続三春駒勇教欝と「子どものための学絞」づく駅下) ﹇ 酢3
続・三春町の教育と「子どものための学校」づくり(下)
森田 道雄
奉稿は,(上〉を承けて,麗年度での趨藤岩江小 学校長の講話と,同校職員への聞き取穆の結果を 採録した。また,大学院「実践醗究」での活動を ふまえた「子どものための学校感づく瞬にかかわ る解説を換えた。もとよ拳,これまでの一連の調 査欝究の十分な分析・総猛というものではなく,
それは後嚢を難したいと思う。文献で三春露以外 のオープンスペース教育をみるなかで,オープン スペース教育というものは,単なる施設活縣の教 育というものではない。学習旛導の革新であ拳,
学校経営の改革でもあり,教育観・子ども観の転 換であるということがはっきりしてきた。本格的 な藩究が求められているようである。
i 岩江小学校加藤恭二校長講藷
本校は割合新しい学校で,畷秘鍵隼£できまし た。今のオープンスペースの形になったのが,紹 秘6春年の3月25蕎です。実際碁ここのような形にす
るということでは,篶単になったのではないそう で,こういう教室になったらどうなるかというこ とが,だいぶ先生方の中でいろいろな意見が鐵て,
今のような形になりました。瞬治鉄案侮ナ年か箱 形の教室ということでやってきましたから,こう
いう形になると,どういうことになるかというこ とは皆慧見当がつきません。いくぶんかアメ婆力 でこのようにやっているという鋳報は三春疑の教 育委員会にも入っていました。子どもが学習の主 体者であり,学校生活の童体養であることから,
どのような学校方書一番よいカ》というこ二とを基本毒こ おいて話し合いをしてきました。しかし,それだ けいろいろ先生方の意見とか教畜委員会の議し合 いがあったためか,その後この学校の運営は,離 合うまく雛っていると思います。先生方の中にも 来た当鋳は繕となく漠然としていてとらえどころ がないというところもあ塗,それは今でもあ彗ま すが,だんだんこの学校の罠さがわかってきてそ の中でやっていけるようになってきています。な
かには最密の逡想がだんだん薄れてしまうという ことがありますが,ここでは継続的に実践してい ますから,そういうこと1まあ歩ません.
オープンスペースですから,授業中に飽のもう 一人の先生と旗を合わせてやるわけです。今まで
は授業の中で自分のや蓼たいことを白麹にできた というか,密室的なものがあ拳ました。しかし,
この学校では金離ゼ聡いて」いますので,場漸に よっては授業すべてを一望にすることさえできま す。このようなことからもオープンスペースの良 さで言えば,まず子どもの行動籔麗が広くなると いうこと,活動的になるということが醤 えてくる
と思います。今までの学校教育では,「画一化」と いう言葉で言われてきたようにうみな織じ規格の 中に子どもをおさめて育ててきました。そういう ことから考えても,かなり広魏活動のスペースが あるので,多様な活動を緩み込んでいくことがで きます。そうすると,学習の主体者である子ども たちが,襲分の学習だということで授業に傷んで
くるようになつ,このことが一番褒いことだと思 っています。
特に今年護から「生活科」が齪てきたとき1こ,
子どもたちがかな今のスペースの中で自分のゼ思 い藩を実現する活動ができます。今までの学校に 麗き換えますと活動スペースが教室で鍔れてしま います。窓や魔下が教室だけの活動に鰹約するこ とになってしまいます。そのために,最選では各 学校で多目的ホールということで学習空穂を設け ているわけですけれども,この施設は子どもたち にいろんな体験をさせようということ力量一つのね らいになっています。つまり,普通の学校では教 室とか,特選教室とか,体育館で成参堂っていま したが,その中に「多数的ホール」が入ってくる ようになりました。ところで,この学校の場合擁 めあった多§的ホールは,今は「学習センター」
になっています。なぜそうなのかというと,多欝 的ホールの機能はオープンスペースで十分間1こ合
7§ 福島大学教育実践醗究紀要第24弩
うからです。そこはホールほどではないにしても 非常1こ効率的で,多霞的ホールを兼ねるようない
ろんな活動ができるのです。ですから奉校の野学 習センター」では,茎茶的な麟書,事輿・辞典類 や各学年共選の教粧,パソコンが入っています。
どの学年でも使えるという意味で,共選のものを 置いているということと,校舎の真ん中にあると いうのでどの教室からも行けるという無点があむ ます。子どもたちの主体的な学習を助けるという 意味での「学習センター雛になっています。
建梅に関しては.子どもの活動を第一に考えて います。一年生の教室の横にあるあなぐら二「デ ン」は幼稚圏から来た子どもたちが,心建的なや すらぎの中で楽しく学習できるようにということ で置いてありますが,子どもたちは大変これを気 に入っています。また,教室や学年闘の仕窮は使 っていません。うるさくないかという問題は,カ ーペットのおかげで,物運的な音(イスのガタガ タという音など〉はほとんどありません。人聞の 声も畷鞭されます。天1井も本秘なので音を畷叙し
ます.集中力の方は,先生が大きい声で話すと購 の教室まで麗こえてしまうので,子どもに小さい 声で話して,聞こうとする態度を育てるようにし ています。それには,一人一人の子どもに通じる ような聞魏かけが必要です。先生が大きな声を超 すのはド教え込もう」とするときが多いんですね。
子ども慧聞き難雛と体を繭に鐵しますし,声が大 きすぎるよ箏も揮え気味の方が聞く態度ができて いくものです。今までの密鷺された教室と薩じく らいの集中力がもてることは確かです。
濤課は鮪分単位で組むようになっています。学 綴によっては蕊分でも纏めます。午蕩2プ謄ック,
午後玉ブ召ック,で蒔程が纏まれています。低学 年の場合はiブロックを二つに分けて授業を行う
ことが多くなむます。また「鱒分授業でもつのか」
という質問がありますが,子どもと一緒に計嚢を 立てるようにしてい家す。一人学び,話し合い,
発表など子どもと共に暗闘を緩み込み,学習の進 み方を作っていきます。趨来ないときは先生が中 に人蔘ますが,自分の責任で9奪分をやっていくん だという意識のもとに学習を進めています。
学力を高めるということについても,いろいろ 知識を身につけることだと思われがちですが,生 きて饑く力,馨分で勉強したことが役に立つとい うのはただ先生から奮われるものが頭紅あっても
i曾93−ii
襲いこなせないというのでは,本物の力1こはな警 ません。講行錯誤をしながら失敵した参して身に つけていくものです。こういうゆとりが露分授業 だと取参にくい面があ拳ます。子どもが自分でこ ういうことがしたいと言ったときに,それをする だけの蒔闘が確保できなくな参ます。特身こ作業が はいると難しくなります。すると,子どもの意欲 が高まったところで授業が終わってしまうので,
子どもたちが羅標を達成するためと,学習意欲の ために,時簡が必要なのです。これは理科や襲工 だけでなくほかの授業でも言えることです。
チャイムが騰らないということは,子どもたち に窓発煙や自主性を持たせるためです。抹み鋳問 で蒔賜を忘れて遊ぶのが子どもなんですが,おお ぜいいると彎入か蒔聞に気がつく子がいて,露然 に蒔聞を守れるようになってきます。だから特に 不露出な嚢はありません。また授業がブOック纒 にしてあるのは,T、丁業協力教授の関係で二人の 先生で2学級教えることになるときのためです。
特に,興味・関心という懇で学碧を進める場合,
子どもたちのなかから2つとか逢つの課題が串た りします。二人でいると,二つの学級を一緒にし て課題ごとに分かれて援跡するということができ ます。先生がそれぞれ分かれて教えると子どもに もそれだけ麟癒しやすくなるということです。勅 率的な藏もありますが,課題に接する瞬間も多く な滲ます。こういうことで子どもの援助に当たっ ています。ド援舞む」と1零うのは,「捲導」というの はなにか押しつけるようなところを感ずるからで す。また「教籾並という言葉も「振導」に対癒し ていますので,「学習材きという落葉を硬っていま す。子どもが学習する材料として,あくまでも子
ども灘にもっていくためです。そういうように言 葉も意識的に優っています。これは教麟の授業に 臨む態渡:でもあります。
春江小学校には教頭を含めて3人学級撞任でな い先生がいますが,この3人はいわゆる「専科コ ではなく,T.Tが進められるよう基本的には低・
中・高学年握当ということ1こしてあ蓼まして,授 業に参撫しています。教耕懸究では一人でやると いうことは少なく,二人ですることが多いようで す。三人でやることもあるわけです。これは,自 分の醤の屡かないところが二人三人でやることに よって見えてくるというメ夢ットがあ穆ます。教 樗醗究については確かに蒔閤を確保する上で大変
続・三春窮4)教奢と「子どものための学校」づくむ(下) 77
なところも」五直言ってあ蓼ます。家に持ち帰るこ ともあ馨ますが,この学校では先生たちが互いに 教えあったりして,藩究を深めています。
また本校では子どもが名札をつけていません が,最擁戸惑う先生もいます。子どもを名篇で覚 えることが大切なのではな1く,その子どもの内懸 を知るということが大燐だと考えているからで す。名麟を覚えると子どもを覚えた気になってし
まいますが,最近は女の子だと「子」がっかない 似たような名藩が多く,私なんかすぐわからなく なってしまいます。極講を言うと,「警年轄緩のだ れだれはどうだ」などと職員室の議題紅なるよう に,名札で子どもの悪騒ところを見てしまうとい うことにもな彗ます。ですから,子どもを異体的 に知ることが大切です。名札がないと,子ど麟こ 謡しかけて瞬係を持ち,接触を多くすることが必 要になってきますし,これが教育の基奉である箆 童理解にもつながります。
このことは教科や学校生活,子ども遅解全体の ベースにな穆,こういうものを楚握しておくこと によって,いろんなトラブルを未然に防ぐことも できますδ子どもだからノ罫さなことはi当然いろい ろありますが,悪いことに騒をつけるのでなく,
成長していく上で子ども一人ひとりの「よさ藩を 認めて子どもたちに接していく必要があ馨ます
し,ある輻をもってその中にい轟ば,あれこれ総 かいことで縛らないということでもあ鯵ます。そ ういう意味で,いじめでは人間関係が希薄になっ ていることが漂霞の一つと考えられます。私たち はややもすると神経質になってしまいますが,子 どもの気力をそがないように,見守ることも重要 です。けんかでも頭からやってだめだと窪めるだ けでは問題ですね。
私たちは試行錯誤を恐れないで,生徒指導翼だ けでなく体験的な活動を重観しそれを多く取合入 れてやっていますが,そうすると子どもは生き生
きとしてきます。特に,「生活科」ではこれを意識 的にやっています。これからはもっと,高学年で も子どもが露分でやっていると窮う意識を持つ場 面を多くとっていく必要があるでしょう。算数で
も数を使った実験ですし.露語などでは霞分の考 えをまとめさせるという場をと参,上手に書くと いうことではなく, とξこカンく§分で書くともΣうこ
とをさせる,書いてみさせるということが大切で
す。「書く」ということは大事なことですから,そ のために欝聞と場所を醍癒してやっています。書 いたものを少しでもj良かったところがあれ、ば鍾め てや参,手を挙げたかどうかというようなことで 子どもを轡慰してはいけないのです。新しい指導 要領でもε表現力を高める」ということが鐵てき ます。いろんな表麗があ瞬ますが,書くことが鐵 来ると魑うことはいいことなんですね。話すこと
にしろ,書くことにしろ積み重ねが大事です。
霧はよく授業参観で手をあげたかどうかなどと いうところで子どもを見ていますから,そうでは ないと私は蕎っているんです。またどうしたら子 どもは良くなるんですかという質聡も受けます が,子どもを「弓1き算」で舞1ない,一…つま拳こ どもをi(矯とするなら,あれ、ができない,これもで きな騒と点数を引いていくのではなく,これもで きた,あれもできたと灘算していくことが大燐で す.と答えています。
そういう意味でも,子ども一人ひと蓼の衰さを 生かしていくためにどうしたら良いかということ
は,まず「児童遷解」があげられますが,学習指 導要頷にも基礎・基本の重禰があって,懸盤を紳 ばす,懸盤を生かすということと自ら主体的に対 癒できるという項§がありますが,どういう関係 かということがあ琴ますね。その場合,弩雛牲」を 子どもの良さと考え,教育は鱗牲を檸ばすことな んだと。これは評懸につ魏ての改善でも,子ども の良い嚢を記録していくことに通ずるのです。以 蕪は,子どもの知識・鼓能を重観していましたが,
今新し秘考え方では子どもの意欲・興練・関心を 重讒してきましたので,難識の切撃発彗ではない ということです。攣懇的導こ醤っているかもしれま せんが,ある子どもが少しばか拳飽の子どもより も遅れていても,露分で取撃緩んでいくことがで きればラ簿識的なものは,これについてくるもの です。こういうことを加撃たいや参たいと子ども が意欲をもち興味をもつと,それを紡げる人がい れば学習は進むのです。
(記録協力・浅野亜貴美〉
淫一…この講護は鑓隼§力学譲教育学専修課程 2年生のために,岩波小学校を参緩したときにし ていただいたものである。撫藤氏は.オープン乾 した擁代校長野村裕子氏のあとを引き纏いで,繋 年婆月から鶴校に校長として勤務しておられる。
7魯 橿鳥大学教奮実践講究統要第腿骨
2 オープンスペースにおける授業に ついて
以下の記録は,春江小学校での授業参観の際の 懇懇,疑懇をもとに,織小教諭紀対して行った聞 き取穆講査の内容を要約したものである。霞時は 懇望隼㌶薄欝欝㈱ 欝鋳〜貿時 調査協力者は矢 澤武志教護(当蒔6年握任/と遠藤俊一教職 (i 年担錘/,インタどユアーは,森蟹と島秘宏,轟橋 純子(ともに大学醗学生/。二人はともに93年度若 江小学校から転鐵している。
島 授業を見せていただいて,下準簿がずいぶん 大変ではないかと思われました。一般的な形態の 学校での経験と比較してどうですか。
矢澤 授業の準講は学年やブロック(抵,中,高 学年の単位/で段取参をして始めます。教誘醗究 の段繕で教麟の間に違いが鐡てくる蒔もあ鯵ます が,得意教科であるとか,重点的に醗究している といったことで,どちらかの教麟が中心になって やることが多いです、どちらかの教麺が一つの案 を墨す,ということにしないと実鰹には進みませ ん。その案に対して,資料はどうするか,授業の 流れをどう作るか,という点でもう…人が協力し て進めます。実際1こやってみると,印麟一つにし ても,お互い分捺することで,いらない手間が省 けてきます。授業は墓奉射に一人でもできますが,
二人でやるいい面は,梅手の先生から一言でもあ ると,子どもに雄する見方が広がるところです。
また学習材をつくるにも,それを発展させる場合,
一人だと一つの方向に傾雛てしまいます。
遠藤 丁.T(ティーム・ティーチング〉を多くする ほど,§分の学綴の子ども,という見方から,一 つの学年という見方に変わってきます。授業の内 容についても,重点的な単元については資料をフ ァイルにとっておくことになっています。急に新 しい学隼を持った時にはそれを有効に活罵させて もら秘ます。もちろん自分な鱗こ子どもたちの実 態に合わせた吟,新しい教育襯を取り入れた参と いうことはしますが。
矢澤 本校の共同藩究は「懸雛化学習」というこ とでやっていますが.緯織面でも体系的に協力体 講ができています。普通,砺究授業があると,そ の先生だけが忙しく,後は集めた資料はその先生 のものになる,ということが多いようですが,本 校では,学年一プロッター推進委員会という縷
i弱3一簸
織で取馨緩みますので全体としての強い柱が保て ます。資料をファイルに記録しておくことも,醗 究は醸人のものではなくて「自分たちで伜るもの藁
という意識が基本にあってのことです。これには
「纒甥化学習ゴということが共通の往として確認 されているということもあ簿ます。
高機 そのように晒究成果を集積していくという のは器校当擁から意識的に始められたことです
か。
矢澤 推進委員会.そして全員の気持ちが大きな 基盤になったことは賜違いあ滲ませんが,やは箏,
較長先生の経営運念というかサーダーシップが大 きく重要でした。当擁は実際に校長先生も授業に 鐵られて,率先してやっていただきました。そこ から広まって,先生方もついて行く,というふう 翼始まりました。当購は「纒懸化・懸盤化教育3 を建としていましたので,子どもたちが自分から 動きやすい,縫会,麗科を重点的に取参上げまし た。子どもたちの察密な活動を保籍していこう,
というところから綴警醒との一番基本的なところが 始まるだろうということで始まったわけです。そ の後,教科を蜜語,算数,生活科,と広げて取零 縫んできました。現在もそういった鐵発から今に 至る流れの中で,それを継続して行っているとい
うところです。
島 新任の先生に戸惑い1ま晃られませんか。
矢澤 先生によってですねゆどちらかというと,
若魏先生の纏うが溶け込みやすいようです。一つ の学級を大事にして,教える饗垂と教わる鑓,とい
う意識が強く,授業は教麟の発鐸と子どもの答え から成立する,という麟提で藩究をしてきた先生 は,子どもたちの姿に戸惑うようです。転歎の希 望は学校単位ではあ静ませんので,実際に来てみ たらこういう学校で,あとは実践の中で学んでい く,というところでしょうか。多嚢的ホールなど を持つ学校は多いようですが,本校のように徹底 したものは少ないかもしれません。赴任当;誘は,
案内むこは実瀦がなかったので察外の学校を見せて もらって醗修しました。
遠藤 私も渠外の学校を見せてもらいましたが,
オープンスペースの学校,というよ瞬ま,纒牲化,
鰹響彗化,という観点での欝修でした。三春範の考 え方は,オープンスペースを作ろうということか ら始まったわけではなく,鰯辱彗化,燧牲化という 教育醗があって,そこからこのような学校ができ
続・三春籍の教蕾と「子どものための学校」づく今(下/ 7§
たわけです。桜中学校も隅棟です.
矢澤 叢携のその点が重要です。校舎ができたか らこうしょう,ではなく,こうするため毒ここの校 舎を作った,ということです。
遠藤 スペースは使わなければならな魏,という ことではなく,子どもたち一人一人が効集約に硬 うにはどうしたらいいか,ということが重要です。
島 テストに現れるような,狭い意味の鍔学力ユ レベルの維持についてはどうお考えですか。
矢澤 できない子はできるように,できる子は璽 に坤びるように,という纒拐蟹ヒの授業を緩んでい ます。教麟が二人いれば,一人はどちらかと雛う とできない子のほうに関わります。学習は小学絞 のあと中学,高校と続きますから,…番大切なの は,先生の議を萄くだけでなく.自分から課題を 見つけて学習を進める意欲,そして学習のしかた を身に付けることだと思います。それさえ身に付 けていれば,擦い意瞭での「学力ゴどうこうとい うところは問題ではないと思います。新しい学習 捲導要領も私たちがやってきた練紅近付いてきて いる綴分があると思いますG
森鐙 以蒙に比べると指奪要領はずいぶん近付魏 てきていますね。
高檎 中学校/桜中学〉では,高校受験のプレッ シャーがあるせいか,「学力ゴが下がらな魏という ことを証萌,確認する必要を強く感じていらっし ゃるように思えました。若江ではそういう悪辣で
「学力」を意識的に灘つたり,他校と比べた幸す ることはないのですカ㌔
遠藤 教える一学ぶというこれまでの麗係1こお ける「学力盛は,褻分から進んで試行錯誤しなが ら,それぞれのペースで学習を進めていく中でも,
必然的についてくるのではないかという感じがあ 塗ます。市販のテストなども使いますが,あくま で一つの目安です。
矢灘 学習は教科ごとですから,教科のねらいの 達成は,学習の申の一つの目標にな参ます。それ に到達できなければ,子どもたちにいくら鯵牲が あればよいといっても,とても霧のほうからは認 めてはもらえな魏でしょう。難技と比較するとい うことにつ秘ては,このような形態で授業を行う 以前から意纒的毒こ講査を始めて変化を追わなけれ ばならないのでラ現段踏では行っていません。希 望的靉靆としては,一人一人自分でできる力が身
に付けば聞違いなく子どもたちの力は{寸くはずで
ある,と考えています。
森鐙 携えば算数で異体的にいうと計算力,とい う「学力」があって,テストをすればわかるわけ ですが,今までですと評細して終り,ということ になるのでしょうが,懸幾化,鰯牲化という点で それを学習課題につなげていく場合,どのような 工夫をされていますか。
矢澤 計算力1こついて2塒簡「数の広場ゴという 蒔閥を取って鯵ます。その中で,子どもは教麟と 権談して,露分の課題を決め,計錘を立て,学習
を進めます。霞分から計算力を身に響けるカを育 てようということです。
島 纒に短癒しようとして力婆キュラムが遅れ気 味になってしまうことはありませんか。
矢澤 なかなか患うようには進みませんゆ前年度 1こ力婆キュラムを総む除毒こ冤通しておくことが大 切なのですが。
森鐙 教科書中心の一斉授業では進度の具合がは っきり見えますが,欝己学習力をつけるというこ とになるとそういった繁継麟ま意味を持たなくなる のでは。こういう方式が他校に浸透していく際に も教緬が,教育とは,子どもが学ぶとは.という 点で従来の発想を変えなければだめだと思いま す。学校環境を変えることは大事ですが,そうい ったことや,援術,方法的なところだけをP製して も無運があると思います。
高機 新任の先生は岩江に来てどのように変わっ ていきますか。
矢澤 変化の籔嚢としては,麟究公灘があると思 います。騒標を持って一緒にやるということは,
大変なことではありますが,共感を持った警,あ るいは警分なりの課題を見付けた鬱するのには意
義力聖あ穆ます。
森醗 岩江のような,教麟が密分を荒ごとぶつけ られるような職場では,教育している実感,充実 感が教麟を内懸的に変えていくような気撃します がいかがですか。
矢澤 この子どもはこの資料をきっと硬うだろ う,と思って準籍してお秘ても,それを使わず露 分で参考書を持ってきて調べ始めるというような ことが時々あ吟ますが,そういうときはよかった なあ,と思います。
遠藤 特に今年から嬉まった盤活科では,子ども たちが教編の引いたレール1こ乗ってこないのが新 鮮ですΦ子どもたちの意欲を大事にしてきたこと
縫 蕎島大学教書実践藩究紀要第璽弩
が,形となって鐵てくるような場悪では嬉しさを 感じます。
矢澤 絹のかたの反応について零いますと声最観 のうちはこんな学校でいったい侮が始まるのかと いう感じもあったようですが,多くの場合,飽の 学校を見ているわけでないので,今の学校はこん
なものかということで受け入れてしまいます。た だPTAの後塁とか,教育に麗心の強騒かたの場 合だと,この学校のことが新開に載った参,参観 が多いので,「うちの学校は大丈夫だ」という気持 ちはあるかなあと思います。普通ではないと見て いる人もいるでしょうが, これが普通の学校だと 思っています。
遠藤 一年生の霧のかたに私たちは意纒的に生活 科の潔ランティアをお顯いしましたところ,かな りのかたが積極的に参撫してもらって,教練鰯で なむ}な毒】対応できない悪ッ安全嚢での醍癒などで 動けられていますし,地区のお年寄参やその分野
6)エキスパートのかたなどにもどんどん参擁して もらっています。
黄澤 学校というのは地域の一つの財産のような ものですから,霧だけでなく地域全体が学校に影 響を与えているような所があります。この学校は,
螢村都霧で曜i一子どもの数が増えている学校らし いですが,新しい人たちがどんどんはいってきて
います。
森鐡 そういう学校のあり方というのは英米的な んですね,露本の場合.多くは学校におまかせで しょう。しかし学校というもの韓そういう窺とか 地域の人に支えられて存在するということは,当 然の姿だと思雛ます。
高橋 続生の授業でも話題になったんですが,互 いの授業が覚えるということ,生徒との関{系でも そうですが,晃られているということの,最初に おいでになったときの感触というか経験でなにか お話しいただけますか。
矢澤私が来たときはしばらく一クラスの学隼
(の学級〉を持っていたんですが,普選は一人で やってあとは誰かに頼むこともあった,というこ
とのせいか,二人で(学年を/縛ったときには,
懲こ見られているという意識はない。確かに,事 務的に自分の挺任の子どもはあるけれども,隣の 学籔の子どもも講じというわ1ナではないが,「霞分 だけの学級」 という意識はあま管な転》し,』子ども の方も,この先生は握任であとは違う先生だとい
i鱒3一縫
うような意識ではあ警ませんね。
森緩 今の護は,以離武藤先生(蕩教育長)から 麗いた謡とピッタサ符合しますね。武藤先生は,
だから学級「王麗」ではなく,野業報国」だと、
矢澤 違和感はあ馨ません,うん…一ただもし隣 の先生がうんと嫌いだったら違うかもしれません が。でもごく普選に人聞関係ができていれば,な にもないですね。逆に露分の学級だという意識で 聴そうとすると,心を弱いていかないと,そんな ふうになつちゃうかもしれません。見る・見られ
るは麗孫あ吟ません。
森露 スライディングウォールは使うことはある んですか。
遠藤 硬いません。全部海こうに収納されて雛ま すが,いま考えていることは「お楽しみ会盛を誹 面しているんですが,ここを全部塞いで,子ども
は購いところが好きですから,そういう養い方が あるかなって。私がこの学校に来たときは,学綴 増で教室が定むなくて.縫人のニクラスを一つの 教室と一つのオープンスペースにわけてというわ けにはいかなくて,二人で一つの教室でやったこ とがありました。だから,見られているという感 じはなかったです。むしろ,見るというかその先 生のいいところを「盗む」という力属癖
矢澤 結局お互雛にこの人はこういう人なんだな って,わかるんですね。次嘉こはこういうことをや るんではないか,と。ただ,年上ですと楽に権手 を見ているということはあるかもしれません。
遠藤 二つの糧がいつのまにか一緒になってしま うということがよくおこ今ます。碧分の学級の子 はよくわかる一のですが,隣の学級の子どもでも,
隣の先生とあの子はこういういいものを(泌工で/
患いていたよとかいい露があるとか,という情報 交換を密にしてやって恥くと,子どもたちも,隣 の先生に習っていると雛う意識ではなく,子ども が教錘を選類するというか,磯に意緩的な選捉と いうより,この先生の方が早くマルをつけてもら えるというような感じですが,私はこれはおもし ろいと思ってみてました。
矢澤 丁.Tで授業をやると,授業の中での役割分 握だとか,お互いの盤1牲を生かして,という議題 になってしまいますが,授業も大切だけど,授業 以外の場面でもτ.Tの効果が諾てきます。二人で やっていることの喪さ,それは目に見えない部分 が結購あ瞬ます。先生の麺置とか,子どもへの接
続・三春臨の教蕎と「畢どものための学校」づく蟹下/ 8塗
し方とか.ということだけでなくて。
島 丁、Tの害奪合とも}うのは
矢澤 学年で違います。半分くらいです。
遠藤 なんでもカ》んでも一緒にというわ毒ナではあ 穆ません。
森総 半分だと娯轟多いですね。
島 主と従というか,そういう醒係になりません か。教育計画は,つくる段繕と実燦にやる人が違 うこともあるわけで,新しいことをつけ換えてや るという密密はあるんですか。
矢澤 教秘(学習耕/の準備が建箏ないとそうな 拳ますね。ある程度の役割分握はしたけど,うま く露分の役割をつかみきれていないと,互いに遠 慮した穆,指i導が似たものになったり。ただ,あ
る先生の得意な分野,そういうものがある場合は その人が空になっていいわけで,あとの一人は撹 聴覚機器を操俸するとか,遅れている子を見ると か,ということで。ただ,大事な点は,今までの 露分の教育観だけではここではやれない。それを や蓼だすと.私の教育法は違う,ということでぶ つかる。カサキュラムをやっていくということで は,当然そういうことは薄能です。ただ,こうい う学校でということで来る場合はいいですが,そ うでなくて(異動で)来るわけですから,そこが 本校の課題というか。そう雛うものを毎年クリア
していかな雛と溜まってしまいます。
森鐡 オープンスペースをいかした教育というの は,藤本ではまだ知られていませんから,どうし てもアメサカやイギ》スの学校の事例を学生と一 緒に本:で読むということもやるわけですが,そこ に出てくるトピックとかプ澱ジェクトという懸甥 的な学習課題を追求するや箏方亭は,岩江の場合取
鯵入れる段踏ではないんですか。嚢本では学習指 導要領と教科書を羨提としていますから,そうい うものを外蟹から単純に持ち込めばい雛というも のでないことは確かですが。それに,子どもたち が自分でテーマを選び,作贔豪で仕上げるという 作業について,それを総合的な学力としてどう評 癒するかということもあり竄すね。
矢澤 まだそう恥う段隣ではないでしょうね。そ ういう学力に対する評懸が灘てくれば,最終的に はそういう力婆キュラムを纏んで恥くということ になるでしょう。学力評懸が乗滲越えられないと,
教科学習の枠から抜けられない。一番難しいとこ ろで,子どもの霞己評懸くらい難しい。
遠藤 アメ婆力では小学校の後箱から学習が多様 です。教科書も違うのを使う,進度も違う,戻族・
人種問題とか藻境問題とか,身の錘りに課題がい っぱいあふれて輪るわけです、そういう祇会で生 きていく上で,露分をアピールしなきやならない。
森穣 懸盤をアピールしないと生き叛けないとこ ろと,露本のように懸牲を主張すると「鐵る抗は 打たれる3というところでは,皆にあわせた方が 無難だという,そういう違いは無擬できませんね。
あと,薮け落ちた所をぜひ。
矢澤 艶分の授業は効果的紅やれば,子どもたち の試行錯誤がはかれますから,効果が.ヒがる。ど
うしても45分で導入,展薦,まとめという授業だ けでは十分保難できません。今昔われていること はケーつの単元の藝蒋聡なら4鋳潤の計嚢の中で,
子どもの講べる蒔濁をつくってはどうか,という ことです。鱒分授業は縛賜の長さではなくて,子 ども善こ質的なものが{呆嚢章されるということです。
ただ魂5分のねらいを鱒分でやってしまった参,鋳 閥を与えすぎると活動が停滞する。そこが考えな
くてはならな恥問題です。
遠藤 鱒分だと活動がダイナミックになります。
長いから,子どもの方からこんなことをやってみ たい,と漉文も鐵てきます。
高橋 長い闘有り難うございました。
(記録編力二高橋純子〉
3 解 説
ここに採録した講議と聞き取参はいずれもその 要約であ陰,議の重要部分だけを叛き鐡したもの であるから,書葉のニュアンスを犠牲にした点が 織しまれるのであるが,撫藤校長1の話は誘々とし
た中に確信に満ちた心意気が感じられたし,二人 の若手の教員の話も,わたしたちの感じているも のについて率直な声を弱かせてもらうことができ た。講話当嚢の参観授業を含めて,やや感想めい た内容になるが,簡単に補建をしておきたい。
撫藤校長の講謡は,学部2年生を蝿象にした諸 で,春江小学校の累歴を含んだ籔潔で要を得た内 容であった。特に,この欝の参観は私馨身にとっ ても得るところが大きかった。高学年の授業にや や精彩に欠くと思われる部分もあったように感じ られたが,特露な態勢ではなく普段の学校を見せ てほし雛という要望であったから,むしろ館1り気 のない授業という意瞭で参考になった。それも,
82 福島大学教官実践藩究紀要第聖母
低学年の活気あふれた授業1こ比べてのことであ
る。
その低学年の場合,いわゆる2ブロック§の鮪 分授業でi隼生は醒語「くじらぐも」,2隼生はゼ生 活科」で鎗月に行われる学校祭の準備を兼ねてい たようで,校籔霧のいくつかの「お癖」を模倣し たかつての「ごっこ学習」を紡綿とさせるものだ った。どれもド定点観察」したわけでなく,織部 についてはわからないところもあるが,i年の授 業は最窮二つのクラスに分かれての授業のあと,
後半で合講のT.丁方式の形態にな拳,クジラグモ の模型を使って蓑離化」するための活動が靉靆さ れていた。久しぶりに授業を見せてもらったわけ だが,鱒分授業は窮めてだった。小学校は入りた てσ)i年生が,2鋳…間分の授業を鉢憩をはさまな いで受けていたのには驚く録かなかった。全員が 常に学習に集中していたわけではなかったが,蒔 聞をもてあまして遊ぶと雛うことはなく,最後の 部分では,むしろおおいに盛り上がって終わって いた。ビデオカメラでじっと観察していれば,も っと長所短薄豪雨嚢力〉らの撹評力婁できたものをと鬱 しんだが,主体的な学習習慣が形成されていな馨 れば,こうした形態の授業は成参立たない。大学 生でさえ鋳分の長さを持て余すというのに,授業 の方法が違うと誓えばそれまでかもしれないカ㍉
「常識ユばなれした授業を見せてもらったという 感じである。もちろん,授業者が習熟すればもっ
と密度のある授業になったカ》もしれな聾}。
2年生の「生活科盛はもっと澄麟としていて,
文字どおり一人残らず嬉々として活動していたよ うに思われた。参観の学生は子どもたちから大歓 逓で,髭パーマ屋さん」のところで子どもにお客さ んとしてつかまってしまい,またたく隅に三つ編 みに結ばれたり,来たときとすつかむ髪攣が変わ ってしまったし,「お菓子やさん3では無料で食パ ンをこんが箏揚げて砂糖をまぶしたおいしいお菓 子を食べさせてもらった。この「授業」は,歓会・
醒工・家庭科などの総合学習であるが,「生活科」
のいい嚢がよくわかる活動であった。この時間だ けに醸っていえば,子どもたちは学習というより は「楽しみゴの詩麗ととらえていたようだったが,
それで購わない。そうした解放的な鋳闘が学校生 活の中にあることがすばらしい。もちろん,露一
プンスペースが最大猿に活懲されていた。実は,
i年生分スペースは,この校舎の南藪にあり歩 2
i鱒3一鷺
年生の区画のちょっと奥まったところに位1重して いる。i,2隼が隣彗会っているとi年生がこち らに気を取られる心醗があるが,この場合の教室 はそういう心醗のない翫羅であったことをつけ換 えておく。
講謡や弱き取拳に共選に鐵て鯵たゼ生活科」は.
オープンスペースの教育活動を展瞬していく上で 箔好の教科である。今隼7月,本綴教鳶長と議を した際にも,「生活科」がゼ懸盤化教育」を進めて いく上で,「追い風葬こなっているとのことだった が,オープンスペースの教育活動を知らずにこの 学校に来た教舗でも,こうした異体的な取り緩み
をとおしてε纒牲化教育豊を遅解していくことで あろうし,オープンスペースの生きる授業として,
わかりやすいのではないか。
オープンスペースの教育活動を瑳解するうえ で,岩江小学校で行われている§春分授業や↑.T は,目新しいものとして参観者の蘇奇の嚢で見ら れることになる。また,教員の立場になったとき,
いきな響こういう学校に醗属されたらどうなるの か,ということもやはり露魏てみたいことである。
後半の麗き取蓼は,院生の素朴な疑縫をぶつけた ものではあったが,二人は丁寧に答えてくれた。
謡の中では,やはり「学力評衝孟と「諜題学習匪 のところが,今後の課題であるということが確認 できたように思える。しかし,これは岩江小学校 がかかえている課題と雛うよ拳も,むしろ繧本:の 学校教官そのものがかかえている問題であ管,ま た新学習指導要顕でも示され、た腎露華窒璽擁盛の蔀 分を,どういう運念と方法で全体の中で綾羅づけ るのかという問題である。
ところで残念なことに,「趨性重幌」のかけ声と は響彗に,桑海には従来の学力観を踏襲したとみえ る学力高上作戦が展雛されようとしているという 現実も一方にはある。しかも,その鍔受験学力」
の中に,確かな遷論的穣搬を欠いたままで罪新学 内観轟が入拳込んで,問題を複雑にしている。学 力論の混迷とさえ思われる。新学内観は,これま での「知識偏重」の学力観からの醗餓こ意味があ ると言われるが,私の邊解ではそうではなく,画 一的で教え込み教育への反省で鐵てきた。これま での教育が「難識鰯垂」と誓うのは,実態として 違う。本盗に知識が重観されているなら,結果の 点数だけが学力であるというようなことにはなら
続三春驚の教鳶とF子どものための学校」づく獣下/ 83
ないはずだからである。したがって,学力湾上作 戦を受験学力に一面化することなく,文字どお吟 子ども音こ点数だけ でない本i当の学力を身萎こつけさ せるというところにきちんと課題を設定するなら ば,縫牲を重擬し,子どもの学習する意欲を大事 にし,ぺ一ノぐ一テストでおざな滲にテストするの ではなく,多様な学力評癒を騰発し,轟校の格差 をせばめ,学校規模の縮小や教育の穰1牲化を推進 することにならなければならない。入試酸善の目 的は,行動や人格を評癒の対象1こして点数化する ことではないはずである。本来の多様な学力評徳 とは,実に「徳性化教育」などのような新しい試 みの中に萌芽があるのであって,従来の教え込み 教育の延長線上から虚てくる難待は薄いと害わざ
るをえない。(懸盤重撹と入試改善は霧に論じてみ
たい/
ここでうオープンスペース教育とは樗をめざす 教育なのか,どういう学力を考えているのかとい うことに少しふれてみたい。オープンスペース教 育の導入に取参給んできた撫藤幸次氏は,学力の
とらえ方について次のように書いている。「今饗の ように,発達や変化の激し赫時代に,侮をもって 知識といい,技能という4〉かあらためて問題にし
て欲しいと,思うのです。教科書にあるから,先 生が教えてくれるから,はては試験に鐵るから大 切なんだ,と考えて鵠るのでしたら,問題だと思 います。…一しかし,結縁,「基礎・基本盛も,人 によって,子どもによって,一人ひと箏違ってい るにちがいないのです。その人が,あるいはその 子どもが必要としているものは,その人,その子 の生き方と方向とかかわって報簸されるべきもの でしょう。学校という公教育としての機獲1は,や やもすれば,「共通藩の知識なり,技能にしか霧が 禽かないのは残念です。……知識や技能の持ち方,
あるいは「身につけようゴこそ,問題にして欲し いと思うのです。教錘が示してくれた顧癌で,し たがって,教麟が決めた撰進にしたがって身につ けているとしたら,おおいに問題です。……知識 や技能は,一人ひとりが主体的に,かつ麟造的に 身につけてこそ,生きてはたらくものになる,と わたしは儒じています。ゴ(蓼学校を開く藷i磐? ぎ
ようせい麹.亙鎗〜の
撫藤氏は,ここでかなりラディカルな学力観を 提示しているが,ここで中鰭した藻分では,共通 な「基礎・基本」ということで,「3欝sプラス縫
会習濃や道徳の一藻」をあげている。また,一人 ひと拳の違いといっても共通の文化や縫合の中で 成長してきたのだから亨大きくは共通した方講や 形が識響彗できることは当然であるというゆただ「星 を見ることコを擁に鐵して,その学習から美的な 経験とか,科学的な探求,文学的な方海,歴史釣 な興味, などと麗蓬〉力聾縷牲的碁こ示されることを見 て取るべきだと,叢っているのである。確かに,
共通な枠緩みとか,学力の「基礎・基本」の押さ え方には難しい縫題がある。しかし,学習は集羅 の中で行われるとしても,結局は懸人の中に成塗 立つほかないものである。学力というものは,あ る意彗乗で子どもの能力を灘る共選の尺度である が,それはことの一面でしかない。逆に,「学力」
によって懸1牲が見失われてしまえば,本末転倒と 言うべきであろう。
たとえば,醗に話題にしたことであるが,課題 醗究などの子どもの主体的な取り緩みを学習の集 約点として位麗づけ,記憶中心,正答主義の学力 からの脱去舞をはかるというようなことである。桜 中学では,夏休みの懲密羅究を一人心懸究として 重:観して数多縛ませている。そこでは,子どもの 纒の肇なぜ」の追求が欝究の主題になっている。
ある子どもは,気象台の乗気予鞍の当た吟はず義 の調査をやって,的中率驚%という結論を廻した レポートを提饑した。課題観究の水準としては傷 いものではないかもしれな鱗が,匿i題を自分で見 つけて追求するという学習への発想・行動は評極 しなければならない紛2年費目福島テレビ「新し い教育への麟造一三春緯の魏戦」蚕纏1こよる/.
こうした学習への転換がいろ鵠ろ試みられ,子ど もの髄の学習への主体的な意欲が高まることを喚 起することが行われているならば,それについて の実践観究も深まり,そうした「麗心,意欲,態 度」などというものを入学試験の合否資料として 点数化することが,いかに醗難なことかを実感で
きるであろう。ε鷺心,意欲,態度盤は教育・学習 活動の中に正当な位置づけがなされる必要がある が,それはあくまで子どもを中心と見立てること のなかで擁めて薄髭であるが,それを安易に教育 する欝からの「評懸」に連動させ轟ば,現状では 「縫心,意欲,態縷:盛そのものがまったく懸なも
のに変容してしまうことは必至である。評懸は子 どもの懸盤を発発し,のばすことによって,本来 の俊割を果たすのである。
84 籏島大学教育実践欝究紀要第墨弩
さて岩江小学校の教職員にとっては,懸盤化教 育の推進のうえで,学習観の転換とともに,学習 資料を各分野・各段購でヂ燧購学習盛に対応する ように罵意することには,大変な苦心が伴ったこ とと推察される。しかし,講蒔にや拳がいのある 仕事であったろうとも思う。それは聞き取りの二 人の謡から,私が教廉のモラールとして感じとっ たものであるし,蓄積された豊富な資料がそれを 物語っている。それ1こっけ,騒本の代表的オープ
ンスペーススクールの愛知桑緒辮小学校の実践を 書いた成遜幸夫著蹟学校をかえる力需(欝87 ぎょ
うせい)が想起される。その奉の中で成懇氏は,
オープンスペースをいかした教育は,どこから手 がけたらよいかという質問に答えて「一ジkひとり の先生が毒気になって,今,露分のやっている教 育を問い返す事から始めるべきだ葺と書いている。
また,「オープン・スペースを持った建梅ができた から新しい教育が始まるのではなく,まず教麟轡 身が意識改革しない蔭り,{薄も始まらない。」「異 常なまでの懸究指定校の在り方では,学校改革ほ 長続きしない。……侮よ滲教錘麹身が学校好きに ならなければ,子どもも学校に魅力を感¢な越で しょう。また,教練が燃えずして,どうして子ど もが学習好きになれるでしょうか。豆麗.2i〜23/
と,力説する。
さらに,「学校がかわらない最大の理由は,……
教瞬のフィ{コソフィの転換がなかなか緩れな誓〉こ とにあるように思われてなりません。……知識・
技能偏重の学校教育の在撃方から,学力を保瞳し つつ一人ひとりの適性に臨じた察己学習力を育む 方海へ本気で踏み鐵す考え方だと懇魏ます。その ためには,教授から学習へ,面一から多様へとい った学習方法の転換だけでなく,学饗観や子ども 観そのものを移動させる必要があ雛ます。そうし た転換を纒るためのきっかけは,実はごくあ蓼ふ れた騒常的な風景の中にいくらでもころがってい るものなのです。…一知識・技能という一つの溺 き鐵しで子どもを語るのではなく,一人ひとりの 持ち味といういくつかの瞬き鐵しを驚意して,そ れらを知識・技能と瞬じレベルで実践をし,語っ ていこうとしなければな警ません。…一緒舞1小学 校では,「オープン教育」とか「縫牲化教育3とい う崇高な理論醗究辮あって生まれたものではな く,一…真に醸性的たウうる学習の指導は,子ど もがどう課題淀跳み,どのようにクリアしたかと
茎鱒3一童生
いう「一入ひと腸という携点にかかわってこな
けれξ蓄ならないという, こだわりを大切畢こしたに すぎないのです.」(麹.難〜舞〉という。
擁藤氏や成馨氏のこの著俸1こは,一斉醤一授業 にたいする畿灘が強く打ち鐵されておむ,オープ ンスペースを活駕した趨性化教育・懸濁学習のハ ウツウが異体的に書かれているが,簿よ参注意さ れるべきは教育観というものへの基本的なスタン スである。つま瞬,教育の方法はそれぞれのとこ ろでそれぞれのやウやすい仕方(擁えば教麟の懸 牲とか,地域の特性とか/で自ら麟拳鐵せぱよい のだが,成灘氏の言うところの「学習観や子ども 観そのものを移動させる」ということは,受け生 める鰯の納得を基本としつつも,それに麺する的 確な運解が重要なのである。しかも,これは難し いことでは決してないけれども,学習観や子ども 観の「移動」つまり転換は現在の自分自身のアイ デンテティをある意味で「放棄」させることにな りかねないものでもある。なぜなら,「縫雛i化教育ゴ が畿饗してままない一斉指導による教え込みや閉 鎖的な学級王国は,飽ならぬ理在の露分自身の教 育方法であるからである。教麟の露冠変革が遺ら れると誓われる断線であるし,またそれが縫々の 教鎌の「新しい教育」への取合緩みの内発的な動 霞となっていることに注目すべきであろう。
この§再調養したところでは,寮内のオープン スペースをもつ学校は灘校を越えている。もう纏 外的な少数の学校(施設〉ではない。異動の頻痩 を考えれば,近い将来かな拳の教員がそういう学 校を経験することになるだろう。それが単なる施 設の馨題ではないという平弱なことが,学校関係 者のε常識雲にならなければならない。今羅の岩 江小学校と桜串学校の参観・諺語・聞き取彗の申 で,教育委員会や管運職の積極的な数多緩みがあ れば,学校の改善は着実に進んでいくものだとい うことがいっそうよく瑳解できたように思う。両 校のいっそうの発展を難待し,また今騒の大学駝
「実践羅究ゴでの私たちの全癒に癒対していただ いたことに感謝するとともに,ほかのオープンス ペースの学校でもそれぞれの施設・地域の特性を 生かした教育活動の展開がなされるよう難待し て,筆をおく。なお,講認・饑き取りの文責は,
筆者紅あることをお欝縛する。
(盤、9.警)