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■特集: 「戦後 70 年と世界文学」
〈ドイツの罪〉と戦後 - ギュンター・グラス作品に見る〈反戦〉
杵 渕 博 樹
ナチズムを含め、ファシズムは、国民を総動員して侵略戦争を遂行する体制、逆に言えばすべ てを戦争に依存する体制を志向する。そのような体制を支える権威主義的国民を学校教育は量 産する。情報は統制され、マスコミを通じて国民の世界観はコントロールされる。ギュンター・グラ スもまた、そんな社会で育ち、志願して従軍する。その意味で、戦争こそが、戦争依存社会こそが、
グラスの原体験だ。敗戦を経て、敗戦直後の惨状を生き抜き、急速な復興を目の当たりにし、や がて作家となった彼は、一貫して批判的にその原点と対峙してきた。以下、本稿では、戦後ドイツ を代表する作家グラスが、作品をとおしていかに「戦争」と向き合ってきたかを概観し、最後に、こ のテーマが彼のポエーティクにおいて示す特性について考察する。
1. 作家グラス誕生まで
グラスは 1927 年に現在のグダニスク、当時の自由都市ダンツィヒに生まれた。そこはポーランド 人、ドイツ人に加え、スラブ系少数民族のカシューブ人という主に三つの民族グループが混在する 町であった。グラス自身も父方がドイツ系、母方がカシューブ系である。ナチ支配下の学校教育を 経て、典型的軍国少年となったグラスは 17 歳で志願して前線で負傷、捕虜となって終戦を迎える。
捕虜収容所から出たあとも、家族の消息はなかなかつかめず、彼はカリウム鉱山に職を得る。こ の鉱山労働者時代に、彼は同時代について、政治と社会について学ぶことになる。というのも、鉱 山は政治闘争の最前線でもあったからだ。労働者たちは、ナチ信奉者、共産主義者、社会民主主 義者の三つのグループに分かれていた。若いグラスを気遣い、何かと面倒をみてくれた先輩労働 者は筋金入りの共産主義者だったが、結局グラスが傾倒していったのは社会民主主義であった。
一度理想に裏切られ、傷ついた者として、共産主義の理想主義的傾向を警戒せずにはいられな かったのである。その後グラスはデュッセルドルフの美大で彫刻を学ぶが、そこで師事した表現主 義者オットー・パンコクは、民主主義的・平和主義的思想の持ち主で、彼もまたグラスに強い影響 を与えた。
念願かなっての芸術三昧に、週末ともなれば酒を飲み、ダンスに明け暮れ、ジャズクラブに仲 間と出演、休暇中にはイタリア・フランスにヒッチハイクで乗り込み、美術館めぐり、という具合に、
デュッセルドルフはまさにグラスの青春の舞台となったが、復興景気に沸くこの町のともすれば浮 ついた雰囲気に流されることを恐れ、1953 年、彼はベルリンに移る。当時、グラスはすでに彫刻家
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修行と並行して詩を書きためていた。1955 年、妻と妹が勝手に応募した作品が、南ドイツ放送の コンテストで入賞し、これをきっかけに、当時新人作家の登竜門であった四七年グループに初めて 招待され、チャンスをつかむ。同年、彫刻と絵画の個展も実現し、翌年には、詩集『風見鶏の長所』
(1956)が発行され、グラスはパリに移住する。当初よりこのパリ滞在の目的は長編小説の執筆で あった。その成果が出世作『ブリキの太鼓』である。1959 年に発表されるや、この作品はグラスを 世界的著名作家へと押し上げた。
2.ダンツィヒ三部作と〈ドイツの罪〉
『ブリキの太鼓』に続けて、グラスは、1961 年に『猫とネズミ』、1963 年に『犬の年』を発表する。
いわゆるダンツィヒ三部作である。『ブリキの太鼓』と『犬の年』が長編小説(ロマーン)であるのに 対し、『猫とネズミ』はドイツ語圏でノヴェレと称される比較的小規模な作品だが、1967 年にはすで に映画化されている。ちなみに『ブリキの太鼓』の映画化は 1978 年である。
『ブリキの太鼓』は、大人なみの知性を伴って誕生し、三歳で肉体の成長を止めた主人公オスカ ルが、ナチス台頭、敗戦、戦後の復興に至るダンツィヒおよびデュッセルドルフの小市民たちの 30 年間を、下からの視点で、すなわち、舞台裏をのぞく視点、おのずから欺瞞を暴く視点で語るとい う趣向の作品である。本作の物語世界を支えるのは、語り手をかねるオスカルの露悪的挑発に満 ちた饒舌であるが、さらに注目すべきは、このアンチ・ヒーロー的キャラクターにおいて、罪の意識 が重要な役割を果たしていることである。オスカルはただの告発者でもなければ、市民社会の基 準の外部にあるトリックスターでもない。彼は、叔父の死、母の死、父親の死など、いくつかの重要 な事件において、意図的にではなかったにせよ、結果的に、事件の責任の一端を担うべき位置を 占める。そして過去を想起し、物語っている現在にあって、怯えている。彼を脅かすもの、それは 身近な者たちを死に追いやった共犯者としての罪なのである。
『猫とネズミ』はもっぱら戦時中のダンツィヒのみを舞台にする高校生たちの青春群像を描くが、
ここでも語り手の動機は、親友の失踪(あるいは死)に関する罪の意識である。犠牲となる少年を 追い詰めたのは、明らかに、時代であり、大人たちであり、ナチズムであるが、そのそばにいて、
すべてを見ていた語り手は、裏切りの暗示によって、ここでもまた共犯者性を身に帯び、罪の意識 に苦しむ。
三作目の『犬の年』は、幼馴染のユダヤ人とドイツ人、二人の主人公を擁し、この二人を含む三 人の語り手が交代で語る三部構成で、先行する二作品以上にホロコーストを含むナチの対ユダヤ 政策の問題がモチーフとしての存在感を増しており、また、ナチズムに翻弄された若者の世代を 代表する主人公のひとりヴァルター・マテルンが、戦後の欺瞞との対決をより直接的に演じている。
その復讐行脚に付き従うシェパードが、元ヒトラーの愛犬、という設定である。主人公たちの身近 で育てられていた子犬がヒトラーに献上されるという設定によって、本作は、庶民とヒトラーとを象
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故郷を舞台とするこの三部作で、グラスは作家としての名声を確立する。懐かしい失われた故 郷の情景が罪にまみれていることを、彼は見逃すことができなかった。そこで育ち、それを懐かし む彼自身にも、その罪はずっと付いてまわる。一人称の語り手が罪の意識を動機として語るという 物語構造は、この事情を反映し、その自覚に対応するものといえる。
3.政治の季節
1959 年にグラスはパリからベルリンに戻り、1961 年の選挙で社会民主党と首相候補ヴィリー・ブ ラントを応援する。その後、1960 年代を通してグラスは積極的に政治参加し、1969 年の社民党政 権実現に貢献することになる。選挙宣伝用のポスターを描き、各地に選挙応援組織を作り、全国 を講演行脚しながら対話集会に参加するなど、彼の精力的な活動は(無党派ならぬ)「党派的」自 主的市民運動として独特のスタイルを打ち出していた。ただし、当然ながら、当時の学生運動に代 表される 1968 年世代の「議会外反対派」からは、反発され、嘲笑を浴びる。それは、ベトナム戦争 を背景とした、〈戦争を知る世代〉と〈知らない世代〉、〈ナチズムを体験した世代〉と〈体験していな い世代〉との断絶でもあった。
この時期、作家としての活動はやや停滞する。小説作品の発表は 1969 年まで待たねばならな かった。前述のとおり、グラスの政治的立場は、当時の時代状況を象徴するより若い世代のそれ とは相容れないものであったが、新作『局部麻酔をかけられて』は、まさにこの世代間コミュニケー ションの困難、世代をまたぐ体験伝達の困難を巡る物語であった。語り手兼主人公は西ベルリン の高校歴史教師で、噛み合わせを直すため、歯医者に通っているが、ある日、その教え子が、米 軍によるベトナム空爆に抗議するために、ベルリンの目抜き通りで自分の飼い犬を焼き殺すデモ を計画していることを知り、これを断念させるべく奮闘する。他方、この語り手は婚約者に裏切られ たことによるトラウマを抱えている。その婚約者の父親は元将軍で今も砂箱で作戦を反芻し続け る、いわば過去に閉じこもった人物である。この設定は、世代間対立のモデルを提示しつつ、ナチ 的軍国主義体制とグラスとの葛藤を暗示する。また、語り手と親密になる同僚女性教師は、17 才 当時ナチに協力した過去に悩みながら、生徒の犠牲的行為によって自分の罪が贖われることを 期待しており、作者グラスの警戒する安易な理想主義の症例となっている。だが、本作の核心に あるのは、〈遠い痛み〉をどうしたら共有できるか、戦争体験はどうしたら伝えられるか、という問題 である。ベトナムでは毎日人間が焼き殺されている。抗議する僧侶たちは焼身自殺している。ベル リン市民はテレビで毎日それを見ている。なのにその痛みを共有できない。だから平然としていら れる。そんな人々にショックを与えるために犬を焼く、というのが生徒の論理であった。他方、教師 の立場は、ベトナムの〈遠い痛み〉を感じることはできないが、感じようと努力している、というもの であった。これは戦争体験をとおして〈近い痛み〉を知る者の感覚である。そもそも〈痛み〉の経験
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のない彼の生徒は、〈遠い痛み〉を感じているつもりになっているだけなのだ。生徒のデモについ ては、その意図が理解されることなく、ただの野蛮な暴力行為とされ、生徒の身が危険にさらされ ることを教師は懸念している。しかし彼には、デモを断念させるだけの明快な論理を提示すること ができない。結局、生徒の説得に成功するのは歯科医なのだが、この男は、麻酔による痛みの除 去の有効性を一般化し、世界の諸問題を解決するのは政治ではなく技術の進歩である、と主張す るような、テクノロジー信仰あるいは科学技術万能主義を代表する人物である。
この作品は、グラスが初めて〈執筆する現在の自分にとっての同時代〉を描いた作品であった。
また、その後のグラス作品で繰り返し取り上げられる、モチーフあるいは思想的枠組としての教育 と啓蒙、メディア論的問題意識、そしてテクノロジー批判が見られる点も重要である。グラスはここ で、当時普及したばかりのマスメディア、テレビに注目し、日常生活におけるリアリティの変質を描 くべく試み、歴史教師と歯科医との寓意的対決をとおして、迫り来るテクノクラシーに警鐘を鳴らし ている。
これらのテーマを引継ぐ次作『カタツムリの日記から』(1972)では、作家グラス自身が語り手とな り、父親として子どもたちの質問に答えるという枠組で、西ドイツ全土を遊説して回った 1969 年の 選挙運動の記録を中心に、日々の雑感と、戦時中、隠れて生き延びたひとりのユダヤ人と彼をか くまった男のエピソードとが入り混じって語られる。このユダヤ人の物語には、この間イスラエルを 訪問したグラスの取材が活かされている。この構図はグラス自身の講演、「父がアウシュヴィッツ を子どもに語ることの困難」(1970)を想起させる。日常生活の中のどのような場面で、どのようなき っかけで、あの重い過去を語ったらよいのか、数字や決まり文句で片付けてしまうことを、どうやっ たら避けられるのか。『カタツムリの日記から』は、この困難な課題と取り組むためのひとつの提案 を体現している。すなわち、ホロコーストという負の遺産を風化させないために、語り伝える主体と しての大人自身が、今、何をしているのか、を子どもに説明すること、そしてまた、大規模な悲惨を 数字でとらえるだけではなく、また、避けがたく起こった事実として伝えるだけではなく、それに対 抗しうる希望を、その実践の困難と合わせて語ることだ。
また、グラス作品全体の中での本作の位置を考える上で特に重要なのは、「駆けぬける馬」とし てのヘーゲルの世界精神に対置される、カタツムリの速さでの進歩の提唱である。一見静止して いるかのような状態での進歩。飛躍しない、飛び越さない、地に足のついた前進。善意であったに せよ、遠い未来のユートピアを信じたからにせよ、強引なやり方によって多くの血が流れることを 避けるためだ。
作品外での政治参加は、間違いなくグラスの思想を鍛え、彼に同時代との格闘のリアリティをも たらした。これを踏まえ、彼は作品内でも現在進行形の同時代を描いた。これは、〈執筆している 今〉に至るまでの過去を総括する自伝的記念碑でもあったダンツィヒ三部作を乗り越え、今を生き、
今を描き続ける作家としてのグラスの新たな出発であったといえるだろう。
5 4.反史を語る
その後グラスは北ドイツエルベ河畔の田舎に家とアトリエを構え、版画や素描、彫刻など造形作 品の制作に力を注ぎつつ小説作品の準備を進め、前作発表から 5 年後の 1977 年、長編『ひらめ』
を発表し、絶賛を浴びる。メルヒェンで知られる魔法のヒラメは、実は石器時代以来、男たちに繰り 返し入れ知恵してきた黒幕であった。その結果、まずは母権制社会が父権制社会へと移行し、そ の後の男性支配の歴史が今日まで続いたが、ついにこのヒラメがフェミニストたちに捕らえられ、
今やこれまでに積み重ねられた罪状をもって女性法廷にて裁かれている、という設定である。作 品中、グラス本人を思わせる語り手の妻は妊娠しており、その出産にいたる九ヶ月がそれぞれ一 章を構成し、歴史の進行に従って、その都度、料理する女とこれに係わる男の物語が展開される が、語り手はいわば輪廻転生を繰り返しながらすべての記憶を保持している。そこに前述の裁判 の進行が重なる。時間的スケールも壮大だが、物語のディテイルがまた圧倒的な物質的迫力を 伴っているのが本作の特徴である。ただし、地理的舞台は基本的にダンツィヒあるいはグダニスク に相当する地域であり、グラス作品に典型的な土着性を示している。
本作の基本構図は、〈男の世界〉としての政治へのグラス自身の幻滅を推測させる。戦争に次ぐ 戦争、暴力的弾圧に暴力的蜂起、これを男たちが主導する間、女たちは(場合によっては殴られ ながら、犯されながら)料理を作り続け、命をつなぎ続けた。ことの本質を男性支配であると喝破 すると同時に、グラスは、若い男の本音として、何よりも性的関心の対象として女性に執着してし まう自分の姿を、どうしようもなく情けないものとしてまずはさらけ出し、この生々しい実感を起点に 歴史全体を語りなおそうとしたのである。
『ひらめ』の 2 年後、1979 年にグラスは『テルクテでの会合』を発表する。これは、グラスの恩人、
四七年グループの主催者ハンス・ヴェルナー・リヒターの 70 歳の誕生日を記念して書かれたもの で、三十年戦争を背景に平和を訴えるバロック詩人たちの姿に四七年グループの軌跡を重ねる 作品である。本作もまた絶賛されたが、特にバロック文学の専門家からの好評が目を引いた。遠 い時代の文学を読み込んで、そのスタイルを自分のものにしてしまうグラスの力量が証明された ことになるが、その前提は彼のドイツ語・ドイツ文学に対する愛だ。啓蒙と反戦と文学と〈ドイツ愛〉、
本作はその結晶である。
冒頭の一節、「昨日にはあるだろう、明日あったことが。われわれの今日の物語は、今起こる必 要があるわけではない」は文学論的テーゼであり、本作の方法論的モットーである。『ひらめ』で試 みられた、もうひとつの歴史、いわば正史に対する反史の追究が、ここではさらに、単なる過去、
単なる現在、単なる未来を超えた次元で継続されているのである。
5.滅びかけた人類の一員として
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『頭脳出産、あるいはドイツ人絶滅す』(1980)の背景には、1979 年のアジア歴訪がある。作品は、
実現しなかった映画構想の変奏を軸として、エッセイ風に展開される。問題の映画は、教員夫妻 がアジアを旅しながら子どもを作るべきかどうか悩み続けるも結論は出ない、という筋書きともい えない筋書きで、この主人公夫妻の葛藤に、西ドイツの少子化とアジアの人口爆発、転じて南北 問題一般、環境問題、原発建設反対運動などに関する諸事情が絡み、そこにグラスの肉声がコメ ントを差し挟む。
先に述べたとおり、グラスは『ひらめ』で作品世界の時間的枠組を大幅に広げた。ドイツの罪に こだわり、失われた故郷ダンツィヒにこだわってきたグラスが、ここではさらに作品世界の空間的 枠組を地球規模に拡大している。そして、『ひらめ』と『テルクテ』で意識化された過去と現在の重 ね合わせは、『頭脳出産』で「第四の時制、過現来(Vergegenkunft)」としてあらためて概念化され た。そこでは「混沌だけが秩序をもたらす」という。未確定のことがら、今まさに生起しつつあること がらの変奏は、この「第四の時制」の次元における現実なのである。『頭脳出産』におけるこのよう な試みは、『女ねずみ』(1986)でも継続される。
『女ねずみ』の語り手は、『ひらめ』や『頭脳出産』同様、グラス自身をモデルとした一人称である。
物語冒頭、語り手は、レッシングに倣った「人類の教育」をテーマにした詩を書こうとしており、その ための契機として、クリスマスにネズミを所望するのだが、そのネズミが、語り手の夢の中に現れ、
人類の滅亡についての講義を始める。有史以来人間のそばにいたネズミなればこそ、そして、愚 かな人間たちが核戦争で自滅したあとも生きのびたネズミたちであればこそ、その経緯のすべて を語ることができる。夢の中のネズミの主張が正しければ、人類は既に語り手ひとりを残して滅び ている。しかし、夢から覚めている間は、檻の中の(当然黙ったままの)ネズミを傍らに眺めつつ、
語り手は、まだ滅びていない人類の一員として生活している。ただし、夢の外側、つまりさしあたっ ての現実における、語り手の主な対話相手は、今や還暦を迎える『ブリキの太鼓』の主人公オスカ ル、すなわち、自作の登場人物である。ならば、こちらも夢なのか。
人類の滅亡という事態は、わかるようでいて、わからない事態である。たとえば、自分が最後の ひとりだということは、どうやって確かめたらいいのだろうか。あるいは、われわれが人類の滅亡を 恐れるとき、本当に恐れていることは何なのか。自分の今の生活が失われることだけ、身近なひ とたちとの別れだけなのだろうか。『女ねずみ』の語り手は、人類滅亡を映像で証明してみせるネ ズミに対して、物語を語り続けることで対抗する。この語り手の悪あがきが暗示するのは、物語が、
歴史が、メルヒェンが、多様に変奏されながら語られ続け、受けとめられ続ける情景である。この ことからは、それこそが、惜しまれるべき人類の姿、生き残るに値する人類の風景であるというメッ セージを読み取りうる。ネズミたちのように、自我も個性もない集団として、種として、ただ生き延び ればよいということではないのである。原子力とコンピュータ制御を利用した破壊的テクノロジーに よって、明らかに人類は自滅しうる。しかし、このようなテクノロジーによって規定された社会を本 質的に批判しうる論理は、単に種としての人類が生き残れるかどうか、自滅せずに済むかどうか
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という問題設定からは導き出せない。そのためには、人間的に生きるとはどういうことかという問 が、人間的な生の積極的イメージが不可欠なのである。
6.再統一を越えて
『女ねずみ』は不評だったが、作品の構図自体があまりに悲観的な調子を持っていたこともその 要因のひとつだろう。もはや「カタツムリの歩み」での進歩をモットーとする啓蒙では間に合わない、
というグラス自身の焦り、あるいは挫折感が漂っていたことは確かだ。『女ねずみ』発表後のグラ スはインドへ旅立ち、その後しばらくは小説を発表することなく、もっぱら絵画とテクストを組み合 わせた、しかもどちらかというと絵のほうを中心とした作品が続く。インド滞在の成果『舌見せ』
(1988)と、ドイツの森林枯死を描いた『死んだ森』(1990)である。ともに絵とテクストを組み合わせた 構成、墨と木炭による単色の激しい筆致を特徴とする。グラスは、地球規模の問題意識を前提と して、南の貧困と、北の環境破壊を、それぞれの現場に赴き、そこでの体験のままに表現しようと したのである。それは『女ねずみ』が提起した、生き残るべき人類の姿を巡る議論の文脈に連なる 作業でもあったといえるだろう。
1989 年のベルリンの壁崩壊を経て、翌年のいわゆる「再統一」を前に、グラスは拙速な統一国 家形成に反対する。曰く、侵略戦争も、ホロコーストも、ドイツ全体が担うべき罪だったにも係わら ず、戦後西ドイツが、豊かなアメリカの金で復興し、市民はその経済的繁栄を享受できたのに対し、
東ドイツは、貧しく傷ついたソ連にすべてを奪われ、市民はソ連に対する贖いのすべてを担ってき た。これは不公平である。1990 年の段階で、東ドイツが、西ドイツに対し、貧しく弱いとすれば、そ れは、東ドイツ市民の責任ではない。まずは戦後の両国の負担調整、すなわち、西ドイツから東ド イツへの本来の負債の返済を行うべきだ。統一を云々するなら当事者たる両国が対等に話し合え る環境が整ってからだ。〈ドイツの罪〉にこだわるグラス一流の論理であった。
実際、東ドイツのいわゆる民主化運動を担ったひとびとにしても、社会主義体制の修正を求め ていたのであって、社会主義を全否定していたわけではなく、西ドイツへの吸収合併を求めていた わけでもなかった。しかし、グラスのような主張は少数派にとどまる。その後、グラスが最初に発表 した作品が、『鈴蛙の鳴き声』(1992)である。
本作は第二次世界大戦で故郷を失った者たちによる国境を越えた墓地建設プロジェクトの物語 である。「壁の崩壊」によって東西ヨーロッパ間の往来が容易になったところで、長らく放置されて きた戦争の傷跡が浮かび上がる。グラスはこの主題を、死者たちの思いと生きる者たちの思惑の すれ違いを軸に展開し、経済至上主義の風潮、アジアに代表される非ヨーロッパとの共存の模索 を背景に、中東を爆撃するアメリカ軍の映像をリアルタイムで織り込みつつ、過去と未来と同時代 とを交錯させながら描き出した。
続く『はてしなき荒野』(1995)は、ドイツ再統一という歴史的事件へのグラスの回答として位置づ
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けられうる。ときは再統一から 5 年後、旧東ドイツ国有資産の叩き売りの真最中。主人公は、19 世紀末ベルリンの作家テオド-ア・フォンターネのベテラン研究者にしてその生まれ変わりフォン ティ。主人公フォンティに影のようにつきまとうのが、東ドイツの公安警察、いわゆるシュタージの エイジェントであるホーフタラーだが、この男もまた本家フォンターネをも監視していたという時代を 超えるスパイである。グラスに言わせれば、〈ドイツ〉はずっと警察国家であり、監視国家だったの であり、東ドイツの社会主義体制は別段例外ではないのである。このような構えは、旧東ドイツ体 制に同情的過ぎるという意味で、当時においては相当に挑発的なものであり、そのような批判もあ ったが、本作は読者には好評で大ベストセラーとなった。
1999 年、グラスは『私の一世紀』を発表し、ノーベル文学賞を受賞する。一年一話の百篇のエピ ソードでドイツの 20 世紀を回顧する趣向である。同じく第一次大戦に従軍した、戦争礼賛小説の エルンスト・ユンガーと反戦小説のエーリヒ・レマルクとの架空の対談を、60 年代を舞台に報告し てみたり、ゴットフリート・ベンとベルトルト・ブレヒトをクライストの墓前で鉢合わせさせたり、という 具合に、自由な想像を膨らませながら、本作は、公式の歴史に抗って、そこから抜け落ちてしまう もの、隠されてしまうものをこそ書く、という作家グラスの信条を、わかりやすい仕方で体現してい る。
7.幕を引く
最後の小説作品となった 2002 年発表の『蟹の横ばいで』は、グラスを思わせる老作家から仕事 を依頼されたと称する中年のジャーナリストを語り手とし、戦争被害者としてのドイツ人たちを描い た。あのグラスが、ドイツの加害者性について告発し続けてきた、あの頑固なグラスが、という本 人が迷惑がるような仕方で、この作品は発表当初から好評であった。確かにグラスは自分たちド イツ人の罪を告発し続けてきた。しかし、のちに自伝で詳述されるように、東部からの難民として 辛酸を舐めた両親や妹、親戚たちの経験を含め、グラスはドイツ人自身が戦争によって負った深 い傷についてもよく知っていたのである。従来、彼はあえてそれを前面に出さず、まさにそのような 戦争をもたらした加害者としてのドイツ人たち、自分たちの姿を批判的に描き、その隠蔽・歪曲・忘 却の動きと対決することに全力を注いできた。だからこそ、どうしても、もうひとつの事実について も書いておきたかったのである。ただし、本作はただそれだけの作品ではない。グラスは、自分の 世代、自分の子の世代、孫の世代の三世代を登場させ、戦争を生き延びた世代の欺瞞を背景に、
ネオナチの問題や、インターネット世代の若者たちの生態にも切り込んでおり、相変わらず、未来 を見据えて同時代と格闘する姿勢を示している。
初の自伝『玉ねぎの皮をむきながら』(2006)で、グラスは自分がナチの武装親衛隊に属していた ことを告白した。スキャンダルである。ナチス直属のこの組織は、戦闘部隊ではあるが、通常の国 防軍とは区別され、強制収容所はその管轄下にあった。そのため、戦後ドイツにおいては、一般
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に、この部隊の一員だったということは、もっとも悪質な仕方で残虐行為にかかわった者であるこ とを意味していた。こともあろうに、ナチズムの罪を風化させないための戦いにおいて常に先頭に 立ってきた、あのグラスが、まさかそんな経歴を持っていて、しかも、戦後五十年に渡ってそれを 隠していようとは、誰も予想していなかった。
ただし、この件を冷静に評価するためには、若干の補足が必要だろう。強制収容所の管理にあ たっていたのは、武装親衛隊の一部であり、そのような業務の詳細について、当時一般の市民に 広く知られていたわけでもなかった。グラスはかねてより、自分がナチズムを微塵も疑うことのな い軍国少年だったことを認めていた。そんな少年であれば、あえて〈エリート部隊〉としての武装親 衛隊に志願したとしても、不自然なことではない。そもそも、グラス個人は、前線に送られてまもな く負傷して病院に送られ、そこで敗戦を迎えている。彼の戦争体験は、武装親衛隊にまつわる凶 悪なイメージからはかけ離れたものだ。しかも、彼は彼自身の加害者性を埋め合わせて余りある だけの仕事を積み重ねてきた。ユダヤ人団体や、ポーランドの関係者など、各方面からグラスを 擁護する声もあがり、やがてバッシングもおさまった。
その後『箱型カメラ』(2008)と『グリムの言葉』(2010)で自伝三部作を完結させたグラスは、最晩年 を飾る二冊の詩画集『蜻蛉』(2012)と『限りあるものについて』(2015)を遺し、87 歳で他界した。
8.共犯者性の自覚と〈反戦〉
グラスは戦場に赴いて傷つき、やがて歴史的事実と直面してナチズムの虚妄を知り、反省を欠 く戦後復興の欺瞞に憤った。彼の作家活動は、この〈ドイツの罪〉を巡る悲しみと憤りに貫かれて いる。彼の小説作品はすべて、戦争を重要なモチーフとしており、ナチズムを支えた小市民社会 から、ベトナム戦争を巡る葛藤、有史以来の暴力の連鎖、核戦争による人類自滅の危機まで、さ まざまな起点から、広義での〈反戦〉に連なるベクトルが示されているわけだが、その際、特徴的 なのは、それら〈反戦〉的基調を持つ物語が、常に共犯者性の自覚を伴う語り手によって紡ぎ出さ れていくことだ。また、彼の物語の核には常に自らの体験があった。五感で受け止められた身体 的リアリティを出発点にすえる態度は、具象派造形作家としての彼の流儀に通じるものであり、生 涯に渡って文学と美術の領域を往還しつつ仕事を続けた作家ならではの確信を伴っており、生身 の人間を基準にした〈反戦〉感覚に対応するものであるといえる。
2012 年 4 月、南ドイツ新聞に掲載された詩「言われねばならぬこと」で、グラスはイスラエルの 核疑惑と同国へのドイツの潜水艦輸出を批判し、最後のスキャンダルの渦中に立った。そこでも グラスはみずからの出自の「けして消すことのできない汚点」と「ドイツの犯罪」とに言及している。
だからといって、黙っているわけにはいかない、という文脈である。
訂正追記
本論文「〈ドイツの罪〉と戦後」には誤りがあるので、訂正いたします。
「3.政治の季節」の『カタツムリの日記から』に関する記述(4 頁)に、「戦時中、隠れて生き延びたひとりのユダ ヤ人と彼をかくまった男のエピソード」、また、「このユダヤ人の物語」とありますが、ここで「ユダヤ人」とされてい る登場人物、「疑念」 Zweifel ことヘルマン・オットは、正確には「ユダヤ人」ではありません。彼は「敬虔なメノー 派信者の家庭の出身」とされており、「ユダヤ人移民局」で働いたのち、「ユダヤ人学校」の教員となり、ナチス台 頭後も、ユダヤ人社会との関わりを避けることなくこの仕事を続け、多くのユダヤ人の出国を助けていたため、つ いに自身も再度の出頭命令を受けるに至り、身を隠すことを余儀無くされた人物です。ただし、このヘルマン・オ ットをかくまったカシューブ人の自転車修理店主アントン・シュトンマは、ヘルマン・オットをユダヤ人だと思ってい たことになっています。
2022年1月 杵渕博樹