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宇多郡玉野とその北東部における争論の

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安蟹粥雄1宇多轟星野とそ6)愛東認1こおける争論分経史地還酌考察一住戸時代の場合一

宇多郡玉野とその北東部における争論の 歴史地理的考察  一江戸時代の場合一

安 醗 初 雄*

まえがき

 宇多謬玉野は当今の羅馬毒玉野であるが,瞬治 窃年ダ)争論もこの宇多灘玉野の蜜野をめぐって発 産した。その遠露は注春蒔銭轡難の玉野の争論に 麟する幕瞬評定霧の裁許駿が,その主題を欠く写 本のみが残された為に,この裁許状の本文の表現 が若干曖蘇1になり,誤解され兼ねない文章1になっ ている事が,機したかと思われる。その件に就い ては,霧稿「隣治時代の場合」で詳還する。

 玉野の北葉藩はいわゆる中居塚論滋(又は中駿 塚鐵譲辮〉であるが,ここの麟台と穏馬爾藩腿の 争1論では立合絵麟を作成しなかった事もあ尊,そ の論辮の籔霧が,必ずしも嘆確ではない。しかし 当時議題にのぼったのは,龍は筆薦の耀平綴筋

(宇多鱗上流〉から誌東方は素食麟こ及び,授ケ 房・萩平など入霞上の宇多購籏を食み,主とし て宇多罐ヒ流と棄薮響及びその東方玉野繕靴鐸と ξ)闘寿こ鉱がる露地である。

 機織大学1こ絶する補正 筆者は髭に篠島史学欝 突舞で,慶長3年(嬉繋〉,この薫野に本葉野が 灘かれた事を紹介したが,その縫設の推進者であ る機馨大学に就いて,「石鐡大学か」としたのは 妥当でなかった。この事はその稿三稜後霧もなく 気骨いたが,遅れをとった。これは本玉野嬲殺が 慶長3年である事を立証する重要な件なので,こ

こで謹んで次の麺く訂蓋し,若干補足する。

 横欝大学は会津茜蕊大沼鄭金青谷の穫蟹城主出 海象勝の弟(新編会津織上記経巻〉で,慶長3年 圭:杉氏1こ再{土富した究方案の一人である。(三公

*本学弛教官 福島毒桜木簿難一i8

外史慶長3年の項〉。天正欝年,欝遠敷寒に霞め られた怨念を持つので,慶長3年梁辮裁代とされ た須灘大炊選賛こ醗1羅され,簗鱗籔本実譲乞方の=1ノ 曳の一角に,羅敷を与えられていた。そこが後に

ヨじ メすくたて      くる わ

美学舘あるいは大学麟輪を称されたから,余程上 級の身分であったかと思われる。。鉦杉氏の須雛等 梁/ll妓への醗麗は,撰達致宗の違憲1こ繕えたもの

とみられている。慶長5年致宗来寇の新1こは.こ こで髭方衆の穫懸大学の磐,隅む売方衆の車丹波 等が奮戦している。

 この横難大学が玉野の欝1設を推進したの1ま,梁 撰の難役衆の堀注与置石擬思の建策を入れてのこ

とであろう。会漆欝身の巌覆大学が.梁糊こきた ばかりで,啓達部の東講方の辺疆の地蓬に精通し ていたとは考え難いからである。鱈達爾蔀案内詫

(福島甫史7〉でも,堀窪与互石礫門の手元に

 マ ア「宇馨蔀董聾縁之醗発一件書替所持致躾事」と記 されている。但しその一群護付は今は残されてい ない。こうして横懸大学が玉野の絹設を推進する のは,いくら早くでも慶長3年より麟である筈轍 あ琴得ない。また横織ま慶長6年には簗鱗を去る からそれ鍛縫でもない。それで蕉藻2年(懇総〉

ε月の董野村土佐等の譲境層安(霊由町史2〉の

記事が示す熱く,承玉聾の雛設は,慶喪3年

(蔦燧〉であることは疑いを入殺る余地はない。

 そうきはんダいき      びまうセつ

 蓼格馬藩轡綻毒の玉野露設に関する謬説 梅馬 青立慰書館藏のζ趨馬藩黌紀茎の承徳2年の条で        たなは,r芙鉦懇年糧馬蝉亜大弼盛綴代,家老承谷欝 予,上杉景勝ノ老運爵姦麟妓ト米沢鑛ノ者二勝ヲ 倦繧儀,撚薄ノ上,玉野二差置」云々として,本 玉響の開設を天正尊卑(欝欝〉とした。それを鵜 呑みにした史家もあるが/2/,誤解である。これは

(2)

2 福島大学教官学藩論集第縣葺

承癒2年5月,山上軽ノ内蓋野町喜姓灘轄等が差 し饑した薩安の推簸不充分の文言に依擁して,更 にその誤解を増纒した記事である。露ちこの目安

      よした      もめたね

では葬大膳亮義機」とすべき燐を「盛椴」と誤っ た(歪保3年亘蕎の羅繕等の狡論状も講様に誤る〉

のをその儀継承し,縁故か夭死嘆年としてしまっ た。盛織に就いての年代は諒としても,災琵蓬年 では米沢は撃連舞宗が誠主となって2年昌,政宗 は豪だ灘才で,その政宗が2§才(天正薄葬)の縛,

岩鐵露1こ移る拳,その後の米沢誠に蒲生懸郎兵籍 が入城.慶長3年,慶涯露城守がそれに代わり,

本玉野麗設となる。それ鹸玉野鞍の雛設は,この 落盤紀の「承癒二年迄五十六年以蕪ナ青月の記事 通む,承慈2年から5§年蔚の慶長3年の事である。

承癒2年5選の玉野警告姓の欝安でも「五十六年 以蒲」とある。また藍保3年簸馨の反譲状でも霧璽 十九年以薪より玉野に発候事」とある故,これも 玉野醗の麗発を慶長3年としている。これらの羅 記が樗故か無視された。然し鑑保承癒頃牽沢籟・

揺馬頭双方の人々が玉野の麗設を慶長3年と認め ているのであるから,さきの穫欝大学の件と餅巷 考えて,慶長3年本玉野朧設は,異論を差し挟む 余地はない。

 窪§鑑遷の玉野耕 米沢講堂霞書館本罫盤鑑磨

  マ  マ

に,欝達部玉野韓が記載されているが,こ擁は玉 野耕を識した最古の文醸であろう。このζ愚鑑盤 が慶長6年上彰氏が米沢鎗万石に欝録の薩後に,

纒集されたとみられる故である。かくて遜書中萱 野樗以外の村々は,天憂欝年の太麟綾地の高と天 正2癖年秀吉の人掃令に依る家数人数敬の繕果とを 示すのに,玉野輔は当時の資料がないため,慶長 5,6年覆の家数騰鮮,人数82人を記載したので あろう⑪又寛文延宝の麟領検地でも轟を請けな1い から,羅濫鑑薯には無高と示され,その家数紅は 役羅及び肝入小走も配されていない。天正騰年

(篶麗〉の家数人数改で蔑定された後量に穏当す る屋数を,慶長携年の玉野村では算定する事が墨 来なかったのであろう(擦著ゼ天蕉の太題検地・

人掃と韓鑑雲参難〉。又正課覇の玉野は,玉野町 一幣のみで,一人の検簸が置かれた枝郷である故,

露盤年玉2還

駐入小産その飽の村役は,『琶鑑幽の記事購様,

玉野軽内には存在しなかった筈である。それで正 保グ罵安では大石・石懇等親越の群蕪等が,玉野 の験漸土佐の庵に名を連ねたのであろう。土佐iを 肝蕪とした懸寵も為るが,それは誤記である。こ うして蓼愚鑑爆1こは慶長§年新玉聾に移る以麟の 塞玉野の量数人数等を示しているに違いない。

1.樒馬・仙台爾藩鼻の中居塚論山に就いて

 元徳§年(絡緯〉,中居塚i論晦をめぐって,穰 馬・麟台溝藩の鷺に由i論が発生した。その件につ いてゼ種馬藩御経済酪蓋慧では,元趣5年の条で r醗年よ吟麟台中震塚譲滋」とのみ記載し,覇書 寛永8年(欝誤)の条ではヂ繍台ト穰馬擁護済,

御勝篇雲婁響蒙嚢攣婁」と遽べている。完の「紬台 中居塚論痩葺ま,ε種馬ト纏台中居塚論出」か,

あるいは「穣台ト甲羅塚論経鼻であろう。「麟台 中震塚雌で1ま鱗台鑛の甲羅塚とも解され,中居塚 戯が無台領であれぼア穣馬藩でとやこう卒すべき 鰯合い毒まな1い故である。元稀§年1こは中居塚}餐か ら,輪台裁下広瀬辮の大橋を架けるため,盤台方 で舞重税を伐卑)濃したので公事が起ったという。

 穏罵藩灘からの提訴 槻馬綴では多分毒上種か ら,筆甫樗を構手に,この件を幕府評定漸に提訴 したとみられる。その時§安i裏書はどのように鍛 われたか建かでないが,評定翫ではすぐこの論出 への双方からの欝入りを差留めたのであろう。と いうのは死都7年4,雛頒,穰馬藩の稗馬・堀蟹

㌧裳等が,麟台藩の看毒畷等に宛てた書状に,

「中震塚幾鍬入之儀三残年以麟(中略〉彼由来藩

じぎタ     つ ゆ ロ か  さ ご さ の

居之問双方ず緩薦人聞敷」と定められていたの に,その禁をおかす無台領の考があるのは魏醗様 な分鍵かと羨議を串入れているからである(石舞 霞家文書,岩庫氏譲文,穏馬籍土轡。この「三 鰻年以毒灘というのは,元i穣五年漿紅当るのでな かろうか啓筆甫栂の産子半兵籍の鼠毒境論書塞で,

この提講に就いて「穏馬之古人之者トモ輝老中様 工締時罷縷率無識 存不幸緩事」と記載している。

然るに貞出公治家詳録の寛永8年(鯵3麟5月欝

8ξ)条で,r元瀦六年還り事起弓,厨七年二大膳

(3)

安蟹霧雄:宰多藻薫野とその詫棄蔀における争講」)纏愛地煙的考察…住戸時代の場合… 3

亮殿ヨリ公儀へ訴訟二及バレ」としているが,そ

うではないであろう。元灘§年では寛永8年迄

野公事十三年には達しな㌧・。また禿覇)石鬱鬱家文 書の野三醤年以前]とも整余しない故である。

 中懇塚講出は俺鑓か 穰馬と絵合との誌出甲羅 塚霧の隣在位置は,当鋳立会絵鑓を作成しなかっ た事もあり,毘確にその範霞を示すことは,今醤 園難である。然し大約の泣護は,諸般の事矯を幾 案ずると,推定する事ができる(灘i/.宇多謬 出走麺字中震塚は,瞬治擁年の地覆敢正の字であ るから,そのまま近鍵に充当することは不適当で あろう。輿梅忠では車懸塚の記事を欠くので薄髭 が不能である。近毯の筆甫縁の中居塚1こついては 磐誠藪緩緩(福島察立麟書館蔵〉にナヘウッ(鍋 宇津)・タチラ欝ウ霞・中居塚・瞬ノ由(野老露/

・テラクラ(寺倉/由・ニツ塚等,棄から藪方へ 類に註記してある(騒2〉。この絵嚢醸ま瞬治元年 磐織・岩代溝羅が麟設された直後に,縫幕織の手 元にあった元撮國絵緩或いは天綴國総懸を基にし て,作成された筈の絵國である故,近量の様子を 示すに違いない。但し宇多穰玉野は彩由上梅枝轡」

とのみ傍注され,「石羅韓綾羅」は脱落し,また 宇多蠣支藏の筈の擾ノ瑳辮の注記は位置が若干ず れ,本流の注記となっている。この穣ノ勢辮は鍋 宇津・聾老蕎舞の匙灘から発離して龍流し,本流 に松ノ擁擁付近で合流する(構馬藩麩紀〉,宇多 騰(繕事耀,緯手洗舶の支流である。中居塚田 はこの流駿…体を含む毒の総称で誹ろう。継し産 子の薔灘箋i論書湛では,「小鞍わかれとそね」付 透の出褒の岩が中居塚だと解讃しているから,棄 玉野と毒上¢)壕替透の露獲に塚状の岩があるので あろう。中震塚の呼穂の起源はそうであろうが,

中震塚論毒の中屡塚雄もっと菰い区蟻をさしてい る。罫山籠講書塞ではr穰馬ト筆甫之嬢擁,江戸 にて糧済,中居塚分,篠領分二罷威勢申躾」とあ       ヨ  ゆるが,これは勿論ヂ中居塚辛労,御領分二罷浅」

であろう。また完の講書紅簿奉行:島譲弾蓬潜葬禧 馬工水落次第二種、薦分ト緩擁躾得業,屋敷モ有,

        中震塚之外ハ筆甫分。中居塚斗ハ我等中作種族閣,

楽分二緩成験得」と奨めたとあるが,(宇多燐瀧 灘は〉r筆甫方の量敷もあるからそれ鉱筆甫分で ある」との意で,中居塚だけは,奉行方で仲裁す

蕪㎜.

懸談繊   すま

翻輩 中綬塚論毒

(4)

福島大字数蒼学藻論集第懸暑 至9露年玉2還

るから半分に分けてはどうかと云っている。この 中艦塚も宇多欝以南の礁地を指すのであろう。

 この事に関し瞬嚢馬藩鬘髭選では,「甲羅塚ノ

 マヨず由当分二縄ヲ引取分ケ」とするが,「当分二」は ε等分二」であろうむ匿藩毯総籬のこの詫事は有矯 なので,次号こ掲載する。

 史料輩 謬種馬落選綻墓寛永八奪辛乗め条  …,騒海量三嚢,麟台種馬甲羅塚論出御勝灘。

 元瀦五年,紬台誠下大機ノ普請二,中震塚ノ出  ニテ鬢水伐採之,大膳亮舞綴ノ御代,是3り公  事起。戯年迄十三ケ年癬講,熊辮左鶴穆・石鱗       ヨゑヨ  十太夫撰受之御訟ト成。瀬井雅楽額殿家頬達文  左籍闘,±井大炊頭殿3弓畢韻弥五左籍跨,麟  井讃鼓守頭澱ヨリ出癖藤左衛鷺,永井繕濃守殿  ヨリ撥鏤五郎古徳鍔,右照人為猿鍵下意,中農  塚ノ由当分二縄ヲ桝取分ケ,茜東ノ堺ハ石窪蓑  り訟ノ紡纈ノハタ迄,藪ハ穣台鎖,東ハ趨馬領  ト極之,蕊ハ御手洗灘,購ハ玉野撰ヲ本二綴ヲ          引,間数半分宛,蔵ハ懸金額,霧ハ槍馬ト分  ケ,馨掘立,継台3琴大郷豊後・鑑々若狭,

 (糖馬譲り/能鰭霧箱門・石鱗牽太夫立合,堺       ママ

 塚ヲ築,境ヲ極メ,従米沢モ右綴善兵衛・発知 筆石翻咄合,穣馬領二種済。

 本文中「甲羅塚ノ窪{嘉分三縄ヲ鱗」云々は,諌:

に織る「龍パ御手洗鱗,南ハ玉野耀ヲ本二縄ヲ引,

間数半分宛,北ハ鶴台領,爾ハ樗馬」に分けた境 で,これは庄子の謬礁箋i論霧雲で,爵の箋という の1こi当る。外1こ載の箋ぶあるが,それはこの書中 のr石窪ヨリ掻ノ紡鱗ノハタ連,嚢ハ穣台頷,葉

       まつがばう     はぎ

ハ籟馬籟」と分けた境で,由上の松ケ霧から萩 平経塗,玉響環の落合難近に至る道筋が箋であ る。この駕の箋を分けたのは,梅馬方で構馬へ承 落次第が,構馬頷と主張したので立てた箋である。

然らば鉦の宇多購(御手洗脚以鷺の「中農塚鶴」

ばかりでなく,この繰の龍綴も論幾であった事は,

疑いない。それ故,贋義の中罎塚i論賦1は,馨iの アミカケξ)翻分金鐵であった事になるだう。手倉 出の山頂も麟台・梅馬双方で,懲籏と主張してい る事は,謬灘箋i論書遷の鑓事選琴であろう。

 史料iの藩轡:紀のr縫来沢も古癖善兵衛(中略)

湧脅劉翻薄絹鶉

﹃≧.謹騰♂ゐ渥ッ︑

〜.〜 擦悩㌧◇海鼠一聡︑・

!玉︑糠ノ〆曳︑愛﹃ 臨△藩︑縛ノ毒乙蓼.嵩 讐浄甑識晦

麟2 磐城國絵麟の中居塚近傷

(5)

安饗勝雄1宇多翻張野とその載葉{難こお捗る争議の歴史地連麟考察一江戸鋳銭の場合一 5

鐵合」云々の記事は,誤解されかねない。これは 句誌「立合」ではなく,それと籔駕して響患合」

としたのであろうか,この鋳古海善兵衛が膿合っ たの1ま,膿逢えた尋人の{吏老と,穰馬藩の譲藤姦 衛門であろう。中には古溝等が箋を分けるのに立 会ったと誤解した人もあるので,念の為書き添え ておくが,古溝等がこの尋人の1糞巻を表敬する為,

購平まで鐵邊1えた事は,ζ嶽箋講書薩にも記載さ れている。鬱し音溝等米沢藩の士分の妻が,中居 嫁譏患の境分けに立合った事実はない。

    ちサうさく

 公儀の籌策による幽境輯立 幕府の評定瞬は 寛永5年から吟味を餓めたが,各寄合毎に纏台方,

掘馬方甥々に吟殊をやり,翼方が濁決する機会は 一度もなかった麟くである、それ数庄子が「穰馬 之古人之者トモ御老中様工弼時罷患躾哉婆云々と 記しているのも,構馬方富饒への吟殊を侮繕やっ たか不霧ということかも知れない。鵠織して寄合 に墨廃した産子らも,その喜念を主張する機会す らなかった難くである。こうして評定齎では1群く から籌策を意爵していた熱くである島産出箋講書選

      ちゅうさく

ではそれを紅中作」と表記しているが,警策で ある。この訴訟の経遜について,蓼定晦公治家記 録垂の記事が要を得ているので,次に掲証する。

 史料2 匿治家記録曇寛永八隼五無手五羅之篠  十五馨戊子.江戸二於テ織台網馬出箋公事之義。

 今度趨済之,絵懸芽二書物御本丸へ籏橋侍従忠  僅朝窪持参セラルト云云。当家ト構馬大膳亮殿       ママ

 領分毒箋御講勝。蜜ル元報六年ヨリ事起1フ,瞬  七年二大繕亮殿馨り公儀へ誘訟二及ハレ,寛永

     る  ぐ  サ  ゆ  の  む  ヰ

 五年蕪琴御畷方へ御穿鑿ア1九其後度々御老串  葺婆,御擾ヒヲ以テ被穰済タキ誘.融々擁セラ  ルトイヘトモ,公承引シ玉ハス。然ルニ査冬二  至テ,緯撮と二任セラルヘキノ實稗ラル。島灘  弾正忠殿葺り盤i々若狭,馬場鐵雲霧ニテ,緯境  ヲ立ッル様ニトノ義郷灘ラル。今年二至テ,獲

  な   

 橋侍従殿ノ家来辻文左籍門。麁食侍従霧勝朝臣  炊頭ノ家来畢鱗弥五左籍閥,漂菩讃鼓守殿ノ家  来由辮藤左徳鷺,永井鱈濃守殿ノ家来後出五郎  有徳門,内藤外記殿ノ家来替井久兵徳,土屋渓  趨少輔殿忠墓ノ家来高井権兵衛ヲ住戸望タ差下

 サル。構馬殿…碁タ熊鱗左衛稗・石購十太夫・瞬  鐵八太夫ヲ棲欝サレ,公議夕鶴々若狭発綱・大  瞬豊後重吉・上墨権左衛鴛元永ヲ差鐵サル。各  立合二,郷講霧鍋宇津霞へ箋塚ヲ築キ,種馬鎮  宇多獺出禅村・玉響繕ト,蚤家ノ御領撰具藻筆  講韓ノ境§落着ス暴轟誉六葉羨。(申幣〉今論湧  鍋宇津出ノ箋塚ヲ見ルニ,後出÷秀一許縫縮馬  籏二属し,其外ハ当家ノ御領ナリト云フ。

 上寵の文中「御老中ヨリ御擾ヒ以テ」とあるの は,r老中方の籌策(仲裁)に綻って」である。

また御論辮鍋宇津憲と記載しているが,岡O治家 誕録の元瀦7年の条では「当家ノ御領攣具轟筆講 栂中弄塚蜜ノ肉鍋宇津ト鋲フ勝ナ弓」とあるから,

餓合方でこの論所を鍋宇津幽と定めていた訳では なく,r筆甫毒公事」とも呼んで,一定の辱称はな かったとみられる。次に「後出十分一許り椿馬頭」

云々とあるのは,この中綬塚論幾の分1水葬以載の 事を考憲に入れて,宇多鱗鰯迄の区践をとりおげ,

分水罪以薩の撫馬頷が,この斜藤の上議†分の一 だというのであろう。それではこの成果を誇張す るだ垂ナで,老中の簿策に依り江戸で申し会わせた

「南龍は灘舞二一・…間数半分宛,北は鱗台領,南 は横薙」と中震塚田を分け様とした事の趣讐とは,

全く纏わりの無聾・事になってしまうだろう。

 辻以下達人の老中濠遺の綾巻は,一議の総記で 験髄とするが,論療の実混見分に瀕遺されたので はない。綾老の一人が言っている熱くヂ勃を饑き 裁きに下ったのではない」のであって,專ら箋を 立てる為に来訪したのである。この江戸から灘遣 された人々の内,替井久兵籍以下は使者で1まなく,

蓼蜜箋i論書雲によると案内人で,然も高井某の替 りに島懸弾正忠の家来姓不詳三罎鄭をあげている。

かくて3月欝欝から蜜箋を立てる準簿として,羅 の鳥量ケはな醗近から震紅入り,稜線づたいに 藁はな迄,護人の使者の霞案内をしたのが,構 馬方では蕊籔の網馬鑛醤姓三之塞外2人と,織合 方は筆甫の圧子半兵衛であったが,玉野の人達は 新規の外来老で,講の名もよく縁簿らなかったと いう。又この時の優者の宿鷲は新玉野であった

(毒境論書〉、霞箋を立てるには,先ず東はなから

(6)

6 鶴島大学教奮単離譲葉第§§号

西はな〔、葛墜ケはな/までヂ)区闘を§分し,その 爾鵜と北はな及び南絃なの闘は辮として,それぞ れ各匿懸毎に南は玉野鱗から,載は宇多纈から距 離を灘って,中鷺点を求め,そこに境塚を築いた。

その灘量方法は定かでない。こうして塚を築いた 薩霧が錘ケ所,塚数25に達した。その箋塚江つい て露幽境i論霧雲では,次の麺く鑓載している。

 史料3 為御築躾塚捨霞ケ勝

 右之塚有辮,五丁§二壱ツ宛なり。

 棄はな溝嬬二塚壱ツ。

 南はな詫はな等分畿,峯藁塚弍ツ.

 南はな穰馬分,オヒはな筆溝分。

 承呑場載二越,弍ケ魍塚,弍ツ塚欝3跳者  筆甫分,隅霧ハ癖馬分。

  一で一ぞ

 り龍ハ筆講分,露ハ掘馬分。

 ハ綬鶏分,岡龍考筆甫分。

 より北は筆講分,瞬爵は羅馬分。

 は穏馬分,購載は筆甫分。

 塚よ霊龍は筆甫分,瞬覆は掘馬分。

 湧,塚ニツ,麓巻筆講分,講霧は構馬分。

     す   ヨ    じ す

   塚ノ数金拾六瞬(庄子氏出擁論書)

,鑛打溝峯葺り北二越,ニケ勝塚ニツ,塚3

,聾老霞縄峯より靴工越,塚ニツ,塚葺り南

,寺奮縁峯鮮タ靴工越,ニケ辮二塚弍ツ,塚

,菅苅道標峯ヨリ龍二越,塚壱ツ,塚ヨ重1露

,小屋ケ作鬚3蔭靴工越,ニケ瞬二塚ニツ,

,鳥羅ケはな講峯望穿載越,東ひらに董一ケ

 「鍾塚」はニッ壷んだ塚の意であろう畠ここで 捨ケ醗の塚は壷塚であるという。

 唾月8露こは龍の箋,難ち松ノ紡から玉籤騰落 会瞬近までの宇多鱗左蟻の道籔の箋塚を築いた。

塚蓬ケ醗,詩8つダ)塚であったという。この薬の 境は磐織麟鞍鑓でも道籔とされているが,窪輿穏 志諜では宇多購の縦筋箋で,地懇酸死後の擁も宇 多躍鰯で,侮詩変更されたか,建かでない。

 この箋饗確定までには,元簾7年庄子轄後らが 宇多鱗添いの騰平に,疑家を蓬戸建てたとか,本 工某が多分作業小量を建てたとかの事件もあるが,

虎の威をか馨る締んとやらのようにも毘える。ま た,宇多撰南方に深く麟台頷が喰い込んでいるの

聖縛8年12謬

も,ジ勝運の無蓬境]の一一つに当るのであろう。

 玉野驚の米沢額住民の薄癒 この中震嫁譏毒で

の由箋分毒ナ紅霧察し,三萱野i警の米:沢蟹毫§三野が麺{辱な

る辮慈の狸方をしたかに関しては,露出箋論書曇 で1ま簿の記載もない。しかし講書の議事の麟く,

善人の養老が玉野簿に宿泊し,3月憾警から箋分 けを娘め,玉野購からの麗離の灘定に取鞍かかれ ば,庄子単兵籍が玉野海鏡の欝に,纒疑哲を宣て,

欝留めの塚を築く折紅,玉野の牽沢頷の窪浸勝庄 子に物を申した熱くに〔禽箋誌毒〉,玉野町の米 沢領蹉民が,黙視している訳はないだろう。

 正保2年(蓋鱗5〉6月23響の緯箋§安(§安寧 上,霊山町史資料集三,その蕪藍資料は漣玉文蔽 の末尾に掲載〉によると,使者達文左幕鷺等尋人       うずマ がr騰弩十一騒二新玉聾へ御着緩絞繧。其錠中飯 塚ト率由を御書彗鞍鍍i縁i亥彗,弾蓬領海菖蒲ケ沢ト申 霞を御爨機絞躾閣,大石麗・石靉靆・玉聾韓之解 熱蒼姓共鬱鬱.藍菖蒲ケ沢欝耀聾ハ弾蕉領分之蜜 二郷整蝶閤,御蟹被戚躾事迷惑藪儀鐡,条々申 上」たので,3轟轟畢乍業を中藍,古溝姜兵籍と泉 藤滋籍門が粥か謡をまとめ,弾琵頷の出蟹弩を実 施したという,米沢領方の薫野町の窪疑は,この 時再三申し入れをしょうとしたが,古溝善兵衛に 榔えられ,そのままにしたと逮べている.その東 方卒塔婆綜の堀燐迄は米沢籟と鱈じている人達に とっては,不請が残る事であったかと思われる。

2,正保馨絵園作成に関る玉野の争論

 歪像元年(欝磯)鰺月,幕綺はこれ豪での羅絵 籔を統一し新羅絵馨を作ることを,諸羅の主な大 名に下命した。それで,隔月諸大名の江戸留守役 を,数癖に分けて評定瞬に召集し羅綾鋒・郷鰻及 び嫉絵纒の進達に絶する幕命を転達した。米沢藩 では捻鍔25§遜達を受けたと蓼御年譜雲にあるか ら,構馬藩でも講月中には通達を受けたのでなか ろうか。匿御経済酪記遜に「琵保二酉年三薄,久 傑欝孫左籍欝御麹,玉響箋道法数緩締付」とある から,穣馬藩でも褻く準鱗に取りかかったと毘え る。匿璽撫志虚では経年「種馬岩織響1倉三簾謬季一一 紙の地籔を呈す諸書 警護攣蓼髪糞夏」とあるから,

(7)

安欝初簸=宇多熱量聾とその龍葉譲こおける争論の墜史地建醜考察一住戸時代¢)場合一

多分絵轡元を撚倉藩として,この三鑛を一紙の絵 麟に仕上げたのであろう。この藍保醗絵麟は「壷 鑿識と郷の間ノ遵法,絵蟹二書付躾事墜.r麟箋道 法,壱墾織,魑藪之壷鑿睡へ簿程と書付儀事」或 い1ま算遵法,穴寸壱婁!二いたし,絵鐸二一璽.出ヲ        あいだ

書付,一塁出無之之翫1ま三姶六霧二間ヲ糧定,絵 騒二一墨田書付躾事」とされていたから,各方面 への道法を総総灘る必要に星雲られた。それで穏 馬藩では,玉野で灘量をやろうとしたのである。

 鵬馬落盤総藻によると,縦傑二年乙露二耀,

…,購得,御領分筆野饗道法敵霰搾鐵之。競簾,

玉響繕注米沢鑛の蕩姓上盤.穣馬堀竿打奉行縫遜 蔵人・波懸七兵衛二5馨し,玉野ハ元来来沢頷ノ濤 譲達,自是公事起」と記している。この事件嚢後,

橋、馬鹿では評定漸に,竿折れ事樽を提記した。

 この事件に就いての萱野欝葺姓上盤の奮い分は

「当春穏馬3サ鬱鬱蔵入殿,講七兵衛殿ト串仁来 沢領分玉野轡ヘタテヨコ三竿を御ウチ躾。其時玉 野雛の蓉姓共,罷鐵侮トテ鈍方鏡分へ竿を御入繰 や,但福島二鞍罷躾蔀代へ御懸盤裁ト尋躾勝二,

其返答ハ飼トモ不霰串,御公儀野津被擁付躾欄,

竿打躾推参威儀ヲ串緩、薮姓ノ分トシテ御公儀ノ 竿を留擁串哉トカサツニ被稗躾閣,御公儀ニヲイ テ兎角之串様モ無御痙躾。乍去橿島二綾羅在躾役 人衆へ為牢麗躾内.御待被ぞ様二卜,再三御擬牢 と躾得業,無承引御打盤数,若キ者共カサツヲ畿 威繰トテ子チアエ串内二鴛ヲレ中数,嚢彗穣馬鑛ノ 喜兵衛ト中表ヲレ竿を取帰被串躾。麗々の御侍衆,

土罠二等ヲオラレ舞爆破成緩i儀ニチハ無御き藝蝶。

玉野瞬ヲ御取被戚度卜年来思召故,磁々之事ヲ被 御掛,致迷惑躾事」(歪保2年8月訴状遊車,霊 山町史資料集三,鐙轟書で変繍俵名のヂ湊をr迄」

としたのを紅を」に訂蓋した)。この聞の事椿を 蓼寄合穣雲では,次の熱く述べている。

 史料4 露寄合鰻選の玉野の一件

 (正保二年〉二月昔二騒  左近霧御緩談  一,玉響へ繊竿之打かけ打二欝憩虫沙汰霧之震,

  福島ぎ申來二村蕪,菟角富岡作左衛稗を玉響   へ遣七,蒲後あなたの仕やう,鈍方の仕やう   籠々承麟沁て参跡やうにと,栂送二て牢遺跡.

  (下略〉

 (董操二年〉二月廿七舞  叢近勝御掘談    ママ

 一,冨岡雛薩昔六藤玉籤之様子承趨参二付需,

  今警寄合。

 一,玉響」下道王量ほとあなた大箋之羅窮ず十   七婁程こなた二,廿二騒夜中壱墨田をつき緩i   鐡串二村畷.江戸へ皐飛騨を以,透農跳孝富   瞬をのほせ串懸道。

 一,富岡墾疑音入饗福島へ帰,昔九蕎罵意恥て        じをぱツナ   簸嚢二藩糧重藤曲率護秘。尤玉賢之絵緩持て   繭後之蟻蚕串上躯へと申渡(下略〉。

  (上杉文書,福島露史資料叢書欝輯,33嚢〉

 これは米沢から瞬藩の江戸渥敷に連絡したので あろう。評定瓶では畢くからこの件の仲裁の労を 取ろうとしていたが,米沢藩江戸髭敷でこの件の 真横不瞬では,韓紅の仕様がない為であろう。こ

うして,来沢藩では次の掻な措置を取った。

 史料雌 窪定勝公御年譜毒による米沢藩の捲置  講(髭保二年二樽〉十八§,傍達之内穰馬箋玉  野梅癬、羅領之餐箋識二種,神羅鱗麟守邸へ千坂  高治参種演遠ス。根馬大膳亮家来召懲 様子尋  ラルヘキ由磁。

 岡(蓬保二年〉三月二嚢,神亀邸へ千籔高治招  カレ,右之謬講吟瞭蕎ヘキ蜜二村,福鱒蔀講湾  懸九郎左鶴門・富岡作右衛霧及玉籤耕群蕪±銭  其外書來之境§喜知之者共來十五暮藩鐡癒スヘ  キ旨伝令シ。

  ヨぶま  が

 瞬(三月〉十騒蒙,井上築後守欝・安藤右京・

松平霧雲守欝へ,覚書一通宛差臨趣・

     壁

 一,今慶諸藪へ絵籔被擁盤二村,編馬領事弾藍   頭分露擁,少墨入憩得業,弾歪ハ差擁購不被   申事。

 一,従構馬領弾蕉鑛分へ棒ヲ入被串欝分,髭方        まずまず

  古来之頁姓共,色々難窟之,先々押嚢中無事。

 一,籔境之事二妬鶴,以来否建業牢様罵禽之モ   難量奉存恥。雲鶴々獺建艦箋§,卒都婆綜与   牢飛之堀勢迄,弾蕉方穿タ絵轡種無条,樽馬   殿総絵麟与境馨構違之儀モ馨有御座外。為念   御漸牢主稜㌔以上。

(8)

8 福鶴大学教糞学藩論隻第爵号

        上杉弾亜大彊露

    藍保二年蜜月十甦醤 海量九郎蓬衛門

      痩

      千叛兵躯

     (橿鳥青史資料叢書建輯,蟹一25頁〉

 3月縢の項の緩野構浄土蜘は,賎達の

熱く誤鑓で,験騒であろう。但し癒野梅では筆頭 の長老で「首長」格なのであろう。玉野は枝撚故,

当鋳玉野町に縁籔1蕪嫁いな:かった。藤死際蟹絵襲 写の来沢領絵懸では,簸欝逢を米沢領欝達蔀グ)内

とす故,覚書末羅の記事選りで,糧馬鑛の鞍懸で は,蠧毒由療まで趨馬領紅なっていた。

 この覚書の趣獄ま,評定湧からすぐ綴馬藩に伝 えられ,綴馬方では建保3年(欝4麟筋層の織上 村ノ内玉野霧羅姓からの饗安書上に,r飽頷亡者       きロがぞと秘言仕間敷霞,家老之巻共かたく被可牢付之鑑 二癬。右之上盤二癒漸,其後遵法酸破牢候事」と あるよう紅,この件は落養した。この弓1濡1文の欝 段は,米沢藩から上銭等に申渡した文言であろう。

 この件の経遍と繕宋について,郵定勝公簿年譜遜 では,次の様に説達している。

 史料§ 蘆簾の竿打一件の経遍と結末

 講(莚保二年〉縢月十六臼,安藤駆へ千籔轟治  ・海欝・富岡召具シ,境目ノ絵鐵指鐵謬論ノ趣  演達ス。構五月三農先月二十八嚢富漸・麗原・

 韓遊・構末・蔭露ヨリノ蔑翰江府二達ス。欝達  ・信夫境馨ノ議論事済,灘馬箋玉野村道籏,聞  ヲ賛チ,穰馬大膳箆家鋲縫獲八兵衛へ文通,無  趨違欝鱗ノ趣需上ス。揮編駕籠謬論ノ起ハ,今  度将軍家ヨリ,領地鞍懸癒鐵スヘキ命令二段,

 諸醗諸境驚・殊ノ事故アリ。舞テ去二月七嚢穣馬  領ヨリ,玉野海遵十町程私領へ命ナクシテ入込,

 塁蟻ヲ築キ,懸人欝趨馬頭草野・佐澤霧粒ヨリ,

蚕村へ織ノ横,竿当ル嘱,玉蛾雇挺

 往既ヲ餐ムル翼り蓮華。購鴛十五§米磨ヨ琴富  岡ヲ選シ,謬論ノ場癬冤分セシメ,麟シテ菰購  二達ス。羅海内濤神羅邸へ干飯高給招カレ,玉  野村近隣堀鑓二,梅馬方ヨ琴築キタルニッノ壁  緩,一鶴漸崩シ,擁籟内へ築妻問敷露,大膳亮  へ掘達サルル脅盗掘馬繧ノ駁迄,間竿ヲ警スル

霊欝s年鐙辱

       ド ヨ       じシ

 事,私ノ事蔽無之,閣打スヘキ愚縷達エテ落着  ス      (上杉家御年譜,鰻巻,齢3買〉

 この記事は,表現が一藻魏麟で,事実を紛難し ている。響塒等については,史料護のゼ寄合嬢善 の寵事と樽達している。『寄合帳選は牽沢藩の奉 行衆の会議の議事録であるから,露懸盤の高塾資 料とみられる故,この御年譜の{言懸盤が闘われ,

綴都範就いては,一悪補藍が必要であるが,荒筋 はこの様な経遍をへて,一件落着となった。

 この時評定漸では,罫夜中に築いた」鷲殊な事 椿を考癒して,一里塚の取崩しを命じたと思われ るが,それは霞寄合緩選で紅玉賢君下道三里ほど あなた,大捷之堀湧孝†七里程こなた二,菅二騒 夜中壱量毒をつき鐸…懇」(史料違〉とする壱璽.鐡 であろうG下道董里は§警で,玉野町から欝き町程 の霧であるから,取揚の練を載に下った,玉i野町 に遍い誘である。江戸へ飛騰をたてたというから 重大事件である。一里塚は幾格が一定している鹸,

一縷を築くのに,延人数鎗§〜ε韓人はかかるので ある。(環購灘葬八密野一塁塚は寛文憩年4月延57亜 大〉。当時玉野警在住の穰馬方の者は,建戸程で あったから,一夜で一里塚を築くには,麺から人 足を集める必要があった筈であるが,どの様な手 配をしたのか定かでない。只この事から推察可能 な事は,特に玉籤郷在盤の穰馬及び米沢懸の者の 聞で,簾舞確定の縫題が深灘であったという事で ある。櫨馬方では米沢方の意表をつく方法で,§

領である事の証を設けるため{乍戦をねったヂ)であ ろう。土睦等が,その意緩に気付かない訳はない だろう。また米沢藩からの総力で,不満を鐸さえ つけられた筈であるから,この織薦窮逡の米沢鑛 を確保しようと考えたに違いない。これを契機に 次簸で遠べるようにア藩雰係争が表面化するg

3,正保一承癒の相馬・米沢爾領藩堺係争董

 正保2年(絡蕊〉6月23警,上杉弾蓬鎮内大石 郷・石蟹郷・三鑑野村1葺蕪轟1婬薬力三,差し鐵した膏}

達と構馬の由箋§安では,痛ハへび本・カルイ 沢・山梨子ガタワ・松ケ麟・サス蘇,藁ハ堀舞・

ナラハイ・菖薦ケ澱」が,勝連と種馬の毒箋であ

(9)

安露擁雄1宇多撰1玉響とその愛東講こおける争議の経史地還的考察一一獲戸購代の場合

       撃躍e寧鰯真鍮麟暴騰瞥蝦 っ匿

(10)

藏島大学教育学認識集第鋳畢

るとする。そして豊々証鑓を列挙し,「右申坐繰 通,欝達ト縞馬之境ハ古來撃タ卒薬婆蘇之堀欝二 郷錘i壽爽。少モ{為不幸上繧i」と結んでいる。この欝 安の下書きは,瞬年逢擁§霧作絞されていた(霊 山簿愛資料集三〉。それでこの§安差鐵を患い立 ったのは,懸年3月中であろう。多分それは,権 馬の道法改めを認めた漿でなかろうか。この警安 は霊緯町史等にも集録され,また鑑年筆者が補鑑 して,涯茎の擁穣i紅採録してあるので,長文故こ こで再録するのを省略した。この鐸安に遼撫して,

矍鑠2年8∫灘膿,追補の馨安を提饑した。それ

は次の熱くで凌}る。

 史料7 蓬傑度追§安   乍恐璽テ以書羅蜜上躾

       上彰弾正譲内

         石鐙郷大石郷玉野馨        モさ  か         群蕪  共  一,先年御老中様護り御嬢養衆御下り,離郷わ   け繧灘,堀留望タ藪ノ方ノ麟ハ鶴台領・米沢         くお

  護・縞馬顧ノ者考入会二璽種族鴇,換痩乗鞍   稗1二付テ,籏掌仕,石橋十大輔・熊辮姦衛務・

         ゴびマ

  発知半肩籟鍔・古鱗善具徳・大郷蟄後・盤々

  轟六人翻ノ手磯上軸,泉藤樋野

  内藤吉蔵様へ書購鞍掛御羅之霞,左様ノ手形   ハ畿方ノ悉共ハ曾以テ不仕躾。其下書藤右

         くます   む へあす

  籍方二璽有之躾。御瞬緩緩成援冤可被下

        タ      くニ       くぢ

  躾i。髭儀膚京様緩灘召ノ塗躾間,定テ以来共

    デだマ

  ニ,霞者違串縫敷繧i。若於驚ハ,万事ヲ御絞   量璽毅威鞍i。既方ニモ留書御縷繧i。其手形ハ   各騨ノ儀ニテ御壁鉄拳。

       

 …,当春穏馬ヨ弓欝欝蔵入殿・薦七兵衛殿ト   申仁,米沢鑛分玉響麺ヘタテ3コ二等を御ウ   チ躾。其時玉i野村ノ蕎姓共,罷鐡繕トテ銚方   領分へ竿を御入娯裁,鐙福島二綾羅在躾灘代   へ御難躾銭卜尋躾海上,其返答ハ舞トモ不破        コ    ぐせき   申,御公儀還り被稗醤験懸,竿打躾推参威儀   ヲ申饒。膏姓ノ分トシテ御公儀ノ竿を留可牢       いプす

  談トカサッニ鼓舞躾悶.御公儀ニヲイテ兎角   之申様モ無御壁醗。乍表編島二綾羅鹿躾役人   衆へ,為串間娯内,郷待鞍下躾様ニト,再三

董鱒8年12舞

 舞漸串上躾得共,無承引御持繧敏,若キ者共  カサツヲ鞍絞躾トテ子チアエ串内二,哲ヲン  中数,難種馬ノ喜兵籍ト撫養,ヲレ竿を取,

 煽嶺牢躾。歴々ノ御侍衆,上襲三竿ヲオラレ  篠爆破成躾儀ニチハ無御痙躾。玉野蜜ヲ御取  鞍疲度ト年來懸係数,義々之事ヲ緩舞掛,

   ナ 致迷惑躾事。

一,最前1指上ケ串躾類書鰭,本玉蟹・新豊野ニ  ケ勝共々,弾歪鑛内聾り麗発猛躾儀,分暁二        ン

 郷整躾i。然辮二掘馬3彗地ヲ篠懸シ繧密緩稗  躾。既証文証跡ヲ厳重二藤古徳門方へ御尋可  鞍下藪i。韓方ニチモ灘発ノ儀,地主謬タ種物  二躾裁.饒辮葺り取立麹二鑑識。銚段ハ不及  申上盤。愛來玉野出ト串二替テ,農彗玉聾韓ト  名付率躾,其上究年3彗石鐙編・大石郷ノモ  ノ共.シシ取嶽を鉄持方に取串二縫テ,玉野  白鍵方ノ勃共蕗ざ名銘々二郷整躾む絵霧ニモ  護難事繰車。

 ,國罵ノ蛾鐵霊旗ノ儀,鑑成謳文御痙躾鷲を  サエ,継馬鑛ト破牢掛躾。愛ヲ球脚校量破戒  可鞍下躾i。大平誌ナ九巻二鐸達ノ霊毒ト轟塵  繰。掘馬ノ霊鐵トハ御壁蒋潤敷躾。是モ藤姦  衛門方二証文御尋可鞍下躾事。

…,関癒御陣ノ講,泉藤古徳霧男一雨年藏江灘  蛾湧二綾羅虜餐癸。既チナミーッ,又ノ、景勝様        ぐ 

 御代二留連ノ謬代二平抹蔵人方,麟十二艘造  建.槍馬殿へ御籤緩牢,濾々捲置御涯戸へ米  郷土セ躾,髭震緒一ツ,後是ノ子纏泉藤毒籍  町方ト髭方ノ古購善兵籍,無縫事入魂鞍串躾  漸二,鉦年麟金額卜講馬領ト山公事ノ時分,

 靉靆ハ善兵籍モ不破存繧瞬,御嬢縫衆出御割  餓霧,鑛1姦共罷籤親方ノ灘ヲ舞トテ御麟躾哉  割ラセ申マシキト堅牢払躾。其蒔藤右籍鍔被

 みとざ      ぐニノ

 退難儀二,善兵籍方へ種々詫書繧醤テ,善

      すごマ

 兵衛連々ノ遜罵,無縫玉野露導為割入会二被

  くヲき

 仕鑑以、六ケ敷罷繊躾。銃後ハ,富岡作省籍  門 漢方ノ使卜鞍敷躾事。

  ;右之条々御一覧破戒可鞍下躾。欝麹件。

   死線二年八月十七嚢  大石郷強姦衛門        石醗縄 報 泉

(11)

安蟹窃錐1宇多謬萱野とそび)蔵策鎌こおける争論の鍾愛地靉靆考察一江戸塒代の場合…

       藤兵衛        玉野軽 土 鶴  (霊灘訴訟証縫,霊山町史資料集三,§一翼頁〉

 こヂ)追馨安第一餐は,さきの纏台・梅馬出公事 の蟹,撰留のニツ塚以藪の磯籔について,麟台・

根馬・米沢三顧の百姓の入会と定めた種馬藩の石 瞬・熊鱗・米沢藩の発知・古湾,蝕台藩の大霧・

観々の6人が連覇を捺した季形があ穆,泉藤姦籍 門等がそれを見たとの事であるが,玉野警の牽沢 鑛の者は,誰もその様なものは発ていない。その 様な手形があったら奉行霧に届け畿させて,髭て 戴きたい。この手形の議は寺被奉行安藤右京様も 耳にしている幽,その糞疑を是非確認してほしい というのである。ここで評定衆…座の一人の安藤 右京の名が鐵て,奉行溺へ羅けさ慧云々とある救,

この羅安は幕癒の評定瞬に差癒したものであるこ とは疑いない.安藤石窟絃寛永捻年以来の寺縫奉 行で,遵法改の竿斬れ事件の公事で墨癒した土佐

も逢っているのであろう。後盤,打保2年6月の 滋養馨安を,箆及び癬手方の名が無い敵,差し離 した訴状かどうかを疑った人もあるが,それは瞬 らかに誤認で,疑いもなく鍵鐵された訴懸で潜るむ  第二覆は道法数のことでフ先に遠べた。

 第三項は‡玉野・新玉聾に嚢疑て,地翫を欝り て醗議したとする見解があるが,それは事実でな い。若し倦鞭たというなら,その証文証灘を差鐵 させて調べて戴きたいと違べている。

 第五項は寒露右纂門と米沢藩との関係を遠べ,

特に古海善兵衛と入魂で,入会の議をつけたこと,

寛永錘年暮,古溝漆塗1豫後は,富岡作右衛門が米 沢方の連絡役を握嘉している鷺を述べている。

 この目安の差鐵入が玉野の土盛だけでなく,大 石・石蟹の肝煎が名を連ねているのは,栂々の連 合の§安ということではなく,玉響が枝鶏で,村 方役付が玉野軽内丈では揃っていない数であろう。

 盤し霞箋馨安線様,被告名を記さない救,評定 所で受窪したかどうか疑われた。然し正保3年縫 丹,戯上縁の内玉響惣 の百姓襲繕等が,次に示す 反論§安を,奉春潮箆に提讒しているのを見ると,

評建男舜でそれをう吾ナ,手藪iをしたと晃られる。

 壷斜巷 織上ノ内玉野驚篇姓の反譲麹安    奉乍恐棒御鐸安書上

①一,健 郷公儀様緩 膠付,穰馬頭鞍懸{雛奨二   付,去年二月上旬遊法之闘敏串躾懇二,玉野   町二罷有鑑激沢之百姓圭銭と牢老,鱗馬より   之竿打奉背へ駈串躾ハ,玉野霧米沢頷二て御   座繰幾,竿うた慧串間敷出牢躾二村,奉行披   申ハ,健 御公儀様被 舞酵,飽領をさへ罵   次一つマきハ道法政中筋i。其上根馬領玉響町   二鰯左様之事牢繧義,薄様之子畿二薦躾畿。

  様子可承と串,玉野町之憲へ媛参躾跡二て,

       じ 

  竿持参繰越を,米沢之百姓大勢引つれ,郷公   儀様をも恐不幸,無理無鉢二玉懸町二て竿ヲ   おむ中盤。重畳還不尽なる段様,案外至極二   躾へとも,彪覆之考と者言段間敷密,家老之   毒薬かたく綾藩申付之露二毒,右之土佐二癬   騒,其後道法敢串躾事。

②一,米沢顎・癖馬領境蔭八雲霞国司三ツ森,講   方も蔚々水落次第二郷整繰越二,去年二月よ   り穰馬籟之内三蓋野漢打越,米沢領と牢懸甕癸儀,

  事之磐権連なる儀を串鑑事。

⑤一,完年鱗台と穏馬出縫糧論之時分,灘井雅楽   頭様よリハ達文左衛羅鍛,土井大炊様よリハ   畢撰称五左籍霧殿.漂弁護鼓守様よ参乃蛮辮   藤左篠門殿,永井磐濃守様よリハ総出五部右   衛門殿,右彎入之御験養を鞍遺,拾六年以蕪       ママ   ニ毒箋を御立,樽馬籟こ二綾穣究繰車涯塚と串   山江,既農米沢領之虫拳懸鑑i二村,醜欝入御

       ずすヨヲ

  甕鋲。中井塚米沢鎮二爾躾ハハ,先年絵合・

  穰馬i論断之山公事姶三年御藥縁i潤,其筋種馬   と一漸二成躾縣,公事をも璽猛勉エ,姶三年   之内一一謬其沙汰も無御壁鋲事。

④一,玉野町二米沢頷之者捲置綟子織ハ,櫓馬籟   より商売之塩養蕎物等送蓼串鍛工,山上韓よ        ヨマけマ ゑ    り牽沢領まてハ馬衣遠く御慶猴i二種,橋馬盛   麓緩,家老承谷欝与,景勝様御家老邉注雷鼓       ぐ  ひ  ケ  む   殿涯被牢,米沢領之者二瞬をかし,轡拾九年

  ゆ さ      じ三二すプギ

  以前より董野町二発鑑事。

⑤一,騨國廼二分薬左京様・松露善為徳門様・大   海内平十鑛様捨響年以麟御下海之灘,米沢繧

(12)

至2 福島大学教官学認論集第薦骨       で ヨ

  箋馨御見分皿,種々無残輝遜躾鋳も,石欝・

  大石迄御墨破戒嫉。襯馬領御覧穀蔵繧i時ハ,

  中村よ吟玉響工数嬌へ御鐵鞍成鉄。其時も私   共倒案内建艦。元締馬顔より玉籤之遵橋を作   り,蓊々境繋迄壱里々職工聞くいを打,水落   :達覧くいをも立牢鑑。玉野米沢鎮二て擁壁躾   ハハ。石璽・大石へ御嶽之灘,玉野へ御案内   司宰儀躾へとも。穏馬領二露改,鈍方より玉   野へ御案内串聴癸事。

⑥一,玉野醗二罷有線牽沢之嘉姓作り来り霰i爺地   を捨繰癖,立験之時八,真跡之懇地元來輯馬   領二て御連躾間,米沢之響姓ニハつくら巷不   申。種馬之薮姓請取 予今作り串躾。其.と玉   聾簿二屡躾米沢之春姓ひらきの分,験地被繊   度躾と緩擁,御奉行ニハ春醗称五左衛欝殿,

  蕊藤庄兵衛殿鱗越躾へとも,糖馬鑛へ竿御入   繰儀.罷綾餐舞敷霊,義尋率娯癒,うたせ不幸塚i。

  其以後上杉様御家薬毒辮善兵籍殿より右之懸   地検弛緩威度滋,泉轟藏霧魑へ,状を破遣繰   とも,金点不鞍牢躾。ケ様之誕縫とも郷整繰   二穣馬譲二掘極サ申繰越,玉野町を持越米   沢領之藤串懸緩事,案外至遜三春繧事。

⑦一,縫台根馬箋之譲之時分,御老中様郷内憲二   醸,霞人之御検髄衆被搾躾ハ,玉野欝へ由付   不幸躾ハば,娯楽物言可禽之躾騰,御冠計震   郷村可被載之霧二羅、とやかはなと串醗より   薩,霞講三ツ森承蔭次第,董聾簿へ露御付鼓   成躾。因藪鉄漿双方芝煮物言廷隅敷露,麟泉   藤有徳韓緩申付猴事。

  右之条々熱中上,中居塚玉野之儀.撰馬籟二   紛も無御座娯越二,上道弐里余り穏馬頷へ打   越,ほりき穆と串舞を箋§と串繰事,是以猿   籍至麺なる儀を串躾。玉野二罷有線之米沢之   百姓土佐・惣左衛湾・三麟兵衛と串考按弼鐵,

  様子舞尋破戒,鰐決猛,薄々之境藝譲上二可   申上盤。鱗奉舞瞬察之郷蔵藪繰。依如件。

      椿馬大勝亮領内     憂保三弱成年  織上種之轟玉野驚頁姓      十一舞 嚢       霞 轄       七右籍門

勝3年玉2月

 御奉背所様  (霊露町史資料集三,12一錘頁1  この反論目安をみると,先の欝達と羅馬の山麓

馨安及び追目安の内容が,すべて出上村ノ内玉野 瞭蒼姓方に転えられていたと考えざるを得ない。

麟ちこの反譲§安第①覆は,遮馨安の第⑨墳の遊 法敵の竿入に鰐癒し,反論馨安第⑨項・第⑤項は,

出箋馨安の第茎項及び第鐙灘に鰐応ずる。山籠舞 安の第i項は「留連ト穰馬之山鬘之事」で,「南 ハヘビ本・カルイ沢(中略/,東ハ擬勢(干餡〉」

とさ駿ているの1こ薄し,反論目安で1ま「露出麟講 三ッ森(車路/蓊々水落次第」が箋であると遠べ r去年二月」麟ち遵法改事件以来,堀燐まで米沢 領だと称しているのは聞違いであるとする。晦境 目安第鞍項1ま麟台との山公事であるが,米沢方で はこの公事「†三年之内一鍔其沙汰も無御壁」と 鍵耀している。遽§安第蓋項紅薄しては舞等答え ていないが,寛永錘年の来沢頭総後地魏姥の際,

玉野にも米沢方で験地縫を瀬遷したのに,玉賢霧 の穰馬方の者が,玉野は種馬籟故,竿入れ罷滲な らぬと薮り,古溝善兵衛がその検地について,泉 内蔵跡に承諾を求めたが藪られたことを盛5げ,玉 蟹は種馬領の謳とし,それなのに玉籤町を趨り越 して,凝影まで米沢額と牢懸かけるのは「案外翌 橿」と反論している。この講馬方の欝安を,評建 勝で受遷したと見え,豪沢藩江戸屋敷では,評定 鷲で次の醜き猜鞍を入手し,激職こ通報している。

 史料§ 玉野町穏馬灘養姓鐵訴の篶報    匿綱勝公郷年譜薯歪像三年十二月の条  隅(正保三年十二月ラ十二難評定辮へ義深重  秀参仕スル甦,松平鱈綱演達,権馬藩達嶺箋蜜  謬講二村テ,搬馬大膳嚢姓共羅安ヲ以テ鐵誘ス。

 霞堺醒堺衆力又ハ上硬ヲ以テ,堺点穣アツテ,

 其上落着有ルヘキ閣,其間双方ノ百姓争論無之  様二串縫ヘキ羨癒。職方ヲ以テ米癒へ告達ス。

 (上杉交書,福島毒虫資料叢書欝輯,28−2§頁〉

 この史料中に「蕎1馬{舞達頷」云々とあるのは,

この憲譲で,米沢鎮静達蔀と灘馬頭との箋が問題 とされているとの意である。かくて欝安裏霧も鐵 され,「其購震方蓉姓争論無之様」の外「論難へ の墨入禁藍」が講令されたのであろう.それにも

(13)

安羅霧雄1宇多簾玉野とその載菜蔀における争論の経史地響酌考察一江芦時衆の場合一 13

拘らず次に示す酸き事件が,再再発生していた。

 更料鰺 玉野講露における法度破拶

 穏馬頷ト欝達領境眉旗人二膏藩舞年従 御老中  様双方之者共二,被 捧付躾ハ,簿落着無之内  論難之由へ撫入綾鵜敷態,鞍 稗渡躾魑二,構  馬領之者共,度々背法度,我盤琶躾閤,書髯を  以言上仕躾。

 一,藍保響年内擁末二,穰馬牢人太鄭兵籍・霧  左幕稗と牢㍍を,玉野樗いなはト串老拘置,馨  幾を為醗牢躾闘,慶安元年之六鴛十九無二当領  董野梅穣齪土鑑勝より与次虐籍鷺・惣右衛韓・

 与霧衛糀と串者共を使二種,灘轄勝へ申遷彗ノ  圭擾島之奉行代官中より構駕御家老衆へ状を遣  駿串,膚之牢人櫨馬之鶴へ為鉱車躾事。

 一,慶安弍年蕉掃廿七無二,於論痩癖馬領出土  樋仁作と串者,材木搬本取串躾iを,当鏡石馨霧  仁左衛門と串表見薄幸躾灘,嬢懸上銭二為知牢  二種晦,麟勤左衛門と牢奏を使工数シ,霞膳所  へ機工串漸躾事。

 一,講式年二月七嚢二権馬之醤姓玉野二罷在躾  雛譲左籍潤と申春,論織工て縫三本取申躾を,

 当領之与左衛門と申もの見付躾薦,主監二為知  牢二村癖,鋳右衛門と申者を綾二致シ,聚繕漸  二縫二串藪据置申事。

 一,欝三年八薄舞嚢二掘馬鎖より玉野工罷在彦  在籍門と串もの,誰蜜之内二て柱壱未収串躾を,

 当額之与左衛闘と串毛見掃躾て,土鐘二為知串  二村,財布之与左衛鱒を使二致し,いなは子僕  三之丞と串者二燧申懸搬置躾事。

 一,慶安三年十月十八讐工,穣馬籏より玉野二  罷在長右衛門と中毒,論恋二て柱五六本取串艦  を,当讃之与左衛霧と串者見付躾爵,上盤二鶴舞  申二付齎,右之与左籍門を鑓工数シいなは子僕  三之丞二縫二中筋指置傘躾。瞬壬十驚建譲二  穣馬領よ融張聾に罷在躾長左籍門と串者,論幽  二てなら緩を内教取申験悶,轟頻之濤左衛門・

 次右簿門爽人二て見付,土睦二為知牢獄漉,羅  麟書籍溺・善吉と申者を整工数シ,構馬領長右  衛門・太郎左衛門と申春二,髄工率藪指選中盤,

 以上。

    慶安三年 霜月器七舞 石懸纒 隷 泉        藤兵衛        大石耀 丹 波        但 馬       太左衛跨        玉野耕 土 饒  (審懇家文書,雲霞町史資繕集三,舞一籌頁)

      む  ご

 この史料の署頭畢こある「兜年老中よ鯵,一件落        か  ゆ

惹裏では誰痩への灘入禁廷」の「鉦年」は,この 史料第一環の事欝からみて,少なくとも蓬保護年 以蕪であろうが,史料§からみると死藻3年海上 韓の内玉野簿百姓等が鐵誹直後かも知れな≒・。こ の「先年」を藍確に雄達する事は,正繰の目安を 評建瞬が,侮鋳1受礫したかを知る一つの森羅で,

関心が深いが,今これ以上詰める手段はない。

 史料§の癖馬大膳蒼姓共霧安紅鱒する反譲llこ懇 当する返答書を次に掲讒する。

 爽料縫 玉野瞬の米沢方柱愛の遜答書    「蔚文欠落」

 踏訴躾と被串躾へ1癖,今穫之簿醤安ニハ糎違二・

 醗蝶。既設ハ安藤着京様・神尾簿薦様・霞藤志  摩様・渡認籔書様,可為御喜知躾。其後厨藻齊  難五郎様も緩載御縄躾。其時内藤志摩様御書勃  御湧持,撫隷之燧なる証文在之虚被舞,右京様  へ緩懸郷嚢繰締,右京様破御饌ハ,横馬殿先撮  へ橿馬之蔀鐵し置との朱露二灘御座躾へ,戯公  事之やくに立もの二てハ無之とて御返し躾事。

 …,米沢籟癒馬頭壕§ハ霊山醒霧三ッ森,擁方  も鶏々より承落次第と破牢躾。鈍境嚢魏緩準懸  躾証文証跡産之哉,厳重二緩蔵御穿鑿雇鞍下鉄。

 証麺無繊塵方を,忽大科二談 締付辞譲下躾事。

 一,先年麟台卜繕馬出箋謬論之講,郷老中様ヨ  喜タ,御験鐘後下躾様子申上躾牢様も箋羅も,警  違構二癖御窪躾,是も穏馬之ものへ,謹撰御尋  可鞍下躾事。

 一,玉野警二米沢之もの措置綟子織串一と鯵ミケ条  之儀.是旛証文証跡を御奪璽被下躾。殊更董聾  韓を揚馬殿御取立繰哉,景勝様舞取立躾裁,是  を委御尋,読誕鎚於無縫甕ハ,犬科二被 郷村

  じ  可 下事。

(14)

14 姦島大学教育学翻論集第懸号

一一C寛潅拾年二為御麟鰹分澤左京様・松霞善右 衛門様・大湾内平衡鄭様御箆廼之鋳分,舞案内者 をハ様子申上鰻と在之儀,大二構違二薦御産蝶。

最蔚ハ石馨大石遙御廻,其より痙二輪台へ御通 奥方御酒躾哉.種馬へ御越それよりも盃野露へ 霧鐵之蒔脅,箋§そとは錬堀切迄御選二,数々        

共罷鐵験越二,御緩痩様御三人下馬披成,箋§

ノ様子委御尋繰鵜,様子具二串上躾。勿論報馬 衆もそれ迄被参躾へとも,兎角之儀も不破申上 躾。羅舞より玉野迄鱗案内ハ仕,於綾地骸合之 郷馳走率土繰。又それより灘馬鑛草野へ郷鐵之        じむ一

時,由なしがたハと串縫馨迄父御案内串上躾事。

一,玉野驚二罷在米沢之蕎姓作來躾霧地を塗繰 覇,立験猴i真跡え,醗地元来穏馬頻数,寒:沢 之百姓二為作不牢,種馬之百姓請取作藍露,其 上牽:沢籟より玉野を綾地灘仕と牢繧i越二,掘馬 頷故おさへ串磁,左躾ハバ編馬より玉籤之驚迄 を鞍敷換地艦載.父ハ誰々と串もヂ)のすて麗,

立験躾跡を,紹馬領之誰と申もの作来由。瞬 畠穂反縛戯作来躾哉.御尋破戒可織下躾。銚儀 於擦ハ,葱其科二綾 舞替羅綾下事。

一,織台ト穏馬出擁争論之簸,親方之ものとり あい不幸藤串上盤。麓通無給験。饒領と健領芝 露公事二,鈍方よりかまい可牢事二醗無之繰遡 江,穏、馬乗鍵方之出をも取添聾牢と,てだて被 佳躾閥,鱗験愛へ御籤申躾越二,一段尤も之密 綾舞,三馨御逗留,其間二泉藤麿衛門方種々様 々鈍方之吉海善兵衛方へ,詫糞緩申躾子綴,縫 二郷整躾,泉藤右衛門澱ハ甕江田織殿二奉公扶 持給講,数年被罷在繰二村霞,以其露緒,穏馬 様御域下之海二大麟拾弍艘被為置,緯住戸へ亀        じ 々漕送りを鞍成躾。簾様之以懸蟹,泉藤右籍門 殿と古溝善兵籍殿,麗薦入魂故,藤君徳門殿軽 篠懸,籟馬領と鱗台頭之出境をハ為立被申躾事。

右条々かけ羅安之趣,有増返筈書仕躾問,籟 馬衆へ幾穫も被遂御畿霧可緩不躾。定瞬争破牢 躾儀ハ罷践懸敷躾否強,鶏違鼠二付繭ハ,童溺 薄率土儀御婆躾。繕魏件。

      上杉喜平治鎖分養姓  慶安難年三鍔音六饗  石懇之幾 藤無徳露

呈鱒彗年聖2舞

 御奉行翫

 末羅の「右条々かけ彗安之趣」は,鰻妙(療告〉

の方の§安の趣旨で,資料葺の賞頭「難文欠落」

の条項以磐は,史料8の反諜藏安の各条壌に鰐し ての返答である。醜交欠落の条穣は,これまでの どの§安にも寵されていない難件であるが,評定 衆一塵懸々の名を達ねているので,上盤等が評定 所に臨廃した夢蓄,無謬得た椿鰻紅基づくのでなか ろうか。こうしてここでは土鑑・惣左衛鍔・三都

轟き衛は,反轟誌§安 (蔓ヨ料8〉 末尾で講妻ナ (綾告〉

の方とされ,返誓書を差墨す立場紅なった。

 謬綱勝公郷年譜雲によると,慶安連年(懇5碁 2.§,鱈夫藥代溝獲九郎左衛野穣ま,米沢藩漁戸藩 邸から命壁られ,講勝の百姓講舞,2月22欝着織,

2鰻百姓共は藩邸で,評定所の安部離郷笠懸から 構馬方の舞安を濃され,返答書を差し墨慧との差 騒を受けた。かくて讃方の当事巻が江戸に集まっ たから,薄決が進むかに見えたが,瞬年3月,権 馬大膳亮義綴の死去で,この裁許垂ま延難1された。

     購麟   秘 泉      大石之郷 太左籍門      講勝   丹 被      玉野織綾藪 上盤

(霊露町史資料集三,籐一誓頁)

4,正保〜承癒の種馬・米沢講領藩堺係争甕

 蕉採3年至難,旛馬方の罎轄等が反論§安(史 料8)を提饑して以来,7年鐸の承懸2年(慈5鱗 5月,講じ蜜上村ノ内,玉響驚蕩姓騰鱈等から7 年以蔚のヂ覆輪§安」とほぽ請文の§安が,評定 勝に絶崖された。ほぼ懸文と記したのは,7年の 時間差があるので,それに合わせるため,饑えば 講者の紅去年」を「九年以蕪」と書き替えただけ であるからであるα尤も若干欝字を替えた縫霧が あるが,愚妹が違う訳ではない。然し,「癒馬盛 機代」(中略〉薩姦霞裁殿へ鞍掌,米沢領之者二 所を欝」のところは,「趨、罵大膳亮義綴代」と講 死すべきをその誤吟をその簸残し,「醗姶九年以 薦」だけ「五十六年蕩蕩」と改めている(霊露町 史資料集三及び上杉文書,福島薦史資料叢書錘輯 3§〉。この訴状は承癒2年5月,蟹馬長門守領内,

(15)

安鑓襖錐1宇多簾玉響とその詫策灘こおける争論の縷愛地選曲考察一一江戸欝代の場合一 重5

出、上栂ノ内三蓋野舞}焉多婬i,霞繕・七右衛門差し饑し で,次の購箋がついている(叢書縫輯i総頁〉。

 史料縫 承癒2年鶴軽等の訴献の鰻箋       じぼき  (離箋〉 表書之通,§安指上饒聞,返筈事仕  急綾羅鐵,可遂薄淡躾。董於蓬{可為麟事巻髪。

   巳五鍔音三§  蕨灘椿瞬奉絡 右京        臓    鐵雲  蓼穰馬藩鐙1凝毒に敏ると,この繋安裏書の1難名 は,米沢頷百姓の土薩・惣右衛羅および三郎兵籍 であるという。これは史料8にもある講の方で,

承癒2年5月の欝安でも購様であった。

 これに韓する玉響跨坐駿i等の返誓書は次の熱し。

 史料欝 承癒2隼の玉野欝±佐等の返答書    穏馬様糞姓衆§安産ノ返答霧

 一,従 御公儀様被 郷村絵覆仕二村テ。道ノ  リ改準鑑密,其段ハ不陰癬馬顔。鰐方ヘモ御講  藩二被御講二種テ,本選パ子纏ナク訂セ串繧i。

 権鶴繧サスト串新懇垂蓼露遵ヲ豊野へ雛竿聾被  串躾蒔,上銭才覚ニハ本道ハ為打率躾i。侮トテ  灘道機竿御入躾ト串躾ヘハ,穣馬鑛二躾閥,本  連峰無道トモニ打躾トモ,カモウマジキ蜜癒馬  衆鞍牢躾。玉野簿ノ者共串躾ハ,種馬籟トハ運  不尽ナル儀ヲ申ト麹書藍,竿ヲ子チアイヲレ串  繰。ヲレ竿ハ根馬領ノ善兵籍卜串モノ取躾テ帰  弓餓。篠公儀繰ヲヲソレサルモノ盤罪ノ内二可  糞御壁哉.幽ホシキママ色々作り事ヲ串懸振事。

 一,米沢頷・穏馬頷簾舞ハ霊爵露悪三ッ森粥方  モ鋳麦踏タ水落次第ト破牢繰。銚箋騒ノ麹被串  懸躾謳文証跡有之畿,郷厳重二郷穿鑿緩成可鼓  下躾事。

 一,先年蝕台領卜権馬鑓境争講ノ鋳分。十三年  ノ閣取懇鑑癬二,既方ノモノ取合不率由書■L緩  率縁i晦ア縫鑛ト縫鑛ノ山公事ヲ私共カマイ申儀  ニテ無御壁躾i。其上玉野戯ノ儀トアラソイ無御

 じぼを      シ

 座勝ニテ鉄条 以動鐵ノ事トハ不存罷在躾齎二,

        ヨ す       ヨ

 篠江戸ヨリ緯換地御越,出箋再有御立虜綾稗,

       げヨ       ロ 

 其鋳載等共罷鐵,シヤウブが沢たチカラウハ撰  達額ニテ郷整躾。掘馬領ノ麟トノ箋ハ巷孝堀勢  野曝瞬無紛躾i。麟台領ト種馬鎮ノ箋ハタチがラ       す   ウ毒ノ嶺勢ニテ争論ハ無御痙震,郷綾地衆へ串

皇族二難テ,玉i野縁二黛霞御逗留ニテ,其鋳御 瞬入乗鞍稗猴ハ,左躾欝ハ権馬乗ハイツレノ窪1 公事ヲイタシ躾裁ト,事ノ外郷立駿ニテ,権馬 衆ヘキック郷力・り,泉藤右衛霧澱・浅見久太 夫殿鞍敷迷惑,玉籤韓近辺矢立ト串毒中迄被罷 露,鍾方ノ古湾善兵籍殿へ種々詫言ノ様子御壁 綟子織ハ泉藤右衛窮殿ノ儀卜景勝様へ御奉公鼓 串,知行三蕎石取披傘,懇種宮内少鞍懸心二罷 成,最上練ヘモ綾羅立躾。其後慶長七年二鍛ヲ 講綾羅旗。其以後趨馬標二郷奉公被串二付,古 購善兵衛卜入魂ハ畿筋§エテ御壁躾。然ル解二 麟台ト梅馬様山鬘堂不準鑑得ハ,泉藤右籍響父 子奉薄 郷公儀様へ,身上一大事二罷成躾数,

善兵籍殿へ詫叢綾牢,藤代無御壁繰出中入金工 羅紋躾二村テ,崇藤海霧欝殿ヨ琴古撲善兵籍殿 へ右ノ戯入合二串定躾験御慶躾。申井塚ヲ米沢       じ 

頷ト串立躾密 麹二御藻韓癸。娘羅華中井塚ヲ米 沢籟トハ不幸儀二御壁躾。掘馬衆鶴ヲ被牢懸繰。

      う米沢鑛大石毒ヲモ中井塚ト糖馬衆綾串躾ハヒカ 事二郷痙躾事。

一,玉野樗元来米沢顧二郷鰹躾i。無断ヲ穣馬様

   げく     なう

郷1先縷盛機様御代二藤江出城殿3り御達躾テ勝 ヲカ董タ牢,玉野町二差置躾譲書士1申鋸i。是以大 成鶴リ二郷整躾。其手継ヲ慶長三年二横蟹大学 卜串モノ趨駕3琴南買ノ塩荷,勝達膳夫へ運送 ノ為メニ,玉野嶺中二新鋳ヲ取立,種馬ヨリ参        三一とヨ

鰻塩荷ノ馬衣二仕立繰。其後福島二奉行平縁蔵

 ぐ      ヨ

入,地見分仕,場露悪越トテ右ノ玉野黛弓拾八 舞縫方へ引猴テ,新麟嚢立牢霞。是只今ノ玉聾 警二郷甕娯。横霧大学猛立躾玉野ヲハ本玉野ト        じ ぎヨ

申猴iテ,予今其地形御甕験。其上至野替来沢頭 ノ謳文鈍方二郷痙緩事。

一,寛旗ナ年三為御靉靆分翻左京様・種綴善左 衛門様・大海内平十郎様舞髭廼ノ時分,御案(内〉

ヲ仕様子串上盤ト有之儀.大二鰻遠江テ御連躾。

靉靆ハ石霧大石迄御達。ソレ3書展{二麟台へ御 通奥方御酒盤テ,癖馬へ郷越,ソレ3夢モ玉野 由へ御墨ノ時分,擁馨卒擦婆瞭・堀窃迄御達二,

我々美麗雀躾所二,簿靉靆御三人様下馬破戒,

縫馨ノ様子御尋躾間,様子具工率.と躾。勿譲綴

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