ビタミン B1発見 100 周年 祝典・記念シンポジウム
鈴木梅太郎博士
鈴木梅太郎博士ビタミンB
1発見 100 周年に寄せて
想 随
化学と生物 Vol. 50, No. 5, 2012
390
鈴木梅太郎の始めた東京大学農学部農芸化学科生物化 学研究室で卒業論文と大学院修士の3年間を過ごした私 は,教授室の本棚にずらりと並んだ Emil Fischer の業 績全集をちらちら横目で見ていたものだ.鈴木は1901
(明治34)年10月から1906(明治39)年2月までの欧州 留学の間,ベルリン大学化学教室のFischerのもとで3 年ほど有機化学を学んだ.30代初めの彼は,日露戦争 をドイツから見ていたわけだ.Fischerは1902年に第2 回ノーベル化学賞を糖とプリン類の研究でもらい,次に アミノ酸とタンパク質の広汎な研究を始めていた.
Fischerの人となりに加えて,鈴木の業績は,Lichten- thalerによって紹介されている(1).
1986年に私は当時のドイツ民主共和国科学アカデ ミーの招待で,東独の大学・研究機関を1ヵ月余り訪問 した.その際,鈴木がいたベルリン大学(フンボルト大 学)化学教室にも行った.写真
1
の左側のやや小さい建 物がFischerが住んでいた教授官舎であり,右側後方の 大きいのが化学教室である.両者は渡り廊下でつながっ ており,Fischerの個人研究室だった部屋が官舎に一番 近い所にある.そこに鈴木はいたらしい.Fischerは夜 中でも弟子の実験を見に行ったそうで,鈴木も一生懸命 働いたのだろう.ドイツ化学会誌 ( ) に3報,生理化学雑誌 ( ) に1報と,計4報文 を3年間に発表している.写真
2
は,Fischerの居室だっ た教授室にかかっていた彼の肖像画である.私が鈴木の 孫弟子と知って,わざわざ壁から画を降ろしてもってく れ,写真を撮っていけと言った1986年当時の教授Hen- ningさんの手が上方に見えている.鈴木は当時,最先端のペプチドの化学合成を研究し,
Fischerとの共著論文にしている(2).鈴木が合成したペ プチドの1例を図
1
に示す.しかし,彼は日本ではペプ チド合成を続けずに,日本独自のものの化学を研究し た.日本の有機化学の開拓者である鈴木(農),長井長義(薬),真島利行(理)の偉大さは,西欧の問題を日本に直 輸入したのではなく,西欧の手法を用いて東洋固有の問 題の新しい発展を図ろうとした点にある.図1に示すよ
農芸化学と有機化学
エミール・フィッシャーから鈴木梅太郎へ.そして今
(独)理化学研究所,東洋合成工業(株)
森 謙治
写真1■ベルリン大学化学教室と教授官舎
写真2■Fischerの 肖像画
化学と生物 Vol. 50, No. 5, 2012 391 うに,やがて鈴木はオリザニン(ビタミンB1)を見つ
け,また鈴木の弟子の和田光徳(九大・農)はスイカか らl-シトルリンを見つけた.l-シトルリンがKrebsの尿 素回路を構成していることを教わっても,それが日本で 発見されたことを我国の化学徒はちゃんと知っているだ
ろうか.第一次世界大戦で化学品を我国に輸入できなく なったとき,鈴木は防腐剤のサリチル酸を工業合成する ことで酒造業を救った.また,梅毒治療薬のサルバルサ ンや燻蒸殺虫剤のクロールピクリンを合成して需要に応 えた.鈴木の有機化学は,先見性と実用性が渾然一体と なったもので,まさに農芸化学的である.
さて,Fischerと鈴木の出会いから1世紀以上たった 現在,日本の有機化学はどうであろうか.遷移金属触媒 を用いる有機合成反応の開拓でノーベル賞を受けた9人 のうち,3人は日本人である.Fischerが先駆者である ペプチド合成では,48アミノ酸残基から成り,d-アミノ 酸とl-アミノ酸が交互に並んでいる細胞毒性ペプチドで あるポリセオナミドBの合成が井上将行ら(東大・薬)
により達成されている(図
2
).またクロールピクリン よりずっと複雑な構造のピレスロイド系殺虫剤は,1950 年代の松井正直らのアレスリンの工業合成成功以来,日 本の重要な輸出品となっている.オリザニンから始まっ た生物活性物質研究は,生態学的に興味深い超微量生物 活性物質の構造決定・合成へと向かった.正宗直ら(北 大・理)により構造決定された大豆シスト線虫孵化促進 物 質 グ リ シ ノ エ ク レ ピ ンAは,村 井 章 夫 ら(北 大・図2■20世紀後半から今世紀にかけて我国で合成された生物活性物質 図1■20世紀前半に鈴木とその弟子たちが発見または合成した 化合物
化学と生物 Vol. 50, No. 5, 2012
392
理),森・渡邉秀典(東大・農),E. J. Coreyら(ハー バード大),谷野圭持ら(北大・理)により合成されて いる.
鈴木の時代には不可能であった立体異性体どうしの分 離・分析が可能となった今,私のフェロモン研究で面白 いことが見つかっている.鈴木隆久(筑波大)が発見 し,私が全立体異性体を合成したトリボリュア(コクヌ ストモドキの集合フェロモン)では,天然物は単一の純 品ではなく4種の可能な立体異性体すべての混合物
[(4 ,8 )/(4 ,8 )/(4 ,8 )/(4 ,8 )=4 : 4 : 1 : 1] で あ るし,J. Y. Yew(シンガポール国立大)が発見して私 が合成したショウジョウバエのフェロモンCH503では 非天然型 (3 ,11 ,19 )-体よりもはるかにフェロモン活 性の弱い (3 ,11 ,19 )-体が天然物である.今や合成化
学は精密化され,生命科学や材料科学研究に不可欠な道 具となった.
鈴木の1世紀前のオリザニン発見は偉大である.しか し鈴木の功績の本質的に重要な点は,農芸化学分野にか かわる化合物に興味をもつ多数の有機化学者の人脈を創 始したことではあるまいか.ドイツで講演するとき,私 はいつも有機立体化学を追究するEmil Fischerの科学 的子孫だと自己紹介するのである.
本稿を2012年3月12日に94歳で逝去された恩師,日本学士院会員 東京 大学名誉教授 松井正直先生の御霊前にささげる.
文献
1) F. W. Lichtenthaler : , 2002, 4095 (2002).
2) E. Fischer & U. Suzuki : , 38, 4173 (1905).
複写される方へ:本会は下記協会に複写に関する権利委託をしていますので,本誌に掲載された著作物を複写したい方は,同協会より許諾を受けて複 写して下さい.ただし,(社)日本複写権センター(同協会より権利を再委託)と包括複写許諾契約を締結されている企業の社員による社内利用目的の 複写はその必要はありません.(社外頒布用の複写は許諾が必要です.)
権利委託先:(中法)学術著作権協会 〒107‒0052 東京都港区赤坂9‒6‒41 乃木坂ビル (Tel : 03‒3475‒5618, Fax : 03‒3475‒5619, E-mail : info@jaacc.
jp) なお,著作物の転載・翻訳のような,複写以外の許諾は,学術著作権協会では扱っていませんので,直接発行団体へご連絡ください.また,アメ リカ合衆国において本書を複写したい場合は,次の団体に連絡して下さい.Copyright Clearance Center, Inc./222 Rosewood Drive, Danvers, MA 01923 USA (Tel : 1‒978‒750‒8400, Fax : 1‒978‒646‒8600)
化学と生物 KAGAKU TO SEIBUTSU
Vol. 50, No. 5(582号)
2012年5月1日発行(月刊)
定価1,260円(本体1,200円)
編集発行●公益社団法人 日本農芸化学会
113‒0032 東京都文京区弥生2‒4‒16 学会センタービル内
http://www.nougei.jp/
刊行●株式会社 学会出版センター 印刷●株式会社 国際文献印刷社 装幀●石原雅彦
■和文誌編集委員会
委員長清 水 誠(東京大学大学院農学生命科学研究科)
委員朝倉 富子(東京大学大学院農学生命科学研究科)
麻生 陽一(九州大学大学院農学研究院)
阿部 敬悦(東北大学大学院農学研究科)
上口(田中)美弥子(名古屋大学生物機能開発利用研究センター)
潮 秀 樹(東京大学大学院農学生命科学研究科)
梅 山 隆(国立感染症研究所)
奥村 克純(三重大学大学院生物資源学研究科)
賀来 華江(明治大学農学部)
片岡 道彦(大阪府立大学大学院生命環境科学研究科)
木村 淳夫(北海道大学大学院農学研究院)
後藤 奈美(独立行政法人酒類総合研究所)
米 谷 俊(江崎グリコ株式会社)
斎木 祐子(農林水産省農林水産技術会議事務局)
関 泰一郎(日本大学生物資源科学部)
高橋 公咲(北海道大学大学院農学研究院)
高谷 直樹(筑波大学大学院生命環境科学研究科)
高山 誠司(奈良先端科学技術大学院大学バイオサイエンス研究科)
竹中 麻子(明治大学農学部)
田中 福代(独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構)
千葉 一裕(東京農工大学大学院連合農学研究科)
東原 和成(東京大学大学院農学生命科学研究科)
中嶋 正敏(東京大学大学院農学生命科学研究科)
仲宗根 薫(近畿大学工学部)
永田 裕二(東北大学大学院生命科学研究科)
西山 千春(順天堂大学大学院医学研究科)
久 田 豊(田辺三菱製薬株式会社研究本部)
平 竹 潤(京都大学化学研究所)
松田(古園)さおり(独立行政法人理化学研究所基幹研究所)
矢島 宏昭(キリンホールディングス株式会社)
山口庄太郎(天野エンザイム株式会社)
理事喜多 恵子(京都大学大学院農学研究科)
有 岡 学(東京大学大学院農学生命科学研究科)