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革新市政発展前史

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  革新市政発展前史

1950〜60年代の社会党市長(4の2)

功 刀 俊 洋

   目  次

1.革新自治体史のなかの飛鳥田神話(20巻2号掲載)

ll.社会党の自治体対策一松下テーゼの解体(22巻1号、22巻2号掲載)

皿.社会党市長の急増と分解と後退(21巻1号掲載)

IV.東北の社会党モデル市政  1.秋田市(22巻3号掲載)

 2.酒田市(本号掲載)

 3.仙台市(次号掲載予定)

2.酒田市

 1958年社会党推薦市長候補と地域共闘

 山形県では、1958年の8月から11月にかけて東根町、寒河江市、上山市、尾 花沢町、山形市の5市町で首長選挙が実施された。そして、県庁所在地の山形 市を除く4市町で、地区労・社会党推薦の新人候補が自民党公認・推薦候補を 破って初当選した(1)。社会党は市長候補の人選に悩み、自民党候補の独走阻止

を方針として、東根町と上山市では保守系の元前町長を保革連合で推薦し、寒 河江市と尾花沢町では、立候補した社会党の元県議を分裂した保守勢力や農民 層が支持した。保守分裂の契機は市長候補の選考をめぐる自民党支部内の派閥 対立だった。社会党推薦候補の勝因は、1954年に合併して新市町が発足してか

らの財政難と旧町地区と旧村地区の対立が背景にあり、社会党推薦候補は反現 職派と農村票の獲得に成功した。なお、1955年2月の知事選挙で、民主・社会

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野党連合の安孫子藤吉が当選し、山形県では、社会党は1955年から1969年まで 安孫子県政の与党だった。そして、この1958年の秋に、市町長に当選した寒河 江の国井門三郎と尾花沢の奥山英悦は、1955年当時右派社会党の県議として安 孫子候補を支援していた。市長選挙における保守分裂・反現職の保革連合は、

県知事選挙と同じ構図であった。1958年の秋は日教組の勤評反対闘争のピーク であり、くわえて山形県は社会党県議の過半が日教組出身という教員組合の政 治的比重が極めて高い地域だった。しかし、上記の小都市では勤評闘争を契機 に地域共闘組織が結成されたり、それらが首長選挙で社会党推薦候補を支援し たりしたという事実は確認できない。

 他方、山形市長選挙の投票日は11月18日で、勤評闘争・警職法闘争のピーク と時期が重なったが、社会党県連内では現職県議を市長候補に擁i立するにあた り、当初、次のように市長選挙と反対闘争を対立的にとらえる議論をしていた。

「来月に控えた山形市長選の候補者を決める社会党県連中央執行委は十五日午 後五時から同党控え室で開き、県議柿崎美夫氏の立候補をめぐって三時間余に わたり議論したが、結論が出ず十七日再び中執委を開くことにして午後八時散 会した。さきに同党では山形市長選は大久保現市長の独走をはばむため対立候 補を立てるとの基本線を打ち出し、その後の選対委で党は山形支部の意向に従 うとの態度を決定した。山形支部では党歴、人物などの点から柿崎氏を推すこ とに決定。柿崎氏もまた党の決定に従うとの態度を決めたが、最終的な確認が ないまま今日にいたった。その理由として党内の一部には情勢分析が甘すぎる。

県職の給料表、勤評、警職法など県段階でも重要問題を控えているとき、貴重 な県議会の議席を失ってまでなぜ立候補させなければならないか一などの議論 があったといわれ、この空気が同日の会議にも反映し具体的な線を打ち出すま でにいたらなかった」②

 柿崎美夫は戦後初代県教組委員長で、県連書記長を務めた山形市区選出の県 会議員であり、社会党県連の中心幹部だった。県連内の市長選挙出馬慎重論は、

当選が困難な市長選挙より県レベルの勤評・警職法闘争のほうが大事、現職県

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議の議席のほうが大事というものだった。しかし、社会党県連は結局、県労評、

県教組、自治労など関係団体の強い推薦があったこと、8月以来県内の一連の 首長選挙で次々と革新系の新人候補が勝利をおさめていることなどの判断から、

10月22日、柿崎を公認候補に立てて市長選挙を闘うことを決定した。そして、

10月31日に、警職法改悪反対県民会議iが社会・共産両党、県労評、日農、草の 実会、母の会、あこや会、農青連、日中友好協会、生協、日中貿易議員連盟、

山形大学学友会などによって結成され、その議長に柿崎美夫が選出されると、

社会党県連は県民会議の宣伝、署名、部落懇談会の活動に市長選挙を連動させ、

「勤務評定、警職法改正など一連の当面する問題をひっさげて保守と対決す る」(3)作戦を準備し、11月7日、執行委員会で「…警職法改正反対と山形市長選 問題はあくまでも本質的には相通ずるものとの基本的な態度を確認し、二つの 問題をからみ合わせて運動することを決めた」〔4)。そして、鶴岡、酒田、上山 につづいて県内の地区労ごとに警職法改悪反対共闘会議を結成していくことに

した。しかし、社共両党間で市長選挙の共闘組織や政策協定は成立せず、共産 党は独自の保守候補批判活動を展開した。

 この山形市長選挙は、警職法改正をめぐる中央の政1青がそのまま持ち込まれ

「このたびの選挙ほど保守対革新の立場を明らかにした選挙はなかった」「革新 的な立場を標榜する意識ある層が掛値なしに結束したとも判断される」と論評

された(5)。そして、保守側に歩が悪いと思われたにもかかわらず、結果は6万 6千対3万で自民党現職の圧勝に終わった。

 革新側は1954年の前回より3千票減らし、保守側は2万2千票も上乗せした。

保守の勝因は、現職の強みにくわえて、革新勢力の地域共闘に対抗して保守勢 力の諸派閥が足並みを揃えたこと、「市長と警職法は別問題」という反撃が有 効だったことであり、社会党側の敗因は、候補者選考の消極性と選挙運動の出 遅れ、「警職法と市長選挙の連携」戦術の失敗だった(6}。なお、社会党県連は、

市長選挙に臨み山形市政綱領を発表し、①中央集権化に反対して自治権を守る、

②明朗市政をうちたてるために、カラ宣言口先だけの政治を排撃し庶民の生活

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向上をはかる、③県政と市政の密接な連絡をはかる、④町村合併にともなう地 域差を解消し、農政を改革して消費と生産の緊密化に努力する、の4項目をス

ローガンにした(7)。その後、この11月には長井市と村山市の市長選挙でも、社 会党公認でもなく、また革新勢力の地域共闘でもなく、保革連合の社会党推薦 候補が自民党候補を破って当選した。山形県では、1958年秋の革新地域共闘と 市長選挙は結合しなかった。社会党の首長選挙方針が党内候補の公認を原則と

しながら、保守分裂を利用した相乗りを通例としていたから、むしろこの結果 は当然だった。

 1959年酒田市長選挙

 酒田市は、花王石鹸、鉄興社(化学・合金)、日新電化(化学)、前田製管

(セメント加工)などの中小工場が立地した港湾工業都市だったが、1953年に 工場設置奨励条例を制定し、1954年には周辺10村を合併して、臨海工業都市と

しての発展をめざした。合併時の人口は9万4千人だった。また、1955年に1

億円の赤字を解消するため、地財法適用の再建団体となった。それで、5年間 新規の独自事業ができないなかで、保守市長のもと挙市一一致で、国庫による港 湾整備と東北開発会社による工場用地造成で産業基盤を整備し、企業誘致をめ

ざした。1955年の市議会議員選挙(定員36)では、革新系議員が17人当選して おり、山形県社会党の最有力地盤でもあった。

 1958年秋の勤評・1警職法闘争では、酒田市の革新勢力は県内他市に先行して 社共両党、地区労、日中友好協会、青年婦人・文化団体を糾合した地域共闘組 織を結成し、社会党県連が地域共闘を全県の各地区労単位に組織する際のモデ

ル地区になった〔8)。

 しかし、その後1959年4月の統一・地方選挙を前にして、社会党の市長選挙準 備は極めて消極的だった。保守系の本間重三市長が、湯野浜温泉合併問題で市 費を濫用したうえ合併に失敗(湯野浜は鶴岡市と合併)して市民から批判を浴 び、その四選なし・引退が予想されると、保守系の斎藤仁八(市助役)は半年

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前から立候補の準備を整えた。それに対して、社会党は酒田市区選出の上野威 雄県議(元県教組書記長)を担ぎ出したが、上野は情勢判断の結果、「当て馬 式」出馬を固辞して県議選にまわり、革新陣営は市長選挙見送りのまま新年を 迎えた。そして、漸く2月上旬に市内の文化人グループが、鶴岡市の素封家成 沢家の二男で酒田市の素封家小山家の養子であった小山孫次郎(9)をi擁立するこ

とに成功すると、社会党、共産党、地区労、農民組合が小山を推薦して、市長 選挙は保革対決の一騎打ちとなった。小山は、2月10日の出馬声明で「市政刷 新」「市民のための市政」を訴え、小山派は「市政の転換をのぞむ地域、町内 によびかけて市政刷新連盟を結成」するという野党連合型選挙運動をめざし たa°)。しかし、保守系団体の結束は強く、小山派は結局3月16日、飽海地区労 を中心に革新系団体を結集した小山後援会「市政を明るくする会」を結成し、

市民に「ガラス張りの市政」を訴え、保守市政打倒をめざした゜D。小山擁i立は、

警職法改正反対の地域共闘が前提になったが、選挙運動団体として結成された のは小山の個人後援会だった。他方、斎藤助役は本間市政継承、港湾整備、工 場誘致を唱え、その後援会(会長は商工会議所会頭の鈴木栄太郎)は自民党酒 田支部、酒田中学同窓会、中小企業政治連盟、青年婦人団体など市内70団体の 支援を得て、斎藤派の完勝を期した。

 選挙戦は、市政経験と周到な準備、広範な地盤から斎藤派独走で始まったが、

両派の主な支持基盤は、斎藤が旧市内の商工業者、小山が公務員労組だったた め、新市域の農民中間層をどちらが獲得するかが、この市長選挙の動向を決定 するようになった。そして、小山は本間家に次ぐ酒田の名望家の当主という家 柄、農業経済学者としての学業から「農村方面では意外に強い支持者があるな

ど侮りがたい力を持っている」amといわれ、また「何れの党派にも属せずむし ろ革新系中立の匂いが濃い」ので「保守系の札も喰いうる余地がある」「親類 関係で保守系の内部にも相当深いつながりがある押と支持の広がりが報道さ れるようになった。それで、言論戦でも、小山は「酒田市は商工農一体となっ て発展しなければならない都市と考えるが、大半を擁する農政に対しては手の

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うち方がなされていない」aのと現市政を批判し、斎藤は「酒田市中心部の工業 都市化に熱中するあまり、農水産部がおろそかになるのではないかという議論 は当たらない」と批判をかわすことに尽力した。4月23日の県議選酒田市区

(4人区)の結果は、自民3万、社会2万で、社会党は2名の県議を実現した。

小山派はプラス五千で当選だと勢いづいたa6)。そして、最終盤では、「旧市内 の浮動票とみられる婦人、青年層の七、八千が当落の鍵を握る」aのまでの接戦 になった。

 4月30日の投票結果は、投票率92.85%、小山26,482、斎藤26,473の9票差

で、小山が浮動票を獲得して、当初には予想しえなかった勝利を収めた。同日 実施された市議会議i員選挙では、保守系25人、革新系11人で、むしろ革新系が 前回1955年17人から後退し、保守系が圧勝・していた。小山は、「警職法案では 酒田平和の会の一員として街頭に出、訥々とした弁舌で演説に加わった」⑱と いわれた。小山の当選、つまり酒田市そして山形県最初の革新市政の誕生(尾 花沢の奥山はまだ町長)は、1958年秋の革新地域共闘がそのまま支持母体となっ たものでも、教育・警察問題が争点になったわけでもないが、そこでの社会党・

地区労と文化団体との共闘の経験が契機となって候補者が擁立され、社会党の 党勢の上げ潮に加え、農民層、青年・婦人層が前市政の「封建的停滞性」に不 満をもち、市政の刷新を支持した結果だったと推定できる。小山は、「政治は ズブの素人」で「突然市長候補にあげられた時は、決意するまでの苦しみはこ れまで味わったことがなかった」「最初はなるがままにまかせたが終盤になっ てから勝てるという自信がつき心機一転」と当選直後に語っていた⑲。

 小山の選挙公約は、工場誘致・港湾整備、農業振興、福祉・教育文化から日 中ソ対岸貿易の拡大、平和都市宣言まで多岐にわたり、おそらく突然立候補を 決意させられた小山個人の発案でなく、社会党支部の市政綱領を基礎に作成し たものだったと思われる。福祉政策では、保育所の設備拡充、低家賃住宅の建 設、生活保護費の基準引き上げ要請、法外援助による生活困窮者対策、肢体不 自由児施設の誘致などを列記していた。しかし、小山は当選すると特定の政策

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分野を重点にするのではなく、①市民に直結、②旧来の市政を徹底的に批判、

③市行政を総合的に調査し、市民の納得のいく形で酒田市振興計画を作成する、

と広報公聴行政と都市計画行政から公約を実現していく姿勢を打ち出した⑳。

また、小山は地元新聞記者の質問に答えて、社会党には入党しない、革新の要 望を受け容れる政策をとるつもりはない、革新のヒモつきなら絶対引き受けぬ

という条件で立候補したと述べ⑳、5月8日の市議会での新任の挨拶では、

「私は自民、社会の何れの党にもかたよることなく、中庸の道を歩きたいと思っ ている」enと発言して議会の協力を求めた。

 一期目の小山市政

 小山市長は、施政方針で「産業都市の実現による豊かで住み良い町づくり」

「市民とつながる市政」を目標にした。小山は、人間的な住みよい町づくりが 市政の本来の目的であり、産業振興はその手段という見解を述べていた。また、

ブレーンとして最初は、日本女子大学の伊藤善市教授を非常勤顧問に迎えた。

小山市政は、当初から市議i会保守派との対立がつづいた。1960年、市内の原水 協が「平和都市宣言決議」の請願を提出すると、市議会は否決した。また、東 北電力火力発電所や十条製紙、工業高等専門学校の誘致の相次ぐ失敗、港湾整 備・石油基地建設・工場誘致の遅れなど、小山市政の工業政策の消極性は保守 勢力から批判され続けた。それで、市当局は1961年7月、旧村地域の支所廃止

を提案して職員の人事異動を行い、企業誘致と工場用地造成を担当する企業誘 致課を新設した。革新系議員も雇用対策として工場誘致に賛成だった。また、

市民会館・市庁舎改築建設問題で市議会保守派が市長の建設案や手続きに反対 したなど、小山市政は当初議会対策が難航した。保守最大会派の新政会14人は 新市域の農業代表であり、農家の二三男の雇用対策として臨海工業都市には賛 成してきたが、中心市街地重視の都市づくりや旧村地域の行政組織合理化には 不満があった(支所廃止は延期され、1964年に出張所に変更)。

 他方、小山市長は、勤労婦人の要望に応じて東北初の乳児保育園の建設

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(1961年)、市立精神薄弱児施設「はまなし学園」の設立(1962年)、老齢年金

制度の設置、市立高校新校舎の建設など教育福祉行政を重視し、市職員の資格 試験採用制度の導入、塵芥焼却場の建設、市民課・市民相談室の設置による窓 ロー本化と窓ロサービスの向上、「広報さかた」の充実(市長ノートの連載)

やNHKラジオ「酒田市政だより」の時間の設置、「伸びゆく酒田写真展」、嘱 託員制度の廃止(1962年3月)にともなう町内会・自治会組織の結成・再編整 備、地区ごとに各年度の市政方針を説明する市政座談会や「市長を囲む村づく

り協議会」(農業経営近代化と社会教育の結合)の開催、「市営施設めぐり」

「市長に手紙を出す運動」(1961年12月)など、市政と都市施設の近代化、「住 民直結」の広報公聴行政を推進した。

 市役所の補助機関として、広報・回覧・納税令書の配布や寄付金の徴収をし てきた嘱託員(230人)を廃止することにした契機は、後述する市労連の市政 総合調査の一環で、嘱託員にアンケートを実施したところ、嘱託事務の増大を 理由に嘱託員が区長制度の復活を要求したことだった。それに対し、小山市政 は、役所の下請け機関として市内に区長を置くより、町内会・自治会を結成再 編したほうが、地域の民主化にとってよりましな選択だと判断したようである。

それで、市の総務課・市民課職員が、都市部に自治会組織の結成を勧誘していっ たas。社会党本部地方政治部は、この酒田市の町内会・自治会の結成再編を好 機にして、地区労や市労連の労働者が町内会・自治会にはいり、それをなかか

ら民主化して教育問題や税金問題をとりあげ、地域民主主義・自治体改革を支 える民主的住民組織に成長させることを期待していたOP。しかし、その後1963 年4月になって、市職員組合はこの嘱託員から町内会・自治会への改革の結果

と町内会・自治会の現状について、地域の民主化にとっては「安易な楽観を許 す状態にはない」「旧態依然とした内容」と冷静に評価しており、自治体労働 者が率先して、その居住地に労働者組織を作ることを今後の課題としていた㈱。

つまり、労働組合員による町内会・自治会の民主化も、労働組合員の居住地組 織の結成も、酒田市ではうまくいかなかったのである。

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 広報誌での「市長ノート」の連載は、平塚市の作家市長戸川貞雄が最初に始 めたものといわれ、小山は仙台市長の島野武を見習って書き始めたそうである。

市政座談会は、初当選直後に開催された小山と鶴岡市長との対談で、鶴岡市長 の話しから小山が学んだものであり、施政方針の住民説明会としてならば保守 系市長がすでに1950年代から実施していた。革新市長自らの「市民直結」型広 報公聴活動は、町内会・部落会の民主化に貢献したかもしれないが、結果的に は保守地盤の町内会・部落会単位で巡回される市長選挙の事前運動でもあっ た㈱。市長への手紙は10日間で50通に達し、市民からは、生活道路や市営住宅・

下水道の整備の要望、ゴミ・尿尿処理の苦情が多くよせられた。

 小山は、都市計画に関しては、議会代表と学識経験者からなる建設審議会を 設置し、3年がかりの調査と検討をへて、1961年7月「新市建設十ヵ年計画」

を提案した。そして、その際には、公約どおり、市内17地区3階層合計20回の 市政座談会を開催して、計画内容を市民に説明し地区ごとの要望に回答したen。

計画の内容は、従来の市政方針を継承した港湾整備・工場誘致を優先するもの だった。それで、工場予定地周辺の北部農協で開催された市政座談会では、農 民たちが既存の化学工場による農産物への煙害、廃棄物被害を訴え「工業都市 として発展するにも農業を犠牲にしないでほしい」と「工場誘致だけに力を入 れている市当局をきびしく批判」したas。しかし、まだ公害問題は市政の課題

に取り上げられなかった。

 酒田市は1961年度一般会計決算で黒字となり、1962年度から地財法適用を脱

して財政運営の自由度を増した。小山市長は、これに対応して積極予算を編成 し、新市建設計画に沿って市街地・道路整備をすすめ、一方で市民会館につづ いて市庁舎改築案を市議会に提出し、他方で「市民の下層に軽く上層に重い」

内容の市民税減税を実施した。 港湾整備は1962年には、1万トン岸壁が完成 し、工場用地造成も終了したが、酒田に進出したのは段ボール工場1社だけ、

企業誘致も石油基地誘致も成功しなかった。1963年度からは、不況とインフレ によって、酒田市の財政はまた赤字に転落した。

(10)

 小山市政を支えたのは、市労連を中心とする飽海地区労であった。地区労は、

市長選挙時の小山後援会「酒田市政を明るくする会」を存続強化する方針をも ち、地区労主催で市長と助役を招いた「市政を聞く会」を開催して、勤労者の 関心を市政に向けさせようとした。市民会館建設問題では、地区労と酒田文化 団体連絡協議会などが、街頭宣伝活動や議会傍聴活動など小山市長支持・市民 会館建設推進の活動を展開した。

 さらに、市労連は1961年12月から半年間、市職員労働組合の立場から市政の 総合調査を行い、革新市政の実態を分析して市民に公表する活動を実行した。

そして、市労連は総合調査の趣旨を次のように説明していた⑳。

 「自治体労働者が新しい労働運動の一つとしてこの五年間取り組んで来た地 方自治研究活動の成果も各職場、地域の実践に裏付けられないものが少なくな く、これでは折角の自治研究も進まず、職場の民主化も発展しないと考え、そ のために調査活動とその集約によって市民に橋渡しをし、地域の自治研究発展 の糸口を見出すと共に、市民との共闘組織を作り上げる役割をもたせる。第二 に革新市長下の市政に、自治体の労働者という立場にたってみずからメスを入 れることは、市労連はじめ市内の労働者が積極的に推薦し、民主団体との共闘 で実現した革新市政の実態を分析し、公表する任務があると判断した」

 つまり、この活動の目的は、①1957年以来の自治労全国自治研活動の地域・

職場での具体化および自治研活動を通じた市民共闘の組織化であり、②革新市 長の推薦母体としての市政の自己検証と情報公開であった。この市政調査の結 果は、酒田市労連編『酒田革新市政のあゆみ』(1963年3月、酒田市労連自治 研事務局)としてまとめられたが、そのなかで、執筆者の1人である大島太郎 は「市民と市政」という項目で、一期目の酒田革新市政を次のように評価して いた。革新市政を支えたのは市労連だけで、革新政党の地域活動や労働組合の 居住地組織が地域の民主化を担う状況は生まれなかった。

 「小山市長が強固な組織的な支持協力団体をもたず、革新議員もせいぜい良 心的な活動家に留まっていて、地域の活動家を組織していないところに、酒田

(11)

市政を支える力の最も大きな弱点がある」「市長のかもしだすホンワカとした 善政で、何とか任期四年間を過ごしてきたものの、それ以上の革新らしさを打 ち出せない理由もここにある」(20ページ)

 他方、共産党市議iの4年後の回想によれば、この時期1962年に地域革新共闘 が成立したのは、全日自労酒田分会と社共両党、地区労で結成した「失対事業 打ち切り反対共闘会議」による酒田市独自の失業対策事業継続をめざす要求行 動だけだった。山形県内では、各都市の安保共闘会議は再開困難な状況にあり、

社共両党が対市政要求で共闘したのは、この酒田の失対共闘が唯一の事例だっ た(村上酉吉(共産党市議)「酒田市政の八年と水道料金値上げ問題」『議会と

自治体』1967年10月)。

 1962年秋の山形県内市長選挙

 半年後の第5回統一地方選挙の前哨戦として、1962年秋は、社会党と労働組 合が全国的に地方首長選挙に力を入れた時期であった。山形県では、1962年8 月から12月にかけて9つの都市で、市長選挙が実施された。しかし、保守革新 対立型選挙となったのは鶴岡市と山形市だけで、その他の小規模農業都市では、

社会党見送り (村山)、社会党が保守系候補を相乗り推薦(東根、上山、寒河 江)、そして保革相乗り候補の無投票当選(天童、尾花沢、長井)という市長 選挙の結果だった。元来政争の町だったこれらの都市で、保守勢力のなかに政 争回避i傾向が強く、前回社会党推薦で当選した無所属市長に対立候補が登場し なかった。それで、上山、天童、尾花沢、長井では、保守地盤iに依拠した社会 党推薦市長がやがて革新市長会に参加していった。

 鶴岡と山形では、社会党公認候補が決まると、共産党が自党候補の出馬を取 りやめるという形で、事実上の政党間協力が成立したが、日常的な市政要求に もとつく地域共闘や勤労協の活動を母体にしてこれらの市長選挙が準備された ものではない。選挙準備はもっぱら社会党支部・地区労の幹部間の候補者選考 に費やされた。選挙結果は両市とも惨敗だった。

(12)

山形市の場合、社会党は「公党の面目」から「県都の首長選挙」を重視し、早 くから「大久保三選阻止」の基本方針を確認しながら、候補者の人選は難航し た。党内には、「山形市政に革新の気風を入れ、市政そのものをただすことが 最終的なネライであった、市長選を通じて無理に対決をいどむよりも、明年の 市議選で大量に候補者を擁立、実をとるべきだ」という首長選挙消極論もあっ たen。そして、金沢忠雄県議、渡辺三郎県労評事務局長が立候補を固辞したた め、告示前日に第3の候補佐々木源治市議(全逓出身)が社会党公認候補となっ た。社会党の選挙戦は、山形地区労「72単産1万2千人の組織票に革新的な農 民の支持をプラス」という内容であり、短期間で大組織を固めるのに懸命だっ た⑳。7月の参議院選挙(地方区)では、社会党は山形市内で5万3千票を獲 得していた。しかし、この市長選挙の結果は、投票率81.43%、大久保6万4 千票、佐々木3万票、社会党は次善の候補と選挙戦出遅れが原因で、組織票も 固めきれず前回同様の惨敗だった。

 1963年酒田市長選挙

 社会党酒田支部は、1962年9月総会で小山市長推薦を決定すると、同時に市 労連はじめ市内の各単産の幹部を大量入党させて、小山再選体制を固めた。そ

して、1963年の正月を迎えると、共産党、地区労、文化団体に小山推薦を呼び かけた。小山派は「過去の保守市政から引き継いだ財政難を切り抜けて、市民 の熱望であった市民会館を建設し、義務教育施設の充実、衛生環境設備の充実 につくした小山市長の努力が市民に認められている」と再選支持の理由を説明 した。小山市長は現職の強みで、「市政座談会などあらゆる会合に顔を出し、

施策のPRによって二選への足場づくりに懸命となっていた」。小山は、在任 中の四年間に八十回にわたる市政座談会で、旧市内の学区や旧村単位の町内会・

部落会役職層をはじめ多くの市民と膝を交えた懇談をつづけた。

 小山再選を支えたのは、新たに市内50団体が参加して結成した「小山後援会」

だった。2月14日付けの地元新聞enは、それを次のように報道していた。

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 「小山市長の後援会 地区労や各団体で結成

 再選をめざして四月の市長選挙に出馬することにきまっている酒田市長小山 孫次郎氏の後援会が、このほど誕生、さきごろ市内浜畑教育会館に元社会党代 議士上林与市郎氏をはじめ飽海地区労、農民団体、農業研究グループ、文化団 体、県議、市議、医師、商工関係者など各界から約百五十人が出席して発会式 をあげ、会長に酒田北部農協組合長の富樫広三氏をきめた。後援会の名称は小 山孫次郎後援会ときまり、市民に直結した明るい市政を確立するため、小山氏 の政治活動を後援することを目的としてあげているが、「地方自治の本旨にのっ とりその民主的な運営と自治権の拡大をはかり、酒田市政の共同研究、民主的 住民組織の育成強化、酒田市勢の発展に寄与する」こともあげている。今後会 の運動としては、会員の拡大に重点をおき、それぞれの所属団体内で会員募集 に努めることを申し合わせたが、ねらいはあくまで小山現市長の再選にあるも のとみられている」

 この記事は、以下のように理解すべきだろう。一つ、四年前の初当選時に、

地区労と革新系文化団体を中心に結成された小山後援会「市政を明るくする会」

は、その後活動が発展しなかったので、再選をめざして市長選挙の直前に、現 市長の個人後援会を改めて結成したと思われる。二つ、この会の目的と性格は、

特定政治家の個人後援会=選挙運動団体であり、この時点では、市政革新の政 策・組織協定で結集する革新共闘組織でもなく、政党や政治家から自立して自 治体改革を進める民主的住民組織(市民運動団体)でもない。社共両党は、組 織として参加していない。三つ、今後市政の研究や「民主的住民組織」を育成 するという方針を持っており、この組織から自治体改革の市民運動が派生する 可能性はあった。四つ、小山支持派は、四年前の労組・文化団体中心から医師、

商工業者、農協幹部までひろがり、労農(商工)提携の選挙運動という側面を もつようになった。

 1960年代の前半では、社会党・地区労を背景に、候補者の個人後援会を作っ て革新市長の選挙運動を支えるという、この運動形態が一般的だったと判断で

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きる。一方で、安保地域共闘を3年間かけて革新市政共闘に持続・発展させる ことや、地区労・市労連が労働者の居住地組織を作ること、さらに具体的な市 政問題で住民運動が成立しないのに、自立した自治体改革の市民組織を結成す ることは困難であった。他方で、革新勢力にとって、まず市長を革新派が獲得 しっづけることが最重要であった。

 保守派は、この選挙を前にして、新産業都市指定をめざしながら小山市政の 商工政策は時代遅れで貧弱に過ぎる、市職員の人件費が財政を圧迫し市民税が 高すぎる、小山市政は市職労が支配していると批判したが、市民の問には小山 支持の空気が強かったため、保守系候補擁立の動きは弱かった。自民党は、池 田正之輔代議士が中心となって人選をすすめ、前田巌県議(自民党支部長)、

斎藤仁八商工会議所専務理事(前助役)、山木武夫県農協信用組合連合会長

(酒田市議、前代議士)などが候補にあげられたが、人選は難航したcm。候補 を支えるべき保守系市議たちは、市長選と同時に行われる自分たちの市議選に 関心が向いて足並みが揃わず、候補にあがった保守系有力者は、小山市政のも

とで力をつけた市労連・地区労と対立することに自信がなかったas。結局、保 守派は「最後の切札」として、3月上旬に池田代議士の秘書相馬大作を市長候 補に擁立した。相馬候補はまだ市内で知名度が低く、保守系県議・市議の地盤、

商工団体、農協組織に依拠した選挙戦を展開した。

 選挙戦が開始されると、この1963年の市長選挙では、地域振興と地方自治の あり方で論争が展開され、この点について、地元新聞は「これまで行われた県 下の市長選では全くみられなかった様相を示しているのが大きな特徴」と指摘

した。革新派の小山候補は、港湾整備・工業開発・対岸貿易の促進とともに、

「中央集権を排し、地方自治を住民の手に」「市民の希望を反映させて、明るく、

住み良い豊かなまちづくり」を公約した。選挙事務所の三大スローガンは「市 民に直結する市政」「計画市政の実行」「福祉行政」だった。しかし、「豊かな まち」という地域振興の課題と中央集権反対の主張は、うまく結合されて説明 できなかったように思われる。小山は次のように述べていた。

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 「大資本の巨大な発展のもとに、農業や中小商業は苦しい立場におかれ、経 済の地域的格差は次第に大きくなっている。これは、個人の努力や、一地方自 治体だけでは解決できない問題である。私どもは、基本的には国家がこれら業 種に対して、より積極的な施策を講ずるよう働きかけるとともに、自治体自体

としてもできる限りの努力をしなければならない」cm

 「この格差是正は、基本的に国が施策を講ずべきものだが、そのシワ寄せは 地方に大きく寄せられ、そのなかで中央集権化が進められている。地方自治を 住民の手に取り戻すためにも民主的で明るい、しかも住み良い街に轡

 これによると、小山の意見は、産業間や地域間の経済格差は中央政府の権限 と責任で中央集権的に是正すべきだというものだった。小山はまだ、中央政府 や外部企業に依存しない住民本位の地域振興の方針を獲得していなかった。ま た、小山後援会長の富樫広三は、「市民直結の小山市長は保守系市長以上に大 きな事業を実施できた、これは中央直結という、権力への盲従政治が誤りであ るという証拠を示した」と保守派の中央直結を批判したcm。小山派は中央政府 への抵抗と市の独自行政による住民本位の地域振興方針を提案できなかった。

 これに対し、自民党の相馬候補は、新産業都市指定の獲得と港湾整備・工場 誘致を公約の重点に掲げ、「中央直結の市政」で国庫から予算を獲得し「市民 負担の軽減」=減税を行うことが自分の使命だと主張した。そして、相馬後援 会の前酒田東高校長は、「中央政治と直結することが悪いように言っているが、

酒田市では市民税の大半が人件費に費やされている今日、国や県の助成がなけ れば地域格差をなくすることも、市民が望む事業はなにができるでしょうか。

国や県と密接な連絡をとりながら地方に即した施策をやってこそ、本当の住民 の豊かなくらしが実現される」と小山派を批判した。

 しかし、地元新聞は「ところで、この地方自治の在り方をめぐる両者の論争 は、一般市民にはそれほど強い訴え方はしていないようだ」「政治的論争より も身近な問題をどう処理してくれるのか、そしてまたどちらが勝ちそうかといっ た興味本位の物の見方が潜在していることからきていることは否定できないよ

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うだ。このため街頭での演説や個人演説会では、集まった聴衆の顔ぶれによっ て訴え方を変えていくという傾向を強めている轡と述べ、両派の地方自治論 争が一般有権者の具体的な生活問題での関心や期待と噛み合わず、空回りして

いることを指i摘していた。

 この酒田市長選挙での地方自治論争は、地域開発・地域振興をめぐって、中 央政府とゐ政治的関係重視か、住民生活重視か、あるいは開発政策での地方自 治体の自主性というレベルで「中央直結」か「市民直結」か、を争点にして展 開された。しかし、それは候補者間の論争にとどまり有権者の選択という意味 での選挙の争点にならなかった。他方、革新共闘か、町内会・部落会か、ヨコ 割の民主的居住組織か、あるいは縦割りの地区労か、という 「市民直結」と

「地域自治」の担い手をめぐる地域民主主義・自治体改革も、革新側のテーマ になってはいなかった。

 4月30日の投票結果は、小山孫次郎30,480票、相馬大作23,869票、投票率

91.71%、選挙戦中終盤は、保守派の組織力で、追われる立場の小山派は五分 五分の激戦に持ち込まれていたので、小山派にとっても、予想外の勝利だった。

自民党は、4月17日の県議選では市内で27,000票を獲得しており、保守派の敗

因については、池田代議士秘書の相馬候補には、その他の自民党代議士(松沢 派)の支持票をまとめきれなかった、という保守派の足並みの不揃いが指摘さ れた。革新派は前回以上に、労組の下部まで支持を浸透させ、都市部青年層・

婦人層の浮動票を獲得したことが勝因といわれた。小山市長は、再選の感想を

「苦しい戦いだった。こんな大差をつけて勝てるとは思わなかった」「酒田は新 産業都市としてこんご港の整備、工場誘致、地元産業の育成などやらなければ ならないことが山積している。しかし、私は地方自治体の任務はまず市民生活 に直結した身近な問題を解決することであると考える。港の整備や工場誘致な どとともに常に市民の日常生活の細かな点に留意しながら正しく明るい市政を しいていきたい」B9と語り、二期目の市政の重点には、下水道、学校、児童公 園、保育所、老人福祉など、一期目で十分実施できなかった生活・福祉行政の

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充実を掲げた㈹。

 二期目の小山市政

 小山は二期目の市政を開始すると、1963年6月、専修大学の大島太郎をプレー・…

ンに迎え、臨時行政調査委員会を設置して、市庁機構の効率化と企画立案・総 合調整分野のスタッフ機能の強化をめざした。そして、1964年には、同委員会 の答申にもとついて市長公室(総務課、広報公聴担当を含む秘書課、それに新 たに企画調査室を配置)新設の機構改革案を議会に提出した。しかし、市長権 限の強化を嫌う議会保守派はこれを否決した㈲。

 1963年6月、東北開発会社の工場用地は完成して2年間が経過し、運輸省に

よって酒田北新工業港の調査費はついたが、酒田地区への企業誘致は成功しな かった。企業誘致を最優先課題としてきた小山市政は、同月工場設置奨励条例 を改正して、奨励措置を従来の奨励金から工場周辺の下水・道路整備に変更し、

進出企業にとってより即効性のあるものにした。そして、酒田市が1963年7月 に新産業都市指定もれとなると、追加指定および低開発地帯工業開発促進地域 の指定をめざして、「庄内地区産業都市建設促進期成同盟会」を結成して港湾 整備費獲得の陳情運動を継続することにしたan。

 しかし同時に、小山は市政の重点を地場産業の育成、住民福祉、生活環境の 改善へと修正していった。小山市政は、1960年から農家への乳牛貸付事業を開 始し、1963年地元の本間物産と鉄興社が出資して野崎食品工業(畜産加工)の 工場が建設されると、畜産センターを建設して農家の通年兼業に養豚を奨励し、

種豚導入事業や肉豚価格補助制度を実施した。集落ぐるみの共同養豚の成功は、

その後農業構造改善事業における稲作の共同栽培へとつながったua。

 1964年には、バイパス道路建設による市内交通事情の改善や都心部の下水道 整備を実施した。また、木工業団地・軽工業団地を市街地周辺部に建設して、

中心市街地の騒音公害対策および中小企業の経営近代化・協同化を目的として、

住宅地に混在していた地元中小工場の郊外移転・団地化をすすめたua。横浜市

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で、飛鳥田市長が同様の中小企業移転事業を開始するのは1968年からであり、

小山のこの事業は先駆的だったようである。

 そして、小山市政は県と交渉して港湾整備費の地元負担金(15%)を、1965 年度から10%に軽減させ、1965年4月、工場誘致は「事務処理だけではできぬ 問題」と市議会に説明して企業誘致課を廃止し、12月に地元中小企業むけに工 場移転助成条例を制定した。移設工場には、固定資産税相当額の交付金を2年 間交付した。小山市政は、1964年から、県下ではじめて生活保護世帯への夏季・

年末手当てと中卒者就職支度金、身体障害者への市独自補助金の支給を開始し た。1966年からは、生活保護世帯と住民税非課税世帯の妊婦と乳幼児に牛乳を 無料配給した。1965年の酒田市人口は9万6千人で、合併から10年を経て2千

人しか増加していなかったが、自動車が普及して市街地の道路は渋滞し交通事 故が多発するようになった。東南部には新興の住宅団地が造成され、その下水 道・生活道路整備が市政の課題になったua。

 小山市長は、三期目をめざすようになると、市民本位の地域開発方針を確立 していったように思われる。一期目の小山は、雇用の確保=市民生活の向上と いう目的のためには、まず港湾整備・工場誘致という手段が必要と主張してい

た。

 しかし、小山は1966年度の予算編成にあたり、「高度成長の結果はこの期待 を裏切りました。工業化はもっぱら先進地帯の大中都市地域に集中偏在し、後 進地帯には逆に地域格差の拡大と人口の流出減少をもたらしました」と述べる ようになったua。1966年6月に出版した『市長ノート』や三選をめざして小山

後援会の名前で発表した『住みよい酒田市の設計』㈲では、生活環境の改善が 市政最大の課題であり、工場誘致に対しては、①市民生活に貢献する、②市民 に被害を与えない、③市財政を圧迫しない、という3つの基準で工場進出を受 け容れるかどうか慎重かつ冷静に判断していく、「企業は地域開発や慈善事業 のためでなく飽くまで利益追求一本槍でやって来るのだから、私どもは飽くま で市民生活の向上という基本的立場でこれに対処する必要がある」uaと主張す

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るようになっていた。小山は、三重県の四日市市を視察して最新工業都市の問 題点を把握した上で、地理的条件から当面は酒田市に大工場が進出する見込み はなくとも、やがて港湾整備が完成すれば工場は進出してくると予想していた。

それで、拙速で不利な企業誘致を実現するよりも、生活環境の改善や地場産業 の育成を先行させることに尽力していった。

 山形県の「庄内産業都市建設計画」(1964年決定)や運輸省の「酒田新港建 設計画」(1966年港湾審議会承認・2万トンタンカーの入港に対応)は、大規 模な石油化学工業・機械金属工業の立地を前提にしており、それは、地元市政 の協力と負担が計画の前提だった。しかし、小山は1967年3月市議会で上記の 工場誘致方針を発表し、また国や県の港湾整備・工場用地造成事業での地元負 担金(1966年度までに総額3億6,000万円支出)の軽減を検討しはじめた。そ

して三期目にはいると、1967年12月釧路市政の先駆事例を参考にして、工場誘 致条例の廃止を検討していった。

 小山市長が、1966〜67年にこのような市政方針の修正を提案できた背景には、

都市財政の危機、工業開発先行都市での公害・負担問題などにくわえて、市民 の変化と市長の革新市政認識の変化があったようである。1966年3月には、県 の酒田港貯木場建設工事(東北パルプ用)に対して、地元農民が貯木場反対期 成同盟を結成して反対運動を開始した。乳児保育園の保護者たちが始めた保母 定員増要求運動を母体に、市立保育園保護者会連絡会が1966年に結成され、延 長保育、学童保育、保母定員増と施設要求を市当局に提出していた。小山は市 民の市政に対する要望が、議会への請願件数や市長室への陳情者数の増加とし て、また市政座談会やアンケートの結果として顕在化してきたことをあげて、

それは「酒田市民が自分たちの生活の周辺に多くの不満をもっており、これを 市政に反映させようと努力していることを表しております」と述べていた㈲。

また、小山は、これまでの「明るい市政」「ガラス張り市政」だけでは住民要 求にマッチしなくなってきた、「革新市政はなにをしなければならないかが改 めて真剣に問われるようになりました」と述べ、①市民と市政の結合、住民福

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祉の充実、政治反動への抵抗、を「革新市政の土性骨にすえる」こと、②市長 個人の資質の問題でなく、市民の市政への参加と民主化運動の課題として革 新市政が認識されなければならないこと、これらが革新市政のこれからの方向 であると述べていたan。小山は、一一・二期目(1959〜66年)=市長主導の広報

公聴行政段階から、三期目(1967年〜)=市民参加と市民運動による住民福祉

(生活環境改善と地場産業育成)行政段階への革新市政の発展を展望し、また 実現できるようになった。

 その一例が、農業構造改善事業の「酒田方式」であった。庄内平野の中心部 は、大地主支配のもとで戦前から稲作の経営規模が大きく、1960年代の一圃3 反を目標とする水田の区画整理・土地改良事業は必要性が低かった。それで、

米作農民は農協青年部を主体として構造改善事業の先進地視i察の後、ようやく 1966年から4年計画で国庫補助と融資によって集落所有の中型トラクターを導 入して共同利用し、水稲の集団栽培(共同田植えと共同稲刈り)による省力化

を実施して、個人経営・小規模稲作技術からの脱皮による生産力の向上をめざ したelO。これは、地域特性に合致しない大型農業機械の導入や国が推奨する大 規模土地基盤整備事業はあえて実施しない、農民が必要とする機械・施策以外 は補助事業の対象にしないという「酒田方式」で実施され、ササニシキの作付 け品種を統一して1反当り日本一の高収量を確保した。この事業(西荒瀬農協)

は1968年度の朝日農業賞を受賞したan。

 小山は、個人として農業の大型化を進歩と見ていたが、あくまで農民の自主 的・協同的模索と選択を尊重し、この事業における農民の主体性を次のように 評価していた。

 「わが酒田市農民は、これまで頑固にこれを受け付けず、慎重な構えで論議 と検討を積み重ね、その中から飽くまで独自に農業生産力発展の道を探求し続 けてきました。その歩みは、ときに消極的のそしりをまぬかれなかったほど、

地道で、実際的で、着実だったと思います。こうして酒田市農民はついに機械 化と集団栽培の結合というぎりぎりの現段階的結論に到達したのです。したがっ

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て今日の酒田市の構造改善は、従来国が奨励したワンセット方式=ショーウイ ンドー方式と基本的に異なり、トラクターの大量導入と共同作業を結び付け、

挙に全面的に労働生産性を引き上げようというきわめて現実的なものです。

これも農民自身に右のような積み重ねの下地があってこそ、可能であり、農民 の要求に合致し、真に農民のものになりうるのだと私は思っています。そして

これが「酒田方式」といわれるゆえんでもあります」an

 さて、小山市政のもとで、社会党支部は町内会・部落会に進出し、あるいは 民主的住民組織を育成できただろうか。1960年代前半の社会党が、江田書記長・

組織局長の指導下にある程度党勢拡大の成果をあげたのは、社会主義青年同盟 と社会新報の配布網=分局組織だったようである。1966年1月、酒田市の社会 党支部は大島太郎を講師に招いて、「地方自治体問題に対してどう取り組んで いるか」をテーマにした学習討論集会を開催した。そして、その集会の受け皿 になったのは、社会新報酒田総分局が市内各地域に組織した読者会だった。た だし、読者会は、市職分会、水道分会、全逓分会、鉄興社分会など職場=企業 内労組に限定されていた(社会新報1966年2月2日「酒田総分局読者会、各地

で大好評」)。

 1967年酒田市長選挙

 1967年4月の酒田市長選挙は、3月末まで保守系候補者の立候補がなく、小 山の無競争三選が予想されていた。小山市長は、すでに1966年の6月に社会党 支部の推薦をうけ、小山後援会の総会で三選出馬の意志を発表していた。小山 は、三選と三期目の市政にむけて、酒田市振興計画審議会を設置し、1967年2 月「振興十か年計画」を答申させた。審議会の会長は商工会議所会頭、行財政 部会の部会長は地区労議長、審議会は3,800世帯を対象にした市政アンケート

を実施して市民の要望を反映させた。それは、1961年の「新市十か年計画」が 開発と企業誘致優先だったという反省に立って、市民生活向上と生活基盤整備 を基本方針とし、市立病院の新築、上下水道の拡張・建設、老人福祉施設建設

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など生活環境の整備と社会福祉の充実、地場産業の振興を優先課題としたもの であり、1967年度予算には、市独自の障害児養i育手当て(月額1,000円)や低

家賃市営住宅と保育所の新設(6ヶ所目)、市内既成工場と畜産団地の公害実

態調査などの施策を盛り込んだan。

 自民党酒田支部は、ふたたび斎藤仁八、相馬大作を擁i立しようとしたが固辞 され、結局三人目の候補者として、3月29日に元県議の須藤重三郎(須藤製作 所社長、酒田鉄工業組合理事長)が立候補したため、保守革新の一騎打ちとなっ た。小山派は、社共両党と地区労、文化団体、小山後援会による革新共闘組織

「民主市政連合」を結成し、地区労推薦の革新系市議候補17人と一体となった 選挙戦を展開した。須藤派は、自民党代議士の松沢派と池田派の団結にはじめ て成功し、「市政を刷新する会」を結成して保守勢力の総力を結集することが できた。市長選挙告示前、4月15日投票の県議選(酒田市区)では、保守系得 票26,373、革新系得票23,082だった。そして、現職の小山に対して、新人の須

藤がどこまで追撃するか大接戦が予想されたが、4月28日の投票結果は、投票

率91.71%、小山32,089票、須藤23,185票、小山の圧勝に終わり、酒田の革新

市政は定着したと評価された。小山の勝因は、現職の知名度にくわえ、市民が 須藤の「産業振興」より小山の「住みよい環境づくり」の実績を支持したこと だといわれた。小山は「市職労が今回ほどがっちり固めたことはありません、

これが市内組織票を一つにまとめた要因に思っている」と市職労を評価した。

同日実施された市議選(定数36)では、社会8、革新系無所属7、共産2、と 革新系が躍進し、民社2を含めれば革新系が初めて過半数を占めることになっ たSS。それで、小山市政はさらに革新色を鮮明にしていくだろうと予想される ようになった。市議会の正副議長は、小山与党の市政研究会(社会党と革新無 所属議員の会派)から選出された。

三期目の小山市政

三選を圧勝で飾った小山は、「老人と子供を大切にする」「市民の健康とくら

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しを守る」「快適な生活環境づくり」「地域産業の育成」を四大目標にかかげ、

福祉市政を推進した。市立病院の新築、小学校プールと地域公民館の建設、民 間除雪運動への市の助成、青年センター(農村・勤労青年の学習宿泊施設)の 建設、老人在宅ホームヘルパーの制度と身体障害者・長期療養者への見舞金制 度の新設、無認可保育所への補助、市立保育所の夜間延長保育。1967〜68年度 の市政座談会では、光が丘地区から児童の喘息被害調査と公害対策の要望が出 され、1969年6月光が丘地区に町内会を母体とした公害対策協議会が結成され た。それで、小山市政は1970年夏、大浜工業地帯での大気汚染調査を実施した。

革新市長会の政策交流から酒田市に採用された事業は、1969年から70年にかけ て、憲法記念行事の実施、市民対話集会(後述)、そしてチビッコ広場(市街 地14ヶ所に児童公園)と買い物道路(歩行者天国)の設置であった。

 そして、社会党酒田飽海総支部は、1967年の総選挙・地方選挙を通じて党勢 拡大に実績を挙げたことと日常活動が認められて、1968年4月、党本部から最 優秀支部として表彰され、江田三郎副委員長を招いて祝賀会が開催された㈲。

小山三選のために結成された革新共闘組織「民主市政連合」では、共産党が、

福祉・教育・生活基盤の改善をめざす住民運動や町内会と提携して、住民要求 を市政に反映させる予算要求運動の開始を1969年度予算にむけて提起したが、

結局充分には実践できなかったan。革新共闘は、一時的な選挙運動共闘にとど

まった。

 他方で、酒田市政はインフレに加えて、人口の停滞にもかかわらず住宅地の 郊外への膨張、農村部への自動車の普及のために、土木費・教育費が激増し、

1960年代後半も慢性的な財政危機の状態にあった。小山市政は、国・県事業の 地元負担軽減要求とともに、市職員への退職勧告や市内諸団体むけ補助金の削 減などの内容で、1968年度から自主的な財政再建をすすめ、また1969年度から

都市計画税を導入して市民に負担の増加をもとめ、さらに水道料金や国民保険 税などの大幅な引き上げをするしかなかった。

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 1969〜70年「市民のつどい」

 酒田市恒例の新春座談会が、1969年正月「まちづくり明日への期待」という テーマで開催された。そこで、出席者は小山市長に「従来の市政座談会のほか に、素朴な市長と市民が問答形式で対話できる機会をつくってもらえないもの だろうか」と要望していたan。市政座談会は、小山市政発足以来毎年開催され 10年目をむかえていた。それは1968年度には、7〜9月に市内20ヶ所参加者合

計1,000人という規模にまで発展した。住民からの陳情内容は、土木(生活道 路の整備・改修)、教育(小中学校の施設整備)が件数の四割以上を占めてい た。新春座談会での上記の要望は、この市政座談会がなお地域団体代表と市長 との陳情=要求聴取・施策説明的性格を脱していないことを暗示していた。ま た、小山市政は、深刻化する都市問題に対処するため、市民に都市計画税の導 入を提案しなければならなかった。公害や交通災害から市民をまもり、住宅・

下水道・清掃・福祉を充実するには、多大の公共投資と長い工事期間がかかり、

それには市民の理解と協力を得て、民主的・効率的に都市行政をすすめる必要 があった。それで、小山市政は1969年度から市民直結の広報公聴行政をさらに 歩進めることにした。一つは市政座談会の充実であり、二つは1969〜70年度 に実施された「市民のつどい」であった。

 市政座談会は、毎年7〜9月期、1969年度に市街地28ヶ所、旧村地区の出張 所10ヶ所、1970年度に市街地16ヶ所、旧村地区の出張所10ヶ所で開催され、各々 合計1,000人の市民が参加していた。そして、市当局は「市民生活と都市づく

り」にテーマをしぼり、清掃事業への町内会の協力、公共下水道とその財源と して都市計画税について事業計画を説明する場にしていった。しかし、市民の 側では農業、開発、環境問題がむしろ切実なものになっており、1970年度の市 政座談会では「(減反政策に対して)市は米作り農業へのビジョンをもってい

るのか」「企業誘致は結構だが、公害は大丈夫か」という声が市民からあがり、

小山市政の対応が問われる場に変化していたUS)。

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 「市民のつどい」は、1969年1月に当初は企画調整課広報公聴係が憲法施行 記念行事「市民生活と憲法」の一環として企画したもの(経費10万円)であり、

「市政座談会」や「市長への手紙」から一歩すすめて「市民同士が全市的視野 で市政について話し合う」市民自身の討論集会と位置づけていた。そして、係 はその準備・運営を日ごろ市当局と関係が深い市民団体から公募した世話人グ ループに委任した。3月27日、36の市民団体から40人の役員が参加して世話人

会が発足し、代表は青年会議所理事長(佐藤俊二・初孫酒造取締役)がつとめ ることになった。36団体とは、自治会連合会、衛生組合連合会、PTA連合会、

青年会議所、農協、労働組合(地区労と同盟)、連合婦人会、連合青年団、母 親大会準備会、保育所連絡協議会、老人クラブ連合会、交通安全母の会、青年 学級OB会、婦人学級OG会、勤労者音楽協議会、勤労者演劇協議会、その他 多様な文化サークルだった。ここには、政党、宗教団体、商工団体、公害反対 運動団体は含まれなかった。世話人会には、将来、行政から分離し、市民だけ で集会を盛り上げていく考えがあり、また地元新聞は、これを「この住みよい 街づくり運動が市民運動としては東北のトップを切ってスタート」したと評価

していた㈹。1969年4〜5月、小山市政は憲法記念日にあわせて一連の「民主 市政10周年記念行事」を開催し、祝賀会につづいて日高六郎を招いた記念講演 会をひらいた。「第一回市民のつどい」は、1969年6月8日、「住みよい酒田の まちづくり」をテーマに開催され、上記の36団体150人が参加した。当日は全 体会で小山市長と世話人代表が挨拶したあと、四つの分科会に分かれた。その 小テーマは、①快適な生活環境:都市計画、②子供と老人のしあわせ:教育と 福祉、③酒田の未来を描いて:産業、④豊かな市民性をはぐくむ:市民運動市 民文化であり、分科会の司会者は世話人会がつとめ、助言者として①に門間董 吉(革新自治体の労働問題研究者、山形大学助教授)、②に真壁仁(詩人)、③ に大島太郎(地方自治センター代表、専修大学教授)、④に須藤克三(山形市 の児童文学者)が参加した。各分科会では、世話木会からの問題提起的報告に 対して、市民が10入ずつの小グループに分かれてテーブル討論を実施し、その

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討論内容を発表しあって分科会全体の討論をまとめ、さらにそれを全体会に持 ち寄って報告した。そして最後に助言者の総括的発言と市長の感想で閉会し

た。

 この集会について、助言者の門間董吉は、1966〜67年の酒田市振興計画が科 学的で立派であり、ゴミや交通など都市問題の解決のための資料・計画となっ ていると、小山市政の計画行政を評価した。大島太郎は「酒田はもう市民のた めの市政の時代は終わり、市民による市民のための市政の時代が始まった」と 感想を述べた。それに対し、小山市長は「その表現はオーバーです。しかし、

市民と市民の対話の場が市民自らによって作られつつあることはたしかです」

「まっとうな市民参加の姿勢が打ち出されていた」と、この市民集会を自己評

価した㈹。

 「第一回市民のつどい」が生み出したものは、一つは、福祉分科会から出さ れた要求が市政に反映されて、小山市長が東北最初の試みである「市立老人福 祉センター」の建設に予算措置したことであり、二つは、このつどいの反省会 から世話人会の継続、つまり「第二回市民のつどい」準備会が発足したことで あった。この準備会では、今回のつどいは「テーマが大きすぎ、漠然として話 しの内容に突っ込みが足りなかった」「今後たとえばゴミ問題など具体的なテー マを設定してやったら」「まちづくりの実践運動として市民の中に何か残して いこう」などの意見が出された。そして三つは、その具体化として準備会は公 園緑化と自然保護のボランティア活動、市北部の日和山公園に花壇をつくる市 民活動を市民団体に提案した。1970年4月29日の天皇誕生日、青年会議所、市

職労婦人部、全電通労組、母子福祉会、連合婦人会や子供会など8団体150人 が「日和山公園を愛する市民の会」を結成して、花壇の植え込み活動を実施し

た(an。

 小山市長は、上記の「市政座談会」や「市民のつどい」などを通じて市民に 市民運動の場を提供し、そこから市民の要求を受け止めて、さらにそれを国政 につなげていくことが自治体民主主義の今日的意義だと主張していた㈹。しか

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し、農業問題や開発・公害問題で実際に小山市政の施策と産業団体・市民運動 が対峙した時、この上からの市民直結の広報公聴行政の真価が問われることに なった。そして、その機会は1年を経ずにやってきた。

 1970年6月7日の「第二回市民のつどい」では、第一回と比べて運営に次の

変更が加えられた。分科会数は準備会の反省意見にそって四から六に増え、そ の結果、参加者は150人から270人に増加した。分科会の助言者は、外部の専門 家から各テーマに関する市内の行政担当者や市民団体の役員に変わっていた。

分科会のテーマは、前年の「未来を描いて」を「地域開発と市民生活」へと変 更し、「生活環境」を「公害」「交通安全」、「子供と老人の幸せ」を「児童福祉」

「老人福祉」に各々分割して、第一回よりも市政・市民の直面する課題に即し た具体的なものになった。また、行政事業のしくみや財源についての資料を説 明するため、市役所の担当課長などが説明役として出席し、市行政各分野の内 容が直接市民討議の対象となった。

 たとえば、第二分科会「地域開発と市民生活」では、庄内開発協議会企画室 長と商工会議所の中小企業相談所長が助言者となり、パルプ工場の誘致をめぐっ て活発な討論が展開された。市民側からは「公害のない企業の誘致」「市が企 業を選択できる立場であってほしい」「地元農業に立脚した工業を地元資本で 興すことはできないのか」などの要望が出され、小山市長は、「70年代の地域

開発は公害を起こしたら失敗と言える」とのべ「市民生活と調和のとれた開発」

を主張していたma。

 この1969〜70年の「市政座談会」「市民のつどい」は、小山革新市政の自治 体民主主義の到達点を示してした。そこでは、行政主導の市民参加事業の枠内 で「市民と市民、市民と市長の対話」が成立し、福祉や緑化事業で市民と行政 の協働を生み出し、開発と公害問題で市民と行政の合意困難を顕在化させた。

 なお、この1970年6〜10月は、全国革新市長会の都市づくり綱領案(飛鳥田

試案)が各革新市政で住民組織に提案され、討議に付されて然るべき局面だっ

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たが、酒田市では、上記の「市政座談会」

も、それが提案された記録はない。

「第二回市民のつどい」のいずれで

 パルプ工場の進出計画と米の減反

 1960年代の後半になり、大都市の過密・公害問題が深刻になると、企業の工 場立地は地方中小都市に向かうようになっていた。東北開発会社が酒田市に造 成した工業用地は、1966〜68年に完売して、東北パルプ、帝石テルナイト、製 材協同組合など25社が立地し、石油大手4社が石油基地を設置した。他方、山 形県は1967年以降「庄内調査会」(東畑四郎会長)によって庄内地域開発のた めの総合調査を実施してきた。そして、1969年には庄内開発の気運がたかまり、

東北横断高速道路(酒田一仙台)計画につづいて、酒田と鶴岡の広域合併によ る中間地点でのニュウタウン構想や庄内空港構想が浮上するなかで、山形県は、

酒田北港を新潟港や秋田港に合わせて5万トンタンカー対応に拡張する計画を 運輸省に認めさせ、地元農民との用地買収契約に調印すると1970年から建設工 事を開始した。これに応じて、岐阜県の中央板紙(伊藤忠商事系のパルプ工業)

が酒田進出を打診してきた㈹。

 その結果、小山市長は、地方自治体の自主性を保持した住民本位の地域開発・

企業誘致という持論=難題を市民の市政参加や住民運動との協調という革新市 政らしい方法で具体化することを余儀なくされた。ところが小山市政の政治環 境は、この時期からきわめて困難になっていった。市議会第一党の保守会派公 友会は、1969年12月市議会で、一方で北港開発促進期成同盟の結成や農業施策 予算の増額を要求し、他方で青果市場と魚市場の統合、市民会館と図書館の民 間委託、清掃事業の民営化などの行政機構縮小合理化を要求し、議長職を一方 的に放棄して、小山市政に対して完全野党を宣言した。それに対し、革新系会 派の研究会は、北港開発促進、港湾整備費地元負担金の解消、老人医療費の無 料化を要求していた。小山は1970年3月市議会に、革新系会派から大企業優遇 であると批判があった「工場設置奨励条例」の廃止と、中小企業に限定して奨

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