10月15日 大分県直入郡久住町市 宮処野神社神保会
宮処野神社はもとこの地方一帯の郷社であるが、その氏子圏は可なり広い久住高原地帯に飛々にある集落、1100 戸に及んでいるようである。神保会はこの地方の住民の秋の収穫に伴う、あわただしい労働の終りを告げる感謝祭 のようでもある。
この地方の秋の労働はまづ高草に生える雑草の「刈干し切り」に始まる。9月15日の口あけ(解禁日)の日から、
男女の労働力は朝露を踏んで後にそびえる大船山(1,787m)に草刈に上る。柄の長さ1m位もある鎌で雑草を薙倒 すのである。
而して比較的長い草の根元と草先を互い違いに束ねて積重ねて行くのを縦草、短い草を右、左、前で刈り踏束ね るのを箱根草というが、これは家畜の飼料と厩戸の敷草に刈り分けるためでもある。刈干し切りは雪と紅葉に追わ れつゝ山頂から裾野へと刈下る。
朝刈って帰るを朝草、午後から再び刈りに上るのを「追返し」といって昔は牛1頭に50駄も刈ったという労働で あった。
刈干し切りが終るとすぐ稲刈りである。而してそれが終りに近づくと神保会がやって来る。
15日は「お下り」といって、御神体の3基の神輿は約1.5キロ離れた下宮(浜宮とも)まで神幸され、翌16日は
「おのぼり」といって還幸祭がある。お下りは午後3 時には始まるという話であったがとうていその時刻には出発 しそうにもなく、実際は午後6時頃に発輦して浜宮入りは午後10時頃になるらしい。
宮処野神社の創建は相当古いらしい。祭神は景行天皇、日本武尊、嵯峨天皇の 3 神で、景行天皇の土グモ族討伐 の伝説にも継がる。この地は元来狩猟民族の拠った所らしく、都野という地名は景行天皇が行宮を定めて兵を集い、
そのとき神社を創建したと伝える。また鎌倉時代建久 3 年(1192)には源頼朝が新田四郎忠常に命じて、巻狩りの 古式を伝える阿蘇社家の総指揮で農民数百人を動員して久住高原まで巻狩の諸式を習得したともいう。これも、も とは放牧地の野獣を退治する農民の習俗から出たものといゝ農民が集団となって、サヽラ竹を叩き、トキの声をあ げて野獣を追うた習俗から発したもので白熊(ハグマ)はこのとき野獣を追うた道具を転化して「八門遁甲」の陣 を敷いた巻狩の武士の用具であったという。
宮司、吉野家は1600年の系図を所有しているが、13世紀に大分の豪族大友氏が宮を修理し、神田を寄進して神馬 を放ったとある。
神幸式は猿田彦を先頭に6頭の獅子が出る。この獅子は2頭1対で3組出るが、現在、仏原、桑畑部落がそれぞ れ1組づゝ下川原と原部落が共同で1組出す。
下川原で実際拝見した獅子頭は可なり大きな、鼻詰り型のもので2人使い、下顎を紐で鼻頭の所で結ぶ。8人の小 年が黒衣、赤襷がけで、切紙で縁取った団扇を持って後から獅子をあふぐように踊りこれにつれられて獅子は踊り つゝ進むという。
その後を2組の白熊練(ハグマネリ)が続く。白熊は1組は有氏部落、他の1組は新田、筒井、長野の3部落が 共同で出す。この白熊練には歌が入るらしい。唯午後3時半頃までには全然姿を見せなかった。
神輿は3基、市、石田、柚柑子の3部落のものが夫々舁ぐ。3部落は神輿舁ぎの外に花傘を出す。
これが神幸行列の中心をなすもので、そのうちでも獅子舞と白熊練は可なり立派なものらしい。
神保会はまた、かたげ市ともいって祭日当日、昭和の初期までは渡御の沿道に市が立ったらしい。かたげ市あま た「このごに」ともいって、当日夜は万葉時代の歌垣や「かがい」にも似た風習が永く残っていたといわれている。
市で集団的に男女掛合いの応答歌が即興的に歌われて相手の娘の肩に手拭を掛けるがそれを払い除けないでその まゝ掛けているのは同意の印で、その娘を担いで行ってもよいとされていたようで、この風習は昭和の始めまで残 っていたという。
今日祝歌として残っているのがそれで、男が求婚歌を掛けると女はそれに答えて
「わたしや野に咲く野菊の花よ 折らば今折れ主ないうちに 花の香りのあるうちによいやな」
と歌ったという。
現在は鳥居の中の参道に露店商が全国共通の店をいくつか並べているに過ぎず、その偲影を訪ねる由もない。