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音楽教育と「学力観」 - 竹下英二 - fukushima-u.ac.jp - 福島大学

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音楽教育と「学力観」

竹  下 英

一一

1.はじめに

 音楽科の「学力観」を問うことは音楽の教科性 を綜合的に考察することを意味する。つまり,音 楽科は子どもの成長のために何をなしえるか.音 楽科はどのようにしたら学校教育の中で(に取翫)

込まれて)その主体性や独自性をもちうるのか,

を問うていくことである。更にその問いの中から 出てきた探究の結果をもとにしてこれまでの教科 性の概念の組みかえを行い,モデルを描き出し,

現代社会の「学力観」の践行性や問題点を指摘し,

音楽科の教科性を学校教育の中に位置づけしなお し再確立することが本論のねらいである。

 ここ数年,経済優先の反省として「人間尊重」

「豊かな人間性」「人間性の回復」といったことが 時代思潮の反映として教育理念を規定しているか のようである。とりわけ音楽科に期待されている 度合いは極めて大きい。しかし,そのためには従 来の音楽科の指導理念や価値観をひとまず反省し てみる必要がある。何故なら,そのことなしに教 育実践が今後も進められていくとしたらその重責

を担うことはとてもできないからである。

 本論では音楽科の教科性をその「学力観」に即 して問い直し,いわば「音楽教育の哲学」「発達的 音楽教育学」に係わる議論の本格的展開の仲間入

1)をしたいと考えているわげである。

2.音楽科の「学力観」とその背景

 「学力」ということばは「学力がある」 「学力 をつける」といったふうに使われる。この場合の

「学力」とは「学歴がある」「実力がある」「博学で ある」といった含意をもつ。しかも,伝統的な用 法では読み・書き・算に,あるいは国数社理英の トータルにその範囲は限定されている。(「音楽の学 力がある。」といった使い方はあまり一般的ではな い。)更に世間的には学校で培われる能力に限定し ないで私塾やプライベート・レッスン等多様な教 育の場での教育成果を含蓄していることもあるが,

「学力」を無限定に論ずることは論点を不鮮明に するので「学力は能カー般ではなく,学校という 特定の機関において,言語や記号の習得とそれを 媒介にした文化遺産の伝達二習得をとおして・,1章 図的・計画的に習得,形成される能力である。」と いう前提に立つことにしよう。

 さて,「学力」の価値に係わる表現として一般的 なのは「できがよい」「のみ込みが速い」「点数がよ い」といった言いまわしであろう。これらの中に は反応の速さ,気転の速さといった生得的資質を 基盤にした能力主義または実力主義meritocracy の思想がある。我々はこれをそのまま鵜呑みにす るわけにはいかない。何故なら全ての児童・生徒 の発達を保障するための教育は生得的資質によっ て左右されたり,差別されたりしてはならないか

らである。

 以上の考察から,「学力」とは,児童・生徒の生 得的資質を前提にした能力主義的学力観を基盤に

した用語として広く日本の教育に根付いていて,

しかも五教科(小学校は四教科。以下は五教科と 記す。)に限って用いられているということがわか る。この論点から必然的に出てくる問題は五教科 で培われる学校的能力または学習的能力が「学力」

であi),音楽科は「(技術的)能力」または「音楽 性」といった概念でくくられ「学力」の中にとり 込まれていないということである。佐藤三郎氏は

「学校教育においては,いつでも知的教育は優先 するので吃)り,あとの能力はそれに付随するもの

…………vと述べているが,これは在来の学校教 育における学力観を端的に言いあてている。音楽 科が(に限らず図工や美術,体育や保健体育,家 庭や技術・家庭の三教科も)世間の実力主義から,

そして学校体制の中での「学力」概念から二重に 切り離されているという実情の中に我々が考えてい

るよりも遙かに深刻な問題が孕んでいるといわざ るをえない。何故なら学校で意図的・計画的に培 われる能力を限定する,特殊日本的用語としての  「学力」をめぐって教育の諸相が教師や父母をは

(2)

16 福島大学教育学部論集第32号の3

じめあらゆる人々によって語られているにもかか わらず,音楽科には殊更学校的能力としてその全 体を言いくくる用語が存在せず,「能力」とか「音 楽性」とか本当のところ教科性としての全体性を 言いあてることのできない概念を操作しているか

らである。

 「学力」概念の中に音楽科の「能力」がとり込 まれていないということは次の三点で音楽科の教 科性に支障を来たすことになっている。

 その第一は授業上の支障である。授業の典型的 な展開方法(授業過程)として「導入→展開→終 結」という進め方があるが,これは本来「知的教 科」のために考案されたものであり,音楽科はこ れまでこのやり方を借用してきたわけであるが,

本当のところ音楽科の授業に相応しい方法である のかどうかこれまで本格的に議論されたことはあま

りなかった。生徒の内発性,自発性を大切にしなが らしかも音楽することの喜びを実感させながら「学 力」の内実にまで培うために「展開→終結→導入」

(村上芳夫氏の理論はその一つである。)といった 授業過程の可能性についてもっと議論されてよい

はずである。何故なら,教師がどんなに児童・生 徒に「うたえる」力を身につけさせても,児童・

生徒が「うたう」力を日々の生活の中で活かしな がら,分かちあいながら生き,「うたう」力を未来 の生活の中で発揮させていくとは限らないからで ある。教師が児童・生徒の「うたう」力を身につ けさせることなしにこのことは不可能である。そ のために授業は児童・生徒にとっていつも自発的

・内発的な場でなければならない。いつも教師待 ち,教師主導の音楽の授業から真に「うたう」力 は育つわけがない。音楽は強いられると味わいが なくなってしまう。うたいたい,うたわずにらち れない,うたおうという気持の発露が表現となっ て示されたときに充溢する。

 更に,授業形態にしても一斉授業が音楽科にと って本質的かどうかという疑問が出てくる。青空 が美しいわけではない。つらいけれど,希望をも って生きていこうという心をもった人間が青空を 見るから空の青さが美しいのである。青空を見て みんなで語り合う過程で青空が美しくなるのであ る。美のお手本などどこにも存在しない。美は価 値を共有し合ケために人と人とが手を汚し合う過 程(「美は機能的である。」)とその結果(「美は主        (3)観の客観化である。」)ということができる。教育

1980−12

にあっては特にこのことが重要な美学的前提とな る。児童・生徒二人で,あるいは班員の助け合い で,そして教える教師というよ1)も児童・生徒と 共に価値をつくり出すパートナーとしての教師と 児童・生徒との間で,それぞれ創り出される生き 生きした過程と瑞々しい結果の中でこそ音楽教育 の目的は達成できるという意味では一斉授業は本 質的というより付随的であるという考えも充分成

})立つわけである。児童・生徒同志の力学を軽視 する音楽教育,生徒の自由な可能性を許容できな い音楽教育は教師の自己満足の中に淀んでいる教 育であることをあらためて確認したいものである。

 さて,その第二は研究上の支障である。言語や 科学の世界は部分知や境界設定Demarkationを 積みあげていくことによセ)本質に至る道筋を進む

ことができる。従って,分析→綜合の指導手順

(子どもにとっては理解手順)は言語や科学では 合理的である。しかし,音楽の場合に分析的な理 解・把握や様式的な理解・把握をどんなにたくさ ん積みあげても音楽の全体的理解・把握,そして

「感動的体験」に至るとは限らない。音楽は全体

   かいこう

性との邂逅である。相貌の把握である。従って,

分析→綜合の指導手順だけでは「観える人にしか 観えない」という芸術能力観に基づいた教育の差 別的な態度から脱することはできない。「観えない 人に観えるように」諸科学や発達的教育学の応援 を得ながらすべての子どもの音楽的「学力」の培 いを保証するためには分析→綜合の指導手順はそ の一部を担うことができるので,もっと綜合その ものの指導のあり方(「感動体験」の全体性を音楽 とまるごと面識することにより把握させるために 音楽への生動的な係わり.鋭い本質的な洞察の方 法を直接的に教師ともども児童・生徒が探ってい

くような指導のあり方)や分析→綜合を橋渡しさ せるために「様式体験のはたらき」の理論つまり 音楽の究極的な美的価値へ至るために券析から一 足飛びに綜合に至るのではなく様式の中にある美 的価値を指導していくことも考えられるはずであ

 14〕る。 (民族様式や時代様式や個人様式等それ自体 にそれぞれ個有の美的価値があるので,それらに 心が深く動く児童・生徒を育てつつ,終極的な「感 動体験」を成就させる指導のあり方を工夫する。)

 直観性や感情を意図的・計画的に発達させるこ とはそんなに簡単なことではないが我々音楽科の 教師の任務の中心がここにあることを確認したい

(3)

ものである。その他研究上の隘路として,「探究学 習」や「発見学習」が学校体制の中で統一的な研 究テーマになっている場合,五教科に準拠させて 音楽科もとり組むわけだがそれへの対応には困難 が山積していて馴染みにくい。五教科の論理に合 わせ研究し,実践とのずれを感じつつ,研究リポ ートの制約をうけ教科の自律性がなかなか得られ ないという現況もある。発問のしかたや児童・生 徒のノートのとり方についてもこのことは妥当す

る。

 更に音楽科の教科性に支障を来たす第三の問題 は評価・評定上の係わることである。定期テスト

(中間テストや期末テスト等)に音楽科が含まれ ている学校が圧倒的に多い。このこと自体には格 別の問題があるわけではないが,評定にあたって ペーパーテストの比率が高すぎる学校が以外に多

く,その理由がペーパーテスト(定期テストの中 に実音テストも含めている学校も最近多くなりよ い傾向である。)をしなければ客観的データが不足 であるとか,父母への説得力がないとか,ペーパ ーテストにもられるような知識も必要であるとか,

といったことが多く,五教科の「学力観」への準 拠を意識的,無意識的に強いられている姿の反映

がみられる。しかし,児童・生徒の充実した音楽 経験の中で音楽的諸能力の獲得を目論んでいる音 楽科の評価は「形成的評価」をはじめ,音に即し

て音から離れない日常の評価の中にこそ本質的部 分が存在している。「観えない人にも観える」ため の発達的教育は語い的意味や構文的意味を教える

ことに終始するだけではなく,生きた文脈を実感 させるところへ児童・生徒を誘なう仕事でもある。

「こちらは雨ふりです。」という手紙の文章が読め て意味を解るだけでは目的を果していない。遠く 離れた土地での様子と送り主の心が実感できるこ とによってはじめてこの文章の目的は達し,充溢 するというものである。このようなレベルの内容

を把握する力はペーパーテストではとうてい評価 しようがない。しかも,音楽科の教育の生命はこ このところに存在している。

 高校入試の内申書の五教科重視は明らかに在来 の伝統的なカテゴリーに基づく「学力観」から出 てきている考え方である。

 我々が本当に育てたい力は「うたえる」力では なく,(勿論それをも含んだ)「うたう」力なのであ る。「うたう」力は教師が児童・生徒と価値を創り

出す過程の中で評価されていくものであろう。

 これまで音楽科が「学力」概念の中に取り込ま れていないということ、更にそのために教科性と しての音楽科は授業上,研究上,そして評価・評 定上でいろいろな支障を来たしていること,の二 点について指摘してきたが,更に第三の論点は,

音楽科の教科性としての特殊性の制約を受けて音 楽科の「学力」の望しい姿を探究する道は一層険 しいものとなっている,という点である。教科と しての特殊性として次の五点を掲げることができ

る。

 1)主観性からの規定

 どんな声がよいのか,どんな音のひびきがよい のか,どんな教材が秀れているのか,どんな作品 解釈の方法が望しいか,といったことは本来教師 個々の選択,教師個々の価値感に委ねられるべき

ことである。しかし,個々の児童・生徒の諸能力 を発達させ,子どもの集団の音楽的な質を高める ために教師全体の共有財産として「発達的教育学」

を、3、まえた典聖とそれを導きだす方法を探究する 必要がある(鋳型化するのではない)。ところが残 念なことにこれまでこのような論議が本格的に展 開されてきたとはいい難い。

 2)生得性からの規定

 声のよさ,器用さは児童・生徒の責任ではなく,

生得的資質に係わることである。従って,このこ とに振りまわされると児童・生徒の発達を保障す ることはできない。児童・生徒の実態把握や過去 の経験に依拠する教育から訣別する勇気,子ども はみんな可能態としては限りなく向上していくも のであるという信念,をもちたいものである。生 まれつきよい声ではないが熱心に努力してうたい 込んだ声には味わいがある。

 3)特殊技術性からの規定

 在来の日本の音楽教育には「はじめに技術あり き」の,思想が根強くあり理屈抜きにある程度技術 をマスターしないと音楽経験は成立しない,とい う考え方がある。「なぜ」という問いを抜きにして 階名を暗記するまで読ませたり,声を思い切り出 させることに注意を向けたり,楽器を自動的に奏 させたりすることに子どもたちを追い込んでいく。

(勿、論,専門教育としての場合は幼い子どもであ ろうと技術の練磨に専心させることは必要であろ う。)うたをうたったり,リズムを楽しんだりする 人間の営みはもともとは「なにを」という問いと

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18 福島大学教育学部1論集第32号の3

技術との一元的発露であることを忘れてはならな い。子どもたちの音楽体験は年令が少くなればな るほど彼らの遊びや生活と未分化であ1),彼らの 過去の経験とその時の内的・外的な刺激状況と音 楽との有機的な係わりの中で充実する。欲求や意 志が技術を要求するのであり,その逆ではない。

その証拠に子どもたちはどうしても満たしたいこ とに直面するとかなりの難題や障害を克服してし まう。気持が充溢していれば無理と思われる高音 も,むずかしい指使いもの1)越えてしまうもので

ある。

 4)伝達性からの規定

 音楽は教科にとり込まなくてもクラブ活動や学 級活動として,あるいはサークルや趣味としての 習い事として本来行われるべきだ,という考え方 が我が国に限らず諸外国にも根強く存在している。

これは学校教育体制の中にも存在していることは 否定できない。このような考え方は伝えあった1)

分かちあったりすることこそが音楽の特殊性(音 楽科の特殊性というよりも)であり,その質を高 めることが大切であ1),生活的形象の質を高める ことが大切であるという認識に欠けているところ がら生まれた偏見であり我々はこの点についてあ らゆる機会にもっと強調しなければならない。伝 えあったり,分かちあったりすることの質(口ず さみの質と同様に),いわば子どもたちの音楽文化 の質を高めていくことが音楽教育の最終目的であ るからである。「うたえる」力だけをと『)出して教 育するのではなく「うたう」力を育てる中で「う

たえる」力を育てていくことが肝心なのである。

 5)児童・生徒の音楽意識からの規定

 子どもたちは自分たちの音楽生活を守り,主張 し学校の音楽から離れていくという実状があるが,

それにもかかわらず彼らに迎合するわけにいかな い教科性の特色とに教師の教育に対する,そして 音楽に対する価値観が絶えず揺れ動いているとい うのが我々の率直な気持である。教えなければな らないことは児童・生徒が離れていこうとしても しっかり教えなければならないという断固たる姿 勢とその逆に音楽は心の充実や心の納得を抜きに

して考えることができないので子どもの生活にぴっ たり即して全面的に彼らを受け容れてみようという 気持とを融通性をもって保持しながら,子どもた ちの音楽体験が人間としての成長に資するように 発想の転換をはかりたいものである。

1980−12  以上,学校教育の中で意図的・計画的に発達さ せる能力としての音楽科の「学力」に関して考察

を進めていくために,まず教科性としての音楽科 の隘路を指摘すると同時に,特殊音楽科的教科性 の諸相を概観することにより問題の所在を明らか にすることに努めてきた。

3.音楽科の学カモデルの検討

 我々の議論の最終目的は前章で明らかになった 問題の所在をどのように解決していくかという点 にある。そのために在来の音楽教育における「能 力観」ないしは「音楽性」の問題点を把握し,そ れを反省材料にして音楽教育における学力モデル

を描き出す試みを行っていくことにする。

 更に日本の音楽教育はこれまで継起的にアメリ カの音楽教育から多大な恩義を受けているという 事実をふまえて,アメリカの児童・生徒の音楽教 育の理念とその具現化の中の問題点を考察し,そ

こから我が国の音楽科の学力モデルの検討にあた って留意しなければならないことがらについて示 唆,教訓を受けることにする。

 1)在来の我が国の音楽教育における「能力観」

ないしは「音楽性」の問題点   A)技術優先の価値観

 「うまじ・演奏には惜しみない拍手をしよう。」「上 手な演奏ができましたね。」これらは我々日本人が 演奏に係わって無意識にまず発する評価の表現で ある。無意識に出る表現には人々の生活に住みつ いている民族の思想が反映されている。「うまい」

「上手な」は音楽の技術的側面を賛えた形容詞で ある。この含意の中には〈しっかりした技術があ ってはじめて深い感動的表現ができるのだ〉〈子ど もは小さいおとなだ〉といった思想が根付いてい る。従って,我が国の技術中心主義の教育,お手 本主義やぬ})絵主義の音楽教育の克服が如何に困 難であるかが理解できる。また「A君はいつも笛 の練習を投げ出している。無器用なのだ。」こうい つた言いまわしは音楽教育の効果があがらないこ

とを生徒の生得的資質に転嫁してしまう卑怯なや り方である。無器用なのは子どものせいではない。

練習を投げ出すような教材を与えたり,授業方法 をとった1)している教師の愚かさかげんをこそ反 省すべきなのである。ここにも根深い在来の日本 人の技術主義的音楽観が反映している。

 B)いびつなコミュニケーション構造

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 在来の音楽教育においては人前でうたう(こと ができるほうが幸わせだ!)能力,他人に聞いて もらう(ことの結果,称賛されれば幸わせだ!)

能力を高めることに力を注ぎすぎてきたように思 われる.ひとりずつ授業でうたわせ悪いところを なおし,感想を言ってやり,ひとりずつテストで うたわせ,評価を伝えてやるという形態は極めて 一般的に行われている。この形態自体が,殊更問 題なのではないが,子どもは他人に聞かせなけれ ばならない,他人の視線を気にしなければならな いということに,いつも意識が引き寄せられてし まうのである。このようになると,音楽体験に喜 びを感じるどころか苦痛の種になってしまう。音 楽体験に喜びを感じないのであるから,子どもた ちは音楽嫌い(学校音楽嫌い)になるのは至極当 然の帰結なのである。我々は個々人を乖離させ,

孤立させることをしておきながら,仲間の心の伝 え合いをも強調するという矛盾を犯しているわけ で,この点に反省の目をしっか1)見据える必要が ある。 「聞かせる」ことよりも「音の中で自分が 生きる」ことができるための諸能力を培うことを 志向しつつ,それρ)の諸能力を,仲間の中で分か

ちあうことができる能力でもあるような学力構造 を検討していかなければならない。人前でうたう 能力を志向しているために,ひとりひとりが乖離

したような意識を子どもたちにもたせ,分かちあ うための前提として必要な「うたえる」力がいび つな形になっている。分かちあうことは楽しいこ とだから,その前提となる「うたえる」力を向上 させよう,そうすると「うたう」力が出てきて,

音楽体験が充溢する,というようなコミュニケー ションに対する考え方が定着していけば, 「聞か せる」ことに過度に意識が引き寄せられているよ

うな,特殊日本的な音楽「学力観」は消失してし まうにちがいない。

  C)我が国の芸道観と西洋音楽の価値観との    違和性

 教師が,教育的な意図の一面を指示したいとき

「ちゃんと弾きなさい!」とか「きちんとうたい なさい!」という言いまわしをすることが少くな い。これは,教師の抱いている規範かド)はみ出す ことを許さない,いわば「形」を押しつける教師 中心主義の「学力観」である。この場合「形」か らの逸脱は「破格」であり,論外なび)である。「形」

を極め尽す努力び)中で心(中味)を知り,淀みの

中に身を任せ趣とグ)邂逅を実感する,日本古来 からの芸道観や芸術観が根深く影響している.

教師や父母の口から「ちゃんと」「きちんとkきっ ちり)」とい一・た表現がほとんど無意識に出てくる のは,我々の音楽教育観が日本の民族的芸術観と 退引きならない間柄にあることを示している。困 ったことに,このことのお仕着せが音楽教育を生 気を失ったぬり絵的,お手本主義的なものにして いる。確かに音楽には「形」は必要である。しか し「形、が続として強く働き,子どもの自由な想 像力や,心の解放感を阻害することが問題なので

ある。

 また「綺麗な音楽」という言いまわしも行われ ている.この言葉の含意の中には淡彩的なもの,

可憐なもの,脆弱なもの,そして「形」かρ)逸脱 しない従順さとい一)たことが想起される. 「力の みなぎつたもの」といった含意とは対照的なニュ

アンスがあるように思われる。日本の歌唱教育の 歴史に流れている「学力観」には,描写的,表現 的(再現的)能力を志向してきた姿を読みとるこ

とができる。ストラビンスキーやカーノレ・オルフ の音楽を許容しない民族的意識が,日本人一般(若 い人は民族的意識を無自覚に捕えているのでこの 限りでないかもしれないが)に存在しているのは そのためである。

  D)自虐性を醸成する鍛練主義

 子どもたちは指名されたり,テストなどでうた う場合に,まちがうことを極度に気にして恥ず かしがる。教師はそれに対して練習不足を指摘す る。しかし,まちがうことの心の構造は,はたし て練習不足のみが原因かというと,決してそうで はない。まちがうということは,その子どもの頭 や心の構造(しくみ)が学習内容の理解に適応で きない状態のことである。従って,生理的,心理 的,発達的,環境的要因等が考えられる。練習不 足だけを指摘された子どもは, 「私のできない気 持なんかわかってたまるか」と開き直るしかな いのである.このような音楽教育は音楽嫌いの子 どもをつくらないわけがない。まちがうことは音 楽の本質的要件でないという前提に立ちつつ,ま ちがう子どもの頭や心の構造に即した科学的・発 達的音楽教育学が確立されなければならない。

 更に,暗譜の必要性を日本の音楽教育で強調す る傾向,つまり暗譜してうたわせたり,ひかせた

りする傾向は,まちがう子どもの頭や心の構造と

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20 福島大学教育学部論集第32号の3

同じように,子どもたちをして大変苦痛な状態に 押しやっていることに注目する必要がある。楽譜 を見ながら,同時に心の中にあることを表現でき る手だての開拓が行われて,はじめて不適応な子 どもは解放されるのである。例えば,楽譜を左手 のひらにのせて,ほんの少しだけ手前に傾けても たせる習慣をつけさせてみたらどうであろう。(将 にレストランのウェートレスが盆を持つかのよう に!)そうすると,第一に楽譜を読みながρ),い つも教師の指揮振りをも同時に見ることができる。

(暗譜をしないと指揮振りに注目できないのであ れば,新しい楽譜と出会ってかなり練習を経るま では,教師の意識と子どもの意識とは分離したま まである。)それだけではない。そうすると第二に 姿勢を正し,頭が下がらないから明るい解放的な 声が出る。そして第三に,何よりも右手が空いて いるので,筆記用具をもたせることができる。学 習したことを,楽譜にその都度書き込むと,継起 的な練習の過程の中で学習内容が定着していく。

忘れることはしようのないことであり,大切なの は課題に根気よく取り組むことであろう。以上の ような手だてを工夫すると,学校教育で暗譜は本 質的要件とならなくなるはずである。左手の手の ひらに楽譜をのせることにより,子どもの音楽的 諸能力を発揮させる契機がうまれてくる。逆のい い方をすると,発達的教育学の立場に立って問題 意識を掘り起していくと,具体的な手だてが自ず

と生まれてくるというものである。

 2)アメリカの音楽教育における「能力観」な   いしは「音楽性」の問題点

 教育学の分野では広く容認されていることであ るが,「学力」,つまり学校的能力,または学習的 能力という言葉に対応する適切な言葉は諸外国に はみあたらない。例えば,achievementという英語 を「学力」にあてはめる考え方があるが,「学力」

の全体性を適格に言いあてているとはいい難い。

従って,アメリカにおける「学力観」を問題にす る場合,「達成achievement」「音楽性musiα11ity」

「能力abllity」「適応性aptitude」「順応性adjust−

ment」といった用語を用いて論じている周辺を検 討することになる。しかも,本論ではアメリカの 音楽教育の理念とその具現化の姿を概観する二と

を意図するのぞはなく,それらを一応済せた上で 批判を加えていくという立場に立つことにする。

何故なら,我が国のアメリカの音楽教育に関す

1980−12 る研究は今日導入,紹介の段階から批判の段階に 来ていると判断されるからでもある。その際,ベ

ネット・レーマーの『音楽教育の哲学』(Bennett Reimer APhiIosophyof Music Education Pヒentice Hall,1970)に即して考察していくことにする。

  A)建前主義としての多様な価値の許容  アメリカは多民族国家である。多民族のそれぞ れの要求を受け容れ,そのバランスの中で調和が 保たれているという特徴は,文化や教育の面にも あてはまる。従って,自由に解放的に多様な価値 を取り込むことは羨ましい限りである.しかし,

その反面,多様な価値を取り込むことにより,形 式的な帳尻を合わせたり,建前が先行し,本音が なかなか出てこないという欠陥を包含していると いえる。 「よい音楽good music」の概念を気品の あるpoliteものから,様々な民族や文化集団の音楽 へ.クラシックからポピュラー音楽へ拡大し,広 い懐の中で人間の感情を豊かに発達させるように        ゆ

主張されている.この点では前述したように,我 が国の実状との間に大きな開きがあることは否定 できない。しかし,たとえ際限なく多様な価値を 措定してみたところで,それらがどのように綜合

されるか・音楽の「学力」としてどのように一元 化されるべきなのか,という問題の解決に関して は,アメリカの教育風土が厳しい困難を背負って いる点については既に触れた。むしろ,この点に ついては我が国のほうが遙かに容易であることは 無論のことである。児童・生徒の十全の発達と分 かちあう文化の充実のために真に多様な価値の音 楽が用意され,彼らの人間成長に資するような音 楽教育の実現こそ,我々の心から願うものである。

  B)伝達的位相を軽視した「音楽性」

 アメリカの音楽教育に関する理論書の中に,グ ループ学習を本格的に扱ったものは極めて少ない。

むしろ,グループ学習の必要性や実践成果に関し て述べたものは,我が国のほうが遙かに充溢して いる。器楽,声楽を問わず,アンサンブルを重要 視し,たくさんの楽譜を用意し,楽器を揃え,人 間的成長や社会性の育成をはかろうとする主張は いたるところにみうけられる。しかし,何故アン サンブルが重要であり,そのためにどのような方 法がとられ,どのような実践がうまれ,陸路とし てどんなことが残ったか,というような一元的で 包括的な研究はみあたr)ない。アンサンブルをや

りさえずれば, 「分かちあう音楽能力」がついて

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くるという機械論が存在しているといったr),過 言であろうか。本当の「分かちあう音楽能力」は

グループが何故必要で,どのようにグループを仕 組み,どんな手順で何をどのように経験させるか,

を科学的・発達的研究の成果をふまえて検討する ことなしには育たない. 「分かちあう音楽能力」

はこの点を前提にして,はじめて真価を発揮して くるのである。児童・生徒の内発性や自発性はア ンサンブノレの中かF)自然発生的に生まれてくるも のではなく,成員の活動を生徒同志の力学として

とらえ,教育的ストラテジーとしてどのように組 織しているか,という点が重要な要件なのである・

  C)技術優先の価値観

 行動心理学的美学や,情報理論を背景にするア メリカの音楽教育は,音楽活動の価値を二元論と して措定していて,それらを揚棄しているとはい い難い。メイヤーによると,音楽のよさgoodness は二つに分けられる.即ち,その第一は構文的,

構造的な洗練さであり,それをexcellenceとし,

その第二は意味論的な含意であり,それをgreat−

nessとしている。(前者は「確かさ」,後者は「豊 かさ」の訳語が適当であろう。)レーマーによると このgreatneSSこそが音楽教育の最終目標である

「人の豊かさhumanness」の培いに関わってくる        〔6〕

と指摘している。

 ところがまことに残念なことに,理念や理論と しては容認できても,アメリカの実践成果を眺め てみても(私の知る限りであるが)問題が残ると         ぼういわざるをえない。特に音楽評価の領域を検討し てみると,前者つまり腕前の確かさ,能力の卓越 さexcellenceに力点があてられ,どんな心が育っ たか,どんな人間感情がどのように掘り起こされ たか,といった点greatness,humannessについ ての納得できる成果があま1)みあたρ)ない。これ はexcellenceをgreatnessとの係わりで問題にしょ

うとする発想や,仮設をもたないこと,従って実 際の授業が二元論として進められ,評定が容易な 技術的確かさだけが重視されている,ということ

を物語っている。技術は単なる方法や手段ではな く,方法や手段を活かす考え方を含んでいるとい う点,いわば「やむにやまれぬ技術」という捕え 方をすることにより,真にexcellenceとgreatness は綜合され,充実するのではあるまいか。

  D)行動心理学美学に立脚した音楽教育の限    界

 美的経験を知覚perceptionと反応reactionの相 互関係として捕える行動心理学は,子どもの発達 に即した指導のストラテジーを組織するために有 効である。直観を教育する仕事は,行動心理学,

更に情報理論の偉力を発揮させることによっては        レ

じめて達成されるのかもしれない。その点では,

我々は今後も更にアメリカの音楽教育の成果から 学んでいかなければならない。

 しかし,ある刺激に対して共通の反応を示す部 分は,人間の生理的レベルと心理的レベノレの一部 に限られる。S−R理論の限界もそこにある。人 間が音楽を創り出すのであって,音楽対象に人 間が引き寄せρ)れているのは,一見,現象的に そう見えるに過ぎない。音楽をともに創り出す過 程での同感・反感・共感,拮抗・違和・乖離とい った心理的エネルギーの相互内実が結果として の美なり意味なりを産むわけで,この音楽体験の 複雑な心的構造はS−R関係ではとうてい律し得 ない認識行為であり,実践である。むしろSとR との葛藤の中で突然邂逅することのできる,超克 的契機であるからである。子どもの演奏能力の発 達を,知覚と反応の相互関係の発達として捉えて いくと,反射的・類型的・生理的な能力が高まる わけで,音楽の技術,とりわけ感覚諸器官の技巧 的な側面が著しく発達することになる。この考え 方の帰結は,やはり技術主義へ向う運命をもって いるといわざるをえない。大切なのは内発的・自 発的に子どもが音にたち向い,音楽的時間の中で 強く生きることである。人間が形象によって世界

を認識する行為は,自らの選択で自らの生き方を 決定していく,自立的で逞しい仕事である。

  E)シンボル理論に立脚した音楽教育の限界  レーマーによると,音楽教育は人間的感情を豊 かに発達させる感情教育である。ランガーの措定 する二つのシンボノレのうち,「現示的シンボルrep−

resentative symbol」の領域を担うのが音楽教育 である。それに対して五教科は,ランガーの「論        191

弁的シンボノレdiscursive symbol」の領域を担う。

これは言語や記号の習得に係わる,知的教育に係 わ1)をもつ。しかしここで我々が考えたいのは,

感情と理性との二元論を揚棄するためにどうした らよいかということである。この二つのシンボル 領域が,人間の全体性として取り込まれることな

く並行のままそれぞれ存在するとしたら,綜合 的な学校教育のねらいは達成されることはないだ

(8)

22 福島大学教育学部論集第32号σ)3

ろう。従って「理性の高みに相応しい感情」を音 楽科で,「感情の高みに相応しい理性」を五教科で ねらうと考えることが望ましいのではあるまいか。

シンボル理論の限界はこの点にあるが,これは何 も,アメリカの感情主義の音楽教育のみへの批判 ではなく,我が国の音楽教育の大きな問題点でも ある。二つのシンボルが揚棄されたところに,真 の「学力」の姿が浮かび上がってくるのかもしれ

ない。

 以上の考察は今後の学力モデルの検討に活かされ ていくが,いずれにしても我が国の在来の音楽教 育が如何にアメリカ音楽教育から恩義をうけてい るか,そして,実状の異なるアメリカの音楽教育 を鵜呑みにすることなく,批判的に吸収していく ことが如何に重要か,ということを示唆してくれ ていることはまちがいない。

 さて,これまで音楽科の学力モデルを探究するた めに,種々の観点から音楽科の特殊性や重要性,

そして問題点を考察してきたわけであるが,次に それらのことをふまえながら,音楽科の学力の姿 はどのようであれば望ましいのか描いていかなけ ればならない。

 3)音楽科の学力モデル   A)「うたえる」力

 音楽は,人間の心を感覚諸器官を用いて表明す る営みであるから,それらを自分の心の表明に相応 しいだけコントロールされていなければならない。

その点では音楽はまちがいなく「技術」の一種で ある。それではこの「技術」はどのような性格を もっていることが望ましいだろうか。

   i)練った力 うまれつきの声のよさやリ ズム感の優秀さよりも,努力によって生まれた声 や,心を込めて創った味わい,輝かしさはないか もしれないが,確かな個性が自覚的に表明されて

いる。

   ii)自己表現力 まちがったり,あがった り,人前を意識するのでなく,自分を思い切って 出すことができ,新しい表現(結果的に逸脱した

ものであろうと,なかろうと)に挑戦する勇気を もつことができる。

   iii)腕前の確かさ 自分の考えや心の中に あるものを表明するために,未熟な技術では叶わ ない。技術とはもともとは人間の感覚諸器官が未分 化になっているが,引き出し方によっては,目的 のために適切に働いてくれる可能性をもつ種子を

1980−12 合理的に,かつ意図的・計画的に開花させること

である。

   iv)心のすばらしさ 豊かな心,つま1)真 実を見抜く心と夢を描く心が,子どもの成長の根 底になくてはならない。どんなに音に鋭く反応す ることができても,その音の意味を問う仕事が行 われなければ,音楽体験は充実しない。リアリテ ィとロマンを音に即して認識する力が何よりも必 要である。

      しんたい

   v〉全身体的充実感 身体反応から身体表 現への経路には行動心理学的な欠陥が残る.その 反面,精神性や感動体験を目論むだけでは窮屈さ がっきまとう。音と人間との関わりは伸び伸びと して自由でありながら,緊張感に盗れた時間を造 り出す。身も、占も音に向いつつ,音を迎える簸遙 的実相は全身体的充実感なくして成就しない。

  B) 「うたう」力

 我々は「うたえる」力が秀れているからといっ て,必ずしも「うたう」力も秀れているとは限β)な い。「うたう」力が横溢でも,「うたえる」力が未発 達であったり,その逆に「うたえる」力が秀れて いても,「うたう」力で自らの生活を豊かにしない 場合もある。従って「うたう」カを育てることな

しに音楽科の存立要件を語ることはできない。

   i)内発的・主体的な力

 音で心の時間を創り出すことはすばρ)しいこと である。その時間が充実していれば尚更のことで ある。この点を自覚しはじめると,心から湧きあ がってくるメッセージを何とか表明したい,どう にかして表明したいと思うようになる。

 また,教師や仲間から強いられるのではなく,

自らが主人公であるという自覚がうまれてくる。

この「内発的・主体的なカ」が成長すればするほ ど音楽なしでは生きられないという度合が大きく なり,音楽生活が豊かになる。

   ii)選択力

 これは音楽の質を識別する力ではなく,音楽生 活を豊かにし,未来にまで持続発展させていくた めに自らがどんな自秀あ音楽を選択していくか,

という側面である。流行や環境に迎合するのでも なく,教育に強いられるのでもなく,音に即して 自r)の考えを選択していく力が育たなくては「う たえる」カは無駄になってしまう恐れがある。

   hi)分かちあう力

 重唱や合唱,重奏や合奏に関わっていれば必然

(9)

的に音楽を分かちあい,価値を共有しあうことが できると考えるのは安易すぎる。他人の音に耳を 傾けながら自らの音の創造に集中する,そしてそ れr)を心の中で協和させるアンサンブルの営みは 人恋いしさと厳しさがなくては充実しない。合わ せれば合わせるほど難しい,という実感を継起的 に味わうことによって「うたう」力が確かなもの になる。音のハーモニーが心のハーモニーに高ま るためには,分かちあうカの成長が前提となるだ

ろう。

  (これまで「うたう」カ,「うたえる」力としてだ  け述べているのに対して,器楽,鑑賞,創作につい  ては触れていない。その理由は,上のどの領域も《心  の中でうたう》営みには変1)はないからであろう。

 「うたう」とか「ひく」とか「きく」とか「つくる」

 ということは,《心の中でうたう》営みの現象形態が  異なるだけである。要は心の中に自分あろたを育て  ることが肝要なのである。((心の中でうたう》営みが  充実すれば,現時点でのその現象形態としての歌唱,

 器楽,鑑賞,創作能力に甘んじることな冬,更に努  力するだろうし,それぞれの能力が高まれば,それ  以上の表現の可能性へ挑戦していくであろう・私の  論じている「うたう」力,「うたえる」力はいずれも  現象形態としての力ではなく,その根源となってい  る本質的な力の中味に関わっている。因みに「きく」

 ことがどうして「うたう」ことなのか,という反論  が出てくるだろうが,鑑賞は単なる受容ではなく批  判的受容であり,音に思いを寄せながら音を迎える  営みであるか「),主体的な働きかけがあるわけで,

 やってくる音を受けとめ,それを心の中でうたうこ  とが前提になる。心の中でうたっているから,やつ  てくる音が我ものになるのである。)

  「うたえる」カは《心の中でうたう》営みを歌 唱,器楽,鑑賞,創作の諸領域で具現する力であ

る。《心の中でうたう》営みがよくできていると

「うたえる」カとの間に分裂が起らない。「うたう」

力は「うたえる」カのあるなしにかかわらずに必 要な側面と「うたえる」力によって規定される側 面とがある。前者は「内発的・主体的な力」 r選 択力」「分かちあうカ」であり,後者は自分の考え や気持を充分表現できないで困ってしまう場合で ある。「うたう」カと「うたえる」力とは《心の中 でうたう》営みが充実している場合は相互に流れ 合うし,その逆の場合は乖離してしまう。

 以上の二とをまとめると,音楽科の学力の真の

あり方を模索する場一合,「うたえる」力を確かな五 のに育てながら いつも「うたう」力を充実させ る,ことが念頭になければならない,ということ

になる。

音楽科の学力モデル

音楽生活 内発的・主体的な力

分かちあう力

︵共有能力︶つたう﹂力

曙子 涜■

3

歌 唱 練  っ  た  力

自 己 表 現 力

腕前グ)確かさ

心のすばらしさ 全身体的充実感

鑑 賞

︵形象能力︶

つたえる﹂力

 技能があっても楽しめない子ども,音楽は好き だがうたえない子ども,が楽しみながら技能の必 要性を自覚していくためには,「うたえる」カと「う たう」カとが一元化される必要がある。真の「技 能」は知識も態度も含んでいる。真の「知識」は 技能も態度も含んでいる.そして,真の「態度」

は知識も技能も含んでいる.「うたえる」力とは,

どんなうたを何故,どのようにしてうたうかとい う恵じ・を包含亡た包括的・綜合的能力である.従 って音楽を通して成長するのは,人間の主観的,

情的側面だけではなく,「理性の高みに相応しい感 情」であるということができる。

 また「うたえる」カは,「うたう」力によ一)では じめて充実する。個人の音楽的諸能力は限りなく 広く,深く発達するであろう。((伯由》)しかし,

音楽の個人の「うたえる」力は全体の中でしか活 かすことができない。(《自己規制》)分かち合うこ となしに個人の真の充実は果されない。「うたえる」

力は「うたう」力を前提にしてはじめて輝きをみ せる。このような「うたえる」力と「うたう」カ との相互関係,自由と自己規制とグ)綜合化が我々 の最終的な音楽教育の目的となれば,責あ圭休権

(10)

24 福島大学教育学部論集第32号の3 1980−12 ほ音桑科にまろそとそ実現き軋る,という結論を

引き出すことができる。さて,我々は子どもの現 時点での主観を燃えたぎらせ,同時に未来の音楽 生活が豊かになる音楽教育を志向してきた。その ために現実の子どもの音楽生活を全面的に受けと め,その中のどの点の質的向上を担うことができ るか,を判断していく作業をする必要があろう。

つまり,それは「うたう」力なのか,「うたえる」

力なのか,それともその双方なのか,を検討し,

子どもにとって必要な音楽(《音楽の生活的形象》)

の質を高めていく仕事を担い切るために奮闘しな ければならない。

 音楽科の学力とは,

 音の形象能力(分節化・総合化)と,形象の共 有能力とが一元化されたカ,である。

4.おわりに

 音楽科の学力モデルを描く試みを通して,音楽 科の重要性や責任の重さを痛感しないわけにはい かない。「音楽教育の哲学」の展開に関わって,哲 学・美学,そして教育学的価値論の探求, 「発達 的音楽教育学」の確立に関わって,教育の科学化 の探求が,今後ますます必要になって《るであろ

う。そのことによって「うたう」力と,「うたえる」

力の結びつきがより一層強められ,音楽科の重要 性がより確実なものになるにちがいない。

(1)木下繁彌『教育学大事典1』の「学力」の項,

 314〜318頁,第一法規

{2)佐藤三郎「さまざまな能力観一その思想と背  景一」『教育展望11』(昭和49年11月1日発行)

(3〕竹下英二「音楽教育の理念に関する考察一「発  達的音楽教育学」序論一」福島大学教育学部教育  研究所所報第42号(1979年11月20日発行)第1,

 2章。

(4)竹下英二「様式体験のはたらき」 (1974年6月  23日)音楽学会東北支部大会口頭発表レジュメ

(51Bennett Reimer,A Philoso凶y of Music  Education,1970,Prentice Ha1},p.40.

(6) ibid,p.104,

〔7)ibid,p.56. レーマーは「教育の主要な役目は,

 人々の人間や世界についての意味を分かちあう能  力を発達させることである。」といっている。

(8) ibid,p.p.72〜88.

(9)Susanne K Langer,Philosophy in a New Key,

 1942,Harvard University Press,p.p.79〜102(岩  波現代叢書『シンボルの哲学』矢野萬里他訳,96〜125頁)

A CRITICISM OF MUSIC EDUCATION

Conceming the desired development of children s     abilities and aptitudes through music

Eiji TAKEsHITA

 The present paper d三scusses some characteristics of music education done in schools,primary or secondary,and ploblems coming out of it.Ploblems of the paper seem to stem out of the way of placing music as something which must be taught as an academic subject like other curricular works. Pupils can not be expected to develop such abilities as you can evaluate on those streo−

typed criteria employed for the other school subjects.

 Hence come the questions二What is music educatlon?What do you expect the pupils to develop through itP Why do you give music education to themP

 These questions naturally lead to a philosophy of music education ,slmply,the nature of music education.Taking this into consideration,I propose establishing what I could call Developemental Music Education

      (1980年9月10日  受理)

Referensi

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