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伊藤宏之:[翻訳] ジョン・ロック 「統治論」(VI)

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伊藤宏之:〔翻訳〕ジョン・ロック「統治論』(W) 1

〔翻訳〕 ジョン・ロック『統治論』(VI)

伊 藤 宏 之

第八章 政治社会の起源について巌

 95.すでにのべたように,人間は生来,すべて 自由,.平等で独立しているのであるから,誰も自 らの同意なしには,この状態鰍から追われて,

他の人の政治権力に服従させられることはありえ をヒ㌔.〈奉その生来の自由を放棄し,市民社会の 拘束をうけるようになる唯一の方法は,他の人と 一緒になって一つの共同体に結集しようと協定す ることだけであり,その目的は,相互に快適で安 全で平和な生活をし,それぞれの財産を安全に享 有し,社会外の人に対してより大きな安全性をも つことである。こういうことは,どれだけの人数 によっても可能である糠蝦。そのことによってそ れ以外の他の人の自由を侵害することはないから である。他の人は今までと同じく自然状態の自由 gままにいるのであぐ。.何く参り人が一つの共同 体あるいは統治を作ることに同意すれば,そのこ とによって直ちにかれらは結合し一つの政治体を 作うことになるのである。そして,そこでは,多

数者が残りの人を動かし,拘束する権利を持

つ崇峯凝聚。

凝 この章は明らかに,フィルマーへの根源的 批判の一部分をなしている。フィルマーの命題 が引用され,フィルマーの言葉がふえんされて

いる。II−95・98・101・103・112・114等

への脚注を見よ。II−77への脚注と比較せよ。

しかし,第100節から122節までは,最初の構 成にはなくて,少し後で,すなわち,フッカー からの引用(II−111への脚注を見よ)を追加 した1681年の夏,おそらくは第一論文の構成 以後に加筆された可能性がある。あるいはもっ

と後のことかも知れない。この証拠としては,

第132節が第99節に接続していること,そし て,第9章(第123節から131節)は,なおこ れより後の,おそらく1689年の加筆であると いうこと,これらの事実をあげることができる。

この第8章の他の部分が1689年に執筆された

ということを示す証拠はない。もっとも,その 年に,テクストのより大きな根底的な再編によっ て,この不連続性が生じた,ということももち ろん可能である。

撒 「この状態」一第3刷では,クライスト の手蔵コピーでロックは変更せず,「かれの状 態」となっている。

巌轍@「どれだけの人数によっても可能である」

一ロバート・フィルマー卿の非常に特徴的な 主張(ラズレット版,1949年,16頁)への反 論であり,ロックの多数者についての議論の定 式化はフィルマー批判を意味している。それは,

「国家共同体の誕生」についてのホッブズの有 名な章句(「レヴァイアサン』第17章,1904 年,118−19頁)との対比を促すけれども,

ロックの胸中にあったのは,ホッブズではなく て,フィルマーであった。アーリントン(1789 年)は,これに反論して,問題は,人が何をす るかではなくて,人は「直接的な義務の下に」

おかれているとのべ,また,ロックの多数者に ついての言明に対して,数についての議論は空 想的であるとのべている。つまり彼は権力を権 利の基礎にしているのである。

燃服この章句についての広い議論を,ケンダ ル,1941年,第7章が行っていて,彼は「多 数者支配民主主義者の信念」を最も簡明にのべ たもの,としている。

 9酵.何人かの人が,各々の同意によって一つ の共同体をつくった時には,かれらはそのことに

よって,その共同体を一体となって行動する権力 帝持つ一つの団体としたのであり・そのことは,

多数者の意志と決定によってのみ可能であるから である。ある共同体を動かすものは,それを構成 する個人の同意だけであり,そして一つの団体は 一つの方向へ動くことが必要であるから,その団 体はより大きな力が引っぱっていく方向へ動かな ければならない。そして,この大きな力というの

(2)

は,多数者の同童であぐ。.そうでなければ,それ は一つの団体,一つの共同体として行動すること

も,存続することもできない。しかし,そこに結 集している各個人は,それが一体となって行動す

ることに同意したのだから,すべての人は,その 同意によって,多数者に拘束されるべく義務づけ

られているのである。だから周知のように,実定 法によって行動の権限を与えている集会などでは,

その権限を与冬て』疹宰牢法がとくに数を定めて いない時は,多数者の決定が全体の決定と見倣さ れる。それが,自然と理性の法によって与えられ ているものとして,全体の権力を決定するのは,

当然なのである。

巌 ロックとジョージ・ロウスン George Lawson との見解の間の一般的な関連性は,

まったく異なる論証を除けば,多数者原理に対 する両者の態度の内実の類似によって,充分に 明らかである。「レヴァイアサンの政治的部分 の検討E血痂嬲物 げ1%みわεs』,1657年で,

ロウスンは,すべての集会や社会では,混乱と 不和を避け,秩序を維持するために,主要な部 分が結論を出し全体を決定する,とのべている

(25頁)。両者,それにティレルの見解も,そ の共通の源泉は,グロチウス『戦争と平和の法』

の序文(1712年,10頁)とII−V−17の周知 の議論とであろう。

 97叢.このように,すべての人は,一つの政治 体をつくり一つの統治に服するよう他の人々と同 意すると,多数者の決定に服し,それに拘束され るという義務を,その社会の全成員に対して負う ことになる。もし,ある人がいぜんとして自由で,

自然状態にいるときと同じように何の拘束もう1ナ 存ヒ渚するなら,他の人々ぐ苧もIF団結して一つ の社会をつくるというこの原始契約は,まったく 無意味となり,契約とはいえないものとなるであ

ろう。もし,ある人が,自ら適当と思い,実際に 同意したこと以上には社会の命令によって拘束さ れないとすれば,契約のみせかけさえなくなって しまうし,新しい約束もない。これでは,契約以 前とまったく同じ自由があることになるし,ある いは,自分が適当と思う場合しか法令に服従せず,

同意もしない自然状態の場合と同じ自由があるこ とになるであろう。

 巌 この節の意味は,感じや言葉づかいはとも  かく,ホッブズの『リヴァイアサン』第18章  の「多数者によって表明された主権の設立に対  して敵対することは,誰であれ不法である」

 (1904年,122頁)の意味と非常に近似している。

 II−98への脚注を見よ。

  98巌.もし,多数者の同意が全体の決定とし て正当に受け入れられず,各個人を拘束しないな

ら,全員の同意がないかぎり,どんなことも全体 の決定とはなりえなくなる。ところが,健康上の 理由や仕事の都合でどうしても公の集会にでられ ない人が何人かいるということを考えてみれば,

そういう人の数は国民総数と比べればごくわずか であるにしても,全員の同意ということはほとん ど不可能に近いであろう。さらにこれに加えて,

人々のどんな集まりにでも必ず意見の違いや利害 の対立があることを考えると,そういう条件で社 会に入るということは,まるでカトーが劇場に入っ

たときのように撒,すぐまた出ていくためだけ のことになってしまうであろう。このような制度 のもとでは,強力なリヴァイアサンも,もっとも かよわい生物よりも短命で,生まれた日一日すら も生きのびれない巌競。このようなことは,理性 的な被造物がただ解体させるためにのみ社会を必 要とし構成するのだ,とでも考え奪ヒ・かぎり,と

うてい考えられないことである。多数者が残りの 人々を拘束することができないのなら,一つの団 体として行動することはできず,したがってすぐ

にふたたび解体してしまう。

 峯 この節は,クライスト・コピーで,ロック  によって大幅に修正された(校合を見よ)が意  味が変わるほどではない。

 撒マルティアーリスMartia1の『エピグラ

 ム集五瀕gπ‡翅㎜如 』第1巻,序文に「Cur in  廿1eat㎜,Cato severe,venisti,An ideo  tantumveneras,utexiresP」とある。ウチカ  のカトーCato of Uticaについての逸話。EJ,

 ケネーKemey氏からの教示による。

 競業ホッブズの言葉をよく考えて使っている。

 明らかな皮肉だが,『リヴァイアサン』の理論  やどこか特定の章句への批判を意図しているの  ではない。この点,ラズレット序文,71頁を  見よ。ロックとホッブズは,全体の決定として  うけとられるように,多数者の同意の必要性を  共に考えていたのであり,それを否定したのが

(3)

伊藤宏之:〔翻訳〕ジョン・ロック「統治論』(W)

3

フィルマーであった。この点については,II−

95への脚注に引用した章句を見よ。フィルマー に反論して,ロックは多数者原理を擁護したが,

不十分であったといわざるをえない。というの は,ロックはたんに,「自然と理性の法によっ て」(II−96)そうであると主張することだけ で,「多数者が,多数者以外の残り人たちに対 する支配権を持つのは自然法によってである」

(フィルマー,82頁)ことを証明しようとす る挑戦にこたえているからである。この点は,

アレンAllen,1928年と比較せよ。

 99.したがって,自然状態から脱して共同体に 結合するものはだれでも,そのような社会へと結 合する目的に必要な権力のすべてを,とくに過半 数以上の何らかの数の明示に同意していないかぎ り,共同体の多数者にゆずりわたした,と解され なければならない。そして,このことは,一つの 政治社会に結合することに同意するだけでなされ

るのであって,国家共同体に入り,あるいは国家 共同体を構成する個々人の間で結ばれ,また結ば れなければならない契約はそれだけである。した がって,なんらかの政治社会の始まりとなり,実 際にそれを構成するものは,多数派を形成しうる 何人かの自由人がそういう社会に結合し,それを 構成するという同意をすることだけである。そし て,これが,またこれこそが,世界のすべての合 法的な統治を誕生させることができるものなので

ある。

 10酵.このような考え方に対しては二つの反 対論がある,と思う。

 第一は,独立で相互に平等な一団の人々が,一 緒に集まり,こういう方法で統治を誕生させ,こ れを作り上げたという例は,物語のうちには見ら れない,というものである。

 第二は,すべての人は生まれながらにして統治 のもとにあるのだから,それに服従すべきなので あり,新しい統治を自由に誕生させることはでき ないのであって,したがって,人々がそういう ことをするのは不可能である撒,というものであ

る。

業 ここから,II−131までの節が,最初の構 成の後で,おそらくは,1681年に追加された,

ということはありうることである。というのは,

第132節は第99節に直結しているからである。

Il−95・101・111・123・132への脚注を見よ。

撒II−112を見よ。あげられている反対論は,

ともに,例えば,81節や232節にみられるよう に,フィルマーがのべているものである。

 10併.第一の反対論には,次のように答えよ う。歴史のなかで,自然状態において一緒に生活 していた人々のことが,ほとんど語られていない のは,少しも不思議ではないのである。自然状態 に不便を感じ,社会を好み必要として,人々の何 人かが一緒になるやいなや,かれらが集団生活を 続けようと望むかぎり,かれらは直ちに結合し,

団体を形成したのである。人間が自然状態にいた という話はあまり聞いたことがないからといって,

人間が自然状態にいたとは考えてはならないとい うなら,サルマナセルやクセルクセス撒の軍隊 の兵士たちも,大人になって軍隊に編入されるま でのことはあまり聞かないから,かれらには子ど もの時代はなかったのだ,と考えてよいことになっ てしまうだろう。統治は,どこにおいても,記録 にのっているより以前からはじまっているのであ り撒叢,文字というものは,市民社会が長く続い て,それ以外のもっと必要な技術によって,社会 の安全と快適さと豊かさとが整えられてからでな ければ,人々の間でほとんど用いられるにいたら ないのである。文字が用いられるようになっては じめて,人々はその社会の建設者たちの歴史を探 し求め,その社会の起源をたずねるのであるが,

その時にはすでにあまりに長い月日がたってしまっ ていて,人々はそれについての記憶を失ってしまっ ているのである。国家共同体でも個人と同じよう に,ふつう自分自身の出生や幼少のころのことは 知らないものである。もし,自分の起源について 何かが知られているとすれば,それは他の人の残

しておいてくれた記録のおかげである。世界中の 政体のはじまりについて,我々が持っている記録 は,すべて以上にのべたようなはじまりの明白な 実例であるか,ないしは少なくとも,明らかな足 跡を示すものである撒撒。もっとも,神が直接 に仲立ちをし,しかも父権による支配権という考 えにとってはまったく不利なユダヤ人の場合は,

これとは別である。

豪 この節は,II−14での指摘にある,市民 社会の確立に生行ずる自然状態の現実的な存在

(4)

についてのより詳しい答えを始めているのであ る。1681年にロックがこの点での自らの議論 を入念に仕上げようと決断したこと,そして,

そのことがここで自らのテクストを補強した理 由であったといいうるであろう。II−100への 脚注と参考を見よ。

兼業 「サル々チモル&物毎脇s併」一アッシ リア人の征服者(紀元前9世紀)。「クセルクセ

ズX召耀s」一ペルシャ人の征服者(紀元前

480年にサラミスで敗れた)。

峯競 1−144,1−145と比較せよ。

撒撒この章句は,ロックの胸中にあったのが フィルマーであったことを示している。また,

「明らかな足跡」は,1−150で嘲笑されてい るフィルマー自身の表現である。

 102.台山々やヴ王三文の起源巌が,相互に自 由,独立で,生まれながらの優越や服従の関係を もたない人々の結合によるものだ,ということを 認めない人は,自分の立てた仮設に一致しないと

きには明白な事実をも否定するという異常な性向 をあらわさざるをえないであろう。また,ヨセフス・

デヨズダの言葉を引くとすれば,ナメリカの多く の地域では,統治はまったく存在しなかった。か れは,爽ル乙についても,『インド諸昂り目然卑お

掩精神則第.1巻卸5章で・.;妨の人々嫉

畢』・問1国王も、国家共同体も.もたず・集団牽 なして生循レ,.今恥.7マリ卒やデリ.グァ!珠や ブラジルやその他の多くの国民がしているよう

摩,舞搾駈ない9.平和姫醐争の時

も,.学事奉あ4 弟1任毒停その首題を遷ん1ご,と

いう有力な,はっきりした推測がたつ撒,

と述べている。かりに,そこでもすべての人は生 れつき父親あるいは家族の長に服従している,と いわれるにしても糠業,子どもが父親に服従する ことは,すでに証明したように,子どもが自ら適 当と考える政治社会に結合する自由を,決して奪 うものではないのである。それはともかく,こう いう人々が実際に自由であったことは明らかであ る。今日,一部の政治家がこれらの人々のうちの だれかに,どんな優越性を認めてやろうとしても,

かれら自身はそんなものを要求していなかったの であり,すべての人が同意によって自らのう冬IF 支配者をおこうとするまでは,すべての人が平等 であることに同意していたのである。だから,か

れらの政治社会は,すべて,自発的な結合と,そ の支配者および統治形態を自由に選ぼうとする相 互の協定によって,始まったのである。

崇 ロックは,ここでフィルマーと対立してい る。第206節以下,第220節以下をみよ。

崇峯エドワード・クライムストンEdward

Crimestone訳のアコスタ『インド諸島の自然

史および精神史 丁漉㎜ 螂。〃伽4脚r副

h∫s云。擁 ゾ h8血4∫8s』は1681年のロックの蔵 書であり,有名であった。この点,付録B,no.

1を見よ。引用文は,1880年再版の1−72にあ る。チリグアノCheriquanas人は,原文では,

宮のつづりで表記され,「アンデス山脈の東部 の森林にいる原住民」である。

巌撒フィルマーを想起させる。II−114への 脚注に引用されている章句を見よ。

 103.また,ユスティヌスの記述「ピリピ史』

第3巻第3章のなかで,パラントゥス巌とともに スパルタから立ち去った,といわれている人々も,

相互に独立した自由人であり,自分自身の同意に よって統治を作り上げた,と考えてよいと思う。.

単手り番うIF・.や牟≦レ 声歴史の中から・.自申 で自然状態にあった人々が一緒に集合し,国家共 同体を創設した例を,いくつか歩レ牟。.塗りに,

こういう例がまったくなくて,統治の始源はわた くしがのべるようなものでなくて,またそんなこ とはありうるはずがなかった,といいうるにして も,父権による帝国という主張者たちは,生まれ ながらの自由に反対してその説を唱えるよりもむ しろ黙っていたほうがいいのではないか,と母う.。

なぜならば,もしかれらが父権にもとずいて始ま らた統治の例を,わたくしの例と同じくらい歴史 の中からあげることができるのなら,かれらの言 い分を認めても,それほどの危険はなかろうと思 うからである(もっとも,過去の事実を論拠にし て,当然かくあるべきだということは,いくら上 手であっても,さしたる説得力のあるものではな い)。しかし,わたくしにもし庵告すう;とが許 されるなら,かれらは,実際の統治の起源をあま

り詮索しない方がよい,と思う。というのも,た いていの統治の基礎には,かれらのたくらむ意図 や,かれらの主張する権力にとって,ほとんどま ったく不都合な事実しか見い出されないであろう からである撒。

(5)

伊藤宏之:〔翻訳〕ジョン・ロック「統治論』(W) 5

峯 パラントゥスPalantusは,紀元前8世紀 にイタリーにおいてタレンタムTarentumと いう町を創設したスパルタ人の指導者であった。

トロガス・ポンペイウス Trogus Pompeius によって与えられた説明は,紀元2ないし3世 紀にユスティヌスによって書かれた万国史の摘 要からのみ知られている。ここでの参考書は,

おそらく,1543年のパリ版であろう(付録

B,no.47)。

糠フィルマーとその追随者の「父権」をさら に引き合いに出している。

 104.結論を言えば,理性は明らかに,人間が 生まれながらにして自由だという我々の主張に味 方しており,また歴史上の実例は,平和のうちに 始まった世界の諸統治藁はこのことを基礎とし,

人間の同意によって作られた,ということを示し ているのだから,統治の最初の設立に関しては,

真実がどこにあるのかということについても,ま た,人々の意見や実際の行動がいままでどうであっ たかということについても,ほとんど疑いの余地 はないのである。

叢 平和のうちに始まった諸統治の限界につい ては,II−112と脚注を見よ。

 10騨.歴史をさかのぼって国家共同体の起源 をさぐっていくと,たいていの国家共同体が一人 の人の統治と支配に服していたことがわかるであ ろう。それは,わたくしも否定しない。また,自 立が可能な程度の数の大きさの家族がいて,土地 が豊富で人口が少ないところではよくあることだ が,他の家族と混り合わずに一族だけで生活を続 けていた場合には,統治がふつう父親を支配者と

して始まった,ということも信じよう。父親は,

自然法によって,自然法に対する侵害を自ら適当 と思うように処罰する権力を,その他の人々と一 緒に持っていたので,自分の子どもが罪を犯した

ら,成年になって幼年時代をすぎてしまった子ど もたちをも処罰しえたし,また子どもたちもおそ らく父親の罰に服し,あるいはまた,自分が罰す るときには父親と一緒になって犯罪者に相対した であろう。こうして,父親はどんな違法行為に対

しても刑罰を執行しうる権限が与えられ,こうし てその家族と一緒にいる人々すべてに対して,か れは事実上の立法者と統治者になっていったので

ある撒。かれは信頼を受けるのに最もふさわし い人物であり,父親としての愛情によって,かれ らの財産と利益は彼の配慮のもとに安全に守られ たし,また,子どもの頃から父親に服従してきた のが習慣となって,その他の人よりもかれに服従

しやすかったのである。だから,共同生活をして いる人々の間で,統治がほとんど不可避であるか ぎり,だれか支配者を選ばねばならなくなると,

人々の共通の父親である人ほど,支配者たるにふ さわしい人はいなかったであろう。もっとも,怠 慢や残忍さやその他の心身の欠陥のために不適任

とされる場合は,別である。しかし,父親が死んで 後継者が未成年であり,知恵や勇気やその他の性 質に欠陥があって,支配するのにふさわしくなかっ たり,あるいは,いくつかの家族が集って,一緒 に生活することに同意したりした場合には,かれ らがその生まれながらの自由を行使して,かれら を支配するのにふさわしいと考える人を立てた,

ということは疑いえぬことである。これにふさわ しい例は,アメリカの住民にみられる。かれらは

(ペルーとメキシコという二大帝国の征服の剣と 支配拡張の及ばぬところに住んでいたので),生

まれつきの自由を楽しんでおり,ふつうは,他の 条件が等しいかぎりは,死んだ国王の相続人を優 先したのであるが,しかし,もしこの相続人がど こか弱かったり,あるいは無能であることがわか ると,かれを見捨てて,もっと強くて勇敢な人を 支配者としたのである。

蝦 この節から,家父長制主義へのロックの譲 歩のくりかえしと拡大が始まる。II−74と脚 注を見よ。再び,ロックの議論は,ティレル

(例えば,1681年,83頁以下)のそれに近接 するし,おそらく,プーフエンドルフにはより 接近する一この点については,『自然法論』,

1672年,VII−i「z)εc側sσ万物πZs漉昭肋s・

観π㎝4αθα〃加漉」,とくにその第5節を見よ。

プーフェンドルフは,フィルマーの家父長制主 義へのこうした言及の際に,フィルマーへの最

初の批判者エドワード・ジーEdwardGee

(1658年,150頁)に従っている。

鰍アーリントン(1798年)はこの箇所に関

して,人は家父長に信託する義務を持っている のであって,かれを拒否する恣意的な権力は持っ ていない,とのべ,また,II−106に関して,

(6)

 人は自らの最も重要な道徳的行為への恣意的な  権利を持っている,とはロックが主張していな  い,とのべている。

 106.このように世界に人類が住みはじめた物 語や諸国民の歴史を,記録に残されているかぎり

さかのぼってみると,ふつう,統治は一人の人の 手中にあったことがわかるけれども,しかし,こ り;苧1み.わたくしの主張・すなわち・政治社会 のはじまりは,各個人が一緒になって一つの社会 を作るという同意によるものであり,そして,か れらは,このように結合すると,自ら適当と思う ような統治形態を作り上げたのだ,という主張を 決してくつがえすものではない。しかし,このこ

とが,人々に,統治は本来,君主制的なものであ り,父親に属するものである,という誤った考え をおこさせるもとになっているので,ここで,人々 が何故はじめにたいていこういう統治形態を選ん だのか,を考察しておく必要があるであろう。こ の統治形態はおそらく,国家共同体がはじめて作

られたときに,父親の優越性によって生じ,権力 をはじめ一人の手においたのであろうけれども,

しかし,個人が統治するという形態が続いた理由 は,明らかに,父親の権威に対する配慮や尊敬で はなかったのである。すべての小君主国,つまり,

ほとんどすべての君主国は,その成立後まもなく,

ふつう選挙制であり,少なくとも時々はそうであっ たのだからである巌。

 崇 II−132と比較せよ。1679年4月25日の

 『日録』(ラズレット序文,34頁と比較せよ)

 と『政治∫b厚物』と題する『日録』で,ロッ

 クはサガードの『カナダ」(1636年,付録

 B,no.72.なおII−58への脚注と比較せよ)か  ら引用を行い,その地域では,選挙による君主  制があったこと,しかし,にもかかわらず,ふ  つうは父親の王冠を息子が引き継ぐことが許さ  れていたことを指摘している。「かれらの国王  たちは,強制よりもむしろ同意と説得によるこ  とが義務づけられていて,公共の福祉が権威の  存在理由であった……そして,このことが世界  のその地域すべてにおいて,その起源での法的  権威の状態であったように思える」,とかれは  書き,ノートに頭文字で署名している(B.M.A−

 dd。MSS.15642)。

 107.さて,まず第一に,父親がその子どもた ちを統治したことから,子どもたちは一人の人の

支配に馴れていた。またこのような支配が注意深 く巧みに,そして支配されている人々への愛情を もっておこなわれれば,かれらが社会において求 めていrる政治的な幸福を充分に保証し守ってくれ

ることがわかった。 オたがって,かれらが子ども の時からすべて馴れていて,経験によって苦痛が なく安全だということがわかっていたこのような 統治形態を選び,自然にそれに入っていったのは,

まったく当然のことであった。さらにこれに加え て,かれらは,統治形態が種々あることをまだ経 験によって学んではいなかった。また,君主制が 何代も続くとおこりがちな,特権の不当な拡大や 絶対権力の弊害に用心するようには,支配の野望 や傲慢さの例から学んではいなかった。このよう な人々にとっては君主制は単純できわめてわかり やすく、思われたから,かれらが支配権を与えた人々 の権力濫用を抑制する方法を考えたり,統治権の 種々の部分をそれぞれ別の人の手においてバラン スをとる方法を考えたりするのに苦労しなかった のも,しごく当然なことである。かれらは,専制 的支配の圧迫を感じたこともなく,またその時代 の風習や,かれらの財産や生活様式からいって

(貪欲や野心の対象となるようなものがほとんど なかったからであるが),専制に対して心配した り,あらかじめ備えたりする理由はなかったので ある。だから,彼らが,すでにのべたように,最 もわかりやすく単純でかっかれらの当時の状態や 条件に最もふさわしい統治様式に入っていったの

は,当然である。その当時の状態というのは,法 律をたくさん作ることよりも,外敵の侵入や危害

に備えて防衛する必要の方が,はるかに大きかっ たのである。人々はおしなべて質素で貧しい生活 をしていて,その欲望は各人のささやかな所有の せまい枠内に限られていたから,争いもほとんど なく,したがって,争いを裁くための法律もあま り必要でなかった。また,違法行為や犯罪もわず かしかおこらなかったから,裁判も必要でなかっ た峯。そして,お互いに望んで社会を作ろうとし た人々だったから,相互に知りあっていて友情を もち,互いに信頼し合っていたにちがいないし,

お互いに警戒し合うよりは,他者からの攻撃を警 戒せざるをえなかった。してみれば,かれらがま ず第一に心配し考慮したことは,どのようにして 外敵に対して身体を保全するか,ということであっ た,としか考えられない。かれらが,そのような

(7)

伊藤宏之:〔翻訳〕ジョン・ロック「統治詮」(VD 7

目的に最適な統治様式を選び,そして戦争の時に,

かれらを指揮し,敵に対して先頭に立ってくれる ような,おもにそのような意味で支配者になって くれるような,最も賢明で勇敢な人を選んだのは,

当然のことであったのである。

峯 クライスト・コピーでロックによって書き 直されているが,重要な相違はない。この点,

校合を見よ。このところでは,テクストはかな り細部にわたって修正されていて,句読点はほ とんど修正されている。

 108.今日のアメリカは,アジアやヨーロッパ の初期の時代,すなわち,国土に比して人口が少 なく,人間も貨幣も不足しているために,人々が その所有地を拡大したり,もっと広い土地を求め て争ったりしょうという気持をおこさせなかった 頃の見本のようなものであるが藁,このアメリカ のインディアンの国王というのは,周知のように,

その軍隊の将軍糠にすぎないのである。この国 王たちは,戦争の時には絶対的な命令権をふるう けれども,国内においては平時はあまり大きな支 配権を行使せず,きわめて弱い主権を持つにすぎ ず,講和や宣戦の決定権はふつうは人民または評 議会の手中にある。だが,戦時には,統率者が多 数いることは許されないので,当然,指揮権は国 王の単独の権威にゆだねられるのである。

叢 II−49と比較せよ。

糠 「その軍隊の将軍」一ロックは,ティレ ルとともに,君主の身元が通常は軍隊の指揮者 であること,そして,そのような指揮者の支配 は,自然状態から社会状態への移行期にみられ るということ,これらのことを共通の見解とし て持っていた。ティレル,1681年,85頁(ゴー ト族やバンダル族や「我々サクソン族」の最初 の頃の国王)やカリブ海の島々やブラジルの

「インディアンの酋長」に言及している92−

3頁を見よ。実際に,ティレルは,具体的に

「非常に多くの家族の唯一の首長」であったハ ドソン湾地域の住民の君主について,1680年 のロックの「日録』の中に書き留めさせている。

アコスタとレリーLery(付録B,nos.1と51)と が,おそらくかれら双方の典拠であった。しか

し,最も直接的な叙述はロックの所蔵していた

「アンチル諸島の自然史および精神史

 研醜。吻ησ 郷2JZεα〃or8 ε4θsπθsノ肋媚8s』

(おそらくは,ロッシュフォールR㏄hefortが 著者であろうが,しかしドゥ・テルトリ Du Te丘reやド・ポインシーDe Poincyであるか

もしれない),ロッテルダム,1658年に見られ

る。その463−4頁を見よ。グロチウス,

1625年,1−iii−8での議論と比較対比され

たい。

 この議論は,『寛容論』でもくりかえされて いる。「西インド諸島には,共通の外敵へのお 互いの防衛という以外には社会の目的を持たな い国民がいる。そこでは,かれらの首長ないし は国王は戦時の場合にのみ主権を持つ指揮者で ある。平時には,かれもその他の人もだれも,

社会の人々に対して何らの権威を持たない」

(『第二書簡』,1690年,1765年,107頁)。

「川や森が人々に天然の生活資料を与えるので,

土地の私的所有もなく,富や権力へのより大き な欲望もない人々が,一つの社会を作り,一人 の族長の下に一つの言語をもつ一つの国民をつ くるが,しかし,その族長はかれらの共通の外 敵に対する戦時にかれらを指揮する以外の権力

はもっていないし,国内法や裁判官それにかれ らの中で確立した優越性をもった人もなく,た だなにかおこれば,かれらの隣人ないしは各部 分から選ばれた仲裁者のその場かぎりの決定に よってかれら相互の争いを終える,というよう な国家共同体において,かれらの中で唯一人の 権威のある人が,その他の利益がえられるかも しれないが,外敵に対する防衛以外の他の目的 のために,国家共同体の強制力を使用する権力 を持つかどうか,聞いたい」(『第三書簡』,1692 年,1765年,171頁)。前段の擁護として書か れた第二の章句は,自然状態ないしは社会状態 と混合された自然状態についてのロックの見解 のうちで,最も興味深い説明である。

 109巌.このようにして,イスラエルにおいても,

かれらの裁き人や最初の国王のおもな仕事は,

戦争の司令官,軍の指揮官たることであったよう に思われる。このことは,(民の前に出入りす轍,

つまり,その軍隊の先頭に立って,出陣し,また 帰還する,という言葉で語られているが,その他 に),エフタの物語ではっきり語られている。ア ンモン人がイスラエルに戦争をしかけてきた時に,

(8)

ギレアデ人はこれを恐れて,その家の私生児でそ れまでに追放されていたエフタのところへ使いを やり,もしアンモン人との戦いに自分たちを援助

してくれるなら,かれを自分たちの支配者にしょ うという協定を結ぶのだが,このことを,かれら は,『士師記』11−11で,民これを立て,おの れの首領となせり,大将となせり,と語っている。

これは,また裁き人となることとまったく同一で あるように思われる。「士師記』2−7に,かれ六 年のあいだイスラエルを裁きたりとあるが,これ はつまり,かれらの指揮官であった,ということ である競業。そして,ヨタムがシケムの人々に,

かれらの裁き人であり支配者であったギデオンヘ の恩義を忘れたことを責めた時には,かれは汝ら

      ロ   ロ   じ   り

のために戦い,生金を惜しまずして汝らをミデア ンの手より救いだしたるに,と「士師記j g−17 でのべている。つまり,デギオンのことについて は,かれの将軍としての業績以外,何ものべられ ておらず,そのことだけが,かれの経歴について

も,また他の裁き人についても,のべられている のである。ナピヌルクも,せいぜいかれらの将軍 にすぎなかったのに,とくに国王とよばれている。

また,イズラ土ルの子孫たちが,サムエルの息子 らの悪行にうんざりして,『サムエル前書』8−

20にあるように,他の国々のごとくにかれらを裁

き,かれらをひきいて,かれらの戦いをた

たかう,ような国王を求めた時には,神はこの望 みを聞き入れて,『サムエル前書』9−16で,次 のようにサムエルにのべている。われひとりの人 を汝につかわさん。汝,かれにあぶらを注ぎてわ が民イスラエルの首領となせ。かれ,わが民をペ

リシテ人の手より救いださん。まるで,国王の仕 事がただ軍隊を率いて防衛のために闘うことだけ であったかのようである。そこでサムエルは,ザ ヴルの就任式にあたって彼の頭に瓶の油を注ぎ,

サウルに対して,「サムエル前書』10−1で,エ ポ六汝を立ててその選民の首領となし給う,と宣 言した。そこで,サウルはミズパで部族の人々か らおごそかに選ばれて王としての挨拶をうけたと き,サウルを王とするについて快く思わない人々 が唱えた異議は,『サムエル前書』10−27にある ように,かの人いかでわれらを救わんや,という ことだけであった。それは,まるで,この人は戦 いにあたってわれわれを守ってくれるに足るだけ の充分な技術も指導力もないから,王としては不

適当だ,といっているかのようである。そして,

神が統治権をダビデに移そうと決意した時の言葉 は,「サムエル前書』13−14に次のようにある。

しかれどもいま,汝の位たもたざるべし。エホバ その心にかなう人を求めて,エホバこれにその民 の首領を命じ給えり。これでは,国王の権威のす べてが,かれらの将軍であること以外にはない,

ということである。だから,かってあくまでサウ ルの一族に忠実でダビデの支配に反対していた部 族が,ダビデに服従するという条件をもってヘブ ロンヘやってきた時,かれらがかれらの王として ダビデに服従せざるをえない,いろいろな理屈を 並べているなかで,ダビデはサウルの時代から事 実上,かれらの王であり,したがっていまかれを 王として迎えるのは当然だ,と語っている。かれ

らの言葉は次のとおりである。さきにサウルがわ れらの王たりしたときにも,汝はイスラエルを率 いて出入するものなりき。しかしてエホバ汝に,

汝わが民イ文ラ土ルを養わん,汝イスラエルの首 領とならん,といい給えり撒競。

巌 このように原初の民の歴史を聖書物語にな ぞなえるということは,特にロック的である。

1−158やII−36,それにそれぞれへの参考と

比較せよ。

撒 「民の前に出入す」一イスラエルの民を 戦いに率いるという旧約聖書のきまり文句。例

えば,「民数記Nmbers』xxvii−17を見よ。

蝦撒 「土ラタの物語」一II−21とそれへの 脚注ならびに参考を見よ。

撒糠 『サムエル後書』5−2。

 110.このようにして,ある家族が次第に大き くなって一つの国家共同体になり,父親の権威が 長男へうけ継がれていく間に,順次に父親の権威 のもとで成長していった者がすべて,暗黙のうち にそれに服従し,その安楽さと平等な点が誰をも 傷つけないところがら,皆がこれに黙諾を与えて

いたが,やがて時が経って,その権威が確認され,

長年の慣習によって相続権が確定した,という場 合もあるだろう。あるいはまた,いくつかの家族 やそれらの子孫が,偶然にないしは隣り合わせで あったために,または交易の都合などで,一緒に なって結合して社会をつくる場合もあったであろ う。その場合,戦いの時にかれらを指導して敵か ら守ってくれる将軍を必要としたこと,また貧し

(9)

伊藤宏之:〔翻訳〕ジョン・ロック「統治論』(W) 9

かったけれども徳性がすぐれていた時代の人々は,

純真で誠実な心をもって相互に信頼感を寄せ合っ ていたこと(世界でおよそ長続きしているような 統治をつくり出した人々は,ほとんどがそういう 人々であった),これらのことから,国家の最初 の創始者たちは,たいてい支配権を一人の人間の 手中に委ねたのである。その際,事柄の本質上,

また,統治の目的からいって,必要とされるもの 以外は何ら明白な制限や制約をもうけなかった。

こうして,最初にただ一人の人間の手中に支配権 をおいた理由が,以上の二つの場合のいずれであっ ても,たしかなことは,公共の福祉と安全以外の ものを目的として支配権を委ねられた者はいなかっ たということであり,また創始期に支配権を手に したものは,そういう目的のためにこれを用いる のが普通であった,ということである。そしてま た,そうしなければ幼い社会は存在しえなかった であろう撒。公共の福祉に優しい配慮をするこ ういう育ての親がいなければ,すべての統治は,

その幼年期の弱さともろさのもとで崩れてしまっ たであろうし,君主も人民もともにまもなく減ん でしまったであろう崇。

峯 クライスト・コピーでは修正され部分的に 書き直されている。この点,校合を見よ。「育 ての親」とかその他の半ば家父長制的な語句に ついては,II−105やそれへの脚注ならびに参

考を見よ。

撒ロックの信託の原理については,ラズレッ ト序文,112頁以下を見よ。また,ロックの

『寛容論草稿」,1667年のとくに次の章句と比 較せよ。「統治者の全ての信託,権力ならびに 権威は,かれが立脚するその社会の人々の福祉,

安全それに平和のためにのみ用いられるべく,

かれに付与されている。それゆえに,これが,

それにしたがってかれが法律を整えあてはめ,

統治を作り組み立てる基準でありまた手段であ る。」(フォクス・ブーン Fox Boume,1876 年,第1巻,174頁)

 111.しかし黄金時代(虚しい野心やよこしま な所有愛峯や邪悪な貪欲が,人々の心を堕落させ,

本当の権力や名誉についての誤った考えをもたせ るようになる以前の時代)には,美徳がもっと多 く,したがって統治者はもっと立派で,悪徳な臣 民もずっと少なかった。すなわち,当時は,統治

者の側には人民を圧迫するような特権の濫用もな く,したがって人民の側でも,その特権について 異論を唱え,統治者の権力を縮小したり制限した

りしようということはなかった競。そういうわ けで,支配者と人民との間には,統治者や統治に ついて争いが起ることはなかった。しかし君主が,

野心や奢侈のためにその権力を将来にわたって保 持し拡大しようと欲するようになり,しかもその 権力が与えられた目的である任務を行わなくなり,

さらに周囲のへつらいによって輪をかけられると,

君主は,その人民から切り離された別個の利害を もつことを覚えるようになった。そうなると,人々 は,統治の起源とその権利をもっと注意深く検討 することが必要だと考え,また,かれらがひたす ら自分たちの利益のためにのみ他の人の手に委ね たにもかかわらず,かえって自分たちを傷つける ために用いられるにいたった権力の行き過ぎを抑 制し濫用を防止する方策を見い出すことが必要だ

と考えるようになったのである。

巌 このラテン語の引用(α脚■soε1θ名躍κs h4・

ゐ㎝4∫)は,オウイディウスOridの『変形諌 躍8 α脚ゆhosθs1第一篇第131章からである。

この黄金時代についてのヒントは,大いに伝統 的な要素をもっており,ふつう,ロックの自然 状態の叙述であると解されている。この点,レ スリー・スティブン,1876年(1902年),第2巻,

137頁を見よ。これは例えばシュトラウス,

1953年,216頁にも引き継がれている。もし,

ロックがこのように考えていたとすれば,ホッ ブズの自然状態についての見解とは著しい対照 を示す。もっとも,シュトラウスが指摘してい るように,例えば,1−44・45にあるような,

原罪についてのロック自身の説明と両立させる ことは困難となるけれども。しかしながら,ラ ンプレヒト,1918年,127頁は,それが自然状 態についてではなく,確立された統治をもった 原初の有徳な時代についての言及だという見解

を示している。例によって,ロックの用語は不 正確であるが,この節の厳密で思いやりのある 読み方とII−107・110は,これが正しい見解 であることを確証しているように見える。

糠II−94で用いられたフッカーからの引用 がここでもまた用いられている〔省略〕。そこで の脚注を見よ。ここで再現している理由は,も

(10)

ともとの構成の後で第100節から第131節が付 加されたという事実によっている(II−95へ の脚注ならびに参考を見よ)。もっとも,ロッ クの草稿にはいくらかの混乱があり,次いで訂 正されない初版の植字工の誤解がみられる。引 用は両箇所ともまさにふさわしい,といえる。

ロックが重要な語句に下線を引いていることを 含めて,フッカーの原本とは若干異なるし,ま た,フッカーの著作の二つの版の間にもちがい がある。

 112.以上でわれわれが見てきたことは,生ま れながらに自由な人々は,自らの同意によってそ の父親の統治に服するか,あるいは数家族が結合

して統治を?く.?奄粧いず超Fレてもカ}劃らは,

たいていは一人の人間の手中に支配をゆだね,

⊥入あ入間の指導に服し,しかも支配者の誠実さ と慎慮を信頼して安全と考えたために,その権力 を制限ないしは規制するとくに明白な条件をもう けなかった,ということはきわめて当然のことだ ということである。もっとも,かれらは,君主制 が纏によるなどとは夢想だにしなかった。その ような考えは,ごく最近の神学巌がわれわれに教 えてくれるまでは,人々の間で聞いたことがなかっ たものである。またかれらは,父権が支配権をも つとか,すべての統治の基礎であるということも 認めなかった。さて以上のこ苧牟ら,歴史が明ら かにしてくれるかぎりでは,統治の平和的なはじ まりはすべて人民の同意に基礎をもつ,と正当に 結論してもよい,ということが充分に示されたで あろう撒。私が平和的とのべたのは,人によっ ては征服が統治のはじまりの一つの方法だと考え ているからであるが,このことについては,別の

と;うでり琴礎余櫛うう轡・..

私がρ き㊧齢な承雛り顯IF餓 てり

もう一つの反対論は,次のようなものである

撒撒。すなわち一

巌 「ごく最近の神学」とは,フィルマーの家 父長制原理であり,公然と宗教界に認められ,

「万人の認める当代の神学」となった。この点,

序文を見よ。これ以下の文章は,1689年の追 加であったらしい。

蝋 II−104と比較せよ。

撒峯別のところとは,第16章のII−179か

ら198である。

糠鞘 II−100を見よ。この文章は,節の順 序から明らかにはずれていて,第113節は奇妙 な書き出しとなっている。

1」3,入師姓勲抄う1甚て何砂り

締曝』て帰ρ瞥わ、唆韻柚断

て卑申でけ南旦えず,.ま.た.自申に蒜台Fて新レヒ

騨を馳参.り.冷灘嫡殆脅ち卒焔.こ

とができるなどということは,決してありえない。

 もしこの議論が正しいのなら,私はこんなに多 くの合法的な君主政治がどのようにして世界に出 現したのか,と問いただしたい巌。もし誰かが先 の議論にもとずいて,世界のある時期に,だれか

自由1と合法的な君主政治を始めうる一人の人間を 私に示すことができるなら,私はその人に,それ

と同じ時期に,自由に結合し,王制であれその他 の形態であれ,一つの新しい統治を始めることの できる別の10人の自由人を示してみせよう。も し他の人の支配下に生まれた誰かが,新しい別個 の絶対的な支配権を設けてその他の人を支配する 権利を持ちうるほど自由であうぐ』・う;苧が論証

されるならば・他の人の支配下IF生まれたすべて の人がまたこれと同じように自由であり,独自な 別個の統治の支配者なり臣民なりになりうる,と いうことは論理的に当然であろう。そこで,反対 論を唱冬季人々のこの原理によれ1弟.すべての人 が,生まれのいかんにかかわらず自由であるか,

さもなければ,世界には合法的な君主と合法的な 統治はただ一つしかないかのいずれかだというこ とになる。そこで,彼らのなすべきことは,ただ 一つ,誰がそのような合法的な君主であるかを示 すことである。それを示してくれれば,全人類は,

ただちにその君主に服従することに同意するであ ろうことは疑いない。

業 II−100への脚注と比較せよ。この反対論 は,このような一般的な形ではフィルマーによっ てのべられていないが,フィルマーが一貫して いだいていたことである。この点,フィルマー の『諸形態』(ラズレット版,1949年,185−

229頁)を特に見よ。

 114.かれらの反対論については,それがその 論敵を巻きこむのと同じ困難にかれら自身を巻き こむことになるということを示せば,それで充分 な答えとなるのだが,しかしこの議論の弱点をい

(11)

伊藤宏之:〔翻訳〕ジョン・ロック『統治論」(W)

11

ま少し明らかにしてみよう。

 すべての人は皆,生まれながらにして統治に服 しており,したがって新しい統治を始める自由は ありえない。人はだれでも生まれながらにして,

その父親あるいは国王の臣民であり,したがって 永遠に服従と忠誠の絆のもとにある蝦,とかれら

はいう。人類はいままで,自分たちが生まれなが らにして,父親か国王に自然に服従していて,自 分たち自身が同意しなくともかれらおよびその後 継者たちへの服従にしばられているということを,

決して認めもせず,考えもしなかったのである。

このことは明らかである。

峯 「すべての人は,生まれながらに自由に生 まれることからはほど遠いので,まさに諸生に よって生んだ人の臣民になるのである。つまり,

神の直接的な指名ないしは,その父親の授与又 は死によって,かの権力を掌握するということ がなければ,人はそのような服従の下で生きつ づけるのである」というフィルマー(ラズレッ

ト版,232頁)の意訳であって,第一論文にお いて廟笑されている。この点,II−102と比較

せよ。

 115.というのは,聖俗どちらの歴史をみても,

人々が生まれながらに服していた支配や,自分た ちを育ててくれた家族や共同体のもとからぬけ出

して,これらへの服従をやめて,他の場所に新し い統治を創設した例ほど,ひんぱんにみられるも のはない,からである。そして歴史の初期のあの 多数の小国家共同体は,皆このようなところがら 生じ,さらに地上に余地のあるかぎり,たえず増 加していったが,やがて強国や運のよかった国が 弱小のものを併合し,そしてまたこれらの大国が 分裂し,小国に別れていったのである。これらの ことはすべて,その一つひとつが父親の世襲主権 を拒否する反証になるものであり,初期の統治は,

父親の自然権がその後継者へ伝えられてつくられ たものでない,ということを明らかに証明してい る。父権論にたてば,そんなに多くの小国が存在 するということは,不可能だったからである。も し,人々が自由にその家族を離れ,またどんな統 治であれ,そこにつくられていた統治から離れて

自ら適当と思う別個の国家共同体や統治をつくり えないとすれば,ありうるすべてはただ一つ,全 世界的な君主制だけであったであろう。

 116.世界の最初の始まりから今日に至るまで,

実際に行われてきたのは,以上のことであった。

現在,人々が確立された法律と一定の統治形態と をもつ制度の整った古来の政体に生まれても,森 の中で自由に走りまわっているなんの拘束もない 住民のあいだで生まれてきたのと同様に,人々の 自由には何の妨げもないのである。というのは,

われわれに,我々は何らかの統治のもとで生まれ たのであるから,当然にその臣民なのだし,自然 状態の自由についてはもはやこれを持つ資格もそ れを要求する権利もないのだ,と説いて聞かせる 人々は,その根拠として(我々がすでに論議した 父権という根拠を除外すれば峯),ただ,わずか に,我々の父親や祖先が,その生来の自由を譲渡 し,そのことによって彼ら自身が服従する統治に 永遠に隷従するように義務づけた,という根拠し かもっていないからである』たしかに,誰かが自 ら契約や約束をすれば,どんな約束であれ,かれ はそれに拘束される。しかし,どんな契約によっ ても,その子供や子孫を拘束することはできない のである。その子どもは成人すれば父親と同じく まったく自由になるのだから,父親のどんな行為 も他の人の自由を奪いえないのと同様に,子ども の自由を奪うことはできないからである。なるほ ど,父親は,かれがある国家共同体の臣民として 享有していた土地に条件をつけて,子どもが父親 のこの所有物を相続しようとする場合には,子ど

ももまたその国の臣民とならなければならないよ うにすることはできる。その地所は,父親の所有 物なのであるから,父親の意のままにこれを処分

したり分与したりできるからである。

讃 この父権論は,ロックがなお,フィルマー への批判を続けていることを示している(第 115節と比較せよ)。つまり,「すでに論議した」

といっているのは,第一論文についてではなく,

直接的に先行するテキストについての言及であ

ろう。

 117.そしてこのことが,一般にこの問題につ いての誤解のきっかけになっている。国家共同 体はその領地の一部がとり去られたり,その共同 体以外の人がそれをもっことを許さないので,そ の子は父親と同じ条件,つまりその社会の一員と なり,その国のほかの臣民と同じようにそこに確

(12)

立されている統治にただちに服するという条件を 守らなければ,ふつう父現り翠摩牽相舞す争;ぐ

1ヰで季なヒ・牟うであ灸。.績i治。の.も≧1こ生まれ季卑

由民は,ただ同意によってのみその一員となる のだが,この同意は各人が成人になったとき順々 に別々に与えるものであって,多数の人が一緒に 与えるものではないのである。ところが人々はこ のことに気づかず,同意などまったくなされてい ないと考えるか,あるいは不必要だと考えてしまっ て,彼らが生まれながらにして臣民である,と結 論するのである。

 118巌 しかし,統治者たち自身がこのことに ついて別の理解をしている;昌声.囲うカ1であう。

す肋軌騨者嫡は瀦馴謝して勧轡

っていたからといって,その息子に対しても権力 を要求するということはないし,父親が臣民だか らといって,その子供まで臣民だと見倣しはしな いのである。もし才シグランドの一臣民がフラン ズでイギ1∫ズ人の婦人との間に一子をもうけたと すると,この子はどこの国の臣民となるのだろう か撒。イングランドの国王の臣民ではない。そ の特権を認めてもらうのには許可が必要であるか

らである。しかし,フランス国王の臣民でもな い糠蝦。なぜなら,もしそうだとしたら,どうし てその父親が自由に子供をつれ帰って,自分の好 きなように育てることができるのであろうか。両 親がその国の人でないのに,ただその国を立ち去

ったときとかあるいはその国との戦争に加わった ときに,反逆者とか逃亡者とかの裁きをうけた例 がいままでにあったであろうか。したがって,正

しい理性の法IFキ?ても,.締準者牟ち亭号の恒行 に照しても,子どもは生まれつきどこの国,どこ あ窺治あ臣民でもない撒糠ということは,明ら かである。子どもは分別のつく年令に達するまで は,父親の保護をうけその権威に服しているが,

成年になると自由人となり,どんな統治のもとに 身を置こうと,どんな政治体に結びつ;う≒阜申 なのである。もし,ラウシ文生まれのイギリス人 の息子が,自由人となり,自由に行動できるよう になれば,かれの父親がイングランドの臣民であ るからといって,別に彼を束縛する絆はなく,ま してその先祖が結んだどのような契約にも束縛さ れることはない,ということは明らかである。だ

とすれば,その子供は,どこで生まれようと,同

じ根拠によって,同じ自由をもたないわけがある だろうか。なぜなら,父親がその子供に対して生 来もっている権力は,子供がどこで生まれようと 同一なのであり,また,父親と子供との生来の義 務の絆は,国王や国家共同体の人為的な制限によっ

て拘束されるものではないからである。

峯 レズリー・スティブン,1902年,第2

巻,140頁は,この節が「アナーキーに真直

ぐ道を開いている」と,のべている。私は,以 下の脚注について,ケンブリッジのダウニング・

カレッジにいるパリーPan y氏に恩恵をうけて

いる。

鞘 今日と同様,ロックの時代でも,フラン スで生まれた臣民の子どもは,エドワード3世

25年の動%傭読π」㎜解法の下で,英国の

市民であったし,1627年の判例によって,そ れが父親でも母親でもどちらでもよい,とさ

れた。

峯撒 これは一般的な規則ではなく,17世紀 において,公式に帰化した英国人両親が外国で 生んだ子供の例である,と思われる。この点,

パリー,1954年を見よ。

鞘鞭 ポロック,1904年,244頁は,これに ついて「現代の法律家には,とりわけ大陸の法 律家には受け入れられない見解である」,との べている。しかしながら,ロックの時代の法律 では,帰化への権利はなかったのであるから,

必ずしもこのような見解がまちがっているとは いえない。ロックは,社会的経済的理由で,外 国人の帰化にとりわけ好意的であった。この点,

ラズレット,1957年(i),393頁を見よ。

 119.すでにのべたように,すべての人は,生 まれながらにして自由であり,かれ自身の同意に よるのでなければ,何ものもかれを地上の権力に 服従させることはできない。そこで,ここで考え てみなければならないこぐ1ヰ・.ギリ詞姻蔚 すれば,人がいずれかの統治の法に服するのに充 身な同意の表明と理解されることになるのか,と

いうことである。よくいわれる明白な同意と暗黙 の同意という区別が,この問題に関原奪も?てく る。社会へ入ろうとする場合,人が明白な同意を すれば,それによってその人はその社会の完全な 成員となり,その統治の臣民となる,という;ぐ は誰も疑わない峯。むずかしい点は,何を暗黙の

(13)

伊藤宏之:〔翻訳〕ジョン・ロック「統治論』(VD 13

同意と見倣すべきか,またそれがどの程度まで拘 束力をもつかということであり,つまりまったく 同意を明示しない場合に,その人はどの程度まで 同意を与えたものと見倣されるべきか,またこの 同意によって何かの統治にどの程度服従したもの と見倣されるべきか,という点である。この点に ついて,私は次のように言いたい。すなわち,ど の統治下の領土のどの部分でも,これを所有した りまたは享受したりしている人はすべて,このこ とによって暗黙の同意を与えているのであり,そ れを享受している問は,その統治下にいるすべて の人と同じ程度に,その統治の法に服さねばなら ない,ということである。このような場合の所有

とは,彼およびその相続人の永代土地所有であっ ても,あるいはわずか一週間の滞在であっても,

あるいは単に公道を勝手に旅行している場合であっ ても同じであり,実際,だれかがその統治下の領 土内にいるというだけで,そこへ統治の法は及ぶ のである。

巌 『カロライナ基本法』第117と118条は,

この明白な表明の条項をなしている。ただ,セ リガー,1968年,276頁は,この対応性を否定 している。

 12酵.このことをさらによく理解するために は,次のことを考えて見るとよい。すなわち,人 はまずだれでも最初,ある国家共同体に加入する

ときには,自分自身をそこに結合させることによっ て,同時に,自分が現在持っているかあるいは将 来持つことになる所有物で,まだ他のどんな統治 の所属にもなっていないものをその共同体に結合 させ,その支配下に置くことになる,ということ である。なぜなら,だれかが他の人とともに社会 に入るのは所有権の確保と調整のためなのであり,

かれの所有地はその社会の法によって規制さるべ きであるのに,その土地が所有者の服している統 治の支配権を免れている,などと考えるとすれば,

まったく矛盾したことになるであろう,からであ る。したがって,だれでも人が以前は自由であっ た自己の身体をどこかの国家共同体に加入させれ ば,その同じ行為によって,以前は自由だった自

らの所有物をその国家共同体に結合させることに なる。そして身体と所有物の両方ともに,その国 家共同体が存続するかぎり,その統治と支配に服 することとなる。したがって,その国家共同体に

結合し,その統治のもとにある土地のどの部分で も,相続や購入や許可やその他の方法で今後享受 しようとする者はだれでも,その土地を管轄して いる国家共同体の統治に,すべての臣民と同じよ うに服従するという条件で,その土地を入手しな ければならない,のである。

崇 ケンダルは,この節によって,社会が個人 に対して所有権を与える,と推断している。II

−139や寛容論についての諸著作での言明と比 較せよ。1689年のロックの『第一書簡』は,

統治者が「臣民間の所有権を変化させる」との べているし,1667年の『エッセー」には,「あ る人から他の人に所有権を移動する方法を定め る権力を持っている統治者は,いくつかの方法 を確立するのであって,それらは,普遍的で平 等で暴力なしであって,その社会の福祉に適合 するものである」とのべられている(ハンテン

トン草稿より引用。下線部は,フォックス・ブー ンによって印刷されたものでは省略されている,

1876年,第1巻,183頁)。

 121.しかし,統治の直接の支配はただ土地に しか及ばないのであり,その土地所有者の身体に まで及ぶのは(彼が実際にその社会に加入するま では),彼がそこに住み,土地を享受しているか ぎりなのである。こうした土地の享受の効果によっ て統治への服従の義務は,その享受とともに始ま り,享受がなくなれば終わるのである。したがっ て,統治に対して暗黙の同意しか与えていない人 はだれでも,贈与や売却やその他の方法でその財 産を手放せば,自由にそこを立ち去ってどんな他 の国家共同体に加わってもよく,あるいは他の人

との合意によって,世界中のどの部分でも,自分 で見つけることのできる自由で無所有の無人の地 域に,新しく国家共同体をつくってもよいのであ る。これに対して,実際の協定や何らかの明白な 意思表示によって,ある国家共同体の一員となる という同意をひとたび与えた人は,何らかの災難 によって自らが服している統治が解体するか,あ るいは何らか公的な決議によって彼がそれ以上国 家共同体の成員であることを絶ってしまわないか

ぎり,永遠にどうしても変わることなくその国家 共同体の臣民たり続けなければならないし,その 状態を変えてはならないのであって,自然状態の

自由に再び戻ることはできないのである峯 撒。

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46 第9回・神奈川大学フランス語翻訳コンクールを終えて 国際日本学部 熊谷 謙介 フランス語翻訳コンクールは2013年度から開始をしたので、2021年度で 9回を数えるこ

933||Mo 30732087 2階K10 掛川恭子訳の『完訳赤毛のアン』シリーズの中から、アンたちの言ったすてきな言葉に山本容子が彩 色銅版画を施した。愛蔵本と呼びたい本。 20赤毛のアン / ルーシイ・モード・モンゴメリ著 ; 村岡花子譯 三笠書房 /1952 神戸市立中央図書館 『赤毛のアン』日本初版本。 昭和27年1952年)、『Anne of

研究の背景と目的 グローバル社会において,文化の流通に「翻訳」の果たす役割は大きい.例えば,日本の映画やドラマ,アニメな どの映像作品は,多様な言葉に翻訳され,「字幕翻訳」と共に提供される.それにより,世界中で幅広く受容され,日 本語学習のきっかけになったり,日本へのインバウンド効果をもたらしたりしている.逆も,然りである.このよう

そうして雍正帝は,清政権は李自成によって明政権が崩壊し,人々が苦しんでいるのを見か ねて中国本土に乗り出して,支配権を得るようになったという。そしてそのことが,「天命」を 受けたことであると主張する。漢民族ではなく満州族に「天命」があたえられたということは, 天が異民族支配を承認したということになる。だから,華夷でもって清政権の正統性を批判す

山口大学工学部研究報告 日英翻訳における受容化と異質化について(2) ― 吹き替え映画翻訳の認知言語学的事例研究 ― 貞光 宮城(大学院創成科学研究科 工学系) On Domestication and Foreignization in Japanese-English Translation 2: A Case Study of Film

ると考えられた。これまで試みられてきた Notch1 のターゲティング戦略は、翻訳後修飾の抑 制(γ-secretase 阻害剤)やリガンド結合部位に対する中和抗体などで、充分な効果が得ら れず、予想外の副作用も見られた。今回の発見は、より直接的に Notch1 を抑制すると同時に、 すでに安全性の確立している薬剤を利用した点に優位性があり、今後の T-ALL