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化学と生物 Vol. 55, No. 7, 2017
本と人工知能をめぐる実験
生方 信
北海道大学名誉教授2015年の初冬のことだった.ふと思いつ いてクラーク会館食堂で早めの昼食を済ま せ,近くにある北海道大学生協の本屋に立 ち寄った.大学生協の本屋なのに客は私一 人だった.毎日来店する老教授を気遣って か,専用(?)の椅子を用意してくれた.
研究室に売り込みに来る書籍部の女性に,
「これだけ留学生が増えているのだから,
洋書をもっと充実させたらどうですか」と 提案した.洋書は返品が効かず,紙ベース での文化的鎖国が続いているようだ.それ でも期間限定の洋書コーナーが用意された が,相変わらず私一人のことが多かった.
2016年の新学期が始まると,教科書を 購入するための新入生や学部移行生で賑 わった.しばらくすると潮が引くように客 足が途絶えるのだが,この年は違った.毎 日複数の客が昼休みを本屋で過ごすように なり,1年続いた.「若者がスマホばかり で,本を読まなくなった」と嘆く声が時々 聞こえてくる.「若者は素晴らしい.スマ ホも世界中の情報があっという間に手に入 る良い時代になった」と反論するのだが,
やはり心配ではある.私が教養部から農学 部への移行を決心する際の決め手となった のが,坂口謹一郎著『日本の酒』,『世界の 酒』である.文章の香りと誠実さが伝わっ てくる名文.時間や空間を超えた人物に,
教えを受けなくても書物などを通じて接す ることができる.スパニッシュ様式の時計 塔の下,北大農学部の暗い廊下を歩いてい
ると,向こうから森 樊須教授がやってき た.若き日に耽読した鴎外を彷彿とさせる 独特のオーラを放っていた.後年になっ て,同僚となった後継教授の一人に「文章 はうまかったですか」と聞くと,「いやー.
でも僕らの研究はプロの仕事だと云ってい たよ」
.何だか樊須先生が好きになった.
学問のことを考えた場合,人工知能(AI)
は計り知れない恩恵を学ぶ者に与えてくれ る可能性がある.ディープラーニングをも のにしたAIの登場は画期的で,うまくす れば人類を,ある種の軛から解放する方向 に向かわせることができるかもしれない.
「シンギュラリティ」への恐怖よりも,思 い描いていた21世紀の情景に近づいてきた という嬉しさのほうが勝る.世界には解決 すべき問題が山積している.フロンティア が残っている化学と生物の境界領域で,
AIの支援で立案された戦略(ロジック)
,
本(読書で得られる感性),
そして実験(実行)により,人類の福祉と生存に貢献 する新たな仕事が生まれてくることを期待 したい.
2017年の新学期にも,たくさんの新入 生,移行生が生協の本屋に来ている.一カ 月たっても客が引ける気配はない.どうや ら私の実験は成功したようだ.
Copyright © 2017 公益社団法人日本農芸化学会 DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.55.439
日本農芸化学会
● 化学 と 生物
巻頭言 Top Column
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プロフィール
生 方 信(Makoto UBUKATA)
<略歴>1975年北海道大学農学部農芸化 学科卒業/1980年同大学大学院農学研究 科博士課程修了(農博)/同年インディアナ 大学化学科博士研究員/1982年理化学研 究所特別研究生/1984年同研究所研究員/
1988年農芸化学奨励賞/1992年同研究所 副主任研究員/1995年富山県立大学工学 部教授(生物工学研究センター)/同年住 木・梅澤記念賞/1998年同大学大学院工 学研究科博士課程教授/2003年北海道大 学大学院農学研究科教授/2015年同大学 大学院農学研究院特任教授・名誉教授/
2016年日本農芸化学会フェロー/2017年3 月同大学定年退職/同年同大学非常勤講 師・名誉教授/同年日本農学賞,読売農学 賞<研究テーマと抱負>難治性疾患に対す る農学系創薬・治療法の探索,化学と生物 をつなぐこと<趣味>乱読,執筆活動
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