日本近代教育法制史概説
谷 雅 泰
1 近代教育制度の発足
学制 日本において近代的学校制度を最初に構想 した法令は,1872(明治5)年に文部省布達とし て出された「学制」であった。
学制は,全部で109章からなり,その翌年に出 された「学制二編」等と併せて,学区,学校,教 科,教員,生徒及び試業,学費のことについて,
詳細に規定している。学区と学校の関係について いえば,全国の府県を8の大学区に分けた上で,
1大学区を32中学区,1中学区を210の小学区に 分け,それぞれに大学,中学,小学を置こうとい
う構想を示した。それが実現すれば,8の大学校,
256の中学校が生まれることとなり,小学校に至 っては53760校が必要となるという壮大な計画で あった。また,教育行政上も,一つの中学区に10 から12人の「学区取締」を置き管内の学務に当た らせるとした。
学費に関しては,学制の前日に出された「学制 序文(学事奨励二関スル被仰出書)」の中で「学 問は身を立つるの財本(もとで)」と書かれてい たように,生徒は「受業料」を納めるものとされ・
小学校などの設立保護の費用は基本的に学区でま かなうこととされた。官金による補助についても 文部省は学制の中に盛り込もうとしたが,当時の 逼迫した財政状況を背景に内務省はこれを認めよ うとせず,該当する条文は金額その他の部分が黒 塗りで出されるという状態だった。
このような中で,各地方では,様々な財政的努 力が行われた。しかし,五万校以上の小学校を直 ちに設立することには無理があり,明治10年代に
入ったころから,地方を視察した文部省の高官等 によって学制の内容が事実上修正されていく。
教育令 1879(明治12)年9月,太政官布告とし て「教育令」が出された。その前年の地方三新法
(郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則)は 大区小区制によりいったん否定された旧村などの 旧慣を温存利用しようとしたものと指摘される・
同じように,近代的な学校制度を急激に築き上げ ようとした学制と比較すれば,この教育令は次の ような点で「穏和」なものだったということがで きよう。まず教育令は,6歳から14歳までの8年 間を学齢とし,土地の事情によって縮めることが できるものの学齢期間中少なくとも4年間,1年 間につき4ケ月以上,すなわち最低16ケ月間は普 通教育を受けることと定められた。また,学制が 旧村とは別個の「学区」に学校の設立維持を任せ ようとしたのに対し,教育令は町村が小学校を設 置することとし,学務を取り扱うための学務委員 を選挙により町村におくこととした。また私立小 学校がある場合には公立小学校を別に設けなくと もよいとした点などは,私塾を徹底的に嫌いなが ら公立小学校を普及させようとした学制のもとで の行政とは大きく変化したものと考えてよかろう。
私立学校の設置廃止・教則なども,単に府知事県 令に開申すれば足るものとされ,認可を必要とし なかった。
次に述べる教育令(改正)と比較して,この教 育令を「自由教育令」,改正後を「干渉教育令」
と称することがあるが,これらのことはその根拠 と目することができよう。
教育令改正 1880(明治13)年12月,太政官布告 として教育令(改正)が出される。この改正は,
前年の教育令に加除修正を加えたものであるが,
それらは,単なる修正にとどまらず,全く異なる 原理によるものと理解され,その点が先に述べた ように「自由」から「干渉」への転換と表現され てきた。その適切さについては議論の余地がある と思われるが,以下述べるように,教育行政をめ ぐる原理が,地方への放任をやめ,府県の地方官 により強い権限を与えるものとなったことは確か である。具体的には,公立私立を問わず学校の設 置は府知事県令の認可を必要とすることになった 点,小学校の教則は文部卿が綱領を頒布しそれを もとに府知事県令が管内に施行するとした点,学 務委員は町村で「薦挙」した2〜3倍の候補者の 中から府知事県令が選任するとされた点などがあ げられる。また,小学校の「学科」のうち,以前 は最後にあげられていた修身が,改正によって最 初にあげられ,いわゆる「筆頭教科」とされた。
このことは前年の元田永孚と伊藤博文との間での いわゆる「教育議論争」の帰結ともみることがで
きる。
学齢については変化がないが,父母後見人は学 齢児童を最低3年間,毎年16週日以上就学させな ければならない,と規定された。一見就学期間が 短くなったように見えるが,3年の課程をおえた 後も相当の理由がなければ学齢児童は就学させな ければならないとも規定されていて,最低線を明 確にしたものと見ることができよう。
教育令再改正 1885(明治18)年8月,教育令は 再改正される。松方正義による松方財政の影響で,
当時の農村は財政的困難に陥っていた。地方費の 使途に占める教育費の割合は大きく,それを節減 することが再改正の目的であった。その目的に合
うよう規制を緩和し,また内容を整理したため,
再改正前は実質45条あった条文も全31条となって いる。具体的には,小学校とは別に簡易な小学教 場を置いてもよいとされたこと,改正前は一日3 時間から6時間とされていた授業時間について,
土地の状況により午前若しくは午後,または夜間 に授業することを認め,2時間以上としたこと,
学務委員を廃止したこと,などが改正の主な内容
である。
諸学校令 1885(明治18)年12月,太政官制度が 廃止されると同時に内閣制度が制定され,第一次 伊藤博文内閣が発足したが,その内閣で初の文部 大臣に就任したのが森有礼であった。森文部大臣 の下,翌1886年3月の帝国大学令を皮切りに,四 月には師範学校令・小学校令・中学校令が次々に 公布される(これらを総称して諸学校令と呼ばれ ることがある)。その年の2月に「公文式」によ り,法令の形式が法律・勅令・閣令・省令と改め られていた。それまで,例えば学制は文部省布達,
教育令は太政官布告という形式であったが,この 後,教育に関する法令は「勅令」という形式をと ることとなり,この時の諸学校令はその最初のも のであった。また,学校種別に応じて制定されて いる点も,それ以前の教育令と異なる点である。
森がいかなる教育思想のもとに教育施策を構想 したのかは評価の難しいところである。これまで は,帝国大学令の第1条で「国家ノ須要二応スル 学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究」することが帝 国大学の目的とされていたことなどから,それを
「国家主義」としてくくり,大日本帝国憲法・教 育勅語の下での国家主義的な教育を準備したとみ られてきた。森は師範教育に力を入れたが,部範 学校令の第1条で生徒に「順良信愛威重ノ気質」
を備えさせることに注目すべきとしたことや,
「兵式体操」を導入したこと,師範学校を寄宿舎 制として軍隊式の生活を課したことなどもその証 左とされがちである。また森は「学問」と「教育」
を区別して理解しようとしたが,この点も,その 後の教育の特徴であった,学問的成果と教育内容 を区別する「教育の二重構造」の原型とされてき た。確かに森は,教育を「国家経済」の要理に基 づくべきものとしていた。しかし近年,森による 諸学校令をその後の国家主義的教育体制と同質の ものと見ることに異論を唱える向きもある。今後 の研究が待たれるところであろう。
この時の小学校令は全16条で,次節で述べる四 年後の小学校令が全96条であったのに比べればき わめて簡潔なものであった。同じことは中学校令
(全9条),帝国大学令(全14条),師範学校令
(全12条)についても言えよう・しかし,内容的 に見れば,その後の基礎となる内容が確かに見受 けられる。まず,小学校令において,就学に関し て「義務」という表現がはじめて使われたのはこ のときである。学齢が6歳からの8年間とされた ことは以前と変わらない。しかしこのときから小 学校は高等小学校と尋常小学校に分けられており,
父母後見人等は学齢児童に普通教育を受けさせる 義務があるものとされ,尋常小学校をおえるまで は就学させるべしとある。すなわち4年間の就学 義務が課せられたことになる。一方,疾病,家計 困窮などやむを得ない事情による就学猶予の制度 ができたのもこのときで,府知事県令が期間を定 めて認めるものとされた。次に,教科書は文部大 臣の検定したもののみに限られることになった。
教科書にはじめて統制が加えられたのは,1880年 のことで,それ以来文部省は教科書を調査して教 育上妥当でないとする書籍をリストアップして採 用しないよう府県に通知している。それまでよく 使われていた福沢諭吉ら啓蒙的洋学者による書物
がその中に含まれていた。また,翌年公立学校の 教科書を「開申制」とし,届け出を義務づけた。
1883年からは小学校・中学校・師範学校の教科書 は,事前に文部省の認可が必要とされた。諸学校 令とそれに基づく文部省令「教科用図書検定条例」
(1886年,翌年には「教科用図書検定規則」)が教 科書を文部大臣の検定したものに限るとしたため,
この後は教科書を出版するにあたって文部省の検 定が必要とされることになった。
次節で見るように,大日本帝国憲法の発布後,
小学校令は新しく制定されることになる。1886年 の小学校令は,わずか4年後には廃止されたので
ある。
2 近代教育制度の成立
勅令主義 1889(明治22)年2月11日,大日本帝 国憲法が発布された。大日本帝国は万世一系の天 皇が統治するもの(第1条)とされ,天皇は神聖
にして侵すべからず(第3条)と規定されたよう に,絶対主義的天皇制による国家体制が目指され たのである。「臣民」の権利は一定規定されたも のの制限つきのものであった。また,教育にかか わる条項は全くなかった。
天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行う(第 5条)とされたが,大日本帝国憲法下での教育に 関する基本事項は,法律により規定されず,第9 条(「天皇ハ法律ヲ執行スル為二又ハ公共ノ安寧 秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為二必要ナ ル命令ヲ発シ又ハ発セシム。但命令ヲ以テ法律ヲ 変更スルコトヲ得ス」)による,天皇大権に基づ
く「命令」として定められた・しかもそもそも教 育について定めた法律がなかったことからすれば,
これは第9条本文の後段を根拠とするいわゆる
「独立命令」によるものであると考えられる。本 文前段を根拠とする,法律を執行するための命令 すなわち「執行命令」,あるいは法律による委任 による「委任命令」と異なり,法律を変更するこ とはできないとされたものの,法律からは独立し て行われる命令であった。その後の教育にかかわ
る法令は,教育財政制度を除くほかはすべて「勅 令」として発せられ,国会による審議を経る法律 と違い,内閣から枢密院の審議を経て天皇により 裁可されるという手続きを踏んだ。このことは今 日,教育法規の「勅令主義」(または「命令主義」)
とよばれ,戦前の教育法制の大きな特徴であった。
もっとも,最初から勅令主義が予定されていた わけではなかった。1890年3月,諸学校令の中で 他に先だって小学校令案が,6月にはそれをいっ たん廃案とし大幅に修正した小学校法案が,それ ぞれ閣議に提出されているが,双方とも文部省は 法律として制定するために準備したものであった。
ところが,8月,それが天皇から枢密院に諮謁さ れると,形式が問題とされる。すなわち枢密院側 は,議会の容喙を許さないために勅令とすること を要求したのであった。内閣はそれに反論したが 意見の一致を見ず,結局,法律である市制町村制 の特例にあたるもの,会計に関わるものを地方学 事通則その他の二法律案として分離した上で,残
りは従前のごとく勅令として公布した。以後,そ れが踏襲され,教育にかかわる事項は議会の関与 を許さず,少数の支配者により決定されていくこ とになる。
小学校令 1888年,地方制度が改正されて市制町 村制が公布された前後から,小学校令の改正が日 程にあがってきていた。その後,前述の経緯を経 て,1890(明治23)年10月3日,法律として地方 学事通則が,7日,勅令として小学校令が公布さ れる。市制町村制・地方学事通則・小学校令によ って,市町村が行う教育事務は,市町村固有の事 務ではなく国の事務であるという原則が確立する。
学務委員が再度設置されることになり,市町村長 を補助するものとされたが,その対象はあくまで 市町村に属する「国の教育事務」であることが小 学校令に明記されており,その点で,教育令の下 での学務委員とは性格を異にするものであった。
この小学校令は,1886年の小学校令を廃止して,
全く新しく公布されたものであり,その後何度か の改正を経ることになるものの,戦前の初等教育 にかかわる制度の基礎はほぼこれにより確定した ものとみてよい。第1条は,小学校の目的規定で ある。「小学校ハ児童身体ノ発達二留意シテ道徳 教育及国民教育ノ基礎並其生活二必須ナル普通ノ 知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」という規定は,
1941年の国民学校令により変えられるまで続く。
道徳教育がその他のものよりも前にきていること にすぐ気づくが,一方,「発達二留意」するとさ れたこと,「国民教育」という語の使用は,この 時が始めてであった。学齢に関する規定は従前の 通りであった。父母後見人にかわりこの時から
「学齢児童ヲ保護スヘキ者」,すなわち保護者とい う概念が登場し,保護者は学齢児童が尋常小学校 の教科をおえるまでの間就学させる義務があるも のとされた。教科をおえるまで,とされたのは,
このとき尋常小学校の修業年限が3〜4年と幅を 持たせてあったことと関わる。ちなみに高等小学 校は2〜4年であった。一見,就学義務年限が短 縮されたように思えるが,実は86年の小学校令に あった小学簡易科(3年以内)の規定がこのとき
削除された結果,それが3年の尋常小学校として 残ったものであった。そういう意味では,「義務」
という語は使われているものの,就学義務年限か らして法文上曖昧なままであった。当初の案には 罰則規定が設けられていたが,最終的にそれは除 かれている。このとき各市町村が学齢児童を就学 させるに足る尋常小学校を設置するとされたこと は,就学義務の保障という点で大事な意味を持つ。
ただし,実質的に学齢児童全員が就学可能な条件 が直ちに整備されたというわけではない。また,
就学猶予の規定に加え,このとき就学免除の規定 がはじめて加えられた。貧窮が病気よりも先に理 由として挙げられているのは以前と異なる点であ る。猶予・免除は市町村長に申し立てることとさ れている蔓「出席停止」に関する規定も登場して いる。すなわち,伝染病などの場合に加え,不良 の行為がある児童や課業に堪えない児童は出席を 許さない,とある。
学務委員についてはすでに触れたが,郡につい ては,郡長の指揮命令を受けて郡内の教育事務を 監督する「郡視学」を府県知事が一名任命するこ
とにしている。視学はその後位置づけや性格を変 えながら,第二次世界大戦までの教育において大 きな役割を果たすことになる。
なお,体罰禁止規定が復活したのも興味深い事 実である。教育令(1879年)ですでに体罰は禁止 されていたが,1885年の教育令再改正でこの規定 は消滅していた。ここで,小学校長及び教員は児 童に体罰を加えることができない,という規定が 盛り込まれ,それは新たに1900年の小学校令で,
校長及び教員は教育上必要なときは懲戒を加える ことができる,但し体罰を加えることはできない,
という規定となり,この形が戦後の学校教育法に 至るまで引き継がれることになる。
教育勅語 1890年10月30日目「教育二関スル勅語」
が発布され,翌日,全国の学校に謄本が「下賜」
された。年末には直轄学校に天皇親署の勅語が下 賜される。教育勅語は,第二次世界大戦までの日 本の教育理念として,大きな役割を担うことにな
る。
しかし,形式からいえば,この勅語は憲法に定 められた勅令や詔勅とは区別されるものであった。
それらに必要な国務大臣の副署がなかったからで ある。また,そもそもこの文書は,「朕惟フニ」
で始まることにみられるように,天皇の個人的意 見の表明という形をとっていた。しかしそれ故に かえって,他の法令を超えた高い位置を確保する
ことになり,政治的に利用されることになる。
教育勅語の浸透のために,学校儀式が利用され た。小学校令で祝日大祭日の儀式に関して文部大 臣が規定するとされたのを受けて,1890年,小学 校祝日大祭日儀式規程が文部省令として出されて いる。そこでは,紀元節,天長節などの日に小学 校で行われるべき儀式の内容が決められていたが,
ここで勅語を必ず奉読することになっていたので
ある。
義務教育制度の確立 1900(明治33)年,小学校 令が改正される。これにより,義務教育制度は一 層整備されることになった。まず,尋常小学校が 4年とされた。このことにより,義務教育年限は,
最短3年であったものが4年に統一されたことに なる。また,特別の場合を除き,授業料が不徴収 とされ(第57条),学齢児童を雇用する者がその 雇用によって児童の就学を妨げてはならないこと
(第35条)という規定が盛り込まれたことにより,
実質的には不十分さを残しながらも一応この時点 で日本における義務教育制度がほぼ確立したと見 ることができよう。しかし,一方で就学保障のい わば放棄につながる規定も残されていた。まず,
事情によっては町村の小学校設置義務を免除する
(第12条)ことができ,その場合区域の学齢児童 の保護者は義務を免除された(第34条)。また,
就学義務の猶予・免除が理由を含めてはっきりと 規定され,「瘋癲白痴又ハ不具廃疾」の場合は免 除,「病弱又ハ発育不完全」の場合は猶予とし,
貧窮の場合はこれらに準ずるとされた(第33条)。
これにより,障害のある児童は小学校から排除さ れることとなった。
なお,このときの改正で,尋常小学校の教科目 は修身・国語・算術・体操が必ず置かれるものと
なった。それまで読書・作文・習字であったもの がはじめて「国語」とされたのはこのときである。
体操もそれまでは欠くことができるとされていた がこのときより必置となり,体操場も必ず備える べきものとされた。なお,このときから小学校令 の施行上必要な規則をまとめ,文部省令としての 小学校令施行規則とし,小学校令改正の翌日に制 定された。
小学校令は,1907(明治40)年に再度改正され る。このときには,尋常小学校が6年とされ,そ れにしたがって義務教育年限も6年となったこと が最大の修正点であった。すでに先の改正の時点 で文部省は,義務教育年限を延長する必要がある としていたが,このときにその条件が整ったと判 断したものであろう。延長により,尋常小学校の 卒業が中学校の入学と接続することになった。ま た,尋常小学校の教科目は,先の4教科に,日本 歴史・地理・理科・図画・唱歌及び女子の場合は 裁縫という,以前は任意の教科目あるいは高等小 学校の教科目であったものが加えられることにな
った。
教科書の国定化 1886年の小学校令以来,教科書 の検定制がとられたことは前述の通りであるが,
同令にもとづく文部省訓令「公私立小学校教科用 図書採択方法」によれば,教科書の採択は府県ご とに教科用図書審査委員がおこなうとされた。こ の形式は1890年の小学校令の下での文部省令「小 学校教科用図書審査等二関スル規則」でも引き継 がれ,しかもその上に尋常小学校の修業年限であ る4年間は同じ教科書を使用することとされてい た。したがって,教科書出版会社にとっては,い
ったん採用されてしまえば,その府県の範囲で4 年間にわたって利益を上げ続けることができるこ
ととなり,競争が激化して贈賄などの不正行為も 頻発していたといわれる。この弊を防ぐためには,
府県ごとという広域での採択をやめて学校ごとに 採択する方法や,教科書発行を民間に任せること をやめて国定にする方法などが考えられる。1898 年には文部省はぞの前者,いわゆる「自由採択制」
を志向し,その方向での小学校令改正案を閣議に
提出している。しかし一方でこの前後,衆議院・
貴族院や地方長官会議では,教科書の国定化を求 める建議がしばしば行われている・結局文部省も 1900年,方針を転換し,小学校令の改正により,
教科用図書については,それまでの検定教科書に 加えて文部省の編纂した教科書から採択すること とし,しかも後者を優位に置いたのであった。翌 1901年には,小学校令施行規則が改正され,教科 書の採択をめぐる不正行為に制裁を課すこととし た。罰金に加え,被処罰者の発行する教科書の5 年間の採択禁止などであった。一方で,文部省は 国費による教科書の編纂に力を注いでいる。
1902年の年末に「教科書疑獄事件」が摘発され,
翌年の4月までに全国40道府県にわたり,152人 が検挙,最終的に116人が有罪となる大疑獄事件 に発展した。施行規則により,ほとんどの教科書 が採択を禁止される事態となる・摘発が開始され てすぐに文部省は小学校令の改正案を提出,4月 には公布されるが,それは,教科書を文部省が著 作権を有するものにかぎるというものだった・そ れに基づき,最初に修身・国語・日本歴史・地理 が,続いて算術・図画,理科という順で教科書が 国定化されることになる。
不正が摘発されて数ケ月のうちに教科書の国定 化に帰結するという経緯は,これが偶然でないこ とを暗示する・教科書の国定化は,単に不正を防 ぐにとどまらず,教育内容を直接国家的統制の下 に置こうという意図に基づくものであったともい われる。最初に国定とされた教科が,その後の学 校教育のなかで担わされたイデオロギー的位置づ けからもそれはわかる。そのことをまず示したの が,1911年,国定教科書の内容が争点となった
「南北朝正閏問題」であろう。教科書の国定化に より,政治的思惑から学問的成果と教育内容を分 離することが,一層容易になったのである。
中等教育制度の整備 第二次世界大戦後の「単線 型学校体系」と対比して,戦前の学校体系を「複 線型学校体系」,あるいは「分岐型(フォーク型)
学校体系」と呼ぶことがあるが,その特徴として,
第一に中等教育段階で男子の通う中学校と女子の
通う高等女学校が分けられ,また普通教育を行う 中学校と実業教育を行う実業学校も画然と区別さ れ,中学校のみが高等教育へと接続していたこと,
第二に尋常小学校を卒業後,中学校や高等女学校 などに進学するコースとは別に,高等小学校とい う「袋小路的」な(ただし師範学校などには進学 することができた)コースが併存させられていた
こと,の二点を挙げることができるだろう・第一 にあげた形ができあがったのは,これから述べる ように,1899年のことであった。但しこの時には,
高等小学校第二学年の課程をおえた者が中学校・
高等女学校に進学することとされており,尋常小 学校と中等教育が接続されて,高等小学校が「袋 小路」となるのは,前述のごとく,義務教育年限 が6年とされた1907年のことである。
1899(明治32)年,中学校令,高等女学校令,
実業学校令により,中等教育制度が整備されるこ とになる。
中学校令は,「中学校ハ男子二須要ナル高等普 通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とその 目的を規定した。1886年の中学校令は,実業に就 きたい者と高等の学校に入りたい者の両者を対象 としており,また尋常中学校と高等中学校の二等 に分けていた。この時,実業教育については実業 学校令に譲ることになり,また,1894年の高等学 校令で高等中学校は高等学校と改称されていたの で,中学校令ではもとの尋常中学校が五年制の中 学校として規定されていた。それまでは,府県立 の尋常中学校はそれぞれ一校と限られていたが,
土地の状況により一校以上とされ,文部大臣は必 要な場合に府県に増設を命ずることができるとさ れたこと,郡市町村などや私人にも中学校設置を 認めたこと,一校に一ヵ所分校を認めたこと,な どにより,その後中等教育が拡大していくことに
なる。
すでに1891年の中学校令改正により,女子のた めの尋常中学校の種類として高等女学校が規定さ れ,高等女学校規程も制定されていたが,この年 の高等女学校令により,女子のための中等教育機 関として4年制の高等女学校が設置されることに
なる。その教育内容も中学校とは異なる特徴を持 っていた。1901年の「中学校施行規則」と「高等 女学校施行規則」を比較すると,国語及び漢文,
外国語,歴史地理,数学,物理化学などは授業時 間の配当が高等女学校の方が少なく,特に外国語 は半分以下であるが,その分修身,図画,唱歌な どが多い。また,裁縫,家事という教科は中学校 にないものであった。高等学校・大学への進学と いう点では途絶していたことにより,進学準備よ りも「良妻賢母」養成に力点があった高等女学校 の特徴があらわれている。
実業学校令は,実業学校の種類を工業学校,農 業学校,商業学校,商船学校,実業補習学校の五 種としている。同年,文部省令として「工業学校 規程」などそれぞれの種類に応じた規程が定めら れ,それによって修業年限や学科目などが規定さ れた。それによれば,工業学校,農業学校(甲種),
商業学校(甲種),商船学校(甲種)は,修業年 限は3年,入学資格は,14歳以上で修業年限4カ 年の高等小学校卒業またはそれと同等の学力を有 する者とされていた。また農業,商業,商船のそ れぞれ乙種は,3カ年以内,10歳以上で修業年限 4年の尋常小学校卒業又は同等の学力を有する者,
とされている。なお,実業補習学校規程は当初 1893(明治26)年のものが改正されずにいたが,
他の乙種と同じ条件であった。ただし,尋常小学 校を卒業していなくとも学齢を過ぎていれば入学
させてもよいとされていた。1902(明治35)年,
同規程が改正されたが,小学校に加えて実業学校 にも付設することができるとされたこと,修業期 間その他が土地の状況により適宜とされて,3年 以内という表現もなくなったことなどが主な改正 点であろう。
以上をまとめると,実業学校は,工業学校やそ の他の甲種のように中等教育に位置づけるべきも のと,乙種や実業補習学校のように初等教育の補 完と見なすべきものからなっていたことになる・
後者については,1890年の小学校令において,徒 弟学校・実業補習学校として規定されていたもの が実業学校令に受け継がれたことになる。なお,
前者について同じ中等教育である中学校と比較し ていえば,高等小学校2年修了と4年卒業という 差があるので入学は2年遅いが,修学年限が2年 違うので卒業は同じく17歳以上となる。
私立学校令が公布されたのも1899年のことであ った。かねて,幕末に諸外国と締結した不平等条 約の改正事業が課題となっていたが,治外法権撤 廃,内地開放,税率の一部引き上げを定めた条約 が,この年の7月にいっせいに発効した。これに よる「内地雑居」により,文部省は,外国人経営 の私立学校を監督する必要にも迫られ,同令を公 布したのである。私立学校には,それぞれの小学 校令や中学校令に加え,この私立学校令の規制が 加えられたのである。これによれば,私立学校は 地方長官の監督に属するものとされ,地方長官は 設立の認可を行い,場合によっては閉鎖さえ命じ
ることができた。
3 教育制度の再編成
臨時教育会議 日露戦争後の不況が続いていた日 本経済は,1914年に勃発した第一次世界大戦によ り好景気に転化したが,特に輸出の増加による重 化学工業の発展はめざましかった。一方,物価高 による生活苦から,労働争議,小作争議も頻発す るようになり,それはやがて普通選挙運動,大正 デモクラシーへと発展していこうとしていた。
この新しい情勢に対応する教育制度改革を行う ため,1917(大正6)年,内閣直属の諮問機関と
して臨時教育会議が設置された。会議は,1919年 に廃止されるまでの約1年半に,2っの建議,9 っの答申を行っている。
高等教育機関の拡大 臨時教育会議での結論がそ の後具体化されていくことになるが,なかでも重 要な改革は,高等教育に関するものであった。
義務教育年限が6年に延長されて尋常小学校と 中等学校が接続して以来,中等学校への進学希望 者が増加し,小学校での受験指導などの弊害も指 摘されるようになってきていた。また,中学校が 拡張されるに連れて,高等学校・帝国大学の進学
希望者の増大も問題となっていた・前述したよう な情勢の下で,人材養成という点からも高等教育 の拡張が求められてもいた。
1918(大正7)年,高等学校令が改正される。
旧高等学校令では,高等学校は専門学科を教授す る所とする,但し帝国大学に入学する者のための 予科を設けることができる,とされていたが,事 実上は高等学校で完結する専門教育を行うよりも むしろ大学への入学準備教育を行うという側面が 強かった。改正では,男子の高等普通教育を完成 することを目的としており,専門教育という側面 は消えたものの,完成教育という名目は変えてい ない。修業年限は7年とし,高等科3年,尋常科 4年で,高等科のみを置くことができた。尋常小 学校卒業が高等学校尋常科の条件であり,尋常科 卒業か中学校4年修了で高等科に進学することが できた。中学校4年から進学する場合には中学校 を中途退学することになる。その後7年制の高等 学校も私立などで作られたが,ほとんどの官立の 高等学校は高等科3年のみで,大学進学が学生の
目的であることにはかわりがなかった。
同時に,大学令も公布された。その目的規定に は,帝国大学令とほぼ同趣旨の文言に加え,「人 格ノ陶冶及国家思想ノ涵養」に留意する,とされ た。公立・私立大学の設置も認め,また単科大学 の設置も可能になった。帝国大学令は下位法令と して併存することになる。大学令によって,1903
(明治36)年の専門学校令にもとづいていた私立 の学校が,続々と大学に昇格していくことになる。
義務教育費国庫負担法 臨時教育会議の最初の答 申は,市町村立小学校教員の俸給は国庫と市町村 の連帯支弁とし,国庫支出金がその半額に達する ことを期すべし,というものであった。それまで,
小学校経費は,委任事務費でありながら町村財政 によってまかなわれていた。1900年,市町村立小 学校教育費国庫補助法が成立するが,それはあく まで「補助」であって,市町村の負担する教育費 に対する割合は,微々たるものであった。地方財 政の窮乏などを背景に,義務教育費国庫負担を求 める運動が盛んになっていたのである・
諮問の翌年,帝国議会において市町村義務教育 費国庫負担法が成立する。同法は,市町村立尋常 小学校の正教員と准教員の俸給の一部を国庫から 負担することとし,その金額を毎年度1000万円以 上,としていた。諮問と比べれば,負担対象を当 時義務教育であった尋常小学校に限定することに より高等小学校を排除したことや,半額の補助を 期すという諮問に対して1000万以上という定額を 定めたという点は後退と受け止めてよいのかもし れない。しかし,国庫からの補助から負担へとい う方式の変更は,小学校の維持を市町村に任せて いたそれまでの方式から,国が一定の責任を負う ことを明確にしたという点でひとつの画期をなす ものといえよう。また,資力が薄弱な町村に対し ては特に交付金額を増加する規定も含まれており,
町村の財政状態の格差から生じる不均衡を是正す ることも目指されていた。
国庫負担分は,初年度の1918年には俸給総額の 20%程度であった。しかし,「1000万円以上」と された国庫負担分は,折からの不況・インフレに より,総額自体が増え,割合は年々低減していく ことになる。特に1920年以降の戦後恐慌のもとで その傾向が強められ,負担金増額を求める要求が 激しくなる。1923年,負担法は改正されて,国庫 からは毎年度4000万円以上が負担されることにな
った。
すこし先走るが,この制度が改正されるのは,
1940年のことであった。市町村義務教育費国庫負 担法を廃止して新しく制定された義務教育費国庫 負担法は,市町村立尋常小学校の教員の俸給の半 額を国庫から負担し,残りも市町村ではなく府県 で負担することとなった。地方ごとの財政力格差 が甚だしく,農村では教員給与の遅配・欠配が珍
しくないような状況が背景にあった。
4 戦時下の教育法制
青年学校の発足 1931年の満州事変以降,日本は ファシズム体制への傾斜を強めていく。1935年の 天皇機関説問題を契機に,思想運動としての国体
明徴運動が展開された。『国体の本義』が発行さ れたのが1937年,国家総動員法が公布されたのが その翌年のことであった。
1937年内閣直属の諮問機関として設置された教 育審議会は,戦時体制のもとで学校教育から社会 教育・家庭教育・軍隊教育にいたる教育を,「皇 国の道に則る国民の錬成」として,戦時下の教育 体制を決定していくことになる。
教育審議会答申を受けて最初に行われた改革の ひとつが,青年学校の義務化であった。昭和初期 の勤労青少年を対象とする機関には,既述の実業 補習学校に加え,1926(大正15)年4月の青年訓 練所令及び同規程により設置された青年訓練所が あった。後者は,文部省と陸軍省の協力により,
おおむね16歳から20歳までの青年に,修身,公民 科,教練,普通学科,職業科を「訓練」する教育 機関とされたが,実際には軍事訓練に主な眼目が あった。私人による設置も認められていたが,公 立の場合は実業補習学校に併置されることが多か った。そのため,その一本化が課題となり,1935
(昭和10)年の青年学校令により,両者は併合さ れて青年学校として発足したのである。
1939(昭和14)年,青年学校令は全面改正され,
男子については青年学校が義務化された。すなわ ち,青年学校は,尋常小学校卒業者の入学する普 通科(2年)と高等小学校卒業者の入学する本科
(男子は5年,女子は3年,但し事情によっては それぞれ4年,2年も可),とが置かれ,事情に よっては研究科(1年)を置くことができるとさ れたが,中学校その他の学校に在学していない満 12歳から満19歳(に達した学年の終わり)までの 男子は,保護者に青年学校に就学させる義務が課 されたのである。普通科と本科の2年までは210 時数以上,本科の3年以上は男子180時数以上,
女子210時数以上が教授・訓練に充てられるもの とされた。ちなみに青年学校令施行規則によって 本科1・2年生の男子についてその内訳を見れば,
修身及び公民科20,普通学科20,職業科70,教練 科70であり,三分の一以上が教練に充てられてい る。3年生以上になって総時数が減っても教練の
時数は変わらない。なお,普通科と本科女子につ いては教練ではなく「体操科」が科せられた。女 子については家庭科の時数が多かった。同規程は,
青年学校の教授・訓練は原則的に昼間行われるも のとし,土地の状況によって夜間9時までも可能 としている。
青年学校令は公布の日(4月26日)に施行され たが,義務制について大正15年4月1日以前に生 まれた者には適用しないとしたから,その年に普 通科1年の生徒の学年が進行するに連れて義務化 が行われ,昭和20年度に義務制が完成する予定で あった。実際にはその後の戦局の悪化により,こ れが完全に実施されることがなかったのは次に述 べる国民学校の場合と同じである。しかし,特に 都市部の勤労青年層が私立も含めた青年学校に通 う機会を得たという点では意味のあるものであっ たといえる。
教育制度の再編 教育審議会の答申は,初等教育 の再編という点でも実施に移された。国民学校の 発足である1941年3月の国民学校令は,それまで の小学校という呼称を「国民学校」とし,第1条 で「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ 施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と
その目的を定めた。初等科6年,高等科2年がお かれ,計8年間が義務教育とされた。1907年の小 学校令改正によって義務教育年限が6年間に延長 されて以来の懸案であった義務教育年限の延長が,
この時規定の上では実現したことになる。しかし 現実には,その後の戦況の悪化により,実際に8 年間の義務制が実施されることはなかった。すな わち,国民学校令によれば昭和6年4月2日以降 に生まれた者から延長が適用されることになって いたが,その児童たちが高等科に進学する予定の 昭和19年4月を前に,同年2月16日「国民学校令 等戦時特例」が勅令として出され,「大東亜戦争 二際シ学校教育二付時局二即応スル措置ヲ講ズル」
ことを目的に,年限延長が延期されたのである。
同令により青年学校の義務化も延期された。
国民学校令により,国民学校の教科も再編され た。修身・国語・国史・地理が国民科,算数・理
科が理数科,体操・武道(武道は男子のみ)を体 錬科,音楽・習字・図画・工作を芸能科とし,初 等科の女子はこれに裁縫が加えられた。高等科に ついては,これらに加え実業科などが加えられた。
たとえば国民科について国民学校令施行規則の規 定を見れば,「皇国二生レタル喜ヲ感ゼシメ敬神,
奉公ノ真義ヲ体得セシムベシ」とあるなど,戦争 遂行のための思想動員の役割を一層国民学校に負 わせることを軸に,教育課程を再編しようとした ことがわかる。一方で,近代的総力戦の完遂とい う目標は,合理的な教育をも要求することになる。
理数科の一定の重視がそれであったし,国民学校 令ではじめて保護者の「貧窮」を理由とした就学 猶予・免除の規定がなくなったこともその一つで
あろう。
教育制度の再編は,中等教育にも及んだ。1943
(昭和18)年の中等学校令は,中学校,高等女学 校,実業学校を修業年限4年の「中等学校」とし て統一した。中学校については修業年限が1年短 縮されたことになる。中等学校は皇国の道に則っ て高等普通教育又は実業教育を施し国民の錬成を 為す場と定められ,中学校規程,高等女学校規程,
実業学校規程によりそれぞれ定められた教科も,
国民学校のそれに準じて再編された。
戦時体制下の教育 戦局がいよいよ深刻になるに つれ,学生・生徒も総動員の対象となり,教育体 制は崩壊を始める。1941年10月,文部省は高等教 育の修業年限の短縮を決定した。それにより,そ の年度の大学の卒業生は3ケ月短縮され12月に,
翌年には大学だけでなく予科,高等学校も加えて 6ケ月短縮で9月に繰り上げ卒業とされた。また,
中等学校が4年制とされたことは前述の通りであ るが,中等学校令公布と同時に高等学校令,大学 令が改正され,高等学校高等科と大学予科の修業 年限がそれぞれ2年とされた。
在学したままの身分で,学生たちは勤労動員・
学徒出陣にかり出されていくようにもなる・第1 回の学徒出陣は1943年12月のことであった。また 勤労動員に関していえば,1938年の国家総動員法 を受けて,1939年の国民徴用令,1941年12月の国
民勤労報国協力令によって国民を戦争遂行に総動 員する体制ができあがっていた。前者は「帝国臣 民」の徴用に関する規定であり,後者は14歳以上 40歳未満の男子と14歳以上25歳未満の未婚の女子 を「国民勤労報国隊」に組織し,原則年30日以内 の「協力」をさせるための規定で,在学者も対象 とされた。1943年6月には「学徒戦時動員体制確 立要綱」が閣議決定され,「教育錬成内容ノー環」
として学生生徒を勤労動員することとされ,翌 1944年1月の閣議決定「緊急学徒勤労動員方策要 綱」では,1年に標準4ケ月を継続して勤労動員 することとされた。その期間はさらに延長され,
3月の閣議決定「決戦非常措置要綱二基ク学徒動 員実施要綱」では,「決戦ノ現段階二即応」して 原則中等学校程度以上の学生を今後1年「常時之 ヲ勤労其ノ他非常任務」に出動させられる組織的 態勢に置いて随時活発に動員を実施するとされ,
学校本来の教育活動は完全に崩壊した。同年8月 には勅令「学徒勤労令」により,「勤労即教育」
として,「学校報国隊」により学徒勤労を行うこ ととされ,継続して学徒勤労をさせる期間は1年 以内とされた。
空襲が激しくなるにつれ,学童疎開も始まった。
1944年9月の閣議決定「学童疎開促進要綱」一は縁 故疎開を原則とし,帝都(東京)区部の国民学校 初等科3年から6年までの児童で縁故疎開ができ ない場合に保護者の申請に基づき集団疎開をする ものとされていたが,やがて集団疎開の対象も拡 大し,1945年3月には低学年児童の参加も認めら れるに至る。
1945年には,すべての教育が崩壊状態にあった といってよい。3月の閣議決定「決戦教育措置要 綱」は,学徒を国民防衛の一翼とするとともに真 摯生産の中核とするため,国民学校初等科を除く 学校の授業を4月1日より1年間停止し,学徒を 食糧増産,軍需生産,防空防衛,重要研究その他 に総動員するとしていた。5月には,同要綱の実 施のために,勅令「戦時教育令」が制定された。
この年の春以降,沖縄は順次被占領状態に入り,
8月には広島・長崎の被爆を経て,日本は敗戦を
迎えることになる。
5 植民地の教育法制
第二次世界大戦まで,日本は台湾,朝鮮などの 地域を植民地支配していた・ここで,植民地の教 育法制についてまとめておきたい。
台湾 1895(明治28)年4月の日清講和条約によ り,台湾は日本の初の植民地とされた。総督府は 国語伝習所を設け,読書算を授けようとするが,
従来ある「書房」という儒学塾に生徒を奪われ,
振るわなかった。1898(明治31年),勅令「台湾 公学校令」及び台湾総督府令「台湾公学校規則」
により,「本島人」のための初等教育機関として 8歳から14歳までの6年を修業年限とする「公学 校」が設置されることとなった。
「内地人」の台湾への移住者が増加するにした がい,その子弟を教育する必要も生じたが,台湾 公学校令公布の同日,勅令「台湾総督府小学校官 制」によりそのための初等教育機関として「小学 校」が設置され,修業年限は6カ年とされた。
「本島人」と「内地人」の子弟は,別学とされた のである。明治35年,台湾総督府令「台湾小学校 規則」により,小学校は修業年限4年の尋常小学 校と2または4年の高等小学校とされた。「内地」
の義務教育年限がまだ4年であったので,それに 準拠したのである。
1919(大正8年),勅令「台湾教育令」が公布 された。それまでの「本島人」のための教育機関 は,不十分かっ系統性を欠いたものであった。台 湾教育令は,修業年限6年の公学校卒業後の教育 機関として,男子には修業年限4年の高等普通学 校,女子には3年の女子高等普通学校を設けるこ ととし,その他実業教育,専門教育,師範教育を 行う教育機関と接続関係も規定されて,系統的な 教育制度が確立したといえる。しかし第1条で台 湾における「台湾人」の教育は本令によるとされ,
「内地人」との別学は崩されなかった。
1922(大正11)年,新しく勅令「台湾教育令」
が公布され,旧令は廃止された。新令は,「内地
人」も対象としており,それまでの別学の体制が 崩され,原則として共学とすることとされた。し かし,初等教育学校については国語(日本語)を 常用とする者のための学校を「小学校」,そうで ない者のために「公学校」という別は残しており,
事実上の別学がやはり行われたのである。
日中戦争が開始されると,台湾人に動揺が広が ったため,「皇民化」政策が強化され,学校教育 だけでなく社会教育を通じても日本語の強制など が行われた。1941年には「内地」と同じく初等教 育機関は「国民学校」とされる。
なお,山地の先住民族に対しては,日本による 植民地支配の開始以降,「蕃童教育所」で,警察 官による簡易な教育が行われていた。
朝鮮 朝鮮は1905年「日韓協約」により日本の保 護国とされ,1910(明治43)年の「日韓併合条約」
により日本の植民地とされた。
保護国とされて以降,1906(明治39)年の普通 学校令で,4年の普通学校を置くこととされたが,
一方日本人の子弟については1909年統監府令「小 学校規則」により「内地」と同様の小学校が設立 されることとなった。これにより民族別の学校制 度となり,以降1941年まで存続することになる。
併合の翌年,1911年に勅令「朝鮮教育令」が公 布され,朝鮮人の教育はそれに基づいて「時勢及 民度」に適合して行われることとなった。4年の 普通学校と,それ以降の普通高等学校と女子高等 普通学校,専門教育,実業教育などの諸機関の規 定が置かれたことなどは,先に述べた数年後の台 湾教育令とほぼ同じである。
台湾において新しく台湾教育令が公布されたと 同じ1922年,やはり勅令「朝鮮教育令」が新しく 公布され,朝鮮における教育はすべて同令に依る こととされ,原則的には別学が共学とされたもの の,国語を常用する者には日本と同じくノ』、学校令,
中学校令,高等女学校令に基づくそれぞれの学校 が用意されたのに対し,常用しない者は普通学校,
高等普通学校,女子高等普通学校で教育を受ける とされ,やはり事実上民族別の学校制度が維持さ れたのであった。普通学校は6年であったが,短
縮も可能であった。高等普通学校,女子高等普通 学校は,台湾では廃止されて中学校,高等女学校 令によるとされたが,朝鮮では存続した。実際の 授業では,普通学校でも日本語がもっと重視され た。同年の朝鮮総督府令「普通学校規程」を「小 学校規程」と比較しても,国語の授業時間数はま ったくかわらず,前者の朝鮮語はそれの25%から 40%しかない。教科書のほとんどは日本語で書か れていた。
1938(昭和13)年,朝鮮教育令は再度新しく公 布された。この時に至り,普通学校その他の国語 を常用としない者のための学校は廃止され,すべ て日本の学校体系と一体化された。学校教育もす べて日本語で行われるようになる。
このころから,学校教育だけでなく社会教育を 通じても,日本語の講習会や,姓名を日本風に変 えることを強制した「創氏改名」,日本服や神社 参拝の強制が行われるようになる。学校では,こ とあるごとに「一 私共ハ 大日本帝国ノ臣民デ アリマス ニ 私共は 心ヲ合セテ 天皇陛下二 忠義ヲ尽シマス 三 私共ハ 忍苦鍛錬シテ 立 派ナ強イ国民トナリマス」という「皇国臣民ノ誓 詞」(1937年制定)を斉唱させられた。「皇国民化」
の度合いは,台湾と朝鮮では微妙に違い,朝鮮の 方が厳しかったと言ってよい。
6 戦後教育改革
1945年8月,日本政府はポツダム宣言を受諾し,
日本は敗戦を迎えた。9月15日,文部省は「新日 本建設ノ教育方針」を発表するが,それは「世界
平和ト人類ノ福祉二貢献」すべきとしながら,
「国体ノ護持」を掲げるなど不徹底なものだった。
これを見て占領軍民間情報教育局は目ら日本の教 育制度からの軍国主義,国家神道の排除を行うこ ととし,同年10月から年末にかけて,「日本教育 制度二対スル管理政策」「教員及ビ教育関係官ノ 調査,除外,認可二関スル件」「国家神道,神社 神道二対スル政府ノ保証,支援,保全,監督並二 弘布ノ廃止二関スル件」「修身,日本歴史,及ビ
地理停止二関スル件」の4っの指令を発したので
ある。
1946年3月,占領軍のアメリカヘの要請に応じ て,第一次米国教育使節団が来日した。その報告 書は,「米国教育使節団に協力すべき日本側教育 家の委員会」など日本側との密接な連絡をとりな がら,六・三・三・四制など戦後の日本の教育体 系のアウトラインを提言している。「自由」を基 調としたその理念は,日本側教育家の委員会を引 き継いだ教育刷新委員会において教育基本法,学 校教育法などに具体化されることになる。
権利としての教育 1946年11月3日,日本国憲法 が公布され,翌年5月3日施行された。公布から 施行までの半年間は,周知徹底のための期間とし て置かれたものだが,その間にあたる1947年3月 31日,教育基本法,学校教育法が公布,即日施行
された。学校教育法により,国民学校令など戦前 の教育関係法令は廃止された。教育勅語とその他 の諸詔勅は,このあと述べるような教育基本法の 精神とは対極に位置するものであって,この時失 効したと考えるべきものであろうが,その後翌年 の6月,国会における,「教育勅語等排除に関す る決議」(衆議院),「教育勅語等の失効確認に関 する決議」(参議院)によって完全に効力を失っ
た。
戦後の教育法制の特徴は,第一に,法律によっ て教育法制を定めるという法律主義をとったこと である。戦前の勅令主義(または命令主義)への 反省に基づき,日本国憲法の中にも学問の自由
(第23条)や教育を受ける権利(第26条)など教 育に関する事項が書き込まれ,また教育基本法や それに基づく多くの教育関係の法律が作られるこ とになった。
特徴の第二は,教育を受けることが国民の権利 として確認され,前述のように憲法の中に規定化 されたことである。このことも戦前の教育のあり ようからの大きな転換であったといえよう。
教育基本法 戦後の教育法制の理念・目的を定め たのは教育基本法であった。同法は,前文を有す るという異例の形式をとっているが,このことの
意味は,衆議院本会議における提案理由の説明
(高橋誠一郎文部大臣)において,教育基本法が,
教育の理念を宣言する教育宣言であること,今後 制定される諸法令の準則という,教育に関する根 本法たる性格をもっということ,に帰せられてい
る。
教育の理念を法律という形式に求めることの是 非は,議論の余地のある問題である。しかし,教 育基本法の理念は,その前文からみても,日本国 憲法の平和主義,民主主義の理念を教育により実 現しようというものであり,その限りで全国民的 に合意しうるものであろう。第1条に規定された 教育の目的,すなわち「人格の完成をめざし,平 和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義 を愛し,個人の価値をたっとび,勤労と責任を重 んじ,自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民 の育成」もまた,戦前の教育目的が国家目的に従 属させられ,個人よりも国家が優先されたことへ の反省に立って,憲法的価値の実現を目指そうと
したものである。
教育基本法は全11条からなるが,第2条以下は,
第1条の教育目的があらゆる機会にあらゆる場所 で実現されなければならないとする教育の方針
(第2条),憲法第26条を具体化した教育の機会均 等,義務教育についての規定(第3・4条),男 女共学(第5条),法律の定める学校が公の性質 をもつものとし,学校教員を全体の奉仕者として 適正な待遇を求めた規定(第6条),社会教育
(第7条),政治教育(第8条),宗教教育(第9 条),教育行政(第10条),補則(第11条)からな る。このなかで,第10条の「教育は,不当な支配 に服することなく,国民全体に対し直接に責任を 負って行われるべきものである。/教育行政は,
この自覚のもとに,教育の目的を遂行するに必要 な諸条件の整備確立を求めなければならない。」
という規定は,戦前の教育行政が一般行政に従属 し,教育が国家目的により左右されたことへの反 省として読むならば,教育行政も「不当な支配」
の主体となりえるし,だからこそ条件整備に任務 を限定されているのだと考えられ,事実,後述す
るようにその方向でこの時期の教育行政改革は進 められたのだが,その後次節以降で述べるような 流れの中ではこの点がもっぱら議論の焦、点となり,
自らは「不当な支配」の主体とはなり得ないとい う解釈を教育行政はとり続けてきたのであった。
第11条の補則は,この法律の諸条項の実施のた めの適当な法令の制定を求めている。前述したよ
うに提案理由説明の中で教育基本法が「根本法」
の性格を持つとされていることに対応した規定で あり,教育基本法が準憲法的性格を持つという主 張の根拠のひとつである。同日に公布施行された 学校教育法をはじめ,教育関係の多くの法令がそ の後制定されていくことになる。
六三制の成立 教育基本法に基づき,幼稚園から 大学に至る学校制度の基本を定めたのが学校教育 法であった。もっとも特徴的な点は,いわゆる
「六三三四制」の採用であろう。戦前の教育制度 は,初等教育についてはほぼすべての児童に就学 義務を課しながら,中等教育以上では複雑な学校 系統に分かれ,いったんある系統を選択すれば他 に移ることは不可能という「分岐型(フォーク型)」
の学校体系であった。これに対して,学校教育法 は,複雑だった学校体系を単純化し,いわゆる
「単線型」学校体系を採用した。6年制の小学校,
3年制の中学校,同じく高等学校,4年制の大学 と進学していくようにし,どの段階の学校に在学 していても,次のどの学校への進学も少なくとも 資格上は可能であった。
もっとも大きな変革となったのは,新制中学校 の発足とその義務化である。前節で触れたように,
すでに戦前から法令上は青年学校と国民学校高等 科を義務化し,義務教育年限を8年にしていたの だが,戦況の悪化により実施は見送られていた。
戦後,教育基本法により9年間の普通教育を子女 に受けさせる義務が国民に課され,学校教育法で それが小学校に加えて新制中学校の3年間とされ たのである。また,中等教育段階は戦前,性別に よっても,また普通教育か職業教育かによっても 学校種が異なった。戦後は,原則として同じ教育 課程が準備された。男女も共学とされた。新学制
の発足は,1947年の4月であり,中学校の準備が 最大の問題であった。
教員養成と教員の身分 戦前,天皇制官僚体系の 末端に位置づけられて「臣民」と向かいあってい た教員は,戦後改革により,「全体の奉仕者」と された。そう規定した教育基本法第6条は,それ に続いて,そのために教員の身分は尊重され,待 遇の適正が期せられなければならないとしている。
その保障として,教員も当初は労働法により労働 者としての保護も受けたし,「教育公務員」とし ての職責に見合う扱いを受けたのである。
ここでは以下,教育職員免許法と教育公務員特 例法に触れておきたい。
戦前の初等教育の教員養成は,中学校から連な る普通教育の系統とは別に用意され,高等小学校 卒業を入学資格とする師範学校において行われた・
これに対して戦後の教員養成は,「開放制」を原 則として行われることとなった。戦前の師範学校
が生み出した「師範型」の教員が,非科学的な教 育内容を児童・生徒に注入したことへの反省に基 づき,教員養成を大学で行うこととしたのである。
それを定めたのが1949(昭和24)年の教育職員免 許法であった。同法により,大学において所定の 単位を修得した者に教員免許を与えることとなっ た。学問の各分野の専門的知識や高い教養を身に つけた者を教員にしょうとしたのである。一方,
「教育職員の資質の保持と向上を図る」(第1条)
ため,大学以外の学校の教員は必ず免許状を有す るものでなければならないとされ,専門職性の確 保が目指された。このときには,校長,教育長,
指導主事についても免許状が新設されており,教 育行政も教育の専門性にもとづいて行おうという 意図がみえる。
その後同法は,比較的短期間の内に数度の改正 を経験する。そのひとつは,すべての大学・学部 で免許状の取得が可能であったものが,一定の水 準を確保するため,1951年に,文部大臣が認定し た課程においてのみ免許状を取得できるとした
「課程認定制」がとられたことである。1954年に は,校長,教育長,指導主事の免許状が廃止され
た。
教育公務員特例法(1949年)は,教育公務員の 任免,分限,懲戒,服務及び研修について定めて いる。教育公務員には国公立大学の教員を含んで いてそのための規定も多いが,大学以外の学校の 教員に関わって重要なのは,次の二点であろう。
第一に,教員が地方公務員に切り替えられたこと である。教員はそれまで,判任官と同じ待遇を受 けるものとされ,官吏の身分を有していた。次に 述べる教育委員会の発足に伴い,位置づけが変え
られたものだが,それまで国家意志の伝達注入を 職務としていた立場の転換を意味するものであっ たろう。第二は,研修に関する規定である。第19 条は「教育公務員は,その職責を遂行するために,
絶えず研究と修養に努めなければならない」とし,
教育委員会は研修の計画を樹立し実施に努めなけ ればならないと規定していた。第20条では,教育 公務員は研修を受ける機会が与えられなければな らないこと,授業に支障がない限り本属長(校長)
の承認を受けて勤務場所を離れた研修を受けるこ とができること,現職のままで長期の研修を受け ることができること,が定められている。勤務能 率の発揮及び増進のために任命権者が行う研修を 受ける機会が与えられなければならない,とした 地方公務員法(国家公務員法も同趣旨の規定)に 比べて,明らかに厚い規定であった。教員として の資質を維持・向上させるには「研究と修養」が 必要であり,それは研修を保障することによって 行われる。研修について他の公務員と異なる制度 が設けられた意味は,その点にあった。
教育行政改革 戦後教育改革によって,教育行政 の在り方も大きく変わった。戦前の中央集権的,
官僚的な教育行政が改められ,戦後教育行政の三 原則,すなわち,教育行政の民主化,地方分権化 一般行政からの独立が追求された。その具体化が 教育委員会法である。
教育委員会法(1948年)は,教育基本法第10条 第1項の内容を受け,その目的を「公正な民意に より,地方の実情に即した教育行政を行うために,
教育委員会を設け,教育本来の目的を達成するこ