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日本伝統音楽の近代化・現代化に関わる一考察

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日本伝統音楽の近代化・現代化に関わる一考察

         平井澄子の実践から一(1)

降 矢 美彌子

1.はじめに

 国際化の時代を迎えた今日,我が国は自国の文 化のアイデンティティの問題を鋭い形で指摘され ている。我が国は江戸約300年の鎖国の後,明治の 急激な近代化,第一次・第二次世界大戦を経て今 日,世界のなかの最も豊かな近代国家の一つへと 発展した。

 近代化は,政治,経済,文化,国民生活などの あらゆる範囲に及ぶが,我が国の近代化は,当時 の国際情勢との関わりで,今日に引き継ぐ問題を 残した。それらは,経過,即ち,本当の意味で民 衆が勝ち取った近代化を経験しなかったこと,速 度,即ち,当時の世界の動向のなかで,非常に急 速な転換が求められたこと,方向,即ち,近代化 イコール西洋化であったこと,目的,即ち,国民 生活や国民文化の向上というよりは,国の経済 的・軍事的発展,産業重視・富国強兵であったこ

となどである。

 我が国は歴史的,伝統的に,質の高い文化を発 展させてきている。我が国の伝統文化は,他国の 文化,即ち,古くは中国や朝鮮の文化を,近くは 西洋文化を移入・消化し,自国の文化を豊富化さ せてきた所に特長がある。しかし,明治の近代化 のなかで行われたこの作業は,既に述べたように,

それまでの状況との間に大きな違いがあった。

 さて,我が国の音楽は,元来,中国・朝鮮から 多くを学び,同時に両国を通して,アジア大陸,

シルクロードの影響をも得て,豊富化されてきた。

しかし,明治の近代化以降,教育制度においては,

結果的には日本伝統音楽を切り捨て,日本の音楽 伝統やアジアからの流れを排除し,我が国の音楽 伝統とは全く異質な西洋音楽のみをその中心的な 教育対象として,音楽教育を進めたのである。

 我が国は,江戸の約300年の間は,鎖国という特 殊な状況のなかで,基本的には諸外国の文化の影 響を受けずして,自国の文化を発展させ,その後 の約100年は,上述したように急激に西洋文化を吸

収するという経過を経て,我が国の音楽文化を発 展させてきた。過去約400年にわたって,このよう な特殊な状況で,音楽文化を発展させた例は,歴 史上存在しない。従って,我が国の今日の音楽状 況は,大変複雑多様である。

 今日,日本人の最も愛好する音楽のベスト・ス リーは歌謡曲,演歌,日本民謡である。また,最 も愛好されていない音楽として上げられているベ スト・スリーのなかに,「義太夫・文楽」,「舞楽・

雅楽」,「謡曲,三曲(箏曲,地唄,尺八)」,「長唄,

常磐津,清元,新内,古曲」が入っている(1)。

 これは,大変象徴的な調査結果である。上位3 位のうち,最も愛好されている,歌謡曲と演歌は,

実は,日本の本来的な音楽伝統の内のメロディー 部分の特長  ふしまわしの特長やこぶしなど の技巧の特長  を生かし,リズムやハーモニー という部分で西洋音楽の技法を巧みに取り入れ た,新しい意味での日本の「民俗音楽』であると いうこともできうる音楽であり{2},3位は,日本民 謡である。一方,最下位の3位にはずらっと日本 の伝統音楽が並んでいる。

 この結果から,この約100年間,学校教育におい て,国家的に異文化である西洋音楽を学習した日 本人は,本質的な音楽の好みの点では,いまだ日 本の伝統的な音楽に嗜好を持っていることや,こ の約100年で日本的な巧みな方法で,西洋音楽の部 分を吸収消化して,新しい日本の『民俗音楽』の 一ジャンルともいえる「歌謡曲」や「演歌」を創 造した一方,教育のなかで切り捨て,放置してし まった日本伝統音楽は,すでに日本人の生活の音 楽ではなくなってしまったということなどを,読

み取ることができよう。

 この約100年には,学校音楽教育から本質的な意 味で切り捨てられた伝統音楽に携わる人々の側か ら,伝統音楽消滅の危機感から,様々な伝統音楽 近代化の試みがなされた。また,「西洋音楽」を学 んだ音楽家の側からも,次第に国際化する文化の 潮流のなかで,自国の音楽文化のアイデンティテ

(2)

イヘの認識等から,伝統音楽への様々なアプロー チが試みられた。

 伝統音楽の側からの近代化で,最も大きな足跡 を残したのは,箏の宮城道雄〔3)であり,また西洋音 楽家の側から伝統音楽へのアプローチとしては,

武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」(41を上げる ことができよう。

 約100年間,西洋音楽を学んだ日本人は,大衆音 楽としての「歌謡曲」と「演歌」という新しい日 本音楽の一ジャンルを創造した。しかし,いまだ 本当の意味で我が国の伝統音楽の近代化・現代化 に成功したとは言い難いのではないかと考える。

 筆者は,我が国の伝統音楽の近代化・現代化に 成功した一例として,平井澄子の61年にわたる演 奏と作曲の音楽活動を上げたい。本稿は,日本音 楽(5)音楽家の平井澄子の音楽活動のなかから,演 奏プログラム等の資料や本人からの聞き書きによ って,日本伝統音楽の近代化・現代化の成果を明 らかにし,今後の日本の伝統音楽の現代化の方向 を探ろうとするものである。

II.平井澄子

 宮城道雄記念館館長の吉川英史は,平井澄子に ついて,「平井美奈勢と澄子の会第二回演奏会」の プログラムのなかで,「意義深い演奏会」と題して 次のように書いている。「そのプログラムを伺っ て,さすがと感服しました。なぜ『さすが』かと いいますと,わたしは平凡社の音楽事典の『演奏 会』という項目で,次のように書いたことを思い 出したからです。『多種目の曲を一人で演奏するリ サイタルは,平井澄子の「邦楽リサイタル(1955.

6.4,地唄,新内,富本,山田流箏曲と謡曲との 掛合,蒙古と印度の歌曲・平井康三郎と福田蘭童 の作品)が最初」』

 日本の演奏史上に残るこの輝かしい記録の保持 者は,今や自分よりも母堂のことを考えた企画に 専念されているようです。」⑥

 民族音楽学者で,日本の伝統音楽の研究に大き な足跡を残した小泉文夫は,自書『日本伝統音楽 の研究』の序文に,次のように書いている。「私が 本来洋楽の研究に進むべく歩いていた道を中途で 変えてしまったほど大きな影響を受けたのは,東 大での吉川英史先生の日本音楽史の講義とその講 義でのデモンストレーションとして演奏してくだ

さった平井澄子さんと上木康江さんの『ままの川』

であったし,吉川先生と平井さんにはその後今日 まで,実にいろいろの事を教えていただいたとい うことだけはとくに言っておきたい。」(η

 民族音楽学者小島美子は,平井澄子について「平 井美奈勢と澄子の会第四回演奏会」のプログラム のなかで,「歴史を生きている音楽」と題して,次 のように述べている。「平井澄子さんは何が専門?

と聞かれると,私は説明に困ってしまう。ひょっ とするとご本人も困られるかもしれない。まった く 日本の常識 から完全にはみ出した方だから だ。今日のプログラムでもおわかりのように,山 田流あり生田流あり富本あり。しかも平井さんは 東京音楽学校の能の宝生流のご出身だ。まさに何 でもござれの才女というか,猛女のごとき印象さ え受ける。

 しかしこうしていろいろなジャンルを手がけら れる平井さんの真意は,これからの新しい日本の 歌の形を伝統音楽のあらゆるものから学びとって 探っていこうということではないかと,私は想像 している。(中略)そう思って平井さんの音楽を聞 いていると,その中には何百年かの日本の音楽史 が生きてとうとうと流れ込み,新しい流れを作り っっあるのを感じるのである。」(8}

 平井澄子は「切支丹道成寺」の作曲で,昭和32 年,芸術祭賞と宮城賞を受賞した。「切支丹道成寺」

は地唄や謡曲を含めた歌と合唱を,箏,三味線,

十七弦や小鼓などの伝統楽器と,オルガンやヴィ ブラホーンなどの西洋楽器で伴奏する壮大な作品 である。

 吉川英史は,「切支丹道成寺」について「平井澄 子モービル音楽賞受賞・喜寿記念演奏会一愛を 歌う」のプログラムのなかで,「平井澄子さんは私

にとっては,芸大邦楽設置運動の戦友であるし,

小泉文夫君の音楽観を一変させることでも協力し てもらった同士である。」と平井澄子を同士と規定 した後,次のように書いている。「平井さんが邦楽 史上に残した今一つの画期的な業績は,東西及古 今を声楽的に融合させた曲『切支丹道成寺』を作 曲したことで,これによって芸術祭賞と宮城賞を 受けた。更に,日本のうたの追求と成果はモービ ル音楽賞授賞の重要な理由になっている。」

 平井澄子は,大正2年,父・平井呉鳳(日本画 家),母・平井美奈勢(箏曲教授)の長女として出 生,幼くして山田流の箏曲の名手であった母から

(3)

山田流の箏曲学び,15才で宮城道雄に師事,東京 音楽学校の邦楽研究科(宝生流能楽)を卒業,在 学中に新内を富士松加賀寿々に師事,卒業後,富 本を名見崎たかに師事した経歴(9)からも明らかな ように,日本音楽の多種目を究めている。

 日本伝統音楽は歴史的に細かい流派に分れて,

家元制度のなかで受け継がれてきた。従って,同 じジャンルであっても,流派を越えて学ぶなどと いうことは御法度であった。平井澄子の母・平井 美奈勢は,山田流の箏曲の名手であったが,偶然 通りかかった小さなホールで,名も知らなかった 青年箏曲家宮城道雄の「水の変態」の演奏を聴き,

その作品と演奏に感動して,当時生田流の箏曲家 であった宮城道雄の指導を受けるようになった。

 山田流の専門家が生田流の新人に指導を受ける などということは,もってのほかの箏曲界にあっ て,美奈勢はそのことで,箏曲界から村八分同様 の扱いを受けることとなったuo}。平井澄子が日本 音楽の多種目を究めているということは,大変特 殊で,日本伝統音楽のなかにかつて存在したこと のない稀な例なのである。加えて平井澄子は,演 奏家としてのみならず,声楽曲や演劇関係の作品 など多方面にわたって活発な作曲活動を行い,演 奏と作曲の両面で,数々の賞を受賞している点で

も,日本音楽界にあって,貴重な存在である。

 プログラム

〈一部〉

1.『日本の笛より』

 伊    那

2.

3.

あの子この子 追    分 嘆けど人は

銀の小笛 牧羊の唄 書の悩み

北原白秋作詩 李井康三郎作曲

福田蘭童作詩 畑喜代司作詩

蒙古民謡

印度 宗教歌

〈二部〉

4.明烏后眞夢 5.葵 の 上 休憩

6.雪

7.春夜障子梅(夕霧)

福田蘭童作曲

宮城 衛編曲

新   内 謡曲・箏曲

地富 唄本

lII「邦楽リサイタル」平井澄子邦楽実験室  第1回発表

 「『邦楽リサイタル』平井澄子邦楽実験室 第1 回発表」は,その後の平井澄子の日本音楽音楽家

としての活動を象徴する,極めて斬新で,新しい 日本音楽創造の意欲にみちみちたリサイタルであ った。以下のように行われた。

「邦楽リサイタル」平井澄子邦楽実験室 第1回発表

日時:昭和29年(1954)6月4日㈹6時 場所:丸ノ内ホール(新丸ビル地階)

共演者:小保内恭子/ピアノ  高萩雨篁/尺八     上木康江/箏  山浦和子/三味線     菊池悌子/箏  田村栄子/上調子     宮城 衛/尺八・フルート

解説者:田辺尚雄  町田嘉章  平井澄子

 平井澄子は,プログラムの「解説にかえて」の 末尾に,「子供の時からいろいろの歌をうたって居

ります中に,共鳴の変化によってさまざまに変る 声の面白さ,それに伴うのどの技巧の微妙な変化

と味わいに心を惹かれて,一人コツコツと邦楽実 験室のモルモットとなって勉撮して参りました。

まだまだ公に発表するという段階には至って居り ませんが,皆様方の御批判を今後の指針とさせて 頂きたく,こ〉にさ〉やかな中間発表の会を開か せて頂きました。」とリサイタル開催の経過と意図 について記している。

 本人による曲目の解説は以下のようになってい る。「第一部は,私のささやかな冒険ですが,日本 的な発声による一つの試みです。

 第二部は,私が古典邦楽を遍歴して得た自然の 所産です。私の念願とするところは,流派にとら われない日本的な声楽なのですが,微力の為,前 途程遠しの感があります。

1 邦楽の発声で唄う分野を拡げたい念願からそ  の第一歩として,李井康三郎氏作曲のものを三  曲選びました。作曲者の意図して居られる純粋  な日本民謡調の味が,洋楽畑でない私にどのや  うに出せるかと思って取り上げてみました。

2 福田蘭童氏の作曲はメロディックでやさしい  雰囲気が感じられますのでかねがねやってみた  いと思って居りました。でもその味は,重い日

(4)

本的発声ではうまく出せないかも知れませんが

  0

3 印度や蒙古,南方諸国の歌は何かしみじみと 私の胸にせまるものがあります。発声の点でも 相通ずるものがあるらしく思はれますので,追 々此の方面の勉彊をして行きたいと思います。

 蒙古牧羊の唄では単純素朴な気持を,印度の 唄では瞑想的でしかも情熱的な感情を表してみ たいのですが……。

4 数年前縁あって富士松加賀寿々師にっき,機 会にも恵まれて両三度ワキ語りを勤めるなど,

よい勉強を致しました。

 新内は次回に多少力を入れてやる予定で居り  ましたが,熱心なおす〉めもあり,今回はほん の一節うたうことに致しました。都合により弾 語りとし,上調子には高音の箏を用い,助奏と  して尺八を使って見ました。

5 「葵の上」は能の名曲で御座います。山田検校 はこれを箏に作曲致しましてこれも名曲と謳は れて居ります。能楽修行のお蔭でこの曲が能の  「葵の上」を研究しつくしての作曲であること  を知り,昔の人の熱心な研究態度に感心したこ  とでございます。吉川英士氏の案によりこれを 箏と謡曲のカケ合の様にして,というより箏の 唄い所と謡曲のき〉所を生かして継ぎ合せたと  ころ,案外の面白さが出ました。連鎖の方法に ついては尚熟考を要すると思いますが,此度は 一つの試みとして,箏を主にじ曲節の面白さを 生かすことを考えてみました。

6 「雪」は地唄の代表曲として昔から愛好されて 居りますことは今更申上げるまでも御座いませ ん。女心の哀しさを心ゆくまで唄いたいと思い

 ます。

7 「夕霧」は富本の代表曲の一つで,近松巣林子 作の浮瑠璃から薗八節に改調されて有名にな  り,後に富本,常磐津,新内,清元にも移され

たのだそうです。私の師事して居ります名見崎 たか師は現在一中節の方では菅野序国といわれ  る方ですが,本来は富本の家の方で,富本の三

味線の家元五世名見崎徳治の娘でいらっしゃい ます。明治時代の名人四世豊前橡の教を受けら れ,現在その曲節を伝えている唯一人の方と伺 って居ります。」

自身の解説からも明らかなように,平井澄子は

この「『邦楽リサイタル』平井澄子邦楽実験室 第 1回発表」において,単に日本音楽の多種目のプ ログラムを演奏したのだけでなく,いくつかの意 欲的な日本音楽近代化・現代化にかかわる「実験」

を行った。

 その一つは,平井康三郎,福田蘭童の西洋の作 曲技法で作曲された日本歌曲を,邦楽の発声(平 井は日本発声という)で唄うことを試みたことで ある。これらの作品は,それまでも,今日も,西 洋発声で歌われている。邦楽の発声で唄う分野を 拡げたいという意気込みによって試みられた,ピ アノ伴奏によるこの演奏が,テープによる録音が 一般的でない当時にあって,録音として残されて いないのは,日本音楽史上残念なことといわねば ならない。

 その二つは,印度や蒙古の民族音楽が我が国の 演奏会で「邦楽家」によって初めて歌われたこと である。今日でこそ国際化の潮流のなかで,「エス ニック・ブーム」の一つとして,民族音楽が演奏 会やレコード,テープ,CDなどによって多く聴か れるようになった。しかし,当時は,我が国では 学問としての民族音楽学研究も成立していない。

音楽の研究といえば,西洋音楽という時代にあっ て,明治の近代化にあたって,切り捨ててしまっ たアジアの音楽に取り組むことは,極めて斬新で,

意義深いことであった。

 「南方諸国の歌は何かしみじみと私の胸にせま るものがあります。発声の点でも相通ずるものが あるらしく思はれますので」とアジアに目を向け た視点は,民族音楽学者ではない平井澄子の音楽 家としての特筆すべき優れた直感である。歴史的 に,中国・朝鮮を通してアジアから音楽を学び豊 富化させてきた我が国が,再び自国の音楽を新た な視点で豊富化させ,近代化・現代化を図ろうと する際に,一足飛びに西洋ではなく,再び新たな 視点をもって,アジアに目を向けることは重要で

ある。

 その三つは,伝統音楽においては,伝統音楽の 近代化・現代化の二つの異なった方向を示したこ とである。一つは,優れた伝統音楽をそのまま継 承すること,もう一つは,形を変えたり,新しい

ものと付け加えたりすることで,発展の方向を探 ることである。平井澄子は,地歌の「雪」と富本 の「夕霧」の演奏で前者を,謡曲・箏曲の「葵の 上」と新内の「明烏后眞夢」で後者を示した。

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 「箏と謡曲のカケ合いの様にして,というより箏 の唄い所と謡曲のき》所を生かして継ぎ合わせ る」という試みは,山田流と生田流の箏曲を究め 宝生流初の女性能楽師となった平井澄子にして初 めて可能な試みであった。

 以上述べたように,平井澄子は,その後の日本 音楽音楽家としての活動を象徴するの第一歩とな ったこの「『邦楽リサイタル』平井澄子邦楽実験室  第1回発表」において,我が国の伝統音楽近代 化・現代化の四つ方法,即ち,異文化である西洋 音楽の吸収,かつての豊富化の源流となったアジ アの民族音楽の吸収,伝統音楽そのものの継承と 変革を実践的に示したのである。

 音楽学者田辺尚雄は,プログラムにこのリサイ タルの意義について,次のように書いている。「今 日吾が音楽界に診て立派な古典邦楽の名手を作る ということも必要でありますが,又他の一面に於 て次代の楽界を背負うべき新しい邦楽を生み出す

ということも極めて大切な仕事であります。それ には古典邦楽を基礎とし,それに新形式を加味し て一歩々々確実な歩みを続けて進んで行くことが 賢明な策であると考えます。

 殊に声楽に於ては日本語の正しい発音を無視す ることは出来ません。ところで日本の近代邦楽に は謡曲,浮瑠璃,長唄,地唄,箏唄,小唄等執れ も独特の味を以て精練されて居ます。そこで之等 の各種の発声法の真髄を採って,之を打って一丸 として新しい日本式の歌曲を作るということは,

非常に良い試みでありますが,それをやり遂げる ことは頗る困難な仕事であります。何となれば之 等の各種の邦楽に精通して居る名手でなければ此 の仕事は出来ないからであります。

 幸いにして李井澄子さんは幼少から箏曲家とし て既にその盛名を謳はれ,又東京音楽学校(今の 東京芸術大学)邦楽科の宝生流能楽科を卒業し,

女流謡曲家としても第一流の名手であり,富本,

新内,地唄,小唄,端唄等,凡て専門家として尊 敬すべき力を備へて居られる人であります。

 此人にして始めて此の困難な仕事に打ち勝つこ とが出来ると信じて,私は李井女史に大なる期待 を持つものであります。」

IV.平井澄子聞き書き

時=1990年6月23日ω午後3時〜8時

所:平井澄子宅(東京都台東区西浅草)

 平井澄子は,この「『邦楽リサイタル』平井澄子 邦楽実験室 第1回発表」について,次のように 語っている。

一 「平井澄子邦楽実験室」という第1回目のリ  サイタルをおやりになった動機は?

平井 この前には,東京芸大邦楽科廃止問題があ  つたわけですよね。それで「邦楽家というのは  一体何なんだろうか」っていうことを考えてい  たわけですよ。「あたし自身は何なのか」と。「大  体,世界全部ヨーロッパのような声を出して歌  ってるはずがない。」と。私の実験室だという気  持はずっと持っていました。いろんなことをや  ってみたいという気持とね。

一 日本歌曲を邦楽の発声で歌われたそうです  が,どうしてそうしてみたいとお考えになった  のですか?

平井 この人たち(平井康三郎・福田蘭童,筆者  注)の歌をなぜ西洋発声で歌わなくてはいけな  いのかって思ったわけ。日本発声で歌いたいと  思ったんです。いろんなこういう歌を西洋発声  で歌ってるのをたくさん聴いて,変だとは思わ  ないけれども,日本発声で歌ったっていいじゃ  ないかと思ったわけですよ。

一 どなたかそういうことをおっしゃる方がい  らした?

平井 いえいえ。誰もそんなこといわないですよ。

一 ピアニストの小保内恭子さんがピアノ伴奏  をしていらっしゃいますが,先生が西洋発声で  なく日本発声で歌うのをきいて,何かおっしゃ  いましたか?

平井 別に感想は述べなかったですね。ただ,小  泉さん(小泉文夫,筆者注)はね,2回目に聴  きに来てね,「お六娘」(橋本国彦作曲,筆者注)

 聴いて,ケラケラ笑いましたよ,最後。「おもし  ろかったなあ。ああいう歌い方は西洋発声の人  はできないんだよなあ」なんて言ってた。

一 印度や蒙古の歌を歌われましたよね。どう  して歌いたいと思われたんですか?どうやって  そういう歌を知ったんですか?

平井 戦前にね,中村孝也(文学博士,筆者注)

 っていう東大の名誉教授のお嬢さんが,家へ習  いにみえてて,ある晩,奥さんが「今,滝さん,

 滝遼一さんていって東洋音楽学会の田辺(田辺  尚雄,筆者注)先生のお弟子さんが来ていて,

(6)

 大変面白いレコードをかけて聴いているので,

 ぜひ先生にお聴かせしたいから聴きに来て下さ  い。」って迎えに来てくださったの。

   戦前というと,何年くらいですか?

平井 昭和13年か14年でしょうね。15年にはなつ  てなかったですよ。中村孝也っていう秩父宮妃  殿下の先生だった方でね。そこで印度や蒙古の  歌をレコードで聴いたんですよ。そのレコード  はね,東洋文化研究会だったかが編纂した音楽  なんです。インドのタゴールの音楽だとかなん  かが入っているのね。

   向こうの方が歌っていらっしゃったんです  か?

平井 そうです,もちろん。それを聴いたときに  ねえ,「もう,こういう歌が世界にあったのか。」

 と思ったの。

一 そうすると先生は,日本以外の民族音楽を  聴くのは,その時が初めてですか?

平井 そうです。それで,ああ,これ歌えるなあ  と思って,歌いたいなあと思ったんです。日本  と同じような声だして,邦楽で唄う歌がこんな  にあるんだなあと思ったわけですけどね。

  だけども,その違いもよくはわからないでい  たのよね。それで,どうして蒙古の「牧羊の唄」

 にこんなにひかれたのかっていうのもよくわか  らなかった訳ね。それは蒙古語と日本語は言語  学的にも近いんです。そういったようなことは  後で,タカクラさん(タカクラ・テル,筆者注)

 から教わったわけです。歌っちゃってからね。

一 言葉は,どうなさったんですか?

平井 インドの人で誰か歌を教えてくれる人はい  ないかしらっていうわけで,岸辺さん(岸辺成  雄,筆者注)がインドの大使館に行って,一等  書記官のロイさんっていう人にあって聞いた  ら,「わたしのワイフが,タゴール音楽院を卒業  している」といって。そして,そのワイフの所  へ行かれるようにしてくれたわけですよ。

  それで教わって。だけど,その歌は教わらな  いのよね。タゴールの歌を教わって,タゴール  の歌を歌ったりもしたんです。(第2回発表,筆  者注)「牧羊の唄」は,あたしが訳をつけて日本  語で歌ったの。

一 「査の悩み」は?

平井 それはそのまんま・わからないですからね。

  なんか「蓮の花は,泥水のなかで咲いても美

 しい」という意味だと言っていました。

一 向こうの方の声の出し方を真似して歌われ  たのですか,それとも邦楽の声で歌われたんで  すか?

平井 その時にわかったんだけれども,インドの  言葉は,日本語と違うんですよね。インド・ゲ  ルマン語というんで,舌の扱い方が違う。

一 編曲や尺八なんかの伴奏を宮城 衛さんが  担当してらっしゃいますが?

平井 宮城家の養子になった人で,「笛吹童子」

 (NHKラジオ番組,筆者注)で一緒だったんで  す。印度の歌は原版は,向こうの漂々とした笛  が入っていて。なにしろ録音があまりはっきり  しないのね。

一 リサイタルでは日本の歌曲や印度や蒙古の  歌をやって,次に新内や謡曲や地唄・富本など  いろいろ伝統音楽をおやりになりましたね。こ  れはどうして入れたいと思われたのですか?

平井 同じ日本の発声でも,共鳴が違うとこうい  うふうになるんだということを聴いてもらいた  かったの。こういう勉強もしてもいいんじゃな  いですかという。だから,邦楽実験室なんです。

   そうするとタイトルは,先生がご自身でお  考えになったの?

平井 ええ。

一 それは,皆さんも日本の邦楽の各ジャンル  の唄を唄ってみたらいいんじゃないでしょう  か,というようなことをおっしゃりたかったん  でしょうか?

平井 いいえ,他の人がやるとかやらないという  ことには関係なく,私はやってみますというこ  とを言ったんです。

一 先生に共鳴して,一緒にやろうというよう  な方はいらっしゃいました?

平井 いえ,私一人です。

   そうすることで,何がなさりたかったんで  しょうか?

平井 つまり,何流でも何派でもない「日本の唄」

 が唄えるようになりたいと思ったわけです。「日  本の唄」が。それがやがて『切支丹道成寺』に  なるわけです。

   何流でも何派でもない歌が唄いたいと思わ  れるようになったのは,お幾つぐらいのときで  すか?

平井 それははっきり覚えてはいませんけれど,

(7)

 一つのものであっても,幅広く勉強したほうが  いいんじゃないかと思っていました。

   先生,この時何才でいらっしゃいました  の?

平井 40才ぐらいでしょうね。(41才,筆者注)

一会場の丸ノ内ホールというのは,何人ぐら  いのホールですか?

平井 400人か500人入ったんじゃないかしら。そ  れが,通路までいっぱいになつちゃって,この  行列は何だろうといった具合だったんです。そ  れで,ご招待した先生方の席がなくなつちゃっ  て,その先生方が通路に腰掛けていたとかねえ。

 後で叱られちゃってねえ。

   すごい反響だったんですね。先生に共鳴し  て,一緒にやろうというような方は,出なかっ  たんでしょうか?

平井 そんなことしたら,先生から破門されます  もの。

一 結局,先生お一人ですか?

平井 そうですねえ。坂井さん(坂井敏子,筆者  注),宮城の先生の方は,わりと自由にね。坂井  さんは,同級生だったりしたから。坂井さんは  この時は,ご病気だったんです。

 聞き書きからは,平井澄子が,東京芸術大学の 邦楽科廃止の問題と関わって,日本にとって邦楽 とは何なのかという問題に直面し,邦楽の多種目 を究めた自身の使命を考えるなかで,このリサイ タルが必然として生れたことがわかる。

 日本音楽の真の発展を願うには,邦楽の発展を 阻んでいた流派の垣根を取り払った,日本の歌い 方というものが生れなくてはならないと平井は考

えた。

 邦楽で唄う分野を拡げたいと念願していた平井 澄子は,西洋発声で歌われた「日本歌曲」を聴い ても,なぜこれを西洋発声で歌わなくてはいけな いのか,邦楽の発声で唄える,唄いたいと考える のである。はじめて,印度や蒙古の民族音楽を聴 いた平井澄子は,「こういう歌が世界にあったの か」と感動すると同時に,これは日本と同じよう

な声を出して唄える,邦楽で唄う歌がこんなにあ るんだなあと考えるのである。

      注

1)NHK放送世論調査書編r好きな音楽」r現代と音 楽』日本放送出版協会 昭和57年10月 pp.68〜73 2)小泉文夫「現代日本の歌謡風土」『歌謡曲の構造』

冬樹社 1984年5月 pp.174〜185

3)宮城道雄(1894〜1956年)「箏曲家,作曲家。邦楽  に洋楽的要素を取り入れた新様式の作曲を多数発表  し,演奏家としても大活躍して,大正〜昭和期の邦楽

界に革新的業績を残した。」『音楽大事典』5巻平凡 社 1983年8月 p.2447

4)武満徹「ノヴェンバー・ステップス」『ニューヨ ーク・フィルハーモニック定期公演』指揮:小沢征爾 尺八:横山勝也,琵琶:鶴田錦史,フィルハーモニッ  ク・ホール(リンカーン・センター)1967年11月9・

10・11日 初演

5)日本の音楽の概念規定にどの用語を用いるかは,

難しいが,ここでは平凡社の『音楽大事典』「日本」

の項目を参考にした。「日本音楽」は,「日本の民族音 楽」の意で,古典邦楽・現代邦楽・民俗音楽を統括し  た概念である。平井澄子はこれら古典邦楽・現代邦 楽・民俗音楽を統括した「日本の民族音楽」の音楽家  であると考える。

 『音楽大事典』4巻 平凡社 1982年11月 p、1726 6)吉川英史「第二回演奏会プログラムより 意義深  い演奏会」『平井美奈勢と澄子の会 その記録集第一  集』非売品 昭和58年

7)小泉文夫「まえがき」『日本伝統音楽の研究1民謡 研究の方法と音階の基本構造』第2版 音楽之友社  昭和59年2月 p.2

8)小島美子「歴史を生きている音楽」 『平井美奈勢  と澄子の会 その記録集第一集』非売品 昭和58年 9)「平井澄子 芸の歩み」『平井澄子モービル音楽賞  受賞・喜寿記念演奏会  愛を歌う』プログラム  平成元年6月 国立小劇場

10)平井澄子「ごあいさつ 第一回演奏会のプログラ  ムより」『平井美奈勢と澄子の会 その記録集第一  集』非売品 昭和58年

(8)

A Study of modemization of Japanese traditional music

       From Sumiko Hirai s works  (1)

Furiya Miyako

  Since a long time ago there has been a great deal of valuable traditional music in Japan.

About one hundred years ago we experienced a large political revolution,and built a new modem nation.That was the beginning of the Meiji Era.At that time we studiedjust from European countries and abandoned our own traditional culture.

  Now a days we try again to develop our Japanese culture based our own traditions.In music we have the same problems.Today young people do not know our traditional music andthey do noteven like it.Wehave not succeeded inthe modemization ofourtraditional

music.

 I believe,that Sumiko Hirai,Japanese traditional musician and composer,has succeeded in modemization.Hirai has a great knowledge of Japanese traditional music.She is familiar with traditional music and accomplished in many branches of traditional music.

 I will study a modemization of our traditional music from her works covering sixty one years.

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