[翻訳]啓功『古代字体論稿』II
福 田 哲 之
六 科斗書
「科斗書」「鳥虫害」「虫書」は,実際には同体の 異名である。この三つの名称の発生の順序を考え
るに,先ず「虫」があり,次に「鳥虫」があり,
それらの後に「科斗」があった。行論の便宜上,
順序を逆にして叙述し,ここでは先ず科斗書につ いて述べる。
「科斗」とはまた「蜥斗」とも書き,書体の名称 として用いられたのは漢末に始まる。王國維先生 には『観堂集林』巻七に「科斗文字説」という論 文があり,漢晋の関連のある資料を次のように列 挙しておられる。・漢末の盧植の上書に記す「古文 科斗,実為るに近し」が指しているのは「科斗」
体を用いて書かれた『毛詩』『左伝』『周官』の書 籍である。・鄭康成「尚書賛」には「書は初め屋壁 より出ず,皆周時の象形文字にして,今の所謂科 斗書なり」と言う。・杜預『春秋経伝集解』後序に は汲家書を指して「科斗」としている。・『春秋正 義』に引く「王隠晋書束哲伝」も汲家書を指して
「科斗」としており,更に「科斗文なる者は,周 時の古文なり。其の頭太く尾細く,科斗虫に似た
り,故に俗に之に名づく」と述べている。
漢末と魏晋の人が古代の書物の写本の字体の筆 画が科斗虫に似ているのに因んで,科斗と称した のであるが,この種の字体は,後人にあまり見る ことがなく,ただ魏の「正始石経」の中にのみこ れを有している。『説文解字』には古・籍があると いっても,多くの伝刻を経へきており,その様相 は依拠するに足りない。また晋代の衛恒の言葉が 人々にこの種の字体の信頼性に対して疑念を抱か せることとなった。衛恒の『四体書勢』は次のよ
うに述べている。
漢武の時,魯の恭王,孔子宅を壊ち,『尚書』
『春秋』『論語』『孝経』を得。時人已に復た 古文有るを知らざれば,之を科斗書と謂う。
漢の世,秘蔵せられ,希に之を見るを得たり。
魏初に古文を伝うる者は,甘暉区淳より出ず。
恒の祖の敬侯,淳の『尚書』を写し,後に以 て淳に示すも,而して淳は別たず。正始中に 至りて三字石経を立つ。転た淳の法を失い,
科斗の名に因りて,遂に其の形に致う。太康 元年,汲県の人,盗かに魏の嚢王の家を発き,
策書十余万言を得たり。按ずるに敬侯の書く 所,猶お彷彿たる有り。古書に亦た数種有り,
其の一巻の楚の事を論ずる者,最も工妙為り。
敬侯とは即ち衛蜆,晋初の書家である。邯鄲淳 の字を臨暮し真に逼っていたということは,もと
より理解することができよう。ところが衛蜆と比 較して,「正始石経」が「転た淳の法を失う」であ
ったとするところに,次のような問題が生ずる。
「淳の法」とは,文字の組織構造を指すのか。ま たは書写風格を指すのか。もしも字形構造の失で あれば,それは全くの「誤字」となり,ただ「法 を失う」だけに止まらなかったであろう。「科斗の 形に敷う」と言う所から見れば,明らかに筆画の 形態の問題である。つまり芸術風格の面の問題な のである。更に「正始石経」の古文の筆法が,碑 を書いた人の杜撰によるものかどうかを見てみよ
う。
商代の文字から見ると,甲骨・玉片・陶片上に 朱或いは墨を用いて書かれた字は,全て同じ状況
を有している。即ち筆画は弾力性を備えており,
起筆部分と終筆部分はより尖っていて,中間の前 寄りの部分は少し太く,毛筆書写の特徴を表して いる。例えば,智君子鑑(図18)・嗣子壺等のよう に,両周の銅器上にもこのような字が現れており,
更に楚帛書(補図6)・長沙仰天湖楚簡(図24)・
信陽楚簡(図25)等にもこのような字が見出され る。これらは相互に差異を有しているが,全体的 な風格の上では全て同類に属しており,古代の一 つの「手写体」である⑥。この種の弾力性は,形に
よって軽重があり,かつ接した所が固まりになる,
商周のいくつかの銅器上の筆画の形態とは異なっ ている。「正始石経」の古文はたとえ「淳の法」を 失った面があったとしても,偽造とは全く異なる
ことが知られるのである。
なぜ「科斗の名に因りて,遂に其の形に敷う」
と言ったのであろうか。先に挙げた古代の墨跡或 いは鑑・壺等の銅器を見ると,それらはいずれも 筆画の弾力性が全てとても自然であり,決して杓 子定規に一筆毎に必ず頭尾が尖り,胸部が太いと いう固定した様式を墨守していない。これは商の 陶片の「祀」字の上に非常にはっきりと見られ,
長沙楚簡もまた信陽楚簡の弾力性とは異なってい る。振り返って魏の石経の古文を見ると,実は一 つの欠点がある。つまり筆画の弾力的表現が非常 に型にはまって一律であり,胸部は全てより誇張 されているのである。実のところ,これも理解す ることは難しくない。簡冊上の字を碑に移し入れ るには,整斉一律であることが要求され,例えば,
漢の隷書の木簡の中で,春君等の簡は大体におい て最も工整で漢碑に接近しており,武威出土の『儀 礼』簡(補図13)は更に精写された経書であるが,
「憲平石経」(図55)と比較すれば,やはり手写と 刊刻との差異を有している。また例えば楚王書志 盤(図23)の字は,装飾用に作られたものである ために,誇張された所は一層顕著であって,尖っ た所は一層尖り,胸部は一層大きく,「正始石経」
の解嘲と見なすこともできよう。「科斗の形に救 う」というのは,実際には,筆画の胸部が肥えす ぎただけだったのである。
「淳の法」の失とは,少なくとも次の二層の関係 を包括するものであることが了解できよう。第一 は,書写した人によって個性風格が異なるために,
伝抄転写の時には差異を生じないわけにはいかな いのである。第二は,碑版と簡冊との用途が異なる ために,芸術効果の要求も同じではないのである。
従って,「正始石経」は,筆法上のあるいくつかの 面では「淳の法」を失ったが,字の組織構造とそ れが属する大類型・全体的な風格は,全てその出 所を有しており,杜撰なものとは異なる,と言う
ことができる。
王國維先生は同論文において,また「王隠晋書 束哲伝」に「ある人,嵩高山の下に竹簡一枚を得 たり。上の両行は科斗書。司空張華以て哲に問う。
哲曰く,此れ漢の明帝の顕節陵中の策文なり,と。
検験するに果たして然り」とあるのを引用してお られる。王先生は察琶『独断』・杜佑『通典』によ り「漢代の策文は皆築を用いて,古文を用いず」
と証明され,そこで魏晋間では「科斗」という名 詞の範囲が拡大していたと考えられるとされた。
そして「凡そ通行の隷書に異なる者は,皆之を科 斗書と謂い,その意義は又一変せり」と述べてお
られる。
『独断』の文は巻四に見え,漢制の簡策篆書のこ とを記している至。『通典』の文は巻五十五に見え,
晋代は古制の「竹冊篆書」を沿襲したことを述べ たものである⑳。この中の「篆書」という言葉は,
次のような二種の解釈の可能性を有している。第 一は,「篆書」はちょうど大類型の名称であって,
その中に古文を包括し得るとするものである。な ぜならば漢末には小篆も「古体字」となっていた からである。『儀礼』聰礼の疏に引く「左伝服慶注」
に「古文篆書は,一簡八字」とあることから,古 文はこの時すでに篆書という一つの大類型の中に 統属されていたことが知られる。それでは『独断』
『通典』に言う「篆書」とは,その中に古文或い は科斗を包括するものなのであろうか。これにつ いては,現時点では簡単に判断できない。第二は,
科斗という名称が篆書の類の手写体の全体的な渾 名であったとするものである。なぜならば,科斗 という名を得たのは,筆画の始めと終わりに尖鋒 を出し,運筆の先が重く後が軽いという特徴,つ まり手写体が弾力性に富むという特徴によるから である。漢の陵の策文は竹簡上に手写されたもの であって,科斗という名称は実際には築という一 つの大類型の手写体の全体的な渾名であり,手写 された古・籍・築を包括していたのである。再び 漢の陵の策文が発見されて,新たな裏付けを得て いない現時点では,私は第二の解釈の可能性がよ り高いであろうと考えている。
更に漢代の篆書の墨迹を見ると,私は敦煌木簡 の中の甲子簡等と武威のいくつかの銘旗とを知る だけであるが,全て筆画の弾力性を表しており,
時にはまた,筆腹の比較的肥えた所が見出される⑪。
「正始石経」の中の小篆は,筆画が比較的均細 であるが,入筆は頓挫し収筆は尖鋒を留めるとい う手写の特色が常に見られる。これによって我々 は「正始石経」が簡冊上から碑に写し入れられた ものであることを知るのである。『後漢書』察島伝 には「奏して六経文字を正定せんことを求め,霊
帝之を許す。琶乃ち自ら冊を碑に書し,工をして 錆刻し,太学の門外に立たしむ」と記されている。
「冊を碑に書す」とはつまり冊上の字を碑中に写し 入れることであり,魏刻石経の傍証とすることが できる。殿版『後漢書』の「考証」は「冊字,何 悼校本は丹に改む」と述べているが,酒券楼影印 紹興本『後漢書』も「冊」に作っており,何氏の 校訂は,ただ「石に書丹する」という問題からの 着想であって,碑に写し入れるという問題からの 着想ではない。この種の移写は碑版の用途である 工整の風格に符合させる必要があるけれども,結 局は手写体の特色をも帯びるのである。
この種の築類の手写体の伝統は,唐代に至るま で依然として保持されていた。唐写本『説文解字』
木部残巻(図92)を見ると,その中の古文・籀文 或いは小篆であっても,筆画の胸部はそれほど肥
えてはいないものの,すべて尖鋒を帯びている。
日本の旧鈔本『説文解字』口部残巻十二字(図93)
は,書写の法式は唐写本木部の筆法と同じであり,
また手写体の風格である。王國維先生は『観堂集 林』巻二十「魏石経考」五において「孔壁・汲家 の古文の書法は,吾得て之を見ず。『説文』中の 古文は,其の作法は皆壁中書に本づき,其の書 法は唐代写本に在りては,篆文の体勢と別無し。
雍煕刊版は,則ち古築廻かに異なる」と述べてお られる。実際には唐写本は「別無し」ではなく,
正に手写体の伝統を保持しているのである。これ に対して雍煕刊版『説文解字』は,篆書の荘厳丁 重さを求め,その写刻は特別丸みを帯びるように 意図されているに過ぎない。実のところ宋版本(図 94)を細かく看ると,篆書の起止の筆鋒はなおあ
り,明清の一般の刻本(図95)の様相が均しく丸 みを帯びているのと比較すれば,やはり異なって
いる。
王國維先生は,この論文においてまた「正始石 経」以下,郭忠恕『汗簡』・夏辣『古文四声韻』・
口大臨・王楚・王{求・醇尚功等の募写した三代の 郵器,更に清代の『西清古鑑』に至るまでを列挙 し,全て両頭尖の筆画を用いたものであるとされ,
この種の筆画の字体について「蓋し世に行われる 者は幾ど二千年,其の体勢を源とするも,魏の石 経を以て濫觴と為さざるを得ず」と述べておられ る。そして論文の前の部分では衛恒の「転た淳の 法を失う」の説を引用し,また宋人の募写した郵 器款識と近代の金文拓本とを比較しておられる。
この論文において王國維先生もこの様な字体を疑 っておられ,ただそれを婉曲に述べられたに過ぎ ないことが分かる。今日我々は,これは正に篆書 の類の手写体の伝統的な風格であり,商代にまで 溯り得ることを知るのである。
訳注(〈〉は出土年を示す)
⑧その後発見された春秋戦国期の筆記資料の 内,こうした特徴を顕著に示すものに,河南 省温県出土盟書〈1979年>(補図1)・山西省 侯馬市出土盟書〈1965年〉(補図2)・湖北省 随県播鼓敏1号墓(曾侯乙墓)出土竹簡〈1978 年〉(補図3)・湖北省荊門市包山2号墓出土 竹簡〈1986年>(補図5)等がある。
⑨『独断』巻上に「策書,策者簡也。…其制,長 二尺,短者半之。其次一長一短,雨編。下附 篆書,起年月日,構皇帝日,以命諸侯・王・
三公…」とある。
⑩ 『通典』巻五十五・東晋の条に「博士孫航議,
・今封建諸王,分裂土樹藩,爲朋告廟,篆書 竹冊,執冊以祝,詑,藏於廟。及封王之日,
又以冊告所封之王。朋文不同。前以言告廟祝 文,當竹朋篆書,以爲告廟朋,朋之文部祝詞 也…」とある。
⑪簡牘以外の漢代の筆記資料として注目される ものに,湖南省長沙市馬王堆3号漢墓出土の 帛書〈1974年〉がある。これは26種の典籍か らなり,戦国末から西漢文帝の初期にかけて 書写されたものと推定されている。その字体 は,「五十二病方」(補図9)・「戦国縦横家書」
等の築意の濃厚な類,「老子」甲本(補図10)・
「春秋事語」等のやや草率な類,「老子」乙本 (補図11)・「周易」等の斉整な類の三種に大 別される。
七 鳥虫害・虫書
続いて「虫書」「鳥虫書」の問題に移る。『説文 解字』叙はr秦書の八体」を記して「四に曰く,
虫書」と言うが,用途については説明が無い。ま た「新葬の六書」を記して「六に曰く鳥虫書,幡 信に書する所以なり」と言い,『漢書』芸文志に太 史は学童に「六体」を試みると記し,「六体なる者 は,古文・奇字・篆書・隷書・膠築・虫書。皆古 今の文字に通知し,印章を棊し,幡信に書する所
以なり」と言う。「秦書の八体」と「新葬の六書」
と「漢の太史の六体」とが継承関係を有すること は,極めて明らかであり,よってここでは先ず「幡 信に書」かれた文字から新葬の鳥虫書,漢の太史 の虫書を検討し,それから潮って秦の虫書を推論 することとしたい。
幡信は保存しにくいため,秦漢の幡信は久しい 以前から見た人はいなかった。近年武威で発見さ れた多くの漢墓は,西漢から東漢晩期までのもの であり,その中から多くの銘腔が発見された。東 漢末の銘族上の字には,隷書に接近したものや,
筆画が均円のものがある。東漢前期の武威銘施(図 50)の字のような例は,組織構造は築類であり,
筆画は尖鋒を帯びている⑫。幡信は紡織品であっ て,刊刻することが許されないため,必ず手写し なければならない。幡信はもともと銘旗に限らな いが,銘族は幡信の類に属している。銘旗は霊前 において挙揚するもので,性質は極めて丁重であ ることから,古体或いは「雅体」の字を用いる必 要があったのである。つまり鳥虫書とは,実際に は築類の手写体の別名であることが明らかにされ よう。従って,鳥虫と称するのは,その弾力性の ある筆画が,鳥に似ていたり虫に似ていたりした のを言ったに過ぎないのである。
更に秦代の虫書を見てみよう。「秦書の八体」に は,風格によって名付けられたものに大小築があ り,用途によって名付けられたものに,刻符・墓 印・署書・斐書・隷書がある。虫書については,
もし特殊な形体構造を有していたならば,秦代の
「文字を同じくす」との精神に合わないこととな る。もし用途によって名付けられたのであれば,
どのような用途だったのであろうか。漢代では幡 信に書かれたことが明示されているのに,秦代で
はなぜ明示されていないのであろうか。もし秦代 もただ幡信に書いただけであれば,なぜ「幡書」
と称さなかったのであろうか。これまでの科斗・
鳥虫書に対する検討によって,秦の虫書とは大小 策の手写体であり,従って用途について言及する 方法がなかったことが知られる。我々は,あれら の頒功刻石を見るだけで・その筆画が均円で,決
して加工を経ていない手写の原態ではないことが 分かり,日常筆で書いた文字は,明らかに一つの 風格を表していることに気付く。だから,それに は一つの名称を立てる必要があったのである。漢 代の日常通用の字体については,すでに筆類では
なく,古体字はすでにいくつかの用途の専用物と なり,鳥虫書の用途の範囲は,幡信等の物を題写 するまでに縮小した。これも自然の趨勢だったの
である。
銘旗上の大字は,漢代の碑額を連想させる。そ れらは常に手写体の特色を表している。漢の引宙 碑額(図57)の筆画のような例は,頭尾が尖り,
胸部が膨れていてもとより明瞭であるが,その他 の漢碑額にも,常に頓挫を行った状態が表れてお
り,秦の刻石のあの種の整斉均円の様相とは,往々 にしてあまり共通していない。この気風は,その まま南北朝の幾つかの碑額・墓志蓋に影響してお り,例えば北魏の嵩高霊廟碑額(図73)は,筆鋒 の起筆・終筆が全てきわめて明瞭である。東魏の 高盛碑額(図78)の字はつとめて肥重円渾を求め てはいるが,筆画の起止の面では,やはり幾つか の尖鋒を表出しようとする意識を有するようであ る。その他の碑額・墓志蓋も常にこの種の現象を 有している。そして,ここにもまた古代字体のあ
る種の方法と風格とを見ることができる。つまり,
ある種の用途において習慣や制度が成立した後,
たとえ変化をきたして長い時間が経ったとして も,また一定の痕跡を留め得るのである。但し,
今ではそれらが「幡信」の労支であるか,それと も「署書」の後裔であるかを確定することはでき
ない。
この外で関連する問題として,多くの古器物上 に見られる小曲線の装飾,或いは鳥形の装飾を帯 びた字や鳥の形状に近い字は,多くの人が鳥書と 称したり,また鳥虫書と称する人もいるが,実際 にはすべて一種の「装飾体」である。これらは「秦 書の八体」「新葬の六書」「漢の太史の六体」の中 の虫書,或いは鳥虫書なのであろうか。
今日見られる幡信類の中の漢代の銘施には,あ の種の小曲線の装飾,或いは鳥形の装飾を帯び,
鳥の形状に接近した字体で書かれたものは一つも ない。先秦の器物に見られるこの種の字体は,多 くは兵器の款識であり,他の一部は鐘の款識であ って,それ以外の器物の款識は少数である。漢代 に至って,ようやく印文(図52)に見られる。『説 文解字』彙部には「受,杖を以て人を殊つなり。
周礼に,積竹・八肌を以てす,長さ丈二尺,兵車 に建て,旅責以て先駆す,と」とあり,「投,車中 の士の持つ所の彙なり。司馬法に曰く,羽を執り 投を従う,と」とある。また八部には「八,鳥の
短羽,飛びで八八たるなり。読みで殊の若くす」
とあり,古代の兵器と鳥の羽の装飾とは密接な関 係を有していたことが知られる。従って,あのよ
うに兵器上の文字の多くが鳥形の装飾をなすこと は,理解するに困難ではあるまい。それでは,あ の種の鳥形の装飾を帯びた文字は「秦書の八体」
の「斐書」なのであろうか。慎重を期して,しば らく断定しないでおきたい。ただ少なくとも,漢 代の文献中にはこの種の字が鳥書であると明示し た記載或いは手がかりは,別に見出されないので ある。六朝以降の著述中の,古字体名についての 推測は,ほとんど信用できず,それらは常にいく つかの装飾字に専名をつけ,ややもすれば十数体,
更には数十体にも達している。従って,ここでは 引用・依拠しない。
もちろん我々は,あたかも甲骨文・鐘鼎文・金 文等のように,今日それらが鳥書・虫書の名によ って命名されることを妨げない。ただし,それと 秦・漢当時の書体の名実の問題を検討することと は,別個の問題であろう。更に一歩退いて言えば,
少なくとも幡信に書する字体が鳥書の名を得たの は,必ずしもそれが鳥形の装飾を帯びていたから ではないのである。
更に『三国志』魏史・王粂伝の注が引用する『魏 略』は,邯鄲淳について「一に竺と名づく,字は 子叔,博学にして才章有り,また蒼雅・虫築・許 氏字指を善くす」という。我々は,邯鄲淳が書い た古文は最も著名であり,「虫築」とは衛號によっ て模倣された古文,即ち「正始石経」が「転た淳 の法を失」つた古文,つまり手写体の古文である
ことを知っている。これによって,科斗とは虫策 の別名でもあったことが知られるのである。
また『三国志』魏志・衛蜆伝には,彼が「古文 を好み,鳥築・隷・草,善くせざる所無し」であ ったと記されており,『後漢書』の陽球伝には,陽 球が奏上して鴻都の文学を罷める時に「或いは賦 一篇を献じ,或いは鳥書簡に盈ち,而して位は郎 中に昇る」と述べたと記されている。また『資治 通鑑』霊帝の憲平六年には「霊帝文学を好み,諸 生の能く文・賦を為すものを引き,並びに鴻都門 に待制す。後に諸の尺牘を為り,鳥築を書するに 工なる者,皆召引を加うるに,遂に数十人に至る」
と記されている。以上の三条の資料で注意すべき は,鳥築に言及する時は全て書法芸術を指してお り,よく古字を認識し解釈するといった角度から
述べられたものではないことである。しかも撰文 と相対して書法芸術に言及する時にも,鳥築を取 り上げるだけで,小篆やその他の字体は無い。こ れによって,当時は手写の「荘厳古雅」の字,つ まり手写体の篆書に対しては,全て鳥築と称して いたことが窮われる。これまでの検討により,秦漢 の虫害と鳥虫書とは,篆書の手写体の一つの渾名 に過ぎず,小曲線の装飾,或いは鳥形の装飾を帯 びた字や鳥の形状に接近した飾り字とは,同類で はないらしいことが知られるのである。
訳 注
⑫漢代の幡信の遺品として,甘粛省金塔県天倉 の肩水金関遺‡止から出土した張液都尉薬信 〈1973年〉(補図12)があり,西漢後期のもの と推定されている。
八 隷書・左書・史書
「隷書」「左書」「史書」と「八分」とは,全て同 体の異名と考えられる。ここで個別に検討を加え てみよう。
何を隷書と称するのであろうか。我々はすでに
「以て約易に趨く」ところの「俗体字」であるこ とを知っている。所謂俗体には二種の状況がある。
一つは組織・構造の方面であり,『説文解字』以下,
『干禄字書』『九経字様』から『康煕字典』に至る まで,全て正字と俗字とについて弁別するところ がある。例えば『康煕字典』では「吻・酬・草・
泳」は正字,「胞・酌:・群・氷」は俗字としている。
他の一つは芸術風格の方面である。「院体の書は 俗」と言ったり,李琶が自ら称して「我に似る者 は俗」と述べたと伝えられる等々はその例である。
『書断』巻上に引く察琶の「聖皇篇」には「程逝,
古を刷りて隷文を立つ」とあり,この後全て隷は 程遡の作ったものであると認めている。字体とは 本来,習わしが次第に定まって一般に認められた ものであり,一人が一つの字体を創造したという 見解は,もちろん不合理である。但し,一人が一 つの辞書を編纂し,それによって一つの風格或い は流派を創始することになった,というのは可能 である。ここでは論述の便宜上,しばらく程遊の 名を踏襲することとしたい。それでは,この種の 隷は,結局どのようなものであろうか。我々が見 ることができる秦代の文字の実物は,すでに第三
章に述べた通りである。その中で最も丁重なもの は,頒功刻石の字であり,自ずから標準の篆書で ある。最も普通の常用の字は,一般の権量と詔版 の字であり,その字には大駿権(図36)の如く比 較的工整なものがあり,また詔版(乙)(図35)の 如く非常に草率なものもある。工整の一類のもの
は,頒功刻石の風格とも異なり,草率な一類のも のは,「以て約易に趨く」の現象を一層多く有して いる。但し,工整なもの或いは草率なもののいず れも,全て次のような一種の特徴がある。即ち,
構造は異なっていても,筆画の軌迩は常に硬い方 折であり,頒功刻石のような均円とは似ていない のである⑬。更に『説文解字』叙を見ると「新葵の 六書」について「三に曰く篆書,即ち小篆,秦の 始皇帝,下杜の人程遊をして作らしむる所なり」
と述べている。新葬の時の遺文,筆類の字には,
常に方折の軌迩,或いはより草率なものが見られ,
比軌的円い字も有しているが,決して多くはない。
嘉量の銘文(図44)に至っては,最も荘厳丁重で あるが,またいよいよ方硬化している。これらは 新葬時の小篆であることが知られ,例えば漢代の 銅器の款識(図43)が常に一種の方硬の字である
ように,もとより用途の要因を含む可能性もある が,嘉量中の「黄帝初祖」の一段の主要な銘文は,
同一の器上のその他の容量を記した款識に比べれ ば,反って更に方便となっていることから,この 時期には丁重であればあるほど方硬を求めたこと が分かる。この時期の筆書が既に「程遡の作る所」
と称されていたとすれば,秦の時の程遊の隷書と は,つまりあのような硬い方折でより草率な字体 だったのである。我々は,方折分散の筆画が,円 転連結のものを書くのに比べてより便利であるこ とを知っている。円転連結の中の細部の多くは,
また簡単に省略されるのである。更に草率を加え て簡便に従えば,これらはつまり「俗」のもので あり,標準のものではない。最初に築から隷に変 わった時,恐らくこの種の面から変化が生じたの であろう。
許慎が「秦始皇帝使下杜人程遡所作也」という 十三字を加えたのは,まさに読む者が新葬の小篆
と秦隷との関係を理解しないことを恐れたからで ある。しかし後世「程遡が隷を作った」というこ とが周知し,また漢碑の字体は隷であることが周 知したことから,混乱が生じた。例えば『漢書』
芸文志の顔師古の注は「篆書とは小篆を謂う,蓋
し秦の始皇,程遡をして作らしむる所なり。隷書も 亦程遊の献ずる所」と述べているが,これは二股 をかけた論である。段玉裁の『説文解字注』に至 っては,あの「秦始皇帝」等の十三字は錯簡であ り,「新葬の六書」の「四日左書,即秦隷書」の一 条の下にあるべきものであると述べている。これ らは全て名同実異の変化の関係を理解していな い。こうした例からも,前代の俗体は後代に至れ ば正体或いは雅体となる,という法則を知ること ができるのである。
秦代に漢隷に接近した字体が有ったか無かった かについては,現在未だ秦代の手写の獄訟軍書が 発見されておらず,実物資料がやはり十分ではな いが,『説文解字』叙には次のように記されている。
諸生は競遂して字を説き経誼を解き,秦の隷 書を称して倉頷の時の書と為し……乃ち狸り に曰く,馬頭人は長為り,人の十を持つは斗 為り,虫なる者は中を屈するなり,と。廷尉 の律を説くに,字を以て断ずるに至り,苛人 銭を受く,苛の字は止句なり,とす。
何が「馬頭人」なのであろうか。「段注」は「馬 上に人を加え,便ち是れ長字は会意と謂う。…
今馬頭人の字筆に見ゆ。蓋し漢の字の尤も俗なる 者なり」と述べている。この言に従えば,この字 は「鳶」のようであることになるが,このような 字は,実見したことがない。実は,段氏は許の言 を読み誤ったのであって,「馬頭人」とは「馬」の 字の頭を用いて字の上部とし,下部に更に「人」
字を加えたものである。即ちこれは漢隷の「長」
字であり,「先人を老と為す」の「鬼」と同じ例な のである。篆書の「斗」字については「髪」に作
り,やはり「人」偏と「十」の字の「針」に作っ ていない。しかし逆に漢隷の「斗」はまさしく「針」
に作っている。篆書の「虫」の字は「中」に作り,
また「中」字の下辺湾曲に作っていない。「苛」字 は漢隷では或いは「筍」に作り,漢隷の「→㌔・「ル」
も常に「止」と混同している。例えば「蛎」字の 隷変は「前」に作り,さらに変化して「前」に作
っているのは,その一証である。そして「可」字 もまた誰って「句」となったため,「苛」字を「止 句」からなると説いたのである。この種の書法に よる「長・斗・虫・苛」は,実際には全て漢碑と 漢簡との字である。許慎はこれらを秦の隷書だと 述べていることから,この種の構造の字がすでに 秦代にあったことが知られる。これは筆画方折の
風格の変化が,すでにいくつかの字の構造の変化 に影響を与えたことによるのである⑭。
我々はまた一種の字体は,一つの王朝の時代に 突然創造されるものではないことを知っている。
漢代の日常通行の正体字,すなわち陽泉薫鐘(図 42)・太初簡(図37)・春君簡(図48)・華山碑(図 56)・嘉平石経(図55)といった一類の字であって
も,必ず前代の基礎を有し,多くは加工整理され たものである。だから硬い方折の軌迩の俗体,或 いは「長・斗・虫・苛」の俗体を問わず,築に対 して言えば,全て隷書なのである。
左書はまた佐書にも作るが,結局どの様なもの であろうか。『説文解字』叙は「新葬の六書」につ いて次のように記している。
一に曰く古文,……二に曰く奇字,即ち古文 にして異なる者なり,三に曰く篆書,即ち小 籔,……四に曰く左書,即ち秦の隷書,五に 曰く膠築,印に暮する所以なり,六に曰く鳥 虫書,幡信に書する所以なり。
『漢書』芸文志には,漢律では太史が学童に「六 体」を試み,内容は「古文・奇字・篆書・隷書・
膠蒙・虫書」であると記されている。葬法と漢律 とは疑い無く因襲関係を有しており,新葬の「左 書」とは漢の「隷書」であって,これは左書が漢 隷であることの証拠の一である。
ここで弁別の二つの問題を付け加えておく必要 がある。第一は,『説文解字』叙が「秦書の八体」
を記した後,引き続いて「尉律,学童の十七已上,
始めて試み,書九千字を調籍するものは乃ち史為 るを得。又八体を以て之を試み,……亡新の摂に 居るに及び……時に六書有り」と記していること である。『漢書』芸文志には「漢興りて瀟何律を草
し,亦其の法を著して曰く,太史は学童を試み,
能く九千字以上を諷するものは,乃ち史為るを得。
又六体を以て之を試む,……六体なる者は,古文・
奇字・篆書・隷書・膠築・虫書なり」とあること から学童は太史の考試を受けて始めて史となるこ とができ,これは粛何以来の漢律であったことが 知られる。しかし試す内容は,前後同じではない。
西漢は秦の後を承け,「八体」によって試み,東漢 は葬の後を承け「六体」によって試みた。『漢書』
芸文志は劉歌の藍本を踏襲し,記述は『説文解字』
叙ほど詳細ではないが,蒲何の律は「六体」を試 みたようである。これにより『漢書』芸文志の言 う「六体」とは「新葬の六書」であることが知ら
れるのである。第二は,葬の小筆は秦の程選が作 ったものであり,そして葬の左書もまた秦隷であ るが,これらは矛盾せず,ただ同一の来源であっ て,二つの路で発展しただけなのである。
さらに新葬の木簡を見ると,例えば天鳳簡(図 45)は漢碑の字体であって,それは既に古文・奇 字・小篆ではなく,また墓印や幡信に書いた字で もなく,自ずから当時の左書なのである。これは 左書とは隷書であることの証拠の二である。
また衛恒が引用する崔暖『草書勢』には「惟れ 佐隷を作り,旧字は是れ剛り,草書の法,蓋し又 簡略なり」とあり,また佐とは隷であることが証
される。これは証拠の三である。
これらはまた,湖って秦が漢隷様の字,或いは 漢隷様に接近した字を有していたことを証し得る
ものである。『説文解字』叙には「四に曰く左書,
即ち秦の隷書」とある。我々はすでに「新葬の左 書」はあのような様相であることを知っており,
秦の時には,すでに天鳳簡のような,或いは天鳳 簡に接近したような字体,つまり前述した「長・
斗・虫・苛」のような字体を有していたことを知 り得る。しかし,風格と構造とは,どの面がより 多かったかは分からない。私はこの種の秦隷の風 格は,やはり手写の特徴がより多いものだったで あろうと推測している。
左或いは佐の名付けの意味について,「段注」は
「其の法は便捷,以て築の逮ばざる所を佐助すべ し」としており,実は佐を職名とするのも,つま り「助理」の意味なのである。隷書の用途の上で はもとよりこの作用を有している訳であるが,た だ隷書の隷が徒隷によるものであれば,佐書の佐 も同様に書佐によるものではないだろうか。漢代 の書佐の地位はとても低く,だから「新葬の俗書」
を佐の名によって名付けた。それはちょうど「秦 の俗書」を隷の名によって名付けたのと同様であ る。漢の西嶽華山廟碑の書者は「書佐郭香察」で あることが,その心証である。華山碑の末行には 明らかに「遣書佐新豊郭香察書」と題されており,
宋より清までの若干の人は,郭香という人が別人 の字迩を視察し,碑を書いた人を察琶に託し,そ れによって碑の声価を高めた,と見なしているが,
これは全く何の根拠も無いのである。
何がまた史書と称されるのであろうか。先人は 常に誤って『史箔篇』の字を指すとしてきたが,
『説文解字』叙の「段注」は隷書を指すことを明
らかにした。段氏は『漢書』元帝紀以下・『後漢書』
和憲郵太后伝以下の資料,計六条を列挙し,これ らのいくつかの紀伝中「或いは史書を善くすと云 い,或いは史書を能くすと云うは,皆隷書を便習 し,時用に適うを謂う。猶お今人の楷書を工にす るがごとき耳」と述べている。これは正しい見解 である。それでは,なぜ隷書を史書と称したので あろうか。私はこれは史の身分と関係があると推 測している。古代の史は,実際には天子や諸侯の 文化的奴僕であった。上れば昇進して大官となる
ことができたが,下れば王侯の随身侍役にすぎな い。漢代の一般の衙門の史は令史と称され,天子 の史は古代と同じく太史と称された。職務は古代 と全て同じではないといっても,彼らの身分と職 務との関係の微妙さは同様である。だから太史公 司馬遷は「文史星歴は,卜祝の間に近く,固より 主上の戯弄する所,侶優の畜うる所,流俗の軽ん ずる所なり」と述べており,これによって史の書 と佐の書とは同一の性質であることを説明し得る のである。
訳 注
⑬このような方折性は,始皇帝期の筆記資料で ある湖北省雲夢県睡虎地11号秦墓竹簡〈1975 年>(補図8),更に戦国後期と推定される四 川省青川県都家坪秦墓木順(補図4)〈1979年>
や,甘粛省天水市放馬灘秦墓竹簡(補図7)
〈1986年〉にも見出される(訳注①・②参照)。
⑭秦代に漢隷に接近した字体が存したことは,
その後,睡虎地秦墓竹簡・木順の出土〈1975 年>によって実証された(訳注①・②参照)。
九 八 分
何が八分なのであろうか。八分という名詞は,
漢末になってようやく現れるものである。『古文 苑』巻十七,魏の聞人牟准「衛敬侯碑陰文」に「魏 大饗群臣上尊号奏及び受禅表の規,井びに金針八 分の書なり」とある。「饗」の下はもと「碑」字を 誤術し,「蜆」はもと「顎」に誤り,「金針」は一 に「金錯」に作る。「受禅表蜆」とは,「受禅表」
は衛観の書いたものであることを言うものであ る。また諸書に引く宋の周越『古今書苑』が記す 察文姫の言葉に「臣の父,八分を造るに,程の隷 の八分を割きて二分を取り,李の象の二分を割き
て八分を取る」とある。我々は漢の「憲平石経」
の字体と,魏の上尊号碑(図58)・受禅碑(図59)
の字体とは同類であることを知っている。『魏書』
江式伝には「太学に石碑を立て,五経を刊載す。
題書の楷法は,多くは是れ畠の書なり」とあり,
琶とは察琶を指す。『唐六典』巻十には「四に曰く 八分,石経碑碣に用うる所を謂う」とあり,八分
という渾名は,当時この類の字体を指したもので あることが知られる。
なぜ漢魏の際になって,この種の隷書に忽然と また八分という渾名が現れたのであろうか。これ については,ただ漢の永寿瓦罐・漢の烹平瓦罐(図 53・54)・魏の鍾蘇の表啓・魏の景元の木簡と魏の 威煕の木簡(図66)・呉の谷朗碑(図67)等々を見 るだけで,この時の字体は一つの新たな風格を現 しており,その筆画は一層より軽便であったこと が知られる。例えば漢碑の字の横画の下筆部分の 下垂の頓勢,所謂「蚕頭」,収筆部分の上仰捺脚の 形,所謂「燕尾」が,全て無い。こういつた字は,
実は後世の真書の雛形であり,これが当時の新俗 体・新隷書であるとするのは,漢魏の正式の碑版 上にこの類の字が見られないからである。既に新 たな隷字を有したならば,旧い隷字には異名或い は昇格が与えられなければならず,そうしてはじ めて区別することができる。だからこれを八分と 称したのである。八分とは,つまり八割の古体或 いは雅体であり,また「準古体」或いは「準雅体」
とも言うことができよう。察文姫が「程の隷の八 分を割きて二分を取り,李の築の二分を割きて八 分を取る」と言っているのは,築と隷体とのいく
らかの数量の問題として理解するのは適当ではな く,実際あのように「割」く術も無いのである。
漢代では籔と築以前の字体とは古体或いは雅体で あり,隷は通用の正体であり,草と新隷体とは俗 体であった。察文姫の言葉は,ただ八割が古体或 いは雅体,二割が俗体であることを説明している に過ぎないのである。
唐の張懐罐『書断』巻上には「八」字に「相背」
の義があることにより,八分を字に「八字分散」
の勢があると解釈するが,これは何の根拠も無い。
「五」の字に交差の義があるからといって,「五経」
を「交差線」と解することはできないであろう。
我々は「八字分散」或いは「八字相背」等の語で 漢碑の字体を比喩または形容することを認めない 訳ではないが,漢末の人の「八分・二分」の命義
とは符合しない。『書断』はまた王倍の八分を解釈 した語を引用し,「字の方八分」の尺度の概念であ るとしているが,更に根拠は無い。上尊号・受禅 の二碑の字は,毎字の各辺の長さが,全て今尺の 八十厘をはるかに超過しており,まして漢尺は今 尺よりも更に小さいのである。
漢碑の字体の特徴は,規矩整斉にあり,だから 楷法と称された。楷とは「標準」「整斉」で,「楷 模」の意味とすることができ,これはこの字体が 昇格して雅体の一種となるための資格でもある。
後に楷という形容詞が書体の専用名詞となるの は,晋代以後のことである。従って,漢魏の際に おける八分と旧隷体との分別は,ただ呼称の相違 だけなのである。
この問にまた王次仲についての問題がある。『書 断』巻上は察畠「勧学篇」の「上谷王次仲,初攣 古形」(上谷の王次仲,初めて古形を変ず)を引用
している。各書に引く「勧学篇」の文は,清代の 輯侠の各書に見られるように,ともに四言で句を なしており,『書断』が引くこの二句は,実は「王」
字を街加したものであろう。漢代の人は隷書を「今 文」と称し,「古形を変ず」とは,当然隷書以前の 字形を改変して,漢代の「今文」の字形としたの である。晋の衛恒の『四体書勢』は「隷書なる者 は,築の捷なり。上谷の王次仲,始めて楷法を造 る」と述べており,王次仲とは伝説中で最初に秦 の隷書を加工整斉した人であることが知られる。
漢魏の際,旧隷体は既に八分と称されており,更 にこの種の加工の創始者は王次仲であるとしたの で,王次仲という古代人の名は八分という旧字体 の新たな渾名と合体したのである。それでは,王 次仲とはどのような人物なのであろうか。「水経・
潔水注」は次のように述べている。
魏の上谷郡治……郡人の王次仲,少くして異 志有り。年弱冠に及び,蒼頷の旧文を変じて 今隷書を為る。秦の始皇の時,官務煩多,次 仲易うる所の文簡にして,事要に便なるを以 て,奇として之を召す。三度徴すも輻ち至ら ず。次仲,真を履み道を懐き,数術の美を究 む。始皇其の不恭なるを怒り,濫車をして之 を送らしむ。次仲,首めて道に発し,化して 大鳥と為る。出て車外に在り,翻飛して去り,
二翻を斯の山に落とす。故に其の峰轡に大鯛 小鯛の名有り。「魏土地記」に曰う,沮陽城東 北六十里に,大翻小翻山有り,山上の神は翻
神と名づく。山屋の東に温湯の水口有り,と。
其の山は県の西北二十里に在り,峰は四十里 に挙がり,上の廟は則ち次仲の廟なり。
『書断』巻上に「序仙記」は,この前の一段とほぼ 同じく,後の部分もまた「魏土地記」を引用して いることから,鄭道元・張懐灌二書の源流は関係 があることが分かる。『水経注』は或いは「序仙記」
を引用したものかも知れないが,どちらに増剛が あるかは知られない。
これは明らかに一つの美化された神話伝説であ り,実際は一つの悲劇であって,『列仙伝』が記し ている漢の淮南王劉安の「鶏犬飛昇」の故事と正 に同類である。この王次仲は,始皇帝の命令に背 いたために殺されてしまったのである。彼の時代 についてもいくつかの異説がある。劉宋の羊欣『采 古来能書人名』は,彼は後漢の人であるとし,唐 の張懐罐『書断』巻上は,王倍の言を引用して,
彼は漠の章帝の建中の初めの人と述べ,唐の唐玄 度『十体書』では,彼は漢の章帝の時の人とし,
『書断』巻上は南斉の蒲子良の言を引用して,彼 は漢の霊帝の時の人であると述べている。東漢の 時,隷書は流行してすでに永い年月が経っている ので,「初めて古形を変ず」と見なすことはできな いが,これは東漢の章帝以降,立石刻碑の習慣が 次第に旺盛になってきて,碑を目にすることが可 能となったことから,古人は碑字の出現が多い時 期を碑上の字体を創始した時と見なしたのであ
る。
後世,隷・八分の内容もまた時代とともに発展 した。羊欣『采古来能書人名』では晋の王治・王 理は「隷書を能くす」,王義之は「草隷を善くす」,
王献之は「隷藁を善くす」等々とさまざまに記さ れている。今このいくつかの名家の字迩を見ると,
多くは今草・真書と行書であって,ただわずかな 部分だけが章草であり,いずれも漢隷の字は無い。
これによって,この時の隷とは即ち真書であるこ とが分かる。宋の趙明誠『金石録』巻二十一「東 魏大覚寺碑陰」の条には「碑陰に,銀青光禄大夫 臣韓毅隷書,と題せるは,蓋し今の借字なり」と あり,「今」と言うのは北宋を指し,北朝では真書 を隷と称していたのである。また晴の大業元年舎 利函銘(図85)は,字は真書で,銘文の書人の款 識には「趙超越隷書謹上」と記されており,階代 では真書を隷と称していたのである。また『唐六 典』巻十に「五に曰く隷書,典籍表奏及び公私文
疏の用うる所」とあり,『晋書』王義之伝にも彼は
「隷書を善くし,古今の冠為り」と述べており,
唐人は真書を隷と称していたのである。これらに よって隷という名称は,後世も憲平石経や上尊号 碑の字を指すとは限らなかったことが分かる。ま た唐の章続 『纂五十六種書』は鍾縣の「章程書」
を「八分書」と称したとし,『書断』巻中「妙品」
類「八分」の一門は張艇から王義之に至る九人を 列挙し,「能品」類「八分」の一門は毛弘から王献 之に至る三人を列挙している。我々は王僧慶のい
う鍾縣の「三体書」とは「銘石」「章程」「行押」
であることを知っている。銘石が上尊号碑の字体 である以上,章程は自ずから表啓の字体である。
義・献はいずれもただ真・草と行書とによって著 名であり,上尊号碑のような八分体を伝えていな い。唐人もまた八分の範囲を拡大し,それによっ て真書を称していたことが知られるのである。
総じて言えば,字体は漢魏の際の新俗体の出現 以後,名称が重複する状況が生じ,見る時に混乱 を免れなかったのである。例えば梁の庫肩吾『書 品』は「程遡作る所の隷書,今時の正書是れなり」
と述べているが,梁代の正書は真書,つまり新隷 体であり,従って秦隷とは名同実異なのである。
後世,字体の発生については名実の混乱の状況が 更に多く,その大半は実物の材料の不足と重名或 いは異名の出現とに起因している。そして隷と八 分との混乱には,重要なものに三つの原因がある。
第一は秦の俗書を隷とし,漢の正体を隷とし,魏 晋以後の真書を隷とする,「隷」という語の名同実 異である。唐の童続『纂五十六種書』が程遡の隷 書を「古隷」と称し,唐の虞世南『述書旨』が晋 人の真楷を「今体」と称するのは,全て漢隷と区 別するためと思われる。また宋の『宣和書譜』が 王次仲の楷法を指して「今之正書」とするように,
隷と八分との名と実とに対して,また多くの誤解 と紛糾とがあり,それらは巻二「隷書」・巻三「正 書」・巻二十「八分書」の叙論に見出される。宋以 後こうした状況は一層多いが,ここでは詳しく取
り上げない。第二は,規矩整斉の風格は楷と呼ば れ,汎用の形容詞であり,風格規矩により名を得 た楷書はつまり真書であって,専名であるという,
「楷」という語の名同実異である。第三は,秦の 俗書は波が無く,漢の木簡は比較的工整なものに は波があり,比較的草率なものには波が無いとい う,筆画の「波勢」である。例えば華山碑等のよ
うに,漢碑のあるものには波があり,部君開通褒 斜道記(図49)のように,あるものには波が無い。
新隷体,即ち真書は,捺筆は波があって横画は波 が無い。専らこのような波勢或いは細微な風格の 上から,この二つの名称の関係を尋ねようとする 人もいるが,また常に矛盾に陥ってしまう。従っ て,古代字体の古文から八分までの名称を研究す る際,南北朝から元・明に至る文献資料に対して は,極めて慎重でなければならないのである。
よく引用され,しかもなお問題を有する一つの 資料がある。それは「水経・穀水注」の以下の記 述である。
・古隷の書を言うは,秦代より起こる。…
或いは云う,即ち程遡の雲陽に増損せる者と。
是れ隷と言う者は,築の捷なり。孫暢之,嘗 て青州刺史傅弘仁に見えて説う,臨溜の人,
古家を発き,桐棺を得。前和の外に隠に隷字 を為り,斉の太公六世の孫胡公の棺なりと言 う。ただ三字のみ是れ古,余は今隷書に同じ。
証して知る,隷は古より出で,秦に始まるに 非ざるを。
第一に,その字の様相は転々と伝述されたもので あり,邸道元が直接見たものではない。次に,棺 上の字は『永楽大典』本は「隠爲隷字」に作って いるが,他本は「隠」の下に「起」字があり,意 味は全く別である。このように「隠爲」はやはり はっきりしないのである。第三に,その「同じ」
とは構造なのか,風格なのかという点である。例 えば唐写の隷書定尚書(図91)は,構造は古文で あるが,筆画は真書である。筆画形態の観点から 解釈すれば,古は真と同じと言うことができ,組 織構造の観点から解釈すれば,同時に古は真と異 なると言うことができる。従って,この資料につ いては,なお研究の進展と地下のこの種の材料の 再発見とを待たなければならないのである。
十草書・章草
「草」とは,もともと草創・草率・草稿の義であ り,初歩・非正式・不成熟の意味を含んでいる。
字体の面では,広狭二つの義がある。広義のもの は,時代を問題にせず,草率に書写された字は全 て含めることができる。これに対して狭義のもの,
言い換えれば一つの専門の字体の名称とするの は,漢代に初めて見出される。『説文解字』叙には
「漢興りて草書有り」と述べられているが,「新葬 の六書」に至るまで,草書という一体は取り上げ
られていない。このことから「漢興りて草書有り」
とは,ただそれがすでに発生していたことを説明 したに過ぎず,未だ正式で合法な字体として列せ られていなかったことが知られるのである。我々 が目にする,出土した王葬期を包括する両漢の木 簡には,草書のものが少なくない。しかし,それ らは全て軍書や帳簿等々であって,いくつかの書 籍類及び丁重な告示や挨拶の簡牘は,やはり漢碑 の字の形状の隷書である。これによって漢代の草 書は一貫して起草をなすためのものであり,正式 の字体ではなく,私用の字体であったことが分か る。軍書も公文書ではあるが,軍事が緊急の際に は正式の字体に拘束されなくてもよかったのであ
る。
漢代の草書の簡牘の字の形状は,大半は漢隷の 架勢であり,しかも簡易で快速に書かれている。
だから一字がいかに簡単であっても,収筆は常に 燕尾の波脚を帯び,かつ二字の間は決してつなが っていない。漢魏の際から晋代に至って,初めて 筆画の形態は真書と似通い,字と字との間には密 接な関連があり,更には連綴の草字(図70)をも 有している。こうした状況は容易に理解できよう。
即ち前者は旧隷体つまり漢隷の速写体であり,後 者は新隷体つまり真書の速写体であるに過ぎな い。後人は名義上の区別をつけるために前者を「章 草」と称し,後者を「今草」と称したのである。
「章草」という名称が,文献に最も早く現れるの は,王献之の言葉であろう。張懐理『書断』巻上 に「献之嘗て父に白して云う,古の章草は,未だ 宏逸なる能わず,頓に真体に異なる。合に偽略の 理を究め,草踪の致を極むるには,藁行の間に若 かず,往法に於て固より殊なるべきなり。大人,
宜しく体を改むべし,と」と記されている。張懐 瑳『書議』もこの言葉を引用するが,簡略である。
『書断』に引く崔暖「草書勢」にも「章草」の名 があるが,『晋書』所載の「草書勢」は実際には「章 草」の二字を「草書」に作っており,しかも『書 断』の引用には省略があることから,この二字は おそらく張懐罐が改めたものと見なされるため,
依拠しない。先に第二章で述べた『書断』が『呂 氏春秋』の「蒼頷造書」の引用を「蒼頷造大篆」
としているのも,やはり張氏の改めたものである ことが知られる。また所謂,衛夫人『筆陣図』及
び王義之『題筆陣図後』にはともに「章草」の名 があるが,この二篇はいずれも偽託によるもので あり,やはり依拠しない。王献之のこの段の言葉 には,別に反証は見出されず,よって暫く張懐罐 の言を信ずることとする。更に例えば羊欣『采古 来能書人名』にも章草という名称があり,『書断』
巻上に引く瀟子良の言葉には「章草なる者は,漢 の斉相の杜操始めて藁法を変ず」とあり,梁の虞 和『論書表』にも章草の名称が見られる。それ以 後では,唐人が言うものは一層多いので詳挙する 必要はあるまい。
章草の「章」字はどのように解釈されるだろう か。前代の人には種々の推論があり,近代にも多 くの人が論を著し検討を加えたが,総括するなら ば,以下の五種の説を出ない。
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
漢の章帝の創始説。宋の陳思『書苑著華』
に引く唐の察希綜『法書論』に「章草は漢 の章帝より興る」とある。
漢の章帝の愛好説。唐の章続『纂五十六種 書』に「章帝の好む所に因りて名づく」と
ある。
章奏に用いたとする説。『書断』巻上に見え る,後漢の北海王が明帝の命を受けて尺牘 十首を草書した,章帝が杜度に命じて上事 を草書させた,魏の文帝が劉広通に命じて 上事を草書させた,との記事,等々。
史游『急就章』によるとする説。『四庫提要二 経部・小学類「急就章」の条に見える。
「章楷」の章と同義であり,即ち「章程書」
の章であるとするもの。近代の人の多くは この説を主張している。
章草の名が漢の章帝と漢の章帝の愛好に創始す るという見解は,全て皇帝の謹法を字体名とする ものである。古代において帝王の認を字体の名称 とするものは,漢の前にも後にも例が無く,附会 であることは言を待たない。『急就』については漢 代では章と名付けられていない。例えば「三蒼」
も同様に章を分けているが,やはり「蒼頷章」と は名付けられておらず,かつ史游はr急就』の文 詞を編纂した人であって,草字を用いて『急就』
を書写した人ではない。今日見られる漢代写本の
『急就』は全て隷書のものであり,章草の写本(図 69)は最も早くは呉の時の皇象より出ると伝えら れる。『書断』巻上に引用された王倍の言葉には「漢 の元帝の時,史游『急就章』を作る,隷体を解散
し之を粗書す。漢の俗は簡堕,漸く以て之を行う」
とあるが,これは史游を草書の創始者であると誤 認したものである。草書は西漢の前期にはすでに
あり,神爵簡(図38)・五鳳元年十月簡(図39)等 を見れば,決して史游が初めて粗書を開始したの ではないことが知られる。ただ,残る章奏・章程 の二義は,注意に値しよう。
章の字の古義を考察してみると,楽章の義があ り,つまり「音に従い,十に従う」である。また 愛書の義があり,『観堂集林』巻六「釈辞下」には,
「章」字は「辛」に従い,「享」「辞」等の字と同 じく「皐」の義を含み,章は罪状・麦書の義と見 なされる,と述べられている。また章奏・章程の 義があり,更に図案の義があって,章舗・文章等 は全てこの義に属している。引伸して章明の義と
し,章明はまた彰明に作る。ここで試みに,この いくつかの方面の共通義を探求してみると,実に
「条理」「法則」「明顕」の意味がある。つまり謹 法に用いられた章字も,この意味を取るものなの である。だから相反する意味は,乱雑つまり不章 である。更に今草と章草とを相互に比較してみる
と,章草はより厳格であり,今草はより随意であ る。従って,漢代の旧草体があのように章の名を 得たのは,その条理と法則との性質がより強かっ たことによるものなのである。また正にそれが具 備していたこの種の性質により,初めて章程に合
し,章奏に用いる資格を有したとも言えよう。
旧体・新体を問わず,草書は漢末に至って,す でに広く流行しており,ただ漢末の趙壼の『非草 書』の一文が非難するのを見るだけで,当時の人々 の草書に対する広い愛好を知ることができる。更 に『四体書勢』と『後漢書』張奥伝に引く「勿 として草書するに暇あらず」という張芝の言葉も,
すべてその時期に草書は公式的・合法的な字体と なったのみならず,珍貴な芸術品ともなったこと を物語っている。しかし「親しみて尊せず」であ って,やはり碑版への登用は見られなかったので
ある。
十一余論
以上の資料と研究の中から,以下に列記するい くつかの問題が見出される。
(甲)一つ一つの時代は,もとより一つの王朝に 止まらず,いずれも一つの字体を有するに止まら
ない。凡そ用途・工具・方法・地域・書者・刻者 が異なれば,構造や風格もそれぞれ異なる。特に 手写されたものと刊刻・鋳造されたものとは,芸 術効果上の差異が一層顕著である。
(乙)一つ一つの時代の中で,字体は少なくとも 三つの大きな部分を有している。即ち当時通行の 正体字,それ以前の各時代の各種の古体字,そし て新興の新体字或いは俗体字と言われるものであ る。これを人に喩えるならば,親子孫の三世代が あり,しかも常に一世代の中にはまた兄弟姉妹が いるようなものである。例えば,秦代には親の大 築があり,子の小篆があり,孫の隷書があった。
そして,その他の五体は各々近似しており,また 各世代の兄弟姉妹である。
前の一時代の正体は,後の一時代に至れば常に 古体となり,前の一時代の新体は,後の一時代に 至れば常に正体或いは通行体と称されるものとな
るのである。
(丙)例えば,草稿・書信と金石銘文との異同の ように,字体の用途の上から,一つの字体の当時 における地位を見ることができる。凡そ一つの字 体が,例えば鼎銘・碑版のような,丁重な用途の 中にあれば,この字体はこの時期すでに合法と認 められ,「大雅の堂に登る」ことができたことを物 語っている。つまり幼児が成長して「勝衣」だけ でなく,「加冠」し,おとなとなれば,年長者と同 席することができたのである。だから秦の頒功刻 石は隷字を用いず,漢から階にまでの碑刻は草字 を用いず,漢代の章奏に草書が用いられたのは必 ず特許によるものである。鍾縣の表啓・谷朗碑等 が新隷体を用いているのは,初期の真書がこの時 期すでに成年となり法に合していたことを示して いるのである。
晋から唐に至るまで,真書は長期の試用を経過 し,当時において最も便宜とされたことを物語っ ている。構造上加減することができ,それを「古 文尚書」の翻写に用いることももちろん可能であ り,肢体の一部を略しても,それらは依然として 活用することができた。例えば古文の「歪」は,
真書の筆画の形態を用いて「莞」と書き改めるこ とができ,「馬」・「魚」の四つの点も,一つの横画 に変えることができ,「覆」「復」は偏旁を取り去 って,残りの「夏」字だけでも,それによって二 つの字を表すことができるのである。諸々のこの ような類は,詳挙するまでもなかろう。真書はま
た,例えば方円肥痩・欧楮顔柳等の異なった風格 をも受け入れることができた。筆画は少し動かし たり続けたりすれば,行書となることができ,更 に動かせば草書となることができた。宋代以降,
真書は一層方整化が加えられ,木版刻書の印刷体 ともなった。真書はこのような優れた長所を備え ていることにより,長期にわたって使用され,一 千年以上もの長きにわたる漢字字体の大宗となっ たのである。
その他の各種の字体,例えば今草・行書は唐代 に至って,また皆成年となった。だから行書が碑 に入ったものに晋祠銘(図87)・温泉銘があり,草 書が碑に入ったものに昇仙太子碑(図90)がある のである。但し新興の狂草は,依然として碑に入 ることはなかった。
両用の時には,古代の字体の累積はまだあまり 多くなかったため,装飾字が必要な時は,常に別に 装飾字を造っており,特に楽器と兵器との上に一 層多い。唐代以降,真書より上の各種の字体は,
累積がすでに豊富で変化も多く,古体の字はすで に装飾用として十分であったので,特に新たに造 られた装飾体は多くなかったのである。例えば,
宋の僧夢英の十八体篆書は多種の形態を有し,唐 の武則天の飛白書の昇仙太子碑額は多くの鳥形を 有し,宋の仁宗の飛白書「天下昇平四民清」の七 字は多く蛇頭を有しているが,結局のところあま
り踏襲されなかった。
(丁)古代の書写者の創作思想の中で,尊重する 標準も,また各々異同を有している。比較的重要 でかつ顕著なものには,以下の数種がある。
(1)円転を丁重とするもの。例えば篆書は,秦 代では円転を荘厳丁重としている。
(2)方整を丁重とするもの。例えば王葬の時の 小篆は,秦隷と比べればまた方整のものが多い。
漢隷を篆書と比べると,もともとすでに方折頓挫 を特徴としているが,東漢後期に至って,いくつ かの碑刻はますます方整となり「折刀の頭の如し」
となった。その中には一定の工具の要因を含む可 能性もあるが,全て無意識に出たものとは言えな い。私は,おおよそこの時の手写の隷書が,常に 円熟便易に趣くことによって,丁重な用途の碑版 の字体は,逆に一層方整を装い,それによって尊 厳を表したのであろうと考えている。これは手写 の簡便な隷書,或いは新隷体出現後の一つの反響
である。
(3)古体を荘重とするもの。例えば碑銘・墓志 の中では,碑額と志蓋とは常に古体を用いており,
だから「築額」或いは「築蓋」と称するのである。
碑文と志文とは当代の通行の正体を用い,碑陰の 字には時に碑陽の字に比べて草率なものをいくつ か便宜的に用いることもできた。ただ,例えば呉 の谷朗碑額(図68)・梁の始興王碑額(図77)・魏 の張猛龍碑額等のように,碑額・志蓋もまた碑陽 の正体と「自ら兼ぬ」ものもあるが,逆に碑額或 いは志蓋に子や孫の字体を用い,碑陽或いは碑陰 に親以上の字体を用いるものはほとんど無い。唐 の閾特勤碑は,正文は唐明皇御書の漢隷の字体で あるが,碑額は逆に真書であり,このような例は,
古石刻では比較的稀有なものである。更に漢の永 寿瓦罐を見ると,中間の「永寿二年」の一行の大 字は,波礫が丁重で,専ら漢隷の旧体であるが,
周辺の小字は,真書に接近しており,即ち当時の 新隷体である。あの一行の大字も正に碑額・志蓋 の作用に近いものである。また唐「開成石経」の 経名の大題には漢隷を用い,篇題と経文には真書
を用いるような例もそうである。更に後世の木刻 の書籍で本文は宋字体であるが,書物の外簑は常 に別の一種の字であり,近代では扉頁とも称する 封面には,常に築・隷・草・真・行等の宋体の字
より早期のものを用い,序文はまた常に手写体を 用いるのも,この種の道理である。
真書の通行以後,築隷はみなすでに古体となり,
古体を尊崇する思想の支配下において,丁重な用 途の上で,いく種かの変態の字体が出現した。
第一種は,構造と筆画の形態を全て隷書に学ぼ うとしたものであるが,書写の技巧は十分に熟し ておらず,筆画の方円太細を問わず,書写された ものは総じて漢碑のようにしっかりしたものでは なく,隷意の多いものや,隷意の少ないものがあ る。隷意の多いものは,隷であってしかも真に近 いと言え,隷意の少ないものは真であってしかも 隷に近いと言える。これを総じて言うならば全て 一種の隷真の化合体である。例えば符秦の広武将 軍碑・魏の元綜墓志・北斉の韓宝暉墓志(図82)・
乾明修孔廟碑・文殊般若経碑(図84)・階の暴永墓 志(図86)・陳叔毅修孔廟碑・唐の暉亮碑等々であ る。この種の風格は,漢未の新隷体に源を発して おり,試みに永寿瓦罐の小字・嘉平瓦罐と谷朗碑 等を見れば,隷が初めて真に変ずる時は,この種 の状況であったことが知られる。これより二つの