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ファンタジーにおける〈母〉と 女性のセクシュアリティ

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Academic year: 2024

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研究ノート

ファンタジーにおける〈母〉と

 女性のセクシュアリティ

ポピュラー文化のジェンダー分析・3

高 橋 準

1 はじめに

 ファンタジーとは、現実の象徴秩序からこぼれ落ちる「空想的なもの」の存 在によって特徴づけられる、文学やその他の表現形式の中に横断的に存在する ジャンルである1。

 仮に「ハイ/ロー」というサブジャンル区分を採用すれば、ロー・ファンタ ジーにおいては、現実世界に「空想的なもの」がまぎれこむことによって象徴 秩序にゆらぎが引き起こされ、読者の心が揺さぶられる。他方、異世界を舞台 とするハイ・ファンタジーにおいては、物語における象徴秩序そのものが、現 実とは異なるもので置き換えられることになる。読者は現実世界には存在しな い地理や歴史を経験し、違う論理に身をゆだねながら、物語を経験する。

 「空想的なもの」は見知らぬもの、さらに時に不定形で、形容しがたいもの でもあり、それゆえに読み手に不安と興奮とをもたらす、という効果を持つ。

ロー・ファンタジーではそれが竜や、魔法のアイテムなどであったりする。ハ イ・ファンタジーでは、多くの場合、物語世界丸ごとである。

 もっともハイ・ファンタジーでも、物語世界の構成要素すべてが「空想的な

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もの」、つまり「現実的なもの」とは異なる論理で構成されているものである ことは、むしろまれである。多くの異世界物語でも昼間の空は青いし、馬は人 が乗用とする四つ足の動物である。しかしそのほかの部分で、現実には存在し ない動植物、地理、歴史、社会、文化、言語、人間関係などが物語の中に書き 込まれており、それらと現実との乖離の幅と質によって、「空想的なもの」と

しての力を発揮する。

 ファンタジー作品における「空想的なもの」は、象徴秩序にゆらぎを与える ことで、時にわたしたちが現実世界を見る際の、ものの見方に影響を及ぼすこ とがある。これはさまざまな形式のアートが、ものの見方を変える力を持つこ とと同じである。あるファンタジー作品におけるジェンダーやセクシュアリティ に関する「空想的なもの」  たとえば、性役割の配分のあり方、家族の形態 や内部構成原理、ヘテロセクシュアルやモノガミーに対して社会の中で与えら れている価値の異なるあり方、など  が、世界の見方をある方向へ変える力

を持つとき、マーリーン・S・バーにならって2、その作品を「フェミニスト・

ファビュレーション・ファンタジー」と呼ぶことができるだろう3。

 もっとも、ジェンダーやセクシュアリティに関する「空想的なもの」が存在 する作品のすべてが、「フェミニスト・ファビュレーション・ファンタジー」

として価値を持っているわけではない。また、一つの作品を構成している原理 は必ずしも一枚岩ではないため、一つの作品の中に方向性が異なる「空想的な もの」が共存している場合もある。むしろそうした多義性こそがポピュラー文 化の本質であるといえるかもしれない。だからまず必要なことは、個々の作品

の中に存在する「空想的なもの」を発見し、その働きに着目してみることであ るといえるだろう。

 本稿では、日本における本格ファンタジーの原点ともいえる、栗本薫の「グ イン・サーガ」シリーズを引き続きとりあげ4、主に正篇の中で〈母〉である

ことや女性のセクシュアリティにどのような価値が与えられているのかについ て検討us、ファンタジーにおけるジェンダー/セクシュアリティの位置づけ

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ファンタジーにおける〈母〉と女性のセクシュアリティ(高橋 準)

を考察してみることにしたい。

 「グイン・サーガ」は2009年9月現在で、正篇・外伝あわせて150冊が出版さ

れており、量的に他の追随を許さない長編作品である6。さらに、テレビアニ メーションやコミック、ゲーム(テーブルトークRPG)など、他メディアへ の展開も行われている。しかし、1979年のシリーズスタートより多くの読者を 魅了し続けてきたこの作品は、2009年5月に作者である栗本が亡くなったため

に、ついに未完の大作としてとどまることになった。本稿は、亡き作者の偉業 に捧げる、ささやかな追悼文でもある。

2 「グイン・サーガ」における〈母〉たち一空白、そして

奇妙な対比

 大長編である本作では、登場人物の数も多い。まず主要登場人物たちの親の 世代から確認していこう。

 物語を通じての主人公である戦士グインは、どこの生まれともわからぬ豹頭 の怪人であり、すべての記憶を失っているため、もちろん母親や父親の存在も 明らかではない。のちにゴーラ王になるヴァラキアのイシュトヴァーン、パロ の世継ぎの王女・王子であるリンダ、レムスといったあたりは、いずれも物語 開始以前に母親を失っている。準主役格の人物であるモンゴールの公女アムネ リス、パロの王子で吟遊詩人のマリウス(王子としての名前はアル・ディーン)、

アルゴスの黒太子スカール、ケイロニアの第一皇女オクタヴィア(剣士として の名はイリス)といったところも、母親をすでに亡くしている。クリスタル公 アルド・ナリスの母ラーナ大公妃だけは生存しているが、息子とのかかわりは きわめて希薄、あるいは敵対的ともいえる。

 ラーナのほか、作中で母親として登場するのは、第1巻でグインとかかわり をもったモンゴールの兵士オロの母親であるオリー(首都トーラスで夫のゴダ ロとともに酒場を営む)と、のちにグインの妻となるケイロニアの第二皇女シ ルヴィアの母・マライア皇后の二人。これ以外にいないわけではないが、ごく

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軽い扱いになっている。

 この中で目につくのは、アルド・ナリスとマリウスという異母兄弟とそれぞ れの母との関係である。アルド・ナリスは、そもそもが愛情をともなわない結 婚であったために、母のラーナからうとまれていた。マリウスは、世間一般ほ どには母(身分の低い、侍女上がりの女性)に大事にされていたようだが、彼 女は夫を愛するあまり、夫の死後にあとを追ったとされている。つまり、どち

らも「母の第一の愛情」を受けられなかったという点では同じだということな

のである。

 もう一組オリーとマライアは、一見対照的な描かれ方をしている。オリー は町の居酒屋の料理女で、善良な働き者。マライアは隣国クムの公女で現在は 皇后。義弟ダリウス大公と密通し、夫の殺害と国の乗っ取りを企み、主人公の グインとも対立する立場にある。いわば失敗することを予定された「悪女」で ある。しかし両者は、それぞれの社会的位置にふさわしくは描かれているが、

いずれも近代的な意味での母親としての感情を子どもたちに対して抱いている ように見える。(これに、第28巻『アルセイスの秘密』冒頭で登場する、農家 の母親を加えてもいいかもしれない7。)

 また、この作品は長大な物語であるため、登場人物の中には、時間の経過と ともに出産を経験する女性もいる。物語の中心世代には、比較的母親となる女 性が多いのである。その中で一番の年長者(ただし一番周辺的な人物)はアル ゴスのスタック王の妻・エマ女王であろう。世継ぎを生めず悩んでいた彼女も、

物語の途中で王子を生む。またアグラーヤ王国の姫でレムスの妻となったアル ミナも、パロをゆるがす存在になる男児アモンを出産する。アムネリスとその 侍女であるフロリーは、モンゴールの将軍からゴーラ王へのしあがるイシュト ヴァーンとの間に、それぞれ男児をもうけている。ケイロニアの二人の皇女の うち、オクタヴィアはマリウスとの間に娘マリニアを産む。また妹のシルヴィ アは、ケイロニア王となったグインの妻になるが、町の酒場での乱行ののち、

父親のわからない男児を産む。

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ファンタジーにおける〈母〉と女性のセクシュアリティ(高橋 準)

 ところで、上に挙げたような物語全体の中心世代の母親たち、あるいは生ま れた子どもの問には、ある対比が存在するように思われる。

 たとえば、アムネリスと彼女の侍女フロリー。アムネリスはモンゴール滅亡 後、クム大公タリオの愛妾として暮らしていたが、幽閉されていた水上宮をフ ロリーとともに脱出した後、イシュトヴァーンの功績でモンゴールを復興させ る。そののちアムネリスは正式な妻として、フロリーは一度きりの関係を持っ ただけの女性として、ともにイシュトヴァーンの子どもを産むことになる。と もに男の子である。しかし、アムネリスは過去を偽っていた夫イシュトヴァー ンの裏切りに絶望して、子どもに「悪魔神ドールの子」という意味の ドリア ン という名前をつけるよう命じて、出産直後に自害する。父親のイシュトヴァー ンはこの子にうまく対応できず、最初妊娠を知らされたときも気分を悪くして 嘔吐したりしていたが、出産後にドリアンをはじめて見たときにも、激しい拒 絶を示した。

 他方フロリーは、そば近く仕えていたイシュトヴァーンにいつしか思いを寄 せるようになっていたが、ある夜彼と性関係を持った後、宮廷から出奔する。

その後、妊娠に気づいた彼女は、自力で出産し、子を育てる。子どもには父と 同じ「イシュトヴァーン」という名前をつけていたが、普段は「スーティ」と いう愛称で呼んでいる。フロリーは物語の中盤で出奔し、正篇から一時姿を消 すが、かなり後になって再登場し、グインやマリウスと出会うことになる。そ の際にグインがスーティに与えた評価は、「引き取って育てたい」と言い出す ほど、非常に高いものであった。イシュトヴァーンは密偵の知らせでフロリー が自分の子どもを生んだことは知ったが、まだ母子と対面してはいない。ただ、

その行方を求めて、やがてパロの都クリスタルに出向いてはゆくが。

 オクタヴィアとシルヴィアの姉妹も対照的に描かれている。オクタヴィアは モンゴールの首都トーラスでマリニアを産むが、その身を案じたアキレウスに よって、夫のマリウスも含めてサイロンに引き取られる。アキレウスは初めて の孫に夢中になる。オクタヴィアも娘を育てるとともに、かなり老いてきた父

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の世話もするようになる。

 第79巻『ルアーの角笛』はそうした時期を描いた1冊だが、この巻の表紙絵

(作画は丹野忍)、マリニアを抱いているオクタヴィアの姿は、まるで聖母子像 のようである(図1)。かつては男装してイリスと名乗っていた彼女も、トー ラスに落ち着いてからは女性の姿をしていたが、モンゴールの将軍であったイ シュトヴァーンの参謀アリが、身を寄せていた〈煙とパイプ〉亭(ゴダロとオ リーの店)を襲ったときには、再度剣を取って戦った。しかしそうした果断さ とはかけはなれたイメージが、ここでは描かれている。マリニアは聾唖ではな いかとされており、「障害児/者の母」として、彼女はある種「聖なる母」の 象徴とされているのかもしれない8。

図1 マリニアを抱くオクタヴィア

 他方妹のシルヴィアは、大魔道師グラチウスと配下の妖魔ユリウスに拉致さ れ、東方の国キタイに幽閉されていたのを、グインによって救出され、彼と結 婚する。しかし、自分を置いて出征していくグインに見放されたように感じ、

最初は従者を寝所に引き込むところから始まり、やがてはサイロンの街で男を

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ファンタジーにおける〈母〉と女性のセクシュアリティ (高橋 準)

漁るようになる。その結果だれの子ともわからぬ子を妊娠して出産する。臨月 のシルヴィアの部屋を訪れたケイロニアの宰相ランゴバルト公ハゾスは、その 異様さに驚く。妊娠の発覚を恐れてシルヴィアが部屋に閉じこもったため、腐 敗した食物や排泄物、入浴しない身体の体臭などが部屋にたちこめていたから

だ。

 出産後子どもは殺されようとしたが、子を託されたハゾスがかろうじて思い とどまったため、命を長らえることとなる。シルヴィアは宮廷を離れた丘に幽 閉される。夜になると半狂乱になって叫び声を上げる彼女に、警護の人間や侍 女たち、周囲の住民は不安を覚えるようになる。

 ともに一国の跡継ぎとなるはずの子を産んだエマ女王とアルミナ王妃も、同 様に対照的だ。アルゴスのエマ女王については周辺的人物であるために記述が 少ないが、エルシウス王子を抱いて、スタック王とともに帰国した黒太子スカー ルをねぎらうシーンでは、病を得て帰国した義弟のことよりも、腕に抱いた息 子のことに気を取られた母親として描かれている。やや誇張気味の、「理想化

された母」のイメージである。

 アルミナはキタイの魔王ヤンダル=ゾッグに心を乗っ取られたパロ王レムス によって、滅亡した太古の帝国カナンの妄執が凝結した闇の種子、アモンを胎 内に植えつけられる。アモンはアルミナの生気を吸って成長し、この世に生ま れ落ちる。生まれた直後はひとの形すらとらない怪物であった。表向きはヤン ダル=ゾッグにあやつられたレムスが、魔都と化したクリスタルを支配してい るが、真の脅威はこのアモンなのであった。そしてアルミナは、ほとんどミイ ラのように干からびながらも、なお生きていた。そして精神を失調したためか、

見舞いに来たリンダに対して、夫レムスとの性生活について赤裸々に語るのだっ

た。

 ファンタジーにおける登場人物たちは、しばしば住み慣れた土地を離れて、

旅へ出る。旅先で出会う見知らぬ事物や初めての土地そのものは、登場人物に

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とって未知のものであると同時に、そのうちのあるものは読者にとって「空想 的なもの」として作用する。

 だが旅に出るにあたって、家族、特に親は、登場人物たちにとっては足かせ となりうる。なぜなら、物語における旅とは成長のプロセスであり、親の存在 はそれだけで成長にとっての制約条件として働くことがあり得るからだ。

 辺境の地ノスフェラスをさまようことになるリンダやレムスが国とともに両 親を失うことも、生国を出奔したイシュトヴァーンやマリウスがすでに親を失っ て久しいことも(イシュトヴァーンの場合は父親が誰であるかは不明なので、

生死自体はわからないが)、彼ら/彼女らの成長にとってはなくてはならない できごとだったのだ。それゆえ、物語の中心世代における特徴は、彼ら/彼女 らからみた〈母〉の不在や喪失、または無視や遺棄ということになるのである。

 ただし、 〈父〉と〈母〉とでいえば、より〈母〉のほうが失われるべきであっ た、ということなのかもしれない。たとえばリンダとレムスの場合は、旅の仲 間としてそばにあった超戦士グインが、庇護する〈父〉の役割を担っていた。

イシュトヴァーンの場合も、ヴァラキア海軍提督のカメロンが、陰になり日向 になり、守り導く<父〉としての役割を果たしている。また時には、グインが イシュトヴァーンの〈父〉の役割を担うこともある。グインはこのほか、マリ ウスに対しても、庇護する存在としてふるまうことが多い。ファンタジーにお ける〈父〉は、しばしばこのように、他の登場人物(複数であることもある)

によって、その機能が担われることがあるのである9。(アムネリスの場合は、

物語当初、実父ヴラド大公が存命である。そして庇護してくれるはずの実父を 失った後、国や公女としての身分も失っていく。)

 物語の進行とともに、物語の中心世代も次第に親となることがある。その際 に、鮮明な対比が存在することを、上で示してきた。一方には、さまざまな憂 いがともなうことはあるものの、幸福で、かつ聖性を帯びたものとして描かれ る〈母〉。そしてもう一方には、不幸や邪悪の象徴としての子を産む〈母〉。両 者を分かつものは何であろうか。

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ファンタジーにおける〈母〉と女性のセクシュアリティ(高橋 準)

3 女性のセクシュアリティへの価値づけ

 片やフロリー、オクタヴィア、エマ。片やアムネリス、シルヴィア、アルミ ナ。彼女たち〈母〉は、どのような存在として描き分けられているだろう1°。

 ある意味明白ともいえる。答えは単純だ。どのぐらいセクシュアルな存在で あるか、あるいはセクシュアルな言動を取るかどうか、という、その一点であ

る。

 フロリーは貞淑を義務づける宗教〈ミロク教〉の信者であり、それゆえに性 関係についてもかなり厳格な感覚を有している。実際には、主の婚約者である イシュトヴァーンと密通してしまうわけだが、それもイシュトヴァーンが強要 したからといえる。その後は身持ちの堅いミロク教徒として、子どもを育てる ことだけに専念している。(第128巻『謎の聖都』では、同じミロク教徒のヨナ との間に、淡い恋愛感情が芽生えたような描かれかたがされているが。)

 オクタヴィアも、当初男装していたこともあり、男性との恋愛関係はのちに 夫となるマリウスとの関係だけのようである。その後もすぐに妊娠・出産・育 児へと慌ただしくなだれこんでいく。

 エマ女王は、パロで生活していた時代に何があったかまではわからない。だ が、物語内ではあくまでも「貞淑な妻」として描かれており、夫スタックもあ わせて、完全にモノガミーの中にいるとみてよいだろう。

 これに対して、アムネリス、シルヴィアは大きく異なる。アムネリスは、ナ リスとの政略結婚(および恋愛関係)は除くとしても、その後タリオ大公の愛 妾として生活していた時期がある。もちろん望んでなったわけではないが、公 女としての身分を失った後、彼女自身その生活にある程度適応していたことに は間違いがない11。また、国を失った彼女は、自分自身に残されたものが若さ

と美しさと女性としての体であることを十分意識し、それをさまざまな場面で

〈武器〉として使う決意をしていた。

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 シルヴィアは、自分の胸が小さいことにコンプレックスを持ち、夜な夜な濃 い化粧と露出の過多な服装で、サイロンの街へ遊びに出かける娘として、当初 物語に登場した。次の誕生日には父親にいいなずけを決められてしまう、それ を不服に思い、夜遊びで憂さ晴らしをしていたのである。自身のセクシュアリ ティの決定権が女性にはない、そのことへの抵抗を、彼女は自分で表現可能な 唯一の形を通して示すのだ。

 その後、ダンス教師のエウリピュデス(ユリウスという妖魔が変身した姿)

に誘惑されて、その身をゆだね、首都サイロンから誘拐されてしまう。「不品 行な娘が悪い男に誘惑される」図そのままである。これもまた、父親の庇護と 監視の下から逃れようとする試みが、きわめて不幸な結果に終わることを示唆 しているともいえる。ユリウスは性技によって活力を得る妖魔であり、シルヴィ アはサイロンから隣国ユラニア、さらに遠い東方の大国キタイへと連れ去られ る中で、すっかり彼から性の悦びを教え込まれ、さらに麻薬漬けにもされてし

まう。

 父親のアキレウスは、「姫を救い出したものを姫の夫とする」と宣言する。

逸脱した女性のセクシュアリティを回収し、再秩序化するには、ヘテロセクシュ アルな意味での「結婚」という形式に収めるしかないというかのようだ。だが、

グインによる救出と彼との結婚の後も、シルヴィアのセクシュアリティは依然 として不安定なままであり、ちょっとしたきっかけで暴走するものとして描か れている(酒場での乱交)。その結果が不幸な妊娠につながり、さらにはシル

ヴィア自身「屋根裏の狂女」と化すのである。

 アルミナは幼くしてレムスのいいなずけとなり、その後しばらくして国王の 后になるべくアグラーヤ王国からパロへやってくるので、レムスとの関係が唯 の性関係ではあるだろう。ただし先ほど述べたとおり、魔王に乗っ取られた

レムスによって快楽を教えられて精神に失調をきたしたとはいえ、第76巻『魔 の聖域』において、「朝も昼も夜も……いつでも愛し合ったの」「うちのひとっ て、とてもとても(註:男性器が)大きいの!」と語るアルミナは、シルヴィ

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ファンタジーにおける〈母〉と女性のセクシュアリティ(高橋 準)

アと同じく、男性との性的な快楽におぼれた女性として描かれているといえる

だろう12。

 以上見てきたように、「グイン・サーガ」においては、女性のセクシュアリ ティに関して大別して二つのあり方が、彼女たちの〈母〉としてのありよう、

そしてまた生まれた子どもがどのような存在であるかを決める重要な要因とさ れていることがわかる。

 夫レムスの魔力によって性の快楽を教えられたアルミナの子どもは、まさに 魔物そのものであった。やはり魔物から快楽を体にきざみこまれ、不品行のか ぎりをつくしたシルヴィアの子は、すんでのところで殺されるところであった。

望んでなったわけではないとはいえ妾妃であったアムネリスが、やがて結婚し た後に生んだ子は、「悪魔の子」という名前を与えられた。いずれも母親の性 的な意味で「逸脱」とされる経験と、「不幸」「邪悪」な子どもの出産という結 果とが対になっている。

 夫との性関係が唯一  さらにそれは、節度を持ったものでなければならな い  という、特定の女性のセクシュアリティの形式に肯定的な価値が付与さ れ、逆にそこから「逸脱」した女性のセクシュアリティのあり方には否定的な 価値が与えられる、ということを、どうやら物語の中心世代の〈母〉たちの二 つのあり方は示しているようなのである。(ある意味、義弟と密通していたマ ライアの不幸も、同じように考えることが出来るのかもしれない。)

 ここであわせて注意すべきなのは、唯一性にしても「逸脱」にしても、あく までも女性の側についてのものであるということだ。アムネリス、フロリーの 双方と関係を持つイシュトヴァーンは、数限りない女性、そして男性との間に も、性関係を結んできている。マリウスもそうである。グインもまた、外伝で クムの踊り子(実際には娼婦であったことが示唆されている)であるヴァルー サを愛妾とし、さらには彼女との間に子どもをもうける。しかし、彼らのモノ ガミーからの「逸脱」は、制裁につながるものとしては描かれていない。男性

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と女性のセクシュアリティについては、非対称な価値付与、しかも現実社会の 性規範の二重基準ときわめて整合的な価値付与がなされているのである。

4 む す び

 ファンタジーは、現実には存在しないジェンダー関係やセクシュアリティの ありようを描くことができるし、また、現実と同じ関係やありようを描きなが らも、異なった価値体系の下にそれらを置くことができる。「空想的なもの」

としてのジェンダーやセクシュアリティは、このような形を取って、物語の中 に存在しうる。

 たとえばマリオン・ジマー・ブラッドリーの「ダーコーヴァ年代記」13では、

必ずしもヘテロセクシュアルなモノガミーだけが、物語世界の中で正統性を与 えられているわけではない。また本宮ことはの「幻獣降臨課」14では、極端な までに処女性が意味を持つ  高い価値が与えられているというわけではない 社会が描かれている。これらはさまざまな効果を読者に与えうる。場合によっ ては、「フェミニスト・ファビュレーション・ファンタジー」として機能しう ることもあるだろう。

 これまで見てきたように、栗本薫の描く<母〉のイメージは、不在や、ある

つの対比としてまとめることができるのだが、特に後者からは、現実と異な る論理というよりは、むしろ現実の中に今なお残っている性差別的な規範をも とに造型された価値体系の存在を読み取ることができた。

 こうした価値体系(というか、価値体系が描かれていること)をどう評価す るかは、むしろ読み手にゆだねられているともいえる。たとえば、本稿で示し たような女性の性的な「逸脱」をよしとしない価値体系は、たしかに現実社会 にも存在しており、今なお力をふるう場面があるが、おそらくあまり人々に意 識されることはない。そうした「無意識」を改めて意識にのぼらせるという意 味はあるのかもしれない。

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ファンタジーにおける〈母〉と女性のセクシュアリティ (高橋 準)

 だがそうとはいえ、描かれ方自体はあまり気分の良いものではない。本稿で 取り上げたケイロニアの皇女シルヴィアの扱われ方などは、その典型ともいえ る。最初の夜遊びに始まり、ユリウスに誘惑されて快楽におぼれる場面(ダリ ウスの言葉や、外伝での描写を含む)、キタイからケイロニアに連れ戻される 途中での狂乱ぶり、そして臨月の部屋の様子から幽閉後にいたるまで、シルヴィ アの行動は、痛々しく、醜いものとして執拗に描写されている。

 栗本のこの一大エピック・ファンタジーは、さまざまな過去の作品へのオマー ジュでもあり、既存の文化やファンタジーのステレオタイプをうまく活用する ことで効果を上げている。ステレオタイプを多用しながらもオリジナリティを 保ち、なおかつ魅力的なストーリーとキャラクターを配してみせるところが、

彼女の作家としての力量の高さだろう。ただ、その筆力をもって、既存社会の.

価値観を敷術することによって、社会規範が再強化されることは十分にあると

いえる。

 残念ながら、シルヴィアやオクタヴィア、あるいは外伝でグインと出会い、

グインの子を産むことになる、元娼婦のヴァルーサの行く末については、栗本 の死によって、描かれないままで終わるということになってしまった。人生の さらに先に、それまで経験した不幸を乗り越えていくような未来がシルヴィア やアルミナたちにあったのか、あるいは、「逸脱」をせずにきたフロリーやオ クタヴィア(エマは少し考えにくいが)が、今後どのような経験をすることに なるのか。そしてそれらの変化の中で、秩序を転倒したり再構築するようなか たちで、「空想的なもの」が力を発揮する余地があったのかどうかは、ついに 不明なままである。

 しかしそれは、「余白」の中にわたしたち自身が想像力を働かせる余地が残 されている、ということでもある。オマージュから成り立っていた栗本の作品 が、今後はオマージュをささげられる対象になり、後につづく書き手によって、

別な形でこの物語が「完結」されることを期待することにしたい。

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 注

1 以下の「空想的なもの」と「現実的なもの」、およびその相互作用に関する議  論に関しては、高橋準、「ファンタジーRPGにおける『幻想』の居場所」、一柳  廣孝・吉田司雄編著、『幻想文学、近代の魔界へ』(ナイトメア叢書2)、青弓社、

 2006年、168−170頁、も参照のこと。

2 マーリーン・S・バー、『男たちの知らない女  フェミニストのためのサイ  エンス・フィクション』、小谷真理・栩木玲子・鈴木淑美訳、勤草書房、1999年。

3 高橋準、『ファンタジーとジェンダー』、青弓社、2004年、第1章。

4 高橋準、「ファンタジーのジェンダー、ジェンダーのファンタジー  ポピュ  ラー文化のジェンダー分析・続」、『行政社会論集』、12(3)、1999年、および、

 高橋、2004年、第2章、に引き続くものとして、本稿は位置づけられている。

5 なお外伝では、女性が「魔女」として多く描かれており、その中のかなりは、

 ある種の否定的な「母性」を象徴する存在として登場するが、本稿では彼女ら  については基本的に議論の対象外とする(若干の言及はある)。正篇で実際に子  どもを産んだ女性のみが、主な対象である。

6 作品のストーリー等については紙幅の関係で省略し、必要最小限のことがら  のみ言及する。

7 村の母親がきわめて近代家族的に描かれていることについては、高橋、2004  年、第4章を参照。

8 土屋葉、『障害者家族を生きる』、勤草書房、2002年、における、障害者の母  親についての議論を参照。

9 高橋、2004年、第4章、および、小谷真理、『ハリー・ポッターをばっちり読  み解く7つの鍵i』、平凡社、2002年、を参照。

10なお、ヘテロセクシュアルな関係に入ってのち、子を生まない女性もいる。

 代表格は、パロの聖騎士伯リギア、パロ貴族のデビ・フェリシア、スカールの  愛妾リー・ファ、リンダであろう。これら四人が四様に描き分けられているの  も興味深い。リギアは奔放な恋愛関係で浮き名を流す女性であるが、特定の男  性と婚姻関係にあるわけではない。フェリシアは結婚してから後も、男性との  浮き名が絶えない女性である。リー・ファは、スカールのみを性関係の相手と  していたと思われる。リンダは、イシュトヴァーンと一時恋愛関係にあったが、

 いわゆる「清い」関係であった。それだけでなく、アルド・ナリスと結婚して  からも彼と性関係を持っていない。これはナリスの側が意図的にそう振る舞っ

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ファンタジーにおける〈母〉と女性のセクシュアリティ(高橋 準)

 たということのようである。意図した描き分けかどうかは定かでないが、「男装  の麗人」についての描き分け(高橋、2004年、第2章を参照)と同様に、作家

 としての栗本の技量を感じ取れる事例といえるかもしれない。

  なおリギアとフェリシアは、本稿で見てきたところの「逸脱」した女性であ  るにもかかわらず、制裁の対象にはなっていない。どうやら彼女たちには子ど  もがおらず、つまり、生殖にかかわらない限りは、「逸脱」も容認される余地が  ある、ということのようである。実際、パロ宮廷の女性たちには、性的に放縦  なものが多いことが、物語内部でも示唆されている。ここでわたしたちは、女  性の「逸脱」したセクシュアリティを排除することで、財産の継承と世代的再  生産を管理しようとする「家父長制」の存在に目を向けざるを得ない。

11 なおこのほか、アムネリスはフロリーと「擬似的」(とあえて呼ぶが)な同性  愛関係にあった時期がある。ただし作者である栗本薫自身は、この関係をあま  り重視していないかのようだ。アムネリスはイシュトヴァーンとの恋愛が始まっ  てすぐ、フロリーと交わしたさまざまな誓いや愛情の言葉を、まるでなかった  かのようにすべて無視してしまうのである。そしてフロリー自身も、アムネリ  スのそうした態度に当初はショックを受けたような反応を示すものの、やがて  男性であるイシュトヴァーンに思慕を寄せるようになる。女性同性愛に対する  このような栗本の低い価値付けは、「やおい」(男性間のセックスや恋愛を描い  た作品群)というジャンルの確立者としては意外なものかもしれないが、男性  の同性愛に対してさえも、栗本自身がきわめて否定的な表現をしている箇所は  実際に多い。たとえば、『絃の聖域』(講i談社、1980年)で、同性愛を告白する  少年に対して、探偵・伊集院大介が「それは思春期によくあること。成長すれ  ば君も女の子が好きになる」と語るシーンなどがそうである。「やおい」や現在  の「ボーイズ・ラブ」全般について、男性間の恋愛や性関係を描きながらも、

 それが必ずしも現実の同性愛関係を反映したものではなく、むしろしばしば無  理解で満ちているという指摘もある。同様に栗本にとっては、あくまでもヘテ  ロセクシュアルな関係だけが「正しい」セクシュアリティのありようであった  のではないかと思われる。したがって、フロリーの側からしても、アムネリス  との一時的な関係は性体験としてカウントされない、ということなのであろう。

12 なお、シルヴィアの場合は異種族間性交/婚姻であり、アルミナの場合は  「人間の女性が異種族の母体となる」ことだが、それぞれファンタジーにおける  「空想的なもの」としての意味をもつと考えられる。

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13高橋、2004年、第4章、における、「ダーコーヴァ年代記」についての記述を  参照。

14本宮ことは、『聞け、我が呼ばいし声』、講談社X文庫ホワイトハート、2006

 年、に始まるシリーズ。作品世界では、出生における男女比が極端(女性が稀  少)であり、また女性は生まれたときから、精霊を使役する力を持つ。ただし  それは、初潮を迎えるまでと、(多くの場合は)結婚してから後に限られる。初  潮があったのち、「契約の儀」によって少女たちは、より大きな力を持つ幻獣と  契約を交わして、その守護を得る。ただしその守護は、男性と性関係を持つこ  とで失われるため、処女性が大きな意味を持つのである。

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になった. 遺伝子を高発現させると,さまざまな 植物でIAA量が増加し,胚軸伸長や側根形成の促進, 頂芽優勢などオーキシンを過剰蓄積した表現型が見られ ることから,YUCはIAA合成の律速酵素と考えられて いる3. シロイヌナズナからはシトクロームP450モノオキシゲ ナーゼをコードする 遺伝子も同定され,これ

いう表現を起点にしたとき、見えてこなかった。一方の薫や匂宮は光源氏の子孫として描かれているものの、女性に対するまなざしの違いがここから浮かび上がってきた。また、薫が「わがもの」を用いる場面は後悔の念を伴っていることも特徴である。心中では自分の所有物として扱いたいという願望や欲が後悔という形で表現される。道心を抱き、俗聖八の宮を憧憬した薫の欲を捨てられない俗の部分、身と心[r]

<事例 6.SCT > 1.私の父は人でした。2.私の母は人でした。3. 父としてがんばろう。4.私の理想とする父親と はえがおである 5.私の理想とする母親とはやさ しさである。6.妻は受容。7.私は子どもに何を 残せる。 <事例 6.全体考察> 人物の顔(表情)の上に文字が記入されている が、「その人は誰なのかを記入してください」と教

3 はじめに 現在、ニート問題や大学生のアパシーなど様々な青年期の問題が指摘されている。毎日 新聞(2009)では、国が公表した 2008 年の学生・生徒の自殺者数は 972 人で、1978 年の 調査以来過去最多であることを報告している。このような問題に対して、できることの一 つとして、個人個人の強い心を育てることが考えられる。山本(2009)はスポーツが、レ

要 旨 近年,日本の漫画,アニメ,映画,ドラマなどが広く海外に普及し,これらが日本語学習者 の学習の動機につながっているというケースも少なくない。同時に,日本語教育現場において も,ドラマや映画をはじめとする映像素材が学習リソースとして注目され,その利用が広がっ ている。また,視聴覚メディアを日本語教育の中に取り入れた実践も近年多く行われており,

1 要旨 日本語において,「ちょっと」は,日常の多様な場面で使用され,よく耳にする言葉の 一つである。ところが,その多くが,原義の「少し」や「少量」と解釈すると必ずしも成 立しない用法と見られる。「ちょっとそこまで」「これちょっとよくない?」「明日はちょっ と」など,これらに見られる「ちょっと」は聞き手とのコミュニケーションを考慮して用

ネット上でのコミュニティは 「同じ価値に共通し て興味を示す人が集う場所」 と定義される。 2000 年代以前のSNSと以降のSNSとでは, 共通の価値 への焦点の当て方に違いがある。 「Yahoo!」 や 「2ちゃんねる」 などが特定の 物事 であるの に対し, 「mixi」 や 「Twitter」 は 人物 に対し ての価値観が基盤となっている。 SNSは,

授業における人間形成のメカニズム(1) 庄 司 他人男 はじめに 教育は人間形成であるとすれば,学校教育の最 も大きな部分を占める授業(学習指導)も当然そ れを目差すものでなければならない。もちろん, 授業にお・いてはそれぞれの教科の学力を向上させ ることが最も直接的な目標になるが,同時にそれ は学習者である児童・生徒の人間としての成長を