馬 先 生 の さ さ や か な 思 い 出
伊 坂 青 司 ︵ 外 国 語 学 部 ︶
馬先 生が 本学 の特 別招 聘教 授に なら れた のが 二〇
〇九 年で
︑最 初に お会 いし たの はも うか なり 前の こと にな り ます
︒あ の優 しい 笑顔 と物 腰の 柔ら かさ が第 一印 象と して 残り まし た︒ その 後も 何度 か会 議の 前後 に顔 を合 わせ て︑ 挨拶 の言 葉を 交わ すく らい でし たが
︑そ の最 初の 印象 が変 わる こと はあ りま せん でし た︒ 馬先 生が お亡 くな りに なっ たこ とを 知っ たの は︑ 一一 月の 外国 語学 部教 授会 のち ょっ とし た休 憩時 間に 中国 語 学科 の孫 先生 から でし た︒ すで に副 学長 職か ら離 れて 学内 情報 に疎 くな り︑ 掲示 板の 訃報 を見 る習 慣の ない 私の 不覚 でし た︒ その 時の 私に は突 然の こと で︑ 驚く とと もに その 時に 脳裏 に浮 かん だの も︑ あの 優し いお 顔で した
︒ 私が 二〇 一六 年度 に一 年間 だけ でし たが 副学 長を 務め た折 に︑ 兼子 学長 を中 心と した 執行 部の 定例 会議 の席 上 で︑ 馬先 生の こと が何 度か 話題 に上 りま した
︒そ れは
︑神 奈川 大学 と中 国の いく つか の主 要な 大学 との 提携 を図 るう えで 重要 な役 割を 果た して いた だい てい るこ と︑ また 神奈 川大 学の 上海 事務 所の 開設 にも 尽力 をし てい ただ いて いる こと など でし た︒ 兼子 学長 も馬 先生 の力 を頼 りに され
︑ま たい ろい ろと 配慮 をさ れて
︑そ れに 馬先 生が 信頼 をも って 応え られ たも のと
︑改 めて 感じ てい る次 第で す︒
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一一 月九 日の 理事 会の 席上 で︑ 兼子 学長 から 馬先 生が お亡 くな りに なっ たこ との 報告 があ りま した
︒ま た︑ 馬 先生 が神 奈川 大学 の上 海事 務所 を立 ち上 げる こと がで きた こと を最 後に 喜ん でお られ た︑ とい うご 子息 から の メッ セー ジが 紹介 され まし た︒ 馬先 生は これ まで
︑日 本と 中国 の相 互理 解と 友好 親善 の促 進で
﹁外 務大 臣表 彰﹂ を授 与さ れ︑ また 本学 でも
︑中 国を 始め とす るア ジア から の留 学生 確保 と国 際交 流の 充実 に尽 力さ れて きま した
︒ そう した 業績 に加 えて
︑神 奈川 大学 上海 事務 所の 開設 は馬 先生 のご 自身 のな かで
︑自 らに 課し た一 つの 大き な仕 事と して 位置 づけ られ てい たこ とを
︑改 めて 感じ まし た︒ その 責務 を果 たす こと がで きた とい う馬 先生 の想 いが
︑ 人生 を閉 じら れる 最期 の時 間の なか で去 来し たの では ない かと
︑ご 子息 から のメ ッセ ージ を私 なり に勝 手に 解釈 して いま す︒ 神奈 川大 学が これ から 国際 化を より いっ そう 進め るた めに
︑国 際文 化交 流学 科と 歴史 民俗 資料 学研 究科 を基 礎 に新 学部 を実 現す るこ と︑ そし て国 際系 の学 部を 集約 して みな とみ らい キャ ンパ スを 開設 する こと が具 体的 な日 程に 上り つつ あり ます
︒そ うし た神 奈川 大学 の国 際化 とい う未 来に とっ て︑ 海外 に事 務所 を開 設す るこ とは 初め ての こと であ り︑ それ がま た中 国の 上海 であ るこ とは
︑馬 先生 のお 力な しに はあ りえ なか った もの と思 いま す︒ 馬先 生に 心の なか で感 謝を 申し 上げ つつ
︑ご 冥福 をお 祈り いた しま す︒
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