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中国共産党第18回全国代表大会(以下、党大会と略)が開かれ

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はじめに

2012年 11月、中国共産党第 18回全国代表大会

(以下、党大会と略)が開かれ、習近平を総

書記とする新指導部がお目見えし、新体制がスタートした。

もっとも、「習近平時代の到来」と言うのは時期尚早である。前々代の総書記である江沢 民は健在であり、前代の胡錦濤も「全面引退」したかにみえるが、あちこちに部下を配置 している。したがって、習が独自色を出すには、しばらく時間がかかるだろう。

中国における「長老政治(gerontocracy)」は、いまに始まったことではない。江沢民にし ても、 小平の目の黒いうちは何もできなかった。江が独自色を出し始めたのは、 が寝た きりになった1994年頃からであり、そのとき総書記になってから

5年も経っていたのである。

胡錦濤も同じであり、江沢民の部下に包囲され、がんじがらめになっていた。

今回の党大会で際立ったのは、2002年に総書記の地位を退いた江沢民が、86歳の高齢に もかかわらず、壇上で胡錦濤の隣に陣取ったことだ。壇上に並んだ議長団のメンバーをみ ると、江は胡に次いで序列2位になっていた。第

17回党大会

(2007年)でもそうだった。江 沢民は、引退後も影響力を保っていたのである。

党大会に向け、江沢民は、胡錦濤派に対抗して子飼いを最高指導部に入れるべく、精力 的に動いていた形跡がある。頻繁にメディアに登場して健在ぶりをみせつけただけでなく、

失脚した重慶市共産党委員会書記であった薄熙来(後述)の処分についても口出ししていた という。つまり、晴れてトップの座についた習近平ではあるが、しばらくは「児皇帝(傀儡 の皇帝)」の地位に甘んじなければならないということである。

はたして習近平体制のもとで、中国はどうなるのか。本稿ではまず、新指導部の陣容を 分析し、次に指導部選出をめぐる権力闘争を振り返る。そして最後に、習近平体制が直面 する今後の課題について検討することとする。

1

「習近平体制」―新指導部の陣容と胡錦濤の布石

胡錦濤は、潔く引退したが、それは「戦略的退却」とも言うべきものだ。その布陣は、

最高指導部の政治局常務委員よりワンランク下の政治局委員の顔触れをみれば一目瞭然で ある。まず、政治局常務委員に選ばれた7名の面々をみてみよう。これは一目で序列がわか る仕組みになっている。括弧には生年を記した。なぜなら年齢は、党指導部の人事におい

(2)

て大きな決め手となるからである。

1. 習近平

(1953年)

2. 李克強

(1955年)

3. 張徳江

(1946年)

4. 兪正声

(1945年)

5. 劉雲山

(1947年)

6. 王岐山

(1948年)

7. 張高麗

(1946年)

一見すると、胡錦濤の直系は、共産主義青年団(共青団)時代の部下で一番弟子の李克強 だけである。張徳江、兪正声、劉雲山、張高麗は江沢民に近く、王岐山は朱鎔基元首相と 温家宝首相(当時)のラインだとみられている。

胡錦濤は今回、党総書記とともに軍のトップである軍事委員会主席からも引退したが、

江沢民は第16回党大会(2002年)で総書記から引退した後も軍事委員会主席の地位に居座っ た。胡に軍権を譲ったのは

2年後の 2004

年になってからである。だから今回の人事をみて、

「江沢民が勝って胡錦濤が負けた」という声が上がったのも無理はない。しかし、新指導部 の面々をみれば、必ずしも胡錦濤が負けたとは言い切れないことがわかる。まず、李克強 が二番手にいることが重要だ。ぴったりと習近平の後ろにつけている。

今回の党大会の直前に習が雲隠れしてしまい、健康不安説や失脚説などさまざまな憶測 が飛び交ったことがある。背中を痛めたという話から肝臓がんまで諸説あり、いまだ真偽 はわからないが、香港紙は、北京の301医院(中国人民解放軍総医院)で肝臓がんの摘出手術 を受けたと報じている(1)。万が一、習が総書記の業務を続けられなくなれば、李が取って代 わることも可能である。

次に注目されるのが年齢である。中国共産党内では、「七上八下(67歳なら上がれるが、68 歳になれば引退)」という不文律があり、それに従えば、次回の第

19回党大会

(2017年)では、

江沢民派と朱鎔基・温家宝派の

5人が去り、残るのは、習近平と李克強のみということにな

る。そしてその5人を補充する人選は、通常はワンランク下の政治局委員から選ばれる。こ の「最高指導部予備軍」とも言うべき委員の顔ぶれをみれば、次の6人が目にとまる。

劉延東(1945年)

李源潮(1950年)

栗戦書(1950年)

劉奇葆(1953年)

汪 洋(1955年)

胡春華(1963年)

彼らは全員、共青団出身であり、胡錦濤の直系である。年齢をみると、2017年になって も、劉延東を除いて全員が政治局常務委員になる資格を有する。そのとき、引退する5名の

(3)

常務委員の穴を彼らが埋めれば、まさに新指導部は胡錦濤色に染まるだろう。

このなかで一番若い胡春華は、胡錦濤の直系中の直系である。共青団出身であるだけで なく、チベットでも胡錦濤と苦楽をともにした愛弟子だ。彼は9年後の第20回党大会で、習 近平の後を継いで総書記に就任するとみられている。

次に栗戦書と劉奇葆だが、彼らはそれぞれ中国共産党中央弁公庁主任、党宣伝部長に就 任している。この

2つの重要ポストを胡錦濤の直系が占めているという意義はきわめて大き

い。宣伝部はメディアや思想を管理し、国民の思想を統制するうえで重要な役割を果たす ので、今後も胡錦濤路線を徹底させていくことが可能になる。一方、中央弁公庁主任は、

「大番頭」であり、総書記の側近中の側近が務める。江沢民時代は、彼が上海から連れて来 た曽慶紅が務め、政権基盤固めに大きな力を発揮した。胡錦濤は当初、共青団出身で腹心 の令計画をそのポストに据えていたが、党大会前に令の息子が謎の自動車事故を起こして 問題になったため、急遽、栗戦書に交代させた経緯がある。中央弁公庁は、党中央の指示 の伝達、暗号や機密電報の管理、指導者の警護と医療をつかさどる重要部門だ。まさに党 中央の中枢神経である。ここに胡錦濤の直系がいるということは、引退後もしばらくは安 心だということになる。

中央弁公庁は、肝心なときに大きな役割を果たす。かつて周恩来が膀胱がんにかかった とき、毛沢東が側近で中央弁公庁主任の汪東興を通して治療法に干渉し、主治医に手術を させず、死期を早めてしまったという逸話があるほどだ(2)。また、1949年から

1965

年まで 同庁主任を務めた楊尚昆は、毛沢東の発言を盗聴したとして捕まっている。毛は当時、後 継者である劉少奇が楊と結託して自分を追い落とそうとしていると疑っていた。楊は、近 年出版された回想録で、毛の同意のもとで会議録作成のために録音していたのであり、冤 罪だったと主張している(3)。毛は楊の後任に長年自分の警護を担当してきた側近の汪東興を 据えたが、汪は毛が死ぬと 小平に寝返り、毛の配下だった「四人組」の逮捕に協力したと いういきさつもある。

このように、中央弁公庁は、きわめて重要な組織なのである。つまり、胡錦濤は負けた のではなく、しっかりと地盤を固めて引退したのである。おまけに江沢民とは異なり、軍 事委員会主席のポストをあっさりと習近平に明け渡したことで、「潔い」という称賛も浴び た。その結果、習近平との関係も緊密化し、江沢民の影響力は削がれつつある(4)。要するに、

胡錦濤は名を捨てて実をとったのである。

2

熾烈な権力闘争―「薄熙来事件」の波紋

1) 暴かれた温家宝一族の蓄財

指導部交代をめぐる権力闘争は、中国政治の「恒例行事」である。党最高指導部を構成 するのが、ピラミッドの頂点に立つ政治局常務委員だが、そのポストに自分の陣営を入れ るべく、党大会に向けて水面下ですさまじい駆け引きを行なうのが常だ。たとえば、第17 回党大会の前には、江沢民の子飼いである上海市党委書記の陳良宇が汚職容疑で投獄され、

政治生命を断たれている。そして2012年

3

月には、重慶市党委書記で政治局委員だった薄熙

(4)

来が解任され、新たな「いけにえ」となったばかりだ。薄は常務委員になる可能性もあっ たが、いまは囚われの身となっている。

薄熙来解任をめぐる混乱のせいか、今回の党大会は、番狂わせが多かった。通常は夏頃 には日程が決まっているが、なかなか発表されなかったのである。そのため、さまざまな 噂が飛び交っていたが、背景には、新指導部選出をめぐる熾烈な権力闘争があったことは 間違いない。とりわけ、今回の権力闘争のすさまじさを物語っていたのが、党大会直前に 米紙『ニューヨーク・タイムズ』が報じた温家宝の一族をめぐる大スキャンダルだった。

温が首相に就任して以来、一族が27億米ドルもの資産をため込んだという衝撃的なスクー プである(5)。温の親族が彼の地位を利用して蓄財しているという話は、それ以前にも香港メ ディアで取り沙汰されたことはあったが、『ニューヨーク・タイムズ』という世界的に有名 な新聞が報じたとなれば、インパクトは桁違いであり、彼にとって致命的な打撃となった はずである。

温家宝は「太子党(高級幹部子弟)」ではなく、胡錦濤と同じく一般家庭出身の「平民」

であり、国民に「人民の総理」「温おじいさん」として親しまれてきた。しばしば政治改革 の必要性を説くなどリベラル派としても好感をもたれてきたが、そうしたイメージはズタ ズタに切り裂かれてしまった。温一族は、いったいどのようにして、これだけの資産をた め込んだのか。『ニューヨーク・タイムズ』の記事には、次のように書かれている。

温家宝の親族は、金融、宝石、リゾート開発、インフラプロジェクト、通信会社など幅 広い業種の企業の株式を所有している。それには、北京の別荘建設、タイヤ工場、「平安保 険」(生命保険、損害保険とも国内

2

位の保険会社)、北京オリンピックの施設を建設した会社 なども含まれる。

温の母親の楊志雲は、「泰鴻」という会社の名義で多額の平安保険の株式(2007年の時点

で1億

2000万米ドル。それ以後は、未公開)

を保有している。同社は、温一族が平安保険の株

式を保有するための投資会社であり、温の故郷である天津で登記され、温の妻の張 利と親 しい段偉紅という女富豪が経営している。

張 利は、海外の宝石商から「中国のダイヤモンド女王」と呼ばれている。彼女は、宝石 販売に必要な鑑定書の発行権を有する国家宝石品質監督検査センターの設立にかかわり、

国有企業の「中国地鉱宝石」のトップも務めたことがある。同社は、複数の宝石会社に投 資し、「北京戴夢得(ダイヤモンド)宝石公司」の設立にもかかわったが、弟の張剣鳴は、そ の株を大量購入した。また、北京戴夢得宝石公司が投資した「深 戴夢得宝石公司」は、

温の弟である温家宏が経営に携わった。

温家宝が首相になると、一族は宝石業界から手を引いたが、その際、事業を買い取った のが、温とコネをつけたいと思っていた富豪たちである。彼らは、温一族と会社を設立し、

不動産や金融の分野に投資した。

温家宝の息子の温雲松も、中国のビジネス界で有名である。北京理工大学を卒業後、カ ナダのウィンドソー大学とアメリカのノースウエスタン大学で学んだ。英語名はウィンス トン・ウェンである。帰国後は、大手国有通信企業の「中国移動」と合弁で新会社を設立

(5)

したほか、教育分野にも進出し、中国にエリート寄宿制学校をつくるため、アメリカの名 門私立高校のチョート・ローズマリー・ホール校とホッチキス校の校長を招聘し、北京郊 外に学校を建設中である。

温雲松はこのほか、インターネットやアニメ関連の会社の株式や、中国政府が後押しす る「ユニオンモバイルペイ」(「銀聯」と「チャイナモバイル」の合弁企業で、利用者はテキスト メッセージでサービス支払いが可能)の株式も間接的に保有している。ハイテク産業にも参入 し、会社を3社立ち上げたが、そのうち2社を香港の大富豪である李シン一族に売却した。

その後、金融業界にも進出し、投資ファンドの「新天域資本公司」を立ち上げ、日本や シンガポールなどから1億米ドルの投資資金を調達することに成功する。しかし、このファ ンドはうまくいかず、また

2010年に株式公開前の医薬品企業の株を取得して香港証券取引

所の規定に違反したため、温雲松は新天域資本公司から身を引き、国有企業の「中国衛星 通信集団公司」の会長ポストにおさまった。

この報道が事実ならば、温家宝は「平民宰相」でも何でもなく、民衆が忌み嫌う腐敗官 僚の一人にしかすぎないことになる。あせった温家宝は、弁護士を通して報道は事実無根 という異例の声明―自分の親族は株を保有しておらず、経営活動は合法的であり、母親 は退職金以外の収入はない―を出すに至った(6)。そして、『ニューヨーク・タイムズ』に 対して訴訟も辞さない構えをみせたが、その後この話は立ち消えになり、うやむやになっ たままである。

2) 情報はなぜ流されたのか

いったいどのようにして、これだけの機密情報を海外メディアが手にしたのか。中国外 交部は、「中国を中傷する」ものであり、「下心がある」と非難したが、この記事が出たタイ ミングをみると、党大会に向けての権力闘争がからんでいると理解するのが自然である。

温家宝は当時、新指導部の人事をめぐり、胡錦濤や習近平と組み、薄熙来を推す江沢民 派の攻勢の矢面に立っていた。胡錦濤直系の李克強が自分の後任の首相になることについ ても異議をはさまず、協調する姿勢をみせていたのである。温は、薄熙来の失脚にも、目 に見えるかたちで関与した。『ニューヨーク・タイムズ』の記事からさかのぼること7ヵ月、

2012

年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代)の記者会見で、公然と重慶市当局を批判 し、その直後に同市の書記だった薄熙来が失脚しているのである。温に対するインターネ ット上での攻撃が激しくなったのは、その頃からだ。

薄熙来の解任について党内で通達された「薄熙来の

7

つの罪状」のなかには、「ネットや 海外メディアを操って中央指導者を攻撃した」という罪が含まれているという(7)。温家宝は 当時、ネット上で「狡猾な宰相だ」と罵倒されていたが、それは薄熙来を支持する左派勢 力によるものであり、薄が裏で関与していた可能性も指摘されている(8)。『ニューヨーク・

タイムズ』のスクープは、薄熙来の失脚から

7ヵ月後の 10

月25日に報じられたが、その翌 日はちょうど、薄が全人代代表の資格を剥奪される日でもあった。薄熙来はそれより1ヵ月

前の9月

28日、収賄容疑と妻の英国人殺人事件をめぐる職権乱用を理由に党籍剥奪処分を受

け、囚われの身となっており、全人代代表の資格を失えば、不逮捕特権も奪われ、刑事責

(6)

任の追及が本格的に始まるという分かれ目だったのである。

したがって、温家宝一族の情報は、何者かが海外メディアに送りつけた可能性が指摘さ れている。『ニューヨーク・タイムズ』は、記事は独自の調査によるものであり、外部から 情報提供を受けていないと主張したが、それとは異なる情報もある。『ボイス・オブ・アメ リカ』(米政府系短波ラジオ局)は、北京駐在の外国メディアは、温一族に関する分厚い資料 を受け取ったと報じており、同局の記者は、『ニューヨーク・タイムズ』がたまたま先に報 道しただけだと証言しているのである(9)

ほかにもこうした報道はあり、米国に拠点を置く中国情報サイト『博訊』も『ニューヨ ーク・タイムズ』の記事が出る2日前の10月23日、すでに次のように報じていた。

「海外の複数の中国語メディアは、温家宝に関する重量級の暴露ネタを受け取った。同時に、

米国の複数の英語の主流メディアも、温家宝一族の詳細な資料を受け取った」。

同サイトは、『ニューヨーク・タイムズ』が触れた温雲松の会社についての情報も資料の なかに含まれていると書いており、「国家機関の人間が協力しなければ、これらの秘密資料 を手に入れることは難しい」と示唆していたのである(10)。さらに、中国報道で定評のある香 港の『亜洲週刊』も、「海外メディアが温家宝に関する資料を受け取っていたことは確かだ」

と断定している。同誌の情報はさらに踏み込んだものであり、「北京の消息筋」の話として、

温家宝への攻撃は「党内極左保守派、軍系統と政法系統の上層部の支持によって操作され たものだ」と報じていた(11)

当時、この「軍系統」というのは、薄煕来を支持していたと言われる劉源(人民解放軍総 後勤部政治委員)だという情報があった。おそらく劉源と薄熙来はどちらも太子党であり、

父親同士の縁で親しい間柄にあったので、そのような見方が流れていたのだろうが、いま のところ劉が関与したという証拠はない。

劉源の父である劉少奇(元国家主席。毛沢東の後継者と目されていたが、文化大革命で迫害さ れ、非業の死を遂げる)は戦前、薄熙来の父・薄一波の上司だった。劉が中共中央華北局の 第一書記だったとき、薄は第二書記を務めていたのである。それが縁で二人は親密な関係 にあり、文化大革命では、ともに毛沢東に打倒される憂き目をみている。

一方、「政法系統」とは、公安・裁判所・検察・国家安全部を管轄する党中央政法委員会 のことである。党大会前、同委員会のトップ(書記)は、江沢民派の周永康政治局常務委員 が兼任していたが、彼は薄熙来と緊密な関係にあり、薄を自分の後釜にしようと動いてい るとの噂があった。それを阻止しようとする胡錦濤や温家宝等は、新任の政治局常務委員 に政法委員会書記を兼任させないという措置をとるつもりだという情報があったが、それ はまったくのデマでもなかったようである。というのも、党大会後の人事では、新任の政 治局常務委員が政法委員会書記を兼任しておらず、ワンランク下の政治局委員(孟建柱)が 担当することになっているからである。

公安・司法のみならず、国家安全部までも動かせる政法委員会が、江沢民派の手に落ち れば危険極まりないことである。彼らは薄煕来を代理人として奪権をはかり、攻勢をしか

(7)

けてくるかもしれない。そうなれば、自分たちだけでなく一族の身すらも危なくなる。だ からこそ、何としても薄煕来の常務委員昇格を阻止したかったのではないか。

実際、指導部で党大会前に攻撃されていたのは、温家宝だけではなかった。習近平にも 火の粉がふりかかっていたのである。温家宝一族の蓄財が『ニューヨーク・タイムズ』に 暴露される4ヵ月前の

6

月には、米国の大手情報サービス会社ブルームバーグが、習近平の 親族(姉の斉橋橋とその夫の 家貴および娘の張燕南)が

3

億7600万ドルにおよぶ資産を有し ていると報じていた。ブルームバーグが受け取った資料は

1000ページ以上もあった。他の

メディアにも300―

400

ページの資料が届いたが、それには、親族の身分証明書のコピー、

住所、写真だけでなく関係者の証言までもが記されており、明らかに周到に準備されたも のだったという。

これにも薄煕来が関与していた可能性が示唆されており、「何のとりえもない習近平では なく、有能な薄煕来に総書記をやらせるべきだ」との意見をネットや海外メディアに流し ていたという報道もある(12)

3) 薄熙来の失脚

薄熙来とは、いったい何者なのか。本来であれば、習近平と同じく、政治局常務委員に 名を連ねるはずの「太子党」の一人であり、失脚するまでは、文字どおりのプリンスだっ た人物である。既述のように、彼の父親は、商務部長(商務大臣に相当)と副首相を務めた 長老の薄一波である。薄一波は、江沢民と緊密な関係にあったので、薄熙来は、とんとん 拍子に出世し、大連市党委書記、遼寧省長、商務部長を歴任し、政治局委員に昇格したが、

なぜか開発の遅れた内陸の重慶に飛ばされてしまう。

革命家の血筋を引く「プリンス」が、なぜ重慶に飛ばされたのだろうか。父の薄一波が この時期に亡くなってしまったことや、薄熙来が商務部長だったときの上司である呉儀(女 性政治局委員で貿易担当の副総理を兼任)に嫌われたからだという説もある。彼女は、薄につ いて、「部下でいることに甘んぜず、いつもトップになりたがる。権力と利益を奪うために は、手段を選ばない」と批判し、自分の後任になることに反対したと言われている。また、

文化大革命のときに、紅衛兵として暴行を働いた過去も足枷になったようだ。党内には、

元紅衛兵は重用してはならないという取り決めがあったが、薄熙来は、文化大革命で批判 されていた父親と一線を画すため、父親を殴って骨折させたと言われている。

薄熙来と江沢民の接点については、江が政権基盤を固めた時点から説き起こさなければ ならない。

江沢民は総書記になった当初、強い権力基盤をもっていなかった。1989年の天安門事件 で民衆に同情して失脚した趙紫陽の後任として急遽、上海から抜擢された江沢民は、 小平 ではなく陳雲や李先念などの長老が推した人物である。北京では新参者であったため、指 導部における立場は弱かった。その後、徐々に権力基盤を固める動きに出るが、そこで一 役買ったのが、薄一波だったのである。

当時、江沢民の最大のライバルと言われた人物に喬石がいる。 小平は、天安門事件から ソ連崩壊を経て江沢民が保守的になり、改革開放路線に消極的になったのをみて、1992年

(8)

の第14回党大会では、江に代えて喬石を総書記にしようと考えたことがあった。江沢民は この時、上海から連れて来た懐刀で、 小平の息子の 撲方と親しい曽慶紅を介し、楊尚昆 国家主席の一族が軍を支配しようとしているという噂を 小平の耳に入れて危機感をあお り、同時に改革開放を行なう意思を表明することで、なんとかその場をしのいだ。

しかし、江沢民の地位は、依然として盤石ではなかった。1997年

2

月、第

15

回党大会を 前にして 小平は亡くなるが、あいかわらず喬石は目障りな存在だった。彼は、1987年に常 務委員になっており、年齢も江沢民より2つ上で明らかに格上である。そこで江沢民は、喬 石を引退させるために、長老の薄一波にひと肌脱いでもらうことにした。最高指導部の人 事をめぐっては、長老の意見も大きな役割を果たすからである。江沢民は1997年8月、薄一 波を北京で開かれた政治局全体会議に招待し、自分を支持する発言をしてもらい、ついに 喬石を排除することに成功した(13)

こうして、薄一波の力を借りて喬石を打倒した江沢民は、薄一波に借りができた。当然 ながら、息子の薄熙来は重用され、2001年、遼寧省長の地位を手に入れた。だが、2002年、

江沢民が総書記を引退し、2007年1月に薄一波が逝去すると情況は一変する。その年の第

17

回党大会では、政治局常務委員会入りを果たせず、薄熙来は「山城・重慶」の党委書記に 異動になったのである。

同じ太子党でも、習近平は政治局常務委員になったのに、自分は「山城」に飛ばされて しまった。習の父・習仲勲は、薄一波と同じく副首相だったが、薄は習よりも先に政治局 入りし、格上だったのである。父は中央顧問委員会副主任も務め、 小平を補佐する立場に もあった。にもかかわらず、自分はなぜ政治局常務委員になれないのか。たいした業績も ない習近平が、いち早く抜擢されたのか。納得のいかない薄熙来は、「山城・重慶」から一 大パフォーマンスに打って出る。まずは「唱紅」である。薄は、民衆に革命歌を歌わせる 復古調のパフォーマンスを、大々的に繰り広げた。「唱紅」は文化大革命でよく行なわれた ことである。

また、薄熙来はそれと並行して、犯罪組織一掃の大粛清キャンペーン「打黒(黒は黒社会 のことで暴力団を指す)」を断行する。「打黒」は重慶市民の支持を集めたが、実はこのキャ ンペーンには、隠された意図があった。薄熙来の前任の重慶市党委書記は、広東省党委書 記(当時)の汪洋だった。彼は共青団出身で胡錦濤の派閥に属する人物だ。薄熙来は、重慶 の暴力団の罪状を暴きながら、政府関係者の汚職も摘発していったが、そのなかに汪洋の 元部下たちがいた。要するに、薄熙来は「打黒」によって、汪洋に恥をかかせようとした のである。「打黒」の目的は、彼と同じく政治局常務委員会入りを目指す、ライバルの汪洋 を追い落とすことにあったのだ。

薄熙来は、こうした政治運動と同時に、経済・社会政策も打ち出した。農民に土地と引 き換えに都市戸籍を与え、家賃の安い住宅や医療保険等の社会保障も提供する。そして農 民から得た土地を利用し、外資系企業を誘致するなどの政策によって、重慶の国内総生産

(GDP)を一挙に引き上げた。薄熙来が推進したこうした政策は「重慶モデル」と称賛され、

これを彼の取り巻きである左派の学者や毛派が、大々的に宣伝し、薄の株は大いに上がっ

(9)

た。彼らは、 小平が改革開放路線を始めて以来、危険視されている存在だが、国家シンク タンクである中国社会科学院でジャーナリズムを学んだ薄熙来は、メディアの操作に長け ており、国内外のメディアを取り込み、干されていた左派を重用することで、彼らを「重 慶モデル」の宣伝マンに仕立て上げたのである。

こうして、改革開放がもたらした貧富の差の拡大を逆手にとることで、民衆の支持をと りつけ、自身をカリスマ指導者の地位に押し上げていった薄熙来は、重慶でいわば ミニ 毛沢東 として君臨することになった。もちろん、こうした薄熙来の活躍は、党中央を取 り仕切る胡錦濤や温家宝にとって面白いものではなかった。恐怖心すら抱いていたかもし れない。薄が政治局常務委員となり、警察と司法を管轄する政法委員会書記になれば、大 変なことになる。そうした懸念は、温家宝だけでなく胡錦濤や習近平も共有していたはず である。彼らの一族は多かれ少なかれビジネスで儲けており、「共同富裕(ともに豊かになる)」 をスローガンに毛沢東路線で世論を味方につけた薄熙来を脅威に感じていた違いない。薄 煕来が重慶の党委書記に在任中、胡錦濤が一度も視察に訪れていないことからも、彼らの 関係が冷え切っていたことは明らかだった。

薄煕来が失脚するのは、時間の問題だったのである。

3

中国はどこへ―習近平が直面する課題

1) 合法性の危機

こうして薄煕来は「粛清」され、権力闘争の嵐をくぐりぬけた習近平は、首尾よく最高 指導者の地位に上り詰めたが、彼を取り巻く内外の情況は、かつてないほど厳しい。

これから彼が直面するリスクは、大きく分けて3つある。急増する民衆の抵抗運動、減速 する経済、そして権力闘争の激化である。

2012年9

月、次のような文章が中国のネット上に流れ、話題を呼んだ。

「不断に拡大する貧富の格差、ますます深刻化する腐敗、有効な社会統合、民衆の権力返還へ の要求を満足させること、これらを解決してこなかったため、中国共産党は、統治の合法性の 危機に直面している」(14)

まるで反体制派の主張のようにみえるが、そうではない。これは、共産党の幹部養成学 校である中央党校が発行する『学習時報』の 聿文副編集長が、中国の経済誌『財経』の電 子版に寄稿したものである。内容が過激なので、即座にネット上から削除された。

「合法性の危機に直面している」とまで言うには、相当な覚悟が必要なはずであるが、い ったい何が彼を駆り立てたのだろうか。実は、この危機感は、党指導部が共有するもので ある。今回の党大会で、胡錦濤総書記(当時)は、腐敗が深刻で、このままでは、党も国も 滅びるとまで言い切っている。

長年の独裁体制がもたらした官僚腐敗に怒った民衆の抗議行動は増える一方で、過激化 の一途をたどっている。たとえば、2012年

7月に江蘇省啓東市で勃発した王子製紙と地元政

府が進める排水パイプ建設に反対する大規模なデモがそうである。群衆が市庁舎になだれ

(10)

込み、公用車を破壊し、役人の事務室を打ち壊し、書類を窓からばらまいた。部屋にあっ た高級洋酒などが腐敗の象徴としてベランダにならべられ、群衆の怒りを誘った。

市のトップである孫建華書記は群衆に囲まれ、抗議用Tシャツを無理やり着せられそうに なった。警察官も阻止できず、孫書記は上半身丸裸にされ、写真をとられ、画像をネット 上に流されたのである。孫書記は、警官隊に守られ、シャツを小脇に抱えて逃げ出したが、

その写真までもがネットに流された。まるで「革命」のようだった(15)

書記が裸にされたのは前代未聞だが、このような大規模な抗議行動は、いまの中国では決 して珍しくない。国営新華社発行の『瞭望』が報じたところによれば、2011年には、100人 以上が参加した集団抗議行動が、全国で800件起きており、延べ20万人が参加したという(16)。 こうした抗議行動の発端は、乱開発による強制的な地上げ、環境問題、役人の汚職、格差 などであり、官僚たちの権力濫用がもたらしたものばかりである。

いずれ、民衆の怒りが制御できなくなったらどうなるのか。全国で一斉に蜂起したらど うなるのだろうか。最高指導者の誰もがそうした不安を抱えている。 聿文の発言は、そう した懸念をストレートに伝えただけなのである。

2) ざわめく民衆

そもそも中国は、世界第二の経済大国になったのに、なぜこんなに暴動が頻発するのか。

民衆はいったい何に不満なのか。それは、一党独裁という砦に守られた官僚たちの権力乱 用が黙認しがたいレベルに達しているからである。 聿文が書いた「民衆の権力返還への要 求」とは、すなわち「民主化要求」のことである。党校幹部という立場上、はっきりと言え なかっただけのことである。

このように、党校のなかで民主化の必要性を説いているのは、彼だけではない。2009年、

中央党校の韓雲川教授が、中国国内で発行されている『炎黄春秋』に、ルーマニアの崩壊 にひきつけて独裁を批判する論文を掲載したことがあった。

「ルーマニア崩壊には一晩しかかからなかった。見せかけの現象に惑わされるな」、「世界で最 も安定しているのは、独裁主義の国ではない」、「国家の長期的安定のため、健全な民主政治体 制確立に努力すべき」(17)

ルーマニアを中国に入れ替えれば、そのまま現体制批判になるよう巧みに構成されてい る。「見せかけの現象」という言葉がわかりづらいかもしれないが、要するに「チャウシェス クは民衆に捕まってあっさりと殺されてしまった。見た目は安定しているようにみえても、

いまの中国の体制はチャウシェスク体制のように危険な状態にある」という意味であろう。

一方、民衆は、こうした回りくどい言い方ではなく、もっとストレートな表現で、民主 化を叫んでいる。2012年

8月の深

の反日デモには、「自由、民主、人権、憲政」という横 断幕が登場し、3億人が使う中国版ツイッター「微博」に写真が貼りだされ、話題になった。

最近は、インターネットというバーチャルな空間で民主化を呼びかける動きが目立ってい るが、2008年に起きた「08憲章」の署名運動がその先駆けだった。

「法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がない、というのが衆目の認める政治的現

(11)

実である。執政を行なう集団は、引き続き権威主義的な統治を堅持し、政治的変革を排除し、

拒否している」(18)

この民主化宣言には、最初に

303名が署名し、当局の弾圧にもかかわらず、その後、約 1

万人以上が署名をしたと言われている。署名者の階層は幅広く、海外の民主活動家だけで はなく、大学教授や弁護士などの「体制内」エリート、さらには芸術家、農民、サラリー マン、人権活動家なども名を連ねていた。慌てた当局は、「08憲章」の発起人の一人である 劉暁波を投獄し、「08憲章」は封殺されたが、その流れは止まってはいない。5億人に達し たネットユーザーの発信力と動員力は、日増しに勢いづいている。たとえば、今年1月に起 きた「『南方週末』事件」がそうである。これは、広東省の新聞『南方週末』が、「憲政」を 求める新年の巻頭論文を掲載しようとしたところ当局によって書き換えられてしまったの で、編集者たちが抗議し、それを知った民衆が声を上げた事件である。民衆は同紙の社屋 の外に続々と集まり、言論の自由を求めるさまざまなプラカードを掲げて声援を送り、海 外メディアも大きく取り上げ、当局は対応を迫られることになった。

このようにネット世論に党が包囲される事態は、年々増えてきている。いまは警察力で なんとか抑え込んではいるが、そうしたやり方が、すでに限界に達していることは明らか である。

3) 減速する経済

習近平が直面するのは、高まる民衆のパワーだけではない。経済の減速という厳しい現 実も目の前に立ちはだかっている。これまで中国は、高度経済成長を続けてきたが、明ら かに陰りがみえ始めている。2桁成長はすでに過去の話で、「保八(8%成長維持)」でさえも 難しくなっている。2012年の成長率は、13年ぶりに

8%を切って、7.8%

まで落ちた。中国経 済は、欧州債務危機のあおりを受け、輸出が激減している。このままでは、これまで高度 成長によって覆い隠されてきた社会矛盾が一挙に噴き出るかもしれない。

先の反日デモで暴徒化したのは、大半がその日暮らしの出稼ぎ農民だった。農村の余剰 労働力の受け皿となってきた広東省等の東部沿海地帯も、輸出減によって苦境に立たされ ているのだ。今後、景気がさらに減速すれば、社会不安が増大し、民衆の不満が制御不能 になる恐れもある。

4) 第

2、第 3の薄熙来

経済が減速し、民衆の不満が制御できなければ、どのような事態が生じるだろうか。ま ず、予測しうる事態としては、党内における路線対立の激化である。中国を「大国」へと 押し進めた「改革開放」にかつての輝きはない。一党独裁に守られた党幹部たちが特権を 利用して大儲けする一方で、民衆は改革の恩恵をこうむっていないと感じ始めている。不 正が蔓延し、それに抗議する民衆は、公安と武装警察によって無残にも鎮圧される。不満 のはけ口を失った民衆は、過激化し、暴動が頻発することになるのである。

こうした民衆の不満を察知し、それを政治利用しようとしたのが薄熙来である。「山城・

重慶」から「共同富裕」の旗を掲げ、格差や不正に憤る民衆の支持をバックに、最高指導 部入りを狙っていた。胡錦濤や温家宝は、こうした仕掛けを見抜いていた。だからこそ温

(12)

家宝は、重慶当局を批判した記者会見で、「文化大革命の間違った封建的な影響がまだ完全 には拭い去られていない」と強調したのである。

薄煕来は権力闘争に敗れて政治的に抹殺されたが、彼が利用しようとした社会矛盾は、

そっくりそのまま残っている。経済が高度成長しているうちは、そうした矛盾は覆い隠さ れているだろうが、低成長が続けば、矛盾が一挙に噴き出す恐れもある。そうなれば、「改 革開放」は破綻し、「古き良き毛沢東の時代に帰れ」と叫ぶ極左勢力が、党内に台頭してく るかもしれない。彼らは苛立つ民衆の不満を挺子にして、影響力を増してくるだろう。先 の反日デモでは毛沢東の肖像を掲げるデモ隊が数多く出現したが、彼らの背後には、薄煕 来を支持する極左の毛沢東主義者(毛派)がいたと言われている。

昨年の10月

19日、

『ニューヨーク・タイムズ』が温家宝一族の蓄財を暴露する直前、毛派 は、薄熙来を公職から追放しないように求める全人代宛ての書簡を公開し、薄煕来事件は

「路線闘争が発端で、刑事犯罪で幕を閉じた」ものであり、「手続きが違法」「証拠不十分」

だと指摘した(19)。薄を支持する勢力は納得しておらず、重慶に乗り込んだ新任の書記であ る孫政才(1963年生まれ。温家宝に近いとみられ、ポスト李克強の首相と目されている)と公安 局長の何挺は、高級腕時計を身につけていると非難され、写真がネット上に貼られる事件 が起きている。つまり、薄熙来をつぶしても、第2、第3の薄熙来が控えているということ である。

5) くすぶる革命の火種

これから習近平は、こうした抜き差しならぬ状況に、どのように向き合っていくのか。

彼は、党幹部の腐敗に民衆が怒っているという点については、十分に認識している。さ っそく党幹部の視察などの無駄をなくす方針を打ち出し、腐敗撲滅の決意をみせつけても いる。党大会から間もなくして、「重大な規律違反」があったとして四川省の李春城党副書 記が当局に拘束されたというニュースが、香港経由で飛び込んできた(20)

さらに、党幹部の経済的特権にも切り込む姿勢もみせている。米ブルームバーグは

2012

年11月

20日、習近平が 2013

年後半から大胆な経済改革にとりかかり、国有企業の独占体制

を打破するという中国の金融関係者の見通しを報じた。「国有企業の独占体制」とは、電力 や通信、鉄道、資源などあらゆる業界を国有企業が支配してきたことを指す。『ニューヨー ク・タイムズ』が暴露した温家宝一族の例が示すように、国有企業は、太子党の巣窟でも ある。同じ太子党である習近平がこの利権にメスを入れられるだろうか。

そもそも腐敗撲滅と独占打破というスローガンは、使い古されたものである。それより 気になるのは、人権や民主に関する発言がまったく聞こえてこないことだ。むしろ習近平 の発言で目立つのは、「中華民族の偉大な復興」という国威発揚のかけ声である。仮に八方 ふさがりの内政のはけ口として愛国主義にすがりつき、国民の団結をはかるために外敵を つくろうとするならば、やっかいなことである。反日デモでみられたような過激な愛国主 義の火に油を注ぐような事態になれば、日中関係の改善も望めない。

中国史には、圧政に苦しむ農民が王朝を倒して新しい王朝を築き、その王朝がやがて腐 敗してまた農民に倒されるというパターンがある。中国共産党自身が、農民の力を結集し、

(13)

「腐敗した独裁政権・国民党」を打倒して新たな支配者になったではないか。だらだらと独 裁体制を続ければ、民衆の怒りは頂点に達し、ふたたび内乱が発生するかもしれない。世 界第2位の経済大国が内戦にでもなれば、日本のみならず、世界に想像を絶する余波が及ぶ ことは火を見るより明らかである。

習近平は、これから中国をどこへ導くのか。民主化を成し遂げ、中国を軟着陸させるの か。あるいは、独裁体制にしがみつき、民衆に覆されることになるのか。そのゆくえは、

日本にとって決して他人事ではないのである。

(1) “Xi suffers cancer: report,” The Standard, Sep. 13, 2012(http://www.thestandard.com.hk/breaking_news_

detail.asp?id=25023&icid=a&d_str).

2) 高文謙『晩年周恩来』、明鏡出版社、2003年、378―379ページ。

3) 蘇維民『楊尚昆談新中国若干歴史問題』、四川出版集団・四川人民出版社、2010年、97―102ページ。

4 2013年121日の楊白冰(元中央軍事委員会秘書長)の葬儀で発表された指導者の序列で、江

沢民は、現職の政治局常務委員7名の後に置かれた。同年元旦に行なわれた恒例の全国政協茶話会 についての報道は、習近平と胡錦濤の緊密ぶりを強調する写真を載せている。「全国政協挙行新年 茶話会 胡錦濤出席 習近平講話」、新華社、2013年1月1日(http://news.xinhuanet.com/politics/2013- 01/01/c_114222388.htm)

5 David Barboza, “Billions in Hidden Riches for Family of Chinese Leader,” The New York Times, Oct. 25, 2012.

6)『明報』2012年10月27日。

7)「薄熙来七宗罪成為北京政治改革契機」『亜洲週刊』2012年4月22日。

8) 董裴東『薄熙来事件謎局』、明鏡出版社、2012年、101ページ。薄の関与について、本書は、薄 熙来事件を捜査した中央紀律検査委員会が情報源であることを示唆している。

9)「不同尋常 駐京外媒都接到温家宝的黒材料」『明報』2012年10月29日。

(10)「対温家宝発起媒体立体攻勢,保守派18大前最后的瘋狂?」『博訊』2012年1023日(http://news.

boxun.com/news/gb/china/2012/10/201210280055.shtml)

(11)「温家宝事件與薄熙来案微妙互動」『亜洲週刊』2012年11月11日。

(12) 注7、注10参照。

(13) 宗海仁『第四代』、明鏡出版社、2002年、274―294ページ。

(14) 聿文「胡温的政治遺産」『財経網』201292日。以下のサイトで閲覧可能(http://www.

politicalchina.org/printnews.asp?newsid=226783)

(15) 興梠一郎『中国 目覚めた民衆―習近平体制と日中関係のゆくえ』、NHK出版、2013年、91―

108ページ。

(16)「推進中国式城市社会管理」『瞭望新聞周刊』2012年8月27日。

(17) 韓雲川「妨碍政体改革的認識誤区」『炎黄春秋』2009年8期、4ページ。

(18) 李暁蓉・張祖樺主編『零八憲章』、開放出版社、2009年、11ページ。

(19)「致全国人大常委会的公開信」『紅色中国』(http://redchinacn.net/portal.php?mod=view&aid=5908)

(20)『明報』2012年12月4日。

こうろぎ・いちろう 神田外語大学教授 http://www.kuis.ac.jp/teach/ichiro.html [email protected]

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