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化学と生物 Vol. 52, No. 8, 2014
生 物 コ ー ナ ー
高病原性鳥インフルエンザに対する粘膜ワクチンの開発
家禽における高病原性鳥インフルエン ザ
高病原性鳥インフルエンザ(highly pathogenic avian influenza ; HPAI)
とは,家畜伝染病予防法において「国 際獣疫事務局(OIE)が作成した診断 基準によりHPAIウイルスと判定され たA型インフルエンザウイルスの感 染による家禽(鶏,あひる,うずら,
きじ,だちょう,ほろほろ鳥,七面鳥)
の疾病」と規定されている.臨床的に は,HPAIウイルスは感染鶏の全身の 臓器で爆発的に増殖し,しばしば症状 を示さずに数日のうちに感染鶏を死に 至らしめることが多い.同時に,HPAI ウイルスは感染鶏の鼻汁,痰,糞など に大量に排泄され,容易に周辺の鶏に 伝播する.
HPAIは従来まれな疾病であった.
しかし2003年以降,H5N1亜型HPAI ウイルスが中国から東南アジア,ヨー ロッパ,アフリカの家禽に広がり,家 禽産業に甚大な経済的被害を与えてい る.さらに,H5N1亜型ウイルスが家禽 からヒトへ伝播して高い死亡率を示す 事例が多発し,パンデミックの発生に つながる可能性があるとして注視され て い る.こ の た め,家 禽 に お け る HPAIの防疫は,家畜衛生および公衆 衛生にとって重要な課題である.
HPAIに対する防疫対応の基本は,
発生農場のすべての家禽の迅速な殺処 分である.国内での2010 〜 2011年の
発生の際には,9県24農場の185万羽の 鶏が防疫のために殺処分された.しか し,このような防疫対応は家畜衛生に かかわるさまざまな社会資本を必要と し,また,防疫措置にかかる経済的な 負担が甚大であることから,多くの発 展途上国では実行が難しい.そのため,
H5N1亜型ウイルスが常在化しHPAI が継続的に発生している中国,インド ネシア,ベトナム,エジプトでは,ワ クチンの大規模な予防接種が試みられ ている.
現行の鳥インフルエンザワクチンの問 題点
現在,広く用いられているAIワク チンは,不活化したAIウイルスにオイ ルアジュバントを添加した不活化ワク チンである.不活化AIワクチンを筋 肉内または皮下に接種すると,抗原で あるAIウイルス表面の赤血球凝集素
(hemagglutinin ; HA)に対する抗体 が血清中に産生され,AIウイルスの 感染による発症や斃死を防ぐとともに,
感染家禽の呼吸器および消化器からの AIウイルスの排泄量を減らすことが できる.しかし,現行の不活化AIワ クチンには大きな問題がある.
第一に,現行の不活化AIワクチン は血中抗体の産生を惹起するものの,
AIウイルスの侵入門戸である呼吸器 粘膜での抗体の産生を惹起しないため,
ウイルス感染そのものを阻止しない.
そのため,野外において現行の不活化 AIワクチンを使用した場合,HPAIウ イルスに感染したワクチン接種鶏は症 状を呈すことなく,呼吸器または消化 器からHPAIウイルスを排泄して感染 を広げる可能性がある.第二に,現行 の不活化AIワクチンは一羽ごとに筋 肉内または皮下に接種するため,多頭 羽への投与が難しい.実際,ワクチン の大規模な予防接種を行っている国々 では,HPAIの流行を抑えるために必 要とされる60 〜 80%の接種率を達成 できていない.
そこで,現在,摘発淘汰と平行して 用いることができるワクチンとして,
呼吸器粘膜での抗体産生を誘導するこ とでAIウイルスの感染そのものを阻 止し,かつ,多頭羽の家禽に省力的に 接種できる粘膜ワクチンの開発が求め られている.
鶏における粘膜免疫機構の特徴 家禽に使用する粘膜ワクチンの開発 のためには,AIウイルスの侵入門戸で ある呼吸器粘膜における免疫機構を理 解することが必要不可欠である.しか し,鳥類における粘膜免疫機構の研究 は,哺乳類におけるそれに比べてずいぶ ん立ち後れている.そこでわれわれは,
鶏の眼鼻部位の粘膜付随リンパ組織
(mucosa-associated lymphoid tissue ; MALT)の解剖学的特徴を調べた.
鶏の眼窩には2つの腺組織が存在し
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ており,内眼角寄りに位置するものを 副涙腺すなわちハーダー腺と呼ぶ.鶏 のハーダー腺は,眼球表面の保護や眼 瞼および瞬膜の潤滑のための分泌を行 う外分泌腺であるが,その間質には多 数の形質細胞が集積している(図1)
.
ハーダー腺のIgG含有細胞は間質の全 域,とりわけ中心部に分布する傾向に ある.これに対してIgA(図1a,矢印)およびIgM含有細胞は,間質の周縁に 散在して分布する傾向にある(1)
.
一方,鶏の鼻腔組織は,鼻腔,眼窩下洞(副 鼻腔)および鼻涙管ならびに外側鼻腺 などの腺組織から構成される(図2)
.
眼窩下洞は鼻腔の後位にあって,著し く広がる副鼻腔を構成しており,外鼻 孔からの吸気と広範囲で直接に接す る.そのため鶏の鼻腔組織は,吸気中 に含まれる微生物の侵入による感染症 を引き起こしやすい.これに抗するために鼻腔粘膜には鼻粘膜付随リンパ組 織(nasal-associated lymphoid tissue ; NALT)が発達し,鼻腔の大部分を 覆っている呼吸上皮および眼窩と鼻腔 を結ぶ鼻涙管の粘膜上皮の下には胚中 心を伴うリンパ球の集積がしばしば認 められる.これらのリンパ球の集積を 構成する細胞の多くは,T細胞マー カ ー で あ るCD8ま た はCD4に 陽 性 反応を示す細胞群であり,とりわけ CD4
+細胞は胚中心の周縁に多く認め
られる.免疫グロブリンを含むB細胞 群も鼻腔および鼻涙管の粘膜上皮下に 認められるが,T細胞群に比してその 数は少ない.眼窩下洞の粘膜上皮下に は,CD8+細胞が主に分布しており,免疫グロブリンを有するB細胞群はま れである.外側鼻腺の導管には,CD8
+
細胞が広く分布して認められるととも に免疫グロブリン含有細胞も多く分布している(2)
.
このように,鶏の眼鼻部位の眼窩,
鼻腔,眼窩下洞,鼻涙管には,それぞ れMALTが発達していることが示さ れ,鶏ではワクチン抗原を点眼または 経鼻投与することで眼鼻部位のMALT を刺激し,呼吸器粘膜における免疫応 答を惹起できる可能性が示唆された.
図1■ニワトリハーダー腺におけるIgA含有細胞.FITC標識の間接蛍光抗体法 a:IgA含有細胞(矢印)は導管(D)の上皮下に認められる.Bar:50 μm.b:図1aの強 拡大写真.染色強度は,比較的弱いもの(矢印)から強いものまで存在する.Bar:20 μm.
図2■ニワトリ鼻部の横断面(左側のみを 示す)
2週齢白色レグホン種.HE染色.IOC : 眼 窩 下 洞(副 鼻 腔),NC:鼻 腔,NL:鼻 涙 管.
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鳥インフルエンザに対する粘膜ワクチ ンの開発
ヒトにおいては,不活化インフルエ ンザウイルス全粒子を経鼻接種するこ とによりNALTを刺激し,呼吸器粘 膜に抗体の産生を惹起し,防御免疫を 付与できることがよく知られている.
そこで,われわれは不活化AIウイルス 全粒子を鶏に点眼または経鼻接種する ことにより,呼吸器粘膜に抗体の産生 を惹起し,HPAIに対する防御免疫を 付与できるか否かを検討した(3)
.その
結果,103 HA単位の不活化AIウイル スを2回点眼接種したところ,およそ 70%の鶏において血清抗体の産生が見 られ,その血清抗体価(赤血球凝集阻 止力価)はおよそ10倍であった.こ れらの鶏を100 LD50のHPAIウイルス で攻撃したところ,およそ70%の鶏が 生残した.一方で,同量の不活化AIウ イルスを2回経鼻接種しても血清抗体 の産生は見られず,HPAIウイルスの 攻撃に対してすべての鶏が斃死した.次に,われわれは不活化AIウイル スを増量することにより,点眼ワクチ ンによる防御効果を高めることを試み た.その結果,104 HA単位の不活化
AIウイルスを2回点眼接種したところ,
およそ90%の鶏において血清抗体の 産生が見られ,その血清抗体価はおよ そ80倍に上昇した.また,ワクチン 接種鶏の咽喉頭スワブ中にはウイルス 特異的IgGが検出された.これらの鶏 をHPAIウイルスで攻撃したところ,
およそ90%の鶏が生残した.
さらに,われわれは哺乳類において 有効な粘膜アジュバントであるCpG オリゴデオキシヌクレオチドまたはコ レラトキシンを添加することにより,
点眼ワクチンの免疫誘導能を高めるこ とを試みた.しかし,これらの粘膜ア ジュバントは鶏において顕著な効果を 示さなかった.
これらの結果から,鶏において呼吸 器 粘 膜 で の 抗 体 の 産 生 を 惹 起 し,
HPAIに対する防御免疫を付与するた めには,哺乳類とは異なり,不活化 AIウイルス全粒子の点眼接種が有効 であることが示された.また,哺乳類 で粘膜ワクチンに用いられるアジュバ ントは,鶏では効果が期待できないこ とも明らかにされた.このため,鶏で 使用する粘膜ワクチンの開発には,鶏 の粘膜免疫機構の構造と機能を理解す ることが重要であることが改めて確認 された.
おわりに
2003年以降世界的に広がったアジ ア型H5N1亜型HPAIウイルスは,そ の後10年を経た現在,一部地域では 常在化してしまっている.このような 状況を打開するためには,これまでに ない新しい技術に基づく防疫対策の再 構築が必要である.このため,われわ れは鶏の眼鼻部位のMALTの特徴に ついてさらに詳細に調べ,その知見を 基に,より防御効果が高く,かつ,噴 霧やスプレーなどにより省力的に接種 できる実用的な粘膜ワクチンの開発を 進めている.
1) K. Ohshima & K. Hiramatsu : , 34, 129 (2002).
2) K. Ohshima & K. Hiramatsu : , 15, 713 (2000).
3) H. Hikono :
, 151, 83 (2013).
(彦野弘一*1
,平松浩二*
2,白井千亜
希*2,
原田裕太*2,
西藤岳彦*1,*
1農 業・食品産業技術総合研究機構動物 衛生研究所インフルエンザ・プリオ ン病研究センター,*2信州大学農学 部食料生産科学科動物生体機構学研 究室)552 化学と生物 Vol. 52, No. 8, 2014
552 プロフィル
彦野 弘一(Hirokazu HIKONO)
<略歴>1992年東京農工大学農学部獣医 学科卒業/同年農林水産省家畜衛生試験場
(現 農業・食品産業技術総合研究機構動物 衛生研究所)入所/2003年東京大学より獣 医学博士号取得/同年米国Trudeau研究所 訪問研究員/2006年農研機構動物衛生研究 所次世代製剤開発チーム主任研究員/2014 年同研究所インフルエンザ・プリオン病研 究センター領域長補佐(上席研究員)<研 究テーマと抱負>鳥インフルエンザに対す るワクチンの研究を通して社会に貢献した い<趣味>映画を映画館で観ること 平松 浩二(Kohzy HIRAMATSU)
<略歴>1989年名古屋大学大学院農学研 究科博士課程後期修了/同年エーザイ株 式会社研究開発本部安全性研究部/1991 年信州大学助手農学部/1995 〜 1996年日 本学術振興会「中核拠点への派遣研究者」
(連 合 王 国Liverpool大 学 生 理 学 部 門)/
1999年信州大学助教授農学部/2006年同 大学准教授農学部/2009年同大学教授農 学部/2014年同大学学術研究院(農学系)
教授,現在に至る<研究テーマと抱負>研 究テーマ1.ニワトリにおけるGLP-1分泌 制御機構の解明,研究テーマ2.ニワトリ の眼鼻部位における局所免疫機構の解明.
研究におけるキーワードは,「食べる」で す.なぜ食べるのか,いかに食べるのか,
何を食べるのか…<趣味>愛犬たち(チワ ワ,Mダックス)と遊ぶこと,映画鑑賞
(ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のファ ンです)
白井千亜希(Chiaki SHIRAI)
<略歴>信州大学農学部食料生産科学科動 物生体機構学研究室所属
原田 裕太(Yuta HARADA)
<略歴>現在,信州大学大学院農学研究科 食料生産科学専攻動物生体機構学研究室所 属
西藤 岳彦(Takehiko SAITO)
<略歴>1985年北海道大学獣医学部獣医 学科卒業/1987年同大学大学院獣医学研究 科修士課程修了/同年日本ロシュ研究所毒 性病理部/1991年7月同退社/同年8月米 国テネシー州St. Jude Childrenʼs Research Hospital研究員/1994年4月神戸大学農学 部応用動物学科助手/同年6月北海道大学 獣医学研究科より獣医学博士号取得/1997 年国立感染症研究所/2005年動物衛生研 究所主任研究官/2009年同研究所人獣感 染症研究チーム上席研究員/2010年同研 究所人獣感染症研究チームチーム長(上席 研究員)/2011年同研究所ウイルス・疫学 研究領域領域長補佐(上席研究員)/2013 年同研究所インフルエンザ・プリオン病 研究センター領域長補佐(上席研究員)/
2014年同研究所インフルエンザ・プリオ ン病研究センターセンター長/2008年10 月より岐阜大学大学院連合獣医学研究科客 員教授<研究テーマと抱負>アジアの高病 原性鳥インフルエンザ制御を目指して,ウ イルスの生態,病原性解明,ワクチン開発 に取り組んでいます<趣味>TV鑑賞