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オットー・マイヤーホッフのヒトラーとナチスからの逃脱

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マイヤーホッフの生涯:オーバービュー

解糖系代謝経路(エムデン・マイヤーホッフ経路)の解 明者の一人として知られるオットー・マイヤーホッフ(1884

〜1951年)は,カント派の哲学者だったが,幼友達のワー ルブルグに誘われて,生化学の世界に入った.彼は哲学的な 視点から,酵母による発酵と筋肉の乳酸蓄積が共通の経路を もつことを見抜いて研究を進めた.哲学的な思考をもつこと は,自然科学者にとってたいへん重要なことで,欧米では,

ギリシャ以来の哲学的な思考の流れを学生に教育している.

これに対して日本では,開国以来,欧米に追いつくことを モットーにしてきたので,技術的な面を重視して科学思想を 軽視してきたきらいがある.マイヤーホッフはドイツ文化に 対する造詣が深く,自分自身もドイツ人であることを疑わな かったが,実はドイツ系ユダヤ人だった.当時のドイツ生化 学界では,ノイベルグ,エムデン,リップマン,ワールブル グ,クレブスなどユダヤ人研究者が多かった.マイヤーホッ フはキール大学で筋肉と乳酸生成の研究をはじめ,共同研究 者のヒルとともにノーベル賞を受賞(1922年)した.しか し,反ユダヤ主義のためキールを去りベルリンのカイザー・

ヴィルヘルム研究所(KWI)で研究を続けた.

ヒトラーは1933年に政権を握ると,直ちにユダヤ人の迫 害を始めたので,アインシュタインらノーベル賞受賞者も,

大学や研究所を去ることになった.医師,弁護士,学者,教 師など高学歴のユダヤ人ほど職場から締め出されたので,直 ちに国外へ移住したが,当時のマイヤーホッフは研究の最盛 期にあったため,逃げ遅れて,1938年までドイツにとど まった.この時期になると,逆にユダヤ人の出国が制限され るようになり,特に,彼はノーベル賞受賞者として有名だっ たので,200人の出国制限者リストに記載され,ドイツから の出国が困難になった.マイヤーホッフはパリに逃れ,次い で,マルセイユを経由して,地中海の小さな漁村バニュルス に滞在した後,ピレネー山脈を徒歩で越えて,スペインに脱 出した.その際,フランス人であるジャン・ロッシュが,自 身の危険を顧みず,人道的な支援をして,マイヤーホッフの 国外脱出を助けた.マイヤーホッフは偉大な学者だったが,

ナイーヴな人物だったようで,フランス脱出後,ロッシュに

お礼の電報を打ち,アメリカに亡命後も定期的に近況を知ら せてきた.それらの電報や手紙が,ナチスの支配下にあった ヴィシー政権の手に渡り,ロッシュは警察の尋問を受けた.

第二次世界大戦後,アメリカに亡命したマイヤーホッフ はペンシルベニア大学教授に就任し,直ちに研究を再開し た.そこでの最後の10年間にも約50編の論文を出し続けた が,ドイツ時代に比べてその間の論文数は激減した.それは 生化学界の大きな損失であった.彼はベルリンとハイデルベ ルグで自らの研究室をもっていたが,ハイデルベルグの8年 間(1930〜1938年頃)が彼にとって一番実りの多い時期で,

個人的にも幸福なときだった.

マイヤーホッフとエムデン

発酵の研究は,1932年頃までに膨大なデータの蓄積が見 られたが,全容の解明には至っていなかった.それは,C6 化合物であるグルコースが,どのようにしてC3化合物に変 換されるのか? という疑問が解けていなかったからであ る.この疑問に関して,グスタフ・エムデンは自分自身の研 究をもとにグルコースから生成するフルクトース-1,6-二リン 酸(C6化合物)が,2つのC3化合物に開裂する過程を考察 した.この酵素は後にマイヤーホッフによって発見され,ア ルドラーゼと命名された.エムデンはイヌの筋肉で乳酸の生 成を研究していたが,彼は乳酸生成が筋収縮にやや遅れて生 ずるとして,マイヤーホッフの乳酸学説(筋収縮のエネル ギーが乳酸生成によって供給されるという学説でノーベル賞 を受賞した)を批判していた.エムデンはユダヤ人だった が,第一次大戦では,愛国的な軍医として西部戦線に出陣し た.退役後はフランクフルト大学で研究を再開したが,ヒト ラーがユダヤ人の追放を始めると講義を阻止された.彼は傷 心のために休養を取ったが,7月に大腿静脈にできた血栓で 急死した(自殺とも言われる).エムデンは自分が作った理 論モデルを検証することなく亡くなり,その後の5年間にマ イヤーホッフ一派により,エムデンのモデルが検証された.

そのため,解糖系は エムデン・マイヤーホッフ経路 と呼 ばれる.エムデンはもう少し長生きしていたら,ノーベル賞 を受賞していたと思われる.

オットー マイヤーホッフのヒトラーとナチスからの逃脱

ピレネー越えの真相

木村 光

京都大学名誉教授

refer- ence

Reference Link

バイオサイエンススコープ

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カイザー・ヴィルヘルム研究所時代: 

Ich verstehe schon

マイヤーホッフは細胞の機能をエネルギー獲得の立場か ら考えた.彼は,種々のタイプの筋肉あるいは微生物類に類 似の反応があることを証明した.酵母や高等生物ではエネル ギー源としてATPが使われるが,ADPからATPを再生す る際のリン酸源として,無脊椎動物ではアルギニンリン酸 が,脊椎動物ではクレアチンリン酸が同じ役割を担っている ことを明らかにした.彼の偉大さは,創造性,理論的な洞察 力,新しいアイディアに対する寛大さなどにある.彼の学説 がデンマークのルンズゴールにより反証されたときには,直 ちに立会い実験をして,自らの説を訂正した.

日本から留学していた岩崎 憲(金沢大)によると,マ イヤーホッフは酒も飲まず煙草も吸わず,趣味ももたなかっ た.無口で,教室員と雑談することもほとんどなく,話とい えば研究のことに限られていた.その研究上の話でさえ,ほ んの要点を立ち話するにとどまり,精々 2〜3分,長くても 10分を超すことは希だったという.頭脳極めて俊敏,僅か に片言隻語を聞けば,相手の言わんとすることの核心をつか み,説明的な言葉が出ると,すぐに “Ich verstehe schon.”

「わかった,わかった」と,そこを飛ばして話を飛躍させる のが常だった.こんなことから Ich verstehe schon. と いう言葉は研究室員たちも真似をして,一種の研究室用語と なった.マイヤーホッフは,いつも「研究するには,人の仕 事の後を追うな,新しい領域を自分の手で拓け」と言った.

ヒトラーが非アーリア人(主としてユダヤ人)の排除を 開始し,ナチスの「指導者原理」が大学に導入されると,内 相フリックの指令で,科学者も学生も講義や講演を始めると きは右手を高く掲げて「ハイル・ヒトラー(ヒトラー万 歳!)」と挨拶をすることが義務づけられた.しかし,政治 に全く関心のなかったマイヤーホッフは,昼は生化学,夜は 哲学研究に没頭する毎日であった.

マイヤーホッフが所属したカイザー・ヴィルヘルム研究 所(KWI)は最も生産的で,しかも素晴らしい弟子や共同 研究者たちに恵まれていた.ナハマンゾーン,リップマン,

ブラシュコ,ルヴォフ,ウォルド,オチョアらで,そのうち 4人が後年ノーベル賞を受賞した.これに対して,当時KWI の部長で後にノーベル賞を受賞(1931年)したワールブル グが育てたのは,クレブス一人だと言われるが,彼自身は,

マイヤーホッフもテオレルも自分の弟子だと胸を張ってい た.

話は少しそれるが,ワールブルグは若いときからパス ツールのような偉大な科学者になると豪語して,生涯を研究 に捧げる決心をしていたので,終生独身を通した.軍隊時代 に知り合った忠僕ホイスが日常生活の面倒を見て,何処へ行 くにも二人は一緒だった.ワールブルグは,かなりの潔癖 症,完全主義者で,市販の食物は農薬に汚染されているから といって食べず,野菜などを邸内で自家生産していた.牛乳

も特別に農家に注文していた.ワールブルグが終生ドイツに とどまれた理由を聞かれることが多いが,母親がドイツ人で ナチスのゲーリング元帥と親しかったのと,彼が がんの研 究 をしていたからだと言われる.

ドイツからフランスへ

ナチスのユダヤ人への規制,迫害のテンポは急速に悪化 し,1938年頃には,若い研究者も思い思いにドイツを去る ようになり,マイヤーホッフ自身もドイツを出ることを考え るようになった.その直接の引き金は,彼が国外の国際会議 に出席しようとしたとき,警察が彼のパスポートを取り上げ たことである.パスポートはその後返却されたが,その頃に なると国外への移住に種々の条件が付けられるようになり,

移住は次第に逃亡,亡命という形になっていった.着の身着 のままで逃亡することは,全財産を置き去りにすることにな るので,ナチス政権がユダヤ人財産の没収を意図していたの ではないかとも言われる.

マイヤーホッフは息子の健康のためにスイスへ数週間出 掛ける許可を取り出国したが,身の回りの必需品以外はもっ て行けなかった.マイヤーホッフの家財一式も没収,競売に 付されたが,彼の忠実な助手シュルツが誰が買ったかをメモ しておいて,後日買い戻した.マイヤーホッフはポジション を探しにアメリカへ行ったが,当時はまだ世界恐慌の影響が 大きく,科学者としての職を得ることは困難だった.彼は,

ちょうどアメリカに来ていた弟子のナハマンゾーンと相談し て,パリで適当なポジションを探すことになった.ナハマン ゾーンは直ぐに,パリの生化学者たちに接触し,ヴュルス マー(生物生理化学研究所部長)が,マイヤーホッフのため に満足のいく設備と研究所長のポジションを用意した.パリ の生化学者たちはマイヤーホッフを尊敬して受け入れ,彼は すぐに多くのフランス人研究者と交流を深めた.生物物理化 学研究所はピエール・キュリー通りにあった.この通りには いくつかの研究所があり,多くの有名な科学者が研究をして いた.それは素晴らしい知的センターで,マイヤーホッフは その雰囲気をたいそう楽しんだ.当時のロッシュ社では,ア ミノ酸,ペプチド,炭水化物,それにプリンやピリミジンな どの生化学製剤を造っていたが,マイヤーホッフとの共同研 究で,解糖系の代謝中間体の生産が始まった.心臓薬として のAMPとATPの酵素合成系が開発された.

マイヤーホッフとナハマンゾーンの二人は,この2年間に 親交を深め,たびたびロワール川流域の城を訪問して,科学 はもちろん,芸術,文学などあらゆる問題を論じ合った.ナ ハマンゾーンは,そのとき,改めて,マイヤーホッフの広い 分野での見識の深さに感銘を受けたという.

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パリからタクシーで脱出:ホテルスプラン ディッド

1940年5月にナチス軍がパリに迫った.マイヤーホッフは 兵役を免除されたが,息子のウオーターは,抑留者として何 度も収容所に収監された.マイヤーホッフ夫妻は公的交通機 関が使えないので,パリからタクシーで南フランスのマルセ イユヘ逃れた.6月にはパリが陥落し,ペタン元帥がナチス 傀儡のヴィシー政権を作った.マイヤーホッフらははじめ,

ボルドーへ行って,そこから最後の船に乗ってイギリスに行 こうとした.ボルドーとロンドンの間には昔からのワインの ルートがあったからである.しかし,イギリス政府がビザの 発給を拒絶した.というのは,当時,ドイツ軍はルクセンブ ルク,オランダ,ベルギー,フランスに次々に侵攻していた ので,あるいはナチスが勝つかもしれないと考えられ,各国 ともユダヤ人を助けることをためらっていたのである.ウ オーターは両親が自分をフランスに残したままイギリスへ行 こうとしたことにたいへんショックを受けたが,マイヤー ホッフは息子の兵役免除許可を取って,親子はマルセイユの ホテルスプランディッドで再会した.各々が家族のことを考 えながらも命がけで,右往左往していたのである.このホテ ルスプランディッドは,ナチスから逃げ出す何千人もの避難 民と彼らを救出するために作られたバリアン・フライ(米国 人)の緊急救出委員会が拠点としていた歴史的なホテルだ が,今は存在しない.フライはニューヨークのジャーナリス トだったが,自ら志願して急遽マルセイユに向かった.彼は 出国制限のある有名人を含む,2〜3千人の避難民をスペイン へ逃したが,そのために逮捕され強制送還された.その偉業 は長年知られることなく,彼は1967年に59歳で亡くなった.

筆者は,2013年にマルセイユのホテル街にある案内所で,ス プランディッドのあった場所を聞いて回ったが誰もこのホテル の存在を知らなかった.しかし,2015年4月に再度マルセイユ を訪ねたときに,知人で親日家のセカルディ教授(フランス国 立高等研究院名誉教授)が,現在のホテルテルミヌスが昔のス プランディッドだと教えてくれた.それは,セントチャールス 鉄道駅に近く,港に向かう長い階段を下った右手の角にあった.

ピレネー山脈を超えて:ロッシュへの電報

マイヤーホッフ夫妻は,ウオーターと三人でツールーズ へ行って,そこからポルトガル経由でアメリカへ行きたいと 考えたが,そこでは誰も彼らを助けることができないことを 知り,マルセイユへ戻った.このとき,一家の脱出を助けた のは,ジャン・ロッシュであった.ロッシュはユダヤ人では なかったが,困っている人を人道的な立場から助けた(筆者 への手紙).マイヤーホッフはナチスが彼を捕まえて,アウ シュヴィッツのような強制収容所へ送ろうとしていることを 想像もしていなかったので,ロッシュが彼に危険な状態を避

けなければならないことをいくら説明しても,「私は正直者 で嘘がつけない」と繰り返すばかりで,危険な状況を理解し なかった.幸い,夫人と息子(ウオーター)が付き添ってい て,彼らは実情をよく理解していたという.ロッシュは,重 要なことはマイヤーホッフにスペイン国境を越えさせること だと考えた.それには,フランスを脱出するための出国ビザ と,スペイン政府が発行するスペインの通過ビザが必要だっ た.息子のウオーターは,ユダヤ人を示す “J” の入った自 分のパスポートをあえて捨ててしまっていたので,しばらく フランスに滞在する決心をしていた.そのため,ビザはマイ ヤーホッフ夫妻の二人分でよかった.

マイヤーホッフは,知人の薬学部長が,ヴィシー政権に 個人的な友人をもっていたので,自分らの出国ビザを頼むよ うに提案したが,ロッシュはそれは不可能なので,しないほ うがいいと忠告した.しかし,夫妻は納得しなかった.果た して,ビザ申請後,数日で返事が来たが,それは,「マイ ヤーホッフ教授にビザは発給できない.彼は,ナチの権威筋 からペタン政権に出された200人リストの一人であり,フラ ンスを去る許可を受ける権利はない」というものだった.

マイヤーホッフは,ヴィシー政権に出国ビザの発給を拒否 されたが,すでにマルセイユの科学アカデミー会長に頼んで,

フランス国境に近いバニュルス・シュラ・メールの海洋生物 研究所に彼を移してくれるよう要請したことを述べ,ロッ シュに国外脱出を助けてくれるように頼んだ.ロッシュは夫 人がノルウェー人で,スペイン領事の夫人もノルウェーの出 身ということもあり良好な関係にあったので,マイヤーホッフ 夫妻のためにビザを取得することを決意した.しかし,マイ ヤーホッフは,スペイン領事に「私はドイツ市民ではなくて,

無国籍者だ」と宣言することをたいへん嫌がった.ロッシュ は何度も「今は緊急事態で,そんな呑気なことを言っている ときではない」と言ってマイヤーホッフを説得したという.結 果的に1カ月間有効のビザを取得できたので,ロッシュはそれ を次の依頼書とともにマイヤーホッフに渡した.「マイヤー ホッフ教授は,バニュルス・シュラ・メールにある海洋生物 研究所で研究をしなければならない.ここは,スペイン国境 に近く,バルセロナへの道路上にあるから,マイヤーホッフ 夫妻が到着したら,研究所長の援助と,彼らをピレネー山脈 を越えてスペインへ連れて行ける男の援助をお願いしたい」. こうして,マイヤーホッフ夫妻は国境の町バニュルスに 向かったが,20日かそれ以上経ってから,こともあろうに マルセイユに戻ってきた.マイヤーホッフは,真面目という かナイーブな人で,スペインとの国境まで行ったが「ギャン グか盗賊のような形でフランスを出国したくない」というこ とで,もたもたしている間にビザの有効期限を切らしてし まった.そこで,もう一度フランコ政権から,1カ月以上有 効なビザを取って欲しいとロッシュに頼んできたのだった.

ロッシュはマイヤーホッフ夫妻に直ちにバニュルスへ引き返 して,一刻も早く国境を越えるように言った.なぜなら,ス ペイン領事もこのような危険なことを二度と引き受けること はないだろうと考えたからだった.誰もがユダヤ人の味方を

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して身を危険にさらすことを嫌がっていた.マイヤーホッフ 夫人は夫にロッシュの提案を受け入れることを決心させて,

二人はバニュルスへ戻って行った.

ロッシュは,筆者への手紙の中で次のように言っている

「この偉大な科学者の常識のなさは信じられないほどで,ド イツの占領下に置かれているわれわれに多大のトラブルを引 き起こした」.というのは,マイヤーホッフは,フランス脱 出後,ポルトガルからロッシュにお礼の電報を打ってきた

「Well arrived in Portugal. Will leave soon. Meyerhof」.こ の電報がフランス警察の手に渡ったため,ロッシュは警察の 尋問を受ける羽目になった.ある日,その電報をもった検察 官がロッシュの研究室へ訪ねてきた.検察官はロッシュに

「私は警察から来た検察官です.あなたは,マイヤーホッフ 教授を知っていますか」と聞いてきた.ロッシュは,「もち ろん.世界的に有名な生化学者だから知っている」と答えた という.「あなたは,リスボンからのこの人物の電報を受け 取りましたね.彼はフランスから出国する権利をもっていな いことをご存知でしたか?」.もちろん,「NO」とロッシュ は答えた.ただし,この検察官もなかなか味のある人物で,

「それが,私がほかの人々に断言したいすべてです」と言っ て,それ以上の事情は追及せずに去って行ったという.

マイヤーホッフは,たいへん真面目で律儀な人で,アメ リカへ渡ってからも,2カ月に一度,現状報告の手紙を送っ てきて,ロッシュをたいへん困らせたという.マイヤーホッ フは彼自身のことのみならず,ソ連でパルナスが活動してい ることも書いてきた.この手紙は,警察で開封されたが読ま れずに届けられた.戦時中はこんなことがよくあったとい う.ただ,この手紙の中で,マイヤーホッフが,パルナスと 連絡があることを語っている点が筆者には興味深かった.パ ルナスはポーランドの生化学者で,解糖系代謝経路が エム デン・マイヤーホッフ・パルナス経路 とも呼ばれるとき の,ヤクプ・カルロ・パルナスである.

筆者が,ロッシュからもらったこの手紙を,マイヤー ホッフの息子ウオーターに見せたところ,彼は次のように 言った.「このロッシュの手紙は,父親(マイヤーホッフ)

のマイナス面を示しているが,最も興味深いものである.私 は父の旅行記録を調べて,フランスの出国ビザは,1940年 の8月12日にマルセイユで発行されていて,有効期日は30 日になっている.ところが,父の日記から両親がフランスを 去ったのは,1940年10月4日になっている.彼らは,バリ アン・フライ組織の誰か(実は,レオン・ボールという男)

の案内で,国境まで案内されたとなっている.しかし,スペ インの国境警察は彼らが国境を越えることを望まなかった.

ところが全くの偶然から,アメリカ領事の,ジョン・ハーレ イが居合わせて,彼らにマイヤーホッフ夫妻をスペイン国境 を通過させるように強要した.お陰で,彼らは国境を通過す ることができたが,ビザの期限が切れていたので,国境警察 は彼らの旅行記録に入国スタンプを押さなかった.両親がビ ザを期限切れにしてしまったのは,彼らがマルセイユまで 戻って来たために起こったことだったのだ」と.

以上がマイヤーホッフ夫妻のピレネー山脈越えの真相で ある.ただ不思議なことにウオーターはロッシュのことは全 く覚えていないという.若かった(当時18歳)ためなのか,

フロイトのいうように,「人間は不幸な出来事は思い出した くないので,忘れてしまうようになる」のか筆者にはわから ない.実際,ウオーターは自伝の中で,「フランスでのこと はすべて忘れてしまいたい」と述べている.

何故,マイヤーホッフが地中海の小さな港町バニュルスに滞 在したのかが,筆者の長年の謎だった.その疑問を解くため に,筆者は2013年3月バニュルスの海洋生物研究所を訪問し た.案内をしてくれた,イーブス・デスデーヴィセス博士の部 屋から,美しいピレネー山脈が一望できた.彼は,研究所の歴 史から現在どんな研究が進行中かを説明してくれた.彼の説明 の中で,アンドレ・ルヴォフが若いときにこの研究所にいたこ とが明らかになった.彼はマイヤーホッフの弟子でノーベル賞 を受けた一人である.これでマイヤーホッフが,バニュルスの 海洋生物研究所に滞在した理由(筆者の疑問)が少し解けた.

戦争への思い:クーンとの確執

ドイツでは,20世紀の終わりになって,関係者が死に絶 えるまで,ナチスに協力した者とナチスに抵抗した者との確 執があった.特にマイヤーホッフの後任でカイザー・ヴィル ヘルム研究所(KWI)の所長だったリチャード・クーン

(1938年ノーベル賞)がナチスの協力者だったのではないか と言われる.クーンは戦後日本に来て,京都でも講演したの で,筆者も聴きに行った.たいへん大柄かつ恰幅のいい人物 で,ドイツ訛りの英語を喋った印象がある.友人として世話 をされた武居三吉先生(京大名誉教授)の話では,講演に先 立ちウイスキーを1瓶空けたということで,みんな吃驚,感 心した.マイヤーホッフのことを調べていくなかで,クーン がナチスの協力者だったという話が出てきたので,クーンの 弟子で,マイヤーホッフの研究室にいた,カール・マイヤー にそのことを聞いた.彼の話では,クーンがナチスの協力者 と言われるのは,彼がKWI所長としてドイツ化学協会で講 演したとき,ヒトラーを礼賛したためで,その講演内容がベ リヒテ( )に掲載されたからだろうとい うことだった.両研究室で助手をしていたシュルツの話で は,クーンはナチ党員ではなかったという.マイヤーの考え では,クーンは党員になるほど馬鹿ではなかったし,当時の 多くのドイツ人と同様に,日和見主義者だったのではないか ということである.そういえば,音楽家のカラヤンなども少 なくとも三度はナチスに入党している.

ここに,1945年11月1日付けのマイヤーホッフからクーン に宛てた返事の手紙がある.それによると「ナチの恐怖支配 の終焉後にハイデルベルグに戻る事ができるように,私の研 究グループを維持し,以前の研究所のポストを空けておいて くださった事に,私は深く感謝しております.このような感 謝の念を抱きつつも,それだけで済ます事はできません.私

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は,以前の職場と全財産を失い,また一時的ではありました が生命の危機に瀕しました.(中略)私は地位と職場を維持す るために妥協したからといって誰かを非難したりはしません.

しかし,貴方はそれをはるかに超えてしまっていました.私 は,連合国の仲間があなたに対して下した非難,『筆舌に尽く しがたい忌まわしさと邪悪さを十分に承知していた政権の中 で,尊敬に値する科学的能力と化学的に熟練された技術を,

あなた自身の自由意思で使用した』という非難を否定する事 はできません.(以下略)」(水上浩子訳)と,はっきりとクー ンの戦争中の行動を非難する彼の気持ちを表明している.

マイヤーホッフの晩年:心臓発作

1944年6月末にマイヤーホッフは,ウッズホールにある海洋 生物学研究所(米国マサチューセッツ州)に滞在中,テニス の後で心臓発作を起こした.幸い,彼の親しいニューヨーク の医師(グレヴィッチ)がいて,発作を鎮める注射をして,近 くの病院に入院させた.しかしマイヤーホッフは,手足を動か すことができず,ただ目をパチクリさせるだけだったという.

筆者は,1978年にニューヨークでこの医師夫人(マリン カ)に会ってそのときの様子を聞くことができた.彼女は ウッズホールのレストランの床に懐中時計(腕時計ではな い)が落ちているのを見つけた.それはいつもマイヤーホッ フがもっているものだったので,彼の部屋に届けたところ,

彼は一人で胸を押さえて苦しんでいた.しかし,彼はあくま で冷静で静かだった.叫んだり,大げさな様子は見せなかっ たという.彼女の夫が,応急手当をして,近くの病院に入院

させた.マイヤーホッフ夫人は健康が優れずウッズホールに 来られなかったので,マイヤーホッフの娘ベチナとナハマン ゾーン夫人とマリンカの三人でマイヤーホッフの面倒を見た という.2〜3カ月後にマイヤーホッフは,友人の医師が治療 を続けやすいようにニューヨークのシナイ病院に移された.

病院ではマリンカがマイヤーホッフの看病をして,毎日3〜4 時間いろいろな本を読んであげたという.それはリルケの詩 集とか,アルダス・ハクスリやトーマス・ウルフの本だった という.その後もマイヤーホッフは小さな心臓発作を何度か 起こし,結局10カ月以上病院を出ることができなかった.

マイヤーホッフ夫人もニューヨークに泊まるところを見つけ て毎日介抱したが,最後にフィラデルフィアの自宅に帰った ときは,マイヤーホッフはたいへん,老けて見えたという.

マイヤーホッフは退院後も仕事を続け,1951年10月6日 に二度目の心臓発作で亡くなった.それは,就眠中に起こ り,彼はそのまま帰らぬ人となった.苦しみは全くなく,67 年の生涯だった.本稿を執筆するにあたって文献にあげてい る資料を参照した(1〜8)

付記:本論文の内容に加筆したもの(英文)は,ドイツ,ベルリン

(ダーレム)にあるマックスプランク研究所(旧カイザーヴィルヘルム 研究所)の公文書保管館に永久保存されることになっている.

文献

  1)  W. Meyerhof: “In the Shadow of Love, Stories From My  Life,” Fithian Press, Canada, 2002.

  2)  D.  Nachmansohn: “German-Jewish  Pioneers  in  Science,  1900‒1933,”  Springer-Verlag,  Berlin‒Heidelberg‒New  York, 1979.

  3)  H.  Krebs: “OTTO  WARBURG,”  Wissenschaftliche  Ver- lagsgesellschaft mbH, Stuttgart, 1979.

  4)  A. D. Beyerchen: “Scientists under Hitler,” Yale University  Press, 1977.

  5)  丸山工作: 生命現象を探る ,中央公論社,1972.

  6)  丸山工作: 生化学の黄金時代 ,岩波書店,1990.

  7)  丸山工作: 生化学の夜明け ,中公新書,1993.

  8)  その他(関係者の書簡類多数).

プロフィル

木 村  光(Akira KIMURA)

<略歴>1959年京都大学農学部農芸化学科(発酵化学)卒業/同 年塩野義製薬研究所/1969年京都大学農学部食品工学科講師,助 教授/1977年京都大学食糧科学研究所教授/1984年〜現在まで,

国際誌( .)編集委員/1995年NHK

(人間大学)講師/同年米国微生物科学アカデミー特別会員/1999 年米国工業微生物学会チャールス・トム賞受賞/同年紫綬褒章受 章/2000年京都大学名誉教授/同年グリーンバイオ代表,協和発 酵キリン(公財法)加藤記念バイオ財団名誉理事,武田薬品(公 財法)発酵研究所理事/2011年叙勲(瑞宝中綬章),現在に至る

<研究テーマと抱負>抗生物質/リポアミノ酸/酵母の解糖系を 利用した核酸系有用物質の生産研究/酵母の「解糖系メチルグリ オキサール経路」の命名と生理機能の解明/酵母の遺伝子導入法 の開発(論文の被引用回数が,6,777回(2015年9月25日現在)に なった)<趣味>旅行(国内外),読書,スポーツ(ゴルフほか)

Copyright © 2015 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.53.792 写真1生化学界の先駆者たち

第二次大戦後(1949年夏)に,戦乱のヨーロッパで活躍していた 当時の仲間たちが米国マサチューセッツ州のウッズホール海洋生 物学研究所に集まって撮った写真が残されている.左から右へ.

コーレイ(S. Corey),ナハマンゾーン(D. Nachmansohn, 自らマ イヤーホッフの息子を名乗る),バーク(D. Burk),セント=ジェ ルジ(A. Szent-Györgyi, ビタミンC, Pの発見で,1937年ノーベル 賞),ワールブルグ(O. Warburg,  呼吸酵素で,1931年ノーベル 賞),マイヤーホッフ(O. Meyerhof,  筋肉の乳酸学説で,1922年 ノーベル賞),ノイベルグ(C. Neuberg, メチルグリオキサール説 その他で発酵化学に大貢献),ウォルド(G. Wald, マイヤーホッフ の弟子で,目のビタミンAの研究で,1967年ノーベル賞).この 写真は,筆者が1978年8月29日にカナダのハリファックスに住む ゴットフリード・マイヤーホッフ博士(オットー・マイヤーホッ フの長男)を訪ねた際にいただいた写真の中の1枚である.   

Referensi

Dokumen terkait

1、はじめに このたび、社会学部付属研究所との関わりに ついて述べる機会が与えられたことに大変感謝 している。 1965年の4月に、大学院生として研究所に足 を踏み入れてから現在までの45年間に、断続的 にではあるが研究所との関わりに恵まれた。 私は、この研究所がソーシャルワーカーとし ての自分を産み、育ててくれた大切な場であっ

はじめに 行動学の創始者の一人であるNiko Tinbergenは,生 物学の問題に答えるには主に4つの問題設定のやり方が あることを強調した.今ではTinbergenの「4つのな ぜ」としてよく知られている.それは「生物の行動はど のような仕組みで誘発されるか」,「その行動は発育のど の段階で誘発されるか」,「その行動は,その生物にとっ