曖 昧
法学部法律学科1年太田 万莉子
記憶がある。そして何を怯えていたのかと笑い飛
ばした記憶さえある。僕は何も起こらなかったこ
とに安堵し、ドッペルゲンガ―を見たことなど今
に至る数か月まですっかり忘れていたのだ。
そう、今の今まで忘れていたのだ。しかし、結
局は思い出してしまった。
何故か。
原因はここ最近の奇妙な出来事にあった。
ここ数週間、僕の周りでは奇妙な出来事が相次
いでいた。いや、正確に言えば、僕が当たり前だ
と思って振る舞っていることが、周りからは奇妙
に見えているようなのだ。僕は今まで通りに日常
を過ごしているというのに、皆、不思議そうな目
で僕を見るのだ。
最初の異変は同僚と休憩をとっている時だった。
僕はいつものように社内にある自販機でコー
ヒーと紅茶を買うと、同僚に紅茶を手渡した。
すると同僚は僕のその行動に首を傾げ、何故紅
茶を自分に渡すのか、と言った。 僕は同僚の言葉に戸惑った。
僕の記憶では、同僚は、コーヒーのことを泥水
のような色の苦い液体、と表現する程に苦手とし
ていたはずだ。
お前、コーヒー嫌いだろ。
僕は首を傾げコーヒーと僕をじろじろと見る同
僚にそう言った。同僚は僕の言葉に目を丸くした。
そしてこう言ったのだ。
コーヒーが苦手なのはお前の方じゃないか、と。
僕は同僚の言葉に納得がいかなかったが、意地
になってコーヒーが苦手だと公言したことはない
と言い張っていると、熱でもあるのではないかと
いわれ、心配されてしまったので、結局記憶違い
だったと言い、その場は無理やり誤魔化した。
そして、その時は正反対の記憶に薄気味悪さを
覚えながらも、深く考えるのもなんだか嫌で、本
当に記憶違いかもしれないと自分を納得させたの
であった。
二つ目の異変は、休日に友人と会った時に起こっ 問、ドッペルゲンガ―とは何か。
少し前にドッペルゲンガ―を見た。
街中を歩いているときに、ふと、視線を感じて
振り返ると、遠くの方からじっとこちらを見つめ
ている自分と瓜二つの顔があった。
世の中には似ている顔の人物が三人いるという
が、あそこまで瓜二つの人間がいるものだろうか。
まだ、別世界の自分、自分の生霊、ただの見間違え、
と言われた方が納得できる。
ドッペルゲンガ―を見ると死んでしまう、ドッ
ペルゲンガ―を見るとドッペルゲンガ―に殺され
る、などの都市伝説を見かけたことがある僕は、
自分と瓜二つの人影を見てから数日間は生きた心
地がしなかった。嘘だ、作り話だ、などと思って
いても、本心では実はあれらは本当の話で、僕は
死んでしまうのではないかと戦々恐々としていた
のだ。
結局しばらく経っても何も起こらず、安堵した
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● 小説
た。
一週間前、溜りに溜まった有休を少しでも消化
しようと思っていたところに、昔からの友人が暇
だと電話を掛けてきたので、これ幸いと上司に有
休を申請した。
友人とは腐れ縁で、彼の事は悪友と称するのが
一番しっくりくる。
気の許せる友人と何をするわけでもなく、共に
僕の家で雑誌やテレビを見ながらだらけていた。
たまに口を開いても、特に変わった話題を話すこ
とも無く、取り留めのない話をしていた。
しかし、一度だけ友人は、雑誌の切り抜き作業
をしていた僕を見て奇妙なことを言ったのだ。
お前、右利きじゃなかったっけ。それとも両利
きとかだっけ。
友人はまるで世間話をするかのようにそう口に
したのだ。
僕は最初、何を言われたのか一瞬分からなかっ
た。
友人とは何年もつるんでいて、頻繁に会ってい
る。当然僕の利き腕など分かりきっているはずだ。
その友人が何故、今更初めて知ったかのように僕
の利き腕の話をしだしたのか。
同僚とコーヒーの話をしていた時のような、薄
気味悪さが僕を襲った。 僕は昔から左利きで、右手で細かい作業をした
ことは一切ない。文字を書けば読めたものではな
いし、料理をすれば大怪我を負うだろう。
何言ってるんだよ、昔から左利きじゃないか。
僕が困った様に笑ってそう答えると、友人は、
なんだかしっくりこないな、と言いながらも、そ
れ以上何かを言ってくることはなかった。
三つ目の異変は四日前、自分の家で日記を書い
ていた時に起こった。
僕は昔からその日に起こった出来事を、事細か
に日記に書く癖があった。
四日前も、いつものようにその日に起こった出
来事を思い出しながら日記を書き記していた。
日記を書き終わったところで、ページ数が残り
僅かであることに気づき、ああ、新しいものを買
いにいかなければ、と思ったところまでは特に問
題はなかった。
問題はこの後に起こった。
僕は何気なく、前のページを開いた。
そして驚愕した。
数週間前のページから、以前とは全く筆跡が異
なる上に、使用している一人称も異なっていたの
だ。そして、今の今まで気づかなかったのが不思
議なくらい異なるというのに、僕には自分が昔、
俺という一人称を使っていたことも、今よりも丸 みを帯びた文字を書いていたことも記憶になけれ
ば、一人称を僕に変更したことや、角ばった文字
に変更したことも、まるで記憶が無いのだ。
自分の記憶では、僕は、昔から僕という一人称
を使っていたし、角ばった文字を書いていた。利
き腕は昔から左。コーヒーは昔からずっと好きだ。
僕の記憶では僕という人間はそうなっている。
僕は何度も何度も以前の筆跡と、今の筆跡を見
比べた。
しかし信じられなくとも、目の前にある事実は
変わらなかった。
明らかに何かおかしな出来事が起こっている。
そう僕はこの時はっきり自覚したのだ。
自覚してしまえば今までの奇妙な出来事にも恐
怖を感じた。
自分が自覚していない内に、周囲が認識してい
る自分と、自分が記憶し認識している自分が明ら
かに異なっているのだ。
周りの認識では、僕という人間は、僕が認識し
ているものとほぼ正反対のものなのだ。
僕はここにきてやっと数か月前にドッペルゲン
ガーを見たことを思い出した。
現実的に考えて、自分とそっくりな人間を見て
からといってこんな奇妙で不気味で恐ろしい出来
事が起こるとは考えられない。
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曖昧
しかし、それくらいしか僕には原因が思い付かな
かった。
追い詰められた僕は、まるで自分という人間が、
ドッペルゲンガ―を見た時に、ドッペルゲンガ―に
よって乗っ取られてしまったかのように思われたの
だ。
突飛もないそんな妄想めいた考え。
しかし、その現実離れした考えに沿って、今まで
に起こった出来事を考えると、すんなりと納得がい
くのだ。
僕は恐ろしいと思う感情を少しでも減らしたい
と考え、日記のページをばらばらにし、一枚一枚シュ
レッダーにかけて捨てた。日記は、僕が、以前の僕
とは異なるということを目に見える形で証明するも
ののように感じたからだ。
そして僕はこの日から、つまり四日前から、ドッ
ペルゲンガ―について調べ始めた。
結局、四日間調べても、既に知っている都市伝説
のような情報しか僕は得ることは出来なかった。図
書館に行って、怪異現象の資料を探したり、ネット
を探ってみたりしても、ほとんどがドッペルゲンガ
―を見たら死ぬという文章を僕に見せつけるのみ
だった。
同じような内容ばかり調べている内に、だんだん と馬鹿らしくなり、そして冷静になればなるほど、
一連の奇妙な出来事はドッペルゲンガ―という怪異
のせいではなく、自分の精神のせいではないかと思
い始めた。
僕は、実は自分が精神病の類にかかっていのでは
ないかと疑ったのだ。
しかしその可能性を確かめることはなかった。
幻覚や記憶の混乱が、自分の精神の異常から起
こっているにしろ、ドッペルゲンガ―という不思議
な現象によって起こっているにしろ、恐ろしいこと
には変わりない。
しかし、自分がおかしくなってしまったと考える
よりは、人の力ではどうしようもないような不思議
な現象によって引き起こされていると考えるほう
が、僕には幾分かましに思えたのだ。
僕は死ぬのだろうか。
いや、死ななくとも、既に狂人と成り果てており、
周囲とは異なる存在になっているのかもしれない。
実は調べ物をしていた四日間の間にも異変は起
こり続けていた。
今までの中で最も恐ろしい異変だ。
それは、記憶の中の感情部分だけがすっぽりと抜
け落ちているというものだ。
本を読んだり、テレビを見たり、人と話をしたり
した、という事実は記憶に残っている。しかし、そ の時僕が、何を感じたのか、あるいは何を思ったの
か、そういった感情面の情報が一切ないのだ。
全ての記憶がそうなっている訳ではない。
一日目は数分。
二日目は十数分。
三日目は数十分。
四日目は数時間。
そして今日は半日。
最初は所々でしかなかった記憶の中の感情の欠
落は、徐々に徐々に広がっていたのだ。
自分が買った覚えのない書物が机の上に置かれ
ている。
そしてそれを手に取ると、ああ、あそこで買った
のだったという記憶は思い出せる。
しかし何故買おうと思ったのか、そもそもどうし
て本屋に行こうと思ったのかは思い出せない。
そのような状態でこの数日間を過ごしている内
に感覚が麻痺してしまったのか、記憶の中の感情の
欠落に気づいても、またか、という思いと、自分は
どうなってしまうのだろうか、という思いしか湧か
なくなってしまった。
そもそも自分が何故こんな目に合っているのか
はっきりと分からなければ、どうやってこの状況を
解決できるのかも分からない。
僕はこのままもう一人の『自分』になってしまう
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● 小説
のだろうか。
そもそも僕とはどんな人間だったのか。ひょっと
したら今の自分こそが『僕』なのではないか。
果たして、僕は今、『誰』なのか。
一日が終わり、困惑と恐怖の中、今日も僕は眠り
につく。
解、ドッペルゲンガ―とは、自分とそっくりな容
姿の分身、自分自身の生き写し、同じ人物が複数の
場所に同時にあらわれる現象、自分がもう一人の自
分を見る現象、である。ドッペルゲンガ―現象を体
験した場合は、その人自身の命が尽きる証とも言わ
れている。また、ドッペルゲンガ―に成り代わられ
る、実は重度の精神病、など様々な説が唱えられて
いる。 コメント友人と瓜二つの人物を見かけたことがきっかけ
で、今回の作品の題材としてドッペルゲンガ―を選
びました。ドッペルゲンガ―を見たら死ぬという話
はよく見かけていたので、他の展開に出来ないかと
考え、今回のような形になりました。
また、一人称で話を進める、会話にかぎカッコを
使わない、疑問符や感嘆符を使わない、これらによっ
て、主人公の心情を書きながらも淡々とした文章に
なるように努めました。淡々とした文章の方が、ドッ
ペルゲンガ―という不吉な伝説や噂が多い題材を活
かせると考えたからです。
ドッペルゲンガ―に遭遇したことによって、自分
という存在が分からなくなり混乱した主人公の心情
や、混乱したことによってまとまりのない思考に
なっていることを伝えつつも、淡々とした文章に
よって不気味さを伝えられたら幸いです。
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曖昧