森田道雄:恵那教育会議の教育法社会学的考察(4) 51
恵那教育会議の教育法社会学的考察(4)
教育権論形成期の理論的検証
森 田 道 雄
はじめに
これまで1〜3で見てきた中で恵那教育会議そ のものについて,さまざまな問題・考察すべき課 題が出てきたのであるが,さしあたり当時の時代 的特性を踏まえること,すなわち60年代初頭の教 育運動論の水準でこの課題を客観的に素描してみ ることにする。ただし,ここで当時のいわゆる国 民教育運動論そのものがもっていた重要課題,例
えば教育労働運動の国家権力認識,それにかかわ る論争的問題などには,それがある意味でここで とりあげる論点におおい仁関係があることは否定 できないが,直接ふれることはしない。それは,
教育における地域認識と国家論という問題の中で 別に総括的に論じなければならないが,本稿では 紙幅の関係で省略せざるをえない。また,主題は 教育運動論そのものではなく,教育会議運動の諸 側面において現れた教育権認識の法社会学的な考 察に焦点を当てることになる。
とはいえ考察の第一の論点は,恵那教育会議運 動が,勤評闘争における恵那「モンロー主義」と いう「評価」を受け,しばしば論争の対象となっ たことである。恵那を,統一行動に背を向ける「地 域主義」として否定的に評価する議論は,教育会 議運動の方針となった1957年の「方針転換」を,
恵那の 脱落 あるいは 敵前転換 と評した。
これは,50年代後半の時期の政治情勢とのかかわ りの中で,より直接的には「勤評実施」の背景に ある教育政策の分析の仕方の違いに,そもそもの 根源があったとも言える。しかし,そうした政策 分析に還元できない問題もまた指摘できるだろ
う。
岐教組恵那支部の57年方針は,組合民主主義の 徹底,「自由論議」の提唱,という点に第一の特 徴をもっていたが,勤評を,子どもにふりかかっ
てきた教育の問題としてとらえ,その点で父母と
の統一の足場をつくり,教委・校長に対する態度 も一致できる点の追求をおこなうという運動論に も大きな特徴をもつものであった。したがって図 式的にいえば,勤評のねらいを「教師の権利にか かわる問題」としてとらえ,「労働組合との共闘 を含めた,教組の全国的な統一した力」によって 阻止しようとした日教組,岐教組の方針と,勤評 を「教育そのもにかけられた攻撃」としてとらえ,
「父母と教師の統一のうえに,校長や地教委を父 母に対して責任を負わせる立場にむけさせるこ
と」によって阻止しようとした岐教組恵那支部の 方針とのあいだには,質的なちがいがあったので ある。勤評を,「教育そのものにかけられた攻撃」
ととらえる論理は,生活綴方運動にはじまる恵那 の教育運動の粘り強い取組みの中でつかまれてき た鋭い視点からの把握であった。すなわち,57年 方針では勤評が教師の「通信簿」という教師自身 の利害にかかわるだけの問題ではなくて,あくま でも真理と真実とを誰はばかることなく自由な創 意の保障された空気の中で確信をもって子どもた ちのものにしていくという,この教育に固有な価 値実現にとっての必要な根本条件が勤評によって
そこなわれる,という本質認識によるものであっ たが,そうした認識は恵那の教師がなにか本を読 んで理解したというものよりは,日々の教育実践 の中で形成してきた「直観」であったとさえ言え
るのである。(1)
1957年4月20日は,愛媛の勤評に抗議する日教 組の統一行動の日であったが(すでにこの時),
恵那の教組は地域の独特な状況の中で,上に述べ たような勤評把握で,地域工作の独自活動でこれ に「参加」した。父母と語り合うなかで,教師た ちは「おぞい(質のわるい)先生もおらっしゃる でなも」という素朴な親からの批判を受け,「私 たちが,外側に向かって働きかけていく中で,私 たちの間では自らが『良い教師』になることに努 力しなければならないという問題」に直面したの
である。しかも,運動方針の転換で自己批判され ている親・地域との関係についていえば,この地 域の教師は決して他の地域に比べて見たとき,そ れが不十分であったとはいえないのである。翌58 年度組合大会での,57年度「経過報告」は,この 新しい変化を「運動全体の転換が,自らを転換さ せずにはおかない性質をもっているという最も大
きな変化」〔2)として評価したが,これがのち 教 育会議 運動の中で,教組の一定の主導権を保障 する要因にもなったことは,容易に推測されよう。
この58年4月の統一行動への取組みの恵那の 独自性 は,外部には,恵那の「脱落」と受け 取られ,恵那の運動を理解する上での一定の障害
(先入観とでもいうべきもの)を与えた。58年11月,
ついに勤評の「評定書提出」という時期をむかえ た時,例えば,「日教組の統一行動から脱落する ことによって守られた教育会議の統一とは何 か」(3)というような批判(疑問)が出されたこと などにも,そのことが示されている。論者が全国 的にみてもっとも強力な反対運動を行っていた教 組のひとつである和歌山の運動論の観点からなさ れたことは,それなりの重みを持つものではある。
たしかに,この問題の中には全国的な統一行動の 課題と地域課題の矛盾が反映しているから,一方 的な論断は避けなければならない。しかし,運動 の本質において恵那は「脱落」したことは一度も なかった。支部執行部のある人は,次のように座 談会で言っている。
「統一行動というと,すぐ……形態だけがいつ も問題にされ」るが,「ぼくらのいう統一行動は,
この地域なら地域の統一を進めるなかで,一番 効果的に敵に打撃を与えることが,全国の仲間 たちとともにたたかうことではないか。……上 からの統一行動はこれこれと決めて,これをや れというのではエネルギーにはならない。ぼく らの要求そのもので,その地域でできる最大限 の力で,しかも統一と団結を促進するような形 で,創意的にとりくんでいかねばならないので
はないか……」(4)
ここで「ぼくらの要求そのもので」と言ってい るのは,自らの要求ではなく全国的統一行動であ るからという一点で「全日闘争」という強力な戦 術をとり,失敗をした東北のある県教組を意識し ているが,要求とは何かということを指導部で徹 底して論議したから言える発言である。当時の恵
那支部石田書記長は,統一行動の指導原理は味方 の団結を高めることだと前置きして,次のように 述べている。
「日教組の統一行動に類した行動を主張したの は,勤評の一番最初にあった。その主張による と,勤評は親には理解されん。こんなもの理解 なんかしてくれるはずがないで,みんなして一 日県庁のところへ行ってストライキをやれ,と ある分会から緊急動議が出された。それをぼく たちの大会は否決した。そんな安易な方法はだ めだ。もっとも困難なことだが,親のなかには いる。これが力となるんだ。だから安易な方法 をすてなければならない,と当初からいってき
た。……」(5)
ここには,恵那支部と日教組の,勤評闘争にと りくむ基本方針の違いが鮮明にあらわれている が,それだけではなくて日教組方針の抽象性,た
とえば具体例のない文字だけの「全国闘争と地域 闘争の結合」の課題を,恵那という地域での運動 の中で具体化させようとする努力をよみとること ができる。そして,この「もっとも困難」という「親 の中にはいる」という行動を理論的に支えたもの は,教育基本法の理念,「父母(国民)こそが教 育の主権者である」という,憲法・教育基本法の 理解にほかならなかった。こうした地域に根ざす
「もっとも困難」なたたかいがあったからこそ,
山間の一地域にすぎない恵那で,全く独創的な教 育会議方式の運動が展開されたのである。
同時にまた,これを単に組合の運動方針のレベ ルだけ問題にするのは,ことの一面だけを見るこ
とになろう。上部団体の方針と異なろうとも,教 育の主権者は親・国民であって,それにかかわる 重要事項は主権者の意向を尊重することにあると した基本認識は,恵那教育会議の根本的評価にか かわる問題である。そして,ここにこそ「国民の 教育権」という概念を実践的に深める素材がある ということなのである。こうしてみると,運動論 の中に,この考察の主題である教育法社会学的な テーマが十分存在していることが了解できよう。
1節 教育会議運動への批判論
ここで扱う教育運動論は,もちろん恵那の教育 会議をめぐる論争を中心におくのであるが,それ には「勤評闘争」そのものにかかわる論争,すな
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わち「階級闘争か国民運動か」という論争がある ことをおさえておかなくてはならない。つまり,
この論争の一方には,教育を階級闘争の一環とし て,あるいは教育労働運動を「階級的」労働運動 としてのみ把握する理論がある。こうした教育運 動論は,資本主義国家における教育のもつ「階級 的性格」を一面では衝いているが,同時にそれが
「階級闘争」なるものに還元できない複雑な構造 をもち,かつ国民の意識も単純に階級意識に規定 されない側面をもっていることを捨象してしまう ものである。そもそも,少し立ち入って考えてみ ると「教育の階級的性格」なる言葉自体,曖昧で あり,また今日に至ってはこの概念を用いて「教 育と社会」を説明する議論はほとんど一般的では ない。もちろん,教育が政治的に利用されないと か,階級意識という概念は古くさいと言っている わけではない。そういう概念を持ち出すことで,
何か教育の本質を衝いたかのような議論は避けな ければならないということである。
ここでは,しかし当時の議論の水準でまずこの
「勤評闘争」をめぐる論争の基本的構図を示して おこう。「階級闘争か国民運動か」という論争に おいて,恵那教育会議への批判は,当然のことに
「階級闘争」論者の側から出された。『教師の友』
誌上でこれを見ると,恵那支部の「方針転換」の 大会文書を掲載した同じ60号に,富田哲正が「階 級闘争としての勤評闘争」という一文を寄せてい
る。そこでは,勤評の性格規定を「日教組に向け られた今度の勤務評定は,単に教育の問題として のみみることができないどころか,労働運動に対 する弾圧であるという観点からみていくというこ
とが極めて重要になってくる。勤務評定は,教員 どうしを反目させ,職場を分断するものだといわ れているが,勤評の実施は,その点でまさに日教 組破壊の政策であり,民主教育の破壊であるとい
うより以上に,労働運動に対する弾圧だというこ とができる」(6)(なおこの部分に関しては,富田 はあとで「労働運動と民主的教育運動を正しく結 合させるという点で欠けたところがあった」(7)と 訂正している)と強調している。そして,日教組 がこれまでとなえてきた父母との提携という方針 が「父母一般という階級性をぬきにした考えでは なく,父母の中の労働者の層,農民の層,市民の 層と,それぞれどう提携していくかを考えねばな らないと,従来の階級性ぬきの父母提携の自己批
判の上に立って,階級的な立場にたった父母提携」
を主張し,「単に教師や教育関係者の狭い戦線で はなくて,もっと広い戦線で闘われる必要がある ・その広い戦線とは……労働者階級全体の闘い という意味だ」とくりかえし述べている。そして こうした勤評把握の実例として,和歌山県の事例 をあげている。
これに対して,『教師の友』誌にはさっそく読 者の反応が出ている。例えば63号では,「一番よ
かったのは,恵那支部の方針書だと思います。こ んなすばらしい,労組の方針書を見たことがあり ません」という投書と,「恵那の方針への疑問」
と題する岐阜県の関市と思われる一読者の投書を 掲載した。後者は,富田論文を示しながら,「P
T A幹部の中に,市町村会議員とか……がうよう よいます。P TAとの共闘ができるかどうか疑問 です。P TAの組織としての決議は闘争を発展さ せる上でたしかに重要だ……P TA幹部だけに目 をうばわれ,P TAの組織としての決議だけを要 求するようなことになれば,保守的なP TA幹部 の意見に妥協するより仕方なくなるでしょう」と 述べ,「労働者で勤評に反対する者は,……階級 闘争としてつかんでいます」と書いている。(8)
また,ある投書は「富田氏の論文は,勤評の本 質規定で……非常に重要な問題の指摘でした。そ の面では恵那教組の運動方針は地域性の枠を感じ ます。しかし,……富田論文は一面的な規定づけ に終わった感があります。その点では,恵那教組 の教育組織論の方が,正しく教組の勤評闘争の性 格規定をされた真壁論文の中に,よくいきている,
という感じをもちました。」と,書いている。{9)『教 師の友』誌には以後,勤評闘争の運動論にかかわ る論議が断続的に続いていくが,その編集部の方 針を反映して,恵那教育会議の記事は少なからぬ 比重を持っていた。
恵那教育会議への疑問・批判がまとまって展開 されているのは,青木書店『講座教育』であった。
59年12月刊の第3巻には前記した西滋勝「国民教 育への自覚化の過程」が,60年3月刊の第4巻に は内田宜人都教組支部長の「勤評闘争の経験に即 して」,大野昭之「教師と労働者階級の提携につ いて」がある。西論文は,教育実践と組合運動の 統一という課題を重視する立場から,和歌山県教 組の取り組みを評価しつつ,この統一は「目的意 識的な教育活動,学習活動,広い意味での教育研
究活動が媒介的契機となる」とし,教育二法反対 闘争以来教師と父母の提携における戦術上の問 題,つまり「父母としての国民か,労働者・農民
との共闘か」という問題を指摘して,この問題の 検討素材として恵那支部の運動方針とそれを理論 づけた矢川徳光「民主教育擁護のために」,竹内 良知「勤評闘争と国民教育の発展」の両論文をあ げ,次のように述べる。
「勤評のねらい(が)……学校教育の構造を根 底から破壊し,父母の教育に対する素朴なねが いを利用しながら,教師と父母をきりはなし,
そのことによって教育の主権者である父母,国 民を教育の場から追い出し,学校教育を政府に 奉仕させようとするものであるならば,これに 抵抗する道は,教師の団結を守り,父母と教師 とのより強いていけいをはかること,そのこと によって,国民教育を創造してゆく統一戦線を 強化すること以外にはないということになる。
いいかえれば評定書を出すかどうかということ よりも,もっとうがっていえば統一行動に参加 するかどうかということよりも,国民の統一と 団結を強めることが基本的である。……」(1◎
しかし,「一見きわめてもっともな論理の展開」
に見えるが「一面の強調は多面の軽視となる」と し,次のように述べる。
「教育を守り,国民のための教育を創造してい く国民統一戦線の結成という問題は,広範な国 民の経済闘争,政治闘争の発展ときりはなして 構想さるべき性質の問題ではありえない。……
しかるに,恵那の方針ならびにこれを理論化し ようとした前掲両論文では,この点に関する理 論把握が不明確であり,教育独善論へ転化する 危険性をはらんでいる。」(1D
これが,西論文の恵那批判の理論的前提である。
そして,論文末尾でこう書いている。
「決定的な疑問を単刀直入に言えば,日教組の 統一行動から脱落することによって守られた教 育会議の統一とは何であるか,ということであ ママ
る。教育会議を構想しいる主要メンバーである 地教委が,勤評実施にふみきり,校長が評定書 を提出しているという現実の事態の中で保たれ る統一とは何であろうか,ということである。
一一度悲しい分裂をくぐりぬけても,新しい 統一の芽を育て発展さしてゆく道も可能であっ たのではなかろうか。もちろんそうはいうもの
の,恵那教組が無原則的な妥協をしたとは簡単 にいいきれない問題もある。教育会議のなかで も勤評絶対反対を主張しつづけてきた恵那教組 にしてみれば,我慢できない低い一致点では あったけれども,今後それをより高い一致点へ 高める第一段階と考えているのが事実であろ う。妥協のための妥協ではなく,原則論のみで はつらぬけない現実のなかでの一時的戦術的妥 協であったとも考えられる。その限りでは神奈 川勤評とは到底同日に論じられない問題である し,早急な批判の許されない問題であるともい える。だが,そのことを考慮にいれても,なお 地域第一主義的セクトを感ずるのは,地域の現 状を知らない人間の盲評にすぎないだろう
か。」(12
ただ西論文は,基本的に恵那の運動を批判しな がらも,同情的に見ているふしもある。理解した いが何かひっかかるという感じの書き方である。
西は61年12月刊の岩波『講座現代教育学』第18巻 では,「国民教育運動の二つの側面」をあげて,「教 育は国民共通の関心事であり,国民こそが教育の 主権者である……したがって,国民の一人一人が 主権者たるにふさわしい自覚と,実体をそなえた
ものとして自己形成され,そこから国民の教育要 求が正しく組織されうる組織路線が保障されなけ ればならないということになる。このことは典型 的には岐阜県恵那支部の,地域に教育会議を組織
していったすぐれた実践の中に実証されていっ た」⑬と,書いているのであるから,教育会議の 評価に関しては後に改説しているとみなしてよい
だろう。
しかし,同論文はこのあとで,国民教育運動組 織過程におけるこの恵那,山形のタイプの深く大 衆と結んだ運動と,高知を例に挙げて「教師グ国 民の一人として,市民として,労働者として,ま
たインテリゲンチアとして,多数の国民と共通に 担っている社会的・政治的な諸問題を解決するた めの国民の闘いの中に,積極的に参加していくこ と」の,二つの自覚の契機を指摘し,ここで「一 方は教育運動中心主義,他は政治運動・経済闘争 中心主義,一方は教育会議方式,他方は共闘方式
といった粗雑な理解が生みだされた」たとして,
「問題の核心は,この二つの,職場づくりにおけ る二つの契機と同様,運動における二つの側面で あり,この場合にも,その主要な側面は国民の生
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活と権利を守る闘い,経済闘争・政治闘争の側面 であるということの理論的確認である」⑯と強調
していることに留意しなければならない。ここに,
勤評闘争における和歌山・高知タイプの運動と恵 那の教育会議運動が対比して論じられ,恵那に対 する批判的陣営の理論的核心が示されている。西 にあっては,恵那批判は運動論というよりもこう した理論面での問題であった。
次に恵那批判の論点を徹底的に展開した論文と して,内田,大野両論文をみてみよう。これは『講 座教育』第4巻第4章の「教員組合運動論」の2節,
3節にあたり,一続きの論文である。そしてここ では,「階級闘争か国民運動か」の前者の立場か
らの妥協のない立論を特徴としており,当時勤評 闘争のさなかに「九・一五全国統一行動」をめぐっ て展開された教員組合運動論の深刻な戦術上の論 争をとおして,階級闘争論が主張されている。そ の論点は,つまるところ「九・一五全国統一行動」
が当初の計画に反し十分に貫徹しなかったことの 反省と教訓として,東京都教組長谷川委員長声明 が「教育は文部省や,教組にのみまかされるべき
ものではなく,国民自体が真けんに考えなければ ならない,「国民による国民の教育」というもの を真けんに打ち立てるという方向に力をあわせる という芽がいたるところにでてきた」が「教員組 合だけが独立で,あるいは総評という労働組合の 応援を得ただけで,この闘いが勝てるというもの ではなく,今や国民の総意によって国民の教育を 守ろうとする芽がたくさん出ている。」(19として従 来の実力行動主義に疑問を投げかけたことへの,
強い批判がある。
この長谷川声明への批判は,戦術上の問題を踏 み越えて教員組合運動の本質に関わる問題であ
り,教員組合運動の「たたかわざる部分に理論的 根拠」を与えるものであり,「勤評闘争の激突の 中でも克服されていなかった」と述べ,「国民運 動論」の勤評把握を次のように批判する。
「勤評闘争は階級闘争ではなくて国民運動とし て展開されるべきであるという立場で,教師が その特殊性の面での活動とその成果をたずさえ て国民の中に深く入ることを強調する……労働 運動における教育問題へのとりくみの弱さのた め,いわゆる民主教育の成果が,主として教師 の側からする労働者階級,国民の教育要求ひき
だしの努力によって達成されてきたという事実 は否定することができない。労働運動における そういう弱さが日教組に反映するとき,たとえ ば,父母と手をむすぶという如き,国民の階級 分析を抜きにした方針が毎年くりかえされてき たが,その方針も階級闘争の中で困難につきあ たることによって父母の階級的把握の観点から 強められつつあり,それはまた労働者階級にた いしてみずからの教育要求を明らかにして国民 の統一行動に指導権を確立すべき任務を認識さ せつつある。……日本の民主主義の巨大な財産 に数えられるべきことが定説化してきている教 研運動が,こんにちの勤評闘争を国民的規模で たたかう条件に築いてきた一つであり,それは 支配階級をしておそれおののかせるに至る力量 を教師と国民の中につちかってきたことも事実 である。しかしここで重要なことは,教研運動 が支配階級をおそれさせるに至る力量を蓄積し てきたとすれば,それは教育研究という局限さ れた分野での活動であることによってそうなつ たのか,ということである。教師と労働者階級,
国民との提携ということは,またわたしたちが 強調している労働者階級の教育要求を明かにす るということは,けっして教育プロパーの角度 での提携ということではない。学校教育という ワクの中で何が研究されようと,労働者がどん な要求をそこにもちこもうと,支配階級には何 の脅威も与えはすまい。教育というものが本来,
政治的・社会的全領域での動向にするどく関連 するものであるように,教師と労働者階級,国 民との連携もまた全領域的である。……労働組 合としての一般性を保持し強化する方向を日教 組がおしすすめることこそ,全国津々浦々であ るゆる階層と接触する巨大な影響力を,支配体 制の変革を志向する労働者階級の闘争の中で発 揮させることとなるのであり,それをこそ支配 階級はおそれているのではないか。」⑯
こうした立論から,論文は「「子供のことでむ すぶ」というむすび方,いうなれば教研運動の成 果をたずさえて中間層をひきつけることに闘争の 主要な内容があるという考え方は,「勤労人民大 衆にたいする独占資本の攻撃」としての勤評の性 格をまったく見おとし,労働者階級の指導権のも
とにたたかいをおしすすめるという立場を完全に 放棄したものである」と述べ,長谷川声明を「教
員組合が自分の手で安楽死をしかけたことを意味 する」とまで非難し,「同時に,裏切り者でもた たかわざる部分でもないところに,たとえば岐阜 県恵那の教育会議のように,教師,父母,地方権 力等の協議方式が勤評闘争の内容となり,日教組 の全国統一行動を教育会議開催にすりかえると いった形態も,いたるところに蓄積されてい る。」〔1のというのである。この論文で,恵那教育会 議が名指しで批判されているのは,あと一箇所,
神奈川方式とならべて「労働者の指導権とよぶこ とに同意しがたい」q8と述べているところである。
正確にいえば,上記引用の大半は内田論文であ り,最後の部分のみ大野論文であって,後者は教 師と労働者階級の真の提携,労働者階級の指導権
とは何かを論ずることが主題となっている。そし て大野論文の中では,勤評闘争にあらわれた総評 傘下の労働組合員がおこなった「子弟の登校拒否 戦術」が積極的に評価されている。そこでは,「私 たちは,総評指導部が,勤評に対する全労働者階 級の怒りが,さらにそれを民主教育擁護の要求へ
と質的に高めるように指導する点において著しく 欠けていたとはいえ,すくなくとも登校拒否(そ れは戦術の一手段であって,その戦術があの段階 で採用されるべきか否かの論議は別問題である)
という戦術行使によって,労働者階級全体の,さ らには国民全体の勤評に対する関心を高め,教育 に対する関心を高めたという点については,その 前進的な側面こそ正しく評価しなければならな い」とする『教師の友』65号の富田論文が長々と 引用され,「勤評闘争が軸になければならないし,
事実独占資本の段階では,階級闘争が国民的規模 の闘争に発展する必然性をもっている」{19と述べ ているのである。
ここでいう「登校拒否戦術」は,例えば次のよ うに「理論化」されている。すなわち,「教育は 教育基本法にある.ように,不当な支配に服するこ となく国民全体に対して直接責任を負っておこな われるものである。……これが義務教育費の全額 国庫負担やすしづめ教室解消などの諸条件も具備 されず,しかも国民に責任を負うのでもなく,政 府,資本家,官僚や権力者の勝手になるような教 育にする勤評が実施されようとするとき,できる だけの抗議手段にでることは当然」で,「子どもは,
民主主義社会を将来にわたって保障し,築いてい く未来あるものである。それが勤評によって,戦
争への危険,民主主義をつぶすものであれば,ど んなことがあっても反対し,政治問題,社会問題 にして抵抗すべきである。現在,抗議しないこと が,戦場にひきだされるステップとなっては大変」
で,「勤評の本質は,子どもも立上がらざるをえ ない国民的な闘争になってきたことである。先進 的な階級である労働者階級は,子どもと共に闘争 をする歴史的な役割を負っている。子どもも含め た国民闘争にする先進的な任務」があり,さらに は「文部省が,登校拒否や半日授業拒否に対して,
学校教育法による授業の義務を強調しているが,
それは,「就学」の義務規定を一方的に拡張解釈」
するものである,という2Q。
例えば高知県であらわれたが,子どもの「登校 拒否」は逆に親の側から,教員組合への反撃戦術 としても用いられたことが示すように,子どもを
「闘争に巻き込む」ものとの批判も当然あった。
また,労働組合が教育プロパーの領域を含む問題 での教組との共闘の組み方として,慎重であるべ きだとの論調もあった。遠山茂樹は「世界』58年11 月号で,子どもの登校拒否に反対し,「賃金問題 と平和運動,まして賃金問題と勤評の結びつきを,
組合員ひとりひとりの内心に納得してもらおうと すれば,実に多くの媒介項と豊かな論理を用意し なければならぬだろう。その用意があったとすれ ば,P T A役員に組合員は進出せよとか,子ども ママの登校を拒否せよといった一方調子な方針を出す
はずがない」⑳と批判した。
大野論文で引用された『教師の友』65号の富田 論文とそれに続く「夏季研究集会の報告」は,こ の時点での勤評運動論の主要論点である「階級闘 争か国民運動か」についての一応の到達点を示す
ものとなっている。
富田論文で力点が置かれているのは,和歌山で の「労働者との共闘」を軸とした勤評闘争である。
ここで勤評闘争論に深入りするつもりはないが,
階級闘争論の富田論文の強調するところは,和歌 山での七者共闘会議(県地評,県教組,高教組,
県職,教育庁職組,部落解放同盟,和大自治会)
のもと,「九・一五統一行動」での県地評子弟一 万人の同盟休校,部分スト,時間内職場集会など の成果を挙げて,「教師に加えられようとしてい る勤評を通じての攻撃と,それぞれの労働者に加 えられているさまざまなかたちでの攻撃がすべて 同質のものだということでとらえられたところに
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大きな前進がある。……他の産業の労働者が,教 師の要求である勤評反対の要求を,自分たちの要 求としてとらえ,全労働者階級の要求としてとら
えていったところに大きな前進的な特徴があった からである」⑳という点であろう。ここには,こ の日教組統一行動での前進面がこのように評価さ れ,一方で足並みの乱れが生じた弱さを「長谷川 声明」の「共闘に背を向け」闘いを放棄した理論 への批判ということで,内田・大野論文と同質の 論議が展開されている。
さて,こういつた「階級闘争論」からする恵那 教育会議批判にたいして,「国民教育論」はどの ように教育会議擁護の論陣をはったのであろう
か。
2節 教育会議運動の擁護論
恵那支部「方針転換」文書が雑誌『教師の友』
に掲載された後,同誌には恵那に対する支持・批 判の反応があったことは既にふれた。そして,恵 那教育会議に対してもっとも積極的に擁護論を展 開したのが,当時名古屋大学の哲学の助教授で あった竹内良知である。名古屋大学には教育学部 に小川太郎,本山政雄,成田克矢がおり教育会議 運動に分科会助言者などでかかわってはいたが,
竹内もまた精力的に恵那の運動を支援し,前三者 よりもっとも恵那に近い研究者であった。
『教師の友』は65号で「民主教育を守る勤評闘 争の展望」を特集し,特にその年の8月におこな われた「夏季研究集会」の報告を掲載しているが,
そのなかの第2提案が竹内の行った「岐阜県教組 恵那支部の運動方針から何を学ぶか」であり,そ
こで教育会議運動に対する批判への反論がなされ ている。竹内報告は,恵那の方針が階級闘争とし ての側面を無視してはいないし,組合の民主主義 を重視し,学校教育が校長をふくめた教師たちと 父母たちとを切り離して考えたのではっかめな い,という把握をしていることが重要であると述 べ,労働者階級のヘゲモニーという観点がないと いう批判に対して,「勤評をP TA自らの問題と することによって,具体的な力にしょうとしてい る……恵那の教組はいろいろな労働者階級と結び ついている。労組のものがP TAにはいり,P T Aを強めている」と反論している。またさらに「恵 那の方針のいま一つの特徴は,勤評問題を政治問
題にさせないということである。恵那はこれを政 治問題にさせない力を作りだすことを方針として いるのである。これは深い政治性をそなえている 方針である。恵那の方針からこの点を学びとらな いなら,なにも学びえないに等しい」⑳と指摘す る。この最後の論点は,そこでは詳しく展開され ていないが,いわば恵那の方針のキーワードでも ある。これは後で竹内の別稿からみることにする が,この研究会での討論からもすこしばかり紹介
しておこう。
討論で出されたのは,P TAへの方針と,恵那 の運動への批判的意見についてであった。P TA に関してその記録では,P TAの現状の困難さの 中には教師側の弱さが反映している,「親たちも,
教師たちも,自由に発言できるP TAをつくりだ すべきである」などということが共通に確認され,
P TAが保守的な人たちに牛耳られている場合,
「それとは別に民主教育を守る組織をつくり,そ こから保守的な人をオミットし,その組織への参 加をそれらの人びとには呼びかけもしないという
ようなことがもしおこなわれるなら,その地域で は,民主教育を守る根づよい態勢をつくることは むずかしい……そのことこそ支配権力がもっとも 喜ぶことであろう」とまとめられている。ただし かし,この記録にあらわれた論点は少しばかり事 態を単純にとらえているように思われる。その点 が,あとの竹内論文でより深く問題にされている。
もうひとつの批判的意見は,だいたいにおいて重 複する内容であるので省略するが,「恵那は恵那 地区だけで勤評を阻止しようとしているが,地域 の問題の解決は全国闘争と結合しないでは成功し ない」との批判に対し,「恵那は地域の問題を他 からきりはなしているのではない。……批判者は,
地域の問題を全国に転化させる点を見おとしてい る」㈲との反論がされている。恵那地域の闘争に 恵那教組が主体的な責任を負っていることは明か であるが,こうした取り組みの広がりは,岐阜県 内では見られなかったこともまた事実であった。
全国的にみてもこのような教育会議方式の取り組 みは,結局は他には広がらなかった。ただ,はっ
きり言えることは恵那が自分たちの独自の運動 を,こうした全国的雑誌や研究会などをとおして 主張し,勤評闘争のなかで「特異な」運動として 注目されたことである。
竹内はこのあと,『教師の友』で「勤評闘争と
国民教育の発展」と題して,三回連載の論文を書 いている。恵那教育会議に詳しく言及したのは,
このうちの第2と第3論文とりわけ第2論文で
あった。
この第2論文は,主に親(国民)と教師の関係 について展開されている。これは,教育会議運動 の評価に関わるもっとも重要なテーマであって,
しかも今日に通ずる課題性をもっているものであ ると言える。竹内はまず,「父母との統一」とい う方針自体は日教組運動での目標であったが,恵 那が実際に真剣にこの活動に取り組むなかで「父 母たちが教師にたいしてずいぶん手きびしい批判 をもっていること,ほんとうに説得するというこ とは容易なことではないし,教師の言い分をうけ いれた父母たちにしても,けっして心から教師を 支持しているのではなくて,口には出さなくとも,
やはり本心では「それでもいい先生と悪い先生と があるからな」と思っているのだということなど を,あらためて知りました。」と述べ,「これ(教 育会議一引用者注)さえつくれば学校教育がすぐ にでも民主的なものになって,勤評を阻止するこ とができるというような甘い幻想にもとづいて構 想されたのではありません。……PTAそのもの が民主化されているとはいえないばかりでなく,
たくさんの父母は,労働者をもふくめて,いまの 教育をけっして心から支持していませんし,教員 組合の運動にたいしてもつよい不信をもっていま す。いってみれば,教師と父母とのあいだには対 立と矛盾があるし,その矛盾は条件によっては敵 対的なものにさえ転化しかねないほどのもので す。」㈲と,指摘している。こうした情勢分析は,
まったく恵那支部のそれと寸分たがわない。いわ ば,この論文は「恵那方針」の解説文と言って差
し支えない。
さらに,教育会議で学校・教師への批判,要求 などが出てきたことを示して次のように指摘す
る。
「父母たちの学校教育にたいする不満や要求が,
教師,校長,地教委をふくめての大衆討論のな かでとりあげられ,学校教育の実情が父母にす こしづつあきらかになるにつれて,教育財政の ことが問題になりはじめました。そして,その 問題が討論の対象になりはじめるにつれて,父 親(とくに農民)たちが熱心な関心を教育会議 にしめしはじめました。こうして,教育会議は
大衆運動のかたちをとることによって,ひろい 人びとを動員して発展し,恵那地区の学校教育 をめぐるすべての問題をとりあげる場所とな り,大衆が学校教育の問題について直接発言し,
それを客観化する場所となりはじめました。そ してPTAがすこしずつ質をかえて,ひろい父 母たちのもとなりはじめましたし,地教委も校 長会もこの教育会議に出てくる大衆の要求を無 祝することはできにくくなってきました。教育 会議は父母大衆がみずから学校教育の問題を決 定する組織となる展望をもちはじめ,大げさに いえば,権力の不当な支配にたいして学校教育 をまもり,それを民主的に発展させるための,
統一戦線の萌芽となってきました。」2e
竹内が3回の連載で語ったことはこれにつきる ものではないが,こうした父母(国民)と教師の 関連は大きなテーマであるので,後でまた論じる
ことにする。
なお,竹内はまた教員組合の運動論についても 多くを書いているが,恵那教組がF I S E(世界 教員組合連盟)のポール・ドラヌーから多くを学 んでいることを紹介し,教組の「実力行使」につ いて,次のように書いていることは,父母との提 携の問題にとっても切り離せない論点であった。
「教師と父母と労働者階級との統一ということ は,具体的には,父母と労働者階級との教育要 求を正しく学校教育に反映させ,学校を教育の 主権者である父母(国民)大衆のものに変え,
父母に責任を負うものとして運営するところに 実現されるべきものである。したがって,実力 行使によって勤評を阻止するにしても,教師は やはり父母と教師と労働者階級との統一を学校 の教育内容と運営において実現する,具体的な 運動形態を見出さなければならない。それが見 出されなければ,教師が主観的にどれほど正し いと確信していようとも,実力行使は大衆の理 解をもたらすことができず,勤評闘争の勝利の 展望は見出されないであろう。こうして,恵那 教組は実力行使の戦術を真剣にうけとめればう けとめるほど,やはり,教師の権利をまもる闘 争がそのまま学校の意義と役割を民主的なもの に変え,教育における民主主義を実現するため の闘争とむすびつくような闘争形態,父母と教 師と労働者階級の統一を学校教育の内容と行財 政の条件とにおいて,具体的に実現する展望を
森田道雄:恵那教育会議の教育法社会学的考察(4) 59
含んだ闘争形態を見出す努力をしなくてはなら なかった。……(恵那教育会議運動を簡潔に述 べて一引用者注)……こうして,教組と父母大 衆とが共通の教育要求をかかげてその実現を地 教委や自治体に求める運動がすすみ,さらにそ れが労働者階級を中心とした民主主義運動とむ すびつき,地域的限界をこえて発展するならば,
政府の教育政策を転換させ,教育内容と教育行 財政を国民大衆のためのものに変え,教育にお ける民主主義を実現することも可能であろう し,そのような父母大衆と教師との統一した運 動のなかでこそ,勤評体制を阻止し,教師の権 利と自由とをまもることもできるであろう。恵 那教組はこのような発想と展望にもとづいて,
「教育会議」という教育運動の形態を見出した のであった。」伽
これはこの引用だけでは不十分にしか紹介でき ないが,いわゆる「全国統一行動」という行動形 態に関わる,恵那教組の見地を解説したもので あった。もっともこれは,教育運動論であって,
恵那教育会議そのもとは直接のかかわりのない問 題である。しかし,先の批判的論調とは真っ向か らかみあう論点である。要するに,教組が真に父 母大衆から理解されるために何が必要か,こうい
う発想を具体的に運動の方針とした結果が教育会 議であった,ということである。だから,「統一 行動」という戦術が一人歩きし,画一的な「闘争 形態」によって父母大衆から遊離することを慎重 に避ける工夫がここにはあったが,それは恵那教 組の国際的な教育運動からの真剣な学びとりが あったからだというのが,この引用部分で竹内が 強調したことであった。
また,青木『講座教育』や岩波『現代教育学』
には,やはり教育会議を積極的に評価する論文も 出されている。青木『教育』第3巻には,「階級 闘争論」者からの批判を受けた矢川徳光が「国民 教育論」と題する論文を書いているので,まずそ の論旨を追ってみよう。
この矢川論文の主要部分は,恵那の運動を下敷 にして書いているかのように思われるほど,恵那 の「方針転換」と教育会議運動を正面にすえて論
じている(全国の多くの実践例を引用しているが 恵那と並んで依拠したのは山形であった)。矢川 論文はまず,国民教育の概念から説きおこして,
次いで恵那支部の「自由論議」を組合民主主義の 事例として高く評価し,これは「方針転換」によっ
て忽然とあらわれたものでなく,「恵那の教師た ちが,すでに一二年,組合活動のなか教研活動(多 種の多様なサークル活動,出版活動,普及活動)
の中で,また,それぞれの分野の活動家たちの不 断の交流をとおして,農山村に,また街のなかに,
うまずたゆまず,つみあげてきた教育民主化活動 の実績を土台にしてはじめて可能にされてきた」
と指摘する。そして「「この一致点にもとづく行 動だけが,統一の力である」とされて,恵那地方
に民主教育を守る国民的・民主的な統一勢力の結 成が進められたのである。しかも,この恵那教育 会議の任務は,勤評阻止だけを目ざすのではなく,
民主教育全体を守ること,ならびに,国民教育を 創造することである」とし,P TAが「地域住民 のなかで,学校教育に直接のつながりをもつ最大 多数者の組織であるという点」囲に着目し,恵那 の教育会議の運動が「国民的統一が国民教育を擁 護し創造するたたかいの勝利を保障するものであ るということを,地域的に立証している実例の一 つ」凶とみるのである。
矢川はこのなかで,次のような恵那の教師の文 章を紹介している。
「これ(勤評,引用者注)に対して最初に PTAの声となってあがってきたのは,〈それ のために教育現場を混乱させてはならない〉と いうことであった。この声の中味は,あやまつ たもの……闘争をさけたい,という要素だ,と 受けとってはならないのである。まちがったも のの正体を見届け,それを抜本的にほうむりさ るために統一した抵抗が必要であり,そのため には無益なエネルギーの消耗や仲間同志の混乱 はさけ,することなすこと,ひとつひとつ味方 の陣営を拡大し,敵に打撃を与えるようにもの でありたいという願いが奥深くかくされている と受けとらなくてはならない。それはとりもな おさず,子どものしあわせを願うことに端を発
したすべての良心的な国民の願いでもある。こ うした願いをもった国民の層がどんなに幅の広 いものであるかはつぎの事実でわかる。地教委 だとか地方自治体だとか校長会とかいう,いち おう現在では官制の機構に属する人びとも,子
どもの父親として母親としての願いには変わり なく,子どもの幸福を願い,先生によく教えて
もらうことを願うひとりにほかならない。この 願いを含めて広範な地域の父母や若者を結集し た私たちの地域では,たたかいの所産として恵 那教育会議が創り出された。……」30
矢川は,「階級闘争論」に対してかつて雑誌『前 衛』で「勤評反対運動は階級闘争ではなくて,〈独 占資本の専制をくつがえすために〉〈きわめて ひろい人民層を統一する〉国民運動である」と 書いたことは不正確であって,本当は「階級闘 争として規定しつくせるものではなく」と書く べきであったと述べた後,「独占資本の権力が
日本の教育を自己の階級的利益に役だたせるよ うにゆがめているの(すなわち国家教育)を部 分的にでも改めさせ,それを,たんに労働者階 級だけでなくて,しんに「国民全体」(教基法 第一〇条)に奉仕するもの(すなわち国民教育)
に変質させていく闘争となることができる。い いかえると,学校教育の領域においての階級対 階級の闘争は広範な国民の力を結集する国民運 動として発展することができるし,また,その ように発展させていくなかでこそ,はじめて勝 利の見通しを確かなものとすることができる」
と述べている。ここに今本論で扱っている主題 の矢川論文の核心があるとみてよい。なお,矢 川論文はこの後さらに「登校拒否戦術」に言及 し,それを「子どもの教育という観点を抜かし たものであり,子どもの日々の教育というもの がもつ深い政治性についての理解の不十分さを 示している」と強く批判し,教育実践の特性に ふれて,島小学校の実践を手短く紹介したあと 次のように書いている。
「これは一小学校のばあいであるが,それを 二市一郡のひろい地域で生かしている例は,
さきの恵那教組のばあいにみられる。これら の実例はなにを意味しているのであろうか?
それは教育の独自性と教育労働者の使命とを 深く理解し,理論学習を不断に深め,教育の 技術をみがき,そのこととともなわせながら 日常教育実践を長期にわたって展開すること をとおして,権力支配に抵抗することができ ている,ということである。こんにちの権力 支配のもとにおいても,その国家教育による 歪曲が,こどものなかにしみこむことを,教 育実践によって阻止すること,断ち切ること ができている,ということである。そこに民
主的な教育実践のもつ政治性がある」⑳
矢川論文の恵那に言及した部分を紹介する形で 引用したのであるが,かなり正確に恵那における 運動の理論的意義を解釈した論文であるというこ とができる。ただ,最後の部分の教育実践の「政 治性」についての指摘は,竹内も指摘したところ であって恵那の評価の核心をついたものではある が,この教育会議運動期の恵那の教育実践そのも のは,厳密にいえばここで矢川が評価するような
「国家教育」との対決を全面的に可能にしていた わけではなかった。前に見たように教育会議運動 を進め組合と大衆との接点が広がるにつれて,ま た「学力テスト」問題や高校進学・受験問題の中 で,「学力」とはなにか,「教育実践はこれでよかっ たか」が問われてくるのである。恵那の教師たち の教育実践への質的な反省は,「恵那教科研」運 動や「学テ反対」運動を経て,また63年「教育正 常化」をくぐり抜けて本格的に行われるが,勤評 闘争のさなかに彼らがどのような教育実践への姿 勢をとっていたかについては,既に見た58年度「運 動方針」のなかに,組合文書としては異例と思わ れるような言及があり,ここに「民主的な教育実 践のもつ政治性がある」ということの理解の鍵が 示されている。
この「方針」は,「子どもと教育を守る問題」
という項で,「私たちにとって,現在何より重要 なことは,私たちが日々営む教育を,誰のために 奉仕させるかという問題ではなかろうか。いわば 子どもを誰の手に渡すか,ともいうべき,妥協の 許せない私たち教師の良心の問題なのである」と 述べ,指導要領の改訂,「道徳」特設,科学技術 教育の振興などの「政府が相ついで押し付けてく
る教育内容上の意図は,教育内容における科学性 と道徳性の分離であり,子どもに真の実力をつけ させないようにするところである。そのために私 たちは「子どもを本当にかしこくする」すること を当面の課題としなければならない」と指摘した あとで,次のように述べている。
「その課題を達成するために,私たちには二つ の問題がある。
第一は,真の実力ということについて,いま までの教育研究における成果に学ぶとともに,
私たち自らの学習活動の中で,「実力とは何か」
「実力を如何にして身につけるか」などの問題 を,明らかにする必要についてである。「真の
森田道雄:恵那教育会議の教育法社会学的考察(4) 61
実力」を子どもたちの身につけるための,教育 実践活動という場合,私たちは,何よりも学習 指導の質を高めることに努力しなければならな い。「学習指導の質」ということについては,「学 習指導の原則性と創造性」を如何にして具体的 に統一するか,ということが問題であろう…一 それには,私たちが「教育においては担任が 最高の権威者であって,それに対し指導,批判,
援助をおこなうことができても,誰も命令する ことはできない」という徹底した教育的自由を
確保しながら,「実践活動の中でのある程度の 失敗を恐れることなく,自発と創意にみちた教 育実践活動を大胆に展開することと,その中で 生まれた問題をサークルという形で組織し,発 展させることが何より重要である。
第二には,「学校教育の成立は,父母をぬい て考えることが絶対できない」という原則から,
教育の方向や内容について,私たちと父母との 間で見解を一致させる必要についてである。
そのためには,現在,教師と父母の間で一致 していない問題を明らかにして,その問題につ いての見解を一致させるために話し合いを進め ることが必要である。その話し合いも,いたず らに表面にのみ表れた父母のコトバに追従し て,教師の貫くべき権威と責任とを見失うなど のことがあってはならない。
また話し合いに当たっては,父母,教師とも どもに,自由,かつ率直に意見をのべあうため の,さまざまな創意を生みだす必要があろう。」幽 この第2の命題が,教育会議運動の核心の一つ であることはいうまでもない。ここで「方針」書は,
教師の専門性を重視し,それが親(国民)の期待 する「よい教師」の中味であることを述べつつ,
しかし学校は父母を抜いては成立しないと教育に おける国民主権の原理をはっきり述べているので ある。したがって,親(国民)の側からみれば,
こうした教師の専門性を守るという点でなんら内 部矛盾は存在しないことになり,国民運動として 教育運動が成り立つ根拠になると考えられたので ある。教師がここで言うような意味でその専門性 に徹するということが,いわば勤評問題を政治問 題化させないという理解に通ずるわけである。
もっともこの点は以後,恵那と対照的に教師の特 性を脱ぎ捨てて,働くものの一員であることを前 面に押しだして地域に入って行った高知,和歌山,
京都などの運動論との違いを際だたせるものと
なった。
岩波『現代教育学』第17巻には,成田克矢が「教 育運動と父母組織」を書いている中で恵那教育会 に言及している。成田は,勝田・堀尾「教育にお ける中立性の問題」論文の「私事の組織化」概念 が「公教育の公共性と階級性との矛盾と統一をと らえる方法において無理があると思われる」と批 判し,「……国民教育の立場から父母の発言権,
その主体性がますますしめ出されようとしている のは,まさにこのような国民教育に内在する必然 的契機にたいする侵犯である」と述べ,恵那教育 会議運動に言及した部分では,愛媛勤評闘争がひ ろく国民諸階層を結集した闘いでなかったとし,
「この点をもっとも早く,愛媛闘争の悲劇的な終 息後まもない時期においてつかんだのが,岐阜県 恵那の教師たちであった」と指摘し次のように述 べている。
「恵那では,勤評阻止の二つの主体的条件の 関係が,つぎのようにとらえられた。すなわち,
教師が勤評阻止・民主教育擁護のためにますま す団結を固め,一致して父母に働きかけるなら ば,教師と父母大衆(国民)との統一はすすめ られ,父母との統一が進むことによって地域に おける勤評阻止・民主教育擁護の力はいっそう 強化され,教師の団結もまたいっそう固められ る,と。それは「統一と団結の思想」と呼ばれた。
その強力な組合活動,生活綴方運動・「教科研」
運動をはじめとする教育研究活動のつみ重ねに おいて,これまでにもたしかに先進的であった 恵那が,ここでまた飛躍的に団結を強化する必 要を意識したのが「自由論議」の運動であっ
た。」㈱
成田論文は,竹内・矢川論文とほぼ同じ内容で あるので,ここで詳しく紹介することは省略する。
ただ,上記したようにこの論文で,勝田・堀尾批 判をおこなった自著『国民教育の条件』を注に掲 げているので,恵那教育会議論としては傍論であ るが,そのことについて論点だけを指摘しておこ う。この著書で成田は,きわめて単純化した要約 になるが,前記,勝田・堀尾論文が近代公教育の 成立過程のうちに市民的自由の自覚の契機を読み 取りながら,それを「私教育の原則」として「私 事の組織化」なる概念でとらえようとしたことに
対して,私事を組織化する契機は何かを問い,市 民的自由の自覚の過程は個々人のうちというより
も,「市民革命の過程の総体のなかで,教育が私 事であることとして出発した教育の組織が公教育 へ転化発展したのであるとわたくしは考える」と 述べ,旧体制からの民衆の解放は「私」だけでな く「共同の自他の利益」として実現されたという 観点を強調している図。もとより日本の民衆に とっての「市民革命」は,第二次大戦後の占領下 における民主化であったが,教育における「国民 主権」の自覚の過程の一典型例が恵那教育会議の 運動であったと言えよう。したがって,教育会議 運動をここで問題にされているような「私事の組 織化」という過程をそのなかにみるということは,
現実を理念で裁断するおそれなしとはしないが,
成田が言うような「共同性」というものを論議の 中で確認しつつ民衆の教育意識を要求に高めてき た過程を読み取ることは,けっして無理なことで はなかろう。
ただ成田の勝田・堀尾批判の論点は,もとより 上記したような単純なものではないが,「共同性」
を「私」と単純に対置してよいかどうかという問 題が残る。「私事の組織化」が教育の共同性・公 共性に連なる点には異論は示されていないのであ
り,そこに「個人の自由」の契機を主たる側面と して見ること自体に誤りがなく,筆者には勝田・
堀尾論文に問題は感じられないのである。両論文 から離れて,あえて教育会議運動の過程の中で見 るとすれば,その「個」と「共同化」の両面の契 機が重要であり,実際の発展過程に即してみるな らば,むしろ親たちが,母親の場合ならPTAと か地区単位の「まとまり」から,あるいは父親の 場合職場などの労働の単位から,脱却して「私」
を語り始めた頃から活動が本格化したというよう に筆者は評価するし,「聞く会から話す会へ」と62 年度集会が位置づけられていたことからみて,
「個」の契機がより重要であったというように考 えるべきなのではなかろうかと思われる。
3節 恵那教育会議に対する当時の評価 一国民教育運動の到達点
①『教育』『教育評論』誌上での検討
1節,2節で教育会議運動に直接関わる論文な どから,当時の勤評闘争の論争点を明らかにして
きた。そこに既に主要な論点が出されており重複 する点もないわけではないが,批判,擁護という ことでなく,恵那教育会議を,どう見るかという ことで理論・運動の両面から典型的なものを,二 つの雑誌から見てみることにする。
理論的な意味での,教育会議への深い関心を示 したのは教育科学研究会であった。「教育』は,59 年1月号で「勤評闘争と教育原則一恵那支部の経 過報告をめぐって」という五十嵐顕の論文と,五 十嵐が司会をし,恵那から石田和男,渡辺春正が 参加した座談会「国民の教育的要求と教育の自 由」,資料として57年度「経過報告」を掲載した。
これらは,『教師の友』での一連の教育会議につ いての報告・論文・資料を前提として,それにつ いての批判や異論もあるなかで,恵那の運動を客 観的に考究するという意図にもとづくものであっ
た。
『教育』の冒頭の五十嵐論文は,恵那の方針が「恵 那支部に結集する教師が自己の状況を承知し,行 動の実現が必要とする進路を考えるにあたって,
正直にかつ自己自身の言葉でいいあらわそうとす る態度が私たちの注意をひいた」とまず述べて,
内容的にも「日本の教育現実の理解と推進にとっ て普遍的」で「戦後日本の教育の展開のうちにす でに形をとっている課題性(教育現実の一つの側 面)に,恵那支部が自己の実践と反省を主な通路
として,せまっている」と評価している。つぎに 同論文は,「自由な論議」と「意見の一致」とい う言葉に注目し,「自由な論議」が「組合活動だ けでなく教育活動における教師の主体性の原則を 強調している」ところに「一般的意味」を見いだ すことができると述べて,「経過報告」の一節を 引用しながら「意見の一致」が教師の主体性の尊 重の原則を否定するのでなく,むしろこれを「補 強する原則的な思考がみられることに注目」して
いる。
ここで引用されている一節とは,以下のような ところである。
「勤評闘争で父母に働きかける場合,職場での 意志が一致しておらないかぎり働きかけが成功 しなかったということから,子どもの状態と指 導の方向について,職場の見解や意見が一致し てない場合には,子どもを正しく教育すること ができないということが問題となり,職場の一 致が強調されはじめた。これは職場の自由が拡
森田道雄:恵那教育会議の教育法社会学的考察(4) 63
大される度合に比例しているが,そのことは,
一致点の問題が統制と命令のための問題とされ るのではなく,内側からの要求となって問題化 していることに,職場の民主化についての新し い芽ばえがあらわれていることを示してい
る。」39
論文は,続いて職場での「意見の一致」が「学 校教育の問題は,父母をぬいて考えることが絶対 にできない」という例の命題を意識しながら,「学 校教育の本質的な問題に根拠づけられてなされて
いること」に注目し,「教師の教育活動の主体性」
と「学校の統体性」の関係の考察に進む。ここで いう「学校の統体性」とは,おそらくは五十嵐の 造語であろうか難解であるが,「子どもの人間形 成それ自体が学校活動の統体性を要求するのであ
り,したがってこの統体性を実現したり,分担的 な仕事をつうじてこの統体性をになうところの教 師の集団的な主体性が必要となる」という文章か らして,学校という組織の「統一性」というよう な意味であろう。恵那の方針は,「学校の教育統 体性において教師の個人主体を生かしてこなかっ
た職場では,教師の個人的主体性がいかに抽象的 なものであるかが明らかにされ…そのような特別 な状況のもとで(勤評政策一引用者注),教育に おける真に働く人格の単位はなにかを問題にして いる」と理解する。ここには,他の論者にない五 十嵐独自の問題理解がある。これは,学校教育の 組織性,公共性と教師の活動の個人性,主体性の 関係についてのするどい問題意識であるが,そこ に今で言えば「父母の教育権」というべきものが 必然的にかかわり,勤評政策の政治性がからむこ
によって,いっそう問題は複雑化する。
五十嵐論文は,「子どもに真実を教える組織的 な仕事は教師の個人主体の立場では完全に遂行さ れないからであります。なおこの点に教育におけ る真実の客観性の問題と,教育の自由の問題,並 びに教師の教育研究の自由の問題が提起されねば ならない必然性がでてくる……教育活動における 科学性を自覚し強調することは教育問題において 階級性の問題を考えないことではなく,かえって 階級的実在を鋭く問題にする立場ではないかとも 考えられます。……恵那支部の報告が,教育活動 における政治形成の問題をふくんでいると考える のです。政治形成というのは,政治の反動性を分 析指摘して政治と教育の関連の必然性やその自覚
を教育の外に放り出すのではなく,逆に政治の変 革に寄与できる教育固有の働きをとおして,教育
と政治との正しい結びつきを建設していくことで あります」G⑤と述べ,恵那の方針の「政治性」に 論及している。同論文は,学校の本質規定として は不十分だ等と恵那の方針への疑問も述べている が,ほとんど擁護論そのものであるとさえ言えよ
う。
ついで,座談会「国民の教育的要求と教育の自 由」では,残念ながら五十嵐論文で提起された課 題に迫っているというよりは,教育会議運動の平 板なやりとりに終わっている。たとえば,司会者 が最後で断わっているように問題提起にある「教 育の自由と教師の主体性」の問題,とくに「教師 の自由と言わないで教育の自由」βのと言っている 問題にはだれも実質的に深める発言をしていな い。このなかで,教育行政学の立場から持田栄一 が,「地教委の権力分析がユニーク」だと評価し ながら,教育会議が教組のどのような教育行政対 策あるいは行政構造の認識から生まれたのか,そ れと大衆との接点はどうかと問題を出し,国民教 育研究所の森田俊男が,国民大衆のなかの「自分 自身の自己変革,自己教育に関心をもちはじめた 層がかなり広がっている」なかで教育会議がかれ
らを「どう基盤にしているか」と質問を出してい る。座談会での恵那側の回答は必ずしもこれに十 分答えてはいない。ただ,石田の次の「親の矛盾 はなにか」ということに対しての発言は,上のど れの回答というわけではないが,紹介に値しよう。
「確かに子どもの問題でなければ,親にわから ないということはないのです。しかし,ぼくた ちが,ぼくたちの立場で,勤評問題をあきらか にしていくのは,教育,子どもの問題を通して だと思うのです。説得という点で,最近,ぼく たちは,親に,まずなんでもいってもらわなけ りゃならんということが,具体的にはっきりし てきたわけです。……ぼくたちが,親のもつ矛 盾をわからせていくやり方というのは,やはり,
教師としては勤評問題をヌキにしてやることは できないのです。現在の日本の労働者階級の役 わりについて,抵抗する階級であるとか……い われていますが,……自らの矛盾に立ちあがる のでだけでなく,それをわからせていく努力を ぬきにしてはいけないのではないかと思ってい ます。」「共闘というのは,自らが自らの要求で