突然変異は生物資源拡大の基礎をなすものである.近年,植 物や微生物の新品種開発において,イオンビームを変異原と する突然変異育種「イオンビーム育種」が広く利用されるよ うになった.本稿では,イオンビームによって誘発される突 然変異の特徴や産業利用の現状について紹介する.
はじめに
自然に起きる突然変異の頻度は,細胞が1回分裂する ときに遺伝子あたり100万分の1回程度と言われている.
この数字だけ見ると希にしか起こらないという気もする が,仮にゲノム上の遺伝子の数が約3万個とすると,30 回ほど細胞分裂するごとに何らかの遺伝子に突然変異が 起きていることになる.このような突然変異が植物の成 長点で生じ,形質の変化として表れたものが「枝変わ り」と言われるものである.現実的な発生頻度は決して 高いものではないが,「枝変わり」を挿し木などで増殖 して品種化されたものも多い.突然変異育種は,放射線
などを使って突然変異の頻度を人為的に高めて品種改良 に利用する技術で,国内では1960年代以降,主にガン マ線を使って盛んに研究が行われた.現在,FAO/
IAEA突然変異データベースには世界で3,200以上の品 種・系統が登録されていることからも,突然変異が生物 資源の拡大に大きく貢献してきたことがうかがえる.わ れわれは20年以上前から新たな変異原としてイオン ビームを利用する研究を開始し,今ではイオンビームを 使った突然変異育種「イオンビーム育種」として広く利 用してもらえるまでになった.本稿では,イオンビーム 育種の特長と産業利用について最近の話題を含めて紹介 する.
イオンビームによる突然変異の特徴
イオンビームは,炭素やヘリウムなどのイオンをサイ クロトロンなどの加速器を使って加速した粒子の流れで あり,粒子線と呼ばれる.近年では粒子線を使ったがん 治療の普及が進められていることでご存じの方も多いか もしれない.一方,ガンマ線はコバルト60などの線源 から放出される電磁波であり,医療機器の滅菌などに広 Characteristics and Industrial Application of Ion Beam Breeding
Technique
Yoshihiro HASE, 日本原子力研究開発機構
イオンビーム育種技術の特長と産業利用
長谷純宏
【解説】
く利用されている.いずれも物質中を通過する際に電離 作用を及ぼすことから電離放射線と呼ばれるが,エネル ギーの与え方が大きく異なる.ガンマ線は照射する物質 に対して比較的均一にエネルギーを与えるのに対して,
イオンビームは飛跡に沿って局所的に大きなエネルギー を与えることが特徴である(図
1
).
イオンビームがガンマ線に比べて高い致死効果をもつ ことは古くから知られていたが,育種に利用しようとす る研究はわれわれが研究を始めた当時はほとんどなかっ た.日本原子力研究開発機構では,世界最初の材料・バ イオ研究のための専用施設として現在の高崎量子応用研 究所に設置されたイオンビーム照射施設(TIARA)を 用いて,イオンビームによる突然変異の研究に取り組ん できた.われわれは,炭素イオンビームは電子線に比べ てシロイヌナズナでの突然変異率が約4倍(線量あたり では約20倍)高いことや逆位や転座などのDNAの構造 変化を生じやすいという特徴を見いだした.また,平行 して行った実用品種の開発も含めて,(1)突然変異率が 高い,(2)変異の幅が広く,新しい形質が得られる可能 性がある,(3)極低線量で決定的な変異を生じるため,
目的形質だけのワンポイント改良に適している,という イオンビーム育種技術の特長を示した(1)
.
原子力機構のTIARAにはさまざまな照射装置がある が,生物試料への照射を目的とした深度制御種子照射装 置では,主に炭素,ヘリウム,ネオンなどのイオンビー ムを利用している.サイクロトロンで光速の数%程度に まで加速されたイオンビームは真空ラインを通って照射 装置まで導かれ,チタン薄膜を透過して大気中に放出さ れる(図
2
).照射野は約6 cm四方で,遠隔操作によっ
てサンプルを一つずつ搬送して照射する.サンプル一つ の照射に要する時間は10秒から1分程度である.サンプ ルストッカーには一度に60個のサンプルをセットすることができ,線量を入力しておけば自動的に搬送と照射 を行うことができる.この照射装置は,多数の生物試料 に対してイオンビームを垂直上方から短時間で照射でき る唯一の装置である.
高い線量を当て過ぎないことが大事
現在までに計25の品種・系統がTIARAのイオンビー ムを利用して作出された.実用化されている代表的なも のは ビームチェリー や レッドビタル などの新花 色カーネーションならびに省力栽培に適した白輪ギク品 種 新神 および 新神2 であり,いずれも市場規模 で10億円以上の経済効果をもたらしている.近年では 穀物や果樹でも成果が出始めているが,これまでの利用 対象の約半数は花色である.花色は植物の生存に必須で はないうえに,色素成分や細胞内の環境の違いによって も変化しやすいからである.また,花卉類は栄養繁殖性 のものも多く,種子繁殖性のものに比べて遺伝的にヘテ ロ性が高いことから変異が得られやすい素材であると言 える.
イオンビームは目的形質だけをピンポイントで改良す ることに適しているが,この特長を活かすには高い線量 を当て過ぎないことが大事である.図
3
はカーネーショ ンの変異体を選抜したときのデータで,横軸が照射線 量,縦軸は照射した培養組織からの植物体の再生率およ び突然変異率を示している.植物体の再生率は10 Gyを 超えるところから急激に低下する.一方,突然変異率は 10 Gyまでは線量が高くなるに従って上昇するが,それ 以上照射しても致死する個体が増えてくるため頭打ちに 図1■イオンビームとガンマ線のエネルギー付与の違いを示す模式図
図2■TIARA(イオン照射研究施設)に設置されている深度 制御種子照射装置
なる.高線量区では黄色やクリーム色などが得られ,変 異の幅が広がる可能性はあるが,実際には生育量や品質 の低下を併発することが多く,実用化に結び付いたのは 10 Gy以下で得られた変異体である.突然変異育種では 歴史的に半数致死線量(LD50)で照射するのが効果的 という考え方があるが,イオンビームに限らずガンマ線 においても,生存率が低下する線量域では突然変異体の 獲得効率が低下することが確認されている(2)
.突然変異
育種は多数の個体から少数の変異体を選ぶ作業であり,常に変異体が得られるかどうかわからないというプレッ シャーがある.高めの線量を当てると,一過的な生育障 害も含めてさまざまな変化が生じるのである種の安心感 を抱いたりもするが,イオンビームは低線量でも変異を 生じるので,少なくとも再生率や生存率が低下しない線 量域で照射することが,結果的に良い変異体を得るうえ で大事である.
イオンビーム育種をより論理的に
イオンビーム育種の研究を始めた当初は,「出るか出 ないかわからないような技術は使えない」と言われたこ ともあった(ちなみに,その方の会社は後にイオンビー ムを使って新品種を実用化されている)
.確かにそのと
おりで,イオンビーム育種では目的の形質が必ず得られ るという保証はない.しかし,材料の遺伝的背景を理解 することで得られる変異形質の予測ができれば,イオン ビーム育種をより効率化することができる.われわれは,埼玉県が開発した芳香シクラメンを材料として,こ のような非モデル植物でどこまで論理的に突然変異育種 ができるのか,生物系特定産業技術支援センターの支援 を受けて5年間取り組んだ.シクラメンの花色はアント シアニンによるもので,幸いにして修飾や分子構造は比 較的シンプルである.そこで,カーネーションなどで研 究が進んでいるアントシアニン生合成経路の情報を参考 図3■炭素イオンを照射したカーネーショ ン培養組織からの植物体の再生率と突然変 異率
図4■芳香シクラメンでのアントシアニン合成経路と得られた 花色変異
に,花色,色素成分,遺伝子の3者の対応関係を考えな がら目的の変異体を得ようと考えた.
芳香シクラメンは園芸品種( )と 芳香性野生種( )を交配して埼玉県が 1996年に開発したもので,バラやヒヤシンス調の香り が特徴である.園芸品種には多様な花色が存在するが,
芳香シクラメンでは紫色の芳香性野生種の血が入ること によって紫〜ピンク系に限定されていた.これは,マル ビジンを主要色素とする芳香性野生種のゲノムによっ て,芳香シクラメンでもマルビジンが合成されているこ とが原因である.図
4
は結果を簡略化して示したものだ が,カルコンからマルビジンに至るアントシアニン生合 成経路で機能する各酵素の遺伝子を不活化することによ り,たとえばカルコンを蓄積する薄黄色の変異体,アン トシアニンを蓄積しない白色の変異体,シクラメン属で は世界初となるデルフィニジンを主要色素とする赤紫色 の変異体などを獲得することに成功した.これらの変異 体の色素成分ならびに変異遺伝子の同定も含めて,基本 的に生合成経路に基づいて花色変異体が得られることを 示した.輝くカーネーションを創る
上述のプロジェクトでは,芳香シクラメン以外に輝く
カーネーションの開発を目標として挙げた.輝くと言っ ても自ら光を放つわけではないが,光があたった際にキ ラキラと輝くような質感をもつ花で,メタリック調とも 表現できる特殊な花色である.この特殊花色をもつ数少 ない市販品種として ナザレノ があるが,花弁を拡大 して見ると細胞の中に小さな球状の色素の固まりが見ら れる(図
5
).色素が細胞全域に広がっている一般的な
カーネーションと比べるとその違いは明白である.これ はAnthocyanin Vacuolar Inclusion (AVI)と呼ばれる 現象で,色素の凝集が起きるメカニズムはよくわかって いない.一般的なカーネーションの花弁に含まれるアン トシアニンは,リンゴ酸という有機酸が結合してアシル 化されているのに対して,アシル化されていないアント シアニンをもつことも ナザレノ の特徴である.数多くの品種および試験系統を調査した結果,特殊花 色の発現は,AVI形成ならびに非アシル化アントシア ニンの蓄積とリンクしている可能性が示唆された.リン ゴ 酸 を 結 合 さ せ る 働 き を も つ リ ン ゴ 酸 転 移 酵 素
(AMalT: Anthocyanin malyltransferase) の 遺 伝 子 は カーネーションに1セットしか存在しないことから,
AMalTを不活化させれば,特殊花色を発現させられる 可能性がある.計1,550系統の品種および試験系統を調 べ た と こ ろ,ト ラ ン ス ポ ゾ ン の 挿 入 な ど に よ っ て AMalTの片方が不活化されてヘテロになっているもの
図5■輝く色調のカーネーション
輝く色調をもつ品種 ナザレノ(左) は,
一般的なカーネーション(右)と比較して花 弁表皮細胞で色素の凝集が見られ,アシル化 されていないアントシアニンを含む.
は18系統存在した.この中から栽培特性の優れた系統 を選定し,炭素イオンを照射した培養組織から再生させ た約1,800個体を開花させたところ,特殊花色を示す個 体を1個体得ることに成功した.この個体ではAMalT が不活化されたことによる非アシル化アントシアニンの 蓄積ならびにAVIの形成が確認され,上記の仮説が支 持された.これ以外の選抜で得た変異体では,花弁の表 側と裏側でAVIの凝集の程度や数,色調が異なる場合 もあり,どうやらアシル化の有無という単純な話だけで はなさそうが,ここまでわかってしまえば,不活化され たAMalTをもつ特殊花色系統を交配で作ることも可能 であり,交配で作った特殊花色系統にイオンビーム照射 を組み合わせることによりさらにバリエーションを増や すことも可能である(3)
.たとえば,ナザレノのような濃
い紫ではなく,やや薄めの色のほうが輝く質感が強く感 じられることから,最初に濃い特殊花色系統を交配で作 成し,イオンビームによってやや薄めの方向へ変異幅を 広げるのが得策かもしれない.産業微生物への利用が増えている
イオンビーム育種の利用対象は当初は植物が主であっ たが,近年は酵母などを代表とする産業微生物への利用 が増えている.考えてみると,食料品や医薬品など身の 回りにあるもので,実は微生物の力を借りて作られてい るというものは意外に多い.また,植物に比べて微生物 は生育が速く,圧倒的に多くの母数から選抜することが 可能であることから,効率的な選抜方法さえ確立できれ ば,イオンビーム育種が貢献できる範囲は広いと考えら れる.
これまでに,醤油生産に用いる麹菌や酵母からプロテ アーゼ生産能の高い株やアルコール生産能の高い株を選 抜した例などがあるが(4)
,近年の実用化事例として清酒
酵母の開発について紹介する.群馬県立産業技術セン ターと原子力機構は,イオンビーム育種を利用して,吟醸香の主成分であるカプロン酸エチルを高生産する新た な酵母の開発を目指して平成20年から研究を開始した.
清酒用酵母として広く使われている きょうかい901 号 を親株として,イオンビームを照射した酵母からカ プロン酸エチルの前駆物質である脂肪酸を高生産する株 を2,000株以上選抜した.この選抜手法は,脂肪酸合成 酵素の阻害剤であるセルレニンに耐性を示す株を取るこ とによって,もともとの脂肪酸合成能が高い株を選抜す るというものである.この2,000株以上から,香気成分 の定量,発酵能力の評価,小仕込み醸造試験などを経て 約3年間かけて優良株を絞り込み,吟醸香が強く醸造適 性にも優れた1株を 群馬227酵母 として平成24年に 実用化した(図
6
).227酵母ではカプロン酸エチルの生
産量は親株の約5倍に向上しており,脂肪酸合成酵素 FAS2の遺伝子に変異があることが確認されている(5).
群馬県では吟醸用として 群馬KAZE酵母 をすでに 開発・実用化していたが,227酵母はKAZE酵母とは異 なる甘い香りをもつことが特徴であり,今年も群馬県内 の酒蔵で利用されている.共用促進事業によってイオンビーム育種を利用しや すく
育種を目的としたTIARAの利用者は,当初は公設の 試験場や大学,大手種苗会社などが中心であったが,施 設の利用時間を獲得するための手続きをはじめとして少 し敷居が高いと思われる部分があったことは否めない.
高崎量子応用研究所では照射施設を広く利用していただ くため,平成19年度以降「明日を創り,暮らしを守る 量子ビーム利用支援事業」として支援体制を整えてき た.担当の技術者がサンプル準備や書類手続きなどへの 支援を行うことにより,これまで利用されることがほと んどなかった生産農家が自らオリジナルの品種を作る動 きなどにつながり,平成24年度までに延べ33課題の利 用があった(図
7
).実際には,変異体は得られたが残
念ながら既存のバリエーションの域を出ない場合や,系 図6■イオンビーム育種による清酒酵母の 開発統によってはほとんど変異が生じない場合があるのも現 実だが,最も進んでいる課題では,品種登録を目指して 栽培特性を現在確認中である.施設を利用してみたいと いう方はお気軽に窓口までお問い合わせください(6)
.
国内でイオンビームを育種に利用できる施設は,原子 力機構のTIARAのほかに,理化学研究所仁科加速器研 究センターのRIビームファクトリー(RIBF)
,若狭湾
エネルギー研究センターの多目的シンクロトロン・タン デム加速器(W-MAST),放射線医学総合研究所の重粒
子線がん治療装置(HIMAC)がある.また,イオン ビーム育種に関する情報交換の場としてイオンビーム育 種研究会を平成16年に設立し,今年の7月に第10回大 会を迎える予定である.近年では,中国でイオンビーム が育種に利用され始め,韓国でも現在施設の建設が進ん でいる.イオンビーム育種はわが国発祥の技術である.今後も世界をリードしていくために,利用者へのサポー トと同時に,これまでに得られたデータを体系化して提 供していくことが必要と思われる.
おわりに
近年,ゲノム情報が急速に蓄積されており,近い将 来,非モデル植物でも全ゲノム解析が容易に行える時代 がくるかもしれない.イオンビーム育種を含めてこれま での突然変異育種は偶然性に頼る部分も多かったが,本 稿で紹介したような遺伝的背景に関する情報が増えるに 従い,利用される機会が増えるのではないかと考えてい る.また,ここではあまり触れなかったが,突然変異そ
のものについても未解明で興味深い現象はたくさんあ る.たとえば,同じ植物種でも変異しやすい系統と変異 しにくい系統は何が違うのか,イオンビームとガンマ線 での変異スペクトルの違いの実態は何なのか,などであ る.また,つねづね不思議に思うのだが,冒頭に述べた ような頻度で「枝変わり」が起きているとすれば,ゲノ ムの配列はどうやって無事に維持されているのだろう か.これまでの筆者の少ない経験のなかでもシロイヌナ ズナの塩基配列をある程度読んだが,野生型の配列は データベース上の配列と一塩基も違ったことがなく,少 なくとも成長点では分化した細胞に比べて突然変異が起 こりにくいように守られているように思える.社会的 ニーズから応用研究に力を入れることが多いが,突然変 異について,もう少し基礎的なところに改めて目を向け ていく必要があると考えている.
文献
1) A. Tanaka, N. Shikazono & Y. Hase: , 51, 223 (2010).
2) H. Yamaguchi, Y. Hase, A. Tanaka, N. Shikazono, K.
Degi, A. Shimizu & T. Morishita: , 59, 69 (2009).
3) M. Okamura, M. Nakayama, N. Umemoto, E. A. Cano, Y.
Hase, Y. Nishizaki, N. Sasaki & Y. Ozeki: , 191, 45 (2013).
4) 手島光平,佐藤勝也,鳴海一成:土と微生物,65, 78 (2011).
5) 増渕 隆,鳴海一成,上山 修:バイオインダストリー,
30, 65 (2013).
6) 日本原子力研究開発機構:先端研究基盤共用・プラット フォーム形成事業「明日を創り,暮らしを守る量子ビー ム 利 用 支 援 事 業」,http://www.taka.jaea.go.jp/innova- tion/index.html
プロフィル
長谷 純宏(Yoshihiro HASE)
<略歴>1994年京都府立大学農学部農学 科卒業/1996年同大学大学院農学研究科 修士課程修了/同年日本原子力研究所
(現 日本原子力研究開発機構)入所/2003 年博士(農学),京都府立大学/2012年日 本原子力研究開発機構研究主幹<趣味>植 物を育てること,芝刈り
Copyright © 2014 公益社団法人日本農芸化学会 図7■TIARA(イオン照射研究施設)の共用促進事業での延
べ利用課題数