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「食の普及と食文化の形成」

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2003 年度 経済学部経営学科 網倉ゼミナール 卒業論文

「食の普及と食文化の形成」

A0042318 宮本 佳典

2004/01/15

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1、素朴な疑問

大学生になり、親元を離れ生活してゆくうちに自ら自身で食生活の管理をすることを経験 しているうちに多くの食品があるにもかかわらず、知らず知らずのうちに同じような食品を 繰り返し食べているように思える。食品の中にはいつの間にか我々の生活に浸透しているも のがたくさんある。例えば、スパゲッティのアルデンテという概念や、いたるところにある 様々な形のラーメン屋。ラーメン屋の中でも普及するラーメンと消えてしまうラーメンなど 様々ある。そして、ものすごいブームを巻き起こしたナタデココなど、様々なものが消えたり もしている。戦後日本の経済が発展し,食文化も大いに変化してきたが,そもそもそのような 食文化とはどのように生まれ発展してゆくのだろうか?

2、検証課題

食品は,食べる人それぞれの好み,その土地の風土・文化によって様々な変化を遂げていると思 われる。そうした日々の進化には嗜好の変化や技術革新、新しい食べ方の登場など様々なものが ある。その中で食品自体、そしてそれを食べる人々がどのように変化し、より多くに人々に受け 入れられ文化というべきものになり得る事ができるのかという事を提供者とユーザーの目的の 相互性という観点から見ていきたいと思う。というのは、提供者側とユーザーの間におけるその 商品に対する目的というものは必ずしも同じであるとはいえない。特に異なる文化や生活環境か らもたらされたものはそのままな形で受け入れられることは難しい。食文化の普及にはどのよう な要因があり、食材がどのように普及していくかを調べていきたいと思う。

3、食生活の変化・普及要因

食生活に影響を与えている要因はきわめて複雑であり、多岐にわたっている。個人的な嗜好や 育った環境もその人の食生活の形成に大きな影響を与えていることは言うまでも無いが、より社 会的な拡がりをもって食生活に影響を与えている要因は、次のようなものが影響していると思わ れる。

・自然的要因・社会的要因

食生活のパターンは風土や地勢、天候、さらにはそれと関連した食品の供給条件などに強く規 定されている面がある。また、宗教的な禁忌と結びつくこともある。これらの要因が影響して、

その国独自の、またその地域特有の食生活が形成されている。そこに働いているのは伝統や習慣 といった要因でもある。こうして形成されてきた食生活に対して新しい社会的な影響が加わるこ と居よって食生活も様々な形で変化することになる。また,経済社会の国際化が食生活に与える インパクトも見逃せない。さらには情報化社会の発展により、食情報が急速に伝達されるように なったことも全国的な規模での食生活に与える影響として忘れることはできない。

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・経済的要因

所得水準が上昇し、生活水準が上昇することで、より質のよい食品、よりおいしい食品、新し い食品を購入することができる。しかし最近では、所得の上昇は直接食生活にインパクトを与え るというよりも他の生活、もしくは食に関連する家具や食器などへの影響を通して関係する度合 いが強くなっている。また、主婦の職場進出に伴う家事労働に費やす時間との関係も食生活に大 きな影響を与えている。

・ソシオ・デモクラフィックな要因

社会的要因と人口学的な要因とが重なり合ったソシオ・デモクラフィックな要因も食生活に大 きな影響を及ぼしている。世代による生活価値観の差、食に対する考え方と行動の差は大きい。

飢えを体験した世代と、飽食の時代の世代との差を考えれば明らかである。日本人全体の食生活 の変化は世代の交代とともに大きく変化しているし、今後もさらにその変化は続くであろう。現 在では三世代が一緒に生活することは少なくなり、一世代または二世代からなる核家族化が進行 している。このことが与えた影響も決して少なくない。祖母と母での伝統の継承、習慣の尊重が 食生活の変化を少なくしていた面は大きい。しかし,核家族化が進むにつれ容易に新しい食品や 食生活を取り入れることができるようになったのである。戦後の急速な“食の洋風化”“簡便化”

は核家族化と深い関係があったといえよう。

もう一つこの要因として年齢による食嗜好や食生活パターンの差がある。一般に育ち盛りの年 齢では運動量が多くエネルギー消費が多い。このため食べ物に対する嗜好も甘いもの、油っこい もの、ボリュームのあるものを好む傾向が強い。逆に年齢が高くなるにつれ、運動量は減り、エ ネルギー消費も少なくなる。体の要求する食べ物は若い頃と変わってくる。一般的に薄味のもの さっぱりしたものを好む傾向が強いといえよう。

・技術的要因

生産者や食品メーカー、食品流通業、さらには食生活に関する様々な企業といった供給側から の働きかけが与えている食生活への影響は極めて大きい。古くは乾燥、缶詰、そして比較的新し いところでは冷凍貯蔵 CA(コントロールド・アトモスフィア)貯蔵などの貯蔵法が食生活に影 響を与えている。または、レトルトパウチなどの包装技術や、ファーストフード・サービス企業、

ファミリーレストランなど外食サービスに対する供給側の変化も人々の外食のパターンと質を 大きく変化させたといえよう。

・心理的要因

消費や経済に対する消費者における心理的要因の影響の大きさを指摘したのは J・カトナであ った。彼の著書『大衆消費社会』のなかで、大衆消費社会状況のもとでは、消費者の心理が消費 に重大な影響を与え、ひいてはそれが経済全体に影響することを証明している。食に満ち足りた 状態になると人々のニーズも変化する。その変化に供給側がどう応えるかによって食生活そのも

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のが変化するという面が強くなる。欲求は生の形で発生するのではなく、社会的な価値観という プリズムを通して充足される。したがって生活に関した価値観の変化も、新しい食生活パターン の形成に影響を与えることになる。

食生活パターンの形成プロセス

食生活への影響要因 自然的要因

社会的要因 経済的要因

ソシオ・デモグラフィッ クな要因

技術的要因 心理的要因 他の生活要因

食生活パターン

生活価値観

食生活に対する ニーズ

新 し い 生 活 パターン

今まで見てきたことは消費者側と企業側双方の目的がはっきりしている時、起こりうる現象の 要因であるが、現代社会では消費者と企業とは思惑の違い、消費者のニーズがはっきりしていな いなど不確定要素が必ずといていいほどある。そういった現象の中で最初はなんでもなかったも のが普及したり、画期的な商品が普及しなかったりする。そういった商品が消費者と企業側の関 係と社会全体の背景によって変化していき普及していった例をあげたいと思う。

>アメリカにおける電話の例

1870 年代アレクサンダー・グラハム・ベルにより電信に変わる電話という技術が開発された。

ビジネス界では当初画期的な技術とされながらもなかなか受け入れられなかった。しかし改良を 重ねるうちに電信にとって変わるツールとなった。しかし一般家庭での普及は、医者など限られ た職業の人々か一部の裕福な家庭の道楽でしかありえなかった。

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この理由としては、ビジネス界において電話がある程度の成功を収めたことが原因となってい る。

第一に電話会社のリーダー達は、電話は事業経営とビジネスマンの関連活動に役に立ち、人々 が電信を使うのと同じように電話を利用していくだろうと考え、ビジネスマンのための業務用の 装置というほうに事業を向けていった。よって彼らは、当時の顧客に社交のために電話を使うの をやめさそうとした。当時は電話のモラル構築のために家庭でも実用的な目的以外での電話の使 用をしないように諭していた。やがて、第二の利用法として、家庭の管理役たる主婦が,電話を 家事の切り盛りに使う。または、家庭における緊急の連絡や、そこそこ急ぎのメッセージ、例え ばパーティーの招待等に使うと便利であるといったマーケティングを展開するようになった。

1920 年、電話が発明されて約半世紀たち、はじめて業界はもう一つの理由すなわち社交性を 強調し始めた。しかし、これは業界側が自発的に推し進めたのではなかった。農民達や外社会と あまり関わりあいをもつことのできない地方の人々、中でも女性達の社交、つまりおしゃべりの ツールとして電話は友人や家族との会話を容易にするという活用法が発展してゆくのを受け、後 になって企業側がはじめたというわけだ。実用性から社交性への焦点の移動で、業界やテクノロ ジー、利用者にも大いに変化が見られた。このようにニーズを企業側が満たしてゆくのではなく あくまでニーズは利用者たちの経験によって発生するものであり企業側の思惑どおりに消費者 達が動くとは限らないのである。消費者は時としてその商品を企業側の思惑をはるかに超えた発 展を遂げさせるのであり、またその逆もありえるのである。

>1900 年代アメリカにおける車の例

1900 年。車のデザイナーは車の大体の構造は決定していたが、最後にエンジンを何で駆動させ るべきかということで迷っていた。というのも当時の消費者は馬無しでも走る馬車がほしいとい ったあいまいな需要であったため、これに対しどのようなエンジンを採用するのが最適であるか わからなかったからである。選択肢としては電気、蒸気、ガソリンといった三つの選択肢が最終 的に残ったが、この三つには三者三様のメリットとデメリットがありどれが最適であるか消費者 が使ってみなければわからなかった。当初技術者達は、電気、蒸気で駆動するエンジンが信頼で きエンジンにはよいのではないかと考えていたが、実際はガソリン駆動のエンジンが市場を支配 するに至った。エンジニア側では何かと問題の多いと考えられていたガソリンエンジンであった としても一度消費者にエンジンに対する既成概念ができてしまうとそれを覆すことは難しくな ってくるのである。

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アスパラの概念認識経路

植物

食べ物

野菜

緑野菜

アスパラ

食べれない

果物

黄野菜

・カスタマー・コンセプト

消費者がアスパラの存在を知らないとする。その消費者は何か食べるものを望んでいる。その 消費者にアスパラを提供しようとするのだが、消費者は、アスパラについての情報は植物である ことなどは目で見て判断をできるであろう。しかしそれ以上の情報は消費者が実際食べてみない とわからない。消費者は経験してみて初めてそれが野菜であることや、豆類ではなくアスパラと いうものだという概念を、段階を踏んで理解してゆく。その過程で消費者の需要が何か食べるも のから野菜、緑野菜、アスパラというふうに具体的になってゆくのである。

つまり、提供側がしなければならないことは、消費者のあいまいなニーズに対し、段階を踏ん で経験させることで、ニーズを促してゆくこと、さらにはそれに応えうるような改良を加えてゆ くことが大切である。そうすることによってカスタマー・コンセプトは形成されてゆくのである。

これらのことを踏まえて、各食材がどのようにして普及していったのか、または普及しなかっ たのかを検証しようと思う。

4、パスタ

近代から現代にかけて我々日本人の食に欠かせない存在の一つとなったパスタ。イタリアで生 まれたものであるが、パスタにはたくさんの種類がある。そのなかでも乾燥パスタ、特に麺状に なっているパスタを中心に見ていきたいと思う。

古代からイタリア南東部では、「チチェリ・エ・トリー」とよばれる麺状に小麦粉をこねたもの があった。この「トリー(trii)」はシチリアに古くから存在していた「イットリーヤ」に語源を 持つものであると考えられている。中世の医学書「健康全書」の 14 世紀頃の写本には、麺状の

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パスタを作っている絵がありそれを「トリー」と呼んでいる。傍らで木製の枠に細い長いものを 広げていることから乾燥パスタであることがわかる。そのほか 1279 年にはジェノバの公証人が 作った、顧客の財産目録の中に「マカロニがいっぱい詰まった箱」が出てくる。これも保存に耐 えるものであるから、乾燥であったに違いない。また、12 世紀からのジェノバでは、シチリア から乾燥パスタを輸入し、それを地中海各地に輸出されていたことがわかっている。

この時期、マカロニは船乗りなどの保存食料として用いられていたが、一方財産目録に登場す るように高級品でもあった。ルネッサンスが始まった 15-16 世紀になるといくつか料理書も残っ ており、乾燥パスタの料理法ものっている。1500 年代のプラティーナは、ヴェルミチェッリを 1 時間茹でるようにと書いており、現在のアルデンテとは全く違っていた。アルデンテの概念がで てくるのは 17 世紀初頭、アマチュアシェフのジョバンニ・デル・トゥルコが、それらしいこと を提唱しているのがはじめである。彼は「マッケローニをあまり長くゆですぎないほうがよい」

とし、さらには「ただちに冷水をかけること、そうすることによってよりしゃっきりと引き締ま る」と著書に書いてあった。

その後、18 世紀にかけてパスタはあまりゆですぎないように、という忠告がなされるように なった。ナポリの庶民が、強い腰、歯ごたえを好むようになったため、国家統一後それが北部に も行き渡りイタリア全土に普及していった。

15 世紀頃は、ソースのほうにも大きな変化が見られた。1492 年コロンブスによって新大陸の発 見。16 世紀には冒険家達が、メキシコやペルー高地からトマトを持ちかえった。(ついでにい うとジャガイモも持ちかえった。これはニョッキに使われるようになる) 当初は小さい実であ ったトマトは疫病の原因であるとして嫌われていたが、品種改良が進むにつれ 17-18 世紀にはナ ポリでトマトソースが使われるようになった。

このころのナポリの絵には、手掴みでパスタを食べる民衆の姿が描かれている。まさに一大名 物という感じになっていたわけである。押し出し機で大量に作れるパスタはすでに高級品ではな くなっていた。

ちょうどこのころ、ナポリ領主(フェルディナンド II 世)がそれを食ってみたいと所望した。

さすがに手づかみで出すというわけにもいかず、当時の肉差し用に使っていたフォーク(11 世 紀の末に東方ビザンチン帝国の皇帝ミケーレ 7 世の妹がヴェネツィアの統領と結婚して、フォー クが伝えられた)を改良して使うようになった。肉差し用の 3 本歯の鋭いフォークから現在ある ような 4 本歯の先をつぶしたものへ改良したのが、ナポリ王家に使えていたスパダッチーニとい われている。こうして、パスタは優雅な正餐料理としても定着していった。

産業革命(18 世紀末)がイギリスから波及するに及び、動力が蒸気に変わって、パスタが大量 生産されるようになった。油圧のプレスが 1882 年に、蒸気式のものが 1884 年に最初に出来てい る。

粉引きに関しても水車と石臼を使っていたが、1878 年にはセモリナ(荒引き小麦粉)を作る 画期的な Marseillais 精製機がでた。また、パスタの乾燥も 1875 年、ディチェコの人工乾燥設 備の開発により天候に関係なく量産できるようになった。19 世紀には、ダイス(パスタ押し出

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し金口)メーカーは、各種のパスタの形を変化させることを思いついた。20 世紀に入ってから

「ひも」を意味する「スパゲッティ(Spaghetti)」という名称がようやく現れる。ただ乾燥パス タの需要はかなり後まで南部に限られており、イタリア全土でスパゲッティが食べられるように なったのは実は 20 世紀中ごろになってからである。1933 年には、連続式プレス機が発明され、

機械を休止せずにパスタを生産できるようになった。

その後パスタは、その保存性の良さから新大陸へと運ばれていった。中でも 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけてイタリアからのアメリカへの大移民は大量のパスタ料理を新大陸、ことにアメ リカへと送りこんだ。おもな出身地は、ナポリの南のカンパーニア地方とシチリアの人々。まさ に乾燥パスタの本拠地だったわけである。アメリカは今も昔も小麦の大生産地であり、その追い 風もあってか、アメリカのパスタ産業はイタリアに次いで世界第 2 位である。もっともアメリカ では「トマトソース」の缶詰が非常に広まった。イタリアンテイストなものではなく、アメリカ ンテイストとでもいうべきものが成立しつつあった。

1792 年のアメリカの料理書は、パスタを水から 3 時間茹でスープで 10 分煮るとある。時代が 下がるにつれ、90,45 分とその時間は縮まり、1932 年には 30 分。1944 年には 20 分。現在でも 軟らかめであるが、当時に比べるとだいぶ軟らかくなっている。

では、パスタがいつ日本に入ってきたかというと、おそらく幕末にヨーロッパ各国から九州に 上陸したマカロニが一番初めであろう。明治 5 年(1872 年)年には横浜の外国人居留地の西洋料 理店に「素麺(そめん)」として出されている(「散歩の達人」9905 号より)。また明治 28 年 にはイタリア帰りのシェフが新橋でパスタをメニューに連ねている。さらに、初めて国内での生 産が行われたのは大正時代。石附吉治という人が試行錯誤の上に創りあげたと言われている。以 後、昭和にかけていくつかのパスタ工場ができたが,当時はホテルや一部の高級レストランなど 上流階級の人々だけの口に入るものであった。

一般の人々の口に入るようになるのは第2次世界大戦敗戦後、アメリカ進駐軍の持ち込んだナ ポリタンまでまたねばならない。もっともこのころのスパゲッティやマカロニは、米不足を補う ご飯の付け合わせでしかなかった。さらにスパゲッティは、本場イタリアからではなくアメリカ の料理として人々の前に紹介された。学校給食にも導入されたがしょせんは付け合わせだったの である。

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(日本パスタ協会調べ)

上の図を見てもらうとわかるとおり 1962 年から急速にパスタの国内生産量が上がっている。

戦後,米の代わりの食材としてアメリカから輸入された小麦は、パンなど様々な食品に加工され る中でパスタがもたらされた。その後経済が急速な発展を遂げパスタは単なる付け合せでは無く 単品で食する一品料理になっていた。とはいえ当時は、西洋のうどん、もしくは焼きそばという 認識でしかなかった。事実、1970 年以前はいわゆるケチャップ和えである「ナポリタン」と、イ タリアのボロネーゼがアメリカに渡った後に日本に入ってきた「ミートソース」の二つしかメニ ューに無かったといっても過言ではない。だが、この二つのメニューは,当時の西洋文化の普及も あり、外食店の大マーケットであったであった喫茶店では定番のメニューといっても過言ではな く、安定した売れ行きを見せていた。

そして、1970 年以降は、現在のファミリーレストランチェーンが続々と多店舗化を進める一 方で、繁華街では「スパゲッティ専門店」と呼ばれる新しい業態が次々と生まれ、人気を集める。

このスパゲッティ専門店には、大きく二つの流れがあった。一つは「カルボナーラ」や「ボンゴ レ」「ペスカトーレ」「バジリコ」といった、イタリアのパスタを日本風にアレンジした商品を 集めている洋食系スパゲティー専門店であり、もう一つは、日本の素材や味付けを加えた「和風 スパゲッティ」という新しいカテゴリーを生み出した和食系スパゲッティ専門店である。このな かでも「壁の穴」が開発した「たらこスパゲッティ」は、日本におけるパスタを大きく印象付け るとともに、大ヒットとなった。これらさまざまなパスタの登場がそれまでの洋風うどんという 概念を取り払いパスタという概念を強烈に印象付けていった。

こうして順調に普及してきたパスタであるが、ブームがすぎ、一時期生産量を落としてしまっ

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た。しかし、1990 年代に入ると再び生産量が拡大し始めた。この要因は「イタめし」ブームであ る。このブームをもたらした要因は、技術革新とアルデンテである。当時、「イタめし」という言 葉が流行り、イタリア料理がブームとなった。これにより本場志向が強くなり、「アルデンテ」

という言葉が一般的になってきた。この「アルデンテ」に早くから注目していた日清製粉は 1988 年に冷凍パスタを約 60 秒で解凍でき、しかもアルデンテの状態に仕上げる装置を開発した。それ までは職人によってゆでられていたパスタが、簡単に誰でもできるとあって、喫茶店など専門店 でなくても本場のゆで加減を味わえるようになった。さらに 1990 年代後半になり、景気が後退し、

価格破壊が求められる時代になってもこれらの技術はパスタの低価格化を実現させた。

このように、日本におけるパスタの普及には、社会の所得水準に合わせた価格設定をすること ができ経済的要因を満たし続けたことや、それを助けるニーズに合った技術革新、さらには西洋 うどんという概念を和風スパゲッティの登場などでうまく覆し、パスタ、アルデンテというよう にカスタマーコンセプトを導くことができたことが今日の普及に大きく関与しているのではな いかと考える。

5、カレーライス

日本にはじめてカレーが紹介されたのは 1860 年のことであった。日米修好通商条約締結のた めにアメリカへ向かった福沢諭吉が、『増訂華英通語』の中に“Curry・コルリ”と訳されてい る。当時の福沢諭吉がカレーとはどのようなものか知っていたかは定かではないが,これが文字 で書かれた日本最古のカレーの資料である。日本人で最も早くカレーを食べたのは 1870 年に物 理学者の山川健次郎といわれている。彼は、洋食が苦手であり、留学の際全く食事が取れなかっ た。それを見かねた外国人船医が見るに見かねて出したのが、ライスカレーだった。しかし彼は、

においを嫌い結局ご飯の部分しか食べなかったという。しかし同時期に,木戸考允、伊藤博文、大 久保利通などもセイロン島でカレーを食べたという記述が残っている。この時期からカレーは急 速に広まって行った。1873 年には、軍隊の中ではカレーが採用され、簡単に作ることのできるカ レーを地方の青年がふるさとに帰り広めていった。

1880 年後半になると、高級ホテルなどのメニューなどに名を連ねるようになったが当時は高 級品であり,主に外国人相手のメニューであった。この頃には西洋料理店には限られた数ではあ るが「カレー粉」が存在していたという記述が残っている。また、1896 年には即席カレーが発明 され、1900 年代になると、一般に発売されるようになった。お湯をかけるだけでカレーができる など技術も発展し、値段もどんどんと手ごろになっていった。1914 年に発売された「ロンドン土 産即席カレー」は、15 人前 30 銭であり、当時食堂でのカレーは 5~7 銭。付け加えると掛けそ ばが 3 銭、天丼は 12 銭である。このように、カレーは急速に一般市民に親しみのある食材とな っていったのである。

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カレーの生産量

80000 85000 90000 95000 100000 105000 110000

95 96 97 98 99 0 1 西暦

生産量(t)

固形ルウ生産量 レトルト生産量

第二次世界大戦に入り日本の食生活からしばらくカレーの文字が消えたが、戦後まもなくする とあらかじめ炒めた小麦粉とスパイスを粉末状にしておくという「オリエンタルカレー」が登場 し、戦後の復興と同じくしてカレーも著しい発展を遂げた。1950 年には板チョコをモチーフにし た日本発の固形カレールウである「ベルカレールウ」が誕生した。これを皮切りにエスビー食品 がモナカの皮にカレー粉を詰め込んだ「即席モナカカレー」を発売、ハウス食品は「印度カレー」、

「バーモントカレー」を発売。これにより、カレーの主流は完全に固形ルウタイプに移ることに なった。

このころから味に関しても大きな変化がみられるようになった。辛さから甘さへの転換であ る。それまではカレーは辛いものであり、大人の食べ物であった。子供はハヤシライスを食べると いう固定観念があった。しかし 1963 年に発売されたハウス食品の「バーモントカレー」は、大人 も子供も、家族全員が一つの鍋で食べられることに加えて大人にも新鮮な味が受け、画期的な商 品として世の注目を浴びた。この頃からカレーは昭和初期の頃のようなごった煮カレーとして家 庭の食卓に復活し、家庭惣菜のひとつとして不動の地位を築くことになった。

さらに 1969 年には三分間待つだけで簡単にカレーが食べられる日本初のレトルトカレー「ボ ンカレー」が大塚食品から発売された。これをきっかけに 1971 年にはレトルト版「ククレカレー」

を発売、他の食品では「カップヌードル」の発売、マクドナルド一号店の登場と高度経済成長と いう社会の追い風も受け、食事にかける時間も減り、ファーストフード、インスタント食品が注 目を浴びることとなった。こうしてカレーは、図にもあるように年々安定した生産量を誇り、そ の時々の社会に適応した味と技術を発展させながら今日に置けるような日本の食文化の仲間入 りを果たした。

余談ではあるが、カレーが日本に入ってきた明治から大正にかけては、「ライスカレー」と呼

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ばれていたが、昭和初期には「カレーライス」と呼ばれるようになった。これに関して、吉行淳 之介は『味覚の記録』でカレーライスとはカリー・アンド・ライスで、香辛料などをいろいろ使 い本場、もしくは本場のものに近いものというニュアンスがあり、ライスカレーとは黄色くてど ろりとした福神漬けのよく似合う“お袋の味”がライスカレーであるといわれている。ではその 福神漬けであるが、はじめにカレーに福神漬けを添え始めたのは日本郵船の一等食堂であるとい われている。当時一等船客用の食堂ではカレーの付け合せとしてチャツネを出し、二、三等は沢 庵を出していた。ところがチャツネを切らしてしまった時にコック用に積んであった福神漬けを 出したところ好評になり、以来福神漬けを出すようになったといわれている

6、徳島ラーメン

現在各地にあるいわゆるご当地ラーメンの一つである。主な特徴としては,濃く濁ったスープ に、薄切りのバラ肉を甘辛く煮て乗せるスタイルが多い。「すき焼き風」といったところで、実 際生卵を落として食べることが多い。ストレートの中細面が主流となっている。和歌山ラーメン などのご当地ラーメンブームに乗り、徳島の有名店「いのたに」が、1999 年に横浜ラーメン博 物館に出店した。これを機に全国に徳島ラーメンを轟かせることとなったが,このブームも長く はつづかなかった。現在、徳島県内では今でも根強い人気があり,依然徳島の人口に対するラー メン屋比率は高いままを維持し続けているが、他県を見てみると徳島ラーメンを売っているとこ ろはほとんど無いといってもよいだろう。

それでは、なぜ徳島ラーメンは単なる一時的なブームで終わってしまったのであろうか?

パスタなどとどの時点で違ってきたのだろうか?これは単なる個人的な趣向の違いということは あると思われる。しかし,同じ日本、同じような生活環境の点においてはパスタと徳島ラーメンと では明らかに徳島ラーメンのほうが有利であるはずである。

徳島のラーメン屋における卵

生卵 65%

煮卵 28%

その他 7%

生卵 煮卵 その他

(ASA12 月号より)

徳島においてラーメンは他の都道府県とは全く違った独自の価値観、文化をもっている。

例えば、徳島においてラーメン屋で卵を頼むとする。そこで煮卵が出てくるのはわずか 28%であ り,その他の 7%を除く 65%の店では生卵を出しているのである。また、「いのたに」では、ラー

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メンだけを頼む客には必ずといっていいほど「県外から来たんですか?」と声をかけられる。徳島 の人のほとんどは、ラーメンを頼む時にご飯も一緒に食べることが多いのである。つまり,徳島ラ ーメンの最大の特徴は、ラーメンは単一で食べるものではなく、ご飯などと一緒に食べる、おか ずという認識をされているということである。徳島ラーメンが普及せずにひと時のブームで終わ った背景はこのおかずであったということが最大の原因である。

徳島県以外の人の一般的なラーメンに対するカスタマーコンセプトは一品料理であり、徳島ラ ーメンも当然そのような目で見ていた。しかし、徳島ラーメンはおかずなだけあってそれだけ単 品で食べるとどうしても濃い目の味付けになってしまうのである。提供側もおかずであることを 解ってもらおうともせず、また一品料理として一般的なカスタマーコンセプトに近づけることが できなかったのである。

7、ナタデココ

スペイン語で「ココヤシの浮遊物」という意味でフィリピン・タイなどでは日常的なデザート 食品の一つである。粉砕したココナツミルクを桶に入れ、氷酢酸、砂糖を混ぜ十日ほど寝かせる。

そうすると酢酸菌の一種であるナタ菌が発酵しゼリー状に固まりできる。1940 年代に国立フィ リピン大学のプレスシーラ・サンチェス教授によって開発された。サンチェス教授はパイナップ ルが自然発酵し、寒天状に固まっていることを発見した。それをヒントにフィリピン中で溢れて いるココナツに応用しナタデココを生み出した。

日本には 1970 年代後半から入っていたが、1993 年に弾力的で歯ごたえのある食感と低カロリ ーということで、10 代から 20 代後半の女性を中心に爆発的にヒットした。ファミリーレストラ ン大手のデニーズジャパンはブーム前年の 1992 年夏からデザートメニューとして発売したが、

当初は 1 店舗あたり週に 30 食程度であったが、翌年 5 月には 90 食以上を売り上げるヒットにな った。以後もナタデココの人気は当時の低カロリー志向に乗り、上がりつづけナタデココ入りの 商品は、生産が追いつかないほどの人気になった。当時日本の商社マンは札束を持ちフィリピン に行きナタデココの確保に走り回っていたようで、フィリピンでもナタデココの生産ブームが起 こっていた。ナタデココの輸出額は 91 年が 57 万ドルだったのに対し、93 年には約 600 万ドルと 急上昇している。

しかしこのナタデココブームもあまり長くはつづかなかった。1995 年にはアロエが大ヒットし、

ナタデココ市場を大きく圧迫した。

ナタデココの普及と衰退には様々な要因があると考えている。なかでも社会的要因と心理的要 因が大きく関わっているのではないであろうか。

しかし企業側もただ黙ってブームが過ぎ去るのを見ていただけではなかった。消費者の飽きを回 避し、潜在的な需要を引き出すために「ナタデココ入り缶ジュース」や「ナタデココヨーグルト」

さらには「ナタデココinお汁粉」なるものまで次々とナタデココを応用した商品を開発してい る。「ナタデココヨーグルト」は現在でも見ることはできるが、同じように歯ごたえと低カロリ ーであるに加え健康食品としても注目を浴びていたアロエの台頭によりナタデココはアロエを

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普及させるものとなってしまったのではないかと考えている。

8、まとめ

これまで挙げてきたものの共通点を挙げるならば何よりも大切であることは、社会背景、ま たはそれによる消費者の心理的変化を提供側がいかにつかむかということであるといえる。次に そのような社会や消費差の変化に対応した味、技術の進化が必要となる。つまり、社会、味、技 術それぞれに対し柔軟でなければならないのである。パスタやカレーはこういった点で急激な社 会の変化、嗜好の変化に常に応え続けることができていたのではないであろうか。逆にナタデコ コや徳島ラーメンは顧客の概念を変えることができなかったことや、嗜好に対する柔軟性に欠け ていたから人々の生活に入り込むことができなかったと考えている。

また、現代社会では、社会がある一定の水準に達し、社会的要因、経済的要因、技術的要因の 個人による格差が無くなり、ソシオデモクラティックな要因である世代格差や個人による嗜好の 違いが広がることで、消費者にさまざまな選択肢を与えることとなった。この食の多様化が一つ の食品に対する依存度を昔と比べ低下させている。さらに、情報社会が進み、メディアによるブ ームを発生させることが容易になったといえる。しかし逆にそれが消費者側の考える機会を奪い、

消費者自身の自発的なニーズが生まれにくくなっているのではないかと思う。能動的なニーズで あるからこそ一度は使ってみるが、やがて飽きがきてしまうのである。こういったことが、現代 での食文化の形成を難しくしている原因の一端なのではないであろうか。

9、最後に

これまで述べてきたなかで個人名がでてくる人は全て男性であるが、食の普及については女性 の力が大きいことを忘れてはならない。イタリアでのパスタにしてもいわゆる「マンマの味」を 支えつづけ発展させたのは女性であり、日本でも「おふくろの味」としてさまざまな食文化を支 えてきている。そのほかでもアメリカでの電話の普及、日本でのナタデココフィーバーなども女 性の力で社会全体を巻き込んだ変化をもたらしてきている。きっかけを作るのが男性であったと してもそれを普及させるのもさせないのも結局は女性達の力が大きく左右するのではないであ ろうか。食文化は、男性が作っているのではなく、女性が支えているのである。

食文化は、他にも流通やメディア、マーケティングなどさまざまな要因が複雑に絡まりあって 形成されているものである。それを考えると私は結局、一元的な見方しかできなかったように思 える。しかしみなさんが、ここに登場する食品を家族や友人と食べる時に、この論文の中に出て くる内容を思い出していただき、会話のネタになることでよりいっそう食卓を明るくすることが できれば幸いである。

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参考文献

・ 池上俊一『イタリア』農文協

・ 奥山忠政『ラーメンの文化経済学』芙蓉書房出版

・ クロード・S・フィッシャー『電話するアメリカ』NTT 出版

・ 小菅桂子『カレーライスの誕生』講談社選書メチエ

・ 山口貴久男『戦後に見る食の文化史』三嶺書房

・ 『食品流通統計年鑑 2003 年版』流通システム研究センター

・ 『食品産業&食生活データブック 2003 年版』

・ Kim B Clark『The interaction of design hierarchies and market concepts in technological evolution』

・ 日本パスタ協会 HP http://www.pasta.or.jp/

Referensi

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