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須田哲夫:潅頂記 - fukushima-u.ac.jp - 福島大学

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(1)

頂 記

哲  夫

1. 灌頂記はどんなときに書かれたか

 空海筆に灌頂記という名筆がある。これの呼称 であるが, (かんちょうき)と呼称するものと,

(かんじょうき)と言う場合がある。吾々は,通 称(かんちょうき)と言い習わしていたが,(く わんじうき)と呼称することが多くなった。即ち,

平凡社の書道全集,中央公論社の書道芸術,二玄 社の書跡名品叢刊空海,第一法規の書写書道用語 辞典には(かんじょうき)と仮名つけしてある。

そこで辞典にあたってみると,諸橋轍次の大漢和 辞典には(かんじょう)とあるが,他の辞典は,

(かんちょう)が多い。そこで,ここでは(かん じょうき)と称してゆくことにする。正しくは,

(くわんぢようき)である。

 さて,灌頂とはどんなことであるか。

 尊勝陀羅尼経読に次のようにある。

 所謂,灌頂は,着初道を修める者真言門に入り,

先ず師主大阿闍梨を訪ね,道場を建立し,灌頂法 を求め,入りて三密を修め,瑜伽を讒することを 願う。猶,世間輪王太子,正位を紹し,以って国 柞を承するを欲するは,七宝瓶を用い,四大海の         あた

水を盛り,灌頂に方り正位を承す。故に梯子と号 する如し。

 即ち,天竺国王即位の時には,四大海の水を以 って頭頂にそそぎかけ祝意を表わす。宗教で此の 世法に微って,初めて受戒する時,又は修道の上 進の時,香水を頂に灌ぐ儀式を灌頂というのであ

る。

 空海書のr灌頂記』は,灌頂歴名と称すべきか も知れない。しかし,通称は『灌頂記』と称され ている。弘仁三年十一月十五日と同年十二月十四

日に書かれた空海の書には, 「金剛界灌頂を受け た人々の唐名」 「胎蔵灌頂を受けた人々の暦名」

とそれぞれ書かれている。ただ,弘仁四年三月六 日のものは, 「灌頂衆金剛界」と記されている。

とすれば,『灌頂歴名』とするのがより正しいと

思われるが,慣行にあわせて『灌頂記』としてゆ きたい。もう一つはr歴」とr暦」とのことであ る。 「歴」と『暦」は,音を同じくし,お互いに 通じ合う文字である。空海は「暦」と書いてある が, r歴」は,過也,行也,超也とあるので,rコ

ヨミ」のr暦』よりもr歴』の方がより適切であ れば,r灌頂歴名』を用うる時は, 「歴」とすべ きであると考えられる。

 r灌頂記』を考えてゆく場合には,最澄と空海 の関係を正してゆかなければならない。

 最澄は,延暦23年(804)空海と共に入唐 したが,在唐の期間が短かく,また,台州,越州

(漸江)などの霊場を巡歴しただけで唐都長安を 訪拠る機会に恵まれず,真言の研究においても不 充分であることを自ら認めていた。そこで,長安 において密教を習得し,珍重すべき多くの典籍を 持ち帰った空海に,経典文書を借覧し,疑を質し ている。そして7歳年少の空海を乞うて両界灌頂 を受け,その員外の弟子に加わるに至っている。

このことは,求道者として,いかにも立派な態度 であるとせられている。この間,最澄は空海に数 多くの手紙を呈している。その一例として,

  弘仁二年二月十四日 空海宛

     けいしめわなん

♂解要齢蟹あ鑑窪昌轟

被を蒙り,秘密宗を習学せむことを思ふ。但,

 巻撲得難く,久しく歳月を過ごす』

        ごいん       ^んぜう そん かんじょう

  此の度,彼の鯉院に向ひて,遍照一尊の灌頂  を受け,七箇日許り仏子等の後に侍して,法門

を善學せ鵜縄若し無限の慧を塾鮮 唇脳ず参奉せ親,触て節儲}を軌

進止せよ。日晩携携,具に状す。弟子最澄稽首

 和南。

  弘仁二年二月十四日       げ し

         下資最澄状して上る  高雄大阿闍梨座下

稽首和南一稽首は頭を地につけてなす礼。

(2)

       和南は敬意を表する挨拶の語。

  卑僧一僧侶の謙称。

  秘密宗一真言密教の教え。

  穏便一安穏で便利なこと。

  彼の御院一高雄山寺。

  遍照一尊一遍照は法身大日如来。

       一尊は万徳を備える大日如来の一        面のみの徳を表わす各々の尊.

  和尚一親教師の意味。

  進止一進むも止るも命令のままにする。

  携捷一みだるる貌.

  下資一下弟子。

  高雄大阿闍梨一高雄山の空海を指す。

  座下一膝下に差し出す意味。

 即ち,高雄の御院に参り,大日如来及び有縁の

一一クの灌頂をうけ,七日ばかりの問,諸弟子の後 にはべつて,真言の教法を習学いたしたく存じま す.和尚,もし無限の慈悲をたれたまいて,習学 を許されるならば,近日,必ず参上いたします。

なにとぞ,教示をたれ,指図せられんことを,伏 して願い上げます。と言っている。しかし,この ときには結局,この受法,習学は実現しなかった。

 翌弘仁二年(811)二月十五日には,次のよ うな空海あての書状を出している。

 書信を受けて意中のおもむき了知しました。あ るいは喜び,あるいは恐れ多くも存じます。 (中 略)下弟子たるわたくし,後時をまって,必ずや 参上し拝謁いたします.取り敢えず絹一疋をたて まつり,こころのうちを表します。なにとぞ,わ

 くら

が冥き心のうちを加護し,成就せしめたまわんこ とを,伏して懇願申し上げます。(略)

 再三の要請によって,弘仁三年(812)十一 月と十二月に,高雄寺において,金剛,胎蔵両界 の灌頂会が実現する。空海はこの時,灌頂を受け た人々の名を草卒の間に記した.これが『灌頂記』

である。

  2 潅頂記の内書は

 r灌頂記』は三つの部分からなっている。一つ は,弘仁三年十一月十五日の4行と,弘仁三年十 二月十四日の分の74行と,弘仁四年三月六日の 分の15行とである。

 弘仁三年十一月十五日のものは,灌頂を受けた 4名の列記である。最澄を頭初に,幡磨大様和気 真綱,大学大允和気仲世,美濃種人の4名である。

真綱,仲世はともに和気清麻呂の子で,真綱は第 五子,仲世は第六子にあたる。両名は熱心な仏教 信者で,とくに天台真言両宗の保護者であった。

高雄山寺は和気清麻呂が称徳天皇の勅を奉じて宇 佐へ赴いた時,造寺の神願をした。これを受けて,

真綱は延暦年間桓武天皇の勅許を受けて創寺した 寺である。のちに神護寺と改称せられた。空海が 最澄と共に和気氏の兄弟に灌頂を授けたのは,こ のような因縁によったものであろう。美濃種人に ついての詳細はわかっていない。各人の名の下に,

 ,金宝,喜,宝と書いてあるのは,灌頂の際の

 げ      まんだら

 華によって各人の得た曼荼羅の中の仏の名であ

る。

 ついで,弘仁三年十二月十四日の胎蔵界の灌頂 は,大々的なものであった。この際の受けた人名 が,74行に亘って記されている。

 先ず,最澄を筆頭に大僧22人,沙弥38人,

近士41人,童子45人,音聾人20人,合計1 90人と書かれているが全然人数が合っていない。

合計数は165人である。実際に書かれている数 は,大僧22人,沙弥40人,近士41人,童子 71人,音聲人20人であって合計は194人に なっている。空海の書いた計も合計も祖語がある のである。一体これはどんなことであろうか。

 一見してわかるようにこれは素紙に配字をこと さらに考えずに書かれているものである。即ち,

大僧は二段に,沙弥は三段に,近士は四段に,童 子は四段又は五段に,音聲人は二段又は三段に並 べられて,その間に秩序がない。多忙の中に書写

された草卒の書であることは一見明瞭である。加 筆され,削除されているところも数多いのである。

このような書き方では,人数を合わせることも困 難であり,童子のように,初め45人の予定が,

実際は増加して71人の多きに達しているのであ る。この増加分は,何かいわれがあったらしく,

「勝丸」から「□第九』までの26人分は,文字 が小さく細めに遠慮勝ちに書かれて,前記までの 分とは区別がはっきりついている。そして,童子 を書き終ったところでr高雄山門』と書かれ,音 聲人との区別をしている。それから終りのr合室 信玖拾人」であるが,これは弘仁三年十二月十四

日の字と違っているように見られる。使用してい る筆が違うようであり,又筆意を異にしているよ うに思える.むしろ,弘仁四年三月六日の分と共 通しているように思えるのである。どうも,弘仁

(3)

四年三月六日の分を書き出すにあたって,弘仁三 年十二月十四日に書かれた人数を概数つかんで合 計としたものではなかろうか。

 「弘法にも筆の誤り。」という言い伝えがある。

空海が応天門に掲げる額に点をおとして書いてし まった。誤りに気がつき,筆を投げつけて見事に 脱落した点を補ったという一話である。これは,空 海の神聖化を強調したものである」しかし,人間 空海にも筆の喋りははっきり見られる。即ぢ「大 僧衆数」の.「僧賢榮」のところにある。「僧賢榮」

の得仏は.「大白明」と書かれてあるが,これは「大 明白」の誤記であって「大明白身菩薩』をさすの である。さすが草卒の間には,空海も筆の誤りを 犯している。このことは,あまりにも神聖化され た空海に人間味を感じさせ,親近間を覚えさせる ものがある..

 r大僧衆数』の22人の名簿には,右肩に番号 が付されている。そのため,人数には誤りがない。

ただ,不思議なことがある。それは, (一)僧最 澄, (二)信貴榮, (四)泰法,(五)忠榮,(三)

泰範, (六)長榮と書かれている順序の違いであ る。なぜ5番目に書かれている泰範に,(三)の 番号が付されてあるのだろうか。泰範は最澄の高 弟である。弘仁三年五月,最澄は遺言して泰範を 総別当,円澄を座主としている。にもかかわらず,

六月に泰範は暇を請うているのである.そしで叡・

山を離れて近江高嶋に滞在していた。最澄は之に 対して灌頂を受法することをすすめた。次の書状 は,このことを示している。

製繕纏って冒す

      づだ っで   おとくに  右,最澄,去月廿七日,頭陀の次を以て乙訓

でら       いんぎん

嶺に宿し・空海阿闍梨}4頂謁す・教劃墨勢たり・

具に其の壼部の尊像奮示され,又,曼荼羅を見 せしむ。倶に高雄に期す。最澄,先に高雄山寺 に向ふ。同月廿九日を以て,阿闍梨,永く乙訓 寺を辞し・永く高雄山寺髪焦す。即ち・告げて 日く, 「空海生年四十,期命尽くべし。是を以 て仏を念ぜむが為の故に,此の山寺に住す。東       よろ西することを欲せず。宜しく嬢する所の真言の 法,最導騨に付嘱すべし。惟,早速に,今年 の内に付法を受取せよ。』云云と

      工み

 其の許す所を計るに,諸仏の加する所なり。

      を は来る十二月十日を以て,受法の日と定め已畢る。

      だいどうぼふ  ぐほふ

伏して乞ふ,大同法,求法の故に早く叡山に赴       てフど

き,同じく其の調度を備へしめ,今月廿七を以          ゆめて高雄農1寺に喫盒。努力,我が大同法,思ひ留

ること獣。委曲の状,光仁仏子に知らしむ。

謹むで状す

 弘仁三年十一月五日

       しる

        小同法最澄状して上る

  りょどうぼトはみ

高嶋旅層競範闇梨座前

 若し嘉縁の同法,当来の因繍弄とならば,

 各々粗を持して上り来れ。灌頂の料物は各々  カに随はんのみ。謹空。

 上の書状を出したあとすぐ十一月七日にも追っ て灌頂を受けることを勧める書状を書している。

このような懇切な勧めによって泰範は,灌頂を受 けたのである。この泰範が,大僧の五番目に書か れてあるのに,三番目の番号が付されてあるのは,

厚遇を受けたというζとであろうか。この灌頂を 契機として,泰範は最澄のもとを離れて空海の膝 下へと移ることになり,最澄と空海の離反の原因 にもなっている。最澄は,泰範を呼び戻すべく,

必死の努力をしたが叶わなかった。その一状をあ げてみる。

      せき  (前略)伏して乞ふ,本願を照察して,迩を        ぶつゑ

此院に留め,早く弊室に帰り,倶に仏慧を期せ む.猫糞せしむること莫れ。彼の無漏道,今夜 の夢の裏,大境界あり。敢て顕出せず。今より 以後,苦楽倶に知り,此の宗を住持せむ。自心  せ

蹴註灘繰臭謙鍛在食旱塑

       つかは謹むで弟子の沙弥,誉穿奮算して,状を奉って,

還らむことを請ふ。努力努力,老僧を棄つるこ        しる

と莫れ。謹むで疏す。

  四月廿一日

       しる

   言ふに足らざる同法最澄状して上る。

羅範閨梨法前

 極め瓦器事あり。今日早く帰れ。寄ることな  く,左右することなかれ。謹空。

 誠に言切々たるものがある。年代は明記されて いないので,明確ではないが,弘仁三年(812)

とするよりも,弘仁七年(816)とする方がよ いのではなかろうか。 (図版1参照)

(4)

1 図版1

稽薦

      ・噸・髪悔 吻泰跨ヂ 憂徽鯵

魔  雲ぞ・ 謹得﹄薩        び へ ・鰯︑題乾彦 厨篭・ ヤ禽浅.諸堂 衆艦突

堤礪看 五悪豪 ぐ策紐鱗  ㌧  東券︽

  

ギ智 望セ

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  そ二 薬看

  

@樋瀧老多   ケ画一︸玄メ石         覧凶弩 .︑縮縫豪身     季望廠勉

(5)

 次に,弘仁四年三月六日記の灌頂歴名について 述べてみる。この会は小人数の灌頂会であった。

僧五人,沙弥十二人と書かれているが,沙弥は実 際十四人記されている。人数の変化は,前回と同 様に追加されたものであろう。割合整然とした書 き方で,僧,沙弥とも二段に並べられていて数え 易い。沙弥が二人追加されたらしいが,これは末 尾の両名r安総師」とr泰福』とであることは,

なんとなく追加記入のような書き方である。書体 も楷書に近い行書であることは,やや平生をとり もどした精神状態の空海の筆ではなかったろうか。

僧の五人の中で泰範が初めに書かれ,次いで円澄 が書かれている。前回の灌頂会から三か月足らず のことであれば,泰範が叡山に帰らぬことに対す る最澄の心情もさして動揺していなかったことで あろう。そのことは,最澄の次の書状でわかる。即 ち弘仁四年正月十八日,弟子の円澄を派遣して真言 の受法に当らしめようとする書状である。最澄自身 が行くところであったが,叡山において種々天台宗 のためになすべきことが多々あったからであろう。

      こう

 修行満位僧,円澄を貢す。大安寺。

 右の僧は久しき年,最澄の同法なり。深く幕 藁道濤仰ぎ,其の修行を欲凱伏して乞食〜し子 讐の哀を垂れ,受法の庭に侍せしめよ。至志に 任へず。奉名和南して貢す。

  弘仁四年正月十八日

        受法弟子最澄状して上る 高雄大阿闍梨法前

 この弘仁四年灌頂衆は平静な書き方で丁寧さが ある。借名にも,沙弥名にもr泰範師」というよ

うに師を付けている。僧五人には沓師を付けてい るし,沙弥十四人にも師をつけている。r真叡師」,

「真者師」と二名にははっきり付けていて,次か らは点を付しているが,これは師の略体であろう。

最後のr泰福」には何も付していないが,これは 忘れたものであろう。

 前回受法した者は, 「泰範」 「円澄」 「長榮」

f光定」とr榮春」 r平仁」の六人であるが,他 は新しい顔振れである。このところは,第一回,

第二回の書き振りに比べて何となく異った感じを 受けるため,空海の書でないと言う説も起きそう であるがそうではあるまい。年号のr弘仁四年」

の4字は,左の一行を書き終ってから付け加えた

ものであろう。字の位置といい,書き振りといい,

つながりが薄いようである。

  3.この書の特質と考えられることは  灌頂記は.弘仁3年から弘仁4年にかけて書か

れた空海の書であり,京都高雄山神護寺の蔵であ る。縦28.5㎝の素紙に書かれ,横259.6㎝

の巻物に仕立てられている。現在は,神護寺蔵で あるが京都博物館に依託され,神護寺で公開され るのは,5月初旬の三日間ほどである。この書を 考えてゆくのには,書写された期日の三部分に分 けざるを得ない。即ち,弘仁三年十一月十五日の 部分を(A),弘仁三年十二月十四日の部分を(B),

弘仁四年三月六日の部分を(C)として考察して ゆくことにする。

 直観的に見て, (A)は「渾厚,沈着」,(B)

は「渾厚,豪快」,(C)は「瀟洒,軽快」なる性 情をもっているのではなかろうか。総じて,空海 の書は「潭厚」さが特質であろう。しかし,(C)

はr渾厚」とは言いかねる。ある局部的な書を抽 出レて命題に合わせることは無理がある。しかし,

一部分が必ずしも全体の性情を含有していないと は限らない.そこで一例を年号と寺名で考察し てみることは,無意味とは言えまい. (A)から は, 「弘仁三年十一月十五日,高雄山寺」,(B)

からは「弘仁三年十二月十四日,高雄山寺」,(C)

からは「弘仁四年三月六日,高雄山寺」を取り出 して考察をしてみよう。

 (A)の書は,大きな腕の廻転によって書かれ ている。このことは空海の書の特質である。その ため,線が円味を帯びていて,やや粘渋さを感じ させ,甘さを漂わせている。下手すると弛緩を見 せる心配も起きてくるかも知れない。草卒の間の 空海の書としては,どこか緊張感もありそうであ る。しかし,締りを欠いている書ではない。どこ までも紙に密着した線質であって軽薄さは微塵も 感じさせない行き方である。r月」 r五」r於」

「高」 「雄」などの字に見られる運動の大きさは 驚くにかりである。特に左斜めに伸びる線には粘 着力を覚えさせ,形の上からも特色が濃厚である。

これが,斜め右上に引かれる線にも粘着力を持つ。

とかく斜め右上に引く線は軽薄に細くなり勝ちで あるがそのことはなく沈着さを強く見せている。

r於」 「雄」においてこのことが顕著である。(図 版皿A参照)

(6)

図 版皿

こ百ナ皇 ブ 考

ザ。

馳仁三筆蒼古︒馬挿画右

r8}

鮎ち.︷教﹃孝只孝ゑ95灘南看

rA,

 次に, (B)の14字について考えてみよう.

一見してわかるように,この部分が灌頂記の中で 最も卒意の書と考えられるところである。しかし,

この部分を見る限りにおいては,最も堅確に書か れている感がある.そして,灌頂記の特色が最も 大きく出ているのである。それは,線が太くボリ ュームがあり,結体においてひきしまりがあるか

らであろう。 (B)の特色として,直線的なゆき 方が考えられる。横面から縦画に転ずる時,大き く弧を画きながら左下方に進むことなしに,直ち に折れて左下方に進むことが多く,近道を通って いる感が深い。最初の字r弘」の労はr口』で表 わされている。これは(C)も同様である。r弘』

を「弓田と書くことは古く行われている。特に隷 体においては,r乙瑛碑』 r隷辮』にある。 rム』

の上部が接近して「ム」か「ロ」かの判別つき難 いものも少なくない。楷書においては, 「馨龍顔 碑』 「皇甫府君碑」 「化度寺碑」にあり,又行書 においては, 「集字聖教序」がそうである。義之 を学んだ空海は,これをとっている。さて,「弘」

の労のr口」において,近道的な進め方をしてい るし,r月」 r四j r高』においてもこの傾向で ある.しかし,単的な近道では決してない。空海 特有の運動の大いさは随所に見られる。 r十」の       ムところ 縦画, 「日」の第二画, r高』の第七画には,懐 の広さが充分に窺われるのである。(図版皿B参照)

 「弘仁三年十二月十四日」の部は何せ多くの字 が書かれているし,空海草卒の書の典型でもあれ ば,他の部分にも目をむけて行かねばなるまい。

         ムところ

肉太のr緊密さ」と,懐の広い「広闊』さが混然 一体となって「渾厚』なあり方を見せている。そ のことを各字の例によって考えると次のようであ

る。

 r衆」は,上部にあきを作り下部は横ひろがり をせず毅然たる立姿をみせ,「榮」は下部の「木」

でひきしめている。 r範」 r光」 r定」三字の最 後のはねは,凡人であれば狭隘に陥るところであ ろうがそれを感じさせない。それは,ここに出て くる太さである。なんと力強いものを感じさせる ことであろうか。吾々は,これに習ってこの調子 でやることが多い。すると,誇張されたいやらし さが必ずでてくる。しかし,これにはそれがなく 自然の勢いが大きな余白に飛翔するが如く伸びて いるのである。 r霊」は結体上の問題であろう。

頭部の大きさは,空海が時として構えるあり方で あって,その重量感に時として下部が押し潰され るか,上部の大きさに圧せられて脚の短いものと なり,品を失うことがあったりする。空海が何年 か前に書いた「与本国使請共帰啓」に見られる弱 点であった。しかし,ここに鰭その欠陥はない。

終末に近い左右の程良い幅と丈の維持にあると思 われる。 「真」は欧陽詞の結体を見るが如く,縦

(7)

図版皿 緊

密 ︑

心ム

広 闊

覧 轟● ノも 渉

.へ

 声 沸

(8)

高き結体を見せた。あまりにも上部の間隔が過ぎ たようにも思えるが,決して間のびには陥らず,

横のしまりと調和して聳え立っている。 「泰」は        たけ

これと反対に,下部の長さで丈を保ち余すところ がない。 「近」は少々読み難い。というのは「斤」

の部分が太く画のあまりにも近接からきている。

しかし,ごれと「しんにょう」の収め方のなんと 見事なことであろうか。とかく横広がりになり勝 ちの形をきりつと締めている。f成』は程良い間 架結構によって規範的な姿を見せているが,単純 な姿態ではなく,やや左傾した構成が第四画のず 太い斜画によってささえられ丈高な毅然さを保っ ている。 「金」は左右ρ伸びを強調せず横画の並 びがしまりを持ち無駄がない。r継』は微妙な構 成であり労が下っているようであるが,そこに少

しもだらしなさを見せていない。 r部」はまさに 緊密の典型ではなかろうか。線のぶ厚さといい,

その間隔といい落ちついた澄んだ迫力を感ずるも のがある。 「水」も又緊密さを余ずところなく出

している.・左側の点の位置の適格さは,偶然なの か故意なのか渡り知れぬものを持して落着き,右 方の二画と相対している。以上14字を見定める

と緊密さを保った結体と太さを持した線が相関し ながら屹然さをみせ,気品を漂わせているのであ る。 (図版皿参照)

 しかし,緊密さに過ぎれば狭隘さがでてくるの であるが,それを補っているのが広闊さである。

これは,右方への大きな廻転がもたらすrひろま」

であろう。 「円』の字の二画の大きな運動は,な んとゆとりのあるrひろま」を構成していること であろうか。 r仁」は緊密さと広闊さを共存させ ているといってよい。特に三,四画のおさえ方は 普通人のなすところではあるまい。これは,二点 の位置だけからくる問題のみでなく,線質からく る問題なのであろう。この二点には,単なる点で なく大きな運動が圧縮されたものであろう。「沙」

は,第四画と第七画のあり方でひろさを出してい る.この表現は実に危なさもある。下手に真似す ると下卑たものになりかねない。そこに偉なるも のがあると思われる。 r命」は第二画に大きく支 配されているようである。下部のひろがりも何等 の支障をきたしていない。次に「永」であるが,

前掲のr水」の字と共通している。しかし,r水」

よりもrひろま」がある。大きな抱擁さを持つ。

そして終末の左彿いが程よくしめくくりをしてい

る。 「野」のひろやかさは,最後の縦画のひろが りと長さにあるようである。次に一括して「門」

r国」 r物」 r通」 r内」の各字を見つめると,

前述した右への大きな運動を認めざるを得ない.

右への大き塗運動は,至難な技を伴うものである。

容易なことではない。せいては決』して出来ないあ り方である≧腕の運動から言う≧無理のある運動 かも知れない。そこに,腕の柔かさと,大きな呼 吸が伴わなければなるまい。このあり方が,空海 の書には多く見られるところである。そして,弘 仁三年十二月の「灌頂記」には数多く発揮されて いる。 r敏』は労のあり方に広闊さをみせる。し かし,偏のしまりがなかったならば甘すぎるもの になっていたのかも知れない。 r主」は,一字だ け見ると空白に過ぎるかも知れない.あまりにも 上部との間隔があり過ぎるのである.そして上部 が,あまりにも密接しているのである。このこと は,広闊さのみに目を奪われて提示の七かたがよ くなかったが,連続している上部の字との関連を 考えなければなるまい。即ち, 「浄主」と二字の 関係である. r浄」の下部を受けてr主」の上部 が構えられている。そしてr主』の下部のあまり にも大きなひろがりが空の大きさにも似たような 空白を作り成しているのである。実に見事な構成

というより他はない。

 この弘仁三年十二月十四日の「灌頂記」の書は,

太い線で賛参れ渾厚さを十二分に見せてくれる・

ず太い線ぱ迫力と落着きを発揮し,緊密さと広闊 さが綾をなして一見バラバラな配字の中にまとま りを保ち,抹消した黒跡が平易に陥り易い全体を ポイント的に変化させているのである。 (図版皿 参照)

 説明が前後したが,図版皿の(C)を見つめな がら,弘仁四年三月六日高雄山寺の12字を考え てみよう。これはなんと洒脱した書き方であろう か。 「弘仁四年」の4字は後で書き添えられたよ

うに右に寄せて書かれているのであるが,細い線 で一気に書かれてある。筆端が紙に軽く触れ,そ のまま引きずって書き進められているが,その間 にいささかの断切もない。そして弛みがない。後 世書かれた仮名文字の線を思わせるが,仮名文字 の派手さはなく,むしろ沈着さにおいては勝って いる。この行き方が,次の「三月六日高雄山寺」

にも引き継がれている。この12字を見る限りは,

如何に腕が自由に構えられていたかが想定される

(9)

のである。後尾の「雄山寺」は,やや左に傾斜し ている。これは,紙面の不足を補うための傾斜で あると考えられる。 「瀟洒さ」 「軽快さ』を存分 に見せてくれる。 (図版皿のC参照)

 それにひきかえて,他の大僧,沙弥の名記は,

楷書的でやや固苦しい。斉整さに引きずられてゆ とりが乏しい。そんなところにこの部分は空海の なすところではないという疑問が残る。しかし,

やはり空海の書であると思う。そして,この部分 は,空海が,ゆとりと平静さを持ちながら,真新 しい筆を使って書いたものではなかろうか。穂先 がよくきいているし,線に澄明さがある。しかし,

得仏は名記が完成してから加筆されたものらしく,

前出の「弘仁四年三月六日高雄山寺』の12字に 通ずるものを持している。又,最終のr泰福」に ついては,別の筆をもって書き加えられたように 禿筆の感じが強い。

 「灌頂記」は,特に小文字にすぐれたものを持 つと言われる。このことについて述べなければな るまい。主として「弘仁三年十二月十四日」の記 の得仏名である。人名の潭厚大膳さに比して,小 字は誠に軽妙である。筆端が用紙に触れたまま,

何んの誇張も技巧もなく運ばれている。そこには,

遅帯も枯渋もなく哀音を発するのみである。この 書き方はどう解釈すればよいのであろうか. rひ きずる」ことであると思う。押さえてはいけない。

固執してはいけない。思うままに手でささえられ た筆管を引いてゆくだけのものであろう。ここに,

無礙なる痕跡として爽快な墨点が残置されるので

ある。

 空海の小字は, r三十帖冊子」としてその卓抜 さを見せてくれる。ただ,「三十帖冊子」の場合は,

真言密教の儀礼法文を書き残すという目的があっ て,書写として堅確さがみられる。又,与えられ た紙面を有効に使用するための束縛もあったよう である。しかし,r灌頂記」の場合にはそれがない。

紙面は充分あったし,形式ばった書面でもなかっ た。そこに洒脱した広闊さをもち,しかも軽薄さ を見せぬ小字の絶妙さを展開したものである。

  4. 灌頂記と祭姪稿

 空海の書は,顔真卿に通ずると言われている。

それはなぜか。在唐中空海は顔真卿を習ったとも 考えられる。又,立場は異なっても空海と顔真卿 には相似た性格を持していたとも考えられないわ

図 版IV

よ啄..■媚懸︸栂響蟹 搬禽.色気③幡多あ卑

けでもない。空海と顔真卿の書を対比してその通 ずる点を引き出し,又,異とする点を考察するこ とは, 「灌頂記」の見方を深めてゆくことに無益 ではあるまい.空海と顔真卿の相接するのは行書 であろう。ここに,顔真卿の行書の名品「祭姪稿」

と「争坐位稿」の二点を考えてみたが,肉筆であ るが故に詳細を見極める上からr祭姪稿」を取り 上げてみることにする。

 r祭姪稿」は顔真卿の草卒の書であって草稿で あることは加除訂正の多いことで明瞭である。安 禄山の変に殉じた従兄顔呆卿の末子顔季明の霊を 祭った文の草稿で,顔真卿五十歳の時の書である。

(10)

      てつ中国では.従兄の子を姪(おい)と呼ぶのは普通 のことであったらしい。

 「祭姪稿」を直観的に観察するとその様相に相 似た感を深くする。それは,草稿なるが故の文字 の抹消である。これは外面的なことであって内容 には関係ないことではあるが,単にそればかりと は言い切れない。というごとは,その抹消の方法 と,抹消された円形又は直線的な線のあり方であ る。これは,実際に抹消の仕方を臨してみるとよ くわかる。 (図版蹄参照)

 次に,何といってもその書風である。「渾厚」

なる線には相通ずるものが頗る多いのである。大 きくて深みのあること,どっしりしていることは,

他の書跡に比して一段と秀抜している。線にず太 さがあり,どの線を見ても弛冷がない。線が紙面 に密着していて軽薄さは微塵も感じられないので ある.かといって鈍重ではなく爽快さを失ってい ない。やや禿筆的な筆先きが紙面に鋭く働いても いる。毛筆の最高の性能は,軽いタッチで説く紙 面に相応ずることであることを如実に示してくれ るのである。そして,大きさを展開して見せてく れる.このことについては,「灌頂記』の書の内 容の項で再三述べた大きな運動,即ち右方への大 きな広がりである。それから,縦画がち左方に移 る際の鈍角的な遠廻りの進行である。故に,太い 線で構成される結体に窮屈さを見せていない。た だ,「灌頂記」は人名の並列であるのに対して「祭 姪稿」のは文章としての記述であれば,書写の呼 吸にやや外見的な相違を感ずるだけであり,もし

「灌頂記」が文章的記述を採用していたとすれば,

両者は判別のつきかねる書風の展開を見せてくれ たのではなかろうか。

 更に,詳細な点に目をむけてみると,「灌頂記」

には,やや線の進み方に,鋭角的なところがある。

横画が下方又は左下方に進む場合の折れ,はねが,

円を描かず急速に進むことが多い。この度合はr禁 煙稿」よりも多い。このことは,堅密さを増し,r広 闊』さを減じていることかも知れない。言ってみ れば,唐風と和風の相違であるが,奇しくも,顔 真卿のあり方に前者の相が淡く,空海の書に濃い ことである。空海の書には,和風の萌しがあると 言われると共に,唐風を持していたとも言われる

ところではなかろうか。

  & む す び

 「灌頂記」は,空海不用意に書かれた書である が,その中に「潭厚さ』を堅持し,「堅密さ』 r広 闊さ』を程良く表した名品である。 「風信帖』の それよりも単的な表現が多いので,空海の行き方 を究めてゆく絶好の作品である。これが,顔真卿 という先人の優れたあり方を伝承したことに大き な意義を感ずるものがある。

参考文献 最澄空海棠 書道全集 11巻 書跡名品叢刊 空海 書跡名品叢刊 顔真卿

筑摩書房 平凡社 二玄社 二玄社 A Study on K{三kai s Calligraphy

Tetsuo Suda

  As to K丘kai s㎞dw貞ting,a fair amount of dir㏄t and indir㏄t data has b㏄n handed down and pf㎝ed and is now available enough to trace the pr㏄ess of his calligraphy.And from old times lots of甘eatises have b㏄n published regarding K丘kai s calligロphy and the value of his calligraphic works.

  The purpo6es of this paper are(1)to examine the extaut ca皿igraphic works of Kikai,(2) to treat of the process of his calligmphy and the value of his works on reference to the critiques of all ages regarding廊  calligraphy, and (3)to s切dy the wide influence which his style of camgraphy has had down the ages.

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