西脇順三郎の詩﹁馥郁タル火夫﹂を読む︵下︶
r年ノ
ウ偏玉
造耳輪
つ腎
尺薩発達文紀字類論纂 第4彗 78
i2
⑱の前半の文は﹁ランプの笠﹂についての演説を否定し︑﹁使節﹂に
ついての記述を主張しているが︑それらがどういう状洗晒︑簿に購かって
述べられているのか不明なので︑鴫蝶な意味を表せない文になっている︒
後半の文も︑障害者が︑﹁音樂として体思する﹂というように音楽と隅賂
にされている点と︑譲り手が難害者の足を︸︑アラセイトウとしてひっぱ
る﹂というように︑麺物と瞬格にみたてられている点とで︑プてれぞれ現
実的な意嫁を表せない文になっている.⑬も基本的には︑異質な欝葉麟
重の結合を少し灘らげ︑譲滲手の奇異な行為︑動作などを語ることで詩
の意瞭を消滅させようとしているのである︒
詩としての実理を意羅した前半の文は︑キーワードである﹁ランプ﹂
﹁淡説﹂﹁綾籔﹂などの言葉に注饗して考えれば︑プルタルコス︵i匿紀 ハおや後幕〜2糧総締頭︶の﹃食卓歓談隻﹄に麗って書かれている︒麟議を取
弩込んだエッセイ集であるこの叢には宴鷺での様々な討論︑議譲の雲容
(麓夏×滋欝εが記されているが︑そのなかに︑昔のローマ人が食卓を
しまうときランプの火を消さなかった理由を︑﹁ランプについて探求する
ことになった﹂といって議講を始める話がある.また︑この語に付絶し
てプルタルコス霞身が︑﹁アイアスとオデュッセウスが鑓者として﹂﹁貧
弱なアキレウス流の食率﹂を訪れた議を紹介している︒こうしてみると︑
食事のランプに対する﹁探求﹂と議論が︑﹁ランプの笠島に対する﹁演
説﹂に変形され︑ランプに嬉してはエピソ⁝ヂにすぎなかった︑アキレ
1筆
正 宏
ウスの貧しい食卓を訪れた﹁使者﹂の謡が︑一︑使籔に賭して記還せん﹂と
いうように︑大きな省懸と変移を伴って文の中心になっていることがわ
かる︒だから︑ここでは詩の譲り手は臨らをプルタルコスに擬し︑﹃食卓
歓談集㎞のなかの議論に変形と省酪を施して意味のない文に仕立ててい
るのである︒
後半の文は︑﹁音樂⁝;休息﹂﹁萎︑縮病者の足﹂などがキーワードになる
が︑まず︑音楽と抹息との関係は︑音楽の精神形成上の功徳を述べたア
讐ストテレスの を麟まえていると考えられる︒この欝のなか
でア婆ストテレスは︑立鋒楽は﹁睡銀や酪醗のように︑遊戯や休養のため
であるか﹂を考えようとし︑﹁快楽のうちでも凡そ無害なものは人生の終
毬馨的にのみならず︑また休養にも調報ずる﹂といい︑﹁音楽から生ずる
快楽のうちに時々休養をとることは有鷹なことであろう﹂と結論付けて
いる︒音楽は無害な籔楽として休養に有馬であるというわけである︒
次に︑立環楽と病気の襲係であるが︑この関係については麟轟の哩食卓
の賢人たち総のなかで著者のアテナイ︑オスが︑音楽は病気を治すという
考えを述べているテオプラストスの著書﹃神が宿ることについて﹄を紹
介している︒古代ギサシアの哲学煮たちの考え方をふまえて︑﹁音樂﹄
﹁休息﹂﹁病者﹂︑治療という基本的な文の流れができているのである︒だ
から︑﹁音樂として抹息する﹂は蹴暴ないい方であり︑本来は﹁音樂︵を
治療の手段︶として鉢息する﹂の意味であったわけである.︑
﹁萎縮病考の足﹂については︑露作解義のなかに︑﹁小鷺麻痺の予僕っ
て︑︵中略︶植物みたいに思うんです.︵牛酪︶麟つた足を.癒そうとして︑
汽
土一 ノ、
π 灘 亙宏1蕗脇繧三三郎の詩郭酸葎タル家夫1を読む(下)
お︑医者さんがひつばるんですね磨︵牛酪︶アラセイトウとして﹂とある︒
萎縮病蓄は小児麻痺の子供のことであり︑それが纏物的に感じられたの
で︑音楽とは対照的な携還的な治療の仕方を︑嬉物﹁としてひつぱ盈
と表現したのである︒小児麻痺とは異なるが︑そもそも︑詩の書き手で
ある茜脇顧三郎︑の足に麗わる﹁萎縮病﹂への関心は︑主に叢代ギリシア︑
召ーマの文学にその根を置いていた︒健えば︑へーシオドスの﹃仕事と
蓼㎞には﹁名も嘗瞬き足萎えの神︵へーパイストス︶﹂が記されてお琴︑こ ンモ あしな
れは古代ギ婆シアではよく知られた神であった︑また︑萎縮病ではない
がカトゥルルスの﹃レスビアの歌﹄には﹁足の遅い神﹂麟ち︑﹁足の不白
韲な火の神ウォルカ!ヌス﹂が歌われている︒さらに︑﹃新約聖書臨の
﹁ヨハネによる福音書﹂第五章にも︑病気治療に効能がある闘飲泉の池で
﹁是なえ﹂を癒そうとする人が譲るし︑近代になってランボ⁝はこの第五
牽をべ⁝スに︑﹁擁音書﹂雛鞍を馨論むテクスト篇︑驚00e溝獅跨<>Z・
︵薄霞︵醐C鍔も○﹂︵一八七三年績の俸︶を書いている︒このなかでランボー
は㎜︑建なえ﹂を﹁r¢マ厳島旨ご黛ご︵一跡痺患者︶と表現している︒
︑茜脇顯三郎においては︑﹁仕事と露﹄やワスビアの歌﹄︑さらには
﹁福音書﹂︵陣<>Z︵薄野5譲塞︶やランボーの散文詩︵H︑驚○も︒驚む︒︶など
を読むなかで︑是に関わる﹁萎縮病﹂への関心は慶に養われていたと考
えられ︑この瞬心があったからこそ﹁小髭麻痺の子僕﹂がとらえられ︑
その治療の表現が生み出されたのである︒罵の﹁萎縮﹂した子供を﹁擁
甥みたいに患う﹂﹁いかにも小驚麻痺の子供の鷲窃い足の纏いのに見え
プ\それを︑僕がアラセイトウに鷺えた﹂というのは︑鐘害のある子供
に対する独察の感性や見方が差懸的だといわざるをえないが︑﹁アラセイ
トウとして﹂は︑麺霧と講格にされた子供だから﹁アラセノ︑トウとして﹂
と表現しているというだけではなく︑治療として﹁小鷺麻痺の子供﹂の
是をアラセイトウのように長く繍陣ばすという曹心線で︑﹁アラセイトウとし
て﹂と表現していることにもなるのである︒つまり︑﹁直立した﹂という
アラセイトウの茎の特色が比瞭的に弔いられているわけであり︑﹁アラセ イトウ﹂は︑あらかじめ植勃としてとらえられた子供がいて︑沈ての子供の様態と︑挽物の部分的な性質︑特臓との共通性を挫わされて召喚された槌物なのである︒ 連のつなが彗方を考えておくと︑⑬も⑫と意味上の経連はないが︑言葉の上での義援的な麗連はあ鐸︑⑫の﹁家の内嚢﹂が⑬の食卓︵の作法︶を携き出していると考えられる︒また︑⑬の蘇半の文と後半の文も意味上の灘連はないが︑後半の文の欝頭の﹁窓に騰りか・り﹂は︑登場人物たちが宴露で食事のまわりに益べられた寝織子に梼むかか撃︑寛いで議論をする︑前半の文の輿礎である﹃食卓歓談集﹄に雛かれた様子に影響された欝葉だとも解せるし︑舞よりも﹁綾籔﹂がアキレウスの食草を訪れた人物たちを暗に指示していると解すれば︑アキレウスはト賢イア戦争でトロイアの王子パ華スによって︑アキレス鍵を矢で財られて ぎ殺された人物だから︑麟半の文と後半の文とは﹃︑是﹂でつながっていると解することは充分に藤能である︒さらに︑⑬にアキレウスが隠されているとすれば︑鎧よ陰も丈夫な皮膚をもち︑槍や弓矢や鋼に熟達しながら素手でも戦えた︑全ギ縫シア戦士中で最大の勇士のアキレウスは︑⑫の﹁挽子菱をもちたる男﹂と極めて辮照的に醗置されているといえるのである︒ では︑⑬をイロニ⁝の表現という観点からからみるとどうなるであろうか︒﹁養簸に絶して認遙せんとするものだ﹂と雛う⑬の羨半の文の語り手は︑明らかに雛らをプルタルコスの立場に置いている︒しかし︑使節に聞する韓を記述するのかは穏されている︒議半が食事の作法に醸する文であったことを考え耽ば︑また︑それが後半の文と﹁是﹂によって繋がるとすれば︑駿達したように︑前半の文は硬籔︵客︶の訪問を気にかけていないので︑いつも調理に震暗闘かかってしまうような﹁貧弱なアキレウス流の食卓﹂︵前当︶を曙に皮肉っていると考えられる︒つま陰︑﹁アキレウス流の食卓﹂へのイロニーなのである︒このイ窃二一は︑食卓の作法を語るというプルタルコスの大きなねらいからみれば︑食卓
21購年茎2ヂ 大関発達文乞字類論集 第4勢
蔦
というものはアキレウスのように﹁舞もなしの空っぽのままにしてはい
けない﹂︑縁故なら︑食べるものがあれば人は﹁欲望に瞬をかけず︑むし
ろ揮えておく﹂︑﹁ないものに対する欲望もそう強くならないものだ﹂と
いうプルタルコスの主張にも繋がるので︑前半の文は食卓の作法からと
らえた人聞の欲望の揮え方に弱する教護を根本にふまえて表現されてい
ることがわかる︒
講半の文と縫連がないようにみえる後半の文が︑﹁足﹂の連想によって
導き墨されていることは駿遠したが︑この文にイ藤二!を読み取るとす
れば︑﹁ひつばる﹂という誘葉で略解的になっているのだが︑﹁萎縮病者
の足﹂を茎が長い植物のように伸ばすという︑小児麻痺の子繰の足の治
療方法に対するイβ二⁝ということになる︒しかし︑差購的な子供の見
方に癩えられている騒り︑このイロニーは有効だというわけにはいかな
雛だろう︒麟半の文に導き鐵された後半の文ということを考癒しても︑
⑬は結局︑前半のイロニーが主になっているといわざるをえないのであ
る︒
欝
⑭︶では︑完全な文を成さな絵二つの藷句が︑二つの感嘆符と︼つの読
点で区切られ︑行分けをしない形で壷べられている︒そして︑この三つ
の藷句講士の麗係が醗実的な意味を表さないことで︑⑭は全体として意
味の消滅した連になっている.最褥の﹁繁蕪の騨よ!﹂という騨びかけ
の﹁騨﹂とは︑プルタルコス︵鋳鐵︶がその著作﹃愛をめぐる対話臨
で︑ソボクレス︵も︒︵らぎ網鳥霧雪叢叢懇〜き③羅一例︶の﹁実り豊かの女擦﹂
という震葉や︑エウ縫ピデス︵欝鼠℃藁霧き餐鼻懸〜躯︵︶9の﹁その愛か
ら︑この地上に生きとし生けるものが生れてまい琴ます﹂という言葉を
引思し紹介しているアプ霞デノ︑テ︵>三護︵︶&$︶のことであろう︒要する 暮う霧よう つかさど 二.瑠に︑﹁大地の豊饒︑人畜の繁薙を霧る︑いわば大地母神の性格﹂をもっ た女袴なのである︒ オサエント起源の名をもつ愛の女神アプ霞ディテは︑ク置ノスがその父霧ウラノスの性器を燐離取って授げ塗てた海の白い泡︵きξ︵琶から生れた︑金§然︵人闘︑動撥物を含む︶に関わる豊饒︵多産︶の女神である︒しかし︑﹃愛をめぐる鰭謡臨では﹁アプロディテとは欲望のことだと言う人もある﹂という紹介もされている︒飽方でアプロディテは︑厳しい美しさによって神々や人聞の欲望を揮える女神アテ!ナー︵>9−窪包とは対照的に︑神々や人聞を熱狂や欲望へと誘惑する女神でもあったのである︒ では簿故︑語り手は﹁夢遊病考﹂に対して﹁臨崖をつくウたまへよ﹂というように︑アプ冒ディテへ呼びかけるのだろうか.︑自作解説︵欝墨︶によると︑﹁人題が繁殖することを嫌いだつたですね︒繁雑というか︑性欲霧身嫌いだつたんだ︒︵中鵡︶皆︑夢遊病者だから藪崖へ行くと落っこちる︒翠く死んでしまえそう恥う意味らしいんですね﹂とある︒この解議からは︑愛と欲望という霧義性を付与されたアプロディテを︑愛の神ではなく繁薙をもたらす欲望の女神としてとらえていること︑また︑﹁性欲﹂によって﹁靉靆﹂をもたらす人離が﹁夢遊病考﹂︵アプロディテにより熱狂へと誘惑された人聞とも解せる︶としてとらえられ︑その存在は死を顯われるほど否定されていることなどがわかる︒とすれば︑アプ霞ディテが﹁人畜の繁薙を馨る﹂︵蕪縷︶︑つまり︑欝由にできる女神だからこそ︑語り手は性欲にとらわれている人聞に死を与えるようにと彼女に呼びかけ︑願っているのである︒感嘆符が付された二つの語句は︑呼びかけの対象が女神アプロディテであることが開示されておらず︑﹁夢遊病者﹂が性欲にとらわれている人講の暗繊であることがわか蓼難いので︑両者を結び付けて諌んでも萌藤な意瞭が生じなかったのである.︑ ⑭の三つ§の語句は極出形にはな/\詩集に詩﹁酸燦タル火夫﹂として収める際に糠筆されている︒だから︑これが麟の二つの語句とどのような関係になっているのかを考えなければならない︒﹁オレアンダ﹂は︑
(一オV
(一
ェ︶
澤 鑑宏二函蕊顯三三郎の詩1酸蔀タル火夫」を講む(筆 器
地中海の海岸地方難産の藪洋葉替擁のことである︒その﹁苑の火﹂だか
ら花が火として喰えられているのだが︑オレアンダの花には火として比
瞼されるほどの特籔があるのだろうか︒地中海沿岸から中近東に分薦す
るオレアンダは︑樹皮や根が有毒で人間や動物にとって危験な面をもつ
爽竹機の神懸であむ︑憂の乾燥した土地に薄桃色の菟を咲かせる小高本
である︒とすれば苑それ岩体に特鐵があるのではなく︑このように有毒
で危験な潅木が過酷な環境のもとで花を咲かせる性質︑饗牲に強烈な特
騒があるということになる︒三つ護の語句は﹁花の火﹂という書葉に
よって︑闘接的にはオレアンダがもともともっている麺物の性質として
の危陰性と︑壷接的には花が翼然として克厳して雛る遜酷さとを表現し
ているのである︒
この危酸性と遍酷さとは⑳の最擁の語句にではなく︑二つ嚢の語句に
繋がっている︒危陰性は簸崖から落ちることを顯われた﹁夢遊病煮﹂の
状溌に繋がるものであ陰︑過酷さは夢遊病者が藪崖から落ちることを願
う⑭の語り手の残酷さに繋がるものである︒勿論︑﹁花の火﹂は主鰻と
しては︑後者の残鑑さを﹁火﹂という言葉によって感覚的に強談するよ
うに簾筆されているのである︒こうしてみると︑三つ凝の語句の糠筆は
テクニカルで︑⑭全体の欝葉の意味の表屡では︑一晃︑無関係な言葉海
士の結合を麟参鐵すことで詩の意味の無を表饗しながら︑隠された言葉
の意味においては緊密な言葉の麗係が作参議されている︑なお︑この撫
筆は︑⑬の﹁誘葉鞘﹂︑⑫の﹁潔子花﹂︑⑬の﹁アラセイトウ﹂などを
意識したもので︑この点では詩﹁馥郁タル火夫﹂の全二十一連をそれぞ
れ独立した連にしょうとした意図からすれば︑形式的になってしまって
いる︒ ⑭︶にイ冒二一を読み取るとすれば︑疑達してきたことから考えて︑そ
れは二つ蔭の語句を主にした大鷺の欲望︑と吟わけ性欲に対するイロ
ニーである︒また︑⑬から⑭への賎騨をみると︑⑬には入間の欲望
︵主に食欲︶の揮え方に麗する教護が根本にあったが︑⑭︶でははっきり とした欲望︵主に性欲︶の否定を.連の全体の基底に振えているので︑欲望のとらえ方がキーワードになっていることがわかる︒︵鯵は︑二つの感嘆符と一つの講点とで︑区窮られた短い語句を蓮べて︑それらの関無性に意味の無を表饗しようとする連の構成であ撃︑詩﹁酸馨タル火夫﹂にお
いては︑短い譲句の羅列による意味の無の表現の讐論みは新しい形で
あった︒
薩
⑬も二文ではあるが︑基本的には文と文との関係性に意味の無を表現
しようとしている︒⑱では⑤︑⑥︑⑦︑⑧などの各速にみられるよう
に︑語箏手は霞ら文と文とを鰭係付けようとはしてないのである︒そ
の意味で大きくみれば︑⑮における意味の無の表現は文や語句の長短は
あるが︑⑬︑⑭︑そして次の連の︵鰺と共通している︒
⑱の蒲半の文は︑⑤でも表現されていたように︑﹁永遠﹂を精神的に
受け壼めないで︑茶化している表現である︒それは︑﹁永遠﹂を春色した
今︑身体︵曝曝︶に侵入してきた﹁永遠﹂に難儀している表現をみれば
わかる︒また︑茶色された永遠ではあれ︑永遠より嫁﹁魚をつらんとす
る﹂意志を主にしている表現が︑この茶化しに追い討ちをかけている︒
この茶化しは︑それが﹁永遠﹂という絶対的な観念に対する表現である
点で︑﹁永遠﹂に対する皮肉︑つま琴︑イロニーの表現でもあることはい
うまでもない︒
㊨︶の後半の文は︑ヴェネツィア生まれで︑教皇レオ十重の秘書嘗を務
めたり極機灘にも任命された﹁讐正ベンボー﹂︵︸︑︷驚き 膨§註×︶ 裳ぎ
〜一望刈︶を︑これまた茶化している文である︒ベンボーは飽方では︑ペ
トラルカ︵鳴鐘糞霧8H︶簿毒性整雛鼠〜謡︶や︑欄デカメロン﹄︵雛琶︶な
どで性欲を窪然な欲望として肯定したボッカッチョ ︵︵ぎ毒鬘師欝︶8霧−
oε影雛〜黍︶の文章などをイタサア文語の燐籠として説いた拳︑文章の
2軽艇}年圭2羅 人露発達文匙字類論集 第4号
7透
基本を韻文において︑古代ギ婆シア︑ロ⁝マの伝統︵アサストテレスや
ホラティウスなど︶に学ぶ規範詩学を提唱した人物でもあった︒だから
ここでは︑表面的には聖職者としてのベンボーが女性的な話し方をする
入梅として茶化されてはいるが︑この茶化しは隠されたところでは︑ベ
ンボーの議し方を女性化することで︑人翼の性欲を欝定した灘嚢をもつ
作家の文章を規範としたベンポ!にも及んでいるのである︒これらの茶
化しは︑⑲︶の藩半の文と同様︑﹁鱈歪﹂という宗教上の絶対的な権威に
対する表現である点で︑ベンボーへのイロニーの表現でもある︒イ置
二一という醗点からいえば︑この後半の文の︑僧鱈の穏やかで優しい話
し方をゴンドラの進む様子に転換した表現は︑前の連の⑭にみられた︑
性欲に対する残酷な表現とは蝿照的な表現になっている︒
表覆された意味を表屡的に追えば︑⑭と⑮はそれぞれが互いに意味
のうえでは独立をしているのだが︑語警手の視点に立ってこの二連に注
馨すると︑⑭から⑮への転換には人聞の欲望をめぐる思考が底流して
いると考えられる︒⑭では神に願うほど性欲に対する厳しい表現をした
ので︑⑮では神を硬ってまで糖禅的になった表現を灘らげようとする意
図のもとに︑具体的にはオレアンダの苑の薄桃色を連想の軸にして︑次
の連への転換を果たしていく︵擁屋形にはこの花の表麗がないので︑綴
墨形ではこの具体性を醍癒していないことになる︶︒だから︑神︵⑮で
は古代ギ夢シアの神からキ縫スト教の禅へ転換していると解せる︶に遜
じる﹁永遠﹂は身体的に身近な存在として表現されても︑語り手を瞬ら
すものとして茶化されるのである︒
⑮の繭半の文は︑語ウ手が﹁永遠﹂により近い灘にいて﹁永遠﹂に対
するイ讐二一を表現するという点で⑤に共選しているが︑後半の文でも
重ねて⑭での精神的になった表現を鵜らげようとする︒そのために︑
﹁永遠﹂に近い麟にいながら︑これとそぐわな雛現実的な行為としての魚
釣拳の意志の表現を媒介にして︑聖職者へのイロニーを表現するのであ
る︒﹁ゴンドラ﹂でも短られる水の都ヴェネツィア生まれの﹁僭王ベン ボー﹂を引き離すためには︑海ないし梅での魚釣りという連想の軸が必要であった︒ ⑱も⑱と羅様に︑基本的には文と文との闘係性に︑秀吟が連想の軸になっているとはいえ︑意味の無を表現しようとしている︒⑮と違うのは︑直前の連との関連性を払拭する表現をしている点である︒それはこれまでの連にはなかった麟激的な感覚表現︑つま箏︑唐突に﹁アカシアの花﹂を趨現させるという︑難やかな観覚に訴える表現や︑語警手が羅鴬的なものによって葬馨常的な行為をとることで生じる︑飲食に麗わる不快な表現を敢えてすることによって︑⑮との関係性を懸絶しているということである︒﹁オドコロン﹂は睡黙趨ではないから⑯の後半の文は醸りの意味をもたないし︑飲んだからといって致死にはならないであろう︒次の⑰との経連牲もあるの外\﹁オドコ灘ンを飲﹂むという行為が自死を目論むものではないことを確認しておきたい︒また︑﹁忽然﹂として花がどうなったか不明にされているとか︑化粧水を飲むという︑互いに異質ではあるが意襲された正常ではない表現︑また︑それぞれの文瞬士の関連性のなさなどから考えれば︑⑳におけるイロニーとは︑④や⑪などと麟様︑現実的︑常識的な詩の表醗に蝿するものであろう︒ ⑰は︑﹁オドコロンを飲ん﹂でも死なないの外︑﹁死よさらば!﹂だという読みも罵能だが︑それではこの詩全体のねらいである︑各達に連露体で独立している意味の無を表現するという主旨に合わないので︑⑰も独立した連としてとらえたほうが適切であろう︒短雛言葉でできている⑳は様々な読みが可能だが︑﹁死よさらば!﹂だけでは︑死を超えて生があるというような糖神性を表す表現なのか︑②にあったような永劫騒帰や輪魑思想などをふまえた哲学的な表現なのか不窮である︒言葉だけに溢目して読めば︑語り手は人聞としての立場を掻き消し︑一挙に死を超えて不滅牲を獲得しているので︑譲り手の消去ないし無化によ今⑰を誰の言葉でもないものにすることで\この言葉に意味を与えないようにしている︑つまり︑意味の無を表現しようとしているとも解せる︒
(一
縺j
︵二〇︶
器皿
!狂宏1蓑嚢彗毒聾攣三三舞菊タ萎寺寝嚢葎玉タノレ火夫」を読む(一ト
しかし︑詩﹁酸郭タル火夫﹂全体に関わる窃一書にもどって考えれば︑
宣言は各連に言葉と言葉との結合によって意味の無を表饗するとい.つこ
とであ参︑⑰のように︑文にならない一つの極めて短い言葉だけでそれ
を表現することではなかった︒しかも︑この短い言葉︵語句︶が表そう
としている意味だけに敏遜して意稼の無を表現するということは︑宣言
の趣露に反することである︒事実︑窃鎧形では⑳は⑱に取り込まれて
いた表現であ彗︑しかも︑﹁さらば﹂をするのは﹁死﹂ではなくその対象
は醗蘇にされていた︒こう考えれば⑰は最終達の⑳と同様︑携外的な
連として掻わなければならない︒ということは︑⑳と溝様︵後述する︶
に⑰は蕎か意瞭をもった表現だということになる︒
︸︑死よさらば!﹂は︑﹁死﹂を呼称としてそれとの訣劉を表しているが︑
語参手が﹁死﹂に対してこういえるということは︑不滅でない人聞の不
滅なものへの反逆の表現として読むことが可能である︒﹁死﹂を辱称とし
た雛︑不滅なもの︑ないしは神への反逆の表現をした詩人には詩集﹃悪
の華輪︵初級は一八五七年︶の詩人ぶ⁝ドレ⁝ルがいるが︑潤えば︑この ゆむぬ詩集第二版︵一八六一年︶に較められてる詩﹁>ぴ免簿○讐ごで稜は︑
﹃創雛記﹄第懸章のカインの神誌を縫い︑神を地上に引きず撃落とせとい
うかたちで︑鮭会秩序への反逆を神への反逆として霧いている︒しかも
この﹁カインの神話にプロメーテウスの神語が重ね合わせられているこ ゆだ とは諸家の指摘するとこタ﹂としてよく知られている︒いうまでもなく︑
ギサシア神話のなかのプ冒メ⁝テウス︵人聞ではない︶の禅譲とは︑ゼ
ウスが﹁死すべき人聞どもに与えるのを撓んだヒ︑天上の火を盗み鵡す﹂
「門m性﹄プ藤メ⁝テウス﹂の話である︒
こう考えたうえで︑カインやプロメーテウスの禅への反逆に︑﹁死よさ
らば!﹂という表現を藍覆してみると︑﹁騨﹂と﹁死﹂と弊︑は雑念が相違
するものの︑爾毒は不滅なもの︑絶対的なものに対する反逆という共通
点が寛いだせるのである︒﹁死よさらば!﹂が死に対する反逆の表現であ
るということは︑この詩﹁馥郁タル火夫﹂の作者である藪脇顧⁝二郎が︑ ﹁宇宙の﹃無﹄を︑人聞の存在を超えてある絶対的な門無臨として認識している﹂のに︑そのような二元的な認識の立場に立つことは︑人聞生活の無擬につながることだ﹂として否定した態度に深いところで繋がっていると考えられる︒つまり︑かつてボ!ドレー婆アンであった蓉脇顧三部には︑絶対的な存在に反逆するボ⁝ドレール︵瞬時簸のフランス象籔主義の詩人であったヴァレ肇一なども扇様である︶の詩の影響があることは充分に考えられるわけで︑彼が詩の語撃手を通して﹁死よさらばi﹂といわせたことと合わせて︑それらは彼の存在認識である絶対的な存在の無︵死︶に自らが銃う︵反逆する︶という態度に繋がっていたのである︒換言すれば︑この態度がボードレールの詩の反逆の表現を学ばせ︑﹁死よさらば⁝﹂という表碗を生んだともいえる︒この意味で⑳と最終運は縛応の麗係にあり︑⑳の﹁来たらんか︑火よ﹂は︑語鞍手が自らを神に反逆して﹁火﹂︵新しい詩の暗礁︶を盗んでくる﹁﹃知性﹄プ
欝メーテウス﹂Ω瞬鐵︶にしようとしている表現である︒こうしてみれ
ば︑⑳には絶対的な存姦の無︵死︶に貌って詩を書き続けるという︑語
り手の隠された意志が表現されていることにな参︑⑰はそうした﹁死﹂
に対するイロニ⁝の表現にもなっているのである︒
欝
⑱は意味の上ではそれぞれ関係がない睡つの文からなる︒最霧の文
は︑金曜讐に暴色を売渡そうとしたら︑橋上で呼ぶ者があるので是を花
の上に持ち上げたという大意で︑現実的にはありえない語り手の行為に
よって意味のない表現を試みている︒では響故⑱は﹁金曜購﹂から始ま
るのだろうか︒①︑⑨で検討したように︑詩の論蓬︵宣言︶としては各
連は独立した表現を舞指されても︑実鰹に遷を変えて詩作していくとき︑
慶遠してきたように︑多くの場合︑この詩の藷撃手は詩の意味の表屡で
は装法的に連と達との醒係性を切ってはいなかった︒ここでも︑⑳の
2鰯年!2罪 人鐸発達文建学類論簗 第4弩
72
﹁死よさらば⁝﹂から︑⑱では死を超えた︵復活した︶キリストが連想
されているわけで︑キサストが十字架で蝶璃になって以来受け継いでい
る墾金曜響︑受難繧を表す﹁︵ぐ益憶︐誉蓼丘が︑﹁善良な籔纏性を有する
金曜霞﹂という表現になっている︒
次の語句は︑﹁水管パイプ﹂︵新講︑水煙管・みずぎせる︶を上にあげ
て詩つという表饗だが︑そうするのは水煙管が長いからである︒水煙管
︵ぎ乱蚕︶縁慶墨のボードレ⁝ル詩集﹃悪の華﹄︵第二集︶の雪頭に収め
られている詩﹁>症ピ袋欝ξ︵讒者に︶﹂︵窃継は一八五五年︶に畿てくる
が︑この詩の譲り手はこの時代に流行った︑瞬片︑アシ⁝シュの喫煙具
としての水燵管をすいながら死罪を空想しているので︑この詩がふまえ
られているとすれば︑次の誘句にある﹁眺望﹂は︑明示する意騒はない
ものの︑購に倦怠が見させる空想の量界を癒すことになる︒あるいは︑
東方渡来の水煙管ということを重視すれば︑ロード・ダンセイニ︵ζ︶a
囲ζ薙一塁 塗養奪お驚︶のコフ笙霧︵︶コざ︺&簿︵驚異の物藷ζ︵電§に
鞍められている短纏﹁霞○を≧一Ω葺慈ε9¢蔓舞鍔○︵︶ε一鱗三︵ア夢が煤
煙の麟に来た訳︶の︑水煙管を燥らす放擲ペルシャに蔑む主人公アリの
イメ⁝ジをふまえているのかも知れない︒アリは三十年葭に灘ン翁ンに
住む友人に頼まれて︑イングランざの邪悪︵産業革命をもたらした蒸気︶
を睦むべくイングランドに響ばれ︑産業革命がつくった景観が街を騨醸
しているのを見たが︑三十年後の︑再度の依頼に水煙管を銜えながら遍去
のことを思い︑気怠いなかで行かないことに決めるのである︑とすれば
﹁醗望﹂は産業革命後のイングランドの勝景ということになろう︒いずれ
にせよ︑水煙管が気怠さのなかで作篤して﹁醗望﹂を引墨しているので
ある・また︑﹁金曜馨﹂から﹁水管パイプ﹂への転換は東方という言葉が
連想の軸になっているとも考えられるし︑騨片︑アシーシュの喫煙具と
しての水煙管は﹁善喪な臨綾牲を有する金曜9﹂︑つまリキ婆スト教への
イ覆工ーになっている︒
﹁眺望の方へ霧かんとする﹂は︑景色を見る行為ないしは見た結果へ ﹁嚢か﹂おうという文賑になるので︑故意に饗本語としての意練が伝わり難くなるように︑その正確な使い方を壊している︒これは醗逃したよう ハ むに︑景色を発護そうとするの意味であろう︒この時︑橋上で﹁辱ぶものあれば﹂というのは︑⑤︑⑥と講様に﹁する者あれば﹂の文体のパタヤンであり︑それをまた⑱で繰む返していてややマンネリズムに簸っている︒また︑﹁足﹂を﹁の上にもち上げる﹂も③のヴァ弓工ーシ避ンであり⑱で繰り返されている︒句点で区切られた⑱の三つの語句のうちの最後の語句は︑︷つ露︑二つ彗の語句に︑⑱以前に試みられた文体を繋げているだけなのである︒ ﹁響ぶものあれば﹂﹁建を﹂﹁もち上げる﹂という鑓果縫係を使いながら︑⑱の最密の文の最後では︑語鯵手の現実にはあ陰えない行為を語ることで︑ここでも意味の無を表遅しようとしている︒﹁露営に急ぎて﹂という︑②で多覆した﹁非常に﹂という重︑要な意味の形成をするわけではない霜葉を含む︑文語講を採陰入れた散文体も︑語婆手のスピード感のある非現実的な行為を簸りはするが︑この行為の意味の遷解に羅与してくることはない︒③とは違って︑⑱における﹁足を﹂鶴かの﹁上にもち上げる﹂という表現は︑ケルト罠族系の古謹であるウェ⁝ルズの古英雄謹﹁マビノギオン をふまえていると考えられる︒この古護には︑戦時以外は常に少女ゴイウィンの膝に建を乗せていないと生きていけない︑ダサル城に住むグウィネズの王マスが鐡てくる︒マスは戦時以外は足をその地方で最も美しい女性の膝にもち上げていないと生きていけないほどなのである︒このことは二文飛ぶけれど︑⑱の最後の文の響頭の﹁安慰する﹂に繋がっていくことになる︒とすれば︑ここでは少女ゴイウィ︑ンが﹁アムブロジア﹂に換えられていると考えられるわけである︒ここでは欝片︑アシ⁝シュの喫煙具としての承煙管をすう表現から︑﹁アムブロジア﹂を整う表現へ移行していることからみて︑詩は曝覚を軸にして転換していくことになる︒ 一般的には﹁アムプ霞ジア﹂は神々の食べ物︵神々の飲み梅はネクタ
(一︶
︵二二︶
渾 正宏二藤毅1顯三三鄭の詩蔭菱鄭タノレ火夫」を講む(下 雄
ル︶︑あるいはこれから滅生した不老不死になる食べ勃のア︶とだが︑ウェ ハむヤルギ婆ウス︵藻出︶の﹃アエネ⁝イス﹄第十二巻に鍵れば︑女禅ウェヌ
スがトロイアの英雄アエネーア⁝スの受けた矢傷を癒した液汁とされ︑ ハマ 遜じ作者の﹃農耕詩﹄第醤巻に凝れば香水︑香濾のようなものとされて
いるので︑神々の傷薬とか大変香りがい秘食べ霧の意味もある︒そうす
ると︑この藻分は本来なら︑もち上げた足の下にある傷薬ないしは美味
芳香の食べ梅に癒され満たされる意味をもつ罵能性があったのに︑﹁是
を﹂﹁もち上げる﹂という行為の元々の意鎌が隠されることで︑単に禅々
の食べ梅に対する失礼な行為︑もう少し大きくとらえるならば神々への
イロニーの表現に変容してしまうのである︒そして敷衍すれば︑この不
老不死のものへのイロニーは︑賎崖の⑬の絶対的な存在に筑う表現にも
つながっているのである︒
次の﹁すべては顧である﹂という表現は︑講遷的な鱗齪を欠くが﹁す
べて﹂に対する簸言的命題の文体をとっている︒これまで験試してきた
ように︑各連を意味の上で切っていても︑語り手においては各連と連の
題に言葉の繋がりがみられたことを考慰するならば︑この主辞としての
﹁すべて﹂は︑文字どお馨の﹁すべて﹂という意味において︑⑳肇︑述べ
ておいた不滅なもの︑絶対的なものをも包含しなければならない︒こう
した﹁すべて﹂に端して賓辞が﹁腰﹂なのだから︑題らかにこの表環は︑
この直前の﹁アムブロジア﹂を綾つた神々へのイ窟二⁝の表現との繋が
むを意識したうえでの︑身体部位の一つである顯を襲った﹁すべて﹂︵不
滅なもの︑絶対的なものを含む︶に対するイロニーなのである︒
そうすると︑﹁すべて﹂は﹁額﹂によって橿対化されるわけだが︑次の
文では﹁人は顧の難く完全にならんとする﹂というように︑今度はこの
﹁額﹂は人聞に対するイ震二⁝にも使われている︒だから︑額は麹︵身体
部位︶自体を毒示する表現でもよかったのだが︑﹁完全﹂の比職表現に使
われることで︑麟は暗礁としての意味を担っている表現にもなるのであ
る︒しかも︑人聞は完全になろうとするときすべてである額をモデルに すると表現されたとき︑﹁完全﹂という言葉自体もイロニカルに硬われている壕能牲がある︒このことは︑顛が握っている意味がわかれば﹁完全﹂という喬葉の意味も綴定できるということになる︒ これまでこの論考で挙げてきた︑西脇顯三郎が読んだであろうと推定できる書のなかに﹁繧﹂の表現がある︒それは縦えば︑ボードレールの詩集円悪の華﹄︵第二版︑前出︶に収められている詩﹁9ρ <C旨蓉 鯵O冤夢伽霧︵シテ⁝ル島への旅ごに鐵てくる顎︵蓉蓼マ︺マ霧︶で︑ここでは顎は瞬欲を聴んで裂く身体の部鍾として墨てくる︒また︑ディケンズ
︵○ぎ二塗H︶搾蓉霧蕊一に〜ぎ︶の門二鄭梅謡﹄には︑イギ婆スのジョージ
羅童︵餐湊〜窮き︶とフランスのルイ馬糞︵一§似〜器︶という︑﹁威厳も
かくかく薪々とかがやき︑いわゆる神授の王権を昆然としてふりかざしていた﹂
︸天の王の大きな顎︵三蓋三箋︶の表現が鐵てくる︒ここでは顎は絶
大な王権の象鍛としての意味を磐与されている.︑こう考えてみると︑
ハみロ﹁額﹂が暗職としての意瞭を担っているとすれば︑それは人間の肉欲や権
力だということになろう︒
だから︑﹁すべては顯である﹂といって鐵対化された﹁すべて﹂は︑次
の文では人隠縫界の次元での表現に切塗替えられ︑人聞は人聞糧舞での
﹁完全﹂︵﹁すべて﹂の属性﹂︶としての肉欲や権力といった欲望に化そう
とするものだと︑こんどは人聞認識における臨霊的命題の文体で表現さ
れるのである︒この表現は欲望にとらわれて生きる人懸へのイ冒二一で
あり︑人聞重葬における﹁完全﹂という言葉へのイ露二一にもなってい
る︒また︑連続はしていないが︑人間の欲望へのイ罠二一は⑭に繋がっ
てお拳︑詩﹁馥郁タル火夫﹂全体からみたとき︑それは一つのモティ⁝
フであることがわかる︒
⑱の最後の文は︑醗に詣擁しておいたように︑連想としては⑱の最
密の文の癒されるイメージを受けている︒そして︑﹁駿﹂から瞬じく身体
部位の︸つである﹁額﹂へと表現の中心になる言葉を換えることで文を
つくっている︒そしてこの文からは︑現実的な意味は不瞬だが︑微笑し
21巽鶏年鴛至 人闘登達文篤学類論集 第4号
7§
ていても安息のない額をど窟ードに包むというのだから︑ ︸見して暖か
い安らぎの感触を与えるイメージが羨み取れる︒額から額への転換︑﹁天
驚絃の中に包﹂まれた﹁額﹂から考えると︑この文はウイ夢アム・ラン
グランド︵≦憲欝欝簿5牲讐鉱5零懸〜蕊︒︒εの著作である﹃蒙Φ駿 ヨじ鷲○≦華鬘︵農夫ピアズ︶﹄︵一五五〇年︶の序歌に鐡てくる﹁白︒簿腰讐峯
︵率蓼三︵上籔法廷弁護士︶の揚がれ方とその巖装をふまえていると考え
られる︒ ﹃農夫ピアズ﹂については茜騰顯三郎の著作に﹁≦妻霧ρピ舞薦酬讐a
︵醗究社︑昭穰8年盤月︶があるので︑被がこの書を議んでいたことは確
かであり︑これは十懸盤紀後半の宗教弊の震欺などイギ︾ス社会の危機
を寓意的に難くことで︑カトサックの改革を求めていたラングランドが
キ9スト教における社会改革の夢を書いた書であった︒上綴法廷弁護士
とは露玉に任欝された最も優秀な裁懸賞であり︑弁護も難どは彼らだけ
に許されていた鼻彼らは﹃農夫ピアズ﹄のなかではキ婆スト教の精神を
全く忘れ︑法律を無規して金銭のためだけに弁識する麩綴の人物として
搭かれているむまた︑彼らの服装の最大の特徴は︑顎の下で確り留めて
ある︑額を覆うために頭にきちんと被る白い職轄︵8δで︑絹のもの
もあった︒そうすると︑﹁天鵞絨﹂は絹織物の︼つであるから額を柔らか
く包むこの職輯のことを撮し︑﹁安息する畷もなく微笑する﹂のは︑金銭
欲に溺れて多忙な上綴法廷弁護士のことを旛していると考えれば︑⑱の
最後の文を無運なく羨むことが瞬能である︒この文が漿落した上級法廷
弁護士への︵と静わけ金銭欲への︶イロニーになっていることはいうま
でもな雛︒付撫すれば︑嚢脇顯三鄭は著作﹃≦箋効霧鐘蔓野垂︵醗鐵︶
のなかで︑ラングランドの文学を﹁も畦8藍も9難蔦難の文学﹂と規定してい
るが︑ラングランドの鏡江毒︵講勅︑皮肉の意味︶の績禅がこの文では
イ藤二一に変容された表現になっているのである︒
総
⑲は⑦に鐵てきた﹁從僕﹂という言葉をまた縫い︑今度は主従の関
係は普通だが何の聾的で辱んだのかを表覆しないことで︑⑲の連の詩と
しての意味を曖昧にし無にしようと目論んでいる︒⑱から⑲への転換
は︑詩の表霧上での意味は切懸されていても知的な技巧としては連続し
ており︑⑲の﹁コズメチツク﹂︵頭髪罵化粧品﹀は︑⑮にも﹁オドコ欝
ン﹂︵香水入り化経水︶はあったが︑詩集四漂蕎物﹄や詩集隅悪の華脇 ぢぬなどで人間の身体と結びつけてやわらかい﹁天驚繍﹂を表現したボ⁝ド
レールから︑美術翫評﹁募H︶魚感霧号ざくぞ露○蓼一︑霧︵現代生活の麟
家︶﹂などをみてもわかるように︑化粧にも聾心が深かったボードレ⁝ル
ヘの連想から着想されている︑しかも︑髭鞍暴によって呼びつけられる
﹁從僕﹂も︑﹃悪の華﹄︵第二版︑藤出︶に複数形ではあるが﹁o︒象︑<謬建議﹂
︵従僕︶︑﹁鐸駕盈︵下男︑召硬︶などとして出てくる言葉であった︒こ
のように︑⑲は⑦に鐵た主人と﹁從僕﹂との露係と︑ボードレールの
詩の言葉︵薦語︶の連想とを駆使することからできており︑ここには古
い身分縫係や鱗度を文のベースにし︑それらに言及しないレベルで︑大
鹿が化粧品のために主人に辱びつけられるというイロニーが表現されて
いるのである︒だからこれは直繭の⑱のイロニーに比べれば軽いもので
ある︒ ⑳は五つの文からなるが︑一文聾と二文露は﹁やがて﹂で繋が酵︑
三︑獲︑五文§はそれぞれ﹁それは﹂﹁これを﹂というように︑癩示代名
詞を含む言葉で繋がっていると考えられる︒だが︑このように二文霧と
三文響との問に詩としての文章の繋がりが騒ち切られているとはいえ︑
そもそも五つの文はそれぞれにおいても︑またそれぞれの繋が瞬におい
ても意味不明な表現であり︑表現を意秣不羇にすることで︑この詩の書
き手は譲り手を懐って連としての⑳にも立愚昧の無を表饗しようとしてい
るわけである︒
曇
︵二鰯︶
澤 量三宏:藝薄霧諜嚢三三蕪葦の萎寺「義髪董毒タル火夫」を毒慧む(マご 鱒
⑳の一文目も⑲と霧様に︑ボードレールの詩の言葉︵零議︶の連想
で繋げられている︒つまり︑頭髪罵化粧贔璽頚から﹁麟髄﹂を連想して
いるのである︒﹁麟髄﹂は﹃悪の華﹄︵第二版︑前旗︶に頻幸する震葉で
あ瞬︑この文ではこうした生遷学講談を使って食梅に向いてしまう﹁羅
髄﹂を茶化している.だから本来なら︑﹁騒墜はフランス語では羅鴬藷
で腿味曙と蠣笑って綾絹されることが多い﹁8ヌ.窪盆の意味であろう
が︑ここではこの茶化しを生かすために蓬知や精神姓を司っている身体
の一藻として表現している︒その意味では遷牲や糖神性などを物体で表
すイマジズムの技法が生かされているともいえるのである︒だから︑ ニグヨーロッパ文学には透代以蒲から﹁塔﹂はよく患てくるが︑ここでの
﹁塔﹂は慶鐡したラングランドの﹃農夫ピアズ﹄の庫獣に鐵てくるよう
な︑麟造主である神を表す糞運︵︑H.一︑9εの住まいの意殊をもつような
﹁塔﹂が適切であろう︒
﹃農夫ピアズ臨では聡萌な真遅の名のもとに人間の欲望を否定している
るが︑一文§の﹁塔﹂は詩の表現としてみれば︑キ蓼スト教で示す真遅
やモラルが捨象される真麗だから︑ここではキリスト教に依麗した撚響
耀神を借鯵て︑真運の塔に住むような人聞の脇髄でも︑﹁チキンカツレツ
に晦って永遠に職燦する﹂というように︑俗過的な人聞の欲望︵ここで
は食欲︶に絶蝿的にとらえられているものだという︑語辱手の大岡認識
を表現して募るのである︒﹁羅漢﹂が真遅から﹁チキンカツレツ﹂へ海か
う落差と︑この落差を食欲に対する﹁職標﹂で﹁永遠﹂化する誇張法が︑
人懸へのおかしさをこめたイ鷺二一の表現になっている︒付撫すれば︑ ユご﹁戦藻﹂も﹃悪の華﹂︵第二版︑薄墨︶によく鐵てくる言葉であった︒⑳
の一文慕はボードレールの詩の毒薬を表簿的に硬いつつ︑人間の欲望を
イロエーとして表現しているのである︒
二文馨も磨突なようだが︑﹁コズメチツク﹂︵頭髪羅化粧品︶︑﹁脳髄﹂
という連悪を受けた︑今度は身体の一部︵物︶としての﹁頭部﹂が中心
になっている︒この詩の作者の︑露騒顯三郎にとって︑﹁杏子﹂が少年簸の 意識の奥底に印象深く薦まれている木の実であることは︑彼の最擁の英藷詩築㎜扉︸︑跨6︑葉んC7鎗︵︑︷︐蓼○蔓影¢︸︑議舞㌘≦︵葬お撃︶蟹頭の詩
﹁↓鵠濁︾H︑罎CO一︐︑粕.麟>9欝完︵杏子先生ごを読めばよくわかる︒﹁ぎ
夢Φ号琶釜︵︶㌘一受簿︷肇︵︶憂︵私の記憶の箋底にはご﹁≦ぎ房︑量器︵騰の
吹いていた暮々︶﹂があ吟︑三筆毒︒臨く韓琶篤8塗を㊦3毎︵態蓼薫ダ一霞幽&ぴ︑
︵銀色の杏子が忙しなく落ちていたごのであるから︑二文騒嫁こうした
少年時の記憶を基にして︑嵐で自然に頭の上に落ちてくる杏子を︑誰か
が何かの意図をもって﹁我が頭部﹂を﹁た・く﹂杏子に変容させている
ことがわかる︒この少年時の記憶が︑③の︑キ蓼スト教信繹者ルナンヘ
のイ鰹二一のために︑﹁足﹂や﹁麟雛﹂とともに表現された幼少蒔の記憶
とは対照的に︑キ讐スト教思想に依擁した欲望へのイ讐二一の表現︵一
文目︶に続けるために︑﹁頭﹂や﹁杏子﹂とともに意図的に表現されてい
ることも見逃せない︒ただ︑この二文にはこれが一文に従験しているた
めイロニーの表現はみい幸せないだろう.
一︑二文と三文以下とは意味の上では切れているが︑基本的には︑表
面的な言葉のレベルで﹁麗髄﹂や﹁頭部﹂に録するものとして︑後餐に
﹁鍾﹂が対照を騒られて鐵てくるのであり︑連想上は切れていない︒﹁鍾﹂
はそれだけではなノ\﹁頚部﹂や﹁杏子﹂が③の﹁建﹂や﹁胡擁﹂との
対照から表糧されたこととも関わって辱び農された言葉である︒そこで
まず﹁錘﹂を験す﹁莚懸﹂だが︑踵を験すから低い位置に置かれた花瓶 ニさを思わせ︑その後に伝説上の花とはいえ﹁アマラント﹂が鐵てくるので
繋がらないわけではないが︑これは﹁鍾﹂を遠接に表現しないための小
道異なのである︒つまり︑﹁苑叛﹂は鏡の役麟をしているわけであ撃︑鏡
といえば詩集﹃悪の華﹄︵第二版︑鋳鐡︶に十か所以上崖てくる言葉なの
で︑ここでもやはリボ⁝ドレールを意識して︑鏡が詩において果たす一
つの役譲を使おうとしていると考えざるをえない︒ここで小遵糞とは︑
〔、ヤ醸﹂が実際の身体ではなく︑麟された身体としての﹁鍾﹂を通して︑
⑳の後半を現実ではない非現実的な世界へ導くために綾われているとい
2{}雛暮年玉2薦
人縫発達文亀掌類論集 第4簿 舗
う意味である︑それは最後の五文羅で︑語鯵手が自分自身の身体である
﹁銀﹂を伝議上の縫物と購鬘髭させることで︑感欝を伴った人霧的な撹線
を消失させている表現と辱癒している︒聡題は︑語り手がこのように自
分の鰻や視線を不滅の花と躍化させることで︑露らを不滅とか絶対と
いった轡罪に近づけていることである︒承楽ならそれは窪身の身体に
よってではなく︑詩の意味の無の表現によって果たすことであったはず
である.だから厳密にいえば︑⑳の最後の文は①の宣言から逸脱して
いる義理になっているのである︒
⑳の三文舞以下は︑﹁花瓶﹂が現実から穽現実への転換に綾われたり︑
﹁花籏﹂が鷲象を験し墨す鏡であると溝鋳に︑語り手の対象に対する﹁燐
み﹂の意識を験しだす鏡として表現されている点に︑西臨顧三郎におけ
るボードレールの影響をみることができるが︑踵は擁故﹁夕餐より帰り
しピートロ﹂ものでなければならなかったのだろうか︒﹁ビート欝﹂は︑
フィレンツェ生れの作家であるフランコ・サケッティ︵等讐8 も︒霧− ハむ︒冨叢叢W︒懸〜震黛懸︶の﹃︑H一霧婁築︶き毒濠︵﹃㎜一嘗の小議︶﹄︵一三九
九年填︶第喜五十七謡に患てくる中心人物をモデルにしていると考えら
れる︒破縁﹁ピエトロ・アルフォンソという名のイスパニや紳士﹂であ
り︑このなかでは﹁とてつもない大食漢﹂として紹介されている︒﹁ビー
トEは﹁夕餐より鶴﹂って来た満腹の﹁大食漢﹂でなければならなかっ
たのである︒﹁大食漢﹂だからこそ﹁燐みをもってみ﹂られようとしたの
であ滲︑﹁大食漢﹂が皮肉られるのではなく︑﹁大食漢﹂を疑る鍵の﹁襲﹂
が大食とは無縁の嬉物と化すことで食欲が浮き立ち︑間接的に食欲が皮
瞬られることになる︒⑳には薦挙と瞬様︑後半にも食欲に対するイロ
ニーが表現されているわけである︒
最終連の⑳は①の宣言に対癒している連である︒そして︑襲にこの
論考の第建章の最終認分で読み解いておいたように︑﹁火﹂は①で宣毒
したような︑これまでの羅本の詩︵主に近代詩︶にはない新しい詩の暗
晦である︒だから︑詩のタイトルの﹁火夫﹂は新しい詩をもたらす詩人 の暗礁になる臼﹁馥郁タル﹂とは芳香が盛んに匂う様子であるが︑この詩の全体は①の宣欝に沿うように意騒されていて嗅覚は意図されていなかったから︑それは新しい詩︑ないしは新しい詩人の墨現の鮮やかさを嗅覚で表したまでである︒だから⑳連を考癒していえば︑この詩のタイトルは詩﹁酸翻タル火夫﹂が新しい詩それ聚体ではなく︑新しい詩の試みであることを語ってお鯵︑そこには新しい詩を簸待している作者の意識が反硬しているのである︒また︑タイトルの文体が示しているように︑この詩が現代詩でありながら文語体を基講としていることも︑新しい詩の文体として認識されていることであった︒
舞
この論考の第4章の冒頭で確認しておいたように︑詩﹁馥郁タル火夫﹂
は︑意味のうえで遠い露係にある言葉欝重を結合させるという鷺鈴な方
法によって︑詩の各連に言葉の意味の無︵清瀬︶を表現するということ
を意図︵宣言︶していた.また︑こうした意味の無の表現を遷してイロ
ニ⁝の表現も意図していた︒これまで全二十︼連を検討してきたわけだ
が︑この検討に従って︑全二十連にこうした意図が様々なかたちで試み
られていたことを連単位で整還してみると︑①の露頭の宣言に沿った表
憂は︑①の後半の文を含めて②と︑そして霜葉隅士の遠い関係の結合が
やや緩くなるものの⑧から⑦までと︑⑨︑⑪︑⑬から⑱までと︑⑱︑
⑳︵全懇連︶ということになる︒すると①の宣言通りになっていないと
響藪できる連が⑧︑⑱︑⑫︑⑰︑⑲と全離で五連あることになる︒つ
ま診︑詩﹁馥郁タル火夫﹂は羅分一の連が宣言に反していて︑宣言は徹
底されていなかったことになる︒
次に︑宣誘に対しては従の関係になるのでその対象は焦点化されない
ことになるが︑イロニーの表現をこれも連単位で整遅︵挺し︑連が重な
る場合がある︶してみると︑欲望に関する連が詩の後半に集中していブ\
︵二五︶
︵二六︶
澤 蕉宏1露雛羅三編の詩「嚢螺タル火夫」を読むCド §7
社会的な地位や身分への⑫を含めて⑬︵食欲︶︑⑭︵性欲︶︑⑱︵肉欲︑
権力欲︑金銭欲︶︑⑳︵二種の食欲︶と全藻で五連で最も多い︒次いで︑
雲容は異なるが絶対的なもの︑不滅なもの︑また永遠の観念に関する連
が⑤︑⑬︑⑳︑⑱︵二つある︶と全部で羅連また︑主にキ縫スト教や
その鶴鐸者を中心として精神的なことがらに関する連も①︑③︑⑥︑⑱
と全部で懸遵ある︒催には︑現実的︑常識的な表現に麗わる連が④︑
⑪︑⑯と全灘で三連︑イロニーが明示的になっていない連も⑦︑⑧︑⑱
と全部で三連ロマン主義に麗わる達が③︑⑨と全部で二連︑暗闘に関
する連︵②︶と︑梅に動かされる大閤に関する連︵⑲︶が各一連となっ
ている︒こうしたイ鷺二⁝の表現をみると︑意味の無の表現の乗鞍と
なっている書物や事象が︑人聞の欲望や永遠︑死︑無などといった絶対
的な観念や精神的なことがらなどに葉申しているという特色が裸参鐡せ
るのである︒
さてそうすると︑詩﹁簸藩タル火夫﹂において︑①の富言が最終的に
意図していたこととは擁であったのだろうか︒それは︑詩の各連に言葉
の意味鈴無︵消滅︶を表醸するということから考えれば︑全二十連に言
葉の意味の無を表凝することを通して︑詩の全体を絶対釣な無の象徴に
することだということがわかる︒ところで︑ヴァレ華⁝は﹁純無爵⁝一 ︹醍﹂ ママ・ . . . . . 毒︶或る講演の覚書﹂のなかで︑﹁純粋詩と舞う代参に︑絶対詩と覆うほう力
或いはよいかも知れず︑そしてその場合これを︑語の諸騰係︑或いはむ
しろ藷の権互闘の業曝の諸縣係よむ結果する効果の探索という意味に︑
ヨ づ の ヨ ゆ ゆ ヨ せ ロ る か け る ハ お解すべきであろう︒これは要するに︑かの言語によって支醗されている
ヤ ゆ ら る ゆ や リ ヤ ね懲性の全顛域の探求ということを暗示するものである﹂と妻いている︒ サ ヨ ぜ ゆ ヨ の ね ヨ るフランス象機主義の重要な詩饒である﹁感性の全領域の探求﹂という言
葉を除いて譲めば︑ヴァレサ享の詩観は誌﹁馥郁タル火夫﹂における茜 ハむヤ脇題二郎の詩の試みに残ど講じである.と?3芝は︑もっぱら遅惣的
に馨本の現代誌を酸華しょうと実践してきた嚢脇顯三郎は︑詩論のうえ
ではその基盤にヴァレ婆一に代表されるような象鐵主義詩の考え方をふ まえていたのである︒掘違点は詩の言葉︵表現︶の意味の無を﹁純粋﹂ ゆ ヨとか﹁絶対﹂とかといっても︑それを人瞬の存在とどう関わらせて考えたかというところにあった︒ つま診︑西脇顧三部は①で宣言した方法で表現される︑意味の﹁無﹂ ご さ ハ ゆ の ゆによる﹁純粋詩﹂ないしは﹁絶対詩﹂にこだわるあまり︑その﹁無﹂がヴァレリーの場合のような存在の無に航えるような﹁無﹂ではなくなっているのである︒この論考の第聾章の最終部分栖︑遜べておいたように︑癒脇頼三郎もヴァレサ!線様に絶対的な存在の無に統う詩人であった︒このことは︑羅達したように詩﹁馥郁タル火夫﹂において永遠︑死︑無などといった絶娠的な緩念へのイロニーが多かったこと︑と参わけ︑⑰の髭よさらば之という表現が絶対的な存在の無︵髭﹂︶に対するイ賞二一であったことの験証からも窮らかであったわけだが︑このような詩に賭する自らの姿勢︑態度と︑詩議郁タル火夫﹂におけるような絶対的な無を象徴する詩の表現を実現させていくこととの鑓わ触合いを︑彼は厳しく突き詰めて考えてはいなかった︒ 例えば︑縞神性を獲得しな琶ままで﹁永遠﹂に近い位置にいて︑﹁かまびすし﹂いだけの﹁永遠﹂という存在を議っていた⑤は︑たとえ全体として意味の無の表現になっていても︑これが絶短的な存姦の無に対麟でき︑それに充分に抗える表現だとはいえないのである︒霧様のことは︑縞神的に受け止めないで茶化すだけの﹁永遠﹂を語っていた⑳や︑﹁すべて﹂といいながら︑絶蝿的なものという意味を含むそれを︑暗瞼としての人糞の肉欲や権力だけに焦点化させている⑱にもいえることである︒ だから︑ヴァレ︾一の詩醗にもど鐸︑この詩醗を譲っていえば︑詩
﹁馥郁タル火夫﹂の全体としての表現は︑絶対的な存在の無に抗える表現
ではなく︑﹁感性の全額域﹂を消滅させる表現だったのである︒駿に①
で謹み解いたように︑この誇の實言は意味のうえで遠い関係にある霊葉
購童の結合が詩の意味の無をもたらすということであった︒だが︑この
彗5﹁
ウ島エ
罫ピ垂
春 .ラ一
人縫発達文先学類、譲集 第4号 66
欝一pは詩の言葉が読み手に意識の無を生じさせるということに支えられ
ているわけだから︑それは詩を読んで現実的なものごとを一切意識しな
い状態になること︑つま琴︑詩の読み手が表現の無との癒着を通して存
姦の無との霧近を示すことに繋がっていくのであ鯵︑露脇顯三郎は詩
㎝、e郁タル火夫﹂を書く時点ではこのことに自覚的であったとはいえない
のである︒
︵平成十八年十月十三黙受運︶
縫/費
運
瞼 難
醸鱒
麟
騒 励
騒麟 ﹃量暴大唐科事典i施︵平凡社︑駿籟齢年7鷺︶の﹁あらせいとう﹂の環よ陰 注麟にあげた詩雑誌に輝じ︒ 器弩︑単成算年5弩︶を参覆していただきたい︒ ては︑雛稿﹁紹稽十二年の西脇顯三鄭﹂ ㎜﹁薦駿顯三郎を認ぷ会﹂会報第 注難にあげた童照より撰篤した︒西臆藻撚二郷におけるランボーヘの縫心につい @の連を参薫︒ 注縫にあげた書よ讐喫篤した︒靉靆顯三部における レヘの開心は①︑ 黙︶︒ 貯難聴達貸越〜澄懸︶の﹃レスビアの歌﹄を抄訳している︵詩﹁G蒼色饗﹂参 議駁している詩隻﹃奪ミぎミミや﹄の﹁撞典哀歌﹂の章で︑カトゥルルス︵ρ誉乎 擢も覇名霧︵璽叢︶に遜った︒なお︑茜脇曝⁝二郎壷身も詩﹁酸難タル火夫﹂を 中歯難夫籏訳﹃ローマ恋愛詩人集隔︵籔文縫︑曙穂懸年7弩︶を参難した︒撰 き足萎え﹂は﹁輪講﹂であ讐︑﹁本義﹂に縁﹁−疑鱗﹂があるとある︒ の疑名識縢︵審波童毘矯︑紹秘鍵年5月︶に縫った︒なお︑隣霧によれば﹁名も賞瞬 窪窪ぴ︵棚︵鵡八重紀末壊︶の諜の廉題は州騨讐二︷鉱驚2一巽簡潔︒鱗絹は訟平千秋訳 注鋤にあげた詩雑誌裟瞬じ︒ の弟子であった︒ ス︵幾=兆騰\蒙る踏一書零ご︸罵鴎㏄Qp\邸0む笛訟欝泌︶はア亨ストテレス︵きωDc轟禽一〜い蒔騎濤声︶ 注総を参照のこと︒なお︑神の難く話す人の愚昧を名麟にもつテオプラスト 目︶よ鯵嶺濁した︒ 蜜本光雄譲門ア︾ストテレス全集第十五誉 致溝学品︵湾農豊里房︑曙籟騰年縫 欝月︶を霧ア難し︑崇題も訳鷲の続集による幡菊欝章に鑓つた群 原題はむ︒毒屡ゑ鋳3この論考では擁溜重購譲の講名毒︵岩波露店︑畷鞍覆年
嚢縁した︒
麟鑓 麟
翻舗
懸 総
鯵織
欝 欝
雛懸 編
アキレウスの最後については︑アルクティーノス︵>葺§霧︶聾の英雄療事葵
﹃アイティオピス︵>鋸瓢ε塗ζで語られている︒ ﹃承メーヨスの英雄
一 .葺︑紹秘騒年捻欝︶を参照した︒
濾㈱にあげた霧よ撃鱗篤した︒
嫌濡璽購訳の溝名薫鷲 ︐︑昭鵜継無縫講︶をふ疹降し︑崇騰もこの毎護に
縫った︒ 嚢茂一﹃ギ婆シア神議 上巻﹄︵新瀬縫︑昭鞍騒年驚月︶よ讐引羅した︒ オレアンダについては︑湯浅浩史解説の﹃植梅の携界 纂㌘号㎞︵韓鷺新開
裡︑平浅6年欝病︶に継った︒
注懸と難じ講を参照した︒なお︑﹁死﹂を呼称とした誇には﹁−蒙<c葦讐﹂︵詩
集 第二飯︶などがある︑︑
噸ボードレール全集 至繍︵簑障害麓︑昭穣灘年欝趨︶の晦蔀良雄による﹁誌i
よ讐崇臆した.躊
いずれも注欝にあ硬た叢し︷箒馨濡した︒︑
ともに撞著﹃鋲騙緩庶郎の詩と詩論㎞︵桜雛桂︑車紋3年辱霧︶の第蠣章から
農離した.︑
﹁水管ロパイプ﹂が社鱈憲ードレールの誇﹁>⊆業務9彗︵講者に︶﹂をふまえてい
るとすれば︑﹁騰﹂は図形と嵜と色とでそれを翼実を超えた時空に措き議したラ
ンボーの詩﹁r霧等誉窮︵橋︶﹂︿注雛⁝にに罰囲じ斎灘を参照﹀から連想された可籠嚢が
ある︒あるいは︑﹁水籔︑パイプ﹂が欝ード・ダンセイニの欝をふまえているとす
れば︑﹁擾﹂はエサオット︵.讐姥馬ぎ二︒︒︒︒㏄〜黍彦 ﹃︑門募≦幣糞ひ二−蓉︹一
︵薫地こ︵一九二二年︶のヌ嚢一瓢ごユ芝︒コ㎜犀︑︷︶窪江︵死者の難葬︶﹂に裁てく
る︑その窯を群集が流れていくロンドン橋がイメ⁝ジされている可能性がある︒
︑一4一¢裟麟︸︺算︶触書︑一﹂﹁簿p鑑弩¢︵;鷺︵漢ン〜︑¢乞一ぎ.一炎グ︑£墾﹁葺の︵ご①糞に遜った.︑
「ー}ビノギオン﹂とは號酸人を羅指す著者への教本の春心瞭で︑アラン・ガーナー
︵>露コ︵錠讐費︶は凹︑一︑蓼︵︶色Oe簿斎一ε︵≦叢讐一Ω︺琴一腕茸年㌘︶コ3ロ﹂¢黛︶で︑
噛マビノギオン㎞の︑少女の膝の上に雨足を乗ぜる王の護を採潜入紅︑ガーナー
のこの菅煮垂罎はテレビ験藏葎旧もされている.︑
ハ﹁ウェルギ︾ウス ルクレティウス繍︵筑摩姦霧︑繕薦韓年毒月︶の泉井久之
舞訳の﹁アエネーイス﹂を参照した︒なお︑アエネーイスはアエネー︑アースの
讃の音心昧.
淫縷と講じ霧を参難した︒
>︑一.鵠一①○︹︑楢.棄︺a瓢霧﹂︾齢﹂︶⑲H暮露9D︵︺H霧暦︑一︑一︶ 榮申ωのO瓢≧︶︑囲.団発Hに擁つ
た軸なお︑後患の崇購は中野好夫訳 輪︵溝撫︸蕃麓︑曜麹認年鎗月︶に
遜った︒
︵二七︶