第99回九州藝術学会
発表要旨集
【研究発表1】
1920 年代大連における東洋趣味の表現―大連勧業博覧会の中国美術展示をめぐって 郭懿萱(九州大学)
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1925 年、日本最初の植民地博覧会として、日本の租借地であった大連市において大連勧 業博覧会が華々しく開催されている。本発表は、同博覧会で行われた美術展のうち「古代 美術」、「中華現代画家」、「工芸美術」各部に出品された「中国」美術に注目し、そこに見 られた日本の東洋趣味について考察し、満州での美術活動が近代の日中美術交流において どのような位置を占めるのかを明らかにしたい。
大連勧業博覧会の主催者は、ほぼ大連在住の日本の経済人、弁護士や満鉄(南満洲鉄道)
社員、ジャーナリストといった日本人新興層であった。日本の、大陸進出の拠点となった 大連に移住した彼らは、多くの中国古美術を収集し、同博覧会の「古代美術」部門に蒐集 品を出品した。本発表では、現在、各地の美術館に収蔵されている大連ゆかりの美術品を 検証し、その収集傾向を考察、1920 年代の大連が日本人の東洋趣味の揺籃の地の一つであ ったことを指摘する。
次に、近代日中美術の展開において、東洋趣味にあふれた同博覧会が果たした役割を考 察する。書画については、当時のスローガンであった「日華共存共栄論」の具体化を計る ため、博覧会の主催者が、1920 年代に日中の各都市で行われていた日華連合絵画展の中国 側主催者で、伝統的な画風の団体であった中国画学研究会を「中華現代画家の部」に招待 した。20 世紀初頭、社会の変化と西洋近代美術の影響を受け、近代中国の伝統画派にとっ ては、新たな市場を開拓することが急務であった。大連勧業博覧会とその 4 年後に大連に 巡回した第 5 回日華連合絵画展を見れば、東洋趣味を好んだ大連の新興層が、伝統的な画 家にとって新たな観衆であり、買い手となったことが分かる。
さらに、東洋趣味は、書画だけでなく、工芸美術にも見られる。小森忍(1889-1962)を 審査員とした「工芸美術の部」の出品作品の多くは中国古陶磁の模作である。このことは、
当時の日本政府が、殖産興業を目的に中国美術を競って集め、満州を中国古陶磁の模倣作 を製作する実験地としたことを反映するものである。また、同博覧会は「日華共存共栄」
を標榜するものの、日本の統治がもたらした産業と教育、文化の発展を強調するため、そ の内実は、日華を差異化した上で、日本の優位性を演出する傾向を持っていた。こうした 傾向は、「工芸美術の部」だけでなく、日本人の現代絵画を展示した「東洋画の部」「西洋 画の部」にもうかがえる。そこでは、伝統墨守の中国人の絵画と対照的に新しいスタイル の日本の絵画が展示されたのである。そのように、博覧会における日本の東洋趣味は、日 本の優位性のうえに成立するものであったと考えられる。
以上、本発表では、大連勧業博覧会が、大連の新たな日本人支配層の間に流行していた 東洋趣味と密接に関わるものであったことを明らかにするとともに、こうした東洋趣味も 単純な中国美術愛好ではなく、日中間の差異化と日本の優位性を示す役割を果たしたと結 論付ける。
【研究発表 2】
豊前・曼陀羅寺の当麻曼荼羅―証空との関わりを中心に―
中川満帆(九州大学)
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西山浄土宗寺院・曼陀羅寺(福岡県京都郡みやこ町)に伝来する当麻曼荼羅(以下、本 作または曼陀羅寺本)は、その制作が中世に遡る浄土教絵画の優品としてよく知られてい る。しかしながら、本作に特化した論攷は未だ無く、当麻曼荼羅に関する先行研究の総括 的意味ももっていた「特別展當麻寺」(平成 25 年、於奈良国立博物館)においても本作は 紹介されていない。加えて、従来南北朝時代とされてきた制作年代にも再考の余地がある。
そこで本発表では、曼陀羅寺本を図像と様式から分析し、その制作年代が鎌倉時代前期ま で遡りうることを明らかにするとともに、中世以降盛んに制作された当麻曼荼羅の作例群 中に位置付けることを目的とする。
まずは本作の図像的特徴を確認する。画面中央の大区画には阿弥陀三尊を中心とした西 方極楽浄土の荘厳たる景観が描かれ、その右辺には王舎城悲劇譚、左辺には十三段階から なる浄土の観相方法、そして下辺には生前の行いに応じた九種類の往生のあり方が示され ており、この構成の大枠は当麻寺所蔵の綴織当麻曼荼羅(以下、根本曼荼羅)をはじめと する一般的な当麻曼荼羅と等しい。だが、下辺部に描かれている来迎阿弥陀と聖衆らには 違いも認められ、根本曼荼羅が坐像であるのに対し、本作では立像にあらわされる。これ は西山上人証空(1177-1247)が考案した図像とされており、本作もこの証空系統に属する ことがわかる。
続いて本作の様式を分析すると、肥痩のない描線とその自在な使い分け、緻密な截金、
一尊ごとの描き分けや動静豊かな群像表現、的確な奥行きの把握等、といった鎌倉仏画の 特徴的な表現と、紺丹緑紫の配色や繧繝彩色、文様帯に輪郭を朱線とする表現を採用する といった平安仏画的要素が共存していることが指摘でき、制作年代は鎌倉時代も初期に遡 ると考えられる。また、本作の優れた出来栄えは当該期の作例の中でも際立っており、制 作地は畿内であるとみてよい。
曼陀羅寺本の伝来については、元亀 3 年(1572)の同寺開創にあたって西山浄土宗総本 山の京都・光明寺からもたらされたという記録が遺るが、これは本作の制作地を畿内とみ る発表者の見解とも矛盾しない。さらに光明寺は証空が第四世(1238-1247 頃)を務めたと されており、本作の制作に証空ないしその周辺が関与したことも想定できる。
当麻曼荼羅の図像は、証空が縮約本の製作を含む模写事業を進めたことにより全国に広 く普及したが、九品往生部分の図像を根本曼荼羅とは異なるものに改変した事情について は現在も解明されていない。この問題の解明には、証空一派の規範としてきた来迎図を中 心に鎌倉時代初期の来迎図の図像を整理し、その内容を総合的に検証してゆく作業が必要 である。曼陀羅寺本はその制作が証空在世時に遡る可能性がある現存唯一の当麻曼荼羅で あり、こうした問題を明らかにしうる重要な鍵となる作例と評価できるのではないだろう か。