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フィレンツェ公国君主コジモ1世の書斎

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はじめに 

 君主が書斎を建造する例は、14世紀から16世紀の イタリアで多くみられる。同地で領邦国家が形成さ れていくなか、君主は権力を中央集権化することに 努め、その中枢機関として宮廷が必要とされた。そ のなかで、君主の住居であり政治を行う場である宮 殿が整備され、その一部として書斎が建設される。

書斎はイタリアではストゥディオーロ(studiolo)もし くはスクリットイオ(scrittoio)と呼ばれ、静かに読書を する場でありながら、君主が自らが収集したコレク ションなどを展示し、君主の徳を示し、さらには政 治的なメッセージを発信する場となった。この点に おいて現代の博物館の展示という機能がみてとれ、

書斎が博物館の起源ともなったといわれている。

 16世紀にコジモ1世が宮廷を形成した拠点である フィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオにはいくつ もの書斎が建造された。コジモ1世は、フィレンツェ におけるメディチ家の君主としての立場の強化、さ らには自身がメディチ家の傍流の出身であるという ことから相続の正統性を主張するという目的のも と、巧みにプロパガンダ政策をおこなった人物であ る。その初期の政策として宮廷の整備に取り組み、

それまで市民が政治を行う拠点であり、共和国の象 徴であった市庁舎の改築を行い、自らの宮殿とし、

君主の部屋とともに多数の書斎を設置した。その改 築を手掛けたジョルジョ・ヴァザーリによる詳細な 記録が残され、当時の書斎の様子を想像することが できる。

 本稿では、コジモ1世が宮廷を形成したパラッ ツォ・ヴェッキオにおける書斎建設の意図につい

て、その装飾とそこで展開された展示からみていき たい。同パラッツオ全体の装飾に指摘されるコジモ 1世の政治的メッセージが書斎についてもみられる ことを指摘する。そして、コジモ1世の約40年の治 世のなかで、書斎の展示は政策を反映して変化して いく。その変遷についてもみていきたい。

1.イタリア宮廷の書斎に関する先行研究

 宮廷は君主を中心とした社会であり、ひとつの権 力空間である。宮廷の拠点である宮殿は、君主の さまざまな権力誇示の舞台となった。その要素のひ とつである書斎はその役割を担っている。実際に君 主たちは競って書斎を造り上げている。イタリアに おける有名な書斎の例としてマントヴァのイザベッ ラ・デステ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モン テフェルトロ、メディチ家のフランチェスコ1世の 書斎などがあり、個別の研究が数多く取り組まれて いる。これらの書斎には著名な芸術家が装飾のた めの作品を制作しており、その作品単体においても 研究は取り組まれている。君主の書斎は15世紀には じまるルネサンス期の例が中心となっていたが、16 世紀のマニエリスム期の君主が建造した書斎も含め た、書斎の歴史や分類に関する包括的な研究も発表 されている

 展示される君主のコレクションついても、コレク ショニズム研究の隆盛から、現在、多くの研究が提 出されている。ポミアンによれば、西欧において 14世紀後半から「過去の時代や地上の未知の領域や 自然に対する新しい態度」が現れ、古代遺物や異国 の珍しいものを所有することに価値が見いだされ、

内島美奈子

フィレンツェ公国君主コジモ1世の書斎

―展示にみる政治的役割とその変遷―

西南学院大学博物館 研究紀要 第5号

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廷の名声を高めるようなコレクションを保有するこ とが国の豊かさや権威の象徴ともなり、またその正 統性を周囲に示す手段ともなる。さらには、メディ チ家は文芸を保護し、蒐集家として知られていた。 コジモ1世はメディチ家の先代たちを手本としてコ レクション収集に努めたが、それは個人的な趣味で はなく政治的な理由があったとされる。

 本稿では、コジモ1世のコレクションや政策に関 する研究を参照し、書斎の展示にみる政治的役割に ついて確認する7

2.パラッツォ・ヴェッキオの書斎の概要

 コジモ1世は、パラッツォ・ヴェッキオに居を移 し、共和国の政治の拠点であった場所を宮廷に造り 替えるべく、大規模な改築をおこなった(図1)。  その経過は大きく2つの時期にわけられる。1540

~ 55年にジョヴァンニ・バッティスタ・デル・

タッソーが担当した時期と、1555 ~ 72年にジョル ジョ・ヴァザーリが担当した時期である。書斎はす べてヴァザーリによって手掛けられ、8つもの書斎

を建築した(表1)。それらはいくつかの区画の一 部である場合と、書斎だけを単独で建造する場合が ある。

 宮殿には、いくつもの部屋からなるまとまった区画があ り、そのなかにはアッパルタメント(appartamento)がい くつも存在する。アッパルタメントとはまとまった一連

書斎名 制作年 場所 担当

① カリオペの書斎

(Scrittoio di Calliope) 1555 ~6 3階「四大元素の区画」 ヴァザーリ

② ミネルヴァの書斎(Scrittoio di Minerva) 1557 ~ 62 3階「四大元素の区画」 ヴァザーリ

ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・

ネーレの間の書斎

(Scrittoio di Giovanni dalle Bande Nere)

1558 ~ 61 2階「レオ10世の区画」 ヴァザーリ

④ 公爵の書斎(Scrittoio del Duca) 1559 ~ 61 2階「コジモ1世の区画」 ヴァザーリ

⑤ 公爵の書斎(Scrittoio del Duca)(Tesoretto) 1559 ~ 62 2階「コジモ1世の区画」 ヴァザーリ

⑥ エレオノーラ公妃の書斎(Scrittoio di Eleonora) 1561 ~ 62 3階「エレオノーラの区画」ヴァザーリ

⑦ テラスの書斎(Scrittoio del Terrazzo) 1562?5 ~ 6/1581 ~ 2 3階 ヴァザーリ/

アンマナーティ

⑧ フランチェスコ1世の書斎(Studiolo di Francesco I) 1570 ~ 5 2階 ヴァザーリ

表1

(図1)パラッツォ・ヴェッキオ、フィレンツェ(筆者撮影)

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の続き部屋のことであり、君主やその妃のものがそ れぞれ作られる場合が多い。同パラッツォにもコジ モ1世の2つの区画と妃エレオノーラの区画が作ら れ、それぞれに謁見の間、寝室、書斎などが配置さ れている。エレオノーラの区画には礼拝堂もある。

その配置は、部屋の役割によって決められており、

公的なスペースは入口の近くに、私的なスペースほ ど奥に据えられる傾向にある。書斎は区画のもっと も奥に造られることが多く、読書という私的な活動 の場として本来は極めて私的な性格をもつ空間で あった10。しかし、君主の書斎は、書斎本来の私的 な性格を有しつつも、公私両方のスペースとして使 用される両義的な性格をもっている。君主のコレク ションを保管し、君主のみが自由にコレクションを 眺める秘匿のスペースとして機能する一方で、自慢 のコレクションを賓客に見せ、財力や権威を誇示す る場でもあったのである。コジモ1世がパラッツォ を改築していくなかで設置したいくつもの書斎は、

その配置によって異なる用途があった。

 パラッツォ・ヴェッキオには、コジモ1世の2つ の区画があり、3階に「四大元素の区画(Quartiere di Elementi)」が、2階に「レオ10世の区画(Quartiere di LeoⅩ)」が同時並行で建設された。上下に位置す

る2つの区画の装飾には、対応する形でコジモ1世 の政治的メッセージが発信されている。レオ10世の 区画は、メディチ家の発展の基礎を築いたひとびと である、コジモ・イル・ヴェッキオ、ロレンツォ・

イル・マニフィコ、コジモの父であるジョヴァンニ、

レオ10世、クレメンス7世とコジモ1世のそれぞれ に部屋がわりあてられ、各自を称揚するエピソード で彩られている。四大元素の区画は神話の神々を各 部屋のテーマとし、下階のメディチ家の部屋と関連 づけられた。コジモ・イル・ヴェッキオは豊穣神ケ レスと、コジモ1世は最高神ユピテルと、ジョヴァ ンニは英雄ヘラクレスと結びつけられている。この 2つの区画の装飾において発信されているコジモ1 世のメッセージとは、メディチ家の歴史のなかに自 らを位置づけることによるメディチ家当主を相続す る正統性のアピールと、メディチ家のひとびとやコ ジモ1世の称揚、神格化であるといえる。

 次に書斎についてみていこう。レオ10世の区画の 書斎③は、コジモ1世の父「ジョヴァンニ・ダッレ・

バンデ・ネーレの間」に付随するものとして配置さ れた。天井画はユリウス・カエサルが机に座り、『コ ンメンターリ』の執筆に没頭している様子である。

この主題の選択には、勇猛な軍人であった父を軍服

(図2)ジョルジョ・ヴァザーリ《カリオペ》天井画

西南学院大学博物館 研究紀要 第5号

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もうひとつの区画には、①カリオペの書斎と②ミネ ルヴァの書斎という2つの書斎が配置された。それ ぞれが、区画の奥に配置されており、その立地は、

孤独な時間を過ごす私的な空間としての書斎の本来 の機能を保持していることがわかる。カリオペの書 斎は、コジモ1世のコレクションを展示する場とし て活用されていた。装飾については詩歌などの諸芸 術を保護するムーサのひとりであるカリオペとミネ ルヴァがそれぞれテーマとして選ばれており、知的 な活動を行う場に最適だと考えられるものである

(図2)11。ヴァザーリによれば、カリオペの書斎で は、9人のムーサのうち、部屋の名となっているカ リオペのみ人物像で表され、残りの8人は楽器など の象徴物となっている12。ムーサを描いた他の例と して、マントヴァのゴンザーガ宮廷のイザベッラ・

デステは、書斎に飾るためアンドレア・マンテー ニャに《パルナッソス》を描かせ、踊る9人のムーサ が表された。また、紀元前にアレクサンドリアに建 造された学術研究の拠点は「ムーサの館」(ムーサイ オン)と呼ばれてミュージアムの語源となっており、

書斎の装飾の主題と空間の機能は現在の博物館と結 びついている。

 さらに2階に整備されたもうひとつのコジモ1世 の区画にも、書斎⑤が建造された。この空間は、「宝 物庫(Tesoretto)」とも呼ばれる。正方形の小さな空 間ではあるが、大きな収納扉が四方にある。パラッ ツォのもっとも公的な空間である五百人広間のすぐ そばにあり、貴重なものを保存するほか、文書を保 管する場所でもあったという。コジモ1世が公的な 業務を処理する場であったとも推測される。そして、

区画とは別に建設された⑦テラスの書斎がある。2 つのテラスに囲まれた空間であり、そのひとつがコ レクションを保管するグアルダローバ(衣裳部屋)で あった現在の「地図の間」と廊下でつながっていた。

コジモ1世が選んだコレクションをグアルダローバ から運ばせ、調べたり、眺めたりする場としてグア ルダローバの補完的な機能を有していたと推測され ている。

途があると推測されるが、ここでは展示室としてお もに活用された①カリオペの書斎に注目してみてい きたい。

3.コジモ1世のコレクションの展示   -カリオペの書斎

 カリオペの書斎は、同パラッツオの改築で設置さ れた書斎のなかで最初に造られた。四大元素の区画 のなかでは、君主の寝室であったとされる「ケレス の間」の一角にあり、区画の一番奥に位置している。

小さな空間ではあるが2つの入口があり、そのうち のひとつは「秘密の」階段に接続し、下の階にたどり 着く。この階段を使用すれば君主は区画の一連の部 屋を通ることなく、書斎にアクセスすることができ、

君主の私的なスペースであることをうかがわせる。

書斎の装飾は天井画のほか、窓にグロテスク文様で 彩られた《ヴィーナスと三美神》が表わされている。

そのほか、コジモ1世の星座や紋章も描かれ、書斎 の装飾は文芸を庇護する君主の徳を表すものであっ た。

 カリオペの書斎には、コジモ1世のコレクション が展示されていたことは、改築を手掛けたヴァザー リが書き残している。パラッツォ・ヴェッキオの解 説書ともされる『ラジョナメント13』や、『列伝14』(第 2版)のなかで、ドナッテロ、アニョーロ・ブロン ツィーノ、ジュリオ・クローヴィオの伝記において 書斎のコレクションについて触れられている。ブロ ンツィーノは書斎に飾るメディチ家のひとびとの肖 像画を制作したという。そのほかの記述から、メディ 家のひとびとの肖像画、大理石の古代彫像、ブロン ズ像、小さい現代の絵画、小さな珍しいもの、金・

銀・銅のメダルなどが展示されていたとされる。さ らに、古代ローマ以前にトスカーナ地域に居住して いたエトルリアの彫像などもあった。コジモ1世が 収集した遺物は、1541年にアレッツォで発見されて いたエトルリア彫刻とされるミネルヴァ像を1552年 に取得、その翌年にキメラ像(図3)を得ている15

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ヴァザーリやベンヴェヌート・チェッリーニは、キ メラについて紹介しており、当時、キメラ像が話題 となっていたことがうかがえる。これらの収集品は、

パラッツォ・ヴェッキオに安置されている。書斎は 狭い空間であるため小型のものが展示品として選択 される傾向にあり、キメラ像は同書斎に展示される ことはなかった。しかし、ヴァザーリが同書斎の解 説のなかでキメラ像について触れており、その重要 性は強調されている。さらには、未開の地の珍しい ものも展示され、同時代に流行した、世界のあらゆ るものを収集していた他の君主の例もある。これら の展示されているものから、コジモ1世の2つの政 治的意図が指摘されている。

 ひとつは、メディチ家の家督を相続する正統性の アピールである。コジモ1世は傍流の出身であった ため、今までメディチ家の当主としてフィレンツェ に大きな影響力をもっていた主流の家系との連続性 を主張する必要があった。それは、メディチ家の繁 栄を築いたジョヴァンニ・ディ・ビッチからコジモ 1世の息子たちまでのメディチ家のひとびとの肖像 画を並べることで示された。また、1494年にメディ チ家が2度目の追放にあった際に散逸したロレン ツォのコレクションを再度手に入れて展示したとい う。メディチ家の歴代の当主たちは有名なコレク ターであり、散逸したコレクションを再度収集する ことは、主流の家系とのつながりを強調することに

よる、地位の正当化という意図も見てとれる。

 もうひとつは、フィレンツェとエトルリアとの関 連性の主張である。書斎では古代遺物、とくに小さ な彫像を展示し、さらにトスカーナの14 ~ 15世紀 の彫刻家の作品を並べていたという。それはエトル リア彫像から当時の現代の彫像までのつながりを述 べることで、フィレンツェはローマ起源よりもさら に古い伝統があることを主張した。リーヴェンウェ インによれば、トスカーナ彫刻の優位性の主張でも あるという。また、コジモ1世はこれからトスカー ナ全域を支配する領域国家を形成するために、エト ルリア神話を採用したと指摘されている。エトルリ アというトスカーナ共通の起源を強調することで、

フィレンツェ周辺の国家を併合してトスカーナを統 一する正当性をアピールしたのである。これは、

1565年に完成した五百人広間の天井においても強調 される。コジモ1世が描かれた天上画を中心に、支 配したトスカーナの領邦の国々が描かれ、エトルリ アの王と自らを銘文で表記している。コジモ1世が 固執したテーマであることがヴァザーリとのやりと りからも明らかとなっている。

 北田によれば、フィレンツェの創建を古代ローマ としていた長い歴史に反して、コジモ1世はエトル リア創建の方を強調したとされる16。フィレンツェ の都市、さらには宮廷を古い起源と結びつけるよう なコレクションを保有することで、他の宮廷との競 争に打ち勝つ目的もあったと推測される。とりわけ、

コジモ1世の治世の前半期において、領土拡大は最 大の関心事項であった。コジモ1世は領邦国家の形 成を目指しており、エトルリアという同一の起源を もつ国々を支配することは、歴史的に正当であるこ とをアピールする意図があったとされる。

 したがって、カリオペの書斎の展示には、コジモ 1世の治世前半の政策である相続の正統性と、領邦 国家の支配という点が反映されていると推測される。

4.書斎の解体

 コジモ1世のコレクションの展示空間として、書 斎以外にも重要な場所が1563年から1565年の間に構

(図3)キメラ、国立考古博物館、フィレンツェ

西南学院大学博物館 研究紀要 第5号

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衣裳部屋と訳されるグアルダローバは、博物館でい う収蔵庫のような役割を担う場であり、コレクショ ンが増えるにつれスペースが手狭になり、君主の重 要なものを収納するために改築された。古いグアル ダローバには「秘密のグアルダローバ」があり、コジモ 1世の特別なコレクションが保管されていた。そこ には14個の箪笥があり、12番目の箪笥の中身の多く が、先に述べたカリオペの書斎に1559 ~ 60年に移 されている。衣裳部屋でありながら、特別なコレク ションを見せるためにしばしば賓客を案内すること もあったとされる。そこで、新しいグアルダローバ は収納を兼ね備えた展示室として考案される。フィ オラーニによれば新しいグアルダローバにおいて も、書斎と同様に展示空間として構想され、コジモ 1世の政治的アピールがなされていることを指摘す る17。その改築工事はコジモ1世と改築を担当した ヴァザーリが亡くなる1574年時点にも終わることは なく、残された装飾の図案がすべて実現されたかは 不明である。

て知られる。部屋に巡らされた収納するための箪笥 の扉には装飾パネルがはめ込まれている。それは世 界のさまざまな地域の地図が取り付けられていて、

ひとつの世界が形作られている18。その地図の装飾 は、収納するものがその地域と関連するものであり、

一種のラベルとしても機能した。その他、1563 ~ 68年に地球儀が設置され、箪笥の上には237の有名 人の肖像画が少なくとも1570年から飾られていた。

この空間はこの天井の空をイメージした装飾 、地 図の装飾という構成からもわかるとおり、宇宙がイ メージされていた。これはコジモ(cosimo)=宇宙

(cosmo)を連想させ、コジモが世界を統べるという 君主称揚の意味合いをもっている。

 この構造は同時期に同パラッツオ建造された、コ ジモ1世の息子フランチェスコ1世の書斎に引き継 がれた(図4)。コレクションを並べる展示室であっ た書斎は、フランチェスコ1世の書斎では収蔵する 場としての性格が強い。その装飾は、宇宙創造が表 現されている19。フランチェスコ1世の書斎は、イ タリア宮廷の最後の書斎と言われているが、そこに はカリオペの書斎のような君主の徳を示すことや、

政治的メッセージを発する場としての役割はあまり ないといえる。その立地をみると、五百人広間とい うパラッツォのなかで最も公的な空間のすぐ近くに 建造されており、精神活動を営む場として奥に設置 されるべき伝統的な書斎の位置としては異例であ る。完成後、フランチェスコ1世の書斎はすぐに解 体され、第二の宮殿であるパラッツォ・ピッティや パラッツォ・ウフィツィに移された。そこでは書斎 ではなく展示室が造られ展示される。トスカーナ大 公の君主となり、領邦国家を統治する立場となった メディチ家当主には、書斎という狭い空間で、君主 の徳やメッセージを発信する場はそぐわなくなった といえよう。

おわりに

 コジモ1世の書斎には、現代の博物館の展示で言

(図4)フランチェスコ1世の書斎

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えば、学芸員=ヴァザーリ、図録=覚書、展示には 明確なメッセージがあった。しかし、書斎という性 格上、限られた空間であり、展示には所有者である 君主個人の意図が強く反映された。他方で、息子フ ランチェスコ1世は、伝統的な君主の書斎ではなく、

新たな展示空間にコレクションを並べ公開する。君 主という個人の徳を示し、政治的なメッセージを発 信する場は、空間も内容も拡大していくことで、そ の役割を終えることになる。

1  宮廷と権力空間についての研究は以下を参照。Marcello Fantoni, George Gorse, Malcolm Smuts, The Politics of Space : European Courts ca. 1500-1750, Bluzoni Editore, 2009, Roma.

2 Stephen Campbell, The Cabinet of Eros : Renaissance Mythological Painting and the Studiolo of Isabella d’Este, 2004 : Luciano Berti, Il principe dello studiolo. Francesco I dei Medici e la fine del Rinascimento fiorentino,Firenze, (1967)2002 : A cura di Alessandro Marchi, Lo Studiolo del Duca . Il ritorno degli Uomini Illustri alla Corte di Urbino, 2015.

3  Wolfgang Liebenwein, Studiolo storia e tipologia di uno spazio culturale, a cura di Claudia Cieri Via, Ferrara, (1977)2005.

4  イタリアのコレクショニズムの歴史については以下を参照。

Cristina De Benedictis, Per la Storia del Collezionismo italiano : Fonti e Documenti, 1991, Ponte Alle Grazie, Firenze.

5 クシシトフ・ポミアン『コレクション――趣味と好奇心の歴史人類 学――』吉田城・吉田典子訳、平凡社、1992年、58-63頁。

6 メディチ家の人々が形成したコレクションについての研究は国内外 で数多く発表されている。A cura di Cristina Acidini Luchinat, Tesori dale Collezioni Medicee, Firenze, 1997 :

松本典昭「ルネサンス期におけるメディチ家の宝物コレクション」

『阪南論集 社会学編』 第51巻、第3号、311-326頁、2016年:遠 山公一・金山弘昌編『美術コレクションを読む』慶應義塾大学出版 会、2012年: 和田咲子「16世紀トスカーナ大公の肖像画コレクション

――展示空間の変遷とその意味について――」『千葉大学社会文化科 学研究科研究プロジェクト報告書』第60集、2003年、1-14頁。

7 コジモ1世の政策については主に以下を参照。Henk Th. Van Veen, Cosimo I de’ Medici and his Self-representation in Florentine Art Culture, Cambridge University Press, 2006, New York : 北田葉子

『近世フィレンツェの政治と文化――コジモ1世の文化政策(1537- 60)』2003年、刀水書房。

8  パラッツォ・ヴェッキオについての研究は以下を参照。Nocolai Rubinstein, The Palazzo Vecchio 1298-1532 : Government, Architecture, and Imagery in the Civic Palace the Florentine Republic, Clarendon Press Oxford, 1995 : A cura di E. Allegri, A. Cecchi, Palazzo Vecchio e i Medici : Guida Storica, 1980, S.P.E.S, Firenze : Ugo Muccini, Alessandro Cecchi, Le stanze del principe in Palazzo vecchio, Le Lettere, 1991.

9 それぞれの書斎について、リーヴェンウェインとチェッキを参考に 簡単にまとめた。

①のカリオペの書斎はヴァザーリが宮殿の中で初めて手掛けた書斎 である。3階にあり、四大元素のアッパルタメントの一番奥に配

置された小さな部屋である 。アッパルタメントの最初の部屋で ある元素の間を通り、次のオプスの部屋、ケレスの間を通って、

その一番奥に位置する。小さな空間であるが、二つ目の入り口を 持つ。その二つ目の入り口は「秘密の階段(la scalina a chiocciola」

に繋がっていて、下の階にたどり着く。よって、元素の区画のい くつかの部屋を通ることなくこの書斎にたどり着くことも可能で ある。この立地は、書斎の本来の本を読むために、孤独の時間を 過ごす私的な空間としての書斎の機能を保持していることがわか る。部屋の名は、カリオペはヴァザーリが描いた、天井面にムー サのひとりで「叙情詩」を保護する女神カリオペに由来する。

②のミネルヴァの書斎は、四大元素の区画に位置し、ヘラクレスの 間からサトゥルヌスのテラスの間にある 。1690年の火災により 被害を受けており、損傷を受けた天井画が残るのみである。天井 画は部屋の名の由来になっている《ユピテルの頭から誕生するミ ネルヴァ》が描かれている。ジョヴァンニ・ストラダーノが手掛 けた。

③のジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレの間の書斎は、レオ10 世の区画にある 。今日は、天井画のみが現存しており、コジモ 1世の間からバンデ・ネーレの間への廊下の役割を果たしてい る。天井画はユリウス・カエサルが机に座り、『コンメンターリ』

の執筆に没頭している様子である。

④は現存しない書斎である 。チェッキによれば、フランチェスコ 1世の書斎が建造される前に存在した書斎であり、もしくはテゾ レットの下に建造されていたものである可能性があるという。そ の存在は、ヴィンチェンツォ・ダンティが手掛けた棚の扉から明 らかになる。その支払い記録があり、さらにはヴァザーリの『列伝』

のダンティのところで触れている、金属製の扉の装飾が現存して いる。バルジェッロ博物館に所蔵されている。その主題は、アウ グストゥス帝に巫女の偽書の焼却を認める場面であると提案され ている。その場面を中心に、ミネルヴァやアポロ(もしくはディ アナ)などの神々が彫られている。

⑤の書斎はコジモ1世の区画にあり、この小さな空間は、「宝物庫

(Tesoretto)」とも呼ばれる 。位置は、宮殿からの秘密の脱出口に つながる隠された階段が近くに配置され、フランチェスコ1世の 書斎に接続し、寝室も隣接する。部屋の造りは正方形であり、立 方体の空間である。他の書斎と同じようにコーニスがあり、壁面 には大きな収納扉が配置されている。それぞれの壁面の中心とな る収納扉には、破風状の飾りが付されている。天井は緩やかなアー チとなっており、中央に配された正方形の《四福音書家の象徴》の 周囲に寓意画が配されている。中央の絵の上下左右には、《哲学》

《天文学》《詩学》《幾何学》、四隅には《建築の寓意》《彫刻の寓意》《絵 画の寓意》《音楽の寓意》がある。天井画はヴァザーリとストラダー ノが手掛けたとされる。

⑦の書斎はテラスの書斎は、記録からによれば、ヴァザーリが60年 代に計画、一部を建設し、80年代にバルトロメオ・アンマナーティ の指揮のもと、装飾などが完成しているとされる。ドガーナの中 庭の上に位置する。エレオノーラの区画と新しいグアルダローバ をつなぐ位置にある。2つのテラスに挟まれた一室という、他の 書斎とは異なる位置にある。部屋には大理石の彫像が飾れていた という。部屋の内部はグロテスク装飾により飾られていた。2つ のテラスには、フレスコ画で柱廊やつる棚、ヴィラ(別荘)をもつ 風景が表されており、理想的な風景が表現されているとされる。

つる棚には、アポロかオルフェウスの像が置かれているように描 かれている。テラスの装飾は、トンマーゾ・デル・ヴェロキオが 手掛けた。装飾の選択には、静かな生活を送る場所としてヴィラ と書斎の類似性が指摘される。

10 改築を手掛けたジョルジ・ヴァザーリは、そのパラッツォの構成に おいて、書斎は「裏階段(scale segrete)」、「控えの間(anticamere)」

西南学院大学博物館 研究紀要 第5号

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と「洗面室(destri)」に続く.最後の要素であると述べている。Giorgio vasari, Le vite de’ più eccellenti architetti, pittori, et scultori italiani, da Cimabue, insino a’ tempi nostri, Nell’edizione per i tipi di Lorenzo Torrentino, Firenze 1550, A cura di Luciano Bellosi, Aldo Rossi, Einaudi, Torino, 1986, p. .

11 その他、ベルフィオーレにおけるレオネッロ・デステの書斎には、

古典古代の諸芸術の守護神ムーサを主題とするプログラムが描かれ ていたと推測されている。

12 その他の8人のムーサは、クレーイオ、エウトゥルペ、メルポメー ネ、ターリア、ポリンニーア、エラート、テルプシコーレ、ウラー ニアである。

13 ヴァザーリがコジモ1世の息子フランチェスコを案内する会話形式。

1558 ~ 63年に執筆され、1588年にヴァザーリの甥によって刊行され た。Ragionamenti del signor Giorgio Vasari. Sopra le invenzioni da lui dipinte in Firenze nel Palazzo Vecchio, a cura di Eugenio Giani, Accademia dell’Iris, 2011.

14 コジモ・イル・ヴェッキオが擁護した彫刻家ドナッテロの彫刻につ

いても、『列伝』のなかで触れられている。ジョルジョ・ヴァザーリ

『ルネサンス彫刻家建築家列伝』森田義之監訳、1989年、白水社。

15 古代遺物の収集については、ファブリツィオ・パオルッチ「15-18世 紀におけるメディチ家の古代コレクション」渡辺晋輔訳『国立西洋美 術館研究紀要』no.13、2009年、29-38頁。エトルリアの遺物の収集に ついては、M. Christofani, “Per una storia collezionismo archeologico nella Toscana granducale. I. I grandi bronzi”, in Prospettiva, n. 17, 1979, pp. 4-15.  北田前掲書、259頁。

16 北田、同掲書、258頁。

17 Francesca Fiorani, The Marvel of Maps : Art, Cartography and Politics in Renaissance Italy, Yale University New Haven and London, 2005 18 タンスのパネルの装飾は、エニャツィオ・ダンティーニによって

1563-1575年に31の地図、ステファノ・ボンィニョーリによって 1577-1586年に23の地図によって完成した。

19 若桑みどり「トスカーナ大公フランチェスコ一世のストゥディオー ロの「主題」について」『日伊文化研究』第12号、1973年、77-100頁。

内島 美奈子(うちじま みなこ)  西南学院大学博物館学芸員

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問四かりに目的地と全く異なる場所に着いたと言われても、旅の途上、成り行きで生じた 多少の齟齬にたいしてはさほど気にも留めないくらい、気が長くなっているから。 ( 75字)[9点] Aかりに目的地と全く異なる場所に着いたと言われても、(2点) ①「カルカッタ」の地名を出している場合は1点減。

ルパン三世のイメージとその考察 今村 颯斗 (福永 勝也ゼミ) イントロダクション 『ルパン三世』とはモンキー・パンチ氏のマン ガである。1967 年に双葉社の『漫画アクション』 8 月 10 日号(創刊号)で連載された。 その 4 年後の 1971 年からはテレビアニメ『ル パン三世 第 1 シリーズ』の放送がなされた。さ らに、6 年後の

①アルベロベッロの街並み2015年 イタリア トゥルッリという,白壁と円錐形に石(石灰岩)を 積み上げた屋根をもつ独特の家屋が 1000 棟以上も建 ち並ぶ。1996年に「アルベロベッロのトゥルッリ」とし て世界遺産に登録。写真は商業観光地区で,軒先に商 品が陳列されている。家屋の材質や全体的な形状,用 途などの情報が読み取れるとおもしろい。住居は従来,

ヨーロッパ州 ② ヨーロッパ州の 民族と文化 ヨーロッパ州の宗教や言 語の分布と民族の多様性 をふまえながら,キリス ト教などが共通した文化 の基き 盤ばんになっていること を確認しよう。 一いっ 般ぱん 的てき にヨーロッパは,キリスト教が 大部分の人々に信しん仰こうされているように, 世界的視野で見れば宗教や言語のちがい

2 した表情を見せる。 では,栄養不良の子の腕はどれくらいの太さなのだろう。メジャーを赤い色の「重度の栄養不良」に 合わせてみると,そのあまりの細さに誰もが驚きと戸惑いの表情を浮かべる。世界の子どもたちの現状 を資料から学ぶだけでなく,実際にバーチャル体験を行うことで,子どもたちは「誰かが何とかしなく

第 2 問 次の文章を読み,下の問い(問 1~8)に答えよ。 明治維新後,政府は天皇を中心とした中央集権国家の建設を目指し,憲法策定作 業を始めた。そして1889年2月に,ⓐ明治憲法(大日本帝国憲法)を制定した。こ の憲法が保障する「臣民の権利」は,法律の認める範囲内でのみ保障されるものに すぎなかった。

村のような処でも自分達の軽舟は自分達の村で造っていた.そんな小さな田舎の造船所の中にも年中無 休で動いているのがあったという(1の. 和蘭では造船業は好望な投資と考えられ・船舶を所有し操業することと商業取引とは截然と区別され て船をもたないで外国と取引はしないが造船株をもつ人の数がどしどし増えていった.だからGreen・

Ⅰ 日本における産業公害の発生と克服 文責 芹川 慎哉 1 高度経済成長期の日本 (1)当時の経済状況 日本経済は第 2 次世界大戦によって壊滅的な打撃を受けたが、朝鮮戦争による特需を経 て回復し、特に工業を中心に目覚しい成長を遂げた。無論冷戦下、西側陣営として当時の世 界情勢に組み込まれたなどの外的要因もさることながら、やはりその原動力となったのは