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授業における人間形成のメカニズム(1)

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授業における人間形成のメカニズム(1)

他人男

はじめに

 教育は人間形成であるとすれば,学校教育の最 も大きな部分を占める授業(学習指導)も当然そ れを目差すものでなければならない。もちろん,

授業にお・いてはそれぞれの教科の学力を向上させ ることが最も直接的な目標になるが,同時にそれ は学習者である児童・生徒の人間としての成長を も実現するものでなければならない。たしかに人 間の価値は学力では測れない。しかし,このこと は授業が学習者の人間形成とは切り離されて行わ れてよい,ということを意味するものではない。

 ところが,このようなことはしばしば指摘され ているにもかかわらず事態はいっこうに改善され ないばかりか,悪化の一途をたどっているのが実 情であろう。このような状況をひき起こしている 原因としては受験競争の激化などがあげられるが,

授業理論の面からみるとき,確かな学力を保障し,

同時にそれが学習者の人間形成にも導くような授 業のメカニズムが教師や父母の共通認識として明 示されてはいない,という事実があるように思わ れる。その結果,授業と人間形成とは無関係であ るかのような授業観に陥ったり,記憶中心の授業 も人聞形成に導く授業もそれほど本質的な相違は ないかのような誤解をしてしまったり,その相違 を感じながらも授業改善の具体的手がかりが全く 掴めなかったり,という方向に流されてしまって

いるのである。

 したがって,今日の状況では受験競争が鎮静化 しても直ちに人間形成に導く授業が実現される,と いう保障はほとんどないであろう。そもそも人間形 成とは質的に無縁な授業は,それを「ゆとり」を もって,じっくりと時間をかけてやったからとい って,人間形成をする授業に自動的に変化するも のではないのである。

 したがって,昨今「教育の復権」を叫ぶ立場に も素直に同意はしかねるのである。今日「知育」

が健全になされていない場合が多くなっているこ とは事実だとしても,かつてはそれがなされて いたということでは必ずしもないからである。以 前も健全な「知育」が広く行われていたわけでは ないが,学校以外での教育力が豊かであったため に,その問題点が表面化しなかっただけ,とみる べきであろう。戦後40年間の教育において,ある いは明治5年の「学制」以来の教育まで含めて,

健全な「知育」が十分に行われていたと多くの人 々が一致して認めることのできる時期があったか どうかをふりかえってみれば,このことは自ら明 らかであろう。

 本稿は,多くの先行研究に学びながら,それら を筆者なりに再構成することによって,人間形成 に導く授業のメカニズムを把えてみようとするも のである。ここでは,その1として,主として理 論面からの考察を試みる。

一、「教育する教授」のメカニズム  1.教育とは「引き出す」ことか

 授業による人間形成はどのようなメカニズムで 成立するのかを体系的(科学的)に追求した先駆 的な理論として,われわれはヘルバルトの「教育 する教授」(Erziehender Unterricht)をあげること ができるであろう。ひとことで言えば,それは,

教育の究極的目的である「道徳的性格」の形成は 教科の教授(授業)なしには不可能であると同時 に,教育の究極的目的に何らかかわらないような 教授は教授の名に値しない,というものである。

 では彼は「教育する教授」のメカニズムをどの ように捉えているのであろうか。この点を理解し ようとするとき,われわれが最初に注目しなけれ ばならないのは,彼が,教育とは人間が生来的に もっている諸能力を単に「引き出す」ことではな い,としていることである。彼のこのような基本 認識は主として彼の家庭教師(今日の学生アルバ

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イトとは異なり,住みこみの全面教育)としての 経験から生れ,さらに彼独自の表象心理学によっ て裏うちされたものと言われている。

 彼によれば,人間のあらゆる精神活動は,生れ ながら有している諸能力を「引き出す」ことによ って成立するのではなく,生後の「経験」つまり 広い意味の「学習」の結果として造り出されるの である。彼自身の表現によれば,人間の「あらゆ

る精神活動の座」は,生後に獲得される「表象」

に,より正確には,その総体としての「表象圏」

(Vorstelungsmass) または「思想圏」(Gedan−

kenkreis)にある,ということになる。したがって 各教科の指導によってこの「思想圏」を形成する

ことが授業の任務ということになる。

 ところで「表象」とは手もとの心理学辞典によ れば「外界に感覚器官に対する刺激が存在しない のに,大脳中枢の興奮だけによって心に思い浮か べられる概念,観念,心像など」とある。しかし ヘルバルトの場合,それは一般の心理学や哲学で の概念よりはるかに広い意味で,「思考や判断力 などの知的領域ばかりでなく,感情や欲望などの 情緒的領域のすべてを包含している。それゆえヘ

ルバルトが『思想圏』または『表象圏』というと        ほヨき,これは心の働きの全領域を意味している。」の

である。

 かくして彼は,長い伝統に支えられ,当時(19 世紀初頭)も依然として支配的であった能力心理 学を完全に否定したのである。能力心理学によれ ば,教育とりわけ授業の任務は,各人が生れながら 有している記憶力や思考力や判断力などの「諸能力」

を「引き出し」たり「訓練」したりすることにあ る。しかもそれらの「諸能力」は教科や学問領域 のいかんにかかわりなく共通なもの,とされたの である。当時の徹底した形式陶冶の教育観はその ような心理学にも支えられていたわけである。

 ところで今日でも一般に「子どもから引き出す」

指導法が重視されているが,これは能力心理学的 な論理とは峻別されるべきである。例えば,道徳 の授業などで「自己の責任を果たすことの大切さ」

を指導しようとするとき,それを教師が直接に

「教える」のではなく,それを「子どもから引き出 す」ように努めることは指導方法として適切であ

ろう。しかしこの方法が成立するためには大前提 があることを見落してはならない。それは,子ど もは生れながらにして「自己の責任を果すことの

大切さ」をもって生れるのではない,ということ である。これは近年の脳生理学の教えを乞うまで もないことである。したがって,そのような指導 法が成立するのは,子どもたちが生後の生活体験 の中で,何らかのそれに結びつくようなものを獲 得している場合だけなのである。何らかの手がか りになるものがそもそも獲得されていないとすれ ば,「引き出し」そうにも引き出しようがないわけ である。今日の教育において真に「わかる」こと

を困難にしている大きな原因の一つもこの点にあ ると言えよう。

 2.教授の目的としての「多面的興味」

 先に述べたようにヘルバルトにおいては,各教 科の指導によって「思想圏」をより豊かに,より 強力に,そして全体として統一のある有機的なも のに形成することが教授の任務ということになる。

ただし彼のいう「思想圏」は「知的領域」ばかり でなく「情緒的領域」をも包含するもので,「心の 働きの全領域」を意味するものであった。このこ

とを踏まえて彼は人間生活のさまざまな面に対応 する「多面的興味」の育成を教授の目的に焦点化

したのである。これこそ教育の究極的目的である

「道徳的性格」を形成する絶対の基盤となるから である。かくして「教授の究極的目的はなるほど 道徳性の概念にある。しかしそこに到達するため

に,とりわけ教授に課されるより近い目的は,興 味の多面性(Vielseitigkeit des Interesses)と        のいう表現によって示される。」ことになる。このよ

うにヘルバルトにおいては,教育の究極的目的で ある「道徳性」ないし「道徳的性格」の形成と教 授とは相互に不可分の関係になるのである。この

ことを示すもう一つのよく知られている命題は,

「私はこの際,教授のない教育の概念をもたないこ とを告白する。と同時に逆に少なくとも本書にお       え いては,教育しない教授をも認めない。」というも

のである。もちろんこれは彼の教授理論の根幹を なすもので,「本書」(彼の主著)だけでの立場で はない。これが彼のいう「教育する教授」の概念 である。

 このことからも推察されるように,彼のいう「道 徳性」の概念は一般に理解されているものよりも 相当に広いものである。そうでなければ,それは 教育活動の全体を包括する目的とはなり得ないか らである。彼が「道徳性」の概念を「拡大」する

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ことを強調するのはこのためである。例えば,理 科で天体に関する学習をすることによって子ども

が星座に「興味」をもつようになり,何かと機会 をとらえてそれに関する読み物を読むようになっ たり,季節による星座の変化などに関心をもつな どの科学的態度が形成されたとすれば,それも「道 徳的性格」形成の立派な一例となるであろう。体 育の授業でチームプレーに全力を注ぐことによっ て,互に協力することの大切さを身をもって実感

した子どもにとっては,それも立派な一例とみて よいであろう。これらはヘルバルトがあげている 例ではないが,彼のいう教育目的としての「道徳 性」概念の内容は,今日われわれが授業による人 間形成として広く捉えているものとそれほど異な

るものではないように思われる。

 ヘルバルトの「多面的興味」は「認識的興味」

と「同情的興味」の二系列に大別され,さらに前 者は「経験的」「思弁的」「美的」の三種類に,後 者は「同情的」(狭義)「社会的」「宗教的」の三 種類に区分される。前者は主として「自然」に関 する「興味」であり,後者は主として「人間」に 関するものである。「道徳的性格」がこれらの文字

どお・り「多面的」な興味を基盤とするものであれ ば,その概念が通俗的なものよりはるかに広く,

「拡大」されていることは明らかである。

 ところで,ヘルバルトが「興味」を教育上の「手 段」としてだけでなく,「目的」として位置づけて いることに改めて注目しておきたい。わが国の今 日の問題状況はまさにこの点にかかわっているも のとみられるからである。たしかに学習される教 材は体系的な知識や理解を可能ならしめるもので なければならないが,それが何らかの「興味」や ある種の感動を伴うものでなかったら,その知識 や理解は学習者を積極的に動かしてゆく力として 発動することは期待しにくいからである。この問題 については第三章において考察されることになる が,ヘルバルトが「興味」を重視したのは,次節 で述べるように,それが積極的に発動して学習者 の「欲求」や「行為」を動かす原動力になるとみ たからにほかならない。

 3.「教育する教授」のメカニズム

 それでは「多面的興味」はどのようなメカニズ ムで「道徳的性格」にまで形成されるのであろう か。この点を解明することは,とりもなお」さず「教

育する教授」の最も中核的な部分のメカニズムを 明らかにすることになるはずである。これを簡単 に図示すれば以下のようになるものとみられる。

等讐鯨{醐画

       (教育の目的)

  (教授の目的)

 ここでポイントになるのはおよそ以下のような 点である。その一つは,教授の直接的目的は「多 面的興味」の育成で一段落するわけであるが,そ れを「道徳的性格」にまで到達させるには「訓練」

の役割が不可欠である,ということである。この ように「教授」(学習指導)と「訓育」(生活指導)

は実質的に一体のものとして把握されているので ある。両者が一体化しなければ「教育する教授」

は成立しないのである。両者を別々のものとして 捉えておいて,「どちらも重視する」という認識と は質的に異っているのである。もちろん「訓練」

には「道徳性」以前の生活習慣や生活態度を形成 するという重要な任務もあることを否定するもの ではない。

 では,「教授」と「訓育」は具体的にはどのよう なかかわりになるのであろうか。これが第二点で ある。それは教育の全過程に何らかのかかわりを もっことは言うまでもないが,より直接的に表れ るのは「欲求」から「行為」へと進む場合であろ う。彼によれば「欲求」は純粋に精神的な「「多面 的興味」からばかりでなく「自然的・利己的衝動」

からも生ずる。したがって「欲求」はすべて「行 為」へと発展させればよいとは限らない。「欲求」

のいかんにより,これを「行為」へと促したり,

あるいは「行為」への移行を阻止したりすること によって,望ましい性格の発端が現れるような,

あるいは望しくない性格への契機を摘みとってし まうような配慮が必要となる。われわれが「利己的・

自然的衝動」から「欲求」への移行を点線で示し たのはこのことを表現するためである。このよう な配慮が「直接的な性格陶冶としての訓練(訓育)

   の      ロ   じ

の課題」なのである。「直接的」というのは,その ほかに,前に触れたような「道徳性」以前の生活 習慣や生活態度の育成も「訓練」の重要な課題だ

からである。

 人間の「性格」の基盤となるのは「意志」であ るから,「道徳的性格」を形成するためにはそれに

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相応しい「意志」に導くような「行為」を促すこ とが「訓練」の課題となるのである。

 第三は,「自然的・利己的衝動」が否定的にのみ 位置づけられていることである。それが「欲求」

を動かして「行為」に結びつくようでは「道徳的 性格」を支えるような「意志」は形成されない,

とみるのである。今日からみればここにもヘルバ ルト理論の大きな限界があったのであるが,これ は表象心理学に依拠する彼にしてみれば当然のこ とだったのである。デューイは後にヘルバルト理 論の意義を高く評価する一方で,この点を大きな 難点として指摘することになったが,この点につ いては次章で考察する。

 4.「類化」の原理

 前節では「多面的興味」から「道徳的性格」へ のメカニズムについて述べたが,それにもかかわ

りながら授業の全過程で重要な原理的役割を果た すものとして「類化」(Apperzeption)の概念があ る。彼は「習得すなわち類化は……」と説明して いることからも明らかなように,結局のところ学 習のプロセスは「類化」のプロセスとみるのであ

る。つまり各人のすでに習得している「表象」や その結合体としての「表象圏」が新しい「表象」

をその中に取り入れて編みこんでいく心の働きが

「類化」なのである。しかも彼の場合は「表象」が そもそも知的領域だけでなく情緒的領域をも含む ものであるから,「類化」も精神活動の全域にかか わることになるのである。

 ところで,すでに篠原助市は「ヘルバルト及び その一派」の「類化」概念について,

  以上のもろもろの修正,即ち類化の概念の拡  張,全精神作用の関与,特に自我の全体的統一  的発動などの諸点でヘルバルト派の類化は補正  さるべく,この補正による類化は今も,否,永  遠に教育方法上の最も有力な原理たり得ると,

         の  私には考えられる。

と述べている。ただし,「ヘルバルト派」について は確かにその概念は「拡張」される必要があった としても,ヘルバルト自身の場合は,それはもと もと精神活動の全域をカバーする広い概念であっ たことは先述のとお」りである。

 「教育方法上の………原理」としては「類化」は 次のことを意味する。それは,「旧表象,旧経験を 可動的なものたらしめること,もっと具体的に言

うなら,古い習慣が新しい事実を類化するのみで なく,又,新しいものによって古い体系を変容す   ゆること」である。ここには二つの原理的側面が含 まれているとみることができよう。一つは,ある 新しいことを学習(習得)するということは,そ の人の既有の「旧表象,旧経験」との何らかのか かわりでのみ可能である,ということである。つ まり,新しく習得される「表象」は,ビンに水で も入れるように,あるいは倉庫に米俵でも積み重 ねるように,一方的に入っていくわけではないの である。機械的記憶ならば多少これに近いかもし れないが,少なくとも「わかる」とか「理解する」

とかのレベルでの習得は,こうではないというこ とである。

 もう一つは,このことからの当然の帰結として,

新しい「表象」を習得することによって,その人 の「表象圏」が総体として単純に増大するだけで なく,既有の「表象圏」も大なり小なり「変容」

するということである。その「変容」は当然より 望ましい方向への変容でなければならない。これ

こそ人間形成ということの実質なのである。デュ ーイが教育作用を「経験の再構成」とみたのも,

ほぼこのことを意味するものとみられる。

 5.カリキュラムに関する課題意識の成立  今日ではカリキュラムをどのように編成するの かという課題を抜きにしては授業の問題は考えら れない。しかし,授業による人間形成という課題 を踏えた上でカリキュラムが理論的に位置づけら れるようになったのはヘルバルトに負うところが 大である。

 彼が否定した能力心理学に立てば,授業の任務 は人間の生得的な「諸能力」を単に「引き出し」

たり,「訓練」したりすることとなる。したがって そこでは教材は「引き出し」したり「訓練」した りするための手段にすぎなくなり,どのような教 科内容を教授すべきか,そのためにどのような教 材を用いるべきかという今日のようなカリキュラ ムの問題は,それほど重要な問題とはなりえない のである。デューイも,この点をヘルバルトの大

きな貢献として捉え,以下のように述べている。

  彼(ヘルバルト)は,何らかの種類の素材に  もとづく練習によって鍛えられるような既有の  諸能力(ready−made faculties)という概念を  捨てて,具体的教材すなわち内容に注目するこ

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とを極めて重要視した。ヘルバルトは他のいか なる教育哲学者よりも教材に関連する諸問題を 前面に押し出すことに大きな影響を与えたので

 ロシある。

 ヘルバルトのように,生徒の学習によって「表 象圏」を形成し,そこから生ずる「多面的興味」

を基盤として子どもの性格が土台から形成されて ゆくものだとする理論に立つならば,「具体的教材 すなわち内容に注目」するようになるのは論理的 必然なのである。ヘルバルトの理論はその学派の 人々によってアメリカや日本などにも普及するこ      ゆとになったが,「1895年にヘルバルト協会が結成さ れたときに初めて,アメリカの教師たちは,カリ キュラムすなわち教科とその内容のプログラムに 注目する必要があることに気づいたと言っても過      ゆ言ではない。」のである。

二、「経験の再構成」のメカニズム

 デューイが教育を「経験の再構成」(reconst−

ructionofexperience)と捉えたことは周知のとお りであるが,彼の場合は教育を授業(学習指導)

に限定してもその点は少しも変らないであろう。

 彼の理論はとりわけ第二次大戦後の日本教育に 対して直接・間接に多大の影響を与えた。昭和30 年前後からそれへの批判が高まり,その影響は急 速に後退したが,最近ではデューイを批判して有 勢になってきたはずの体系的知識を重視する教育 も深刻な問題状況に直面している。デューイの理 論に対しても種々の立場からの批判があることは 言うまでもないが,わが国の場合をみても,それ が十分に理解されなかったことは否めないようで

ある。

 さらに遡れば,デューイとヘルバルトとの理論 的な関連ないし対比についても,これまで不当に 軽視されてきたように思われる。

 1.わが国における経験主義批判の問題点  第二次大戦後直後の昭和20年代にはデューイに 代表される経験主義の教育が大変な勢いで普及し

た。それは日本で最初に作成された『学習指導要 領・一般篇』(昭和22年)にも明瞭にあらわれてい

る。経験主義の理論と実際が戦後教育において果

たした役割の大きさは測り知れないが,一方でさ まざまの欠点をも露呈したことも事実である。本 章ではこの問題に深入りする余裕はないが,そこ から生じた弊害の中にはデューイの理論が正しく 受けとめられなかったために生じたものも少なく ないように思われる。その一例として,日本の教 育界に多大の影響力を発揮した勝田守一氏の場合

について検討してみることにする。ただし,それ は当時の日本の最も一般的な理解でもあったこと を附言しておきたい。

 なお,われわれがここでこのような問題をとり あげるのは,わが国の実際の教育とも関連させな がらデューイ理論の特質を究明するためである。

 勝田氏の経験主義批判について最初に指摘しな ければならないのは,当時のわが国で普及してい た経験主義とデューイ理論そのものとの相違がほ とんど考慮されていない,ということである。こ のことは教育の健全な発展のためには決して軽々 に扱われるべきことではない。

 『勝田守一著作集』(第六集)には「人間が成長す るとはどういうことか」(第二章)という,本稿の テーマと事実上ほぼ一致する章があるので,これ を検討してみたい。ここではデューイに関する体 系だった論述はなされていないが,それに対する 評価については明確に述べているので,ここでの 検討対象には十分なりうると考える。まず次のよ

うに述べている一節がある。

  次は,発達と教育とを完全に同一と考える理  論である。デューイは教育とは成長であるとい  つた。この理論には,たしかにある正しさが含  まれている。子どもは経験を通して学習する,

 というより経験がすなわち学習なのだ。学習に        ぽロ  よって経験が豊かになり,発達がもたらされる。

 これにつづいてデューイの方法原理をやや具体 的に説明した後で,「科学や技術を伝統的な大衆 の手のとどかない場所から引きずりおろし,子ど もや大衆の問題解決の知的・技術的な活動と連結 させようとした点に,私たちは,この理論の意義 を認めてよかろうと思う。」と評価している。だが,

すぐつづいて,「しかし,この理論には,あいまい さとあやまりがある。」という。その誤りとは,要 するに,デューイは体系的知識を与えることを軽 視した,ということである。次のように言う。

  たとえば,自転車の習いたてのときには,移

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 動能力はむしろ,徒歩に劣る。しかし,徒歩で  満足しているものは,やがて自転車で移動する  ものにその速度で太刀打できなくなる。習いた  ての不適応(廻りみち)なしに速度の勝利はえ  られないのだ。このことは,学習の進歩と知的  発達の過程でも起こる現象である。そして,前  に述べたプラグマティズムは,このことを見の  がしている。だから知的能力の実践的行動的起  源を説く正しさにもかかわらず,科学的概念の  学習の廻り道の意味を見失い,行動に対するそ  の相対的独自性を看過した誤りもそこに起因し     ゆ

 ている。

後に述べるように,デューイのいう「経験の再構 成」という場合の「経験」は,そのように「科学 的概念」の「相対的独自性を看過」してはいない のである。

 さらに勝田氏はデューイ批判の最後で以下のよ うに述べている。

  しかし,そこで重要なのは,社会的に形成さ  れ,歴史的に蓄積された知識の本質的なものを,

 自己の所有とすることによって,主体が成長す  るという意味を含んでいることをとらえること  である。だから,そのことは,主体が直接に日  常的な経験を再構成するという過程とは本質的        ロの

 にちがったことなのである。

これは日本に一般に受けとられていたデューイ理 解をみごとに代弁してはいるが,デューイ自身の 理論は,そのように「直接に日常的な経験を再構 成する」などというものではないのである。

 2.デューイにおける「経験」の概念

 では,デューイにお」いては「経験」とはいかな る概念であったのだろうか。彼は『思考の方法』

(初版,1910年)にお」いて,それを「思想を含むも のとしての経験」(Experience as inclusive of thought)という小見出しで,そして改訂版(1933)

では「『経験』の意味」という小見出しで,簡潔に 述べている。

 初版の小見出しからだけでも,「経験」とは勝田 氏のいうような「直接的に日常的経験」などだけ

を意味するものではないことが判明する。むしろ,

そのように誤解されることを予想して,意識的に その誤解を回避しようとしていたものとさえ感じ られる。なお・,デューイのその説明は「経験的思 考と科学的思考」(Empirical and Scientific

Thought)という章の中で述べられている点に注 目しておきたい。その最初の部分は以下のとおり である。あえて邦訳(植田清次訳)をかかげるこ とにするが,この行の原文は初版も改訂版も全く 同じである。

  要するに経験(experience)いう用語は経験  的(empirical)な精神の態度か,実験的(expe−

 r㎞ental)なそれとのどちらかに関連して説明され  ることができよう。経験とは固定的(rigid)な  閉じたものではないのである。それは生動的な,

       ラロ  したがって成長するものなのである。

 勝田氏は「経験の意味を拡大する」ことには不 満のようであるが,それでは「経験的」なものと

「実験的」つまり「科学的」なものを包括したもの を何と呼べばよいのであろうか。教育の本質を深 く追究してゆくと,後述するように,どうしても それらを包括して扱わざるをえない事態が生じて くるのである。デューイにおいてはそれが「経験」

(experience)なのであって,「経験的」なものは「経 験」の半面にすぎないのである。

 したがって,上に引用した箇所につづいて述べ ているように,彼にとっては「経験」とは「感覚 や欲求や伝統などの限定的にはたらく影響から我 々を解放してくれる反省(reflection)」ばかりで なく,「最も正確で透徹した思考が発見するすべ        ロヨてのもの」をも包含しているのである。後者は,

「科学的」なものを意味することは明らかであり,

勝田氏のいう「科学的概念」とみてよいであろう。

 かくして教育の任務は「経験の解放と拡大」と いうことになる。年少の子どもほど「経験」の内 容は狭く限られた素朴なものなので,その時期な らば「経験的」なものによる「解放と拡大」がよ り多くを占めるであろう。そして成長とともに徐 々に「実験的」な「科学的」なものによらなけれ ば「解放と拡大」が不可能になることが多くなる はずである。したがって,いつまでも「精神の習 慣にお・いて経験的」であるということは,デュー

イにとっては「絶望的」なのである。戦後日本の 経験主義教育は「はいまわる経験主義」と非難さ れたが,それはデューイにとっても「絶望的」な ことだったのである。彼のいう「経験」とは勝田 氏のいうような「日常的な経験」だけではないの である。

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 3.「経験」と「表象圏」

 デューイはヘルバルトと同様,教育を能力心理 学に基づいて「諸能力」の訓練とみる立場はとら ず,ヘルバルト理論の意義を高く評価する一方で,

それを厳しく批判している。評価しているのは大 きくは二点になる。一つは前述のように「教材に 関連する諸問題を全面に押し出すことに大きな影 響を与えた」という点である。

 もう一点は,デューイが最も重視していること で,「教授という仕事を機械的で偶然的な領域の

         きう

仕事から除外した」という点である。これは第一 の点とも根底にお・いて連続しているものである。

このような観点からデューイはヘルバルトの形式 段階論に対しても,無条件にではないが,大きな        ロ 意義を認めている。従来はとかく両者の理論の相 違だけが注目される傾向があったように思われる。

 デューイのヘルバルト批判で最も本質的なのは 次の一節に表れているものであろう。

  この見解の基本的な理論上の欠点は,環境と  のかかわりによって生じてくる方向がえと結合  (redirection and combination)の中で展開さ  れる活発な一定の諸機能が人間には存在する,

 ということを無視している点である。その理論  は教師側の理論を代表している。この事実は長  短を同時に併せもっている。精神はそれまでに  教えられてきた内容で構成されているという考  え方,および,教えられてきた内容の重要性は  その後の教授に活用できることにあるという考  え方は,教師サイドからの見方を反映している。

 その哲学は,子どもに教授する教師の任務につ  いては雄弁であるが,学習する子どもの特権に       しの

 ついてはほとんど語っていない。 (傍点は引用  者)

 彼のヘルバルト主義批判で特に重要なのは,「活 発な一定の諸機能」を無視している,ということ である。それは,ヘルバルトが「利己的・自然的 衝動」と呼んだものであるが,たしかにヘルバル トがそれを積極的に位置づけなかったことは事実 である。ヘルバルト理論について,「教育のエッセ ンスである効果的な習練の機会を求める活力ある 原動力を除けば,教育のすべてを考慮している。」

とまで言い切っている。ここで「原動力」とは上 記の「諸機能」のことであるが,彼がこれをいか

に重視していたかが窺える。

 両者のこの相違のもつ意味はまことに大ではあ るが,しかし相違は事実上この一点とみることもで きるかもしれない。デューイが「原動力」を除けば

「教育のすべてを考慮している」と言っているのは,

このような意味に解することができよう。この 点は,ヘルバルトにおける「表象圏」とデューイ のいう「経験」との相違を最も端的に示している ように思われる。

 デューイが批判しているもう一つの点は,「学習 する子どもの特権についてはほとんど語っていな い」ということである。ヘルバルトの主たる関心 は実践哲学(倫理学)と表象心理学を基礎科学と する「科学としての教育学」を樹立することにあ った。したがって,まだそれが教授する教師の側 からみた理論であったことは否定できないが,そ れは教授理論の歴史的発展過程における一つの段 階として止むえないことと言うべきであろう。し たがってこのことは,彼の教授理論上の意義を少

しも低下させることにはならないはずである。

 4.「経験の再構成」のメカニズム

 以上のような経験概念に基づいて,デューイは 教育を「経験の再構成」として捉えたのである。

「経験の質の直接的変容」とも言っている。この限 りにおいて,幼児も青年も成人も「教育上は同じ レベルに立つ」ことになる。それは二つの意味に おいてである。一つは,「経験のいかなる段階にお・

いても実際に学習されるものがその経験の価値を 規定する」ということである。教師や親が何かを 教えたつもりでいても,子どもにとって「実際に 章書きれるもあ」がなければ,それは「経験の再       ロ  構成」をもたらすことにはならないからである。

幼児ならば日常的で「経験的」(empirical)なこと の中に「学習されるもの」が多々含まれているで あろうが,青年から成人へと成長すれば単な「経 験的」なことの中には「実際に学習されるもの」

はほとんど含まれず,「実験的」ないし「科学的」

なものに含まれることが多いであろう。このよう に,幼児には「経験的」なものが「価値」をもっ ことになり,青年や成人には「科学的」なものが

「価値を規定する」ことになるのである。

 もう一つの意味は,「人生(1ife)のいかなる時点 にお・いても,その主要任務は,かくして生活(1柄ng)

をそれ自身の感受できる意味を豊かにすることに       

貢献させることにある。」ということである。ここ

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で豊かにされる「意味」が「科学的」なものや体 系的知識を学習する際にもきわめて重要な役割を 果たすことになるのである。

 それでは,幼児から成人まで「同じレベルに立 つ」とみられる「経験の再構成」とは,具体的に はどのような内容をもつのであろうか。デューイ によると,それには①「経験の意味を増加させる」

という側面と,②「その後の経験の方向を導く能       け力を増大させる」という側面とがある。両者がど のような関係になるのかについては彼は直接には 触れていないが,後者は人間の行動に直結する側 面にかかわるのに対し,前者の「意味を増加させ る」という側面は行動に直接かかわる次元の問題 ではないことを確認してお・きたい。勝田氏のよう に,「行動に対する相対的独自性を看過」して,「科 学的概念」を軽視したとする誤解もここから生ず

るからである。

 デューイによれば「意味の増加」は,われわれ がかかわる「諸活動の結びつきと継続性」をどれ だけ感じとることができるかによって達成される。

「結びつき」とは事物・事象間の横の関連性を,「継 続性」はそれらの時間的な関連性や論理的関連性 などの縦の面とみてよいであろう。「諸活動」は乳 幼児の「盲目的」「衝動的形態」から始まる。何も 知らない幼児は,明るい光に手をのばして「熱さ」

を感じとる。このことからその幼児は,何かを見 てそれに触れるということは高熱と苦痛を意味す る,ということを学んだのである。疑いなく,「意 味の増加」が生じたはずである。一方,科学者が 実験室でより多くのものを学ぶ場合も原理的には これと異なるものではない。彼は種々の実験をす ることによって,それまで知られていなかった,

熱と他の事物・事象との関連を感じとることがで きるようになるのである。これは彼にとっては明 らかに「意味の増加」にほかならない。

 ここに見られる二つの例には,知的水準という 面からみれば大きな差があるが,ともに「意味の 増加」がなされたという点で教育的には「同じレ ベル」ということになるのである。そして両者に とって,新しい「意味」を獲得すれば,それは単 なる加算的な「増加」にとどまることはほとんど なく,直接・間接に何らかの程度において,既有 の「経験」にもさまざまの影響を与えることは必 定である。これがデューイの言う「経験の再構成」

なのである。

 次に,第二の側面である「その後の経験の方向 を導く能力を増大させる」という面について考察 する。「経験の方向」とは,もう少し具体化すれば

「経験の新たな方向づけ(redirection)と統制」と いうことになる。そのような「能力を増大させる」

ということは,端的に言えば,「自分のやろうとす ることが自分にも分かるようにするということ,

つまり,やろうとすることの結果が予想できるよ うにすること」である。そうすれば,どんなこと が起こるかについての先の見通しも可能になり,

有利な結果が予想される場合はこれを確実なもの にし,望ましくない結果が予測される場合はこれ を回避するように前以って準備できることになる。

「新たな方向づけ」とはこのことであり,それに基 づいた行動がとれるように「統制」することが必 要になるのである。これも「経験の再構成」であ

ることは多言を要しないであろう。

 さて,今,「自分のやろうとすることが自分にも 分かるようにする」と言ったが,「自分のやろうと すること」の内容が何かは,人間形成の上ではき わめて重要な意味をもつ。ここから,「経験の再構 成」の第一の側面である「意味を増加させる」こ

とが,その大前提となることが明らかとなる。人 間や社会や自然について各人がどのような「意味」

づけをするかによって,「自分のやろうとすること」

が大きく規定されてくるからである。

 なお,デューイの言う「経験の再構成」は,「主 体が直接に日常的な経験を再構成するという過程」

とはかなり異質のものであることも,これまでの 考察でほぼ証明されたとみてよいであろう。

三、「解釈内容」形成のメカニズム

 デューイにおける「経験の再構成」の理論は,

あらゆる教育作用に共通する基本的メカニズムを 把えている点でその教授理論的意義は絶大である が,そのことが同時に限界ともなり,種々の誤解 を生む原因ともなっているように思われる。たし かに,あらゆる教育作用を統一的に把握するには それに必須の鍵概念は包括的なものにならざるを えないのかも知れない。彼のいう「経験」の概念 がそれであり,ヘルバルトにおける「表象」と「道 徳性」の両概念がそうであった。それだけに,教 育活動を学校教育とりわけ授業にしぼって検討し

(9)

てゆくと,そこから具体的な手がかりを引き出す ことがなかなか難しく,多種多様な解釈を生むこ とになるのである。

 このような観点から注目されるのは宇佐美寛氏 による「解釈内容」形成の理論である。その理論 は氏自身が位置づけているように,「世界的規模の 脈絡の中でみれば,この分析哲学の理論批判運動          ゆの流れに含まれるもの」で,どこからが氏のオリ

ジナルなものかをここで検討する余裕もないし,

さしあたってはその必要もないが,明らかにデュ ーイの理論を一歩前進させている面があるように 思われる。

 1.「経験の再構成」と「解釈内容」の形成  宇佐美氏は教授・学習という営みを「記号段階」

という観点から四つの段階に区分する。①「教科 内容」,②「教材」,③「授業刺激」,④「解釈内        ゆ

容」がこれである。

 「教科内容」とは「教師が構想した教授内容」で,

具体的な授業の過程を考慮に入れないでも考えら れるような内容である。学習指導要領に示されて いるようなレベルの「内容」である。「教材」とは

「個々の学級,特定の時間との関わりで具体的に考 えられた教授内容」である。実際の授業において 子どもが直接に取り組むのはこれに関してである。

「教科内容」は,この「教材」の学習を通してのみ 習得される,という関係になるであろう。教育と は「教科書で教える」ことだと言われるが,ここ で言えば,教科書などの「教材」で「教科内容」

を教えることだ,ということになる。逆に「教 科書を教える」ことの誤りは,「教材」を教えるだ けにとどまり,「教科内容」には及ばないから,と いうことになる。

 ③の「授業刺激」とは「授業場面において教師 が生徒に②(教材)を与えるために送る刺激」で ある。要するに授業場面における教師からの働き かけの総体であるが,それは意識的に与えるもの だけとは限らないし,子ども同士で与え合う刺激 も含まれる。そして,「③の刺激を解釈することに よって生徒の『情報構造』の中に起こされた変化」

が④の「解釈内容」である。したがって,授業の 目的は学習者に新しい「解釈内容」を形成するこ と,である。

 ところで宇佐美氏によれば,各人が生後に獲得 する「解釈内容」の総体は「ことば一経験の関連

構造」とか「情報のプール」とか「情報構造」とか 呼ばれている。これはデューイのいう「経験」の 総体に相当するものであり,ヘルバルトの場合の

「表象圏」におおよそ対応してるものとみてよいで あろう。新しい「解釈内容」が形成されれば全体 としての「情報構造」にも何らの影響は必ず生ず るものとみられるので,それを形成するというこ とはデューイにおける「経験の再構成」とほぼ同 様のことを意味するものとみてよいであろう。

 ただしデューイ理論と大きく異なるのは,「こと ば」と「経験」とを明確に区別し,両者の関係を 徹底的に追求していることである。ヘルバルトに

おいてはもちろんのこと,デューイにおいてもそ のような考察は全くといってよいほどみられない。

これは宇佐美氏が理論的な手がかりにしている「分 析哲学的方法」の歴史的な発展過程からみても当 然のことであろう。そして氏の理論は,「解釈」す

るとはどういうことかのメカニズムを,デューイ の場合よりもさらに精密に説明するのである。

 2.「解釈」のメカニズム

 デューイは「経験の再構成」を「意味の増加」

という面と「経験の方向を導く能力の増大」という 二つの側面から具体例をあげて説明してはいるが,

「意味の増加」そのもののメカニズムや「能力の増 大」そのもののメカニズムについては従来の理論

を特に前進させているとは言えないであろう。

 宇佐美氏は教授・学習を「記号段階」という観 点から四つの段階に分けたが,われわれが特に注 目したいのは,教師からの「授業刺激」を受けて

「解釈内容」がどのように学習者に形成されるのか,

に関する理論である。これは,教科書の中の用語 や文章を単に暗記することと,ほんとうに「わか る」とか「理解する」とかいうことはどのように 違うのか,という教育の根本問題への一つの解答

にもなるのである。これに対する宇佐美氏の説明 は次の一節からその要点をおおよそ窺うことがで きるように思われるので,やや長くなるが引用す

る。

  解釈とは,解釈される記号が,本来持ってい  ると一般にみなされている内容(これを「意味」

 とよぼう。)のわく内に止まるものではなく,そ  のわくを越えた新たな内容をつけ加えて新しい  内容を作り出すことなのである。ことばの解釈  は,単に辞書に出ているようないいかえ程度の

(10)

 ものではなく,解釈者がすでに持っている経験  からの資料を加えて内容を再構成するものであ  る。たとえば,「11月から3月まで,ほとんど毎  日雪おろしをするんだろうね。」ということばを  解釈して得られた解釈内容には,各々の子ども  の連想や雪の思い出が組みこまれている。だか  ら,子どもたちの解釈内容は,それぞれ異なる  ことになるのである。「理解」とは,このような  解釈なのである。そして,解釈がこのように内  容の変質であるがゆえに,子どもは教師が与え  た記号そのもので,荷物で倉庫が満たされるよ  うに,頭を満たされてしまうということにはなら  ないのであり,どの子どももみな全く同じ理解を  したということにはならないのである。子どもは,

 教師が与えたものをみなそれぞれ違った屈折の  させ方をして「わかる」のである。子どもは,教        め  師の予測を越えたわかり方をするのである。

 ここで,いくつかの要点を確認しておきたい。

授業において,あることを「理解する」とか「わ かる」とかいうことは,学習者自身がそれを「解 釈」することである。したがって,それは教師の

「解釈」や教科書の説明をそのまま「おぼえる」こ ととは全く異なるものである。また「解釈」に際 しては,解釈者の既有の経験が必ずかかわってく る。だから解釈者の既有経験に何らのかかわりを もちえないような内容は「解釈」されえないと同 時に,各人の「解釈」は決して全く同じにはなり えない。全く同じ経験を有している人はありえな いからである。ここからも明らかなように,たと え基礎的なことを共通に指導したとしても,ひと りひとりの「理解」は必ず個性的にのみ成立する。

いかに経験豊かな教師が可能なかぎりの指導案を 作成しても,実際の授業では必ず変更されると言

われる。クラス全員の子どもの既有経験を完全に 知りえない以上,そのことは当然である。

 3.指示的意味と情緒的意味

 上に述べた「解釈」のメカニズムを若干補足す る意味で有効とみられるのは「指示的意味」と「情 緒的意味」との区別,およびそれら相互の関連で

ある。言語社会学者である鈴木孝夫氏によると,

「意味」とは,「私たちが,ある音声形態(具体的に 言うならば,『犬』ということばの『イヌ』という音)

       どねとの関連で持っている体験および知識の総体」であ る。したがって,ことばの「意味」は,個人個人に

よって「非常に違っている」し,ことばの「意味」

は「ことばによって伝達することはできない。」の である。この点は誤解されていることが多い。

 このようなことを前提とした上で,特に示唆的 なのは「指示的意味」と「情緒的意味」との区別 と関連である。前者は「個人によって変動するこ とのない,社会的に安定した共通項と考えられ」

る部分であり,後者は「個人個人によって相違す る部分で,「含蓄的意味」などとも呼ばれる部分 である。ここで鈴木氏が主張しているのは,従来 は「共通項をどのように一般化して捉えることが できるかに全力が向けられてきた」が,「このよう な情緒的意味と指示的意味を区別する必要はない       のし,それは全くできない」ということである。

 この指摘は授業に関する諸問題を考察する場合 にも示唆的である。同一の「授業刺激」であって も,子どもに形成される「解釈内容」が全く同に はならないのは,個人個人がもつ「情緒的意味」

がそれぞれ異なるからなのである。そして,それ が「指示的意味」以上に強力に「解釈内容」を左 右することも少なくないのである。例えば,理科 の昆虫の学習でカブト虫が教材に用いられる場合 を考えてみよう。この場合も一定の「指示的意味」

が主となって授業は展開されるであろうが,カブ ト虫が大好きな子どもと,見るのも嫌だという子 どもでは,そこでの学習内容に関する「解釈」は,

個人個人がもつ「情緒的意味」に応じて著しく異 なってくるであろう。しかも,この相異が重要な のである。大好きな子どもは,その後ますます興 味をもち,いろいろ観察したり,図鑑で調べたり するようになる可能性が大となるからである。そ れにもかかわらず,ペーパーテストなどで測れる 学力は主として「指示的意味」にとどまらざるを 得ず,その成績にはそのような学習意欲の差は直 接には反映されえないのである。「見える学力」と

「見えない学力」の相違が問われる所以もここにある。

 教育が真に本来の人間形成的な機能を発揮しよ うとするならば,授業においても,この「情緒的 意味」を軽視してはならないのである。さらに,

授業において学習者の個性を重視しないとするな らば,それは「わかる」ことや「理解」すること を重視しないことにならざるをえないのである。

まとめと今後の課題

ヘルバルトにおける「教育する教授」の理論は,授

(11)

業による人間形成を説いた先駆的なものであるが,

それによれば,授業の直接的な任務は「表象圏」

の形成である。教授の目的である「多面的興味」

だけでなく,知情意のあらゆる精神活動の「座」

はこの「表象圏」にある,とされる。ここで重要 なことは,彼が能力心理学を破棄して,「表象圏」

は生後の学習(広義)によって形成されるとした こと,「自然的・利己的衝動」を否定的に位置づけた こと,学習のプロセスを「類化」のプロセスとし て捉えたこと,などである。

 デューイは,教育を「経験の再構成」と捉えた が,それはヘルバルトにおける「表象圏」の形成 にほぼ対応するものとみられる。ただし,両者の 大きな相違は,デューイがヘルバルトのいう「自 然的・利己的衝動」の役割を積極的に位置づけた

ことである。デューイにお・いては,「経験」は「経 験的」(empirica1)なものと「科学的」なもの両極 端を含む広い概念である。したがって,「経験の再 構成」としての教育は,幼児から成人に至るまで,

その本質において「同じレベル」に立つものとされ る。しかし,デューイは「再構成」そのもののメカニ ズムについては特段の論及をしているとは言えない。

 この点を一歩前進させているのは,「分析哲学」

を手がかりとする宇佐美氏の「解釈内容」形成の 理論であり,教育論そのものではないが,それを 強力に支援している理論の一つに鈴木氏の「意味」

に関する理論がある。宇佐美氏によると,「わかる」

とか「理解する」ということは「解釈」すること で,それには,解釈者の側に何らかの程度におい てそれに対応する「経験」がなければ成立しない。

と同時に,「解釈」は解釈者の「経験」に応じて個 性的なものにならざるをえない。鈴木氏によれば,

それは「情緒的意味」が個人個人で異なるから,

ということになる。いずれにしても,授業による 人間形成は,結局は,いかなる「解釈内容」を形 成するかの問題に帰着する。

 授業における人間形成のメカニズムをこのよう に捉えることができるとすれば,それはヘルバル トやデューイが追求した課題とほぼ同一の線上に 位置づくものとみることができるであろう。

 最後に,これまでの考察から,結論のいくつか を項目的に示してみる。①ほんとうに「わかる」

ということは,単に「おぼえる」(記憶する)とい うことは無関係ではないにしても,本質的に異る ものである。②「わかる」とか「理解する」とか

いうことは個性的にのみ成立する。③「わかる」

ということは,各人の既有経験との何らかのかか わりにおいてのみ成立する。それとのかかわりを 全くもたないような内容は「記憶」することはで

きても「わかる」ことはできない。④人々が共通 にもっている意味(指示的意味)だけでは暗記中 心の授業はできても,人間形成の授業は成立しな

い。したがって,⑤「まず基礎・基本を共通にし っかり教えてお・いて,しかる後にそれに基づいて 個性化教育を」という考え方は根本的に誤りである。

 これらの結論は認識論や哲学の領域からみれば まことに初歩的なものかも知れないが,教育はそ れらとは全く別に固有の長い歴史と伝統を有して いると同時に,外的諸条件に大きく左右されてい るので,現時点でこれらの点を授業実践のレベル で明確にすることの意義は決して小さくないもの

と考える。これらの観点から,今日の教育では

「たてまえ」になり下っている「自発性」や「個 性化」などの諸原理を再検討してみると,従釆の 常識とはやや異なる積極的な意味を引き出すことも できるし,多くのすぐれた授業実践から学びうる 内容も多少は豊かになるように思われる。

 次回は,そのHとして,これらの諸問題につい て考察する予定である。

         〔注〕

(1)高久清吉『教育の英知一ヘルバルトと現代の教   育』協同出版(1975) P.197.

(2)J.F.Herbarts S乞mtliche Werke,herausgege−

  ben von Hartenstein,1891,Band10.S.209.

  ebenda, S.11.

  高久清吉 前掲書 PP.206〜207.

  篠原助市「理論的教育学』協同出版(1929)P.151.

   同書  P.150.

  J.Dewey,Democracy and Education,1916,

  The Macmillan Company(1961),P.71.

(8〉拙著『ヘルバルト主義教授理論の展開』風間書   房(1985)参照。

(9)M.Seguel,Curriculum Field:Its Formative   Years,1966,P。8.

qO)勝田守一『勝田守一著作集』第6集 国土社   (1973)P.107

(11) 同書 PP.108〜109.

02  同書 P.142.

(3)

(4)

(5)

(6)

(7)

(12)

脳J.Dewey,How We Think,1933.植田清次訳   『思考の方法』春秋社(1930)P.206

〔14)J。Dewey,How We Think,1910,P.156 115) J.Dewey,Democrcy and Edcation,P・71

(16)拙稿「アメリカにおけるヘルバルト主義とデュ   ーイ」日本教育学会編『教育学研究』第44巻   第3号(1977〉

11の 」.Dewey,Democracy and Education,P.71

(18H19){20〕 Ibid.,P.76

⑫1)宇佐美寛『教授方法批判』明治図書(1977)

  P. 1

⑫2)宇佐美寛r思考指導の論理』明治図書(1973)

  P.23

⑫3) 同書 PP.23〜24

②4)鈴木孝夫『ことばと文化』岩波書店(1973)

  P.92

¢5) 同書 P.93

The Mechanism of Instruction for Personahty Developemnt (1)

Tanio SHOJI

 The purpose of this paper is to make clear the mechanism of instruction for personality development. At this time,it is impossible for us to say that we have common understanding about the true mechanism. The author of this paper tried to grasp the mechanim from examining the following three theories;

Erziehender Unterricht by J.F.Herbart,  reconstruction of experience by J.Dewey,and  structure of information by K.Usami.

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