【解説】
マグロ類やカジキ類,ハクジラ類などの海洋の高次捕食者に は,食物連鎖によって生物濃縮されたメチル水銀が,筋肉に 含まれることから,魚食からのメチル水銀の摂取による毒性 を明らかにする必要がある.水俣病のように,メチル水銀の 中毒事例から予想すると,低濃度のメチル水銀の長期曝露に よって,脳神経系や心臓・血管系の分化・発達異常が生じる 可能性がありうるが,実際には魚食によって微量なメチル水 銀を摂取し続けても,メチル水銀中毒は生じない.その理由 は,魚から高度不飽和脂肪酸やセレンなどを多量に摂取する ので,これらの成分がメチル水銀の蓄積や毒性発現の機序に 作用して,毒性を軽減することがわかってきた.魚食由来の メチル水銀の健康リスクは過大に評価されているのではない か.なぜ,魚食ではメチル水銀の毒性が打ち消されるのか.
水産物のメチル水銀とセレンによる解毒に関する最近の知見 を紹介する.
メチル水銀の蓄積と無機化
魚介類のメチル水銀は,主に筋肉や肝臓に蓄積され る.年齢が高く,体重が重い大きな個体のほうが水銀レ
ベルが高い傾向にある(1) (表1).海洋環境の無機水銀が 微生物によって還元され,メチル水銀に変換されたの ち,プランクトン,小型魚類などを経て,食物連鎖によ る生物濃縮によって,肉食性の強い大型の魚類・ハクジ ラ類に蓄積される(2).一度体内に取り込まれたメチル水 銀は体外にほとんど排泄されず,筋肉に蓄積される(2). マグロ肉におけるメチル水銀の蓄積を調べたところ,
メチル水銀はミオシンに結合していた.SH1と呼ばれる 反応性の高い706残基目のシステイン残基である(3, 4). ミオシンのSH1への化学修飾は,ミオシンのATPアー ゼ活性を上昇させることから,メチル水銀の化学修飾は 筋収縮を促進している可能性が考えられる.筋細胞内に 取り込まれたメチル水銀は,反応性の高いSH1チオー ル基に結合して,安定化されるので,ほかの分子に作用 することなく,安定に筋細胞内にとどまる可能性が考え られる.骨格筋以外の心筋や平滑筋のミオシンでもSH1 が保存されているので,ミオシンが主要なメチル水銀結 合部位である.脳や赤血球でもメチル水銀は何らかの特 異的なタンパク質に結合しているが,まだ同定されてい ない.肝臓や血しょうにはメチル水銀の無機化によって 生成された無機水銀が検出される.
水産物のメチル水銀とセレン
山下倫明,今村伸太朗,山下由美子
Methylmercury and Selenium in Seafood
Michiaki YAMASHITA, Shintaro IMAMURA, Yumiko YAMA- SHITA, 水産総合研究センター中央水産研究所
ハクジラ類の肝臓では,数百ppmもの水銀含量が検 出される例がある(5).水銀粒子は界面活性剤やプロテ アーゼ処理では可溶化されず,水銀とセレンのモル比が 1の無毒で安定なセレン化水銀の金属粒子が形成され る.通常,魚肉の水銀の化学形態は約90%がメチル水 銀であるが,クロカジキ肉は例外的にセレン化水銀を含 み,メチル水銀の総水銀に対する比率が低い.このよう に,メチル水銀の無機化は,哺乳類から魚類まで共通の 生物機能である.セレンとメチル水銀がモル比1で結合 する反応が関与している.
魚肉でのメチル水銀の毒性軽減は,Gantherらによっ て報告された(6).メチル水銀を20 ppmを含む穀類の餌 ではウズラは死亡するが,ビンナガ缶詰の魚肉にメチル 水銀を添加した場合は毒性が低下した.このことから,
魚肉に含まれるセレンにメチル水銀の解毒作用があるこ とが推定された.メチル水銀と亜セレン酸を投与する動 物試験によっても,セレンの解毒効果が明らかにされ た.
しかし,魚肉由来のセレンは有機態であり,亜セレン 酸とは構造や生理活性が異なっている.セレン源が異 なっていても同じ反応でメチル水銀の解毒が生じるの か.グルタチオンペルオキシダーゼ (GPx) などのセレ ンタンパク質のノックアウトマウスの研究では,セレン タンパク質の必須性は精子形成などに限定されており,
セレンタンパク質は生体抗酸化作用の一部に関与するに 過ぎずメチル水銀の解毒への関与は説明できない(7〜9). 永沼らは亜セレン酸のメチル水銀代謝物 bis(methyl- mercuric) selenide を報告した(10)が,生体内での無機 水銀の生成に関与するのかは不明である.魚食由来セレ
ンによるメチル水銀の解毒作用を明らかにするために は,魚肉由来の抗酸化能を有するセレン化合物を用いる 必要がある.
メチル水銀の毒性
メチル水銀は水俣病の原因物質である.メチル水銀の 毒性は,脳や目など中枢神経系に対するものであること が,水俣,新潟,イラクなどの水銀中毒の事例から知ら れている(11).水俣病は,アセトアルデヒドを製造する 工場排水として有機水銀が湾内に排出され,それが魚類 に取り込まれ,汚染された魚を食べた住民に患者が発生 した(12).妊婦のメチル水銀曝露によって,メチル水銀 は胎児の脳に到達し,胎児性の水俣病を引き起こした.
また,イラクでは,かびの発生防止のためにメチル水銀 で処理された種まき用小麦を摂食したことにより中毒が 発生した(13).国内でも酢酸フェニル水銀がいもち病の 農薬として昭和40年代に稲作に利用され,米や下流に すむ魚介類が有機水銀に汚染された(14).海外では,鉱 山に由来する無機水銀汚染がアマゾン川流域で知られて いる(11).このように,公害や事故によって水銀を過剰 に摂取し,中毒が生じる事例が発生している.現在で は,水俣病の原因となった海域は水銀汚染から回復し,
魚介類の水銀レベルはほかの沿岸域と同レベルとなっ た.
毛髪水銀濃度や血中水銀濃度は,人体におけるメチル 水銀曝露のバイオマーカーとして測定する(11).すなわ ち,毛髪水銀濃度は,血中水銀濃度と一定の濃度比であ り140 〜 370倍の範囲であることから,250倍が推定値 表1■国内産の魚類における水銀含量(1)
魚種 部位 体重(範囲) 水銀含量 (μg/g)
平均値 最大値 キンメダイ 筋肉 1.3 (0.28‒2.6) kg 0.78±0.56 1.91
肝臓 2.5 (2.4‒2.6) kg 3.51±0.72 4.05 卵巣 2.3 (1.8‒2.6) kg 0.49±0.26 1.00 クロマグロ(大西洋産) 筋肉 21.8 (6.0‒39) kg 0.42±0.06 0.51 クロマグロ(太平洋産) 筋肉 50.5 (2.5‒81) kg 0.59±0.34 1.08 ミナミマグロ 筋肉 40.3 (35‒38) kg 0.27±0.04 0.32 メバチ(大西洋産) 筋肉 38.9 (35‒43) kg 0.27±0.01 0.28 メバチ(太平洋産) 筋肉 59.4 (41‒99) kg 0.98±0.34 1.95 カツオ 普通筋 3.63 (3.61‒3.65) kg 0.25
血合筋 3.63 (3.61‒3.65) kg 0.35 マコガレイ 皮付きフィレー 508 (479‒572) g 0.03±0.01
マアジ(大分県産) 筋肉 220 (200‒241) g 0.04±0.00 0.05 マアジ(鹿児島県産) 筋肉 165 (149‒176) g 0.02±0.01 0.03 マアジ(兵庫県産) 筋肉 150 (140‒159) g 0.02±0.00 0.03 マアジ(三重県産) 筋肉 123 (107‒132) g 0.04±0.00 0.04
として利用されている(11).しかしながら,魚食による 水銀曝露の研究例から,毛髪水銀/血中水銀の濃度比 は,魚食が多いと低い値となり,魚食が少ないと濃度比 は約350倍になる(15).毛髪水銀濃度は毛髪が伸びる数 カ月間の平均的な曝露量を表すが,血中水銀濃度は,短 期間に変化する.このことから正確なメチル水銀曝露量 の評価は赤血球水銀含量の測定が望ましい.
新潟水俣病やイラクでの水銀中毒の事例から,WHO は,成人では血中水銀濃度で200 ppb(毛髪水銀濃度で は50 ppmに相当する)で,知覚異常など神経学的な影 響が生じるリスクが5%であると推定している(16).日本 人の毛髪水銀濃度の幾何平均は男性2.42 ppm, 女性1.37 ppmで あ り,調 査 対 象 の8665人 の う ち,最 低 が0.02 ppm, 最大は29.37 ppmであった(17).一方,水俣地区で は毛髪水銀濃度100 ppmを超える被害者もいた.
水俣病やイラクでの水銀中毒の事例から,血液‒脳関 門機能が完成されていない発達中の胎児の中枢神経がメ チル水銀に対して最も影響を受けやすいと推定され る(11).胎児へのメチル水銀曝露量の測定には,出産後 に記念に保存されているへそのお(臍帯)や出生時に採 取した臍帯血が用いられている(11).1930年代から1960 年代にかけて,水俣病発生地域では臍帯のセレン濃度が 乾燥物当たり0.73 ppmのほぼ一定値であるのに対し,
メチル水銀は個人差が大きく最大で5.87 ppmが検出さ れた.東京での調査ではメチル水銀は0.11 ppmであり,
メチル水銀汚染が明らかにされた(18).
マグロ類やサメ類の肉にメチル水銀が含まれることか ら,公害による汚染のない魚介類についても,国際的な 水銀規制が1969年から始まった(19).水俣病患者の水銀 曝露量から,ヒトの健康に影響を及ぼす魚介類の水銀量 を推定し,それに安全率を掛けて,米国食品医薬品局
(FDA) のガイドラインが設定された(19).水俣病発症の 血中水銀濃度200 ppb, 毛髪水銀濃度50 ppmに達するた めのメチル水銀摂取量は一日当たり0.3 mgであると推 定された.安全率を1/10掛けて0.03 mgになる摂取量 は,0.5 ppmの魚肉60 gに相当することから,当時の0.5 ppmのガイドライン規制値が決められた.一方,最近 では,毎日摂取しても人体に影響を及ぼさないというメ チル水銀の基準摂取量が疫学調査の結果に基づいて推定 されている(11).
公害による汚染がない魚の多食の調査例がある.ペ ルーの漁村では血中水銀濃度は平均82 ppbであり,最 大値は275 ppbであった(19).メチル水銀中毒は見られ なかったという.サモアのマグロ漁船の韓国人漁師の血 中 水 銀 濃 度 は,平 均164 ppb(最 大 値 は265 ppb) で
あった(19).鹿児島県離島での最近の報告例では,魚食 頻度の高い集団では赤血球水銀含量が平均51.9 ppbで あった(20).ハクジラ類を食べる太地町民の調査では,
毛髪水銀量が男性11.0 ppm, 女性6.7 ppmであり,最大 値は139 ppmであり,感覚障害など臨床的な異常は認 められていない(21).マグロ類の魚肉を体重1 kg当たり 一週間に3.4
μ
g(一般集団における耐容摂取量)を食べ る食事試験の結果では,赤血球水銀含量は開始時の6.7 ppbから26.9 ppbに14週間で徐々に上昇した(15).この ように,魚の極端な多食によって,メチル水銀の蓄積量 は摂取量に応じて増大し,水俣病発症レベルに近い,毛 髪水銀濃度50 ppm・血中水銀濃度200 ppbに到達する.これらのことから,魚の多食によって感覚障害などメチ ル水銀中毒が生じるリスクは,都会の普段の食生活では ありえないが,マグロ類,カジキ類,ハクジラ類などの 摂食頻度が特に高く,水銀曝露量の高い漁師などの海岸 部の集団に生じる可能性も考えられる.感覚障害の検査 は神経内科医の診断によるが,感覚神経を客観的に感度 良く測定できる電位測定法を用いることによって,魚を 多食する血中水銀濃度の高い集団で,感覚障害を伴うメ チル水銀中毒が生じるのか臨床疫学的に確認する必要が あるだろう.
魚介類のメチル水銀に関する疫学調査
公害や事故によるメチル水銀中毒ではなく,魚食を介 して摂取した低濃度のメチル水銀の胎児期の影響を評価 する必要がある.デンマーク領フェロー諸島とセイシェ ル共和国で行われた魚食のメチル水銀に関する疫学研究 は,メチル水銀の胎児期曝露に伴う子どもの神経発達に 関するリスク評価に利用されている(2, 11).フェロー諸島 はゴンドウクジラを好んで食べる伝統的な習慣がある.
ハクジラ類は比較的水銀濃度が高く,また脂肪組織には ポリ塩化ビフェニール (PCB) の蓄積も高いので,クジ ラ由来のメチル水銀とPCBの健康への影響が調査され た.ゴンドウクジラの肉の水銀濃度は3.3 ppm, タイセ イヨウダラ肉で0.07 ppmであり,フェロー諸島の住民 の平均の水銀摂取量は36
μ
g/日と推定された.7歳と14 歳になった時点で神経行動発達検査が行われた結果,胎 児期のメチル水銀曝露といくつかの神経学上のエンドポ イント(健康被害が生じる下限の指標となる症状)との 間 に 関 連 性 が 示 さ れ た.母 親 の 毛 髪 水 銀 濃 度10 〜 15 ppmの場合に,生まれてきた子どもの運動機能,注 意,視覚空間,言語,言語記憶など機能に影響がでる限 界点となる.インド洋のセイシェル諸島では水銀濃度の低い魚を頻 繁に摂取する習慣がある(22).平均の毛髪水銀濃度は 5 〜45 ppmの範囲で,中央値が10 ppmであった.神経 発達検査が行われたが,子どもの機能へのメチル水銀曝 露の影響は見いだされなかった.ニュージーランドの疫 学研究では,4歳児を対象として母親の妊娠時の毛髪水 銀濃度6 ppm以上の高濃度水銀群38名と対照群36名と を調査した結果,高濃度水銀群で異常もしくはそれが疑 わしい結果が得られている.
ここで注目されるのが,セレン含量の差異である(23). すなわち,フェロー諸島で利用される鯨肉は魚肉よりも メチル水銀含量が高く,セレン含量が低いので,セレン によるメチル水銀の解毒効果が低い可能性が考えられ る.セレン以外にもPCBや年齢,曝露パターンなど別 の要因も考えられる(7, 11)が,魚食由来のメチル水銀のリ スクを把握するためには,食事中のセレン化合物の特性 やメチル水銀の解毒作用を調べる必要がある.
ゼブラフィッシュ胚によるバイオアッセイ系 ゼブラフィッシュ胚へのメチル水銀(メチル水銀シス テイン)投与によって,濃度依存的に胚に水銀が蓄積さ れ,心臓・血管に発生異常が生じること,脳において NMDAレセプターを発現する細胞がアポトーシスを起 こしたことから,魚類胚はメチル水銀のヒト胎児影響の モデルとして有用である(図1).水俣病では,高濃度 のメチル水銀曝露によって,脳中枢における視覚領野,
感覚領野,聴覚領野,小脳顆粒細胞を構成するグルタ メートニューロンが主な標的細胞となり,細胞死が誘発 され,その結果,感覚障害が生じる(23, 24).メチル水銀
曝露によって,フォスフォリパーゼA2が活性化され て,アラキドン酸が生成されることが引き金となってグ ルタミン酸が遊離し,アポトーシスが誘導されると推定 される.そこで,メチル水銀の毒性発現とセレンによる 解毒効果を解析した.
胚の培養液にメチル水銀システインを添加する方法や 卵黄にメチル水銀システインを注入する方法を試み た(25).培養液からのメチル水銀曝露によって濃度依存 的に胚に水銀が蓄積され,発生異常が生じた.受精後2 日胚において,25 〜 100 ppbのメチル水銀曝露によっ て,心臓・血管系に異常が生じること,脳におけるグル タメートニューロンが減少することを観察した.人体で の胎児影響の最大無作用量はフェロー諸島の調査によっ て,母親の頭髪水銀濃度10 ppmである(2).血中水銀濃 度に換算すると40 ppb, 臍帯血水銀濃度はその2倍であ ることから,胎児影響のモデル実験として,水銀濃度 10 〜100 ppb程度で初期発生や神経への毒性を観察する 必要があることから,魚類胚の毒性の検出感度は優れて いる.培養液にメチル水銀と同時にセレン化合物を投与 すると,アポトーシスが阻害されることがわかった(25).
セレノネインによるメチル水銀の解毒作用
マグロ類の血液,肝臓,脾臓,心臓,血合筋などに は,5 ppmを超える高濃度のセレンが含まれる.そこ で,セレン (10 〜 40 ppm) を最も多く含むクロマグロ 血液を材料として,新規のセレン化合物の性状を明らか にした(26〜28).この化合物は,麦角 (ergot) 由来のチ オール化合物エルゴチオネイン (ergothioneine) のセレ ンアナログであることから,セレノネイン (seleno- neine, 2-selenyl- α, α, α-trimethyl-l-histidine) と命名し
図1■メチル水銀の毒性発現と解毒
脳ではメチル水銀曝露によってアラキドン酸が遊離してアポトー シスが生じるが,PUFAによってこれが抑制されると推定される.
ほかの細胞種ではメチル水銀の無機化がセレノネインによって促 進され,解毒される.
図2■セレノネインの化学構造
生体内では,セレノキソ型がヘムに配位して安定化していると推 定される.抽出や実験のためには,安定な酸化型二量体を用いる.
た(図2).組織の水抽出物をGPCカラムで分離し,溶 離したセレン化合物をICP質量分析計によって化学形態 別に分析することができる.マグロ類以外にもサバ類,
ブリ類などの回遊性魚に広く分布する(28) (図3).ヒト や鯨類の赤血球にもこの化合物が含まれていた.ウミガ メの報告例もある(29).ヘムに結合したセレノネインを メタノールで抽出し,濃縮して測定すると,ウシ肝臓,
ブタ心臓,ニワトリ肝臓など陸上動物にも微量であるが 含まれていた.
この化合物はイミダゾール環にセレノール基をもつ化 学構造を有しており,精製標品は安定な酸化型二量体で あった(26).生体内ではセレノキソ型がヘムと複合体を 形成しており,セレンを抽出しようとするとヘム複合体 が主成分として得られるため,セレノネインそのものを 精製することが困難であった.ヘム複合体は熱や溶媒に 対して非常に安定であり,水にもメタノールにも溶けな いヘムが複合体を形成することによって,溶媒に可溶性 となり,クロマトグラフィーでも解離しなかった.とこ ろが,システイン塩酸塩やグルタチオンで還元処理する と,ヘム複合体からセレノネインは遊離し,空気で酸化 されて二量体が形成されようやく単離が可能になった.
このことから,セレノネインはヘムを可溶化するととも に,ヘム鉄の酸化防止のために,生体内で作用すると予 想される.さらに,ヘム複合体の構造解析によって,抗 酸化剤としての作用を解明する必要がある.
精製したセレノネイン二量体は,培養細胞や魚類胚に 投与しても細胞毒性が認められない.細胞内に取り込ま れた二量体はグルタチオンによって還元されることか ら,細胞内の還元条件下で単量体に解離すると推定され る.従来,医薬品やサプリメント剤に用いられる亜セレ ン酸やセレノメチオニンなどのセレン化合物は,いずれ も毒性が強い(30).ヒ素化合物のアルセノベタインは無 毒であるが,これと同様にセレン含有のベタイン化合物 図3■魚類筋肉のセレノネイン含量
左図:HPLC-ICP-MSによるセレノネインの分析.矢印はセレノネインの溶出を示す.右図:筋肉での総セレンおよびセレノネイン含量.
マグロ類,カジキ類,ハクジラ類など高次捕食者にセレノネインは多い.セレノネインは食物連鎖過程で生物濃縮されるとともに,セレン タンパク質などほかのセレン源から生合成されると考えられる.
図4■ゼブラフィッシュ胚へのメチル水銀曝露による形態異常 とセレノネイン投与による形態異常の抑制
アポトーシス細胞を抗活性化カスパーゼ-3抗体で紫色に染色した
(矢印).メチル水銀の単独の曝露(一番下のパネル)では膜ひれ が崩壊し,心臓部でもアポトーシスが生じた.一方,メチル水銀 とセレノネインの同時投与(下から2番目のパネル)では異常は 生じず,残存した水銀の大部分は無機水銀に変化していた.
であるセレノネインは無毒である.セレン欠乏の治療や 研究にセレノネインが応用されれば,魚食由来のセレン の生理作用を正確に推定し,健康機能性を実証すること ができるだろう.
ゼブラフィッシュ胚を用いて,セレノネイン二量体を メチル水銀システインと同時にゼブラフィッシュ胚に投 与して培養すると,メチル水銀によるアポトーシスの誘 導が抑制され,胚におけるメチル水銀の蓄積が低下し,
胚体内に取り込まれたメチル水銀の一部が無機化し た(31) (図4).このことから,Gantherら(6)がツナ缶肉で 報告したメチル水銀の解毒作用は,セレノネインがメチ ル水銀に結合して,水銀を細胞外・体外に排出するメカ ニズムによると考えられた.
セレノネイントランスポーター
セレノネインとその付加体の細胞内外の移行は特異的 なトランスポーターを介している(32, 33).エルゴチオネ イントランスポーターとして知られている有機カチオン カルニチントランスポーター (organic cation/carnitine transporter 1, OCTN1) が同定された.ヒト腎臓由来 HEK293細胞にOCTN1発現ベクターを導入し,OCTN1 を強制発現させることによって,セレノネインが細胞内 に取り込まれた.また,ゼブラフィッシュ胚にはセレノ ネインは培地から30分間で取り込まれるが,アンチセ ンスモルフォリノオリゴによるOCTN1の翻訳阻害に
よってOCTN1の発現が抑制され,セレノネインの取り 込み能が減少した.生体内に取り込まれたセレノネイン は,レドックス回路を強化し,ラジカルスカベンジャー として活性酸素種 (ROS) の発生を抑制するとともに,
メチル水銀の解毒にも作用する.
セレノネインによるメチル水銀の解毒機構について も,魚類胚でのOCTN1の関与を調べた.OCTN1の翻 訳阻害の条件ではメチル水銀曝露によって,胚における 水銀含量が増大し,無機水銀の生成が抑制された(31). また,受精卵の卵黄嚢にメチル水銀を注入する曝露方法 では,水銀は速やかに胚体の外に排出され,メチル水銀 は胚に蓄積しなかったが,OCTN1の翻訳阻害の条件で は,胚体にメチル水銀が蓄積し,水銀排出は抑制された
(図5).また,このメチル水銀の減少と無機化は,V型 ATPアーゼ阻害剤バフィロマイシンA1によるリソゾー ム形成阻害によって,抑制され,胚内にメチル水銀が過 剰に蓄積した.ストレスリン酸化シグナルを担うJNキ ナーゼの阻害剤によってもメチル水銀の減少と無機化が 阻害された(25).これらのことから,メチル水銀曝露に よって,ストレスリン酸化シグナルが引き金となり,メ チル水銀を排出するための分泌顆粒エクソソームが形成 される分子機序がわかった.このような分泌顆粒は,10 万Gの超遠心分離で回収できる.リソゾーム酵素のカテ プシンL,トリプシン様酵素などを含んでいたことか ら,リソゾーム由来の分泌顆粒であると推定された.さ らに,OCTN1遺伝子を導入したヒト腎臓由来HEK293
図5■OCTN1翻訳阻害試験 セレノネイントランスポーターの機 能阻害および過剰発現の試験によっ て,セレノネインによるメチル水銀 の解毒作用へのOCTN1の関与を明ら かにした.左図:受精卵(12時間胚)
の卵黄嚢にメチル水銀を注入したの ち,12時間培養後,各個体の水銀含 量を測定した.対照区ではメチル水 銀の蓄積が抑制され,無機水銀が生 成されたが,OCTN1の翻訳阻害に よ っ て,メ チ ル 水 銀 が 蓄 積 し た.
OCTN1の過剰発現によって,メチル 水銀の蓄積が抑制され,無機化が促 進された.右図:メチル水銀の投与 によって卵殻内に顆粒が出現した.
細胞株でも,胚と同様に,セレノネインとメチル水銀の 同時投与によって,メチル水銀の細胞への取り込みが抑 制され,メチル水銀の一部が無機化された.
セレンの化学形態が異なる亜セレン酸についてもメチ ル水銀の解毒効果を調べた.セレノネインは毒性が低い のに対して,亜セレン酸は毒性が強いので,投与量が限 定された.亜セレン酸 (0.1
μ
M) の投与によってメチル 水銀の解毒が生じたが, OCTN1の翻訳阻害によって,亜セレン酸によるメチル水銀の解毒効果が失われた.さ らに,メチル水銀存在下での亜セレン酸濃度0.1
μ
M以 上の濃度条件では,亜セレン酸によってROSが過剰に 発生するため毒性が生じ,胚は死滅した.亜セレン酸の 投与によって生体内のグルタチオンが利用され消耗する と考えられる.妊娠マウスへの投与試験でもメチル水銀 の投与時に亜セレン酸を強化すると口蓋裂の発生が増加 することが報告されている(34).これまでよく研究され てきた亜セレン酸ではメチル水銀の解毒効果は不十分で あるので,短時間では,亜セレン酸は魚食由来セレノネ インの代わりにはならない.メチル水銀の解毒作用を発 現するためには,代謝経路は不明であるが,亜セレン酸 やセレンタンパク質などほかのセレン源からセレノネイ ンが生合成され,蓄積されるのを待つ必要があると考え られる.このことから,生体内に取り込まれたメチル水銀はセ レノネインと結合してセレン/水銀のモル比1の複合体 が生成され,OCTN1を介して,小胞体に取り込まれた 後,酵素的な無機化が生じるとともに,エクソソーム分 泌顆粒を形成してメチル水銀は細胞外・体外へ排出され
る解毒経路が推定された(31) (図6).生体では,血しょ う中に無機水銀が存在する.セレノネインによる解毒機 構によって細胞外へ分泌された無機水銀は血液を介し て,尿として排泄されると考えられる.また,哺乳類の 血しょうや尿から検出されるセレノシュガー(35)はラジ カルなどの解毒産物として生成されたセレン代謝物であ ると考えられる.
魚類および哺乳類でのセレノネインの蓄積と分布を調 べた結果,セレノネインは赤血球に多く含まれ,血しょ うにはほとんど含まれなかった(36).ヒトの血液でも,
赤血球画分の主要なセレン化合物として,存在してい た(37).鹿児島県離島での住民検診では赤血球の総セレ ン含量平均値0.549
μ
g Se/g(最大値2.4μ
g Se/g, 最小値 0.022μ
g Se/g),セレノネイン含量平均値0.376μ
g Se/g であった.また,未同定のセレンタンパク質も赤血球に 検出された.以前の日本人の報告例(38)と比べ赤血球セ レン含量は2倍以上高いレベルにある.魚食の頻度の高 い場合に,赤血球セレノネイン含量が高いことから,セ レノネインは魚介類中心の食事によって,OCTN1を介 して生体内に取り込まれ,とくに赤血球に濃縮して蓄積 すると考えられた.赤血球セレノネイン含量と水銀含量 との間に正の相関関係が見られ,セレノネインは赤血球 におけるメチル水銀の代謝・蓄積と関係することから,メチル水銀はセレノネインを介して赤血球やほかの臓器 に輸送される可能性が考えられる.このとき,赤血球の セレノネイン/水銀モル比は約15倍であった.セレノ ネイン過剰な生理状態であり,メチル水銀の解毒効果だ けでなく,がんや糖尿病など生活習慣病の予防効果が期 図6■セレンによるメチル水銀の解 毒機構分子メカニズム
メチル水銀は細胞内に取り込まれる とセレノネインと複合体を形成し,
エンドソーム膜に取り込まれ,エク ソソーム顆粒として分泌される.こ のとき,メチル水銀の無機化が生じ る.エクソソーム顆粒はメチル水銀 曝露による酸化ストレス条件で活性 化されたセラミド刺激によって促進 されるが,メチル水銀やセラミドを 排出できないとアポトーシスが誘導 さ れ る.筋 肉 の 場 合 は,ミ オ シ ン SH1チオール基にメチル水銀は配位 し細胞内にとどまる.ミオシンの分 解系によって細胞外に排出される.
待できる.魚食由来のセレノネインは日本人の健康に深 くかかわっている.
このようなセレノネイン過剰な条件では,メチル水銀 は積極的にエクソソームとして分泌され,無機化され,
セレン化水銀が生成され,さらに長期のメチル水銀曝露 によって蓄積したセレン化水銀顆粒が金属粒子に成長す ることが推定される.その結果,海産哺乳類で観察され るように(39),肝臓や腎臓,血しょうなどの組織で細胞 外に分泌された無機水銀が検出されることが考えられ た.一方,水俣病のメチル水銀中毒が生じた事例では,
メチル水銀過剰でセレン欠乏となる酸化ストレス条件と なり,感受性の高い神経系の細胞でアポトーシスが生じ ることが考えられた(図7).
セレノネインの生理活性
セレノネインは,ラジカルスカベンジャーとして ROSの消去能を有し,セレン‒レドックス機能を向上さ せる作用機序が推定されることから,酸化障害や炎症に よって促進されるメタボリックシンドローム,がん,糖 尿病,心臓病などの生活習慣病やエイジングに対する予 防効果をセレノネインがもつと推定される(図8).
培養細胞系のバイオアッセイでは,セレノネインは強 い生体抗酸化作用を示した.臍帯由来血管内皮細胞
(HUVEC) では過酸化水素添加による酸化ストレス条件 でアポトーシスが抑制され,細胞増殖が進行した.赤血
球へのセレノネインの取り込みによって,ヘモグロビン のメト化が抑制され,ROS含量が低下した.ブリ活魚 へのセレノネインの血中投与によって,死後貯蔵中の血 合筋でのROSの生成が抑制され,ミオグロビンのメト 化が抑制された(40).
ブリやゼブラフィッシュ由来の培養細胞に対して細胞 増殖を促進した.早老症の一種アタキシア・テランジェ クタシア (AT) 症のヒト由来細胞でも,細胞増殖が促 進された点が興味深い(27).この細胞はDNA損傷修復機 構の最上流シグナルを担うATMキナーゼを遺伝的に欠 失しているが,セレノネイン投与によって細胞増殖が促 進されたことから,セレノネインはATMキナーゼのシ グナル経路を介さず,細胞増殖を促すDNA損傷修復作 用を有していることがわかった.ATMキナーゼの基質 であり,DNA損傷修復のシグナル分子であるがん抑制 遺伝子p53の転写調節や分子シャペロンCDC48の分泌 や膜輸送作用をセレノネインが促進する可能性が考えら れる.
セレノネイン投与によって,培養細胞におけるグルタ チオンペルオキシダーゼGPx1およびGPx4の発現が誘 導 さ れ た.ヒ ト 培 養 細 胞 で は 遺 伝 子 発 現 は,
DNA損傷によってp53による転写が促進されることが 報告されている(41)が,セレノネインは 遺伝子の 発現を調節する重要な分子である.ルシフェラーゼアッ セイによって,微量なセレノネイン濃度 (10 pM 〜 10 nM) でゼブラフィッシュ 遺伝子の発現が誘導さ
図7■セレノネインの生体抗酸化作 用
セレノネインはラジカル消去活性を 有することから,エネルギー産生反 応に伴うヒドロキシラジカル生成を 抑制し,ラジカルの連鎖反応を停止 する.セレノネインによってGPx1お よびGPx4が誘導されるので,過酸化 水素やヒドロキシペルオキシドの消 去を促進する.このように,魚食に よるセレノネイン摂取は,炎症や生 活習慣病を予防に寄与することが予 想される.
れることから,セレノネインによる抗酸化の分子機構に 迫るための手がかりが得られた.今後は,ICP-MSによ る機器分析では測定できない超微量のセレンをバイオ アッセイで測定する必要がある.
OCTN1は,クローン病や遺伝性大腸炎の原因遺伝子
である(32, 33).セレノネインに特異的なトランスポー
ターであることから,セレン代謝やメチル水銀の解毒に OCTN1を介する遺伝的メカニズムが関与することが,
健康面からも明らかとなるだろう.
セレンはがんに対する予防効果あることが米国での疫 学調査で明らかにされている(30, 42).発酵食品,魚介類,
お茶など日本型食生活にはがんの予防効果があることが 予想される(43).スーパーサプリメンテーションと呼ば
れ,欠乏症が生じず,GPxなどセレンタンパク質の発現 が十分満たされたセレンを必要量以上摂取した過剰な条 件で,がん予防効果が生じることが知られている(44). これまで,セレン代謝物のなかに,がん抑制作用がある 抗酸化能の強い低分子セレン化合物の存在が示唆されて いた(44).したがって,セレノネインは,単なるセレン の二次代謝物ではなく,セレンの生体抗酸化作用を担う 活性型分子であると考えられる.前述のように,亜セレ ン酸はグルタチオンを消費しROSを発生する(9)が,セ レノネインはROSを消去することができる優れたセレ ン化合物である.セレノネインは転写調節に必要なピコ モルからメチル水銀解毒やヘムの抗酸化に作用するミリ モルのオーダーまで,幅広い生理活性を有している(図 図8■メチル水銀の蓄積と毒性の作 用メカニズム
魚介類からメチル水銀を結合したミ オシンなどタンパク質を摂取するこ とによって,タンパク質は消化吸収 される.メチル水銀が付加したチ オール基やセレノネインは,とくに 赤血球を介して,体内を輸送される.
脳や骨格筋,心臓などに蓄積される とともに,肝臓や腎臓で無機化され てセレン化水銀が生成し,解毒され る.もし,各組織でセレノネインが 欠乏すると無機化が抑制され,スト レス感受性の高い細胞でストレス誘 導性アポトーシスが生じる.
図9■セレノネインの生体抗酸化作 用
魚食によって細胞内に取り込まれた セレノネインは,ラジカル消去活性 を有しており,生体抗酸化作用を発 揮する.細胞内に発生したラジカル を捕捉し,細胞外・体外へ分泌顆粒 を介して排出する.セレノネインは セレンタンパク質の生合成過程にお いてセレン源として利用される.亜 セレン酸やセレンタンパク質の分解 物からもセレノネイン生合成される.
9).このように,セレノネインの作用として,①ラジカ ル生成の防止,②捕捉したラジカル・メチル水銀のエク ソソームを介する分泌,③ヘム鉄の自動酸化防止,④チ オール基の化学修飾,⑤セレンタンパク質遺伝子の転 写・翻訳調節,⑥レドックス状態のシグナル,などが推 定され,生体抗酸化と解毒を担うと考えられる.このよ うに,セレノネインは,メチル水銀の解毒だけでなく,
海洋生物では低酸素や深海環境,飢餓,高水温への適 応,陸上動物では低酸素や高地への適応,過酸化物の解 毒などへの関与が考えられる.
ベネフィットを考慮したメチル水銀のリスク管理 魚肉に含まれるメチル水銀のリスク分析は,国際的に 大きな課題であり,わが国でも食事制限に関するガイド ラインが食品安全委員会によるリスク評価に基づいて作 成された.ハイリスクグループは,胎児であり,妊婦に 対するメチル水銀摂取の週間耐容摂取量 (PTWI) は,
体重1 kg当たり,2.0
μ
gである(2).このリスク評価は,国際的なリスク評価に対応しており,セイシェル諸島,
フェロー諸島などにおける疫学研究の結果を踏まえたも のである.厚生労働省の調査では,日本人の水銀の摂取 量は,2003年において,8.1
μ
g/人/日(体重50 kgで1.1μ
g/kg体重/週)であり,このうちの84%が魚介類から 摂取したものであると見積もられている(2).欧米では,メチル水銀の規制値が設定されている.妊 婦の摂食指導もわが国と同様に行われているが,メチル 水銀の有害性を強調した食事指導によって,魚食を控え る傾向から,魚介類の摂食量が低下し,魚介類を摂食し ないことによる高度不飽和脂肪酸 (PUFA) の不足が懸 念されている(42).PUFAは小児の脳や心臓血管系の発 達に必須の脂肪酸であり,魚介類に特徴的に含まれてい るが,陸上動物や植物由来の脂肪酸とは側鎖の二重結合 が異なっている.魚を全く食べない集団では,乳児の心 臓病死のリスクが増加し,IQが5ポイント低下すること から,魚食由来のPUFAの摂取を考慮するためのリス ク評価法の研究が進められている(45).どのようにした ら,魚食の安全性と栄養的な必須性の根拠を証明できる のか.
最近,FAO/WHO専門家会議によって魚食の有害化 学物質のリスク−ベネフィット評価がなされ,PUFAの 欠乏による小児の知能低下および心臓死のリスクは,メ チル水銀の摂食による神経障害およびダイオキシンによ る発がんのリスクをはるかに上回ることから,メチル水 銀のリスクによる摂食制限は不要であるとの結論を得
た(45).魚食を止めることによる知能低下は,魚食によ るメチル水銀摂取による知能発達に対する有害影響より もはるかに大きいこと,魚食を止めることによる心臓病 死のリスクはダイオキシン類の摂取によるがんの死亡の リスクよりも大きいことが推定された.このリスク評価 は,メチル水銀やダイオキシン類の胎児影響は微弱であ り,致死的ではないので,これらの摂取を規制する必要 はなく,むしろ積極的にPUFAを摂取するために魚食 を推奨することを意味している.ただし,このようなリ スク評価では,メチル水銀やダイオキシン類の毒性の作 用機序に対して,セレンやPUFAが直接的に作用して,
毒性を軽減している機序は知見が足りず考慮できていな いので,食事由来の有害化学物質の毒性を過大に評価し ている可能性が考えられる.これらの有害化学物質の毒 性・生物影響と機能性成分による毒性軽減作用および健 康増進効果に関する科学的知見を充実し,リスクとベネ フィットを相互に評価する手法を確立する必要がある.
いろいろな魚種の筋肉中のセレンと水銀の含量を調べ ると総セレン含量と総水銀含量との間に正の相関関係が 得られ,魚肉の水銀蓄積にセレンが関与していた(36). 実験に用いた魚肉のデータでは,セレン/水銀のモル比 の平均は4.9倍である.魚肉ではほとんどがメチル水銀 であるが,クロカジキ肉は例外的に無機水銀を多く含ん でおり,解毒産物と考えられるセレン化水銀が蓄積して いる(5).一方,ハクジラ類の筋肉ではセレン/水銀モル 比が0.67であり,メチル水銀とともに無機態のセレン化 水銀の両方が蓄積している(46).このように,メチル水 銀とセレンの分布と蓄積の違いは,鯨類と魚類では,メ チル水銀の蓄積能とセレンによる解毒機構の働きが異な ることを示唆している.このことから,日本人のメチル 水銀曝露に対するリスクを考えるうえで,水産物に含ま れるメチル水銀の蓄積とその存在形態,セレン化合物の 組成と含量を調べる必要がある.すなわち,セレノネイ ン‒メチル水銀複合体が形成されて,メチル水銀は解毒 されることから,セレノネイン/メチル水銀のモル比が 1以上であることが必要であり,セレン源が異なればセ レノネインが生合成されるので,さらに高いセレン量が 必要であると考えられる.このことから,食事中のセレ ノネイン含量がリスクを大きく左右すると考えられる.
メチル水銀含量が比較的高いハクジラ類の肉や内臓,魚 肉,それらの加工品を材料として,動物投与試験やヒト での摂食試験によって,摂取したメチル水銀が正常に解 毒され毒性が生じない食事内容を明らかにし,セレン/
水銀モル比の意義を検証する必要がある.
フェロー諸島で見られた胎児影響がハクジラ類の摂食
によることが明らかにされれば,セレン含量が低く解毒 能の低いハクジラ類肉などの食品は,海産魚介類と区別 してリスク管理することが望ましい.セレノネインはラ ジカルスカベンジャーとして酸化ストレス条件で利用さ れ消耗すると考えられることから,生理状態や栄養状 態,セレン代謝に関する遺伝的背景によって,メチル水 銀に対するリスクが変化する可能性が考えられる.日本 人の水銀曝露調査では,胎児影響の最大無作用量の毛髪 水銀濃度11 ppmを超える15 〜 49歳の女性の割合は調 査対象者のうちの0.1%であった(17, 21).このことから,
日本人女性のうち2 〜3万人が高いメチル水銀曝露レベ ルにあると推定される.妊娠・出産時の血液・臍帯血を 用いて,赤血球メチル水銀,セレノネイン,セレンタン パク質,メチル水銀の解毒物の無機水銀などを直接測定 することによって,メチル水銀曝露に対する毒性が発現 し,酸化ストレス条件になっているのか,それとも PUFAやセレンによるメチル水銀の毒性軽減と健康増 進の作用が十分強いのか,血液のバイオマーカーやシグ ナル伝達を生化学的に分析することによってメチル水銀 のリスク管理を向上させることが可能になる.
おわりに
食品に由来するメチル水銀の毒性を評価するために は,PUFAやセレンなどの食品成分の毒性軽減効果を考 慮したリスク評価法が必要である.公害や農薬による人 工的な汚染の事例と通常の魚食とを区別できず,世界的 に矛盾したまま,魚介類の摂食が規制されている.ま た,最長寿国の理由が,魚食によるがんや糖尿病,心臓 病など予防効果にあることを解明する必要がある.メチ ル水銀による公害を経験した日本は,水銀・セレン研究 のイニシアチブをとらねばならない.
謝辞:本研究は,農水省レギュラトリーサイエンス新技術開発事業に よって行われた.
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