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化学と生物 Vol. 53, No. 2, 2015
鈴木梅太郎著「研究の回顧」を読む
小野寺一清
工学院大学
巻頭言 Top Column
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鈴木梅太郎先生は1874年に生まれ1943 年に持病の腸閉塞に悩まされたが69歳の 天寿を全うされました.
明治,大正,昭和を生き昭和18年湯川 秀樹博士とともに文化勲章を受賞され同年 9月に逝去されました.昨年東京大学農学 部,生物化学研究室創立120周年記念の講 演会と祝賀会が催されて楽しいひと時をも つことができました.計画された東原和成 教授はじめ研究室のスタッフに心から御礼 申し上げます.講演会で梅太郎先生につい て,話をすることを依頼されました.そこ で先生の残された「研究の回顧」を読み,
先生ゆかりの故郷を訪ねることにしまし た.本書は一般の人たちに行った講演集で すが,いつ誰に向かって話されたかが記載 されておりたいへん几帳面な先生であった ことが推測されます.研究というのは回顧 することはできるが,予見することは不可 能であることを繰り返し語っています.履 歴書は自分の存命中は自身で書いたもの以 外の記述は認めない方針でした.先生が 14歳のとき学問をするという志を立て,
御前崎に近い静岡県榛原郡の故郷を出奔さ れ4日間歩いて箱根を越え,国府津から汽 車に乗り東京駅に着いたことが書かれ,
1901年に辰野金吾氏の娘,須磨子を妻に 迎え,この年ドイツの留学に出発したと書 かれています.辰野氏は東京駅の設計者で 知られた東京帝国大学の工学部の教授で す.顧みてこの出来事が先生は自分の原点 であると思われたのでしょう.先生が通っ た地頭方小学校を訪問しました.二宮尊徳 の肖像の数倍もある梅太郎先生の銅像があ り,生徒さんたちを見守っています.授業 中でしたので,とても静かで太平洋の波の 音が聞えてきて,梅太郎先生が子どものと きと変わらないような気持ちになりました.
この文章を読んでくださる人は梅太郎先 生の研究業績についてはご存じと思います ので,あまり知られていない梅太郎先生の 最晩年の仕事について,紹介したいと思い ます.先生は東京大学教授を退職されて,
理化学研究所の創立者である大河内正敏氏 の要請もあり,自分も義務と感じられた仕 事に一身をささげました.満州国国務院大 陸科学院の院長として,1937年から4年間 極寒の新京に赴任して,働かれました.
「研究の回顧」の中で「新しき土を拓け」
「難関拓く科学の力」などの文章として読 むことができます.これらの文章から感じ られることは,発想の雄大さです.20世 紀の民族間の宿命とも言われる争いは,世 界の人口増加のスピードに比べて,食糧の 生産が追い付けないことに起因するという 考え方です.当時すでに行われていた自国 では賄うことのできなかった人たちの満州 への移民の問題を取り上げています.確か に農作のための土地の広さは日本に比べて 広いものであるが,この大地を豊かなもの とするために,現地の若者の教育が急務で あると強調しています.翻って日本の若者 には満州に渡ってきて協力するように強く 語っています.大陸科学院の学生には「私 がここに来た役割は何かというと,君たち の精神の荒野にはじめて鍬を入れるためで ある.しかし種を蒔くのは諸君である.自 分で蒔いた種を育てよ.」と励ましていま す.これらの難関を解決するには科学・技 術の発展以外に道はないという梅太郎先生 の言葉は,ドイツの大学の理念であった
「次世代の人材の育成と学問の自由」をも ち帰りました.そして先生はこの理念を座 右の銘として生きられました.
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化学と生物 Vol. 53, No. 2, 2015 プロフィル小野寺 一清(Kazukiyo ONODERA)
<略歴>1960年東京大学農学部農芸化学 学科卒業/1967年同大学農学部博士課程 修 了/1967〜70年Ontario Cancer Insti- tute (Canada)に留学/以後,科研化学 K. K.,東京大学医科学研究助手,京都大 学ウイルス研究所助教授,東京大学農学部 助教授・教授,同大学応用動物専攻教授,
工学院大学応用化学科特任教授を経て,同 大学客員研究員に至る<研究テーマと抱 負>一酸化炭素をC源としている微生物の ニトロゲナーゼの生命工学により,H2を 生産する<趣味>読書