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はじめに 「20 世紀は都市化の時代であった」とは

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Academic year: 2024

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はじめに

「20世紀は都市化の時代であった」とは、誰しもが事実として受け入れることであろう。

現在の先進国と呼ばれる国々も、過去の都市化を経て発展を遂げてきた。その波は、経済 成長が急速にすすむ発展途上国に及び、現在の都市化進行の主流は、先進国側ではなく途 上国側にある。途上国が目覚ましい経済成長を遂げるのに伴って、人・モノ・カネ、あら ゆるものが都市に集積し、都市化の急速な進行によってインフラが整備されてきた。しか し、その便益を享受するのは一部であり、都市貧困や地方間との格差拡大といった問題は いまだに深刻である。また、先進国が都市化を経験した当時とは異なり、世界はグローバ ル化の渦中にある。そのため、途上国への国際援助や外資による開発という、外からの介 入が、発展途上国の都市化にも何らかの影響を与えていることは明らかである。つまり、

現在の発展途上国における都市化では、様々な産業・インフラの発達によって一部の人々 の生活水準は向上する一方、様々な問題を引き起こす可能性も孕んでおり、グローバル化 によって問題は更に複雑化しているのである。

東南アジア諸国も、都市化による正と負の影響の両方を経験している地域の一つである。

各国が経済面で大きな成長を遂げるのに伴って、都市化が急速に進行し、都市は発達して きた。GDPが増加するにつれて都市化率も上昇し、同時に所得格差といった国内格差が広 がるという過程を、おおよそ辿っている。しかし、都市が先行して発展する一方で、国内 の格差や都市貧困層は拡大し、様々な利害のうごめきあうなかで苦しむ人々が、都市内部 でも、地方でも生れている。

ところが、アジア諸国のなかでも、そのような過程をたどっていない国がある。それが、

ベトナム社会主義共和国(以下、ベトナム)である。ベトナムは、近年の改革によって一 人当たりGDPは2008年に1,000ドルを超え、中所得国入りを果たし、他国同様に都市化 の進行も見受けられる。しかし、都市化速度は緩やかで、なおかつ貧困率やスラム居住率 の減少、国内格差の是正といった社会の発展も、数字ではあらわれているのである。その ため、ベトナムの都市化は他国と異なる過程を辿り、成長と貧困削減を同時に実現してい るようにみえる。本論文の目的は、そのように異なるメカニズムの要因を明らかにしてい くことで、成長と貧困削減の両立の新たな可能性を探り、今後の都市化とそれに付随する 諸問題に対する考察を行うことにある。そのアプローチとして、まずは各国が遂げてきた 発展の過程を、都市化の観点から歴史的背景と経済指標や各数値を用いて比較分析するこ とから始めたい。そこから、先進国と途上国がどのような異なる都市化を経て、社会と人々 の発展はいかに影響されてきたのかを考察したうえで、アジア諸国とベトナムはどう異な るのかを浮き彫りにしていき、その相違を生む要因として考えられるものを分析していく。

比較の結果として、ベトナムの成長と都市化の過程において、次の 3 つの特異性が明ら かになった。まず、貧困削減と経済成長が両立された発展を辿っていること(3-1)、次 に、経済成長に対して都市化率の上昇が緩やかであること(3-2)、最後に、スラム居住 率が上昇していないこと(3-3)である。そして、それらの特異性をうむ要因と考えら

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れたのが、成長と貧困削減の両輪を兼ね備えた二元的な政策が、ベトナムの国家計画に組 み込まれていることであった(4-1)。ベトナムは、共産党一党体制の社会主義国家であ るが、1980年代末期のドイモイ(刷新)政策によって、市場経済システムを導入し、現在 は体制移行下にある。そのため、長期に及んだWTO加盟交渉のように、国際社会との距離 感を慎重に捉えていたことから、他のアジア諸国とは異なり、グローバル化による外から の影響を比較的回避してきた(4-2)。それによって、他国と比べてプロ・プアな経済成 長と都市化を実現していると考えられる。また、都市化は農村から都市へと労働移動が活 発になることが起因の一つであり、そのプッシュ・プル要因に対応した農村開発と都市計 画への政策も、相違を生む要因となったと考えられた(4-3)。これらの要因が絡み合っ て、ベトナムではグローバル化のなかでも二元的な発展と、緩やかな都市化という特異性 が生れたということがわかった。

そんななか、昨今の隆盛なグローバル化の潮流と対峙することによって、ベトナムの方 向性が揺らぎつつある。それまで、ベトナムは国際社会から切り離されていたことで、国 内の利益を守り、海外アクターへの依存は抑えることが出来た。しかし、対外開放による 海外からの自由化への圧力と、対内社会経済の安定のジレンマに陥っている。その流れで、

外資主導の経済活動や都市開発が一部で行われるようになり、ベトナムの社会経済は今ま でと異なる様相を呈している。中所得国になったことで、ベトナムはいま大きな過渡期に 差し掛かっていると言えよう。だが、決してベトナムの未来に可能性が見いだせないわけ ではなく、問題解決の光となりうる「人々の歩み」が存在する。その光とは、これまで社 会の問題として捉えられがちであった、都市貧困層の人々が主体(agent)となった取り組 みである。これを、ジレンマの渦中にいるベトナムに対する有効な解決策の一つとしてと らえ、新たな発展への可能性を提示したい。これらを論じていくことで、先進国側の我々、

そして都市化の問題に直面している、または今後直面し得る発展途上国への教訓を得るこ とになるであろう。

本論文の構成として、まず本章の後半以降では、本論での議論の大枠となる「発展」に ついて論じたうえで、発展途上国の発展と都市化に関する先行研究を分析し、本論文の研 究意義を提示する。次に第 2 章では、本テーマの背景となる先進国とアジアの途上国の都 市化を比較することで見出せる相違点を論じ、第 3 章では、アジア諸国の都市化を統計デ ータも用いて比較し、ベトナムの都市化の特異性を抽出していく。そして第 4 章では、そ の特異性が何に起因するのかを、ベトナムの政治背景と実施政策を分析して明らかにする。

そのうえで、今後の課題を指摘し、課題の解決策となり得る「人々の歩み」を第 5 章で示 し、終章で締めくくりとしたい。

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