地l大内網羅的当事者組織としての分析
岡 知 史
平成3年3日
上智大学文学部社会福祉学科
25
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について
地区内網羅的当事者組織としての分析
岡 知 史
1.考 察 の 対 象
1.1.問題意識
欧米で展開されているセルフヘルプグループ論を,日本の当事者組織論に重ね合わせようとす るとき,ひとつ難点となるのは,「自発性」あるいはボランタリズムの問題であろう.実際,私 は以前,社会福祉協議会でその結成を促した父子家庭の会について,当事者組織論の視点からか なり詳しい考案を行ったのであるが=,その出発点からして欧米のセルフヘルプグループとは かなり異なるのである.つまり,該当地区内の父子家庭の住所と氏名を調べ上げ,そこに案内状 を送り,組織結成の契機を与えようとしたのである.ところが,イギリスのあるセルフヘルプセ ンターで,この組織化の経過を話すと,それは危険な方法だと批判された.つまり,民生委員の 協力で該当者を地域から捜し出して,その該当者だけの組織を作ろうという発想は間違いだとい
うのである.
その批判を受けて以来,私は日本の当事者組織と欧米のセルフヘルプグループの違いを考えて きた.たしかに違いはたくさんあるように思えるのだが,その速いがどこからくるのか,どれが 本質的な違いで,どれが末梢的な違いなのか,遅いそのものをどのように理解すればいいのか,
よくわからなかったのである.
そこで私は,昨年度は,日本の伝統的な相互扶助組織の検討から始まり,そのような相互扶助 の伝統が今日にどのように受け継がれているのかを考察した.そして一方で,日本の障害者連動,
患者運動の歴史を簡単に振りかえってみた12).そこで.欧米では,社会変革的な相互扶助と個人 主義的な克己的自助という二つの流れがあるのに対して,日本には,伝統的な相互扶助とその伝 統的・抑圧的な構造からの解放運動という二つの流れがあることを示したのである.
しかし,それだけではまだ不十分であろう.欧米のセルフヘルプグループと日本の「当事者組 織」といわれている組織の問の本質的な違いを,もっとより明確にするために,ここでは,日本
の文化的特質がよく現れているように思われる「当事者組織」,あるいは(この用語の方がより 正確であろうが一3リ「自動的相互扶助組織」のひとつの典型を詳しく検討してみることにしたの である.
1.2.地区内網羅的当事者組織
そのひとつの典型というのが「地区内網羅的当事者組織」と,私がよびたいものである.それ は以下の2つの特質をもつ「当事者」の組織である.すなわち,
(1)「地区」の強調:当事者組織を結成・運営するにあたって,その活動範囲としての「地区」
を強調していること.地区とは,すでに行政組織からあるいは慣習的に境界の定められた区域を いう.小さな地区として,町内会・自治会の区域,学区,連合町会の区域などがある.中規模の 地区として,市町村,大きな地区として都道府県,全国がある.地区の強調のもっとも具体的な あらわれは,組織の会員の条件として地区の住民であることを重要視していることがあげられる.
(2)メンバーシップの網羅性:これは狭義には会員の「自動加入制」あるいは「当然加入制」
を意味する.すなわち,会員の条件としての「地区」を重要視するために地区に住む該当者は
「全員会員である」と会則などで定めていたり,あるいは,「地区」内の住民が該当者は当然入 会するべさだと考えているために,結果として全員が会員になっているとき,これを狭義の「地 区内網羅的当事者組織」と考えたい,これは町内会が町内の住民を「自動加入伸」あるいは「当 然加入15)」させているのと似ている.したがって,どの町内にも町内会員ではない住民がいるのと 同様,実際の地区内網羅的当事者組織が地区内に会員ではない当事者を「残して」いることもあり
うるだろう.また,会自体は地区内の該当者を全員網羅的に組織化することを目指しながら,ま だそれに至っていない場合がある.そのような場合も,他に並びうる組織がないとき(つまり会員 外の該当者は他の組織の会員ではなく,単に当該組織の未加入者としてのみ理解されうるとき),
しかも多くの該当者をすでに組織化しているときには,メンバーシップの網羅性は潜在的・可能 的にあるという意味で,そのような組織を広義の「地区内網羅的当事者組織」としたい.しかし,
ひとつの組織が多くの地区をその活動範囲としてもっている場合,ひとつの「地区」において狭 義の「地区内網羅的当事者組織」であり,同時に他の「地区」において広義のそれであったりす
るわけであるから,この二つの区別は特にしないで,以下,論じていきたい.
注:
(1)平野隆之・岡知史・町野宏・赤坂由紀夫「父子家庭:くらしの実態と当事者組織への道」ミネルヴァ書 房,1987.
(2)岡知史「日本におけるセルフヘルプ:そこにみられる相互扶肋の伝統と自立=解放運動の流れをめぐっ て」上智大学社会福祉研究平成元年度年報.
(3)なせなら「自助」という言葉も「相互扶助」という言葉も,以下に述べる団体の出版物には,自己の活 動を描写するときに用いられているからである.一方,「当事者組織j という用語は通常.用いられてい なかったようだ.
(4)町内会の「自動加入」については,近江哲男「都市と地域社会」早稲田大学出版乱1984.p.164.参照.
(5)日本の組織かしばしば「当然加入」という性格をもっていることの文化的・歴史的背景を考慮した文献
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について 27 として,玉城哲「日本の社会システム‥むらと水からの再構成」農山漁村文化協会・1982・をあげておく・
ここで玉城は「当然加入j原理という概念を提出している.
2.身体障害者福祉協会
2.1.日本身体障害者団体連絡会
第1の事例として,日本身体障害者団休連絡会に屈する身体障害者団体(ここでは以下,身休 障害者福祉協会,あるいは単に協会とよびたい)をとりあげたい.
日本身体障害者団体連絡会は,1958年に,全国身休障害者団体連合会(全身連)と全日本身体 障害者福祉団体協議会(全日身協)等か合併した形でスタートした全国的組織である=
その会に所属する団休は,1都1道2府43県.それに11政令指定都市に加盟団体がそれぞれひ とつずつある.それに,日本盲人連合と全日本ろうあ連盟が加わり,合計60の団体から組織され ている.各加盟団体は,社団法人(17団体),財団法人(20団体),社会福祉法人(15団体),
任意団体(8団休)という形態をとっている(2}.
日身連の加盟団体が,行政機構の枠組どおり1都1道2府43県,11政令指定都市につくられて いることは,行政機構との深いつながりの結果であると考えられる.日身連の最近の大会プログ
ラム(3) をみても,君が代斉唱からはじまり,宮城県知事,仙台市長の「歓迎のことば」,厚生
大臣,労働大臣,文部大臣,宮城県議会議長,仙台市議会議長の「祝辞」が続いている.また,
平成元年度の事業報告によると,その加盟「団体の役職員,事務局長ら約130余名が受講した」
とされる「組織団体指導者研修会」では,「障害者対策の推進について」「身体障害者福祉法に よる平成2年度予算概算要求の焦点」と題して,総理府。障害者対策推進本部担当室長,厚生省 社会局更生課長が講師にたっているい=.その平成2年度運動方針の冒頭に述べられているように
「障害者の福祉は,立法,行政に依存するところが多い.というより依存せざるを得ないといえ
るだろう(5)」という対行政観をもったこの組織としては,大会宣言案=‖ のなかにも見られる「官 民一体となって」という言葉で集約されるような形の運動を進めていこうとしているのであろう.
2.乙 道県単位の身体障害者福祉協会の結成
全国組織の日身速から,都道府県単位の身体障害者福祉協会に目を転じてみたい.入手した資 料の関係から,次の4つの組織の結成の経過についてのみ考察したい.
まず,山形県の協会と鳥取県の協会の結成経過を述べた部分を抜粋すると,
「山形県では,昭和25年4月から身障者福祉法を施行するために,民生部社会課内に更生係を設 置し,まず県下各市町村において身障者の実態調査を行ない,該当者の把握と法の普及・啓蒙 に努めた.これに刺激を受けた一部障害者が中心となって,県内各地に互助団体結成の動きが 見られるようになり,昭和27年4月までに山形,米沢,酒田,新庄の各市のはか,最上部と東
置賜郡に身障協会が結成された.このように市および町村(郡)協会の結成にともなって,県 の連合会をつくるべきである,という声が高まってきたため,県社会福祉協議会の協力により,
……昭和27年4月21日に県社会福祉協議会に各郡市の代表15名が集まり……設立準備会が開か れた.このとき 早急に連合会を設立すること の申し合わせがなされたが,その後の未組織 郡の結束がおくれたために設立の準備もおくれ,翌年の……3月21日にも設立総会の準備会が 開かれて,……昭和28年5月27日,山形市の県町村会館に多数の来賓と,およそ80名の身障者 の代表が参集して結成総会が開かれた(7)」とある.
鳥取県の協会の場合は,
「昭和25年4月1日,〔身体障害者福祉法が〕実施されたのであるが,法の実施にあたり,県下 各市町村においては,身体障害者の基礎調査を行ない,該当者の実数の把握と福祉行政の執行 にあたるはか,法の普及と啓蒙に努めたのであるが,それに刺激を受けた一部障害者が中心と なって,県下各地で互助団休結成の動きが,見られるようになってきたのである.県下で最初 に結成をみたのは西伯郡渡村で……続いて……鳥取市身休障害者福祉会を結成するなど,県下 各地で,互助団体結成の機運が高まってきたので,東伯郡協会の竺長氏が中軸となって,竹内 県厚生課長,及び早川県議会議員と再三に亘り協議の結果,了承を得たので,各郡市の代表が 集まり,……日盲連傘下の県盲人会,日ろう連傘下の県ろうあ者協会と郡市協会と大同団結し て,……県同胞援護会事務局長……の肝入りで,……代表者が集まった(8〉(〔〕内は岡が記 入)」とある.
これを比較してみると結成過程に多くの類似点があり,また類似の語句が使われていることに 気づく.両者に共通する過程をとりだすと,
(1)身体障害者福祉法の実施に伴い,行政機関は,障害者の実態調査を行い,「法の普及と啓 蒙に努めた」.
(2)それに「刺激を受けた一部障害者が中心となって」県下各地に互助団体を結成した.
(3)県の連合会をつくるべきだという声が高まって,山形県の場合は県社会福祉協議会の協力 で,鳥取県の場合は県同胞援護会の協力で,それが結成された.(山形県の場合,県同胞援 護会は山形社会福祉協議会に受けつがれた(9)から,実際はどちらも同じ性格の組織によっ て援助されたのである.)
という過程をたどっている.
静岡県身体障害者団休連合会の場合は,少し異なっている.それは全身連の大会が1951年11月 にあるという通知が,自由党静岡県支部にあったが,その当時,県には代表として出席できるよ うな組織がなかった.そこで傷痍軍人である陰山七五郎と,県議会民生常任委員長,県民生部厚 生課社会係長,自由党県支部書記の4人が代表として参加した.その後,その出席者が中心とな
って,1952年1月に陰山七五郎の自宅で第1回静岡県身体障害者団体結成準備会を開く.その第 2回会合は県庁自由党議員控室において行なわれる.そして第3回,第4回と準備会を重ねて,
1952年3月9日には結成大会が開かれる.その経過からして,自由党と行政機関が深くかかわっ
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について 29
ていたことがわかる(==
もうひとつ,北海道身休障害者福祉協会の場合 11)は,前の3者とくらべてかなり異なってい る.札幌には視覚障害者が経営していた「日の出治療院」という按摩。マッサージの店があり,
多くの視覚障害者の社会的自立を支援していた.その店を拠点として,視覚障害者たちの運動が 広がっていたのである.そして1949年ごろ,視覚障害者たちは道政に働きかけることを考え,道 議会議員本宮章太郎(社会党)の協力を得ようとした.本宮は道内の当時財政にゆきづまってい た私立の「特殊学校」(障害児のみを対象とした学校)の多くを道立移管にしたという功績の持 主であった.この本宮か視覚障害者たちに与えた助言というのが「北海道身体障害者福祉協会と いう大きな組織を作る意図をもっていながら,視覚障害者だけで発起人会を作ることは,身体障 害者福祉という広い概念と高い理想からみて,その領域があまりにも狭く感じられる」,だから,
他の種類の障害者を含めた形で進めていった方がよいということであった.そして1950年4月,
設立総会が開かれた.結成の時期は,山形県では1953年5月,鳥取県では1950年12月,静岡県で は1952年3月であったから,北海道は比較的早くできたのだといえよう.なお,結成にかかる一 切の費用は,北海道の場合,視覚障害者が経営する「日の出治療院」という一民間団体が出して いたのであった.
以上をまとめてみると,北海道のケースを除いては.かなり行政機関が結成にかかわっていた ことがわかる.また,静岡県のケースからわかるように,終戦後においては,傷痍軍人たちの働 きも忘れてはいけないのである.それについては次章で述べることにするのでここでは触れない ことにする.
2.3.初期の子吉動
上記の4つの組織は,結成後,どのように活動を展開していったのであろうか.
まず,山形県の場合をみると,その結成趣意書(pp.8−9)には,これまでの経過として「県下各 地方においては,身体障害者福祉法の施行と同時にその趣旨の普及徹底を図るため身体障害者団 体を結成し,県の行う身体障害者更生福祉施策に協力しっっ健全な発展を遂げて参りました」と 言われている.また,その後は「本連合会の結成により政敵 又は県並びに関係団体の社会福祉 施策に積極的に協力して身体障害者福祉法及びその他関係援護法の趣旨の周知徹底を図り」たい と言う.つまり,ここでは「法の趣旨の普及」と「行政機関への協力」が重要な目的として意識 されていたのである.
「法の趣旨の普及」は具体的には「身障者手帳交付促進運動」という形をとってすすめられた
(p.50).これは当字札 県が「年数回にわたり身障者更生相談所の移動解説を行なうなど,手帳の 交付と自立更生の促進に力を入れてきたが,身障者に対する家族や社会の理解が乏しかっただけ に予期したほどの成果はあがらなかった(p.50)」からである.1951年当時,山形県では約1万 1千人の身体障害者がいたが,そのうち手帳の交付を受けている者は約6割にしかすぎなかった とされる(p.50).
鳥取県の場合は「県内に在住する身体障害者手帳を所持するものをもって,会員とすると規定
しているだけで,統一した組織体制は擁立していなかった(p.2)」.したがって組織を整備す ることが第1にしなければならない課題であった.これについては次の節で述べることにする.
静岡県の場合も,やはり第1の課題として「下部組織結成の促進化(p.85)」があげられてい た.さらに,興味深いのは「財源作り」にかなりの労力をのさいていることである.それについ て,同組織の副会長は次のように言う.
「会は発足したものの,その運営費や事業費の財源には問題が多かった.民主的に下から盛り 上がる意識が旺盛で,新しい身体障害者福祉法の精神をよく理解した上でのことなら問題は無 い訳であるが,実際は啓蒙啓発を先ず必要とした.それは官庁役所が指導するというのでは
とても型にならないので,どうしても我々の団体がやらなければならなかった.新しい理念 に基づく法の精神は,「社会連帯」である.しかし一般社会はもとより,身障者自身も一般的 にはそこまで進んだ考えはなかった.こうした人々を会員として会費を徴収するということに なると,折角できた団体も,そのことで脱落者が多く出るような,もろい認識程度を基盤とし た団体の弱味がそこにあった.故に会費は「無し」ということにした(p.279)」
その当時の組織のリーダーたちの苦しい胸のうちが伝わるようである.そこで彼らは「洗髪粉」
や「鉛筆」を売ったりして収益を上げようとするのであった.
さらに,静岡県の協会が行なった事業で特筆すべきは,全国で最初にはじめた身体障害者相談 員制度である.これは後の節で詳しく述べる.また,この協会の歴史において最初に重点的に取
り組まれたのが,山形県の協会と同じく「手帳」の普及連動であった.それは「会発足早々から 最重要事業の一つに捉え,対象と思われる在宅障害者に対し積極的に呼びかけ,毎年度県が実施 する巡回診査,更生相談等々の機会を利用し,手帳の交付を受けるよう促進に努めてきた(pp.
29卜292)」.
最後に北海道であるが,やはり当初は支部・分会づくりにエネルギーを集中した.このときに は,「民生部社会課や各支庁の社会福祉課などが……積極的に支援の手を差し延べ,現地市町村 での障害者集めについていろいろな配慮と,関係方面に対する啓蒙宣伝に何かと,積極的な力を 貸してくれた(p.13)(下線部は岡による)」という.しかしながら,この組織において特徴的 なのは,当初からの強いソーシャルアクション志向であろう.その「30年史」においても「事業 の推進」というタイトルのもとに書かれた過去の事業の振り返りにおいて,第1にあげられてい るのが「陳情,請願.建議,要望等」である.それによると「これまでに第25回の道大会,第22 回の日身連大会(全国)が行なわれ,討議の結果採択されたもので,なお陳情,請原頁を継続中の
もの,大,′ト議案を併せ180件余に及んでいる(pp.4卜42)」という.例えば,遺に対して,1957 年,「道営公営住宅第2種に身障者世帯を加えることを決定(p.43)」させている.これは全国 に先がけて実施されたことであった.
また「身障福祉運動の展開が斎らす波及」として,ラディカルな身体障害者運動を進めたこと で知られる青い芝の会(12)の発会とその大会が,重要な項目のひとつとして取り上げられている
(p.66−68).さらに,事務局長∵副会長として18年間勤めてきた本宮幸太郎(前節参照)に対し て,「『身体障害者の団体の役職員は,総べて,身体障害(ママ)であるべきだ』ということを理
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について 31 由として▲…‥猛烈な排斥運動」が起こったこと(pp.172−173)も,この組織のソーシャルアクシ
ョン志向を物語るようである.
2.4.会員規定と組織率
さて,このように初期の活動を展開してきた身体障害者福祉協会であったが,その会員の性格 はどのようにとらえられていたのだろうか.
山形,鳥取 静岡の県協会のように,現在,社会福祉法人になっているものについては,会員 規定にはあまり意味かないと思われるので,活動当初の会員規定,あるいは支部の会員規定につ いて若干みてみたい.
山形県協会の協会史においては特に会則についての記述がないので,鳥取県の場合から考察を はじめる.鳥取県の協会では,先述したように「県内に在住する身体障害者手帳を所持するもの をもって,会員とすると規定していた(p.2)」.そして「県に本部を,各郡市に支部を,各町村に 分会を置くこととし,市町村の′ト学校区を単位に班を置くこととした(p.2)」のである.まさに 網の目のように組織をつくることを目指した(13】のであるが.実際の支部レベルではどうだった のか.
支部レベルの会員規定については,「鳥取県身障福祉30年誌」に明記されているもののみを取 り出すと,
。「会は鳥取市に居住する身体障害者手帳所持者で組織する」(鳥取支部:昭和49年より実施)
/「正会員とは,本市に在住し,身体障害者手帳の交付を受けている者をいう」(境港支部 二昭和54年より実施)
・「この支部は,身体障害者手帳を所持するものを以て組織する」(倉吉支部:昭和31年より
実施)
・「この会の会員は,東伯郡内に居住し,身体障害者手帳を所持する者及びこの会の趣旨に賛 同する者をもって組織する」(中部支部:昭和53年一部改正)
・「本会の会員は,東伯郡内に居住する身休障害者手帳を有する者はすべて会員とする」(東 伯支部:昭和25年より実施)
これをみると,鳥取支部,境港支部の会員規定事項は全く同じであり,中部支部はそれに加え て「会の趣旨に賛同する」人をも会員として認めている.また,倉吉支部では(自明のこととし て省略したために)居住場所の条件を認定していない.東伯支部は,ここでいう狭義の地区内網 羅的組織に相当する会員規定を行っている.すなわち,該当地区に居住する該当者をすべて一方 的に会員にしてしまっているのである.
静岡県の場合をみると,発足したばかりのとき(1952年)は「団体連合会」という形をとってい たため,会員規定の代わりに「静岡県内の身休障害者の団休で構成する」という一文が入ってい る(p.480).他に何の規制もないわけであるから,静岡県内で身休障害者の団体をつくれば,自 動的に(あるいは当然に)この連合会に入ることになるわけである.しかし,このような網羅的 な会員規定をもつ会則は,組織が社会福祉法人となり「静岡県身体障害者福祉会」と名称を変え
るとき(1958年)には,同じく変えられ,「本会の事業に賛同し且つ必要なる経費を拠出するも の」という条件が与えられた上,そのような条件を満たす「郡市身体障害者団体会員」か「身体 障害者の施設従事者」であるとされる(p.488).
北海道の場合も,1950年の総会で決議されたときの規約においては,会員は「道内に居住する 身体障害者(以下「正会員」と言う)と本会設立の趣旨に賛同し,且つ目的達成のために協力す る,篤志家(以下「賛助会員」という)」であるとされた(p.9).道内に居住する身体障害者は 自動的に会員とされたのである.ところが,ここでもまた静岡県の場合と同じように,1962年に 社団法人となったときに会員規定は変えられ,「正会員」は「道内に住所を有する身体障害者手 帳所持者で入会を希望するもの」というように,入会希望の条件が付与されたのである(p.20).
静岡県と北海道の事例を見ると,地区内に網羅的な会員規定を当初はしていたが,昭和30年代 になって組織を法人化する段階になって,「会の趣旨に賛同する」ないし「入会を希望する」と いう条件を追加したことがわかるのである.
さて,このように当初は会員規定からすでに地区内網羅的であったこれらの組織は,実際には どれだけの該当者を組織のなかに組み込めたのであろうか.それが次の関心事であろう.
山形県の場合を見てると,その組織は「18歳以上の身体障害者手帳所持者」を該当者とみてお り,その組織率を1963年以来計算している.それによると,1963年の62%をスタートとして,
1978年の77%でもって最大となる.以後,1980年の75タ カ、ら,1981年の71%に下がり,その後 1987年まで,70%の高加入率を維持している.協会はそれを「加入率が伸び悩んでいる」ととら え,「身障者の高齢化や重度化傾向」が「一つの要因と推測」している(p.350).しかし,加入 率70%というのは,はとんど網羅的に加入勧誘が行われている結果とみることができるのではな
いだろうか.
このような傾向は,都市部と町村部では差があるのだろうか.それについては,1968年と1976 年に市町村別に加入者を調べた資料(表1)(=)があるのでこれを見てみたい.
それによると,全体では組織率は69%から73%にあがっている.市部だけでは少し組織率は低 いが,それでも64%から67%に上がっている.町村部では76%から85%に上がっている.市部で は.13の市のうち,7つの市において組織率は下がっているが,それでも最低の長井市において さえ48%の組織率である.非常に網羅性の強い組織であると言えそうである.
鳥取県の場合は,先にも述べたように原則的には「地域内に居住している身体障害者手帳所持 者は会員である」という規定をしていたから,組織率を出すことにはあまり意味がないのかもし れない.しかしながら,その「30年史」にはところどころに組織率を計算可能にさせるような記 述がある.例えば,鳥取市では「障害者の方か3000人を超すと云われておりますが,身体障害者 福祉協会に,加入されているお方は僅かに800名に足りません(p.251)」といわれる.800名とし
ても,27%の組織率である.また若桜町身体障害者福祉協会では「若桜町身体障害者全員入会し,
二百十数名が自力更生を目指し活躍している(p.292)」という.それ以外には組織率を換算させ るデータは提示していない.というより,現在の会員数すら提示されていない.
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について 33 静岡県の場合は,1982年現在,県全体で会員が29335人 そして18歳以上の身体障害者手帳の
所持者数が63818人.したがって組織率(当該組織は「加入率」という言葉を用いている)は,
4即右であるという(p.470).
北海道の場合は,1975年5月の時点で会員は33234名であった.1975年3月31日において身休 障害者手帳所持者数は109686であるから,それだけをみると組織率は約30%ということになる.
地区単位で詳しくみるために,1977年度の十勝支部を例にとると(表2)(15),全体としては64%
の組織率であるが,大樹町(10000),新得町(97Po),幕別田丁(91%)の高率の組織率を保って いる地区もあれば,清水田丁(28%),文別町(28%)など,かなり低率に留まっている地区もあ ることに気づく.
高率の組織率を保っているのは,どのような方法によってなのかという問題が残るが,これに は神奈川県愛川町の事例を見てみたい.神奈川県身体障害者連合会(16)は,27の団体をその構成 員としてもっているが,地区内の身体障害者手帳保持者数と会員数を比べてみると(昭和60年3 月現在),団体ごとの組織率の平均は24.6P占,全該当地区内の手帳保持者(43773)と会員数の合 計(9001)を比較すると,組織率は20.6%である.全体として網羅的組織とはいいがたいはど低 い組織率であるが,愛川町はそのなかで抜群の高組織率を保っている.その率は昭和60年3月現 在で78%,平成2年3月で759右(17)に及んでいる.その理由としては,町が独自に3名の身休障 害者相談員を設置しており「身障手帳の配布は福祉課から相談員が受領し本人の手に渡す」とい
うシステムをっくっている 】8)ことであろう.その際に相談員は組織について説明し勧誘を行う のである.入会申込書を付けたパンフレットには「現在,町に住む障害者の70%以上の方々が入 会されています」という記述かある.
ともあれ,全体として言えることは,地区によってかなりの差はあるにせよ,一部の地区では 地区内網羅主義が充分に機能していると言ってよいほどの高い組織率を保っている協会かあるの である.
2.5.身体障害者相談員
最後に身体障害者福祉協会について特筆すべきことは「身体障害者相談員」という制度との結 び付きである.
そもそも相談員制度は静岡県で「引佐郡身休障害者団体連合会の発案として…・‥郡社協会長の
指名を頂き(p.135)」行われていたものを,「昭和34年度県身体障害者福祉会において‥=‥ 取り 上げ23名を会長委嘱とした(p.135)」のか始まりであった.以後,この制度は全県に広がり,昭
和35年度(1960年度)には県からの委嘱の事業となる.さらに昭和42年度(1967年度)からは,
身体障害者福祉法のなかに取り入れられて全国的に実施されるようになった.
この制度は静岡県においては県からの委嘱事業であり,したがって相談員も協会の会員のなか
から選ばれることになろう.協会では相談員の研修を「本制度の設置以来・‥… 重点事業として.
毎年実施している(p.296)」が,「この研修に参加し,今日本会のリーダーとして活躍している 方々も多い(p.296)」という.さらに,相談員の活動は大きく「地域活動」「関係機関(との連
︵だのtふ冨璧 辞 ︵岩竺︶踏 破 窃 ︵冨≡︶掛 堰 感 ︵だ竺︶#
くl⊃(⊃・・・→⊂⊃l∫)【\lCl巨l⊃寸 『■ H001;く)
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終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について 北海道身体障害者福祉協会十勝支部の組織率(1977年度)
35
町 村 名 手帳所持者散 会 員 数 組織率(%)
音 更 町 士 幌 町 上 士 幌 町 鹿 追 町 新 得 町 清 水 町 芽 室 町 中 札 内 村 更 別 村 忠 類 村 大 樹 町 広 尾 町 幕 別 町 池 田 町 豊 頃 町 本 別 町 足 寄 町 陸 別 町 浦 幌 町
合 計
8 5 3 4 8 0 2 5 8 12 6 310 2 5 5 201 78 3 5 9 3 5 0 529 15 0 5 2 3 3 9 8
284 284 3 41 212 327 298 298 159 213 154 3 54 91 3 5 8 2 9 3 14 0 117 310 14 0 5 9 01 3 7 6 0
表2:北海道身体障害者福祉協会(前掲書)pp.350−364より作成.
絡・調整という意味であろう)」「啓蒙活動」という3つのカテゴリーに分けられているが,そ のうち「地域活動」が大半を占めるという統計が出ている(p.473)のも興味深い.相談員の活動 のなかに「団休入会指導」というものもあり,協会の組織的活動・維持。正当性(1egitimacy)
にとって,おそらく相談員制度は有利に働いているように思われる.
鳥取県の場合は,鳥取市支部,米子市支部の役員名簿には「相談員」が役職名として記載され ており,また昭和54年度の相談員名簿によると,両支部の役員として記載されている人以外は,
両地区の相談員とはなっていない.現在は「本県(鳥取県)の相談員は,全員身体障害者福祉協 会の会員である(==」という.
山形県の協会史を読むと,この相談員制度が会員たちの強い要望に基づいてつくられたことが 記されてある.すなわち「会員の中から身体上の悩みを同じ障害を持つ仲間から聞いてもらい,
行政当局とのパイプ役を果たしていただけるかたがはしい,との要望が会合のつどだされていた.
身近には民生委員がおり,その役割をになうこととされているものの肉体的なこととなると打ち あけ難い(p.73)」というのである.つまり「身障者として同じ悩みや苦しみを休験し,それを 乗り越えてきた方々による身障者相談員制度を創設すべきである(p.71)」と考えられたのであ る.山形県の協会の場合,12名の役鼠 45名の評議員のうち,10名の役員,28名の評議員が身体 障害者相談員となっている(p.445−447,454459).山形県では,相談員を福祉事務所長が推薦す るときは「市町村の身体障害者協会の代表から意見を聞いている」とされ,また相談員の「市町 村への配置に当たっては県当局から県身障協会に意見を求め」るという関係が続いている 20 さらに「相談員の研修については県からの委託により県協会か行っている ご=」のである.ここ でも協会役員と相談員制度との密接な関係が見られるのである仁〜2)
周知のことであるが,この相談員制度の運用については「身体障害者福祉法による身体障害者 相談員の設置について」という各都道府県知事,指定都市市長宛,厚生省社会局長の通知(昭和 42年8月1日,社更240の1)に,「身体障害者相談員設置要綱」が添付されてあり,それに詳
しく書かれている.
それによれば,相談員は,都道府県知事および指定都市市長から「福祉事務所長の推薦のあっ た者のうちから適当と認められる者に対して」業務を委託される.そして,注目してよいのは,
福祉事務所長の推薦の基準を定めた以下の項目である.すなわち,
「福祉事務所昆は,相談員を推薦しようとする場合は,人格識見が高く,社会的信望があり,身 体に障害のある者の福祉増進に熱意を有し,奉仕的に活動でき,且つ,その地域の実情に精通し ている者であって原則として身体障害者のうちから適当と認められる者を推薦するものとする
(下線部は岡による)」と定めていることである.さらに,相談員の業務は5つ,あげられてい るが,その第1としてあげられているのは「身休障害者地域活動の中核体となり,その活動の推 進を図ること」とされている.すなわち,地域で障害者自身が「相談員」として知事等から委託 された形で活動を展開していくのである.
最近になって,この身体障害者相談員の研修は,リハビリテーション協会から日身連への委託 になった(23).これによって身体障害者相談員制度は全国的規模で身休障害者福祉協会に接近し
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について 37 たといえる,
注:
(1)黒木猛俊「身障者相談員諸氏へ」北海道身体障害者福祉協会「北身協30年史(1979)」所収.p.34.な お,同氏によれば,全日身協は1955年3月に結成されている.また,全身連の方は1948年4月に「肢体 障害者を主軸として」結成されているし鳥取県身休障害者福祉協会「鳥取県身障福祉30年誌」1982.p.84.).
また,全身遵は1951年11月に自由党と共催て全国身体障害者大会を開き,この大会の挨拶において,全身 連か「自由党の外部団体」として「一切の賛同を自由党から……出していただいた」ことか全身連の委員 長によって述べられた.静岡県身体障害者福祉会「回顧30年」1982.pp.39−41.参照.
(2)第35回日本身体障害者福祉大会」(平成2年5月23日、25日)のパンフレットより.
(3)同,P.13.「大会次第」
(4)同.p.32.「日身連平成元年度運動方針推進を含む事業報告」
(5)同,P.17.「平成2年度運動方針」
(6)同,P.15.「大会宣言(案)」
(7)山形県身体障害者福祉協会「山形県身障協会35年史」198臥 p.5−6.以下,特に断らない限り,山形県身 体障害者福祉協会については.同会発行の前掲喜を参照するものとし,ページ数のみ記す.
(8)鳥取県身体障害者福祉協会,前掲吉.1982.p.1.以下,特に断らない限り.鳥取県身体障害者福祉協会 については,同会発行の前掲書を参照するものとし,ページ数のみを記す.
(9)同胞援護会全史編纂委員会「同胞援護会全史」1960.p.744.
㈹ 静岡県身体障害者福祉会,前掲盈 第1章「静岡県身体障害者福祉会活動の歩み」牲37−95.以下,特 に断らない限り,静岡県身休障害者福祉会については,同会発行の前掲吾を参照するものとし,ページ数
のみを記す.
ql)北海道身体障害者福祉協会「創立30年史」第1編「北海道身体障空音福祉協会の沿革」1979.以下.特 に断らない限り,北海道身体降雪者福祉協会については,同会発行の前掲書を参照するものとし,ページ
数のみを記す.
(招 「青い芝の会」については 例えばそのリーダーであった横塚晃一の「母よ!殺すな」すずさわ書房.
1975.を参照.
(l:O 「身体障害者校下福祉協会」の詳しい例については,例えば金沢市身体障害者校下福祉協会の名簿か石
川県傷痍軍人会「石川県傷痍軍人会30年詰」1983.pp.2021.に掲載されている.
仏側 組織率はいくつかの地区で1009pを越えているか,当該県協会に岡か問い合わせると,会員となるのは 原則として18歳以上の身休障害者手帳所持者であるということである.しかし,県協会として文書化され
た会員規定はなく,各支部かそれぞれ会員として理解している数字をそのまま表にしている.その一方で,
役所から提示された数字を比較すると100%を越えてしまうということか事実らしい.
(15〉 十勝支部では各分会担当地区内の手帳所持者数によって各分会の組織負担金を換算しており.その限り において.手帳所持者か18歳以上か未満かは区別していないと思われる.よって,地区内手帳所持者と会 員数を比較して組織率をここでは計算した.
(lq 神奈川県身体障害者連合会「県降壇30年の歩み:神奈川県身休障害者連合会創立30周年記念誌」1985.
なお.連合会中,市部でもっとも高い組織率を保っているのは秦野市身体障害者福祉協会で,67P℃という 数字か出ている.どうしてこのような高い組織率かあるのかという岡の問い合わせに対して「当時として はプライバンーの侵害問題も緩和な時代てあったこともあり,福祉行政の支援によって,年度会費徴収を 行なう段階で,協会事務局において降雪者動態を把握した会費徴収名簿を作成し,役員に配布し家庭訪問
(会費徴収)の際に活用させる,未加入昔に対しては会員の利点・協会事業活動を説明し充分な理解をも
とめるようにした」からだと当該会長より回答を受け取った.一方で当該協会はその規約第2条において
「この会は秦野市に在住する身体障害者手帳保持者をもって組織する」と網羅的性格を明記している.秦 野市身体障害者福祉協会「賽身協30年の歩み」1987.p.50.
抑 身障かなかわ第30号(平成2年3月1日)p.3.
㈹ 同上.
㈹ 岡の問い合わせに対して鳥取県身体障害者福祉協会事務局長の返答書簡(1991年1月23目付)より.
銅 岡の問い合わせに対して山形県身体障害者福祉協会事務局長の返答書簡(1991年1月25日付)より.
釦 同上,
田 昭和34年に苦かれた東京都身体障害者団体連合会の報告は,相談員か「手薄な身障者福祉行政機関に対 して,よき毛細血管の役目を十分果たし得る」として,身体障害者相談員を自分たちの団体の「役員の適
任者に委嘱せば更に効果は顕著であろう」としている.東京都身体障雪者団体連合会「乗京都の身体障害 者の実態とこれか福祉対策に関する一考察」1959.pp.1112.
田 「第35回日本身体障害者福祉大会」パンフレット(前掲),「平成2年度運動方針」p.18.
3.傷痍軍人会と退族会
3.1.戦前の組織
傷痍軍人会と遺族会はいずれも戦争被害者という側面をもっており,共通点もいくつかあるの で,ここでは平行した形で論じていきたい.
戟前の傷痍軍人や軍人遺族は比較的厚い保護を受けていた….それは当事者たちによって「一 言にして言えば<傷痍軍人華やかなりし時代>であった(2〉」とも言われ 「戟役者の遺族……等 に対する物心両面にわたる援護は,遺憾なく行なわれた(■ミ)」とされている.
しかし,そのような保護も傷痍軍人や遺族たちの「人権」を考慮して行なわれたというよりは むしろ,戦争遂行のために必要な政策の一環として行なわれたのだという事実を忘れてはならな いだろう.戦前の「大日本傷痍軍人会」にしても「あくまでも戟意高揚を基本としたものの考え 方が根幹をなしていた(4)」のである.遺族にしても,涙も流せないのが「軍国の母」であった.
「例えようなない遺族達の悲しみは 表向きはお国にためという一言によって密封されてしまっ た(5)」状態だった.
ある資料(6)は,それでも戟前,遺族の集まりが自然な形で広がっていった地域のことを記し ている.その昔景となったのが,戦争末期に見られた法要の仕方の変化だったという.つまり,
全体主義国家のなかの体制的な団休によって行なわれていた「国威宣揚・武運長久」のための戦 勝祈願的法要は,しだいに遺族自身によって行なわれる慰霊的な法要に変わっていった.そうい う状況のなかで自然に戦後の遺族会の「いわば準備会的な組織が」生まれてきていた.そして,
「反戦思想の温床ともなりかねない」という判断からか官憲から弾圧や脅しを受けながらも,開 かれた遺族会もあったのである.
3.2.占領期の冷遇と組織化
人前で泣くこともできなかった遺族たちは,全体主義国家の崩壊のあとも,安らぎを得ること はできなかった.傷痍軍人も遺族も,占領当時の最高権力機関であるGHQからは「冷遇」され
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組鰍こついて 39 ていると感じていた.
というのも,連合国軍最高司令部指令(SCAPIN)775の救済における「無差別平等の原則」に 至る一連の政策によって,傷痍軍人や軍人遺族への特別優遇は取り消されたからであった=
さらに「昨日まではく誉の家>として尊敬された戟役者遺族は,終戟後には…‥・肩身の狭い思 いをさせられた=‖」.「一粒社会からも,白眼視され,子を失って寄る辺ない老親,夫を亡くし,
子を抱えて孤立無援の妻は,奈落の深淵につきおとされ,苦悩と不安の連続であり,立ち直る根 気も絶えがちであった(p.15)∴ 社会的なサポートがなくなってしまったのである.
事情は傷痍軍人の場合も同じであった.「心身に重い障害を背負った傷痍軍人は,丸裸身のま ま放り出され,一変して国持戒視される様になり,収入の途を絶たれ,心身障害の身は働くにも働 けず,妻子を抱え老親を抱いて途方に暮れ ある者は発狂し,ある者は首吊り自殺をするという 悲劇が続刷」いたという.また別に,軍人としての「誇り」が彼らにはあった.「傷痍軍人対策 は一般障害者に対するものと同様に,主として生活保護法の適用により生活困窮を救済する(11))」
という状態であったが,それでは「傷痍軍人の誇りは如何ともすべからず(11)」というのである.
このように敗戦によって価値観が大きく転換し,それによって自分たちへの社会の態度がまっ たく変わってしまったのを見た彼らは,自分たちの組織を新たにつくる必要性を感じはじめる.
さて,戦前からあった大日本傷痍軍人会は,戦後,財団法人協助会に引き継がれたが,昭和23 年にはGHQの方針によりそれt)自発的に解散させられた(pp.6L7).そこで,元軍人の集会を 禁じていたGHQの目をのがれるために傷痍軍人たちが行なったことは,「一般身体障害者を主 体とする名称を冠し,実質的には傷痍軍人のみの団体を結成する(p.7)」ことであった.時の 絶対権力であるGHQから敵視されていたため,地域レベルで組織化するのも容易ではなかった.
「一部には入会後の後難を惧れる者もあり(p.458)」入会を進めることも難しかった.活動その ものも「会の名称は公表せず,監視の目を逃れて運動(p.393)」するような状態であった.
遺族会の方は,終戦後わずか2ヵ月のときすでに組織化の動きが現れていた.例えば「東京都 内の軍人援護会直営母子寮や退族職業補導所などにいた遺族未亡人たちは,第1次世界大戟後世 界に流行した<幸運の葉書>を真似た形式で<7人の遺族に呼びかける団結の葉書>をその年の 10月に各地に発送した」が,「占領軍の郵便検閲によって中断された地域もあって所期の効果は あがらなかった(pp.15−16)」.そして「このような動きは,全国各地にあったが,戦没者の遺 族の会の組織をまとめようとすると,地方の進駐軍から,占領政策に反す集いではないかとの疑 をもたれ,調べられた.委曲をつくして説明し,やっとくあまり好ましいことではないが>とい
う前提のもとに,黙認されるのが,通例であった(p.16)」.
昭和21年2月には,NHKの番組のなかで武蔵野母子寮長の「戦争犠牲者道家族同盟」結成の 呼びかけが放送された.そして,それは恩賜財団同胞援護会の支援を得て,6月には東京都京橋 公会堂で結成大会を開く.「それでも,進駐軍に対する遠慮等もあり,堂々と全国組織結成まで 進展しないまま,昭和21年は終わった(pp.16−17)」.
この同胞援護会については周知のことであろうが,戦災援護会が軍事援護会を吸収した形で
(形式的には対等合併であった)昭和21年3月に結成されたものである.戟災援護会は,昭和19年 10月,敗戟の色濃くなってきた社会情勢のなかで「戦後国民協助義会」として発足.昭和20年3 月には戦災者への援助が主たる事業となり戦災援護会と改称したものである.軍人援護会につい ては,昭和13年10月,帝国軍人援護会,大日本軍人援護会,振武育英会の三団体が合併してつく られた団体である=ご).この同胞援護会こそは,遺族の組織化に大きな役割を果たしたのである.
さて,当初「遺族」の会は未亡人の会として理解されていた.昭和21年7月31日に各県支部に 出された同胞援護会通牒‡ ̄戦争犠牲者遺族同盟に関する件===」は「戦没軍人軍属の遺族(主と
して寡婦)が中心となり」戟争犠牲者遺族同盟か結成されたという.
また同じころ昭和21年7月23日に出された戦争犠牲者遺族同盟の通牒は,「遺族団体育成助長 に関する件」とされ,同胞援護会の都道府県支部長(すなわち知事)苑に送られた.そのなかに 次のような一文がある.
「尚最近類似団休族出の傾向有之,放置する場合は団体乱立し,或いは相剋摩擦して純真なる遺 族(主として可弱き未亡人)を去就に迷はしめ野望策動家の乗ずる処ともなり所管当局として
も1灰拾に当惑する事態を招来する虞可有之,依而遺族援護の大局的見地より管下遺族の統一的 組織化に積極的任務を御執り披下様願上候−【4)」
すなわち,放置しておくととんでもない団体ができるかもしれない,団体は統一的なものでは なくてはならないというわけである.
この「統一的」という方向性は,地区内網羅的組織のそれと重なるわけであるが,この道族同 盟の性格として同盟自身が,この通牒で述べている次の箇所も興味深い.すなわち,
「今日東京では引揚者団体が40有余も出来,玉石混交の為援護行政当局は困惑してゐるが,遺族 団体も其の轍を踏んではならぬ.全国的単一化をせねばならぬと本同盟は主張し,同一地域に 二つ以上の遺族団体を作ることは遺族を迷はし遺族の団結を割く行為として反対してゐる(15−」
という.
このような状況のなかで遺族会は,翌昭和22年11月に,全国28都道府県の代表者を集めて,組 織を再編し「日本遺族厚生連盟」を結成することにした.そのときGHQ(社会福祉課長ネフ大 佐)の態度は,「戦争遺族が,そのような組織をつくることは,好ましいことではない.……妖
し,強いて,組織をっくることを禁止はしない」というもので,さらに以下のような3つの条件 を提示していた.すなわち「(1)戦没者遺族の外,社会公共のために殉職した者の遺族も組織の中 に入れること.(2)この組織は,遺族の相互扶助を目的とすること.(3にの組織の中には,現職の 官公使,追放された者,元職業軍人等を役員として入れないこと(p.21)」.さて,これでよう やく遺族会の活動は拡大するのかと思われたが,翌昭和23年,その財団法人化は「総司令部の意 向として,不許可の方針が明らかにされた(p.29)」のである.
3.3.講和条約締結以後の発展
周知のことであるが,冷戟が激化するにしたがって米国の対日政策もかわっていく.全国の遺 族たちか初めて集まった「第1回全国遺族代表者大会開催の頃は,アメリカの対日政策の転換期
終戦後結成された日本のいくつかの自助的相互扶助組織について 41 に際会しており,特に対日講和条約の締結が促進されていた頃であり,遺族に対する考え方も変
わってきていた(pp.43−44)」といわれる.そして,昭和26年2月に開かれた第1回全国遺族代 表者会議に続いて,昭和28年3月,財団法人日本遺族会が結成され,日本遺族厚生同盟は発展的 解消となった.
同様に,傷痍軍人たちも,講和条約締結以後,全国組織化を急ぐことになる.昭和27年9月.
厚生省の支援で「日本身体障害者連盟結成準備会(p.10)」が開催されると,その会場で,「山梨 代表は械を見て徴文を配布し傷痍軍人会結成の狼火を挙げ(p.10)」た.それに応えて,翌日「日 本傷痍軍人会第1回結成準備会」が開かれたが,集まった21都府県の代表のうち8団体は「GH Qの意向を掬んで,一般身体障害者同格取扱いに遠慮したから(p.11)」,身体障害者福祉協会,
団体連合会等の名称をとっていたという.
このように,講和条約締結以後に,身体障害者団体としていわば偽装していた傷痍軍人たちが,
元軍人の団体としての組織の性格を突然に明確にしたことは,他の身体障害者団休にとっては困 惑することであったようだ.厚生省社会局長は,その事態を察知し,日本傷痍軍人会結成の数ヶ 月のちには「厚生省社会局長通達(社乙発第155号,昭和27年11月19日)」を出し,各都道府県知 事に,「この団体の結成がむしろ一般身体障害者の団体の進路を妨げないのみならず,相たづさ えて傷痍軍人を含む身体障害者全体の福祉の増進に寄与することが出来るよう特に御配慮を願い たい(p.515)」と伝えている.
3.4.政治運動
遺族会や傷痍軍人会において注目してよいのは,それが政治的な中立性を放棄していたところ にある.地区内網羅的当事者組織は,地区内の該当者全員を組織化することを念頭においたり,
あるいは当然加入しているものとしてみなすのであるから,政治的には中立を保つしかないと思 われるのであるが,実際には経済保障の獲得と後述する靖国問題のために保守的な政治勢力と明 確に連係しようとしていたのである.
日本遺族会の前身である日本遺族厚生連盟の規約の附則三において「日本連盟の会員は一発一 派に偏せず然も各員の政治思想,宗教の自由を尊重する(p.72)」と定められてはいたが,実際 には,占領軍への配慮にすぎなかったのだろう.昭和25年3月には衆議院に,翌年2月には参議 院に「道家族議員連盟」が結成された.また,昭和25年6月には,連盟会長である長島銀造が参 議院全国区で当選している(pp.3940).
昭和29年12月に開かれた第6回全国戟役者遺族大会の段階では「各政党の表明された遺族対策 と本会の要望とを比較検討し」ていたが,昭和30年3月の第7回大会に内閣総理大臣鳩山一郎が 出席し,また自由党総裁が出席してからは,保守党への傾斜を強めていく‖6).そして財団法人 という枠組の制約がある日本道族会とは別に.昭和33年には保守系候補の選挙運動を行う日本遺 族政治連盟という政治結社が結成されるまでになる 17)
一方,傷痍軍人会はもっとも早く,結成当時から保守党への傾斜を明らかにしていた.それは 路上等で募金活動を行う「白衣募金者団体」との対決的姿勢にも表れていた.傷痍軍人会によっ
て「白衣募金者団体」とよばれていた全国傷痍者連盟等の団体は,その「左翼的運動振り」を警 戒されていたのである(p.21,pp,4344).「日傷と白衣団体とはあだかも左右対決の如き状態 を呈するに至った(p.15)」といわれる.
傷痍軍人会は活発な国会運動を展開し,昭和33年3月には「傷恩有志議員協議会」を結成する.
それは30名の保守系国会議員によって構成されていた(pp.66−69).さらに「心から傷痍軍人の ために骨折って下さった有志議員の方々に対し報恩の誠を尽すのは当然であると信ずるようにな
ったから」と,昭和33年5月に行われた第28回総選挙には,「数府県では選挙事務長,出納責任 者等を傷痍軍人が占めて采配を振うなど,直接間接に奉仕し,全国的に物JL、両面,否物的はなく
とも心的に報恩感謝の意を表した(pp.70−71,pp.8586)」のである.そして,選挙後には、「傷 恩有志議員協議会」の名称を「戦傷病者援護議員協議会」と変え,昭和34年には,衆議院に55名,
参議院に32名,計87名の議員をかかえるようになる.また,それに対応する傷痍軍人会側の組織 として日本傷痍軍人会政治連盟もつくられる(p.72)
傷痍軍人会の政治的保守の傾向は,その後,選挙協力以外の政治的行動にもあらわれ 昭和35 年の第10回全国大会の第2部に「安保批准大会」を開き,総理大臣岸信介の演説を迎える.その 大会の後には「保守陣営最初の」安保賛成のデモ行進が行われたという(pp.91−92).
3.5.靖国神社をめぐる宗教運動
傷痍軍人会については,これといって目立った宗教活動は行われていないが,遺族会の方は,
靖国神社をめぐって強い運動が行われた.
そもそも遺族会の前身である日本遺族厚生連盟の発足当時(昭和22年)から,神社は深くかかわっ ていた.靖国神社嘱託の大谷藤之助という人物から紹介のあった静岡県遺族会会長が,日本遺族 厚生連盟の初代の理事長になっている(p.21).また,伊勢神宮祭主北白川房子も,昭和23年の総 会に参加したり,昭和25年来,全国の各都道府県遺族連合会に「金壱封」を贈っていた(p.27,53).
日本が占領下にあるときには,靖国神社をめぐる運動は抑えられていたが,昭和27年5月3日 の独立記念式典の前日に全国戟役者追悼式が行われ 同年10月に天皇・皇后が7年ぶりに靖国神 社に足を運んだころから,その宗教運動的傾向は急に強くなる.
すなわち,同年11月に開かれた第4回全国戦没者遺族大会では初めて「靖国神社の国家護持」
が決議条項のなかにもりこまれ(p.56),以後,遺族運動の重要な課題として提示されつづける.
さらに,昭和31年からは,「靖国神社の国家護持の問題」が「戦没者遺族の精神的な支柱であ るばかりではなく,国としても,国民の精神的指標の一つとして,看過できない重要事」である ととらえられ,会の中心的課題として本格的に取り組まれるようになる.
そして昭和41年4月,靖国神社国家護持全国戦没者遺族大会を開催して,運動を盛り上げたが,
昭和44年「靖国神社法案」は国会にて廃案.以後3年続けて3回,国会への提出と廃案を繰り返 す.昭和48年には5度目の国会提出により,靖国法案は継続審議となり,翌49年に衆議院で可決,
参議院で廃案となる.ここでついに迫族会は方針を改め,関係団体とともに「新国民組織」(「英 霊にこたえる会」)の結成をめぎすことになる.この会は昭和51年6月に正式に発足したが,そ