでは、

反グローバリゼーションや途上国の貧困問題を訴える団体による大規模な抗議デモが起こっ た(4)

しかし、21世紀に入ると実はサミットの中核であるG7諸国の経済的比重は低下傾向にあ

1975 80 85 90 95 2000 2005 2010 (年)

80

60

40

20

0

第 1 図 G7とBRICsの世界のGDPに対するシェア

(%)

 World Development Indicatorsより筆者作成。

(出所)

G7

BRICs

(4)

ることが明らかになりつつあった。冷戦後グローバリゼーションの最大の受益者は、むしろ いわゆる新興諸国だったのである。2001年に一群の「新興諸国」をBRICsと名付けてその将 来性をいち早く高く評価したことで知られるゴールドマン・サックスの報告書は、これらの 諸国が中長期的にはG7に代わって世界経済の中心的勢力となることを予想していた(5)。現に 中国は2010年には世界第2の経済大国となり、もはや中国経済の動向抜きに世界経済を語る ことはできない。しかもグローバリゼーションの申し子であるBRICS諸国は世界市場にしっ かりと組み込まれており、それらの国の経済の動向はグローバル経済に大きな影響を与えざ るをえない。もはやG7諸国だけでマクロ経済や国際通貨・金融問題の管理ができる時代は、

終わったと考えるべきであろう。

加えて冷戦が終結してすでに四半世紀が経ち、G7諸国の西側同盟国としての結束は冷戦時 代ほど自明なものではない。冷戦終結の結果、ロシアは軍事的に弱体化するとともに、イデ オロギー的な不倶戴天の敵ではなくなった。それによってヨーロッパのアメリカに対する安 全保障上の依存は大幅に低下し、すでに述べたようにアメリカも「民主化」したロシアを積 極的に国際秩序の一員に取り込む努力をしたので、サミットは1980年代のようにソ連に対抗 する西側同盟の枠組みどころか、ロシアそのものがサミットの一員になってしまったのであ る。中国も自由民主主義的になったわけではないが、少なくとも欧州諸国にとっては、冷戦 期のソ連のような地政学的脅威を意味するわけではなく、むしろ魅力的な経済的機会として の性格のほうが強く意識されるようになった。

2 制度的変容

上記のようにサミットをめぐる環境が変化する一方で、サミットのあり方にも進化があっ た。まずサミットが回数を経るにつれて、制度化が進行したことが挙げられる。当初は少数 の首脳が自由に意見を交換して政治的な意思形成を行なうことが意図されていたが、さまざ まな慣行が蓄積していくのは当然のことである。サミットから出される成果文書はランブイ エの時代に比べるとその種類が増えるとともに、非常に長大なものになった。また、通常2 日間にわたって開催されるサミット本番の首脳会議に前後するかたちで、数多くの拡大閣僚 会合も開催されるようになった。G7蔵相・中央銀行総裁会議はすでに1980年代から公式化 しているが、たとえば2016年の伊勢志摩サミットでは、外務大臣会合や財務大臣会合に加え て、教育、保健担当大臣の会合など10の閣僚会合が予定され、それぞれが成果文書に合意す ることが予定されている。

これらの大量の文書に、当日の討議によってのみ合意することが物理的に不可能であるの は言うまでもない。そのためサミットが開催されるまでに、シェルパと呼ばれる首脳の個人 代表が関係国と行なう周到な準備の重要性が増し、サミット当日までには合意の大枠が決め られるようになった。サミットはもはや首脳たちの意見交換の場に限定されるものではなく、

当該年の議長国の采配の下で間断なく展開するG7諸国間の交渉過程の総体となっているのが 実態であり、高度に制度化されたグローバルガバナンスのための装置になっているのである。

そのため首脳会談そのものは多数の報道関係者が集まる一大祝祭と化していて、形骸化して

(5)

いるという批判がされることもあるが、事前の準備も含めてメンバー国の意思の収斂が図ら れることがサミットの過程なのである。

むしろサミットに対して呈される最大の疑念は、すでにG7諸国は世界経済の諸問題に有効 に対処できる能力を喪失しているし、またグループとしての一体性も失われつつあるのでは ないかというものであろう。たとえば前述の2001年のゴールドマン・サックスの報告書は、

世界経済で管理を要するショックがむしろサミットの外部で起こる可能性が高く、新興諸国 の経済的比重の高まりを考えると、サミットのメンバーとして、中国は明らかにカナダより も適格で、少なくともイタリアと同等であると論じている。そのため明らかに過剰に代表さ れているヨーロッパからは、イギリス以外の独仏伊の代表をユーロ圏諸国として統一すると ともに、中国、インド、ロシア、ブラジルの4ヵ国を枠組みに入れて、G9とすることを提案 している(6)

確かに、たとえばアメリカ政府は人民元が過小評価されていると不満を持ち続けてきたが、

中国のいないサミットでこのことを議論しても大した意味はない。中国の政治体制は異なり、

安全保障上の問題もあるにせよ、グローバル経済の重要メンバーである限り、双方の利益の ために何らかの関与を行なうことは必然である。そのため2005年以降は、G7にロシアを加 えたG8は、中国、インド、ブラジル、南アフリカそしてメキシコの5ヵ国(いわゆるO5: Out-

reach 5)の首脳を招待して、いわゆるアウトリーチ会合を開催するとともに、アフリカ諸国

の首脳も加えたアウトリーチ会合も翌日開催した(7)。また2008年7月の北海道・洞爺湖サミ ットの際にも、3月にそれに連動するかたちで「気候変動、クリーンエネルギー及び持続可 能な開発に関する対話」が開催されて20ヵ国首脳とEU代表が出席するとともに、サミット 初日にはアフリカ諸国首脳との会合が、3日目には前述のO5首脳を加えた会合が設定された。

しかし新興諸国への関与の拡大は、サミットの枠組みに新興国を取り込むというやり方で はなく、20ヵ国・地域首脳会議(G20)を強化するというかたちで実現することになった。実 はG20は、アジア通貨危機への対応のために、蔵相・中央銀行総裁会議としてすでに1999年 以降、毎年会合を行なっていた。そのG20が2008年11月に首脳級の会合に格上げされたの は、主要国の一員としての適格性が問われることになりそうな中規模国家であるフランスや カナダのイニシアチブによるもので、それは言うまでもなくリーマン・ショックをきっかけ に再び必要性が認識されるようになったマクロ経済や国際金融政策での意思統一や、政策協 調が企図されたものであった。

サミットが第2次世界大戦後のアメリカの圧倒的な覇権の後退を背景に誕生した多国間協 力の枠組みであったように、2008年にG20が組織されたのは、新興国との協力関係を築かな ければ国際経済を管理しきれないという現実があった。G20の席では19ヵ国の代表とEU代 表が一堂に会し、それらの諸国のGDPの総計は、世界全体の9割程度、貿易総額の8割を超 えている。2008年11月のワシントンでの第1回会合から、2016年3月現在ですでに10回の会 合が開催されており、自他共に認めるグローバルな金融・経済問題の主要フォーラムに成長 しつつある。G20も常設の事務局や根拠となる法的文書がなく、毎回事務的サポートや合意 形成は、やはり議長国の手腕による部分が大きいのもG7と類似している。また当初、通貨金

(6)

融危機を背景にした危機管理委員会の色彩が強かったG20だが、開発問題、温暖化問題、そ して腐敗対策など議題も拡大しており、この意味でもG20はサミットと類似の進化過程を歩 んでいるのかもしれない。

世界経済におけるG7諸国の経済的比重はすでに相当低下したし、その傾向は今後も続く可 能性が高い。また東西冷戦という条件も失われたために安全保障上のまとまりも薄まった。

こう考えると、サミットの主要機能はG20によって代替されつつあるようにみえる。もしサ ミットを今後も実効性のあるフォーラムとして存続させるのなら、その意義があらためて問 われなくてはなるまい。

3 サミットの意義

とはいえ、G7サミットにはG20にはない優位性がある。まずサイズが小さいことである。

多国間枠組みの意義が、普通参加国の総GDPなどで計測される資源量とともに、有効な集合 的意思にあるとするのなら、G20は圧倒的な資源規模を誇るが、G7の約3倍のメンバーがい ることによって集合的意思形成が困難になろう。G20では仮に1人の首脳が5分間発言すれ ば、それだけでほぼ2時間近くかかってしまう計算になり、しかも20人の首脳に加えて補佐 や通訳がいることも考えると、会議場にはおそらく100人近い人物がひしめいている。これ は首脳間の個人的なやりとりを自由に行なうのに好適な環境とは言えないであろう。またメ ンバーの数が増えれば関係国の相互作用も複雑になり、特殊な利害や対立が障害となって、

コンセンサス形成が困難になるかもしれない。そのため事前の調整や根回しがG7サミット以 上に重要なプロセスとなり、討議そのものの形骸化が進みかねない。

他方で、7人(EU代表も含めれば8人)の首脳が個人代表(シェルパ)を1人だけ従えてテー ブルを囲むG7の環境では官僚的拘束のないやりとりが活発になりやすく、首脳間の個人的関 係も構築しやすいはずである。首脳外交の意義が、直接対話を通じた深い意思伝達や政治的 コミットメントにあるとするのなら、G7サミットの環境のほうが有利であろう。

それにもまして重要なのは、G7はG20に比べてよりメンバーの同質性が高いことである。

G20のなかには、人口規模では13億を超える中国からその50分の1にも満たないオーストラ

リアまで含まれている。政治的には権威主義体制から自由民主主義国家までが同席し、経済 構造面では先進工業国がいる一方で、サウジアラビアやロシアのような石油輸出に依存する 国もいる。しかも国単位でみれば世界経済の主要プレーヤーではあっても、1人当たりの所 得は最大のアメリカと最小のインドの間には約10倍の開きがあり、先進国から開発途上国ま でがテーブルを囲んでいることになる。加えて重要メンバーの中国と日米の間には安全保障 上の問題が厳然と存在するし、ロシアは権威主義の色彩を強め、ウクライナ問題で欧米諸国 との立場の鋭い相違を表面化させている。そして同じBRICSの一員であるロシアと中国の安 全保障上の関係も安定した友好関係とは言いがたいし、中国とインドの間には長期にわたる 国境紛争が両国関係に影を落とし続けている(8)

これに対してサミット加盟国はすべてアメリカの同盟国から構成されているので、相互に 事実上戦争の起こりえない国家間関係であり、その基礎にはメンバー国がいずれも自由民主

(7)

主義という政治体制と豊かな経済および市民的自由を享受しているという経済・社会的条件 を共有していることがある。意思の共有は利益の共有から生まれ、利益は国家のアイデンテ ィティーによって形成されるとするなら、政治体制や経済水準が類似しているG7諸国は利益 の重複する部分が大きいので、政策協調のチャンスも高いと推論できよう。その意味では、

2014年にロシアがサミットから事実上追放されたことによって、サミットのアイデンティテ ィーは再度純化され、サミットは意義が再建されたとも評価できよう。

もちろんG20諸国も重要な利害を共有していることは間違いなく、たとえば金融危機や経 済危機を回避することには強い合意が得られよう。だが政治的、社会的条件が違えば、イン フレ率や失業率に対する選好もおのずから異なるし、環境や人権に与えられる優先順位の相 違も大きいだろう。先進国の利害も常に一致するわけでないのはもちろんだが、経済的破局 の回避を超えた幅の広い目標について、G7のほうがG20より深い共通の意思形成と共同行動 のチャンスがありそうである。

このように考えると、G7は今後G20における内部グループとしての役割を果たすことが期 待できる。国連のような大規模でメンバーが多様な国際機構と同様に、G20の意思形成にお いても理念と利益を共にする仲間作りが重要になり、コーカス内の結束とその相互作用が大 きな意味をもつ公算が高い。その意味でG7はBRICSとともにG20内の有力コーカスとしての 性格を強める可能性が考えられる。

またG7サミットは、G20にはない得意分野をもつかもしれない。金融・経済などの分野に おける政策協調では新興諸国の存在感が大きいものの、テクノロジーや教育、環境、医療、

保健、さらには人権や福祉といった分野ではG7諸国のリーダーシップの優位性は依然として 大きいし、政治体制や社会的性格の類似性が強い分、G7の枠組みは共通の意思形成や共同行 動で合意できるチャンスもG20やBRICS諸国よりも圧倒的に大きいことは間違いなかろう。

4 日本にとってのサミット

日本がサミットのメンバー国の一員となった1970年代には、欧米主導の世界で「先進国」

の一員となったことが強く意識された。一方で「アジアの代表」を自認する声があり、他方 で欧米主導の世界資本主義システムの一翼を担うことへの批判的な言説も、当時盛んに語ら れた従属論的立場から発せられた。しかし、今日の日本が「アジア」の代表であるという言 説は、良かれ悪しかれもはや実態が伴わない。1970年代以降世界経済の一つの重要な展開は、

新興工業国・地域(NIEs)諸国から始まり東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国にも近代化の 波が持続的に広がったことであり、その波は世界最大の非民主主義国家の中国にも及んで、

今や軍事力は言うに及ばずその経済規模でも日本を圧倒している。しかも「アジア」にはイ ンドという世界最大の民主主義国家があり、そのダイナミズムは中国の台頭に尽きるもので はない。

他方で自由民主主義が世界中を覆うという冷戦終了直後の楽観は冷戦後25年経った現在説 得力を失い、市場経済はグローバル化する一方で、豊かで安定した自由民主主義国家は依然 として地球上の少数派にとどまっている。とりわけ日本は、欧州諸国や北米の諸国とは違い、

(8)

「富強」に邁進する中国や、安全保障上の火種を抱える朝鮮半島といった近代的な東アジアの 国際環境で、環境、医療、教育、福祉といった諸問題が社会の主要関心となっている孤独な ポストモダン国家である。EUや北米自由貿易協定(NAFTA)のような強力な地域的枠組みを もつ北米やヨーロッパとは違い、地域に自由民主主義国に基づく信頼できる協力枠組みを欠 く。そんな日本にとっては、サミットは自国の課題と責任を共有できる数少ないフォーラム であり、とりわけその価値が高いと言えよう。

もっとも自由や民主主義といった価値の共有を語るだけで、それが実質を伴う協力につな がらないことは言うまでもない。サミットが実質的な意義を伴う枠組みとして存続していく かどうかは、最終的にはサミットの場を活かしていこうという参加各国の意思次第である。

とりわけ欧州諸国は、アジアの安全保障問題について関与をする能力も関心も限定的なだけ に日本の立場を無視しがちであり、日本は地域特有の問題について自国の立場を訴え続ける 必要がある(9)。同時に不安定な中東のイスラム世界や、貧困と混乱から脱出できない国が多 いアフリカ諸国からの影響にさらされる欧州諸国の関心事にも、十分反応する感受性を示す 必要があろう。

さらに過去20年間にわたって「衰退」や「停滞」ばかりが強調されてきた日本自身のもつ 資源にもあらためて自覚が求められよう。日本のGDP規模も人口規模も実はサミット参加国 のなかではアメリカに次ぐ大きさであり、決して無視できる存在ではない。しかも保健、医 療、環境、エネルギーといった面では、日本のもつ技術や制度には先進的な部分も少なくな いし、高齢化に伴う諸問題は、平和で繁栄している国であればあるほど今後深刻化する先進 的課題であるだけに、日本の取り組みに対する海外の関心は、日本人が普通考える以上に強 い。

2016年の伊勢志摩サミットは、日本が仲間を作るための重要な機会である。シェルパ間の 接触だけではなく、外務当局者以外の政府部局も閣僚会合に向けてそれぞれの外交を展開す る機会でもある。さらに東京以外で開催される会合に訪れる多数のメディア関係者と幅広い 日本社会との接触は、依然欧米に根強い日本に関するステレオタイプを修正する一つの機会 になるかもしれない。

しかし、なんと言ってもサミットの基本はG7の指導者が自由にグローバルな課題について 語り合うことにあり、G20との差別化が求められている現在、この基本に回帰することがい っそう重視されそうである。そういったサミットでは、翌年には同じ地位にいないのがわか っている首脳では、真剣に相手にされそうもない。日本はサミット参加国中最も頻繁に首脳

第 1 表 サミット参加者の国別集計

(出所) 外務省のホームページ〈http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/index.html〉より筆者集計。

  日本  アメリカ  イギリス  フランス (西)ドイツ  イタリア  カナダ  EC ロシア

出席年  1975―  1975―  1975―  1975―  1975―  1975―  1976―  1977―  1998―2013

出席者数  20  16  4

総出席回数  41  41  41  41  41  41  40  39  16

1人当たりの出席回数  2.1  5.9  5.9  8.2  10.3  2.6  5.7  4.3  4.0

(9)

が交代した国であり、総計20人がサミットに出席した。つまり平均すれば1人の首相のサミ ット経験は約2回にすぎず、歴代わずか4名の首相しかサミットに出席していないドイツと比 べると、平均して5分の1の経験しかない首相をこの貴重な機会に送り込んできたことにな る。首脳外交にとってこのことのもつハンディキャップは、あらためて認識されるべきであ ろう。

もっとも2016年に伊勢志摩サミットを主宰する安倍晋三首相は、第1次安倍内閣の時代か ら通算すると5回目のサミットになり、日本の首脳で5回以上サミットに出席したのは中曽根 康弘、小泉純一郎の両首相だけというなかで異例の経験豊かな指導者と言え、これが日本外 交にとってひとつの資源であることは事実である。

1) もっともドイツは、こういった財政支出による協調的景気刺激策に、当時もその後も批判的な見 解をとった。またマクロ経済政策の国際協調が望ましいかどうかについては、経済学者の間でも懐 疑的な議論は少なくない。たとえば、Jeffrey Frankel, “International Coordination,” November 2015

〈http://www.frbsf.org/economic-research/files/Jeffrey-Frankel-Nov20.pdf〉.

2) もっとも1985年にはアメリカ政府も政策を転換し、プラザ合意に基づく外国為替市場への協調介 入を通じてドル高是正に動き始めた。翌年の東京サミットでも7ヵ国(G7)蔵相会議を公式に設立 して、再びマクロ経済・金融政策をめぐる政策協調が活性化するようになった。

3 20世紀におけるサミットの役割を分析したものとして、以下の文献を参照のこと。高瀬淳一『サ ミット―主要国首脳会議』 書房、2000年。

4) このような立場で書かれた文献として、たとえばATTACフランス編(コリン・コバヤシ、杉村昌 昭訳)『徹底批判G8サミット―その歴史と現在』、作品社、2008年。

5 Jim O’Neill, “Building Better Global Economic BRICs,” Global Economics Paper, No. 66, Goldman Sachs, 30th November 2001, p. 10.

6 Op. cit., p. 10.

7 John J. Kirton, “Changing Global Governance for a Transformed World,” in Marina Larionova and John J.

Kirton eds., The G8-G20 Relationship in Global Governance, Ashgate, 2015, p. 20.

8) インド・中国関係については以下を参照のこと。田所昌幸編『台頭するインド・中国―相互作 用と戦略的意義』、千倉書房、2015年。

9) 第9回ウィリアムズバーグ・サミットにおける中曽根首相(当時)のソ連中距離核ミサイルSS20 のゼロオプション(INF全廃)の主張がその例。

たどころ・まさゆき 慶應義塾大学教授

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はじめに 2019年 12月末から中国・武漢市での感染拡大が報じられ始めた新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)は、2020年11月1日現在、全世界で4600万人を超える感染者と120万人を超える 死者を出し、なお感染の拡大が続いている(1)。COVID-19の蔓延により多くの人命が失われる